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注 世阿弥の「弱法師」

生駒山宝山寺から旧金春家蔵本謡本七番が発見されたのは昭和18年のことでした。この中に竹田権兵衛廣貞が世阿弥の署名はもとより本文筆跡まで臨書した「弱法師」がありました。

わたしは「弱法師」に宗教的な意味づけをしましたが、この世阿弥が正長二年に書いた「弱法師」は現行の弱法師と基本的な構成がまったく違い、平凡な運びです。わたしが重要な意味づけを与えた弱法師の父、左衛門尉通俊はワキではなく、私見では、「花筺」の子方のように登場して床几にでもかけていたのかも知れません。曲の終わり近くでなければ表だっては演じも、発声も、しません。また日想観を通俊が弱法師に勧め、対話することに現行ではなっていますが、「女」と「弱法師」との掛け合いとして進みます。「女」というのが弱法師の細君なのでしょう。この構成では左衛門尉通俊に阿弥陀如来を重ねることなどとても出来ません。思うに私と同じような解釈を構想したすぐれた演出家(シテ)が現れ、現行のような形に大幅に変更したものと思われます。みなさまにも考えていただくために少しくどくなるかも知れませんが、古い「弱法師」がどのように構成されているかを詳しく紹介したいと思います。

参考にしたのは、手許にある世阿弥眞蹟能本七番附目録書状 ( 川瀬一馬編著 わんや書店(昭和19年))および世阿弥自筆傳書集 (川瀬一馬校訂 わんや書店(昭和18年))です。原文はカナ書きですが、ここでは現在の謡本と同様の表記にし、また、現行曲と異なるところを赤字で示します。「同音」というのは今の「地」のことと思えばよいのですが、この頃はシテの謡のうち、シテ、ワキ、ツレそれから3人の現在でいう地が一緒に謡う部分を「同音」といっていたのです。()の中は私が補いました。

ヨロホシノ本

法師男二三人出べし
次第難波の海も彼の岸に。難波の海も彼の岸に。至るや御法(みのり)なるらん。
法師コトバこれは津の国。天王寺の。住侶にて候。さる御方様より。志す事ありとて。この彼岸七日の間。天王寺の西門(さいもん)。石の鳥居にて。大施行を引かれ候が。この住持に仰せつけられて候。さるほどに近里(きんり)の貴賤。市を為して。皆々施行を。受け候。ことさら今日は。中日にて候ほどに。日想観をも。拝まんとて。人々群集(ぐんしゅ)し候。施行皆々急ぎ候へ。
盲(めくら)女二人出べし
一セイ出入りの月を見ざれば。明暮の。夜の境をえぞ知らぬ。二の句難波の海の底ひなき。心のほどを人や知る。
サシそれ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思いを悲しみ。比目の枕の上には波を隔つる愁いあり。況や心あり顔なる。人間有為の身となりて。憂き年月の流れては。妹背の山の中に落つる。吉野の川のよしや世と思いも捨てぬ心かな。怨めしや前世に誰をか厭いけん。今また人の讒言により。不孝の罪に沈む故。思いの涙かき曇り。盲目とさへなり果てて。生をもかへぬ。この世より。中有のに迷うなり。
ニイもとより心の闇はありぬべし。傳え聞く。かの一行の果羅の旅。かの一行の果羅の旅。闇穴道の巷にも。九曜の曼陀羅の光明。赫奕として行末を。照らし給いけるとかや。今も末世と云いながら。さすが名に負うこの寺の。佛法最初の天王寺の石の鳥居ここなや。立ち寄りて参らんいざ立ち寄りて参らん
サシコエ同頃は如月時正の日。実に時も長閑なる。日を得て普き貴賤の場に。施行をなして勧めけり。
盲夫婦げにありがたき御利益。法界無邊の大悲ぞと。踵を接きて群集する。法師これに出でたる乞丐人は。いかさま例の弱法師ヨロボシうつつなや。この乞食に名をつけて。皆弱法師と承るぞや。げにもその身は乞食の。盲亀の心よるべもなき。足弱車の片輪ながら。よろめき歩りけば弱法師と。名付け給うは理法師げにかりそめの言の葉までも。面白く聞こえ候ぞや。とくとく施行を受け候へヨロ受けまいらせ候わん。や。あらおもしろや。花の香の匂い候は。いかさまこの花の散りかかり候なう。法師これなる木蔭の梅の花が。弱法師が袂に散りかかるぞとよ。ヨロあらうたてのお言葉や。ところは難波津のならば。ただ木の花とこそ仰せあるべけれ夫婦今は春べ半ばぞかし。梅花を折って頭に挿しはさまざれども。二月の雪は衣に落つ。あら面白の匂いかな法師げにげに優しく申したり。げにこの花を袖に受くるは。花もさながら施行ぞとよ。ヨロなかなかなりや草木国土。悉皆恵みを施行にて法師皆成佛の大慈悲にヨロ洩れじと施行に連なりて法師手を合わせヨロ袖を廣げて同音花をさへ。受くる施行の色々に。受くる施行の色々に。匂い来にけり梅衣の。春なれや。難波の事か法ならぬ。遊び戯れ舞い謡う。誓いの網には洩るまじき。難波の海ぞ頼もしき。げにや盲亀の我等まで。見る心地する梅が枝の。花の春ののどけさ難波の法に、よも洩れじ難波の法によも洩れじ。序上同音それ佛日西天の雲に隠れ。慈尊の出世まだ遙か。三會の暁未だなり。サシしかればこの中間に於いて。何と心を延ばましここによって上宮太子。國家を新ため萬民を教へ佛法流布の世となして。普恵みを広め給う。すなわち当寺を御建立あって。始めて僧尼の姿を現し。四天王寺と名づけ給う。クセニイ金堂の御本尊。如意輪の佛像。救世観音とも申すとか。太子の御存生。震旦國の思禅にて。渡らせ給う故。出家の佛像に應じつつ。いま日域(ジチイキ)に至るまで。佛法最初の御本尊と。現れ給う御威光の真なるかなや末世相應の御誓い。然れば。当寺の佛閣の。御造りの品々も。赤栴檀の霊木にて。塔婆の金寶に至るまで。閻浮檀金なるとかや。萬代に。澄める亀井の水までも。水上清西天の。無れつの。池水を受け継ぎて。流れ久しき代々までも五濁の人間導きて。済度の船をも寄するなる。難波の寺の鐘の聲。異浦々に響き来て普き誓い満潮の、おし照る海山も皆成(佛、脱落か)の姿なり。女コトバのうのう日想観今なりとて。皆人々の拝み候。ヨロげにげに日想観の時節よのう。さりながら盲目なれば其方とばかり。心あてなる日に向かいてヨロ東門を拝み南無阿弥陀仏のう東門とは謂われなや。ここは西門石の鳥居ヨロあら愚かや天王寺の。西門出て極楽の。東門に向かうは僻事かげにげにここは難波の寺のヨロ西門出づる石の鳥居阿字門に入ってヨロ阿字門を出づる弥陀の御國もヨロ極楽の同音一声東門に向かう難波の西の海。入り日の影も。舞うとかや。舞うとかや。
サシ事ヨロあら面白や尊とやな。我盲目の身にしあれば。この致景をば拝むまじきと。人はさこそは笑うらめ。古人の中にも眼盲いて。三明六通泉下大事(さんみょうろくつうせんかだいじ)を見たりし人も。あるぞかし。況や未だ盲目とならざりしは弱法師が。常に見馴れし境界なれば何疑いも。難波津の江月照らし松風吹。永夜の清宵何のなす所ぞや。住吉の住吉の松の木間より。眺むれば。ヨロ月落ちかかる淡路島山と。ニイト詠めしは月影同音詠めしは月影。いまは入り日落ちかかるらん。日想観なれば曇りも波の。淡路絵島。須磨明石。紀の海までも。見えたり見えたり。満目。青山。心にありヨロおう。同下見るぞとよ見るぞとよ。ロンギさて難波の浦の致景の数々ヨロ南は。さこそと夕の住吉の松(同)東の方は時を得てヨロ春の緑の草香山(同)北は何処ヨロ難波なる同音下長柄の橋の徒らに彼方。此方と歩く程に盲目の悲しさは。貴賤の人に行き逢いの。轉び漂い難波江の。足もとは。よろよろとげにも真弱法師とて人は笑い給うぞや。思へば恥ずかしやな今は狂い候じ今よりはさらに狂はじ。
ロンギ今ははや夜も更け人も静まりぬいかなる人の果てやらんその名を名のり給えやヨロ二人思い寄らずや誰なれば我が古を問い給う。高安の里なりし俊徳丸が果てなり。(男)さては嬉しやこれこそは父高安の通俊よヨロそも通俊は我が父のその御声と聞くからに(同)胸うち騒ぎ呆れつつヨロこわ夢かとて俊徳は。同下親ながら恥ずかしくてあらぬ方逃げければ。父は追い着き手を引きて何をか裹む難波寺の鐘の聲も夜まぎれに。明けぬ前にと誘いて高安の里に帰りけり高安の里に帰りけり

      正長二年二月十六日                     世書

世阿弥自筆三番之内 浄元居士ヨロホシ壱番 祖父瑞竹え分賜候 今般残二番任懇望写賜候ニ付 右ヨロホシ令書写進上申候也   正徳元辛卯十一月廿二日竹田権兵衛秦廣貞(花押)       金春八左衛門様

 

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注 タバコは忘れられない

若いときの思い出の一つにタバコがあります。戦争中葉と紙が別々に配給されて, 人々は手巻きして吸ったこともあります。紙がなくなるとコンサイス英和辞典を破ってその良質の紙が使われたこともあります。平和の回復を記念して、まもなく「ピース」「コロナ」が初めて発売されたのですが、なかなか手に入れにくく、今朝は売り出されると聞くと、父のために上賀茂まで買いに行きました。父は気の毒がって私にタバコを勧めました。これが私のタバコの吸い始めです。また、京大の地下の生協では「新生」をバラで売っていて、一本でも売ってくれました。一本が2円でした。日本育英会の当時の奨学金は月額2,100円で、これを受け取るとすぐに地下に走って1本の「新生」を買って吸ったときのうまさは忘れられません。生協の食堂でカロリーの割りに安かったのが25円のラーメンでよく食べたものです。いまはラーメンでも1杯600円はしますから単純に計算すると24倍、タバコ1本2円はいまの水準からすると高かったように思えます。20本入りの一箱が今1,000円になったとしても不思議ではありません。

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注 ネルソン最後の言葉

私は昭和16年春に京都府立三中に入学しました。この年の教職員生徒名簿に池田という先生は見えないのです。しかし私の記憶では、その先生は池田先生で「閻魔」というニックネームでした。習ったことはないのですが、先生が転任されるので送別会が生徒控室で開かれ私たちも参列したのです。あるいは入学した春の出来事でもう先生の籍はなく新学期早々送別会だけが開かれていたのかも知れません。この席上先生が話されたことは強い印象があり、深く心に刻まれました。上に書いたような事情であったとしますと、この年太平洋戦争が起こったのですからもう反米英の気分が世間で濃厚であったでしょうから逆に英国の大提督ネルソンの末期の言葉を賞賛されたのが印象に残ったのかも知れません。

先生が情熱を込めて話されたことの一つは、「地球儀を側に置いて勉強せよ」ということでした。もう一つは大提督ネルソンは死ぬときに「I have done my duty」と言ったといわれました。きっと諸君も死ぬときに同じ言葉が言えるような生き方をせよと仰りかったのに違いありません。

第二次世界大戦を経た現在でも英国の英雄的提督はネルソンです。日本人が今でも日本海でバルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥を慕う心境と通じるものがあります。1805年10月21日は有名なトラファルガー海戦の日で、ネルソン提督率いるイギリス艦隊とフランス・スペイン連合艦隊が壮絶な決戦を展開しました。11時35分イギリス軍の旗艦ビクトリーのマストに”England expects everyman will do his duty(英国は諸君がそれぞれのなすべきことを果たしてくれることを期待する)" の旗が掲げられ、12時火蓋がフランス側から切られます。激しい戦闘の中で14時前にはネルソンはレドウタブル号のマスト上から狙撃されて負傷し、16時半には戦死しますが、イギリス艦隊は圧勝したのです。ネルソンは死ぬ前、傍にいた艦長Hardyに「死んでも水葬にはしないで父母の傍らに埋葬してくれ・・・どうか私を忘れないでおくれ。hardy君、私にキスをしておくれ」と申します。 Hardyはひざまずいてネルソンの頬にキスをします。Now I am satisfied. Thank God, I have done my duty(これで満足だ。神よ感謝します。私はなすべきことは仕遂げました)"これが最後の言葉でした。

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注 内藤湖南先生

小島直記氏の“老いに挫けぬ男たち”の71ぺーじから摘記させていただく。

“だが、親が子供の教育には無頓着で、子どもは親とは全く関係なく成長して大物になる例も少なくない。石橋湛山、福沢桃介、内藤湖南、小野梓 等々。
内藤虎次郎(湖南)さんの場合、生母と四歳で死別。次々と継母がきて、小学生の頃は四番目の継母であった。
少年はこの酒のみ女をきらい、授業がおわっても家にもどって顔をあわせるのが苦痛なので、放課後一人教室に残って読むために、自分の持つすべての本を風呂敷に包んで背負って出かけた。
やがて小学校訓導、雑誌編集者、新聞記者などをへて、京都大学講師、四十三歳で教授、わが国シナ学の創始者、蔵書五万冊の大学者となる。
あれだけの蔵書を果たしてみんな読んだだろうかと多くの人が疑問にしたが、ご本人は
「序結はていねい、目次はななめ、本文指でなでるだけ」
と都々逸調で答えたという。”

1926年定年退官後は京都府加茂町瓶原(みかのはら)に「恭仁(くに)山荘」を構え、1934年に亡くなるまで読書三昧の生活を送った。2003年6月命日の26日を控えた21,22の両日地元の内藤湖南先生顕彰会などの主催で、「湖南忌の集い」が没後70周年を記念して開かれ山荘の公開、遺品や書の展示、記念講演会が催された。

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注 アメリカのアルツハイマー病患者の詩

我慢してください
私は脳の病気を持った、自分ではどうしてよいかわからない患者です。

話しかけてください
返事はうまくできなくても、あなたの声は聞こえ、言葉はわかります。

親切にしてください
毎日が絶望的なたたかいです。あなたの優しさが必要です。

気持ちを思いやってください
私の感情はしっかり残っているのです。

人としての尊厳を認めてください
私も寝たきりの人も、最後まで人間として生きたいと願っています。

昔の私を思い出してください
かっては、健康で、人生は愛と笑いでいっぱいでした。

今の私をわかってください
みんなに忘れられていないかと不安です。家族として、友人として接してください。

私の将来を思ってください
先は暗く見えるかもしれませんが、私はいつでも明日への希望でいっぱいです。

わたしのために祈ってください
霧のなかでさまよっているような私には、どのような同情よりあなたの存在が大切なのです。

私を愛してください
愛こそが私を永遠の光で満たしてくれます。

"2001年版「9月21日は世界アルツハイマーデー」(呆け老人を抱える家族の会発行)から"

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注 越中秀史日経特派員の報告から

米個人マネー、安全志向が鮮明

【ニューヨーク2001.08.31 越中秀史】米個人マネーの安全志向が一段と鮮明になってきた。株価 の長期低迷で株式投資信託への資金流入にブレーキがかかる一方、貯蓄預金の残高は2兆ドルを突破して増加が続き、銀行預金や短期金融市場で運用するマネー・マーケット・ファンド(MMF)も過去最高水準。リスクに過敏になったマネーが確定利回り型の安全資産にシフトしている格好で、株安加速の一因にもなっている。

米投資信託協会(ICI)の30日の発表によると、7月は株式投信から差し引きで12億ドルの資金が流出、残高は3兆5899億ドルと昨年末に比べ10%弱減少した。月間で流出超となったのは3月(206億ドルの流出)以来で、月ベースの純流出は2月(31億ドルの流出)とあわせて今年3度目。米調査会社のトリムタブスの推計では8月も株式投信からは72億ドルの資金が流出したもようだ。

一方、確定利回り型の商品にはマネーの流入が続いている。7月にはMMFに120億ドルが純流入し、残高は2兆696億ドルと昨年末に比べて12%増加した。米連邦準備理事会(FRB)によると、流動性の高い銀行の貯蓄預金の残高は7月末で2兆870億ドル。5月末に初めて2兆ドルの大台を突破してから一貫して増えており、昨年末に比べると11%増。ドイチェ・バンク・アレックス・ブラウンの投資戦略家、エドワード・ヤルデニ氏は「個人投資家は株式相場の先行きがみえるまで資産を現金にするのが安全と考えている」と分析する。

昨年は1―7月に2300億ドル近い資金が株式投信に流入。貯蓄預金への流入額(600億ドル)の4倍近くに達していた。今年1―7月は対照的に、株式投信への資金流入額が480億ドルに急減する一方、貯蓄預金には2100億ドルの資金が流れ込んだ。

マネーの保守化は運用会社の勢力図の変化にもつながっている。昨年1―7月に385億ドル(MMFを除く)の資金を集めて「一人勝ち」した米大手投信のジャナスが、今年は一転して59億ドルの流出に苦しんでいる。逆に昨年は88億ドルの流入にとどまっていた大手投信のバンガード・グループが213億ドルと業界トップの資金を集めた。

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インターネットasahi.com所載の【経済気象台】に世界経済の現状を論じた“ 狭屋の長刀”という記事が出ていた。紹介する。

米国経済は自動車販売台数がこのままいけば年間で1800万台を突破する勢いで、消費が弱い景気を支えると見る強気筋もいるが、一方で百貨店売り上げが鈍化し、設備投資意欲は低迷したままと、ちぐはぐだ。消費好調で楽観的だった日本のバブル崩壊初期にますます似てきている。

ウォール街では成長率を高めに修正する向きもあるが、IMF報告では来年は従来の予測3.4%を2.6%と下方修正、同様にEUも2.9%から2.3%に修正、日本はさらに低い1.1%にとどまるので、不況が次の10年にまたがらぬよう抜本策を求めている。つまり、世界経済の見通しは明るくはなく、世界同時株安はこれを素直に反映しているわけだ。さらに気がかりなのは、世界的に経済政策が「狭屋(せばや)の長刀」で狭い所で長刀を振り回すわけにいかず、限界が目立つ。金融政策では米国のFRBは先月末、利下げを見送り、ニューヨーク株価が急落した。下手な景気てこ入れで自然な景気調整を遅らせては、という配慮だが、ゼロ金利下で調整能力を失った日銀が銀行保有株買い取りという「禁じ手」に出たのと同様、金利政策の限界を示している。また、欧州中央銀行も物価上昇を2%に抑える目標に縛られすぎている。財政支出による景気刺激も米国が財政赤字転落、日本もEUも目いっぱいの赤字で財政出動も余地がない。

残るは為替政策だ。ドル高要因のイラク攻撃という地政学的な情勢いかんにもよるが、機関車役の米国が日本型バブル・デフレを回避し得る方策として、ドル高政策の修正、ドル安がこれから日程に上ってくるだろう。となれば日欧は対米輸出に頼らず国内経済の構造改善と浮揚策を急がねばならない。IMF報告は膨張する米経常収支赤字を警告している。目立たなかったが、ドルの行方は先のワシントンのG7やIMF・世銀総会の影の主題ではなかったろうか。(昴) (10/ 07 )

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注 無条件の信心

次に転載したのは自照同人第6号(2001年9月;自照社出版発行)所載、自照講座“瓜生津隆雄和上遺稿集”です。

無条件の信心

浄土真宗では「平生業成(へいぜいごうじょう)」ということが言われている。阿弥陀仏を本当に信じたなら、臨終のお迎えを求めて死後の安楽をきめようとする必要はない。ほとけ様の慈悲は私どもを包んでおいでになる。私と離れた水臭い阿弥陀様ではない。私の生死の解決を平生に定められるのを「平生業成」という。一体、佛を疑うとは、佛にたよらぬ凡夫の計らいのあることをいう。一般に熱をあげる狂信的なのを信心だろうと思っている人があるが、宗祖の阿弥陀仏の信仰は、極めて冷静に落ち着いたもので、疑いの心、計らい心の露塵ほどもないものである。つまり私に都合がよいとか悪いとかという一切の条件を乗り越えて、無条件に如来を信ずる。善悪の果報、幸不幸は逃れられぬもの(因縁)と心得、それを包んでその業を解脱せしめ給う弥陀の本願(計らい)にまかす時、私と佛と一つになる。そのとき、心と心と通い合う。それを「南旡阿弥陀佛(なもあみだぶつ)」というのです。
自分がつらい目に会ってもほとけ様を疑わず、自分の責任ですと受け取り、佛の計らいを疑うたり佛智の不思議を疑うたり如来のお慈悲を疑うたりしない。いかなる場合でも見捨てられない。お洩らしにならない佛の智慧・慈悲でましますと、心に動揺しない。それを無条件の信心という。そうした態度をとると、その不幸が転じて幸福になる。こうして得た幸福が本当の幸福です。不幸(わざわい)というものは逃れられない。それは私に原因があるのであろうと、それを静かに受けてゆく。一つの病気でも怖れることはことはない。病気をすぐ不幸だとしないで、素直に病気を受け取って行くと、心が静かになる。心が安らかになる。心が安らかになれば病気も軽くなる。

普通神様ほとけ様を信ずるということは願(がん)をかけている。だから信心によって病気を治して下さるというている。左様なことがあるかないかは断言はできない。治して下さらぬとも断言できないし、また必ず治して下さるわけでもなかろう。ただそうゆうことでほとけ様を信じたり疑うたりすることは、こちらの身勝手というものだ。
神様に願をかけているのに病気が治らぬ、それはお前の信仰が足らんからだ、こうゆうことをいう宗教もある。しかしよく考えてみると信仰がたらぬから病気が良くならぬというわけでもなかろう。信仰が深いと病気がよくなるということもあるかもしれない。けれども結局病気がよくなろうがよくなるまいが最後は人間は死ぬのである。人間は死ぬときまっているからには病気はキットよくなるというものでもない。神様に願をかけて死なぬようにというてみても死ぬことは決まっている。病気でも、よくならぬ病気もある。しかるに病気になると願をかける。これは現実の幸福(現世利益げんぜりやく)を求める信仰である。このような幸福をのみ求める信仰は、ほとけ様や神様を信ずる場合に条件をつける(取引の信心)、それは願をかける宗教である。それは阿弥陀仏の本願を信ずる信心とは本質的に違う。信心という言葉は同じでも意味が違う。阿弥陀仏の信心は「無条件の信心」である。

死ぬことはどうにもならぬ。病気でも素人には治ったか治らぬかわからぬ場合もある。だから自分の計らいで「幸ジャ」「不幸ジャ」ときめられない。左様なことは一切ほとけ様の思し召し・計らいにお任せする。そうすると心が安らかになる。心が安らかになれば病気も軽くなる。病気も大分、心の持ち方に関係している。七、八分心で造った病気もある。だから多くの宗教の中には病気を治してやるというてすすめている宗教もある。それをかれこれいうつもりはないが、私どもが無条件の信心、幸・不幸を超えた真実の信心を立てて行ける教えが佛法中の佛法であることを宗祖は教えて下されてあることをよくよく味うて見たい。それが本当の「ギリギリの信仰」である。ギリギリの信仰とは、一切を佛にまかせる、それを真宗では「南旡阿弥陀佛」という。こちらからどうのこうのというてほとけ様に願をかけることをしない。それが本当の信心(南旡阿弥陀佛)である。まじりけのない信心です。これを「佛智の不思議をたのむべし」という。

「念佛には無義(計らいなき)をもって義とす、不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき」と歎異抄にある。一切の計らいを捨てて素直な態度で「生の裡に死がある宿業の因縁によっていかなる病にかかるやも知れぬ」と心得、一方に信心とはお祈りであると考えている人があるから、そうゆう条件的信心の外に、無条件の信心というものがあるということを、特にいただく必要があります。

       

瓜生津隆雄 うりゅうづ りゅうゆう           1901〜91年。本願寺派の学僧。滋賀県法城寺住職。           龍谷大学教授を経て勧学となり、後に勧学寮頭に就任。           元京都女子大学長瓜生津隆真先生はご子息で、私が家内の病気           看護のため辞職した時、「計らいを捨てて・・」と助言いた           だいた。

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