哲学の石
哲学者たちの石について(Peri; tou: livqou tw:n filovsofwn) (e cod. B.N. gr. 2327, fol. 216r) 2.447."11t" 2.447.12 それゆえオリュムピオドーロスも書いている。「錬金の神秘が湿ったものらにおいて信じられるのは、流体や水流による、また、いわゆる塩の洗浄や執行(ajskhvsiV)による秘儀の操作された成功のゆえである。塩と述べられているのは、流体を注ぎ、点火し、洗浄にしたがうことからで、洗浄の際に、酒盃型祭壇の執行によって化合物が浄化されるために、流体が注がれることを明らかにしている」。 デーモクリトスは王に向かって謂っている。「陛下が 2.448.20諸々の基本物質(oujsiva)を学びつくし、諸々の基本物質を混淆し、諸々の種(ei\doV)を理会し、諸々の類(gevnoV)を諸々の類によって結合なさるのでなければ、その骨折りは無駄に終わるでしょう、おお、王よ」。 2.449.1 また、オリュムピオドーロスは謂う。「銅-鉛(xalkomovlibdoV)が、要請されている 2.449.10 水である。したがって、火による〔?〕を、次々とこれら?といっしょに流れるもの(oJmorreusthsanta)となす。賭けられるのは鉛であるが、これも火に属する」。というのは、「平等にいっしょに流れるもの」が投入したのは質料の付加ではなく、質料の流れである。3つが同時にそのものとなったときに流れさせなければならないからである。そうして第一のものが平等に構成されたものである。そして流れさせなければならないのは、1つないし2つだけではなく、1回の混成(suvgkrasiV)で平等にいっしょに生じる3つだからである。 石(livqoV)と呼ばれるのは、自身を満たす祈り(lithv)のせいである。というのは、神的な水の自然本性は、単独にとどまっていては何事かを為すことができず、2.449.20 化合へと至る合成を有する金属が合成されたときにこれを為すことができ、この大いなる作業を果たすからである。というのは、どうやら、確固とした構成物であって、これが湿ったものらと絡みあわないかぎり、何ごとも実行することができないが、いっしょに流れるや、どんなものでも ta; xruvsopta〔黄金の昇華蒸気〕に作ることができるのである。これこそが 2.450.1 それ自体は固体であって流動しないことが見出されるが、流体によって融かされたり薄められたりしないかぎり、流れることはできないからである。 また、ゾーシモスは謂う。「恐れるな……云々」〔ゾーシモス断片29「哲学の石について」〕 だから、希薄化(ejklevpthsiV)とは、水の蒸発のことである。で、わたしが驚嘆するのは、わたしたちの目標物が、もちろん神的な水の噴出と昇華蒸気によってだが、わたしたちの化合物をいかほど煮沸し、着色することができるかということである。 ステパノスは言う。哲学の限界は……云々〔『偉大にして聖なる術について』に、「哲学の限界は、身体の分解、つまり、魂と身体との分離である」とある〕 2014.10.16. |