古代ギリシアの住居
便所の歴史というのは、どうも、ひどく断続的であるらしい。というのは、考古学の知見は、紀元前2200年ころ、シュメールのテル・アスマルで、すでにかなり発達した水洗式腰かけ便器が使用されていたらしいことを教えてくれる。 唐突ながら、ウンコのことを古代ギリシア語で"kopros"という。これは家畜のウンコと人間のウンコとを区別しない。 ウンコを「集める」ということを人間が思いつくには、二つの契機があったと考えられる。 古代ギリシアでは、ホメロスの時代に、厩肥が肥料として利用されていたことをうかがわせる記述がある。―― この頃はもうまったく捨ておかれて、主人もでかけて帰って来ぬまま、 アリストパネスの喜劇『平和』の冒頭に、まさしくウンコの山が出てくるが、主人公トリュガイオスはアッティカの農夫、場面はトリュガイオス家の門口であるから、これは堆肥のことだとみてよかろう。"kopros"は、したがって、家畜のウンコと人間のウンコを区別せず-->ウンコの山(堆肥)をも意味し-->さらにそれを肥料としたこと、をも意味していたと考えてよい。 ところで、『平和』の同じ箇所に"antlia"という言葉が出てくる(Pax. 17, 18)。この語は、もとは船の底にたまる水垢を原意とし、諸家は「肥溜(こえだめ)」と訳している。とすると、何か木製の(あるいは、木製でなくとも)船の形をした一種の「溜め」の設備があったのであろうか……? そして、古典期のギリシア人は、すでに下肥を屎と尿とを分けるという知恵を持っていたのであろうか……? というのは、人間の排泄物を肥料として利用することがとくに発達したのはアジア地域であるが、しかし、その歴史はかなり新しいからである〔日本において人糞尿の施用が文献的に確認できるのは、『延喜式』(927年)である――楠本正康『こやしと便所の生活史:自然とのかかわりで生きてきた日本民族』(ドメス出版、1981.4)p.29-30。まして、屎を基肥、尿を追肥として、二毛作を発展させるのは、鎌倉以降である(同 p.39)〕。 とはいえ、時代はかなりくだるが、大プリニウスも、下肥については縷説しており(『博物誌』第17巻47.2-54.5)、下肥に関する古代人の知識は、相当に深いものがあったと想像できる。しかし、人糞尿をどのように溜め、どのように運搬したのか、その詳細を知るすべをわたしたちは持っていない。左の画像は、当時の農家の見取り図であるが、日本風に言えば「母屋」を、居間と家畜小屋が分け合っていることが注目される。古代ギリシア人にとって、家畜は最も貴重な財産であったから、ホメロス時代の屋敷においても、最も奥まった場所〔"thalamos"〕に囲いこまれるのが普通であった。とすると、家畜小屋ないし家畜の囲い場が、そのまま人間さまの便所を兼用していたのかもしれない。そして、それは便所の歴史で最もありふれた姿であった。 アリストパネスの喜劇『平和』の冒頭で、もうひとつ注目されるのは、ウンコを集めることを仕事とする人間が登場していることである。9行目の"koprologoi"がそれで、文字どおり、「ウンコ集め人」〔複数〕の意である。 「下肥というのはすくなくとも日本ではたんなる自給肥料ではなく、おそらくは近世都市が発達してきた戦国・織豊時代以降は金肥(購入肥料)であった。そして明治中期ぐらいまではそれは貴重な肥料だったから、都市周辺の農家は汲み取りをさせてもらう都市の家にたいしては、金は払わないまでも大根だの菜っぱだのをお礼にもって来たといわれている。とくに江戸=東京の吉原とか柳島とか、京都の祇園・島原とか、遊郭や料理屋が多く、ご馳走や酒が大量に消費されるところの下肥は肥効が高いというので引張り凧にされていたらしい。 こういった幸せな循環サイクルは、しかし、都市への過度の人口集中によって破られることになる。古典期アテナイにおいて、この循環サイクルが破られたのは、ペロポンネソス戦争によってペリクレスが採った籠城作戦によってであった。狭い市壁の中に人々はあふれ、蝟集した人々の排泄する屎尿は、たちまちにして、それまでの処理能力をうわまわってしまった。かくて、前429年夏、ツキュディデスは伝染病の発生を西洋で初めて記録することになるのである。 都市生活者にとって、糞尿は厄介物以外の何ものでもない。しかし、都市生活者がいかにして排便・排尿し、いかにしてそれを処理していたか、アリストパネスの作品に何カ所かの言及はあるものの、これを具体的に想像することは、それほど容易ではない。 まず、便所は屋内にあったのか、屋外にあったのか? それとも、そもそも便所という設備があったのか?…… そこでね、〔姦夫が合図をよこしたので〕すぐそれとさとりましてね、そいからこっそり降りてゆこうとすると、宿六がきくんですよ、「どこへお前降りてくんだ」って。「どこって癪の気でとてもお腹がいたむんですのよ、あなた、ですからちょっとはばかり(kopron)へ行って来ます」「じゃおいで」っていうんで、やどが扁柏の実やはこべや鼠尾草の実をつぶしてるまに、私は(軋まないよう)枢(とぼそ)に水を注しといてから姦夫のところへやって来ましたの、そいで道祖神のそばで抱かれたんですの、桂の木につかまってそっとね。 ここからすると、都市の住居にあっては、「コプローン(kopron)」は屋内にあったと考えられるが、しかし、それはけっして常設の設備ではなく、陶器製の虎子(おまる)のようなものが置かれていた場所をさすのではないか。そして、これを使用するのはおもに女性で、男性は、夜間、急場しのぎで用いるだけで、ふつうは、屋外で用を足すことが多かったのではないかと想像する。 次にテーバイに行くと、そこでは夜は夜じゅう、昼は昼じゅう、食事をしていて、めいめいが戸口のところに"kopron"を持っている。死すべき者にとってこれにまさる大きな善はない。 便器を近くに置いて食いつづけているということであろう。「めいめいが」というところに注目したい。これによれば、「コプローン(kopron)」は、もともとは場所の意味ではなく、もの(便器)をさしていたのが、やがて、そのもの(便器)が置かれている場所をもさすようになったのではないか。そして、場所をさすようになっても、その場所に置かれていたのは、簡易便器だったのではないか、というのがわたしの推測である。 左の画像は、アミス(amis)と呼ばれる陶器製便器である。大きさ20Cmばかり、明らかに!男性用であろう―― アテナイの淑女はいざ知らず、紳士諸君は野グソ立ち小便がフツウーだったのではないかと思われる根拠として、アリストパネスの猥雑な喜劇作品とは別に、ヘロドトスの『歴史』第2巻35章を引用しておきたい(あまり確かな証拠にはならないが……)―― 「エジプト人はこの国独特の風土と他の河川と性格を異にする河とに相応じたかのごとく、ほとんどあらゆる点で他民族とは正反対の風俗習慣をもつようになった。……小便は女は立ってし、男はしゃがんでする。一般に排便は屋内でするが、食事は戸外の路上でする」 エジプトをいわゆる「逆さまの世界」として描き出そうとの魂胆が見え見えであるが、それだけに、これをもう一度逆にすれば、ギリシアの風俗習慣を見いだすことができるはずである。〔西アジアでは、大小便は水で洗うため、男は小便もしゃがんでするのが作法であるらしい。――岡崎正隆「トイレはモスクで」(『アジア厠考』p.196〕 さて、簡易便器の汚物は、どのように処理したのであろうか? これが最もはっきりしない点である。 栄光のアテナイには、さすがに、先に述べたように、ウンコを集める人間がいた。 また十人の市域監督官(アステュノモイ)があり、このうち五人はペイライエウスを、五人はアテナイ市域内を取り締まる。彼らは……汚物集め人(koprologoi)が城壁から十スタディオン〔約1770メートル〕以内に汚物を棄てぬように監督する。また道路に建築することや道路上に露台を差し出すことや道路へ向けてはけ口のある樋を造ることや道路に面して窓を開くことを禁止する。また国有奴隷である手下を従えて道路上で死亡する者を取り片づける。 禁止令があるということは、それらの禁止内容が往々にして破られていた事実があることを物語っていると言えよう。簡易便器の汚物は、テキトーに棄てられていたと考えられる。アテナイの小路がいかに不潔・不衛生であったかは、よく言われるところである。アリストパネスも、「雪隠(koproi)と糞垂れ小路(laurai)」(Pax. 99)と呼んでいる。小路(laura)がそのまま便所=下水溝(laurai="laura"の複数形)だったのである。 〔中国の〕家屋は、いわゆる閨房という作りかたで、親は、その娘の部屋にも自由に入れない〔これは、古典期のアテナイでも同じ〕。これらの女は、そっと自分の房に便器をそなえておくのである。男は、茅厠や院子裏の隅でも平気であるが、女はそうはいかない。そこで、室の一隅に幕でもひき寄せて、そこで溺器(にょうき)を使う。……この壺は、調度の重要な品であるから、嫁入りにも持参させられる。それは極めて大きな木製のふたのついたもので、表面は朱塗り、内部は黒塗りで一生使える。……また陶器などでできたものは、焼きといい、色といい、触感といい、なかなかこっている。日清戦争のとき、それとは知らずわが兵士たちが、古道具屋の店さきで買って帰り、床の間の花生けにしたという失敗談も多く残っているのはそのためである。 時代も場所も異なるけれども、おそらく、同じような光景が、アテナイでも繰り広げられていたのではなかろうか? そして、「汚物集め人(koprologoi)」は、その集めたウンコを「棄て」たとのみ書いたアリストテレスは、ウンコの最終的な行く末について、あまり関心がなかったものと思われる。 余談ながら、日本の場合、近郊農家が頭をさげてウンコをもらい受けていた時代から、都市住民が頭をさげて(ということは、金を払って)ウンコを集めてもらう時代へと変わったのは、そんなに遠い昔ではない。まして、都市屎尿が農地還元できなくなり、野山や海へ投棄するようになったのは、1950年代中頃以降、およそ20年間である。「この期の後期に農村でもクソを担ぐ農民がいなくなった。1960年代中頃から70年代にかけてである。低廉な化学肥料の出回りのためである。……循環システムが働かなくなり、大量のものを投棄すなわち、出物生産者のところから即時に切り離し、排除する方法しかとれなくなったのだ。下水道が整備されていなかったので、山野や海へ投棄し、埋めていたのだ。ここに来ると、無価値なものどころではない。金食い虫になり始める」(『アジア厠考』p.41-42)。 |