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back.gifメルクリウス第1部

C・G・ユング
「錬金術研究」IV

精霊-メルクリウス

(3/3)





6.メルクリウスの単一性と三位一体性

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 明らかなその二重性にもかかわらず、メルクリウスの単一性が、とくにラピス〔石〕としてのその形においては、強調される。「全世界の中で彼は1である」[06-01]。メルクリウスの単一性は同時に聖霊と関係する三位一体だが、その三位の自然本性はキリスト教の教説に由来するのではなく、もっと早期に属する。三位が現れるのはゾーシモスのperi; ajreth:V(術知について)[06-02]である。マルティアリスはヘルメスのことをomnia solus et ter unus(全にして三一)と呼ぶ[06-03]。モナクリス(アルカディア)では、三つ頭のヘルメスが崇拝され、ガリアには三つ頭のメルクリウスがいた[06-04]。このガリアの神はまた霊魂導師でもあった。三位一体の性格は地下世界の神々の属性であり、それは例えば3つの身体をもつテュポーン、3つの身体と3つの顔をもつヘカテー[06-05]、蛇身を有する「祖先たち(tritopavtreV)」にして然りである。キケロによれば[06-06]、後者は王者ゼウスrex antiquissimus[06-07]の3人の息子たちである。彼らは「先祖(forefathers)」と呼ばれ、有翼の神々であった[06-08];明らかに同じ理屈によって、ホピ・インディアンたちは、蛇たちは雨の前兆となる雷光の閃きだと信じている。クーンラートはメルクリウスのことを triunus[06-09]とか ternarius[06-10]と呼ぶ。ミューリウスは彼のことを三つ頭の蛇で表している[06-11]。『(Aquarium sapientum)』は言う、彼は「三位一体にして、エホヴァと名づけられる宇宙の本質である[06-12]。彼は神的である、と同時に人間的である」[06-13]

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 以上のすべてからして、メルクリウスはキリストに対応するのみならず、一般に三一的神性であると結論づけねばならない。『(Aurelia occulta)』は彼を「Azoth」と呼び、以下のような用語で説明する:「というのは、彼はどこにでも現存するAとOである。哲学者たちは[彼のことを]Azothという名前で讃えたが、これはラテン語のAとZ、ギリシア語のアルファとオーメガ、ヘブライ語のalephとtauとから成るからである:
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である」[06-14]。三位一体との並行は、これ以上はっきりとは示唆されていない。『黄金論説(Tractatus aureus)』の無名の注釈者は、ロゴスとしてのキリストとの並行を過ちでないかのように置く。万物は「無限無数の星辰に飾られた哲学的な天」から生じる[06-15]、創造的な言葉から化肉するのは、ヨハネ伝のロゴスであり、これなくしては「創られたものは何ひとつ創られることはない」。注釈者は言う:「かくして甦りの言葉は万物の内に可視的に備わるが、要素的硬い諸身体の内に明白ではない、それら〔身体〕が第五のもの、あるいは天上の星の本質までさかのぼらざるかぎりは」[06-16]。メルクリウスは世界となったロゴスである。この表現は、ここで、集合的無意識とのその基本的一致を指し示しているかもしれない、というのは、「プシュケーの自然本性について」というわたしの論考[06-17]の中でわたしが示そうとしたように、星天というイメージは無意識の特殊な自然本性の可視化のように思えるからである。メルクリウスはしばしば filius〔息子〕と呼ばれているから、その親子関係に疑問の余地はない[06-18]。それゆえ彼はキリストの兄弟や神の第二の息子のようである、ただし、時間的には彼は年上の第一子でなければならないが。この概念は、ミカエル・プセロスの中で報告されている Euchites の観念に溯るが[6-19]、彼は、神の最初の息子はサタナエル[6-20]であり、キリストは第2子である[6-21]と信じた。しかしながら、メルクリウスは、「息子」であるかぎりキリストの半面であるだけではない;かれはまた、カトリックの三位と受けとられるかぎりにおいて、全体として三位一体の半面でもある。この見解に従えば、彼はキリスト教の神格の半面と同じになるだろう。たしかに彼は暗いカトリックの半面であるが、だからといって単なる悪ではない、というのは、彼は「悪にして善」、あるいは、「低位における高位の諸力の体系」と呼ばれているからである。彼が思い出すのは、キリストと悪魔両方の背後に隠れているように見えるあの二重の姿 — その属性が両者に共有されているあの謎めいたルシファーである。黙示録22章16節の中で、キリストは自分自身について言う:「わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。

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 メルクリウスのひとつの特殊性は、疑いもなく彼を神格に関係づけ、また原初的な創造神に関係づけるのだが、それは彼自身をもうける彼の能力である。『(Allegoriae super librum Turbae)』の中で彼は言う:「母はわたしを産み、彼女自身わたしから生まれた」[6-22]。ウロボロス-ドラゴンとして、彼は孕み、もうけ、産み、むさぼり、自分を殺戮し、「みずからをみずから高みに引き上げ」、『薔薇園(Rosarium)』が言うように[6-23]、そうやって神の生け贄死の神秘を釈義している。だからといって、数多くの類似した例においてのように、錬金術師たちが、われわれがそうであるように、その合理的な過程を意識していたと想像するのは性急であろう。しかし世人は、また彼を通して無意識は、意識のあらゆる含みの中に不必要な意識であることを多量に表す。???にもかかわらず、錬金術師たちが彼らの思考過程にについて絶対に無意識であったという印象を与えることをわたしは避けたい。それがどれほど少なかったかは、上の引用によって証されている。しかし、メルクリウスは、多くの文献において、trinus et unus〔三にして一〕であると主張されていながら、彼が本質的に同一視されるラピスの quaternity〔四位一体〕を非常に強く共有することから彼を避けない。三と四の問題 — 女預言者マリアの周知の公理 — によって当惑させられる奇妙な板挟みを例示する。そこにあるのはHermes tricephalus〔三つ頭のヘルメス〕同様、古典的な Hermes tetracephalus〔四つ頭のヘルメス〕である[6-24]。〔南西アラビア、現イエメンの〕セバにあるメルクリウスの寺院の平面図は、四角形の中の三角形であった[6-25]。『Tractatus aureus』に対する古註の中で、メルクリウスの徴表は円周(総体性の象徴)に囲まれた三角形の中の四角形である[6-26]


7.メルクリウスと占星術、および、アルコーンたちの教説との関係

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 メルクリウスに関連する特殊な哲学の根源のひとつは、古代占星術と、これに由来するアルコーンたちとアイオーンたちというグノーシス的教説との裡に存する。メルクリウスとその惑星〔水星〕との間には、悪影響のせいにせよ活発な霊的同一性のせいにせよ、神秘的な同一性の関係が存する。前者の場合には、水銀は地上に現れるときには単なる水星という惑星である(あたかも、黄金が地上における太陽なのと同様に)[07-01];後者の場合には、水銀の「精霊」は、惑星の精霊と同一性を有する。どちらの精霊も眼に見えないか、あるいは、二つが一つの精霊として、擬人化され、助けを求めて呼び出されたり、paredros〔〕ないし「家族」として奉仕するよう魔法で呼び出されたりする。錬金術の伝統では、ハラン語の論文であるアルテフィウスの『Clavis maioris sapientiae』の中に、かかる手順の指針をわれわれは見出す。これは、Dozy と de Geoje によって言及された祈願の描写と符合する[07-03]。これはまた『(Liber Platonis quartorum)』の中にこの種の論及もある[07-04]。これと並行して、デーモクリトスが惑星である水星の守護霊から神聖文字の秘密を受けとったという説明がある[07-05]。精霊-メルクリウスはここに、『ヘルメス文書(Corpus Hermeticum)』あるいはゾーシモスの幻像においてのように、秘儀導師の役割で現れる。彼は、『(Aurelia occulta)』の中に記録された注目すべき夢-幻の中で同じ役割を演じるが、そこに彼は星辰の王冠を戴いたアントローポスとして現れる[07-06]。太陽の近くの小さな星として、彼は太陽と月の息子である[07-07]。しかし逆に、彼はまたその両親を産む者でもある[07-08];あるいは、魏伯陽(Wei Po-yang)(c. A.D. 142)の論文が述べているのように、黄金(太陽)はその性質をメルクリウスから手に入れる[07-09]。(寄せ集めのせいで、占星術の神話はいつも化学的用語において同様に思考する)。彼の半-女性的自然本性ゆえに、メルクリウスはしばしば月[07-10]やウェヌス[07-11]と同一視される。おのれの神的な連れ合いとして、彼が愛の女神に容易に成り代わることは、ヘルメスのその役割において、彼が勃起しているようなものである。しかし彼はまた「最も純潔な処女」と呼ばれもする[07-12]。水銀と月(銀)との結びつきは充分明白である。メルクリウスは輝き揺らめく惑星として、ウェヌスのように朝方ないし夕暮れの空に太陽に密着して現れ、彼女のようにルシファー、つまり光をもたらすもの(fwsfovroV)である。彼は、明けの明星がそうであるように伝令使であるが、ただしもっと直接的に、光の到来である。

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 しかし、メルクリウスの解釈にとって何もまして重要なのは、サトゥルヌスに対するその関係である。senex〔老〕メルクリウスは、サトゥルヌスと同一であり、初期の錬金術師たちにとってはとりわけ、それは水銀ではなく、サトゥルヌスと連繋する鉛であり、通常は prima materia〔第一質料〕を表すところのものである。『(Tubra)』のアラビア語文献の中では、水銀は「月の水とサトゥルヌスのそれ」と同一である。『ベリヌスの箴言(Dicta Belini)』の中でサトゥルヌスは言う:「我が精神は、我が兄弟たちの更直せる四肢を弛緩せしめる水である」[07-14]。これは、メルクリウスがまさしくそれであるところの「永遠の水」にあてはまる。Raymund Lully は、黄金色のある油が、哲学者の鉛から抽出される」ことに注目している[07-15]。クーンラートの中ではメルクリウスは「サトゥルヌスの塩」、あるいは、サトゥルヌスとは単にメルクリウスである。サトゥルヌスは「永遠の水を引く」[07-17]。メルクリウスのように、サトゥルヌスはヘルメス-アプロディテー的である[07-18]。サトゥルヌスは「山上の老人であり、彼の中で自然はその完成[つまり4元素]と結合し、そのすべてがサトゥルヌスの中にある」[07-19]。同じことがメルクリウスについて言われる。サトゥルヌスはメルクリウスの父親であり起源である、それゆえ後者は「サトゥルヌスの子」と呼ばれる[07-20]。水銀は「サトゥルヌスの心臓から」来るか、あるいは、「サトゥルヌスである」[07-21]、「輝かしい水」はSaturnia という植物から抽出され、「世界の中で最も完全な水にして花である」[07-22]。ブリッジキングトンの聖堂参事会員 Sir George Ripley のこの主張は、クロノス(サトゥルヌス)とは、「水は破壊である」から、あらゆるものを破壊する「水の色の力」(uJdatovcrouV)であるというグノーシスの教えと最も注目すべき並行をなしている[07-23]

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 メルクリウスの運星に影響する霊のように、サトゥルヌスの精霊は「この仕事に非常に適している」[07-24]。変容の錬金術的過程におけるメルクリウスの顕現のひとつは、ときに緑、ときに赤い、ライオンである。クーンラートはこの変容を「サトゥルヌスの山の洞穴からこのライオンをおびき出すこと」と呼ぶ。古の時代からこのライオンはサトゥルヌスと提携してきた。クーンラートは彼を「カトリック族のライオン」と呼び[07-26]、「ユダ族のライオン」— キリストの寓喩に言い換える[07-27]。彼はサトゥルヌスを「緑と赤のライオン」と呼ぶ[07-28]。グノーシス主義のサトゥルヌスは、最高位のアルコーン、獅子頭のイアルダバオート[07-29]、「カオスの子」を意味する。しかし、錬金術においてはカオスの子はメルクリウスである[07-30]

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 〔サトゥルヌスとの〕関係、および、サトゥルヌスとの同一性が重要である所以は、サトゥルヌスが maleficus であるのみならず、実際に悪魔自身の住み家であるからである。最高位のアルコーンやデーミウルゴスとしてさえ、そのグノーシス主義的評判は最善ではなかった。カバラの出典によれば、ベールゼブーブは彼と提携していた[07-31]。ミューリウスは言う、もしもメルクリウスが浄化されたなら、その時ルシファーは天から転落するだろう[07-32]。わたしの所有になる17世紀の論文における同時代の傍注は、硫黄、つまり、メルクリウスの男性的原理を、diabolusと説明している[07-33]。もしもメルクリウスが厳密にEvil One そのものでないとしたら、少なくとも彼は彼を含む — すなわち、彼は道徳的には中性、善にして悪であるか、あるいは、クーンラートが言うように、「善をともなう善、悪をともなう悪」である[07-34]。しかしながら、彼の自然本性はもっと厳密に規定される、もしもひとが彼のことを、善とともに始まり、悪とともに終わる process〔〕と受けとるならば。『真実のヘルメス(Verus Hermes)』(1620)の中で、むしろ嘆かわしい、しかし絵画的な詩が、その過程を以下のように要約している:

弱々しき赤児、灰色髭の老人、
ドラゴンと異名をとる者:彼らが我を捉えたり
暗黒の地下牢に幽閉して。
我が王として再生するところ。

火の剣は我を賢明にし、
死は我が肉と骨を別々にかじる。
わが魂と精神は初めに沈み、
悪臭はなつ黒き毒を後に残す。

黒き鴉とは我は同類、
あらゆる罪の報いもかくのごとし。
最深の塵の中に我独り横たわり、
おお、三が一を創るとは!

おお、魂よ、おお、精神よ、我とともにとどまれ。
日の光に我が挨拶するとは。
平和の英雄よ、我から生まれよ、
全世界が逢いたがるものを!

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 この詩の中で、メルクリウスは彼自身の変容を記述しているが、それは同時に artifex〔工匠〕の神秘的な変容を意味する;というのは、メルクリウスのみならず、彼に生起したこともまた、集合的無意識の投影だからである。これは、先に起こったことから容易に目にされうるのだが、個性化過程の投影であり、これは、自然な心的出来事であるから、意識の関与なくしても生起するからである。しかし、意識が理解の何らかの計測に関与するならば、そのときには、この過程は宗教的な経験ないし啓示のあらゆる情緒によって完成される。その結果として、メルクリウスはサピエンティアや御霊(Holy Ghost)と同一視された。それゆえ大いにあり得ることだが、誓願派、パウロ派、ボゴミール派、カタリ派、また、キリスト教の設立者の精神において聖霊(the Palaclete)の観念を極度に発展させた連中とともに始まったあの異端派は、錬金術の中に、一部は無意識的に、一部はよく考えた偽装の中に生き続けたのである[07-35]


8.メルクリウスとヘルメス

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 われわれがすでに出くわしたのは、古典的ヘルメスの性格は、後に、メルクリウスの姿の中に忠実に再生されたことを明示する多数の錬金術的文書であった。これは一部は無意識的な繰り返しであり、一部は自然発生的な再経験、そして最終的にはまた異教の神に対する意識的言及でもある。疑いえないのは、ミハエル・マイアーがその神秘的遍歴の際に、天国への道を指し示すメルクリウスの像を見つけたと言うとき[08-01]、彼は道案内人(oJdhgovV)としてのヘルメスに意識的に言及しているのであり、エリュトライのシビュッラをしてメルクリウスについて、「彼は汝を神の秘儀と自然の神秘の証人とするであろう」[08-02]と言わせるとき、ヘルメスを秘教導師として紹介しているということである。さらに、divinus ternarius として、メルクリウスは神的な秘密の開示者[08-03]、あるいは、黄金の形においてはアルカナ実体(マグネシア)の魂[08-04]、あるいは、哲学の樹の結実[08-05]と考えられる。『(Epigramma Mercurio philosophico dicatum)』の中では、彼は神々の伝令使、hermeneut(解釈者)、エジプトの「Theutius」(Thoth)と呼ばれる。マイアーが彼のことを「この不実なる、あらゆる点であまりにとらえにくいアルカディアの若者」と呼ぶとき[08-07]、彼をキュレーネーにますヘルメスに関係づけるまでに至りさえする。というのは、アルカディアにはキュレーネーにます神、つまり、陰茎像ヘルメスの聖域があったからである。『(Tractatus aureus)』の古註の中では、メルクリウスははっきり「キュレーネーの半神」と名づけられている[08-08]。マイアーの言葉はまたエロースにも言及しているらしい。そして事実、ローゼンクロイツの『化学の結婚(Chymical Wedding)』の中で、メルクリウスはクピドーの形で現れ[08-09]、好奇心からウェヌス婦人を訪問する好き者を、手にした矢で傷つけて罰するのである。その矢は「情動の矢」(telum passionis)であり、それはまたメルクリウスの持ち物でもある[08-10]。彼は「射手」であり、実際「弓弦なしに射つ」者であり、「地上のいずこにも見出されぬ」者であり[08-11]、それゆえ明らかにダイモーンである。ペノトゥスの諸象徴の照応表[08-12]の中では、彼はニンフたちと関係しており、このことは情動的な神の一人パーンを思い出させる。その卑猥さは、センディウォギウスの『(Tripus chimicus)』[08-13]の中で挿し絵によって裏付けられる。そこでは彼は、雄鶏と雌鶏に牽かれる戦勝の戦車の上に現れ、彼の後ろには、抱擁するひと組みの裸の恋人たちがいる。この結びつきの中には、単なるポルノ作品として伝承された古い印刷物の中に、おびただしい数のいくぶん曖昧な交合の絵画も言及される。古い写本中の、嘔吐を含む排泄行為の絵画は、同様に、「地下世界のヘルメス」[08-14]のこの領域に属する。さらにまた、メルクリウスは「持続的な共存」[08-15]は、タントラのShiva-Shakti の観念の中に、許されざる形で見出される。ギリシアとアラビアとインドの錬金術の結びつきは、ありそうもないどころではない。ライツェンシュタイン[08-16]は、40人の高官に関するトルコの民間伝承の書からパドマナバの話を報告しているが、これの年代はムガール帝国時代に溯るであろう。すでにわれわれの領域における1世紀に、インドの宗教の影響は、南メソポタミアに及んでおり、紀元前2世紀には、ペルシアに仏教徒の僧院があった。〔インド南西部の〕トラヴァンコア州にあるパドマナブハプラの王立寺院(15世紀ころ)には、まったく非インド的な有翼の senex ithyphallicus〔勃起した老人〕を表す2つのレリーフをわたしは見る。そのひとつには、月の大盃の中に上半身まで立っている。もうひとつは、ヒッポリュトスの中で「青い」あるいは「犬のような」[08-18]女を追いかける有翼の勃起した老人を思い出させる。事実、キュレーニオスはヒッポリュトスの中に[08-19]、一方ではロゴスと、他方では悪しきコリュバース、陽根、一般に造物主的原理と同一として現れる[08-20]。この暗きメルクリウスの別の位相は、母子相姦であり、これはマンダ教の影響にまでたどれるかもしれない:そこではナブ(メルクリウス)とイスタル(アスタルテ)とが一対を形成している。アスタルテは近東全体にわたって母であり愛の女神であり、そこでは彼女はまた母子相姦の主題に染められている。ナブは「嘘の救済者」であり、その犯意ゆえに罰せられ、太陽によって幽閉されている[08-21]。文献はわれわれに何度も、メルクリウスは「糞山の中に見出される」ことを思い出させるが、しかし「糞山の中を掘り起こしても、それによっては何も引き出せない」と皮肉な口調でつけ加える[08-22]

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 この暗きメルクリウスは、初期の nigredo 状態、最高の悪徳の versa の象徴である最低を表すものとして、何度も理解されなければならない:
     Anfang und Ende
     Reichen sich die Hände.[08-23]
彼はウロボロス、一にして全、錬金術的過程の間に完成される反対の合一であり、ペノトゥスがこう言っているところのものである[08-24]

メルクリウスは自然の息子、液体的要素の結果として自然によって産み出される。しかしひと息子としてさえ、哲学者によって産み出され、処女の果実として創造されるので、彼[メルクリウス]は地より立ち上がり、あらゆる土性を清められ、しかして彼は大気の中に完全に上昇し、精霊へと変わる。かくして哲学者の言葉は満たされる:彼は地から天へと昇り、上なるものと下なるものの力を受けとり、その地上的で不潔な自然本性を脱ぎ、天的自然本性を身にまとう。

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 ペノトゥスはここで『エメラルド板』に言及しているから、本質的な1点において『板』の精神から離れていることは強調されなければならない。ペノトゥスの幻視では、メルクリウスの上昇は、霊的な人への物質のキリスト教的変身に完全に関係している。他方で『エメラルド板』は言う:「彼は地上から天上へと昇り、ふたたび地上へと降って、上なるもの下なるものの力を受けとる。彼の力は地上にもどってきたとき完全なものとなる」。だから、天上への一方通行的上昇の問題ではなく、キリスト教の救世主によってたどられた道筋と対応して、上界から下界へとやって来て、そこから上界へと帰るのであり、filius macrocosmi〔大宇宙の子〕は下界から出発して、高みへと昇り、そうして、上なるもの下なるものとの諸力によって彼自身の中で合一し、地上へとふたたび帰ってくるのである。彼は反転運動を実行し、それによってキリストのそれや、グノーシス派の救世主のそれとは逆の自然本性を明白にし、その一方で、3番目の息子というバシレイデス派の観念殿確実な類縁性を誇示する。メルクリウスはウロボスの円環的自然本性を持ち、そこから彼は、自分が同時にその中心でもあるcirculus simplex〔単純な円環〕によって象徴されている[08-25]。それゆえ彼は自分についてこう言うことができる:「我は一であり、同時に、我が内において多である」[08-26]。同じこの論文が言う、ひとの内なる円の中心は地球であり、キリストが「汝は地の塩」と言ったときに言及した「塩」である、と[08-27]

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 ヘルメスは盗人と詐欺師の神であるが、あらゆる哲学に自分の名を与える啓示の神でもある。歴史的に振り返って見ると、人文主義者パトリティウスが教皇グレゴリオス14世に、ヘルメス哲学は教会の教説においてアリストテレスの地位を得るべしと提案したときが、最も重要な意味の瞬間だった。その時、2つの世界が接触し、それは — 楽園の後、何が起こるか知っている! — 将来まだ合一しなければならない。当時、それは明らかに不可能であった。宗教の心理学的区別は、科学的見解と同様、結合がもたらされ始めることができる前に必要なのである。[08-28]


9.アルカナ実体としてのメルクリウス

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 メルクリウスとは、一般に支持されているところであるが、霊薬(arcanum)[09-01]であり、第一質料(prima materia)[09-02]であり、「あらゆる金属の父」[09-03]であり、始原の渾沌であり、天国の大地であり、「自然がその上に少しばかり働いた、にもかかわらず不完全のままに放置された物質である」[09-04]。彼はまた究極の物質であり、彼自身の変成の目標であり、石[09-05]であり、染料であり、哲学の黄金であり、カーバンクルであり、哲学者であり、第二のアダムであり、キリストの相似であり、王であり、諸々の光の光であり、deus terrestris〔地の神〕であり、実際、神性そのもの、あるいは、その完全なる対応物である。そ同義語と石の意味は、他の箇所ですでに議論したから、わたしにとってもうこれ以上の詳細に踏みこむ必要はない。

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 付言すれば、ラピスと同様、最も高次の目標であると同時に、低次の初めの第一物質であるからして、メルクリウスは中間に存する過程でもあり、達成のための手段でもある。彼は「仕事の初めであり、中間であり、その終わりである」[09-06]。それゆえ、彼は<仲保者>(Mediator)[09-07]、<救世者>(Servator)、<救済者>(Salvator)と呼ばれる。彼はヘルメスのごとく仲介者(mediator)である。medicina catholica〔〕やalexipharmakon〔解毒剤〕のように、彼は「世界の維持者(preserver [servator])」である。彼は「あらゆる不完全な身体の治療者[salvator]」[09-08]であり、「キリストの輪廻の表象」[09-09]、「親である両性具有者と本質を同じくする」[09-10]unigenitus〔ひとり子〕である。要するに、自然の大宇宙に内に彼が占める位置は、キリストが神的な啓示のmundus rationalis〔〕の内に占めるそれなのである。しかし、「わが光は、あらゆる他の光を凌駕する」[09-11]という言表が示すように、メルクリウスの主張はさらに遠くまでさえ及び、これが、彼と<神>との完全な対応をしめすために、錬金術師たちが彼に<三位一体>の属性を授ける[09-12]所以なのである。ダンテにおいて、サタンは3頭を有しており、それゆえ三位一体なのである。彼は<神>の正反対という意味で、<神>の対応物である。錬金術師たちは、メルクリウスについてはこの見解を保持しなかった;逆に、彼らは彼を、<神>の自らの存在と調和する神的な放射とみなした。彼らは、彼の、自己生殖、自己変容、自己再生、自己破壊の能力を彼に課したが、その重圧は、彼が被造物であるという観念と矛盾する。それゆえ、パラケルススやドルンが、第一質料は「increatum〔創造されざりしもの〕」、<神>とともに原理的・永遠的に存在すると言明するのは、理屈にすぎない。このcreatio ex nihilo〔無からの創造〕の否定が支持されるのは、初めの<神>の内にTehomは存在したという事実、ティアマートの同じ母系世界によってである。その息子に、われわれはメルクリウスの内で遭遇するのである[09-13]


10.要約

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 メルクリウスの多面的な相貌は、以下のように要約されよう。
 (1) メルクリウスは、考えられるあらゆる反対から成っている。だから、彼はまったく明らかに二重であるが、
 (2) 彼は物質的であるとともに精神的である。
 (3) 彼は、低位にある物質的なものが、より高位にある精神的な、vice versa〔あべこべ〕へと変成する過程である。
 (4) 彼は悪霊であり、救世主的霊魂導師であり、責任逃れする悪戯者であり、肉体的自然における神の反映である。
 (5) opus alchymicum〔錬金術の作業〕と合致するartifex〔精通者〕の神秘的経験の反映でもある。
 (6) かくのごとく、彼は一方では自己自身を表し、他方では個人的な過程と、その名前の無数の数ゆえに、集合的無意識をも表す[10-01]

          ※ ※ ※

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 たしかに金づくりは、一般的に化学的調査もそうだが、錬金術と重要な関わり合いを有する。しかし、もっと大きな、もっと熱心な関心は、—「研究」とはあまり言えないが — むしろ無意識の experience〔経験〕を有していたようにみえる。錬金術のこの側面 — mustikav〔秘儀〕が非常に長い間誤解されてきたことは、ひとえに、心理学について何も知られておらず、もっぱら、超個人的、集合的無意識にまかせられていたという事実のせいである。心理的活動について何も知らない以上、それがとにかく現れれば、それは投影であろう。こうして、心理的な法と秩序の最初の知識は星辰の中に見出され、後には投影によって知られざる事物へと拡張された。これら経験の2つの領域は科学に分岐した:占星術は天文学となり、錬金術は化学となったのである。他方、性格と、時間の天文学的決定との間の特殊な結びつきは、ほんの最近になって、経験科学に接近するあるものへと向かい始めた。真に重要な心的事実は長さも重さも計測され得ず、試験管の中や顕微鏡の下で見られることもできない。それゆえそれらはたぶん確認できない、別の言葉でいえば、彼らは内的感覚を有する人々にまかせなければならなかった、あたかも色彩が示されねばならないのは見える者に対してであって、見えない者に対してではないように。

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 錬金術にみられる投影の蓄積というものは、可能だとしても、ほとんど知られることはなく、綿密な研究をきわめて困難ならしめるさらなる障害がある。というのは、性格の占星術的構成要素なるものは、否定的な場合には、個人にとって、その隣人には面白くても、たいてい不愉快なものであるが、これに似ず、錬金術的投影は、われわれの最高度の理性的信念や諸価値に対して、苦痛な対照 — あるいはむしろ、補償的関係 — の身代わりをする集合的内容を表す。それらは、理性が触れないままに残した究極的な疑問に対して、自然な魂の奇妙な解答を与える。悲しみにみちた現在からわれわれを解放してくれる未来におけるあらゆる過程や信念とは対照的に、それらは原始的なあるもの、明らかに望みなき静的、永遠的事物の影響われわれの優しい信じた世界を、移ろう場面の走馬灯のようにさせる に溯って示す。それらがわれわれに示すのは、われわれの活動の補償的な目標として望む人生、無機的なもの — 石 — 生きているのではなく、単に存在する、あるいは、「やって来る」だけ、反対物の限りなさと測りがたい演技の受動的な対象である。「魂」つまり理性的知性の無神体的抽象と、「精神」つまり無味乾燥な哲学的対話の二次元的隠喩とは、触知可能な息づく身体のように、たいてい物質的、造形的な形で錬金術的投影の中に現れ、われわれの理性的意識の構成部分として機能することを拒む。魂なき心理学の期待は何ものをももたらすことなく、無意識はやっと発見されたばかりだという妄想はむなしい:いくぶん特殊な形においてではあるが、疑問の余地なく知られたのは、およそ二千年のすぐ後である。しかしながら、われわれはみずからを偽らないようにしよう:性格の構成要素を時間の占星術的決定から分離することができる以上に、われわれは無規則な責任逃れするメルクリウスを物事の自律から分離することはできない。ちょっとした投影保有者はいつも投影にしがみつき、われわれが心霊的と認める部分をわれわれの意識への統合にいくぶん成功する場合でさえ、われわれはそれを何らかの宇宙やその物質性に統合するであろう;あるいはむしろ、宇宙はわれわれよりも無限に大きいから、われわれが無機物によって同化されるであろう。「汝自身を生きた哲学的な石に変容せよ!」とある錬金術師が叫んでいるが、彼は石に「なる」ことがいかに無限にゆっくりであるのか知らなかった。錬金術の投影から放射するところの「自然の光」に真剣な思考を与える者は誰しも、その仕事に要求される「際限なき瞑想の退屈さ」について語る師匠にたしかに同意するであろう。これらの投影の中に、われわれは「客観的」精霊、心霊的経験の真の母胎、事物であるものに最も妥当する象徴の現象学を算入する。いかなる場合であれ、事物の振る舞いを密に観察し、その諸法則に意を払うことなしに、これを制御した者はけっしておらず、かれがした範囲でのみ制御できたにすぎない。今日われわれが無意識と呼ぶ客観的精についても同じことが真実である:それは事物のように禦しがたく、非人間的ないしは超人間的であるあまりに、われわれにはcrimen laesae majestatis humanae〔人間に対する反逆罪〕のように見える諸法則に従うのである。もしもひとがこの作業(opus)に手を染めるや、彼は、錬金術師たちは言うように、創造という神の仕事を繰り返す。形なきものとの戦い、ティアマートの渾沌との戦いは、真実、原初の経験である。

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 プシュケーが直接的に経験され、「生きている」実体の状態でわれわれに直面するとき、それは物活化され、それとひとつであるように見えるから、メルクリウスは argentum vivum〔生きている銀〕と呼ばれるのである。意識的弁別、あるいは意識そのものは、身体を霊魂から分離し、精霊-メルクリウスを hydrargyrum から区別するあの世界を震撼させる、われわれの精霊物語の用語で言えば、精霊を瓶の中に引き戻すかのような、あの干渉を引き起こす。しかし身体と霊魂は、技術的な分離にもかかわらず、生の神秘において一致しているから、精霊-メルクリウスは、瓶の中に閉じこめられていても、その精髄や生きたヌーメンとして、依然として樹の根元に見出される。ウパニシャッドの言語をつかえば、彼は樹の個人的アートマンである。瓶の中に隔離されているが、彼は自我と個体化の原理に対応するのであり、インド人の見解では、これは個人的実存の幻影に導くのである。その牢獄から解き放されると、メルクリウスは超人格の性格を帯びる。彼はあらゆる被造物の<ひとつの>物活化原理、hiranyagarbha(黄金の胚)[10-02]、filius macrocosmi〔大宇宙の子〕によって表される超人格的な自己、賢者の<ひとつの>石となる。『ロシヌス〔ゾーシモス?〕からサッラタンタンに』は、意識に対するラピスの心理学的関係の図式化を試みる「哲学者マルス」[10-03]の言葉を引用している:「この石は、忠順という点では汝の下にあり;支配力という点では汝の上にあり;それゆえ、知識という点では汝に由来し;対等という点では汝の傍にある」[10-04]。自己にあてはめれば、これの意味はこうであろう:「自己はおまえに服従するが、たほうでは、依然としておまえを支配する。それはおまえ自身の努力とおまえの知識に依存しているが、おまえを超越し、心をもつあらゆる人々を取り巻いている」。このことが自己の集合的自然本性に関係するのは、自己は人格の全体性を集約するからである。本質的に、全体性が包摂するのは集合的無意識であるが、これは経験が示すところでは、いずこにおいても同一である。

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 瓶の中の精霊と貧しい学生との出会いが描いているのは、盲目でいまだ目覚めざる人間の精神的冒険である。同じ主題が、世界樹に登った豚飼いの主題となっており[10-05]、錬金術のleitmotiv〔中心思想〕を形成してもいる。というのは、それが何を意味するかは、無意識のうちにそれがそれ自身を用意するように、徐々に意識が入ってくる個性化過程である。これのための最も普通の錬金術的象徴は、楽園の知識の樹に由来するところの樹、arbor philosophica〔哲学の樹〕である。ここに、われわれの妖精物語の中におけるように、ダイモーン的なヘビ、悪しき精霊は、知ることへと急かし口説く。聖書の先例を考慮に入れると、精霊-メルクリウスが、控え目に見ても、暗き側面と非常に多くの関連を有していることは驚きではない。彼の面相のひとつは、女性のヘビ-ダイモーン、リリトないしメリュジーナであり、哲学の樹の中に住んでいる。同時に、彼は聖霊に与るだけでなく、錬金術に従えば、実際にそれと同一である。われわれは、精霊-元型の矛盾にわれわれが学んだこの衝撃的な逆説を、選び取るのではなく受け容れねばならない。われわれの曖昧なメルクリウスは、単に真実を確実にするにすぎない。とにかく、この逆説は、創造者の平和で無邪気な楽園を、禁断の林檎とまさに同じ樹に「たまたま」置かれた、明らかにむしろ危険な樹-ヘビの存在で活気づける、気まぐれな考えほどには悪くない。

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 妖精物語と錬金術と、いずれにおいてもメルクリウスをおもに不都合な光の中に示すということは認められねばならないが、それがなおさら顕著である所以は、彼の積極的な相貌が、彼と<聖霊>のみならず、ラピスの形において、キリストとも、さらには三つ組みとして、<三位一体>とさえ、関係するからである。それはあたかも、メルクリウスの暗く、かつ、いかがわしい特性に特別な力点を置くよう錬金術師たちを導いたこれらの関係性があり、彼らがそのラピスによってキリストを本当に意味しているという憶説に対しする強い影響がたしかにあったように見える。もしもこれが彼らの意味であったなら、なぜに彼らはキリストをlapis philosophprum〔哲学者の石〕と名づけなおさねばならなかったのか? ラピスとは、たいてい、物質界におけるキリストの片割れないし譬えである。その象徴は、その実体を構成するメルクリウスのそれのように、心理学的に言えば、キリストの象徴的もそうしているように[10-06]、自己を示唆している。キリストの象徴の純粋性や単一性に比して、メルクリウス-ラピスは曖昧で、暗く、逆説的で、徹底的に異教的である。だからそれは、キリスト教によってはたしかに造型されることのなかった、象徴「キリスト」によってはどんなことがあっても描き出せないプシュケーの部分を表現している。その一方で、われわれが見たように、数多くの方法で、それは悪を指差し、みずからを光の天使に変装していることが時々知られるのである。ラピスが定式化するのは、離れて立ち、自然に結びつけられ、キリスト教徒の精神と争う自己のひとつの相貌である。それが描き出すのは、キリスト教の雛型から排除されてきた物事すべてである。しかし、それらは生きた現実性を有するから、暗きヘルメス的諸象徴によってではくしては、それらを表現することができない。メルクリウスの逆説的な自然本性は、自己の重要な相貌 — すなわち、本質的に それは complexio oppositorum〔〕であり、実際何らかの種類の全体性を描き出す以外には何ものでもありえないという事実を反映しており、事実、何らかの種類の全体性を描き出さないのであれば、何ものでもありえない。メルクリウスはdeus terrestris〔地の神〕として、心理学的自己の本質的要素であるところのあの deus absconditus(隠された神)の何か或るものを有し、自己は<神>-イメージ(議論の余地なく立証しがたい忠誠)から区別されることはできない。ラピスが、諸々の反対を内包する象徴であることを、わたしは強調してきたにもかかわらず、— いわば — 自己のより完全な象徴としての思考であるはずがなかった。それは決定的に間違っていた、というのは、じっさい、その形式と内容は無意識によって大きく決定されるところのイメージであるからだ。この理由で、諸文献の中に完了したよく定義された形式においてはけっして見出されないからである;われわれは、さまざまなアルカナ実体に、メルクリウスに、変成過程と最終産物に、散らばったあらゆる言及を結びつけねばならない。ラピスはひとつふたつの相貌においてはほとんどいつも議論される主題であるにもかかわらず、その実際の形に関しては実際の意見の合意はない。ほとんどすべての著者が、自分自身の特別な譬えを、同意語を、隠喩を有している。このことがはっきりさせるのは、石は、事実一般的な実験の対象であるにもかかわらず、無意識の露出をより大きく広げさえすることができ、主観性の境界線を時折踏み越え、lapis philosophorum〔哲学者の石〕という漠然とした一般的な観念をもたらしたにすぎない、ということである。

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 多少神秘的な教説の薄明に覆われたこの姿とは反対に、教理によって鋭く浮かびあがらされるのが、ひとの息子(Son of Man)にして世界の救世主(Salvator Mundi)、その前に少なき星辰が蒼ざめるところのキリストなる新しき太陽(Sol Novus)である。彼は、三位一体の形における意識の昼光の確認である。キリストの姿はそれほど明澄で明確であるので、彼と異なるものは何であれ劣等であるばかりか、ひねくれて卑しいものに見えざるを得ない。これはキリスト自身の教えの結果ではなく、むしろ彼について教えられる事柄、とりわけ、教理が彼の姿の上に授けた結晶の清浄さの結果である。結果として、かかる反対の緊張状態は、キリスト教の全歴史において、創造の始まりとともに、キリストと、サターンとか堕天使のようなアンチクリストスとの間に起こる以前に起こったことはない。ヨブの時代、サターンはまだ神の息子たちの中にいる。「さて、ある日のこと」とヨブ記1:6で言う、「神の息子たちが来て、主の前に立った、サターンも来て、その中にいた」。天界の親族会の図像は、新約聖書の「サターンよ、退け」(マタイ4:10)の示唆にならず、まして1千年間地界で鎖につながれていたドラゴン(rev. 20:2)の示唆にもならない。一方では、光の過剰は、他方では、それだけますます黒い暗闇を製造したかのようである。ひとはまた、黒い物質の尋常ならざる大きな混乱が罪なき存在をほとんど不可能にしていることを目にすることができる。このそうな存在における愛する信念は、みずからに黒い汚物の家をきれいにすることを含むのは自然である。しかし汚物はどこかに投げ捨てられなければならないが、汚物はどこにあろうとあらゆる可能な世界の最善なものをさえ悪臭で苦しめるであろう。

291
 原初の世界の均衡は覆った。わたしが言ってきたことは、批判をこころざしたものではない。というのは、わたしが深く確信しているのは、容赦のない論理のみならず、この発展の適否もだからである。正反対のものらに対する感情移入的差異化は、より鋭い弁別と同義であり、つまりは、意識の何らかの拡張ないし高進のための sine qua non〔それなしには有る能わざる(必須条件)〕である。意識の前進的差異化は、人間の経歴の最も重要な課業であり、したがって、最も高い報酬 — 広範に増加する生き残りの好機、動力技術の発展と出合う。系統発生論の見地からいって、意識の効力は、肺呼吸や温血のそれ同様、遠大である。しかし、意識の純化は、必然的に、意識的となる能力のあまりないプシュケーのあの薄暗くする諸要素の掩蔽をともなう、その結果、遅かれ早かれ、心霊組織に分裂が出現する。それは投影というほどのものとは認識されず、光の諸力と暗黒の諸力との間の形而上的分裂という形で現れる。この投影の可能性は、どの時代においても、光と暗黒との元来のダイモーンたち無数の古典的な痕跡の現前によって保証される。それゆえ、キリスト教における正反対のものらの緊張は、古代ペルシアの二元論から、両者は同一でないにもかかわらず、いまだ浄化されていない程度まで導き出されるのである。

292
 キリスト教発展の道徳的成り行きが、古代イスラエルの律法宗教と比較して、非常に重要な進展を表していることに疑いの余地はない。共観福音書のキリスト教が表明しているのは、ユダヤ教内部の問題点と折り合いがつく以上の何ものでもない、それは、公平にみて、ヒンドゥー多神教内部での最初期仏教の改革と比べられよう。心理学的に、どちらの改革も意識のとてつもない強化に帰着した。これは、部分的には、釈迦牟尼によって従事された産婆術的方法において明白である。しかしイエスの言葉は、この種の最もはっきりした形式を外典・偽典として破棄しようとも、同じ傾向を表明しているのが、Codex Bezae 中のルカ第6章4節に対応する語録である:「ひとよ、もしも汝が汝のなしていることを知ってなしているのであれば、汝は祝福されている。しかしもしも汝が知らずになしているのなら、汝は呪われており、律法違反者である」。何にせよ、不正な執事の譬え(ルカ16章)は、それがうまく適合する黙示への道を見出さないのである。

293
 形而上的世界の裂け目が人間のプシュケーの中における分裂として意識の中にゆっくりと立ち現れ、光と闇の戦いが、内なる戦闘の場に移動する。場面の移りゆきが完全に自明というわけではないのは、聖イグナティウス・ロヨラが、その葛藤にわれわれの目を開かせ、最も徹底的な霊的修練の方法によってわれわれの感覚にそれを印象づける必要ありとした所以である[10-07]。これらの努力は、明らかな理由で、非常に限定された範囲の適用を持ったにすぎない。そういうわけで、充分奇妙なことだが、19世紀の変わり目に、介入を余儀なくされ、妨害された意識の過程に再び実現をえさせたのは、医者であった。この問題に科学的角度から、何ら宗教的目的なしに接近し、フロイドはひとりよがりに照明された楽観主義が、隠蔽すべく奮闘した人間的自然本性の深い闇を暴露した。以来、心理療法は、ひとつないし他の形によって、わたしが影と呼んできた闇の広大な領域を粘り強く開拓してきた。現代科学のこの試みは、ほんのわずかの目を開いた。しかしながら、われわれの時代の歴史的事件は、ひとの心霊的現実の絵を、血と火の消えざる色彩で描き、もしも — そしてこれこそ大いなる疑問なのだが — 彼が決して忘れることのできない客観的課業を与えた 他の唯一の希望は、物質的な力の開拓においてそれ自身を消耗する創造性に轡をつける方法を学ぶということである。不幸にも、その方面におけるあらゆる試みは血の通わぬユートピアのように見える。

294
 キリストの姿であるロゴスは、ひとの内なるanima rationalis〔〕を、それがkuvrioV、つまり、<精霊たちの主>の下にあって、これに服従することをみずから知っているかぎりにおいて、当たり障りのないものとしてとどまるという重要性の水準にまで引き上げた。しかしながら理性は、みずからを解放し、みずからを支配者として公言した。それはノートルダム寺院の中にDéesse Raison〔理性の女神〕として王座に就き、来たるべき出来事を布告している。われわれの意識は、もはや他界的・終末論的な表象の聖別された境内に幽閉されてはいない。自由の破壊を助けたのは、上から下へと — lumen de lumine〔〕のように — 流れ下るのではなく、すさまじい圧力でもって下から上り、意識が闇から身を引き離すように、力ずくで増大し、光の中に登ってきた暴力である。自然の全体を貫通する補償の原理に従って、あらゆる心霊的発展は、個別的であれ集合的であれ、度を超えるとき、enantiodromiaをつくりだす、つまり、その反対側へと反転するという最適条件を(optimum)を保持する。無意識から放散する補償的傾向は、批判的な転回点に接近する間にさえ注目される。もしも意識がその走路に固執するなら、彼らは完全に抑圧されるにしてもである。闇の中における興奮は、必然的に精神的発展の理想の悪魔的な裏切りのように見える。理性は、これを否認する、あるいは、その諸々の律法から逸脱するあらゆることを、そうでないことは自明であるにもかかわらず、非理性的として非難を助けることはできない。道徳性は変化を受け容れることをみずからに許せない、というのは、何であれ一致しないものは当然不道徳であり、それゆえ抑圧しなければならないからである。このような意識の統治下、無意識の中に流れ出なければならない精力の多さを想像することは困難ではない。

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 ためらいながらではあるが、夢の中でのように、数世紀におよぶ内省的な抱卵は、メルクリウスの姿を徐々に寄せ集め、心理学的な諸法則のすべてに従いつつ、キリストとの埋め合わせの関係の中に立つ象徴を創造した。それは彼の位置を取ることを意味せず、彼と同一化するのでもない。というのは、そのときそれは実際に彼に取って代わることができたからである。その経験は補償の法則のおかげであり、その目的は、キリストのイメージに対する微妙な補償的対位法を提起することによって、2つの心理学的世界を隔てる深淵に架橋することである。『ファウスト』における補償的姿は、作者の古典的な好みから大体期待できるとおり、神々の狡猾な使者ではなく、「メフィストフェレス」という名前が示すように[10-08]、中世の魔法の汚水貯めから立ちのぼったfamiliaris〔〕が、どちらかといえば、ゲーテの意識根深いキリスト教徒としての性格を証明している。キリスト教的心性にとって、暗い対話者は常に悪魔である。わたしが示したように、メルクリウスは間一髪のところでこの先入観をのがれる。しかし彼がそれをまぬがれるのは、彼がどんな犠牲を払ってでも反対しつづけることを軽蔑するという事実のおかげである。彼の名前の魔法が、その曖昧さと二重性にもかかわらず、彼を分裂に加わらないでいさせる所以は、古代の異教の神として、彼は、論理的かつ道徳的な否定を受けつけない自然な不分割性(undividedness)を所有するからである。これが彼に難攻不落性と不滅性、まさしくわれわれがわれわれの内なる分裂を癒すべく熱烈に必要とする諸々の性質を与えるのである。

296
 もしも、以上すべての記述と、メルクリウスの錬金術的図像との梗概をつくるひとがいるなら、それらは他の典拠から導き出された自己の象徴と際立った並行を形成するだろう。メルクリウスはラピスとして、わたしが自己として規定した心理学的複合(complex)を象徴的に表現するという結論をまぬがれることはほとんどできない。同じように、キリストの姿が自己象徴と見なされなければならないのも、同じ理由による。しかし、このことは解きがたい矛盾へと導く、というのは、いかにして無意識が2つのこのような異なった形象を1つの同じ内容から形づくり、さらには全体性の性格を所有するかは、初めは明白ではないからである。たしかに、数世紀間はこれら2つの形象の上にその精神的な仕事をなしてきたし、同化作用の過程の間、大きな尺度の中で人格化されてきた。どちらの形象も知性の発明であるとみなす人々にとっては、矛盾はすみやかに解ける。それで、主観的な心霊的状況を反映するにすぎない:2つの形象はひととその影とを意味する。

297
 この非常に単純・明快な解答は、不幸にも、批判には立ち向かわないという前提に立っている。キリストと悪魔の形象はどちらも原型的様式に依拠しているが、発明されたことはなく、むしろ経験された(experienced)のである。それらの存在は、それらの認識すべてに先行し[10-09]、知性は、それらを同化し、出来れば、その哲学の中にそれらの位置を与える以外、物質に首を突っこむことはなかった。ただ、最も超越的な知性主義のみが、この基礎的な事実を見過ごすことが出来る。われわれは、実際的に、自己の2つの異なった形象に直面しているのであり、これらは、十中八九、その根源的な形の中にさえ、二重性を差し出している。この二重性は発明されたのではなく、自律的な現象なのである。

298
 われわれは、自然本性的に、意識の見地から思考するから、われわれは必ずや、意識と無意識との分裂がこの二重性の唯一の原因だという結論に達する。しかし経験は前意識的な心霊的機能と、対応する自律的な要因つまり元型の存在を要求してきた。ひとたびわれわれが、精神異常の音声や妄想や恐怖症や神経症患者の強迫観念が理性的な制御を逸脱しているという事実、また、自我は夢を自由意志ででっち上げることはできず、単にねばならないことを夢みるにすぎないという事実を受けとることができるや、その時われわれはまた、神々が先ずやって来て、しかる後に神学ができるのだということを理解することができる。実際、われわれは歩みをさらに進め、初めに2つの姿があり、1つは光り輝き、1つは影をなす、そうしてその後に意識の光が、夜と、その星辰の不確かなひらめきとをみずから分離したにすぎないと臆断せざるをえない。

299
 そこで、もしもキリストと暗き自然神とが、直接的に経験され得た自律的な表象であるとするなら、われわれはわれわれの合理的因果関係の転倒を余儀なくされ、われわれの心霊的状態をこれらの形象から引き出さねばならない。このことは多大な現代的知性を期待するが、われわれの仮定の論理を変更することはない。この見地から、キリストは意識の元型として、メルクリウスは無意識の元型として現れる。クピドーやキュッレーニオスのように、彼はわれわれを感覚の世界に誘い出す;彼は早春の benedicta viriditas〔〕にして multi flores〔〕、幻想と妄想の神であるが、彼についてただしくもこう言われている:

Invenitur in vena
Sanguine plena
(彼は血あふれる血管にあり)

同時に彼はヘルメス・クトニオスにしてエロースであり、しかも、「あらゆる光を凌駕する光」lux moderna〔現代の光〕が流れ出すのは、彼からである。というのは、ラピスは物質に覆われた光の形象以外の何ものでもないからである[10-10]。聖アウグスティヌスが第1テサロニケ第5章5節を引用するのは、この意味においてである、「あなたがたはみな光の子ども、昼の子どもなのだ:われわれは夜の子でも、闇の子でもないのだ」。そうして、知識の2つの形式、cognitio vespertina〔黄昏の認識〕と cognitio matutina〔明け方の認識〕とを区別するのだが、前者は scientia creaturae〔〕に対応し、後者は scientia Creatoris〔〕に対応する[10-11]。もしもわれわれが cognitio〔認識〕を意識と同等視するなら、その時アウグスティヌスの考えは、単なる人間的で自然な意識は徐々に暗くなり、日暮れ時のようになることを示唆しているであろう。しかし、夕暮れが朝に誕生を与えるように、暗闇からは新しい光、stella metutina〔明けの明星〕が昇るのであり、宵の明星は同時に明けの明星 — ルシファー、光をもたらす者である。

300
 メルクリウスはけっしてキリスト教の悪魔ではない — 後者はむしろルシファーあるいはメルクリウスの「悪魔化」であると言われることができよう。メルクリウスは初発の光をもたらす者の面影であり、当人が光というわけではないが、自然の光、新しい朝の前にうすれゆく月や星辰の光をもたす者、つまり、fwsfovroVである。この光について、聖アウグスティヌスは言う、それは創造者がその被造物の愛に見捨てられぬかぎり闇へと変ずることはない、と。しかしこのことはまた、昼と夜の律動に属する。ヘルダーリンが『Patmos』の中で言っているとおりである;

      しかも荒々しい力は
恥じもなくわれらの心を奪い取る、
それも天上の神々はすべて犠牲を求めるからだ。
しかし一事がなおざりにされたとき
けっして良い実の結ばれることはなかった。
               (手塚富雄・浅井真男訳)

301
 あらゆる可視的な光が消え失せたとき、賢者ヤージュニャヴァルキヤの言葉どおり、ひとは自己の光を見出す。「しからば、ひとの光とは何か? 自己がその光である。自己の光によって、ひとは休息し、前進し、その仕事をし、帰ってくる」[10-12]。かくして、アウグスティヌスによれば、創造の第1日目は自知、cognitio sui ipsius〔己自身の認識〕[10-13]に始まる。これの意味するところは、自我の知ではなく、自己、つまり、自我がその主語となるところの客観的現象[10-14]の知である。それから、創世記における創造の日々の順序に従い、天空の知、大地、海、植物、星辰、水中と空中の動物たちの知、そうして最後、6日目に、陸の動物とipsius hominis、人自身の知がやって来る。このcognitio matutina〔黎明の知〕は自知であるが、cognitio vespertina〔黄昏の知〕はひとの知である[10-15]。アウグスティヌスがこれを記しているとおり、cognitio matutina〔黎明の知〕は「よろずの物事」の中に自身を失うように徐々に古くなり、ついには、自知の開始とともに始まっていることを期待するだろうけれど、ひとになる。しかし、もしもこれが真実なら、アウグスティヌスの譬えは、自己矛盾によってその意味を失うであろう。このような明らかな欠落が、ひとへの贈り物と述べることはできない。彼の真の意味は、 scientia Creatoris〔創造の知〕とは、意識が無意識の闇の中にまどろみ、包まれている夜の後に闡明される朝の光だということである。しかし、最初の光とともに昇る知識は、最終的に、かつ、必然的に scientio hominis、つまり、ひとの知となり、彼は自身に問う:「あらゆることを知り、理解しているのは誰か? むろん、それはわたし自身だ」。これが表明するのは闇の到来であり[10-17]、そこから第7日め、つまり休息の日が立ち上がる:「しかし神の休息は、神に休息するところの者たちの休息を意味する」[10-18]。それゆえサッバトとは、ひとが神に帰り、cognitio maturina の光を新たに受けとる日のことである。そしてこの日には夕べはない[10-19]。この象徴的な見地から、アウグスティヌスが週日の異教的名称を念頭においていたということは、重要でないことはないかも知れない。増大する闇は、ウェヌスの日(金曜日)にその最高の明暗度に達し、サトゥルヌスの日にルシファーに変化する。土曜日〔サトゥルヌスの日〕は日曜日にこぞって現れる光を告知する。わたしが示したように、メルクリウスはウェヌスに密接に関連するのみならず、とりわけサトゥルヌスに関連する。メルクリウスとして彼は juvenis〔青年〕であり、サトゥルヌスとしてsenex〔老人〕である。

302
 わたしには、アウグスティヌスは大いなる真理を察知した、つまり、あらゆる精神的真理は、何らかの物質へと徐々に移行し、人の手にする道具以上にはならないように思われる。結果として、人は認識我として、然り、創造者としてさえ、その命令に対する無制約な可能性をもって、自分自身を見ることをほとんど避けられない。錬金術とは基本的にこの種の人物であるが、現代人とそれほど変わるわけではない。錬金術師なら、「われらの心の恐ろしい闇を浄めたまえ」と祈ることもできたが、現代人はあまりに暗すぎて、自分自身の知性の光を超えて自分の世界を照らすものが何もない。「キリストの好機は、キリストの受難(Occasus Christi, passio Christi)」[10-20]。これこそが、大いに讃えられるわれらの文明にかくも奇妙なこと、何らかの普通の黄昏よりもGötterdämmerung〔神々の黄昏〕ようなことが起こっている所以である。

303
 メルクリウス、2つの顔をもったこの神が、lumen naturae〔自然の光〕として、救主(Servator)にして救世主(Salvator)としてやって来るのは、かつて人によって受けとられた最高の光をめざしてその理性が懸命になる人たち、そうして、cognitio vespertina〔黄昏の〕にはむやみに信を置かない人に対してだけである。というのは、この光に無頓着な人々は、lumen naturae を危険な ignis fatuus〔〕に変え、霊魂導師を悪魔的な女たらしに変えるからである。ルシファーは、光をもたらすことのできた者であるが、嘘偽りの父となり、その声は、われわれの時代にあっては、新聞やラジオに助けられて、プロパガンダの狂宴に耽り、数えきれぬ数百万もの人々を破滅へと導いているのである。

2015.04.30. 訳了。

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