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以下の3項目については共産党と意見を異にします。
★リバースモーゲージと生活保護
★大工と労災
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★日勤教育
いま考えていること 273(2007年07月)
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久間防衛相:原爆投下に関する発言の要旨
毎日新聞 2007年7月1日 朝刊
★沖縄タイムス社説(2007年7月2日朝刊)
[久間防衛相発言]
被爆者の心忘れたのか
久間章生防衛相が、米国の原爆投下について「長崎に落とされて悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている」と発言した。大学での講演の中である。
米国が原爆を投下したのは、旧ソ連の日本への参戦を食い止めるための側面があるとの見方を示したものだ。
だとしても、それで、米国の原爆投下が正当化され得るものでは決してないはずである。一定評価されるものでもない。
政府は、久間発言について米国の当時の考え方を紹介しただけで、問題はないと早速火消しにかかっている。久間防衛相も、原爆投下を止められなかった当時の日本政府への批判が真意だと釈明している。
政治家による放言、暴言の類は、それこそ枚挙にいとまはないが、それにしても防衛省を率いる大臣の発言がこんなに軽く、見識に欠けるものでいいのだろうか。
相手が大学生だから軽くと考えたのであれば大間違いで、むしろ自らの底の浅さを露呈したというしかない。
今年の八月九日、長崎は被爆から六十二年の原爆の日を迎える。
去る四月、凶弾に倒れた長崎市の伊藤一長前市長は昨年のこの日、「人間はいったい何をしているのか。長崎では怒りといら立ちの声が渦巻いています」と、核軍縮が一向に進まない世界情勢に怒りを示す平和宣言をした。
被爆者の記憶をしっかりと語り継ぎ、国際社会に強いメッセージを放ち続けなければ、核廃絶は実現しないという被爆地の危機感を率直に表したものである。
防衛相は長崎県出身だ。長崎の悲劇を知らないはずはなく、記憶の風化へ立ち向かうべき立場の人だろう。
だが、「しょうがない」という発言からは、二度とあの悲劇を繰り返してはならないという決意が、みじんも感じられない。
言うまでもないが、政治家にとって「言葉」は自らの政治信条や立場を示す要諦だ。大臣であればなおさらのこと。いかなるときでもその発言には責任が伴う。
広島の被爆者も、長崎の被爆者も、世界でまれな体験を持つ者として、原爆の恐ろしさを語り続けている。
唯一の被爆国の大臣として、その経験を国際社会に語り継いでいく責任があることに、なぜ気付かないのだろうか。
発言は、被爆者への気持ちに思いをはせることもなく、思いやる心をも欠いたものと言わざるを得ない。
★中国新聞社説 久間防衛相発言 核廃絶への思いどこに '07/7/2
★北海道新聞社説
防衛相発言*核廃絶に逆行する暴論(7月2日)
閣僚として、また世界の核兵器廃絶運動の先頭に立つべき日本の政治家として許されない発言だ。
久間章生防衛相が講演で、米国が日本に原爆を投下したことについて「しょうがないなと思っている」と述べた。
原爆投下を是認するような物言いで、核問題を担当する防衛相にあるまじき、辞任に値する暴論である。
久間氏は当初、原爆投下を止められなかった当時の日本政府への批判が真意だとして「訂正する必要はない」と強気だった。
しかし、発言をどう解釈しても久間氏の言うような趣旨をくみ取ることはできない。被爆地である広島や長崎の人たちが怒るのも当然だろう。
長崎が地元の久間氏が、筆舌に尽くしがたい苦しみを体験した被爆者の思いを知らないはずはない。それだけになおさら今回の発言は理解に苦しむ。
野党は防衛相としてふさわしくないとして、罷免を求めていく方針だ。参院選を目前に控えてまずいと考えたのか、与党からも批判が相次いだ。
こうした声に久間氏も「申し訳なかった」と謝罪したが、それで取り返しがつく話ではあるまい。あとになって原爆を是認するものではないと釈明したが、それならなぜ「しょうがない」という発言が出てくるのか。
日本は唯一の被爆国として核兵器の恐ろしさ、悲惨さを身をもって知っている。だからこそ、核廃絶の訴えには説得力がある。それは国是であり、国民の総意でもある。
ましてやいまは、国際社会が北朝鮮やイランの核開発阻止に全力を挙げて取り組んでいるときだ。
久間氏の発言は、日本が積み重ねてきた核廃絶の努力を台無しにするものと言わざるを得ない。
もちろん、安倍晋三首相の任命責任も問われなければならない。
首相はきのうの党首討論会で「誤解を与えるような発言は厳に慎まなければならない」としながらも、野党の罷免要求には応じない考えを示した。ことは重大なのに鈍感すぎる。
久間氏の発言があった当夜には「自分としては忸怩(じくじ)たるものがあるという被爆地としての考え方も披歴されたと聞いている」とも語った。
「忸怩」とは「恥じ入ること」である。これが久間氏の言葉か首相自身の言葉か定かではないが、被爆地が恥じ入ることなどまったくない。
昨年秋に安倍政権が発足して間もなく、自民党の中川昭一政調会長や麻生太郎外相から、核兵器保有について議論が必要だという発言が相次いだことがある。このときも首相は、発言をいさめようとしなかった。
幸い、国会はまだ開会中だ。この際、安倍政権の核問題についての認識を徹底的にただす必要がある。
★東京新聞社説 原爆容認は無知の露呈 防衛相発言 2007年7月2日
★朝日新聞社説 久間発言―思慮のなさにあきれる(7月2日朝刊)
広島、長崎で合わせて20万人を超す人々が原爆の犠牲になった。いまも後遺症に苦しむ人がいる。その原爆が使われたことを「しょうがない」と言い放つ無神経さには、あいた口がふさがらない。
久間章生防衛相の発言だ。米国が第2次世界大戦末期に広島、長崎に原爆を投下したことについて「あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べた。
「国際情勢とか戦後の占領状態からいくと、そういうこと(原爆投下)も選択肢としてはありうる」とも語った。
生き地獄を経験し、肉親を失った人にとっては、今も忘れられない記憶である。元広島平和記念資料館長の高橋昭博さんは「怒りを通り越してあざ笑うしかない。自分が被爆しても同じ発言ができるでしょうか」と批判している。
過去の核使用を「しょうがない」と容認するのは、必要があれば核を使ってもよいということになる。戦後日本が一貫して訴えてきた「核廃絶」の取り組みに、正面から冷や水を浴びせるものだ。
まして久間氏は被爆地の長崎県出身であり、日本の防衛をあずかる立場でもある。そのことを一体どう考えたのか。
原爆投下については、残念ながら他国の認識とは溝があるのは事実だ。
広島出身の詩人、栗原貞子さんに「ヒロシマというとき」という作品がある。
〈ヒロシマ〉というとき/〈ああヒロシマ〉と/やさしくこたえてくれるだろうか/〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉/〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉……〈ヒロシマ〉といえば/血と炎のこだまが 返ってくるのだ
被爆を訴える日本の姿勢は、米国やアジア諸国の批判にさらされてきた。日本が始めた戦争だ、原爆のおかげでようやく戦争が終わったのではないか、と。
ここに簡単な答えはない。しかし、私たちが始めた戦争だという加害責任を認めながらも、無防備な市民に対する無差別殺戮(さつりく)は許されないと主張することが、日本の立場であるべきだ。
そして、戦勝国、敗戦国の壁を越えて痛みを共有する方向を目指す。日本の政治家にはそういう仕事に取り組んでほしい。「しょうがない」と言い捨てる態度は、歴史の忘却、米国の原爆正当化への追随でしかない。
日本は米国の核の傘に守ってもらっている以上、政府の立場からすると核使用を完全には否定しきれない。そういう現実の壁があるのは確かだろう。
しかし、それでも政府見解は「核兵器の使用は実定国際法に違反するとまでは言えないが、国際法の基盤にある人道主義の精神に合致しない」ということだった。久間発言は明らかな逸脱だ。
久間氏は昨日、「被爆者を軽く見ているかのような印象に取られたとすれば、大変申し訳なかった」と弁明したが、印象や説明の仕方の話ではない。認識そのものが問題なのである。
★毎日新聞社説 久間防衛相 何と軽率で不見識な発言か 7月2日
★日本経済新聞社説2 またも立場忘れた久間発言(7/2)
久間章生防衛相の発言がまたも問題になっている。個人としての発言には言論の自由があるが、閣僚、しかも防衛相の立場では言動に自己抑制が働かなければ、内外で混乱をまねく。久間氏はどうやら過去の学習効果がなかったようであり、閣僚としての適格性に疑問符がつく。安倍政権には一層の打撃となる。
今回の発言は、千葉県柏市の麗沢大での講演の一部である。質問に答え、米国の原爆投下に関し「長崎に落とされ、悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と述べたとされる。
講演後に「原爆とか核兵器はやはり人類として絶対に使ってはいけないということを皆肝に銘じて反省すべきだという思いは非常に強い」「今思えば米国の選択はしょうがなかったのだろうと思う。ただ米国が原爆を落とすのを是認したように受け取られたのは残念だ」と釈明したが、「被爆国日本の核廃絶の主張と矛盾してくる」(菅直人民主党代表代行)との批判が強まっている。小沢一郎民主党代表も1日の党首討論で最初にこれについて質問した。
久間氏はことし1月にも「(イラク戦争に踏み切った)ブッシュ米大統領の判断が間違っていた」と発言し、塩崎恭久官房長官が「米国に誤ったメッセージを与えかねない」と注意した。直後に米軍普天間基地の名護市への移設をめぐり「(米国は)あまり偉そうなことを言ってくれるな」と語り、米側が不快感を非公式に伝えた経緯がある。
いずれも信念や歴史観からの発言かもしれないが、釈明を迫られる発言を繰り返す久間氏に自衛隊という実力組織を束ねる信頼感を期待できるだろうか。仮に自衛隊内部に防衛相の言動を軽んじる空気が強まれば、政治家による軍事組織の統制という文民統制(シビリアンコントロール)の観点からも問題となる。
国の安全保障・危機管理のうえで防衛相の職責は重い。久間氏には既に何枚かのイエローカードが出ている。今回の件でも安倍晋三首相は擁護の姿勢を示しているが、久間氏が自ら進退を判断するのが政治家の作法ではないだろうか。
★7月2日には産経新聞、読売新聞には久間発言を問題にした社説は見られませんでした。