宗教観
1997年の年賀状に次のように書きました。
”宇宙を旅していると考えてみませんか。地球に遭遇した時の驚きは想像を絶
します。空即是色、すべては空の化身に他ならないのですが、これほど多種多様に現象が現れている場所はないでしょう。あなたは旅が好きですか。生命を受けたおかげですばらしい旅を味わうことができたのです。色即是空、佛を拝するとは空を心に思う方便かもしれません。”
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私の世代の人であれば、きっと“大日本帝国は神国なり”“現人神(アラヒトガミ)である天皇の統治される日本は、神風が吹いて敵の飛行機も吹き払われ、負けることはない”などと学校で教育されたのを記憶されている方も少なからず居られることと思います。私などは頭が良くありませんから、それをまともに信じていた中学生でした。そういう私に昭和20年8月15日の“神国”日本の敗戦は大変な衝撃でした。天皇もその後まもなく昭和21年1月1日“人間宣言”を出されて神格を放棄されましたから、もはや何をか言わんやです。それまで毎朝、四方拝をしていた父に"もう神棚祀るの止めよう"というと、父は"それもそうやなあ"といいました。それ以来我が家には神棚はなくなりました。今なお神社の幔幕や扉に天皇家の”菊の紋章”が配されているのは、神社は天皇のものとの意思表示なのかもしれません。
私の八十年の経験からすると神道というのは原始的なもので宗教というものではなく、まやかしにすぎません。
わたしはこの宇宙がものすごいエネルギーをビッグバンさせて誕生したものであり、今なお膨張を続けている事実を受け入れています。このエネルギーこそは万物を生み出す根元であり、発展の可能性を秘めた出発であったと思っています。この始源の状態が仏教でいう“空”だと思います。いろいろお経がありますが、あの短い般若心経の中にこの真実が説かれていると考えています。詳しいことは16.空(クウ)にも書きましたからご覧下さい。この不思議な宇宙出現の象徴が”ビルシャナ仏”という形で表現され、あるいは”阿弥陀仏”、キリスト教での”ゴッド”と表現されているのだと思っています。究極に於いていずれの表現も同じものを描いているのです。昔、東大寺管長上司海雲さんが大仏さまを前に、私たちに「ビルシャナ仏と念じられようと阿弥陀仏と念じられようと結構です。どうでもよい」といわれました。"この方は本当の宗教家や"と今でも印象に残ります(仏教の教学の立場でビルシャナ仏と大日如来、釈迦如来を同一と見る立場があることを思うと、上司師のいわれたことも当然のことだったのかも知れません)。わたしにとって“仏”という語は、この真実の象徴です。ビルシャナ佛といえば、昔、私は東大寺のビルシャナ佛台座の蓮弁をくまなくじっくりと観る機会を持ちました。この台座は大仏殿周辺の戦闘による損傷を受けてはいますが創建当初のもので、現在は国宝です。蓮華蔵世界を線刻してあり、階層になったビルシャナ佛の世界が描かれていて、正に仏教的世界観の具現です。かなり低い階層に太陽や月も描かれています。奈良の大仏−ビルシャナ仏−は、この三千大千世界にあまねく光を放っておられる仏という認識を示すものです。聖武帝の詔勅にも国を治めるための加護を求めてはおられても、単なる個人的御利益を授ける仏とは認識されていなかったのがわかります。聖武帝の偉大さを感ぜずにはおれません。蓮弁の模造品の一部は大仏殿内の誰にも観られる場所に展示されています。大仏殿をお訪ねになる機会がありましたら、是非お忘れなくじっくりとご覧になることをお奨めします。さて、美しい花が咲き、いつも音楽の奏でられている極楽浄土は美しい詩の中の世界です。宇宙の多くの場所では、しっかりした構成が崩壊して秩序が乱れていくのが普通です。それに対してこの地球はむしろ一定の秩序だった構成を保つ生命体が年々歳々休みなく誕生している『いのち』の星です。正に『いのちあるもの』に幸いあれ、『いのち育むもの』に幸いあれと祈りたくなります。このように広い宇宙の特異点ともいえるこの地球世界こそが、不思議な仏(「造物主」)の意志『いのち』の躍動を日々見せてくれる極楽です。今の私がこの地球という極楽浄土に佛と共に居るのだと考えると、いろいろな物の見方、考え方がかなり変わってきます。この世とあの世は全く別で、正に此岸と彼岸との違いがあると考えるのが一般的ですが、私には現在と死とはその間に言うほどの境はないような気がしてきました。生と死は本来同一物であり、その境界は譬えて言えばドア1枚開く程度のものではないでしょうか。老齢になれば自分に「生きるも喜び、死ぬも喜び」と言い含める事が必要な気がします。死後に訪れるところでなく現在生きるこの地球も極楽浄土と考えると、少なくとも心に恥じるような事は出来ませんし、また、例えば私の家の前の道を両足で毎日踏みしめて歩くという何でもないことでも、移動可能な程度に重力の働く地球という浄土にいるからこそ出来ることです。ありがたいことに思えてきます。この世はしかし地獄でもあります。極楽と地獄は表裏一体です。そのどちらかだけではたまったものではありません。死後の生活があるとして、極楽浄土へ行って一日中蓮の花の上に据わっているなど、想像するだけでも退屈で退屈で!!!。とても幸せなどと言えるものではありません。もっとも物質の存在しない魂の世界には重力のあろう筈がありませんから、据わっていることなど出来るはずもありませんが。 また、お経に書かれている極楽の姿も、考えてみると、この地球環境でのみ実現可能な姿です。では君は死んだらどうなるのだと言われれば「私は空(クウ)に戻ります。しかし、不滅です。確実に遺伝子と言う形で子孫の体内で生き続けるのですから、不滅なのです」と答えましょう。“空”の高度な“色”(イロではなくシキと読みます。シキというのは現れていて認識できる現象という意味です)としての発現であるわれわれ人間の地球上での出現は、いろいろな要因が重なって奇しくも可能になったのに違いありません。まさに希有な、文字通り在り難いことなのだと思っています。
(わたしの最近の心境はいま考えていること 384(2010年01月)―死をどう見るか―をご覧ください。)
これを偶然と見るか何ものかの意志の反映と見るかは、確たる証明は出来ないので、結局、その人の自由ですが、私は全くの偶然とは思っていません。その何ものかを人はあるいは、神と呼び、佛と呼ぶのでしょう。私の家の墓は浄土宗の寺にあります。浄土宗は阿弥陀仏を祀り、死後、阿弥陀の西方極楽浄土への往生を念じます。科学を学んだ私は西方浄土の考えは、地球を平面と思い、太陽は朝復活して東から上がり、夜西に沈み死ぬという世界的に敷延している古代からの考えの産物のひとつと解釈しています。科学は新しい技術の母体で、科学と技術の結合の側面(科学技術)だけが日本では強調されますが、科学はまず第一に思想であり、物の見方・考え方、つまり哲学なのです。私の学生時代、理学部の化学教室の図書室にはイギリスで発行されたThe Philosophical Magazine という雑誌が書棚に並んでいました。この“哲学雑誌”がなぜ化学教室の書棚に並んでいるのだろうと不思議に思って手に取ってみますと、中身は純粋に科学の研究論文でした。イギリスの人達は科学研究は哲学の一側面と考えてきたのです。私も科学を専攻したためでしょうか哲学者めいたところがあるかもしれません。いやこんなことを書くのは烏滸がましいのかも知れませんが、 現在の私は死んだ後について、仮にどんなに希求しても極楽浄土や地獄あるいは後世はなく、人は根元である“空”から出て“空”に静かに戻っていくのみと思っています。禅宗で新仏の位牌に“新帰元”と書かれているのは意味深く思います。後世を頼むよりも、この世の在り難い生を大切にしたいものです。旧約聖書「伝導の書」にも“ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。伝道者は言う、「空の空、一切は空である」”と書いてあります。
上に載せさせていただいた『いのちとは花を・・・』の書は三田屋の前企画広報室長、浜近峻吉さんの揮毫。私の心境に良く合いますので使わせていただきました。
一瞬のあいだ空に描かれる雲の美しいアート、子供の嬉しそうに遊ぶ姿、苦しみの生活の合間に味わった人々の瞬間の嬉しそうな笑顔、これこそ造物主という演出家がこの世に現出したいと思われた喜びの姿に違いありません。しかし、すべては束の間の喜び、一生は正に瞬間の与えられた喜びの時に過ぎません。これを素直に喜びエンジョイして命果てる日には、静かにすべてを仏に託して空(クウ)に戻って行こうではありませんか。
思い返せばこれまで何回か命を失っていても不思議でない場面に遭遇してきました。5才当時のジフテリア、中学時代動員中の昭和19年(1944)12月7日に起きた東南海地震、三高入学時の大阪桜島住友伸銅所での被爆、ナトリウムアマルガム作成中の異常な温度上昇をはじめとするいくつかの予期しない実験中の危険な反応、10年前の大腸ポリープの発生などなど数え挙げれば切りがありません。また多くの友人知人が既に世を去っています。考えれば幼児の頃から弱かった私が、いままだ生きているのが何とも不思議です。わたしの80年以上の生活を振り返れば、結論として人間は自分の力で生きているのではなく、自分の知恵の及ばない計らい・お恵みを受けて生きているということです。これを人間を超えた何かの計らいだと信じられるかどうかが宗教を信じるかどうかの分かれ目だと思います。もし、神あるいは仏と呼ばれる存在を信じ、その存在に究極的にすべてを委せきることが出来るのであれば、あなたは宗教的な人なのです。こういうわけで、現在まだ仏は私に命を預けて下さっているとしか言いようがなく、もう命を戻せというご指示があるまで生きていることを大事にし、その時が来れば素直にお返ししてこの世にさよならをしようと思っています。生死の問題を前に時には悩みも頭を持ち上げるのですが、早くこの問題は自分の自由にならないものと観じて、仏に心から委せられる人間になりたいと思っているのです。
人はこの世を去るとき、一切の友人から,家族から別れてただ一人旅立たなくてはなりません。本当に寂しいことです。昔の人は阿弥陀如来のお迎えを信じました。晩年に入った現在、私が考えているのは、「この世で阿弥陀仏とともに生きるならば死ぬ時も阿弥陀仏は同行してくださるでしょう。一切のものとの縁がなくなる寂しい最後の時にも阿弥陀仏だけは自分と同行してくださるのです。」と言うことです。
若いときに福翁自伝を読んだことも、祈祷札などの御利益や、縁起を担ぐ事など否定する自分を作る助けになっています。福翁自伝によれば福沢諭吉は自分で試さないと納得しなかった人で、村のお宮の祠に鎮座していたご本尊の石をこっそり取り替えたり、祈祷札でお尻をぬぐって罰が当たるかも試してみているのです。自分の幸せのために、お賽銭をあげて神仏を拝むのはその方の自由ですが、まさか本気で御利益があるとは思っておられないでしょうね。信仰の名の下にお守りや祈祷を収益源として利用しているあまりにも露骨な神社やお寺!!!。幸福がそんなに簡単に、お金で買った一枚のお札で手に入るのなら、誰も苦労はないはずです。私も仏を拝みますが、それは始めに書いたような面白いことを生を受けたおかげで味わえた感謝を、何かに伝えたいだけです。いわば「讃えるべきかな」という気持ちです。この世のあらゆるものが至高の存在の産物であり、その意志の下に存在すると言う認識をすべての宗教は共有しています。ですから現在最大の問題の一つである中東からインドネシアにかけてのイスラム教過激派による虐殺事件など、本来宗教間の優劣視や対立があるのがおかしいので、エゴと狂信というべきでしょう。力を合わせてこの地球賛歌と造物主への賛歌を人々に覚らせることが、宗教に共通した使命だろうと思います。“生きる”ことを否定する宗教はまがいものだと思います。変化の激しい現代に、宗教はただ昔の教義を説くだけでは意味を失っていくでしょう。宗教家はその信ずる宗教の教えを深く探求し、その精神を把握して現代に新鮮に活かすのが使命でしょう。宗教活動の内容は時代と共に進化しなくてはならないのではないでしょうか。その自信のない宗教家が御利益を騙って商売人化しているように思えます。
過去の宗教家では親鸞、道元の二人を尊敬します。この二人は自分で工夫され、追求されて自分の考えに到達されました。単なる説の解釈人でなく、時代を超えて自分の得たものを訴えておられます。現代と用語法が違うので難解ですが、言おうとされたことは何とか分かる気がします。20世紀でいえばマザーテレサはこういう人の仲間なのでしょう。親鸞が現在の本願寺教団のあり方を見て果たして喜ばれるでしょうか?合理主義に生きた信長は、建勲神社に神と祭られ、信仰する人たちから御利益の供与を祈られてきっと苦笑していることでしょう。
地上にいるすべての生き物は微生物、昆虫に至るまで生命の子孫への伝達を最大の仕事としています。生命の開花こそ造物主の願いであり、生命の働きは造物主の掌中にあると思っています。人間として一番大事なのは造物主の意向を汲んで地球に造られたすべての生命を愛し、大事にすることだと思います。自殺を禁じる宗教が多いのもその反映でしょう。すべての宗教は根底において生命の讃歌がなければなりません。この基本の上で活動し、人々を教化するものが宗教でしょう。法然や親鸞の説く教えがわたしの心には叶います。幸不幸の波が日々打ち寄せるこの世の生活の中で、弱いわたしたちが自分のすべてを委ねて安んじて生きる頼りに出来るものがほしいと思います。信心について最近心に残った一文に出会いましたので紹介しておきます。ここに書かれた「無条件の信心」が私の生きる力であり、信仰のかたちです。空の思想も仏教から学びましたが、日常の心得としては浄土真宗では「我」を去ることを説き、曹洞宗でも「菩提心を発す(おこす)というは己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願し営むなり」(修証義 第四章)と説きます。共通していることは、人間であれ動物であれ植物であれ、すべての命あるものを大事にして己よりもまずその「他者」のことを優先的に考え奉仕せよということだと思います。すべての事象は置かれた条件と原因の下で「空」が形を変えて現れているに過ぎず、万事を「空」と観じ「利他」をモットーに生活すれば、自ずと「我」は去ります。私は「仏の意志はこの地上で命を育くみ守ること」と観じ「空」と「利他」さえ心得ておればすべての宗教の心髄にかなうものだと考えています。
オウム真理教、法の華と、うさんくさい宗教の動きが見られました。神といい仏というのはオールマイティですから、お金などを要求されません。お賽銭をはずめば御利益が大きいだろうと言うのは我々人間の考え方で、神仏には通じません。いやそれどころか神仏は私たちに必要なものは施してくださいます。私の経験でも自分では気付かなかったのに、あれは佛の計らいであったかと後で考えられることがらに、不思議なほどいろいろ巡り逢いながら今日まで生きてきました。いろいろ考えても自分の才覚の及ばないところで生きているのです。自分の才覚は及び難いと悟れば、あれこれ考えを巡らすより仏の意志に委ねてくよくよしない生き方が、私の生き方です。俗っぽい宗教組織が対価を求め、報酬の一定額を求めることは仏の心から見て基本的におかしいのです。ですから、昔は普通であった「お心持ち」のお布施を求めるかどうかが判断の一応の基準でしょう。私の属する菩提寺は今でも「お心持ち」です。もちろん、お寺にお墓を持っていて、その維持には寺の側も掃除など人手を注ぎ込んでいることですから、そのために必要な実費を支払うのは当然です。 |