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back.gifAntiphon第1弁論


Antiphon弁論集



第2弁論

第一の四部作






第1部 無名氏による殺人罪の告発



[1]
 事件の中でも、凡庸な者たちによって策謀された事件は、糾明するに困難ではない。だが、生まれつきも充分で、事情に経験豊かにして、年齢も知慮するに自分の最も勝れた盛りにある者たちが実行する場合には、特定することも糾明することも困難である。

[2]
 なぜなら、危険性の大きさ故に、はるか以前から、策謀することがらの安全性を考察し、あらゆる疑惑に対する守りをかためた上でなければ、手がけることはないからである。それゆえ、あなたがたはそういうことを知った上で、何であれとにかく尤もらしい印象を受けたこと、これに大いに信を置かねばならないのである。他方、私たち――人殺しを糾明する者たちの方は、罪人を放免して無実の者を訴追しているわけではない。

[3]
 なぜなら、我々にはっきりとわかっていることは、国家全体が犯人によって穢されているときに、訴追されないうちは、涜神行為が我々のものになるばかりか、あなたがたの過ちの罰が、義しく訴追しない我々にふりかかってくるということである。このように、あらゆる穢れが我々にふりかかってくるのだから、私たちの知っていることを基に、可能な限り明晰に、いかにして被害者を殺したのかをあなたがたに明らかにするべく努めてみよう。

[4]
 さて、悪党たちが件の人物を殺したというのも尤もらしいことではない。なぜなら、魂〔=生命〕を賭して極度の危険を冒しながら、確実な、しかも、既に手にしている利益を放置するような者は誰もいないであろう。つまり〔被害者たちは〕着衣のまま発見されたのである。また、酔っぱらいが被害者を破滅させたわけでもない。なぜなら、飲み仲間にわかるはずだからである。また、口論が原因であるわけでもない。なぜなら、真夜中に、しかも荒野で口論するはずがないからである。また、他の人を狙っていて、たまたま被害者に行き当たったわけでもない。もし、そうだとしたら、従者といっしょに被害者を破滅させるはずはないからである。

[5]
 かくて、疑惑がすべて解明されてみると、死〔の状況〕そのものが、被害者が策謀によって殺害されたことを示唆している。では、誰が襲撃したというのがより尤もらしいのか。それまでに大きな害悪を被ってきて、なおかつもっと大きな害悪を被るおそれのある者ではないか。この被告こそ、それである。すなわち、以前からして被害者の敵であり、何度も、しかも重大な公訴の原告となりながら、一度も勝訴したことはなく、

[6]
 逆にもっと重大な裁判にもっと多く被告となって、未だかつて無罪放免されたことがなくて、家産をたっぷりと失い、しかもつい最近も、聖財2タラントンの横領の罪で被害者に起訴され、自分の不正を自分でもやましいと思うとともに、被害者の権勢を体験してもいるので、それまでのことに遺恨をいだき、策謀するのも尤もなことなら、敵意から身を守ろうとするのも尤もなことで、被害者の殺害におよんだのである。

[7]
 すなわち、報復の欲望が彼に危難を忘れさせ、迫りくる災難への恐怖に駆り立てられて、余計に熱く犯行をあおりたてられたのである。事をしでかした上で望んだのは、被害者の殺害に気づかれないことと、公訴を免れること。

[8]
 すなわち、これで誰も訴え出る者はなく、〔公訴〕そのものが不履行となることであった。また、たとえ罪されようとも、報復を受けてそれを被る方が、仕返しもせずに公訴によって男らしくなく破滅させられるよりも、自分にとって美いと思われたのである。要は、彼は公訴で罪されることをはっきりと自覚していた。さもなければ、こちらの争いの方がより安全だなどとは信じられなかったであろう。

[9]
 以上が、彼をして涜神行為に駆り立てた事情である。証人は、多くの人たちが居合わせていたなら、私たちは多くの人たちを提示しえたであろう。だが従者一人が居合わせただけであるから、これの話を聞いた人たちが証言するはずである。というのは、助け起こされたときまだ息があり、私たちの問いに応えて、自分たちを襲撃した者たちの中で、見知っているのは被告だけだと主張したのである。
 かくして、尤もらしさによっても、居合わせた人たちによっても糾明されたからには、あなたがたによって放免されるのは、いかなる仕方によっても義しくもなく、有益でもないであろう。

[10]
 なぜなら、居合わせた人たちによっても、尤もらしさによっても糾明されないとするならば、策謀した者たちが糾明されないままとなるばかりではない。あなたがたにとっても災禍なしとしないからである――こんな穢れた不浄な者が、神々の境内に入りこんで、その清浄さを穢したり、同じ卓に同席したために、咎なき者たちまでも汚染するというのは。なぜなら、これが原因で不生産が生じ、公事が不遇となるからである。

[11]
 それゆえ、報復を自らの務めと考えて、この者の涜神はこの者自身に帰し、災禍は私的なものにとどめ、国家は清浄に保たなければならないのである。





第2部 同じ件に対する弁明



[1]
 私はあらゆる人間の中で最も不運な人間だとみなしても過りだとは私には思われない。なぜなら、他の人たちなら不遇な人たちも、冬の嵐によって苦労している場合なら、穏やかになれば〔苦労は〕やむ。また、病気になれば、健康になれば助かる。また、他の何か災禍が彼らにとりついても、反対の状態になれば益するのである。

[2]
 しかるに私にとっては、奴が生きているときには家の転覆者となり、死んでからも、私は無実なのに、十分な苦痛と心痛とを見舞うのである。というのは、私の陥った危難たるや、破滅させられないためには、自分が敬虔にして義しく身を処するだけでは、私にとって十分ではなく、被害者の報復者たちでさえも見つけだすことの不可能であった殺人犯を、私が見つけだして糾明しない限りは、自分が人殺しと邪推されて不敬にも罪されることになるありさまである。

[3]
 ところで、彼らの主張では、私が恐るべき者なので糾明はきわめて困難であるが、愚か者なので、自分の為した行為そのものからして、犯行に及んだことは明らかだ、というのである。確かに、今、〔私の〕敵意の大きさを理由にしてあなたがたから邪推されるのが尤もだとしたら、それよりも尤もらしいのは、犯行の前に私に向けられている今の疑惑を予見して、他の人たちの中に、被害者に策謀する者が誰かいるのを知ったなら、むしろ妨げて、〔彼が〕犯行におよぶことで〔私が〕故意の・前もって明らかな疑惑に陥るようなことはしなかったであろうということである。なぜなら、犯行そのものからして見つかり、そうなれば破滅させられるのは私であり、見つからなくても、その疑惑は私に向けられることが私にははっきりわかるからである。

[4]
 まことに惨めなのは私である、弁明を強いられるのみならず、殺害者たちを明らかにしなければならないとは。しかしながら、それをも手がけなければならない。必然よりも過酷なものはないらしいからである。だが、告発者が他者を破滅させようとして、私が人殺しであることは死〔の状況〕そのものが示唆していると称しているほかならぬその同じ根拠でもって糾明することが私はできる。すなわち、他の者たちは無実と思われるからという理由で、不正が私にあるということが明らかになるのなら、その当人たちが疑わしければ、私が清浄であると思われるのは尤もだということになるからである。

[5]
 そこで、夜中にぶらぶらしていて着衣目当てに亡き者にされたというのは、原告たちが主張しているほど、尤もらしからざることではなく、尤もらしいことである。脱がされていなかったということは、何の証拠にもならぬ。なぜなら、被害者の身ぐるみ剥ぐ間がなく、誰かが近づいてくるのを恐れて立ち去ったのなら、思慮深いのであって、気違いではない。利得よりも救いを重視したのだからである。

[6]
 さらに、着衣目当てに亡き者にされたのではないとしても、他の人たちが何か悪事を為しているのを目撃したために、その不正の通報者とならないようにと、連中に殺されたのかどうか、誰が知ろうか。さらに、私に勝るとも劣らず被害者を憎んでいる者――その数は多い――が、私よりも強く彼を亡き者にしようとしていたということが、どうして尤もらしくないことがあろうか。この人たちにこそ、私に向けられている疑惑が明白であり、私は彼らに代わって咎を帰せられているのがはっきりわかるのである。

[7]
 さらに、従者の証言にどれほど信を置く価値があろうか。なぜなら、危険に仰天した従者が、殺害者たちを識別できたというのは尤もらしくなく、旦那がたによって誘導されて首肯したというのが尤もなことだからである。そもそも、他の奴隷たちなら、証言に際して――我々が連中を拷問にかけない限りは――信用されることはないのに、これの証言を信じて私を破滅させるというのが、どうして義しいことであろうか。

[8]
 さらに、尤もらしいことを真実に等しいこととして私に反証を加える人がいるなら、同じように彼をして推理させていただきたい――私が策謀を安全に運ぶために用心して、犯行現場には居合わせないようにしていたということの方が、喉を掻ききられかかった者の識別の正しさよりも、尤もらしいと。

[9]
 さらに、この危険性は公訴によるそれよりも安全ではなく、私が正気を失っているのでない限りは、むしろ幾層倍も〔危険であると〕考えているということを、説明しよう。すなわち、公訴にかけられれば、破産することは知っていたが、身体と国まで奪われることはなく、生き延びて〔当地に〕残り、友たちから寄付(eranos)を集められれば、極端な逆境に陥ることもあるまい。これに反して、今、有罪とされて処刑されれば、子どもたちに不敬な汚名を残すか、亡命しても、年をとり亡国の民となって、客遇目当ての乞食となることになろう。

[10]
 かくのごとく、私を告発する内容は、すべて信を置きがたい。これに反し、あなたがたによって無罪とされることの方は、被害者を殺したというのがいかに尤もらしかろうと、本当ではないのだから、はるかに義しいのである。なるほど、私は明らかに、大きな不正を受けて自衛しようとしていた。とはいえ、彼を殺害したと思われるのは尤もなことではない。また、あなたがたが有罪とすべきは、殺害者たちをであって、殺害の容疑をかけられている者たちをではないのである。

[11]
 さて、あらゆる面からして容疑から無罪とされたので、私としては境内に入りこんでも神々の清浄を穢すこともなく、私を無罪放免するようあなたがたを説得しても、不敬を働くことにもなるまい。これに反して、無実の私を訴追し、犯人の方を逃している者たちこそ、この不生産の張本人になるのであり、あなたがたを説得して神々に対する不敬涜神者となし、私が受苦すべきだと彼らが主張している事すべてをうけるのが義しい者たちである。

[12]
 それでは、彼らこそこれに当てはまる者たちであるから、信用に値せぬと考えていただきたい。これに反して、私の方は、過去の所行を基に、判定していただきたい――策謀もせず、ふさわしくないことには手出しもせず、それとは正反対に、何度も多額の臨時財産税を寄付し、何度も三段櫂船奉仕をし、絢爛豪華に合唱隊奉仕をし、多くの人たちに援助し(eranizein)、多くの人たちのために莫大な保証を完済してやり、しかも家産は法廷弁論によってではなく、働いて所有したのであり、供犠愛好者にして適法者であると。こういう私に対して、不敬罪はもちろん、いかなる恥辱も有罪判決を下してはならないのである。

[13]
 しかし、〔被害者が〕生きていて訴追されるのなら、自分のために弁明するだけでなく、彼自身と、彼を助けて、私を告発することで私から利益を得ようと求めている連中をも、その不正なることを証明できよう。しかし、これを差し控えるのが、より公平あるいはより公正なことであろう。そのかわり、あなたがたにお願いしたい、諸君、最大事の判定者にして決定者よ、私の不運(atychia)を哀れんで、その癒し手となるように、そして、私が連中によって不正にして神もなきがごとくに破滅させられるのを、連中の攻撃に便乗して見過ごすことのないようにと。





第3部 告発のための第二弁論



[1]
 「不運(atychia)」はこの男によって不正されている。これを彼は悪行の前面に押し立てて、自分の穢れを見えなくしようとしているのである。しかし、あなたがたによって同情される価値はない。被害者には思いがけぬ災禍を見舞い、自分からわざわざ危難に陥ったのだからである。ところで、被害者を殺害したということは、先ほどの言葉において我々は証明しおえた。そこで、彼の弁明が正しくないということを、今度は糾明してみよう。

[2]
 さて、かりに、人が近づいてくるのに気づいて殺害者たちが、脱がせる前に被害者たちを置き去りにして逃げ去ったとしたら、被害者たちのところに来あわせた人たちは、主人の方は死んでいるのを見つけたけれども、奴隷奉公人の方は、助け起こされたとき息があって証言したのであり、まだ意識もあることに彼らは気づいたのだから、はっきりと問いただし、犯行者たちを私たちに報告できたであろうし、被告が嫌疑を受けることもなかったであろう。また、かりに、誰か他の人たちが何かそれに類した別の悪行を働いているところを被害者たちに目撃されて、ひとに知られないために彼らを亡き者にしたとしても、その殺人と同時に悪行が表沙汰になるであろうし、疑惑は連中に向けられたことであろう。

[3]
 また、それほど危険のない人たちが、大いに恐怖心にとらわれている者たちよりも、余計に彼に策謀するという理由が私にはわからぬ。なぜなら、後者にとっては恐怖心と不正さとが先慮をやめさせるに充分であるが、前者にとっては、危険と羞恥とが利得よりも大きいのであって、そんなことを実行しようと思いついたとしても、その思いつきの激情を慎むに足からである。

[4]
 さらに、従者の証言が信ずるに足らぬと彼らが言っているのは正しくない。なぜなら、このような証言に際しては、拷問にかけられることはなく、自由人として放免されるのである。だが、盗みを働きながら否認したり、主人といっしょに隠し事をしたりした場合、こういうときに拷問にかければ彼らは真実を言うのだと我々は主張しているのである。

[5]
 むろん、彼が現場に居合わせたということよりも、居合わせなかったということの方がより尤もらしいということもない。なぜなら、居合わせなかったとしたら、危険は居合わせたときと同じのを冒すことになったろうし――連中の中で誰が捕まっても策謀者はこの男だと糾明したであろうから――、事も速やかには運ばなかったであろう。居合わせた者たちの中に、犯行を躊躇しないような者は誰もいないからである。

[6]
 さらに、公訴による危険の方がこの〔裁判の〕危険よりも小さくはなく、むしろはるかに大きいと彼が考えていたということを、説明しよう。有罪判決を受けることと無罪判決を受けることと、どちらも同じだけの希望が彼にあったと仮定しよう。ところで、公訴を提起されないという希望は、少なくとも被害者が生きている限りは、何もなかった。被害者を説得できないからである。他方、この争いに引き込まれないですむ望みはあった。被害者を殺害しても気づかれないですむと思われたからである。

[7]
 さらに、自分に対する疑惑が明らかであったことを根拠に、あなたがたによって邪推さるべきでないと主張しているが、その主張は正しくない。なぜなら、被告が最大の危難にありながら、疑惑の大きさのために襲撃を差し控えられたとするなら、被害者に策謀する者は誰もいなかったことになろう。なぜなら、〔彼ほどには〕危険に当面していない人は誰であれ、危険よりはむしろ疑惑を恐れるから、被告でなければ被害者を襲撃する者は誰もいないことになるからである。

[8]
 さらに、臨時財産税や合唱隊奉仕は裕福さの証拠としては充分ではあっても、殺害していないことに対しては逆〔の証拠〕である。なぜなら、ほかならぬ裕福さを奪われるのではないかと怖じ気づいて、尤もではあるが不敬にも被害者を殺害したということになるからである。ところで、殺人者とは、殺害したというのが尤もらしい者たちのことではなくて、本当に殺害した者のことだと主張しているが、殺害者については彼の言っていることは正しい。いやしくも、被害者を殺害したのが誰なのかが私たちに明らかな場合には。だが、殺害者が明らかでない場合には、被害者を殺害したのは、尤もらしさを根拠に糾明される被告であって、他の誰でもないことになろう。こういった犯行が実行されるのは、証人たちのいるところではなく、秘密裡だからである。

[9]
 さて、かくのごとくに、自らの弁明を論拠に、被害者を亡き者にしたということが明白に糾明されたからには、あなたがたに彼がお願いするというのは、自分の穢れをほかならぬあなたがたの方に振り向けること以外の何ものでもなかろう。これに反して、私たちがあなたがたにお願いすることは何もないが、あなたがたに言っているのは、尤もらしさによってでも、証言によってでも、被告が現に糾明されないとするなら、もはや被告の糾明は何もないということである。

[10]
 すなわち、死を認知した人たちははっきりしており、疑惑の足跡は明白に被告を指しており、従者の証言は信頼に足るのに、彼を無罪にすることがどうして義しいであろうか。いや、被告があなたがたによって不正にも無罪にされるなら、死者が私たちに血讐者となることはなかろうが、あなたがたには呵責する存在となるであろう。

[11]
 そこで、以上のことを知った上で、あなたがたは死者を救済し、殺害者に報復し、国家を浄化すべきである。そうすれば三つの善事を実践することになる。すなわち、策謀者たちの数をより少なくし、敬神を行ずる者たちの数をより多くし、あなたがた自身は被告に起因する穢れから解放されるであろう。





第4部 弁明のための第二弁論



[1]
 よろしいか、私は、私が不運(atychia)のせいにするのは義しくないと、原告たちがそう主張なさる、その不運に進んでわが身を委ねようし、この人たちの敵意にも〔わが身を委ねよう〕。もちろん、彼らの中傷の大きさを恐れはするが、あなたがたの判決と私によって為されたことの真実とを信じているからである。しかしながら、あなたがたに向かって目下の不運を愁訴することさえもこの人たちによって奪われたのでは、他にどんな救いに私は庇護を求めるべきか、困ってしまうのである。

[2]
 なぜなら、極悪非道なことをと言ってもいいのだが、珍妙きわまりないことをと言わなければならないとするなら、まさしく奇妙きわまりないことを言って私を中傷しているからである。すなわち、殺人の告発者にして報復者であるかのようなふりをし、いずれも正真正銘の疑惑のために弁明し、結局は誰が被害者を殺害したかに窮して、私のことを殺人犯なりと主張しているのである。つまり、彼らは自分たちに課せられていることとは正反対のことをしでかしているのであって、明らかに、殺人犯に報復することよりは、むしろ私を不正に殺害しようとしているのである。

[3]
 だから、私は従者の証言に対して弁明する以外のことは、何もしないのがふさわしかったのである。私は通報者ではなく、殺害者たちの糾明者でさえなく、追及されることに答えるだけだからである。とはいうものの、しかし、この者たちはあらゆる手を尽くして私に策謀しているのだから、自分は疑惑から解放されていることを証明するよう、努めなければならない。

[4]
 そこで、彼らが私を中傷するために使った不運の方は、幸運へと転化させたい。だが、あなたがたの方は、私を有罪にした上で同情するよりは、むしろ無罪にして浄福にしてくださるよう懇願する。
 さて、彼らの主張では、被害者たちが襲われたところに来あわせた人たちが、誰が被害者たちを破滅させたのかはっきり問いただした上で、家に告げに走らなかったような者は誰もおらず、むしろ、置き去りにして逃げ去ったということの方が、尤もらしくないという。

[5]
 これに反して私は、それほど血気盛んで男らしい人間は誰もいないと思うのである。真夜中に、瀕死の喘ぎをしている者に出くわしながら、くるりと向きを変えて逃げ出すのではなく、むしろ悪党たちを訊き出して、魂〔=命〕がけで危険を冒すような者は。したがって、通りすがりの者たちのやったこととしては、後者よりも前者の方が尤もらしいから、着物を目当てに被害者たちを亡き者にした連中が放免されることは、もはや尤もなことではなく、私の方も疑惑から解放されるのである。

[6]
 さらに、被害者たちの殺害と時を同じくして、誰が他の連中が悪党として公告されていたのかいなかったのか、誰が知ろうか。これを考察することは誰も気にしなかったからである。したがって、公告内容が不明であるからには、その悪党たちによって被害者が亡き者にされたということも、信じられぬことではないのである。

[7]
 さらに、従者の証言が自由人たちのそれよりも信ずるに足ると考えるべきいかなる理由があろうか。なぜなら、後者は真実を証言していると判断されなければ、市民権を剥奪され罰金刑に処せられる。しかるに前者は、糾明を受けず拷問も受けていないのだから――いつ償いをする機会があろうか。あるいは、どんな糾明が可能であろうか。こいつは何の危険もなく証言しようとするのだから、私の敵対者である旦那がたに説得されて、私に対して虚言したとしても、何ら驚くべきことではないのである。しかし私は不敬事を被ることになろう――信じがたいことを反対証言されたために、あなたがたによって破滅させられるとしたら。

[8]
 さらに、殺人現場に私が居合わせなかったということが、居合わせたということよりも信じがたいと、彼らは主張している。そこで私は、尤もらしさによってではなく、事実によって、居合わせなかったことを明らかにしよう。すなわち、私のところの奴隷は、男奴隷にしろ女奴隷にしろ、すべて拷問に提供する。そして、もしも、事件当夜、私が家で寝ていなかったとか、どこかに出かけたとかが明らかになれば、殺人犯であることを認めてもよい。当夜は印象薄い夜ではなかったのだ。ディイポレイア祭の時に件の男は殺されたからである。

[9]
 さらに、裕福さについて、これのために私が怖じ気付いて彼を殺害したというのが尤もらしいと彼らは主張するのであるが、まったく正反対である。なぜなら、不運な人たちにとっては、革新こそが有利である。変革によって彼らの零落は変化することが期待できるからである。だが幸運な者たちにとっては、今ある隆盛を確保し守護することこそが〔有利である〕。事態が変化すれば、幸運から不遇に転落するからである。

[10]
 さらに、尤もらしさを根拠にして私を糾明しているふりをしながら、私が被害者の殺人犯であるのは尤もらしいことではなく、本当なのだと彼らは主張している。だが、尤もらしさは、他の点ではむしろ私に有利であることは立証されているとおりである。なぜなら、私に反対証言した〔従〕者は、信ずるに足らぬと糾明されてしまったし、糾明もないのである。同じく、証拠も私のものであって、原告たちのものでないことを私は明らかにしたばかりではない。殺人の足跡も私に向かってはおらず、原告たちによって無罪とされた者たちに〔向かっている〕ことは、立証されたとおりである。このように、告発内容のすべてが信ずるに足らぬことが糾明されてしまったからには、私が無罪放免になっても、悪党たちが糾明される根拠がなくなるわけではないが、私が有罪とされれば、いったん訴追された者たちにはいかなる弁明も充分でないことになろう。

[11]
 さて、私に対する訴追はかくも不正であるにもかかわらず、自分たちの方は不敬に殺害することを求めながら清浄だと主張し、私の方は、敬神的であるようにとあなたがたを説得しているのだが、これを不敬なことをしていると言うのである。だが私は、訴えの内容すべてに清浄であるから、私自身のためには、何ら不正していない者たちの敬神さの前に恥じるよう申し入れ、死者のためには、その祟りということを思い起こして、無実の者を有罪にして罪人を放免するようなことのないよう、あなたがたに勧告するのである。なぜなら、私が処刑されたら、もはや誰も犯人を探索しないであろう。

[12]
 それゆえ、このことを畏れて、敬虔で義しいことなのだが、私を無罪としていただきたい。そうして、後になって過ちに気づいて後悔することのないようにしていただきたい。こういったことの後悔は癒しがたいからである。
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