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back.gifIV 精霊-メルクリウス

C・G・ユング
「錬金術研究」V

精霊-メルクリウス

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Part II

1.序

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 関心のある読者が欲するのは、わたしがそうなのだが、この精霊についてもっと — とりわけわれわれの先祖が何を信じ、彼について何を言ったか — 見つけ出すことであろう。それゆえわたしは、文献引用の助けを借りて、王者的な技術の巨匠たちに見えたとおりに、多芸多才で見え隠れするこの神の素描を描いてみよう。この目的のため、われわれは錬金術の難解な文芸を調べなくてはならないが、これらはまだ正確には理解されていない。当然、後代になって、錬金術の歴史はおもに化学者の関心を惹いた。それが数々の化学物質や薬剤の発見を記録しているという事実は、しかしながら、彼にそのように見えるほどには、その科学的内容の情けないほどの乏しさを彼に受け容れさせることができなかった。彼は、例えばSchmiederのように、期待にみちた尊敬と共感をもって黄金づくりの可能性を仰ぎ見ていた古い著作者たちの立場にはいなかった;その代わり、その秘訣の無益さと、一般に錬金術的推測の欺瞞に立腹していた。彼にとって錬金術は、二千年以上にわたって続いたとてつもない逸脱と見えるよう束縛されていた。錬金術の化学は本物か否か、つまり、錬金術師たちは本当に化学者なのか、それとも、単に化学的な珍粉漢粉をしゃべっただけなのか自問しさえすれば、諸々の文献そのものが、純粋な化学とは違った一連の観察を示唆したことであろう。化学者の科学的な装置は、しかしながら、彼を別のこの系列を探究することに適合させはしない、それは宗教の歴史に真っ直ぐに導くからである。かくて文献学者Reitzensteinこそ、この分野における最大の価値の予備的な研究に対してわれわれが感謝しなければならない相手であった。彼こそは、錬金術の中に包摂される神話的、グノーシス的諸観念を認識し、それによって最も実り豊かなことを約束する角度から、全主題を拓いたのである。錬金術にとって、最初期のギリシア語や中国語の文献が示すように、本来は、黄金細工師や鍛冶師、宝石の捏造者、薬種屋や薬剤師の技術の詳細な知識を含みもするグノーシス的・哲学的な思索の部分を形成した。東洋においては西洋においてと同様、錬金術は、その核として、アントローポスというグノーシス的教説を含んでおり、まさにその生まれつきからして救済の特殊な教説の性格を有している。この事実は当然化学者から見逃された、これはギリシア語やラテン語の文献において、同時期の中国においてと同様、充分明らかに表現されているにもかかわらずである。

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 もちろん、先ず第一に、科学的に訓練されたわれわれの心が、主観と客観とが同一となるというparticipation mystique〔〕の原始的な状態への彼らの回帰を感じとることは、ほとんど不可能である。ここで、現代心理学の諸々の発見が大いにわたしの役に立つ。実践的な経験が繰り返しわれわれに示すのは、知られざる客体に対する長期の専念は、無意識のせいでほとんど不可抗的な餌として、おのれを客体の知られざる自然本性に投影し、結果的として生ずる知覚や、そこに由来する解釈を、客体として受容するよう行為する、ということである。この現象、実践的心理学においては日常的な、とくに心理療法においてははるかに日常的な出現は、疑いもなく原始性の痕跡である。原始的な水準では、生活全体が物活論的な仮定、すなわち、客観的な状況への主観的内容の投影に支配されている。例えば、Karl von den Stein は言う、ボロロ族は自分たちのことを赤いオウム(cockatoos)だと考えている、彼らは自分たちが羽根をもっていないことを躊躇なく認めるけれども[01-01]。この水準では、ある実体は秘密の力を所有するとか、prima materia〔第一質料〕はどこにでもあって、奇跡を働くとかいう錬金術師たちの仮定は、自明である。このことは、しかしながら、理解されうる事実ではなく、錬金術の用語における思考でさえなく、心理学的現象である。それゆえ心理学は、錬金術師たちの心性を解明する方面に重要な寄与をなしうる。化学者にとっては錬金術のばかげた妄想であるように見えるものは、心理学者によっては、大した困難なく、科学的実体によって汚染された心霊的素材と認識されうる。この素材は、集合的無意識から芽生え、それゆえ、今もまだ、錬金術など聞いたこともない病者・健常者双方の間に見出されえる妄想物と同一である。その投影の原始的性格のせいで、錬金術は、化学者にとって畑は不毛であるが、心理学者にとっては無意識の構成にはなはだ価値ある光を投げかける物質の正真正銘の金鉱石である。

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 以下の理路において、わたしはしばしば原典を引き合いに出すつもりだから、この作品(そのうちのいくつかは入手も容易でない)について二三語言うのもよいかも知れない。少数の中国語文献が翻訳されているが、これらをわたしは問題にしないつもりである、唯一言及するのは、Richard Wilhelm とわたし自身とによって公刊された『黄金の華の秘密』がこの組の代表である。インドの「水銀体系」[02-02]もわたしは考究できない。わたしが用いた西洋の作品は、4つの群に入る:

  1. 古代の著作者の文献類
     この類はおもにギリシア語文献(これらはBerthelot によって校訂されたもの)と、アラビア人たちに伝えられたもの(同じく彼によって校訂された)を含む。その年代は、1世紀から8世紀の間の期間にさかのぼる。 LI>初期ラテン語作家たちによる諸文献類
     これらの中の最も重要なものは、アラビア語(あるいはヘブライ語?)からの翻訳である。最近の研究は、これらの大部分の文献は、1050年頃までが盛期であったハッランの学園に由来し、おそらく、ヘルメス文書(Corpus Hermeticum)の源泉でもあることを示している。アラビア語が源泉であるある文献がこの群に属することは疑わしいが、少なくともアラビア語の影響を示している — 例えば、ゲーベルの「Summa perfectonis」や、アリストテレスやアヴィセンナの諸論文。この期間は、9世紀から13世紀に及ぶ。
  2. 後期ラテン語作者たちによる文献類
     これらは、14世紀から17世紀までの原理的な群と範囲を含む。
  3. 現代ヨーロッパ語による文献類
     16世紀から17世紀。その後、錬金術は衰退する、それが、わたしが18世紀の文献類を時たまにしか使わなかった所以である。


2.水銀、にして/あるいは、水としてのメルクリウス

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 メルクリウスは、最初、hydrargyrum〔水-銀〕[02-01] (Hg)、すばしこい銀、あるいは、argentum vivum〔活きた銀〕 (フランス語で vifargent あるいは argent vive)として、どこでもかなりよく知られていた。そういうものとして、それはvulgaris(普通の)とかcrudus〔生(なま)の〕とか呼ばれていた。通例、mercurius philosophicus〔〕は、とくにこれと区別して、 mercurius crudus の中に存在する、しかも逆にそれとは完全に違うと受けとられることが時々あった。それは錬金術的手順の真の対象であった。水銀は、その流動性と変動性のせいで水としても定義されていた。俗な言い方では、「Aqua manus non madefaciens」(両手を濡らさざる水)[02-02]である。別の名称はaqua vitae〔活きた水〕[02-03]、aqua alba〔白い水〕[02-04]、aqua sicca〔乾いた水〕[02-05]である。後者の名称である乾いた水は逆説的であるが、まさにその理由で、記述された対象の自然本性を性格づけるものとして、これへの注意を特に喚起したい。aqua septies distillata(七たび蒸溜された水)やaquem septies [02-06]は、哲学的メルクリウスの昇華された(「霊的な」)自然本性を指し示している。数多くの論文が、単にメルクリウスを水として述べている[02-07]。humidum radicale(根-蒸気ないし根源的蒸気)という教説は、humidum album[02-08]、humidatas maxime permanens incombustibilis et unctuosa[02-09]とか、humiditas radicalis[02-10]というような名称のもとにある。メルクリウスは、蒸気のような湿気[02-11](これもまたその霊的自然本性を指し示している)から立ちのぼるとか、水を支配する[02-12]とか言われもする。ギリシア語文献の中でしきりに言及される「神的な水」(u{dwr qei:on)とは水銀のことである[02-13]。神秘的実体としての、また黄金染料としてのメルクリウスは、aqua aurea[02-14]という名称で、また、Mercurii caduceus〔メルクリウスのカドケウス杖〕[02-15]としての水の記述で指し示される。



3.火としてのメルクリウス

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 数多くの論文が、メルクリウスを端的に火と定義している[03-01]。彼はignis elementaris〔火の原素〕[03-02]であり、noster naturalis ignis certissimus〔〕[03-03]であり、これは再びその「哲学的」自然本性を指し示している。aqua mercurialis〔メルクリウスの水〕は、神的な火でさえある[03-04]。この火は「高度な蒸気」(vaporosus)である[03-05]。実際、メルクリウスはあらゆる手順において真に唯一の火である[03-06]。彼は「秘密のうちに働く不可視の火」である[03-07]。あるテキストが言う、「メルクリウスの「心臓」は北極星にあり、彼は火(北の光)のごとくである」[03-08]。事実、彼は別のテキストが言うように、「彼は自然の光の普遍的にして煌めく火であって、その中に天上の霊を運んでいる」[03-09]。この1節は、メルクリウスを lumen naturae〔自然の光〕に関連づけるものとして特に重要であり、神秘的知識の源泉は、聖書の聖なる黙示にとって二義的なものにすぎない。もう一度、われわれはヘルメスの古代における啓示の神としての役割を瞥見する。lumen naturae〔自然の光〕は、本来は神によってその被造物らに授けられたのだから、自然本性的に神をおろそかにするものではないにもかかわらず、その本質が深淵に転落したのは、ignis mercurialis〔メルクリウスの火〕が地獄の業火とも結びついたからである。しかしながら、錬金術師たちは、どうやら、地獄あるいはその業火を、神の絶対的に外側、あるいは、これに対立するものとしてではなく、むしろ神性の内なる構成要素として理解したらしい。もしも神が coincidentia oppositorum〔反対の一致〕でありつづけるには、たしかにそうあらねばならなかった。すべてを内包する神という観念は、必然的にその反対を包みこまなければならない。もちろんcoincidentiaは根源的ないし極端にすぎるはずもなく、さもなければ神は自分自身であることをやめるだろう[03-10]。反対の一致という原理は、それゆえ、充分な逆説と、そこから心理学的妥当性を得るために、絶対的反対のそれ〔一致〕によって完成されるのである。

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 メルクリウスの火は「地球の中心」あるいはドラゴンの腹の中に、流れる形で見出される。ベネディクトゥス・フィグルスは書いている、「地球の中心を訪れよ、そこに汝は世界的な火を見るであろう」[03-11]。別の論文は、この火は「秘密の、永遠の火、世界の不思議、低次元における高次元の力の仕組み」[03-12]と言う。メルクリウスつまり自然の光の啓示は、地獄の火でもあり、すでに聖パウロの時代に悪魔によって支配されたと思われる事物の低次元の地下世界にある天上的で霊的な諸力の、幾つかの霊妙な仕方による再編にほかならない。地獄の火つまり悪霊の真に活動的な原理は、霊と善の明白な片割れとして、また、実体におけるそれと本質的に同一としてここに現れる。その後、メルクリウスの火は「その中で神自身が神的な愛に燃えている火である」[03-13]と他の論文が言うとき、たしかに憤慨のもとにはならなかった。われわれはこの種の散在する徴表の中に、真の神秘主義の息づかいを感ずるなら、都合よく解釈することにはなるまい。

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 メルクリウスは彼自身が火であるから、火が彼を害することはない:彼はその中に変わることなく、火蜥蜴のように喜んで存続する[03-14]。水銀がこのように振る舞うことはなく、火にかけられると蒸発すると、錬金術師たち自身は非常に早くから知っていたのだから、指摘する必要はない。



4.霊と魂としてのメルクリウス

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 もしもメルクリウスが単に水銀として理解されていたとしたら、明らかに、わたしが列挙した称号はどれも必要なかったであろう。その必要があったという事実こそが、錬金術師たちがメルクリウスについて語るとき、彼らが心中に何をいだいたかを明示するに、ひとつの単純な間違いのない述語ではまったく充分でなかったという結論を指し示している。それはたしかに水銀であったが、しかし非常に特殊な水銀、「われらが」メルクリウス、精髄、蒸気、〔水銀の〕背後に、あるいは、水銀の内に隠れた原理 — 掴みどころなく、魅力的で、苛立たせる、無意識の投影を引き寄せるところのとらえにくいモノであった。「哲学的」メルクリウス、この servus fugitivus あるいは cervus fugitivus(逃亡奴隷あるいは闘争する牡鹿)は、われわれが与えたわずかな暗示から集められるように、広範囲に及ぶ心理学的な諸問題のひと揃いに枝分かれするよう脅迫する。概念は危険をはらみ、終わりは視界のどこにもないとわれわれは受け取り始める。それゆえ、われわれはむしろ早計にも、この概念を何らかの特別な意味に結びつけるのではなく、哲学的メルクリウスは、変成物質として錬金術師にお馴染みであるが、明らかに無意識の投影である。探究心が未知数のものを研究する際に、必要な自己批判を欠いたときにいつも起こることではあるが。

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 すでに指示されたとおり、神秘的実体の霊的自然が錬金術師たちに気づかれないことはなかった;実際、彼らはそれを積極的に「霊」とか「魂」と定義した。しかし、これらの概念は — とりわけ初期においては — 常に曖昧であるので、spiritus とか anima という用語は錬金術的用法では何を意味するかというそこそこ明確な観念を獲得しようとするなら、注意深くこれらに接近しなくてはならないのである。



A.空気の精霊としてのメルクリウス

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 ヘルメスは、もとは風の神であり、その片割れは、「魂たちに呼吸させる」[04-01]エジプトのトートであるが、彼らは錬金術のメルクリウスの気体の位相における先祖である。諸文献は、「動きにおける空気」という本来的に具体的な意味で、pneuma とか spiritus という術語をしばしば用いる。だから、メルクリウスが『Rosarium philosophorum』(15世紀)の中で、aereus とか volans[04-02](有翼の)と記述され、ホーゲランデ(16世紀)の中でtotus aereus et spiritualis〔〕[04-03]と記述されたとき、集合体の気体状態以上を意味するものではない。似たようなことが、リプレーの『Scrowle』[04-04]の中では serenitas aerea という詩的表現によって、また、メルクリウスは風に変わった[04-05]という同じ著者の表明によって、意味されている。彼〔メルクリウス〕は lapis elevatus cum vento(風によって吹き上げられた石)である[04-06]。spirituale corpus[04-07] とか spiritus visibilis、tamen impalpabilis[04-08](眼に見えるもいまだ触知しえざる霊)という表現は、前述したメルクリウスの蒸気的自然本性を想起するなら、やはり「空気」以上のものを意味するものではなく、おそらくはspiritus prae cunctis valde purus(特にすぐれて純粋な霊)[04-09]についても同じであろう。incombustibilis[04-10] という称号が大いに疑わしいのは、後に見るように、これがしばしば incorruptibilis と同義であり、しかも「永遠の」を意味するからである。ペノトゥス(16世紀)はパラケルススの弟子であるが、メルクリウスは「大地の内なる身体に宿った世界霊以外の何ものでもない」[04-11]と彼が言うとき、彼は物質的な位相を強調しているのである。この表現は、2つの分離した領域、つまり、霊と事物の — 現代の心性には受け入れがたいが — 汚染を、他の何かよりもよく示している;中世の人たちにとって、spiritus mundi とは、自然を支配する霊でもあって、充満した気体ではなかった。他の著者ミューリウスがその『改革された哲学(Philosophia reformata)』[04-12]の中で、メルクリウスを「仲介的実体(media substantia)」として記述するとき、われわれは同じジレンマに陥っていることに気づくのである。これは明らかにanima media natura[04-13](仲介的自然本性としての魂)という彼の観念と同義である、というのは彼にとってメルクリウスとは「諸々の身体の霊にして魂」[04-14]であったからである。



B.霊魂としてのメルクリウス

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 「霊魂」は、空気とか気体という意味における「精霊」よりも高次の概念を表す。「微妙な身体」とか「息づく霊魂」として、それは非物質的な、単なる空気よりも微細なあるものを意味する。その本質的な性格は、生かし、生かされることである;それゆえそれは生命原理を表す。メルクリウスはanima として(したがって、女性として、彼はまた foemina〔〕ないし virgo〔乙女〕とも呼ばれる)、あるいは nostra anima〔われらがアニマ〕[04-15]としばしば命名される。nostra はここでは「われわれ自身の」魂を意味するのではなく、aqua nostra〔われらが水〕の中のMercurius noster〔われらがメルクリウス〕、corpus nostrum〔われらが身体〕として、神秘的実体に属する。

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 しかしながら、anima はしばしば spiritus と結びついているように見える、あるいは、それと等しい[04-16]。というのは、霊は魂の生の性質を共有し、この理由でメルクリウスはしばしば spiritus vegetativus[04-17](生の霊)あるいは spiritus seminalis[04-18]〔種子の霊〕と呼ばれるからである。特殊な名称が17世紀の偽作の中に見出される、これはユダヤ人アーブラハムの秘密の書と称し、ニコラス・フラメル(14世紀)によって言及されたものである。その別称とは spiritus Phytonis〔ピュトーンの霊〕(fuvw「生む」、futovn「生まれたもの」、fuvtwr「生むもの」、そしてピュトーンつまりデルポイの大蛇)であり、蛇の徴:serpent.gifが添えられている[04-19]。もっとはるかに重要なのが、「世界をいっしょに保持し、身体と霊との中間に立ち、膠のように生を与える力」[04-20]としてのメルクリウスの定義である。この観念は、ミューリウスのanima media natural としてのメルクリウスの定義に対応する。ここから、非常に早い時期(12世紀から13世紀にかけて)アヴィセンナが彼〔メルクリウス〕をいかに定義したかanima mundi[04-21] とメルクリウスとの同一化まではほんの一歩である。「彼は全世界を満たし、原初、水の上を漂っていた主の霊である。人びとは彼のことを真理の霊とも呼び、これは世界から隠されている」[04-22]。他の文献は、メルクリウスは、「光と結びついた超天的霊であり、正当にも anima mundi と呼ばれうる」[04-23]。数々の文献から明らかなことは、錬金術師たちは、anima mundi という自分たちの観念を、一方ではプラトーン『ティマイオス』の世界魂に、他方では、聖霊に関係づけている。創造に臨席し、造物者(fuvtwr)の役割を演じ、生の種子をもった水を孕んだ、あたかも、後にマリアのobumbratio(影を投げかける)の中で似た役割を演じた[04-24]。ほかの箇所でわれわれが読むのは、「Mercurius non vulgaris の中に住む生命力である、これは硬く白い雪のように飛ぶ。これは小宇宙的世界のと同じく大宇宙的世界の霊であり、anima rationalis の後、人間的自然本性そのものの運動と流動性が依拠している」[04-25]ということである。雪はalbedo(=霊性)の状態における純化されたメルクリウスを表す;ここに再び事物と魂とが一致する。メルクリウスの現在によって引き起こされる二重性は何の価値もない:一方では不死なる anima rationalis が神によって人に与えられ、これは彼を動物から区別する;他方では、あらゆる現象にとって、メルクリウスの活きた魂が、inflatio ないし聖霊のinspiratio と結びつく。この基本的な二重性が、照明の2つの源泉の心理学的基礎を形成する。



C.非体的、形而上的意味におけるメルクリウス

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 この1節の多くにおいて、spiritus が抽象的な意味において霊を意味するのかどうか、疑わしいままである[04-26]。そこそこ確かなことは、ドルンにおいてはそうだということである、というのは、彼は言う、「メルクリウスは、不朽の霊の性質を所有する、これは魂のようであり、その不朽性ゆえに理性的と呼ばれる」[04-27] —つまり、mundus intelligibilis を分かち持つ。ひとつの文献が彼のことを「霊的にして超物質的」と呼んでいるし[04-28]、また別のものは、メルクリウスの霊は天から来たると言っている[04-29]。ラウレンティウス・ウェントゥラ(16世紀)は、メルクリウスの霊を、「それ自体のように完全にかつひたすら(sibi omnino similis)」、またsimplexにと定義したとき[04-30]、「Paltonis liber quartorum」に、したがってまたハラニティー学校の新プラトン主義の観念に賛同したかもしれない。というのは、このハッラニティーの文献は、神秘的実体を、res simplex にして神と等しいと定義するからである[04-31]

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 メルクリウスの pneuma に対する最古の言及は相当に古い(おそらくはキリスト以前であろう)オスタネスの引用の中に現れる。それは言う、「ナイルの流れに行け、そうすればそこで霊をもった石を見出すであろう」[04-32]。ゾーシモスの中ではメルクリウスは非体(ajswvmaton)として[04-33]、他の著者によっては霊気(aijqerw:deV pen:ma)として、また理性ないし知恵をもつに至ったものとして(swvfrwn genomevnh[04-34]性格づけられている。非常に古い論文「イシスからホーロスへ」(1世紀)の中では、「神的な水は天使によってもたらされ、明らかに天界のもの、あるいはたぶんダイモーン的起源を有する。というのは、文献によれば、それをもたらした天使アムナエルは、道徳的に非の打ち所なき輩ではないからである[04-35]。錬金術師たちにとっては、古代のみならず後世の書き手たちからも知るとおり、神秘的実体としてのメルクリウスは、大なり小なり愛の女神と秘密の結びつきを有していたからである。『クラテースの書』の中で、これはアラビア人たちによって伝承され、たぶんアレクサンドリア起源の書であろうが、口から水銀の絶えざる流れを注ぐ容器を持ったアプロディテーが現れ[04-36]、キルスチャン・ローゼンクロイツの『化学の結婚』における中心的神秘は、眠れるウェヌスの秘密の寝室の彼の訪問である。

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 メルクリウスが霊と魂として解釈されるという事実は、これが内包する霊-体という板挟みにもかかわらず、錬金術師たちがその神秘的実体を、われわれが今日心霊的現象と呼ぶあるものとして受け取ったことを示している。



5.メルクリウスの両つの自然本性

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 メルクリウスは、ヘルメスの伝統にしたがって、数多くの側面を有し、変わり身がはやく、ひとを誤らせる。ドルンは「その移り気なメルクリウス」[5-01]について語り、他のひとは彼のことをversipellis(その皮を変える狡猾なもの)[5-02]と呼ぶ。彼はduplex[5-03]であり、彼のおもな性格は二重性である。彼について、彼は「地球の周りをめぐり、善人と悪人の仲間を等しく歓迎する」[5-04]と言われる。彼は「2匹のドラゴン」[5-05]であり、「双子」[5-06]であり、「2つの自然本性」[5-07]ないし「2つの実体」[5-08]からできている。彼は「二重の実体の巨人」であり、その説明の中でこの文献[5-09]は、最後の晩餐の聖体が制定されているマタイ第26章を引用している。キリストの類比は次のように説明される。メルクリウスの2つの実体は、似ざるものの、時には反対なるものの思想;「有翼にして無翼」[5-010なるドラゴンのように。「この山には常に目覚めているドラゴンがいる、これがパノプタルモスと呼ばれる所以は、その身体の両側、前、後ろとも眼に覆われ、半ば開き、半ば閉じて睡るからである」[5-11]。そこには「普通の、哲学的な」[5-12]メルクリウスがいる。彼は「乾と土、湿と粘性」から成る[5-13]。その要素の2つは受動的で、土と水、2つは活動的で空気と火である[5-14]。彼は善人と悪人の両方である[5-15]。『Aurelia occulta』は彼の画像的描写を与えている[5-16]

我は毒したたらせるドラゴン、いずこにもあれ存在し、安価に手に入れられるものなり。我がその上に休息するところのもの、そうしてまた我が上に休息するところのものは、技術の諸規則に従ってその研究を追求する者どもによって、我が内に見出されん。我が水と火は破壊し、組み立てる;我が身体から汝は緑と赤のライオンを抽出するがよい。しかし、我について正確な知識を持たざれば、我が火で以て汝は汝の5つの感覚を破壊せん。我が鼻孔より、多衆に死をもたらし来たった毒広がり来たる。それゆえ、汝は粗きものを火から巧みに分離すべし、もしも汝が全き貧困に苦しむことを望まぬならば。我は男性と女性の力、また、天のそれらと地のそれらを汝に授けん。わが術の諸々の神秘は、もしも汝が火の力[5-17]によって我を征服せんとするならば、心の勇気と偉大さによって手渡されねばならない。その所以は、すでにすこぶる多くの失敗があり、その富と苦労が失われているからである。われは自然の卵、〔これは〕賢者のみに知られ、〔賢者〕敬虔と謙遜のうちに我から小宇宙を産み出す、〔この小宇宙は〕全能の神によって人類のために準備されているが、与えられるのは少数者のみで、その間、多衆は、我が宝物によって貧民に善行し、腐蝕しやすい黄金におのれらの魂を結びつけるまいといたずらに熱望したのだが。???哲学者たちによって、我はメルクリウスと名づけられている;わが連れ合いは[哲学者の]黄金である;我は年ふりたドラゴン、地球上いずこにもあれ見出される、父と母、若者と老人、非常に強く非常に弱い、死と復活、可視的にして不可視的、硬くして柔弱;我は地球に降下し天に昇る、我は最高のものにして最低のもの、最も軽いものにして最も重いもの;しばしば自然の秩序は、色、数、重さ、そして数量に関して、我が内にて逆転する;我は自然の光を内包す;我は闇にして光;我は天と地から生まれ出る;我は知られ、かつ、しかもけっして存在することなし[5-18];太陽光線のおかげで、あらゆる色が我が内で輝く、また、あらゆる金属も。我は太陽という柘榴石、最も高貴な精製された土、これを通して汝は銅を、鉄を、錫を、そして鉛をも黄金に変成させることができるのである。

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 その合一した二重の自然ゆえ、メルクリウスはヘルメス-アプロディテーと描写される。時として、彼の身体は男性、彼の魂は女性と言われ、時として逆と言われる。『哲学者たちの薔薇園(Rosarium philosophorum)』は、例えば、両方の版を有する[5-19]。vulgaris としては彼は死せる男性の身体であるが、「我らが」メルクリウスとしては彼は女性であり、精神的であり、活きた、生気を与えるものである[5-20]。彼はまた夫にして妻、花婿にして花嫁、あるいは、恋する者にして恋される者とも呼ばれている[5-21]。彼の対立的な自然本性は、しばしば、Mercurius sensu strictiori つまり硫黄と呼ばれる、前者は女性、大地、イヴ、後者は男性、水、そしてアダムである[5-23]。ドルンの中では、彼は「真のヘルメス-アプロディテー的アダム」であり[5-24]、クーンラートの中では彼は「ヘルメス-アプロディテー的モノ(すなわちprima materia〔第一物質〕)からの汚れなき誕生」として、「大宇宙のヘルメス-アプロディテー的種子の生まれ」である[5-25]。アダムとして、彼は小宇宙でもあり、あるいは、「小宇宙の心臓」[5-27]でさえある、あるいは、彼が小宇宙を有するのは「自分自身の内であり、そこには四元素と、人々がと呼ぶquinta essentia〔〕がある」[5-28]。coelumという用語は、メルクリウスにとって、ひとが考えるのと違って、パラケルススのfirmamentumから出てくるのではなく、早くも Johannes de Rupescissa(14世紀)の中に登場する[5-29]。homoという用語は、メルクリウスが「哲学的両性愛のひと」と名づけられているときのように、「小宇宙」と同義に使われている[5-30]。非常に古い『Dicta Belini』(Belinus あるいは Balinus はテュアナのアポッロニウスの転訛である)の中では、彼は「河から上がってくる男」[5-31]であるが、おそらくはエズラの幻視への言及であろう[5-32]。トリスモジンの『太陽の光彩(Splendor solis)』(16世紀)の中には、その挿し絵がある[5-33]。その観念そのものは、バビロニアの知恵の教師オスタネースにまで溯るかもしれない。「高い男」[5-34]というメルクリウスの名称は、このような系統とうまく適合しなくはない。アダムとか小宇宙という用語は、諸文献の中にしばしば登場するが、偽作ユダヤ人アブラハムは、図々しくもメルクリウスをアダム・カドモンと呼んでいる[5-36]。他の箇所において[5-37]アントローポスのグノーシス的教説のこの紛うかたなき継続をわたしが議論したように、今はもうメルクリウスのこの側面についてこれ以上密に入る必要はわたしにない[5-38]。にもかかわらず、わたしはもう一度、アントローポスという観念は自己の心理学的概念と一致することを強調しておきたい。アートマンやプルシャという教説は、錬金術と同様、このことの明解な証拠を与える。

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 メルクリウスの二重の自然本性のもうひとつの側面は、senex〔老人〕[5-39]にしてpuer〔少年〕[5-40]であるというその性格描写である。老人としてのヘルメスの姿は、考古学の証明によって、彼をサトゥルヌスとの直接的な関係 — 錬金術において重要な役割を演ずるところの関係(下の274段落以下を見よ)に引きこむ。メルクリウスは真に最も極端な反対から構成される;一方では、彼は疑いもなく神格と同族であり、他方では、彼は裁縫師の仲間に見出される。ロシヌス(ゾーシモス)は彼のことをterminus ani〔〕[5-41]と呼びさえする。『ブンダヒシュン』[5-42]の中では、ガロトマンの肛門は「地上の地獄のよう」である。

forward.gif6.メルクリウスの単一性と三位一体性
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