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back.gif古代ギリシアの住居


古代ギリシア案内

古代ギリシアの衣・食・住

[補説]古代ギリシアの便所






 便所の歴史というのは、どうも、ひどく断続的であるらしい。というのは、考古学の知見は、紀元前2200年ころ、シュメールのテル・アスマルで、すでにかなり発達した水洗式腰かけ便器が使用されていたらしいことを教えてくれる。
 また、旧約聖書によると、モアブ人の王エグロンは、イスラエル人をいじめたために、刺客エホデによって暗殺されたが、それがどうやら便所の中で、その便所はやはり腰掛け式であったらしい(『士師記』第3章)。
 しかし、こうした利器が、ギリシア時代に引き継がれた形跡はないし、まして、それが庶民のウンチング・スタイルを向上させたという形跡は、つゆほどもない。庶民は、ただ、したいところにしゃがみこんで、用を足していたものと思われるし、それはギリシア時代においても同様であったはずである。

 唐突ながら、ウンコのことを古代ギリシア語で"kopros"という。これは家畜のウンコと人間のウンコとを区別しない。
 これの派生語"kopron"〔コプローン〕は、一応、便所を意味するらしい。一応というのは、その便所なるものがどういうものか、どうもはっきりしないからである。

 ウンコを「集める」ということを人間が思いつくには、二つの契機があったと考えられる。
1)肥料として農地に還元する。
2)居住地の集中化により、そこいらあたりにほかすというわけにいかなくなった。
この二つの契機は、シロウト考えながら、どちらが先とも言えないぐらい、密接に関係していたのではないかと思う。

 古代ギリシアでは、ホメロスの時代に、厩肥が肥料として利用されていたことをうかがわせる記述がある。――
 オデュッセウスの飼い犬アルゴスは、主人がトロイア攻めに出かけていってこのかた、杳として行方知らず、世話してくれる者とてなく……

この頃はもうまったく捨ておかれて、主人もでかけて帰って来ぬまま、
おびただしい"kopros"のなかに臥(ね)そべっていた、それは門口のすぐ前に
騾馬やら牛やら落としたのが、いっぱいそのまま積もっていたもの、
オデュッセウスの下僕たちが、広い荘園へ肥料にと("kopresontes")運んでいくまで。
 (呉茂一訳『オデュッセイア』第17巻296-299)

 アリストパネスの喜劇『平和』の冒頭に、まさしくウンコの山が出てくるが、主人公トリュガイオスはアッティカの農夫、場面はトリュガイオス家の門口であるから、これは堆肥のことだとみてよかろう。"kopros"は、したがって、家畜のウンコと人間のウンコを区別せず-->ウンコの山(堆肥)をも意味し-->さらにそれを肥料としたこと、をも意味していたと考えてよい。

 ところで、『平和』の同じ箇所に"antlia"という言葉が出てくる(Pax. 17, 18)。この語は、もとは船の底にたまる水垢を原意とし、諸家は「肥溜(こえだめ)」と訳している。とすると、何か木製の(あるいは、木製でなくとも)船の形をした一種の「溜め」の設備があったのであろうか……? そして、古典期のギリシア人は、すでに下肥を屎と尿とを分けるという知恵を持っていたのであろうか……? というのは、人間の排泄物を肥料として利用することがとくに発達したのはアジア地域であるが、しかし、その歴史はかなり新しいからである〔日本において人糞尿の施用が文献的に確認できるのは、『延喜式』(927年)である――楠本正康『こやしと便所の生活史:自然とのかかわりで生きてきた日本民族』(ドメス出版、1981.4)p.29-30。まして、屎を基肥、尿を追肥として、二毛作を発展させるのは、鎌倉以降である(同 p.39)〕。

farm.gif とはいえ、時代はかなりくだるが、大プリニウスも、下肥については縷説しており(『博物誌』第17巻47.2-54.5)、下肥に関する古代人の知識は、相当に深いものがあったと想像できる。しかし、人糞尿をどのように溜め、どのように運搬したのか、その詳細を知るすべをわたしたちは持っていない。左の画像は、当時の農家の見取り図であるが、日本風に言えば「母屋」を、居間と家畜小屋が分け合っていることが注目される。古代ギリシア人にとって、家畜は最も貴重な財産であったから、ホメロス時代の屋敷においても、最も奥まった場所〔"thalamos"〕に囲いこまれるのが普通であった。とすると、家畜小屋ないし家畜の囲い場が、そのまま人間さまの便所を兼用していたのかもしれない。そして、それは便所の歴史で最もありふれた姿であった。

 アリストパネスの喜劇『平和』の冒頭で、もうひとつ注目されるのは、ウンコを集めることを仕事とする人間が登場していることである。9行目の"koprologoi"がそれで、文字どおり、「ウンコ集め人」〔複数〕の意である。
 主人公のトリュガイオスは、巨大なフンコロガシ〔"kantharos"、いわゆるスカラベである〕を養うために、多量のウンコを必要とした。"koprologoi"は、その需要に応えようとしたものらしい。"koprologoi"と百姓とのつながりを示していると言えないであろうか……?

「下肥というのはすくなくとも日本ではたんなる自給肥料ではなく、おそらくは近世都市が発達してきた戦国・織豊時代以降は金肥(購入肥料)であった。そして明治中期ぐらいまではそれは貴重な肥料だったから、都市周辺の農家は汲み取りをさせてもらう都市の家にたいしては、金は払わないまでも大根だの菜っぱだのをお礼にもって来たといわれている。とくに江戸=東京の吉原とか柳島とか、京都の祇園・島原とか、遊郭や料理屋が多く、ご馳走や酒が大量に消費されるところの下肥は肥効が高いというので引張り凧にされていたらしい。
 (大野盛雄・小島麗逸編著『アジア厠考』勁草書房、1995.4.、p.12-13)

 こういった幸せな循環サイクルは、しかし、都市への過度の人口集中によって破られることになる。古典期アテナイにおいて、この循環サイクルが破られたのは、ペロポンネソス戦争によってペリクレスが採った籠城作戦によってであった。狭い市壁の中に人々はあふれ、蝟集した人々の排泄する屎尿は、たちまちにして、それまでの処理能力をうわまわってしまった。かくて、前429年夏、ツキュディデスは伝染病の発生を西洋で初めて記録することになるのである。
 この伝染病は2年にわたってアテナイを襲い、栄光のアテナイ人たちの道義までもを廃れさせたと、ツキュディデスをして嘆かせている〔『戦史』第2巻47章以下参照〕。

 都市生活者にとって、糞尿は厄介物以外の何ものでもない。しかし、都市生活者がいかにして排便・排尿し、いかにしてそれを処理していたか、アリストパネスの作品に何カ所かの言及はあるものの、これを具体的に想像することは、それほど容易ではない。

 まず、便所は屋内にあったのか、屋外にあったのか? それとも、そもそも便所という設備があったのか?……
 初めに記したように、便所(place for dung, privy)を意味するギリシア語「コプローン(kopron)」はあった。そしてアリストパネスも、人妻(に化けたムネーシコロス)が密通の自慢話する箇所で、次のように言わせている――

そこでね、〔姦夫が合図をよこしたので〕すぐそれとさとりましてね、そいからこっそり降りてゆこうとすると、宿六がきくんですよ、「どこへお前降りてくんだ」って。「どこって癪の気でとてもお腹がいたむんですのよ、あなた、ですからちょっとはばかり(kopron)へ行って来ます」「じゃおいで」っていうんで、やどが扁柏の実やはこべや鼠尾草の実をつぶしてるまに、私は(軋まないよう)枢(とぼそ)に水を注しといてから姦夫のところへやって来ましたの、そいで道祖神のそばで抱かれたんですの、桂の木につかまってそっとね。
 (呉茂一訳『女だけの祭』482-489)

 ここからすると、都市の住居にあっては、「コプローン(kopron)」は屋内にあったと考えられるが、しかし、それはけっして常設の設備ではなく、陶器製の虎子(おまる)のようなものが置かれていた場所をさすのではないか。そして、これを使用するのはおもに女性で、男性は、夜間、急場しのぎで用いるだけで、ふつうは、屋外で用を足すことが多かったのではないかと想像する。
 「コプローン」は便をする場所ではなく、便器のことをいうのではないかという証拠として、エウブウロス〔前4世紀の喜劇作家〕の『ケルコプス』の次の箇所を挙げたい。――

次にテーバイに行くと、そこでは夜は夜じゅう、昼は昼じゅう、食事をしていて、めいめいが戸口のところに"kopron"を持っている。死すべき者にとってこれにまさる大きな善はない。
 (アテナイオス『食卓の賢人たち』第10巻417d に引用)

 便器を近くに置いて食いつづけているということであろう。「めいめいが」というところに注目したい。これによれば、「コプローン(kopron)」は、もともとは場所の意味ではなく、もの(便器)をさしていたのが、やがて、そのもの(便器)が置かれている場所をもさすようになったのではないか。そして、場所をさすようになっても、その場所に置かれていたのは、簡易便器だったのではないか、というのがわたしの推測である。

amis.gif 左の画像は、アミス(amis)と呼ばれる陶器製便器である。大きさ20Cmばかり、明らかに!男性用であろう――
と書いて、すぐに発言を撤回しなくてはならないらしい……。というのは、『女だけの祭』で、女に化けた先ほどのムネーシロコスが次のように口走るのである――
 「クセニュラが"skaphion"をくれってったわ、"amis"がなかったもんで」(633)。
 この箇所、たとえば呉茂一は、"skaphion"を「大盃」と訳し、急場しのぎに酒盃で尿瓶の代用をしようとしたように読めるのだが、L&Sによれば、"skaphion"は女性用の便器(woman's chamberpot or nightstool)とのことである。???
 "amis"は便器一般をさしたのか、それとも、男性用便器が"amis"、女性用便器が"skaphion"だったのか? 問題の箇所として提起しておきたい〔"skaphion"は"skaphe"の縮小辞。"skaphe"は舟形の浴槽のようなものを指したから、"skaphion"はちょうど虎子(おまる)のような形をしていたと考えられる〕。

 なお、海野弘は、パンドーラが嫁入り道具に持たされた、この世のあらゆる悪が詰まっていたという壺(pithos)は、古代ギリシア人が屋内で排便・排尿をするようになった事実を反映し、壺(pithos)には排泄物が詰まっていたのではないかと想像している(『ヨーロッパ・トイレ博物誌』INAX出版、1988.10.、p.8)。中国では、便器が嫁入り道具のひとつであったということと考え合わせて、面白い発想ではある。

 アテナイの淑女はいざ知らず、紳士諸君は野グソ立ち小便がフツウーだったのではないかと思われる根拠として、アリストパネスの猥雑な喜劇作品とは別に、ヘロドトスの『歴史』第2巻35章を引用しておきたい(あまり確かな証拠にはならないが……)――

「エジプト人はこの国独特の風土と他の河川と性格を異にする河とに相応じたかのごとく、ほとんどあらゆる点で他民族とは正反対の風俗習慣をもつようになった。……小便は女は立ってし、男はしゃがんでする。一般に排便は屋内でするが、食事は戸外の路上でする」
 (松平千秋訳)

 エジプトをいわゆる「逆さまの世界」として描き出そうとの魂胆が見え見えであるが、それだけに、これをもう一度逆にすれば、ギリシアの風俗習慣を見いだすことができるはずである。〔西アジアでは、大小便は水で洗うため、男は小便もしゃがんでするのが作法であるらしい。――岡崎正隆「トイレはモスクで」(『アジア厠考』p.196〕

 さて、簡易便器の汚物は、どのように処理したのであろうか? これが最もはっきりしない点である。
 平安時代の日本では、弁当箱のような「厠箱」の内容物は、陣と呼ばれる内裏の東にある梨の木の林の中に捨てていたらしい。しかし、「庶民の住居にはそんな余裕はない。市民たちはちょっとした空き地に穴を掘ったり、中には道路で用を足すものさえいた。また、加茂川にごみや人糞尿を捨てるものも多く、市内も不衛生な状態で、加茂川の汚濁も目にあまるものがあったようだ」(『こやしと便所の生活史』p.38)

 栄光のアテナイには、さすがに、先に述べたように、ウンコを集める人間がいた。

また十人の市域監督官(アステュノモイ)があり、このうち五人はペイライエウスを、五人はアテナイ市域内を取り締まる。彼らは……汚物集め人(koprologoi)が城壁から十スタディオン〔約1770メートル〕以内に汚物を棄てぬように監督する。また道路に建築することや道路上に露台を差し出すことや道路へ向けてはけ口のある樋を造ることや道路に面して窓を開くことを禁止する。また国有奴隷である手下を従えて道路上で死亡する者を取り片づける。
 (アリストテレス『アテナイ人の国制』第50章、村川堅太郎訳)

 禁止令があるということは、それらの禁止内容が往々にして破られていた事実があることを物語っていると言えよう。簡易便器の汚物は、テキトーに棄てられていたと考えられる。アテナイの小路がいかに不潔・不衛生であったかは、よく言われるところである。アリストパネスも、「雪隠(koproi)と糞垂れ小路(laurai)」(Pax. 99)と呼んでいる。小路(laura)がそのまま便所=下水溝(laurai="laura"の複数形)だったのである。
 なお、アゴラ西部から発掘された下水道は、僭主制時代につくられたもので、民主制時代になってからは、つくられていないという(『ヨーロッパ・トイレ博物誌』p.149)。

〔中国の〕家屋は、いわゆる閨房という作りかたで、親は、その娘の部屋にも自由に入れない〔これは、古典期のアテナイでも同じ〕。これらの女は、そっと自分の房に便器をそなえておくのである。男は、茅厠や院子裏の隅でも平気であるが、女はそうはいかない。そこで、室の一隅に幕でもひき寄せて、そこで溺器(にょうき)を使う。……この壺は、調度の重要な品であるから、嫁入りにも持参させられる。それは極めて大きな木製のふたのついたもので、表面は朱塗り、内部は黒塗りで一生使える。……また陶器などでできたものは、焼きといい、色といい、触感といい、なかなかこっている。日清戦争のとき、それとは知らずわが兵士たちが、古道具屋の店さきで買って帰り、床の間の花生けにしたという失敗談も多く残っているのはそのためである。
 ……朝になると、その便器を溝や裏のほうにあけて、掃除している。ことに中部のクリークのほとりでは、女どもが自分の馬桶(マードン)を持ち出して、タケのささらで洗っている。十数人並んで、すがすがしい朝日をあびながら、朱塗りの馬桶をがらがらと音をたてながら洗う光景は、まことにほほえましい。
 ……けれども、繁華な市中だとそうはゆかない。町の女は、毎朝、馬桶をだいて門前に立ち、清掃夫の来るのを待っている。糞桶をかついだり、車をひいたり、糞便苦力(クーリー)が鈴をならして合図をしながら、やって来る。女どもはかけつけて、馬桶のなか味をあける。あとは根気よく、タケのささらで洗う。時には小さな貝がらをいれてからからと清める。クリークの使えないところでは、四つ辻の汚水だめで洗ったりする。〔李家正文『厠まんだら』p.128-130〕

 時代も場所も異なるけれども、おそらく、同じような光景が、アテナイでも繰り広げられていたのではなかろうか? そして、「汚物集め人(koprologoi)」は、その集めたウンコを「棄て」たとのみ書いたアリストテレスは、ウンコの最終的な行く末について、あまり関心がなかったものと思われる。

 余談ながら、日本の場合、近郊農家が頭をさげてウンコをもらい受けていた時代から、都市住民が頭をさげて(ということは、金を払って)ウンコを集めてもらう時代へと変わったのは、そんなに遠い昔ではない。まして、都市屎尿が農地還元できなくなり、野山や海へ投棄するようになったのは、1950年代中頃以降、およそ20年間である。「この期の後期に農村でもクソを担ぐ農民がいなくなった。1960年代中頃から70年代にかけてである。低廉な化学肥料の出回りのためである。……循環システムが働かなくなり、大量のものを投棄すなわち、出物生産者のところから即時に切り離し、排除する方法しかとれなくなったのだ。下水道が整備されていなかったので、山野や海へ投棄し、埋めていたのだ。ここに来ると、無価値なものどころではない。金食い虫になり始める」(『アジア厠考』p.41-42)。

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