Antiphon第3弁論
第1部 正当防衛を唱える者に対する殺人罪の告発[1] 正しいしきたりということになっているのは、殺人罪の私訴の裁き手たちは、追及・証言が義しくおこなわれることを最も重視し、罪ある者たちを放免することも、清浄な者たちを争訟に巻きこむこともしないということである。 [2] なぜなら、神が人間という部族をつくりたいと望み、私たちの中で最初に生まれた者たちを生みなしたとき、養育と助けとして、大地と大海を引き渡したが、それは必需品の欠乏によって天寿を全うする前に死ぬようなことのないためであった。したがって、それだけの価値が我々の生命にはあると神によって認められているのだから、何びとをも不法に殺害するような者は、神々に対して涜神を働く一方、人間たちのしきたりを踏みにじるものである。 [3] なぜなら、死者の方は、神が彼に与えたものを奪い取られたのだから、当然ながら、神による報復を復讐者たちの害意という形で残すのであり、これを、正義に反する裁きや証言をする者たちは、これ〔殺人という涜神〕をしでかした者と一緒になって涜神を働いているのであるから、本来関係のない穢れであるのに、個々の家族にまで持ち込むことになるのである。 [4] また、私たちのような、亡き者にされた人たちの報復者の方も、別の敵意のようなものによって罪なき者たちを追及するなら、死者のために報復するのではないから、死者たちのための血讐者たちを恐るべき復讐者として持つことになろうし、清浄な人たちを不正に殺害することになるのだから、殺人の罪科の有罪者となるばかりか、あなたがたを無法を為すよう説得したのだから、あなたがたの過ちの咎めを負う者ともなるのである。 [5] さて、私としては以上のことを恐れるがゆえに、涜神を働いた者をあなたがたの前に引きずり出したのであって、私は訴えの内容からは清浄なのである。だが、あなたがたは、前述されたことにふさわしく、裁きに意を注ぎ、被害に相当する裁きをこの犯行者に下すことで、初めて国家全体を穢れから清浄と為し得よう。 [6] もちろん、無意思に人を殺害した場合には、何らかの容赦に与る資格があったろう。しかし、飲み過ごして、暴慢にも放埒にも年長者にたいして狼藉に及び、打擲し締め上げて、ついにその命を奪ったのであって、殺害したのであるからには、殺人の罪科に有罪であり、老年者に対するしきたりのすべてを踏みにじったのだから、こういった者たちが受ける懲罰を何一つ残さず受けるのが義しいのである。 [7] それでは、法は報復するよう正当にも犯人をあなたがたに引き渡しているのである。他方、あなたがたが耳を傾けてきた証人たちは、犯人が狼藉に及んだとき居合わせた者たちである。そこで、あなたがたの為すべきは、被害の無法ぶりに報いをなすとともに、被害相応に暴慢を懲らしめ、かくして策謀を懲らしてきた魂を犯人から奪い返すことである。 第2部 殺人罪の弁明、正当防衛で殺害したと[1] 〔原告たちが〕手短に言説を為したからとて、私は彼らに驚いてはいない。彼らにとっての危険性とは、ひどい目に遭うのではないかということではなく、敵意によって私を破滅させることが義しくないということだからである。だが、本件の責任が死者自身に、しかも、私よりももっと〔責任が〕あるにもかかわらず、これを最大の訴訟に匹敵させようとしたということに、私が憤慨するのは尤もなことに私には思われる。なぜなら、不正事に先に手を出し、飲み過ごして自分よりはるかに思慮深い人物に狼藉に及んだのであるから、自分にとってはその災禍の責任があるばかりでなく、私に対してはこの訴訟の責任があるのである。 [2] それゆえ、私としては、この者たちが私の訴人となっているけれども、義しいことを為しているとも、敬虔なことも為しているとも思えないのである。なぜなら、殴りかかった者を、鉄器とか石器とか木器とかでこれから自衛したとしても、そうしたとしても不正したことにはならないであろう――仕掛けた連中が、同じことではなく、もっと大きな多くのものでやり返されるのは義しいからである。――ところが実際には、彼によって手で打擲され、被ったことを手で仕返ししたのだが、それがはたして私が不正したことになるのか。 [3] よろしい。それでも〔原告は〕言うであろう、「いや、義しくであろうが不正にであろうが、法は殺害を禁止しているのだから、おまえは人殺しの罪科で有罪である。人が死んだからだ」と。だが私は、殺害していないと二度でも三度でも主張する。なぜなら、もしも殴打によって被害者がその場で死んだのなら、それはたしかに私のせいだが、しかしその殺害は義しいのである――仕掛けた者たちは同じことではなくより大きな且つより多くのものをやり返されることこそ義しいからである。 [4] ――ところが現実には、長らく日が経っての後に、下手な医者にかかって、医者の下手さが原因で、殴打が原因ではなく、死んだのである。すなわち、他の医者たちが、こんな手当てを受けたら、治癒可能であっても破滅することになるぞと、前もって彼に言っていたにもかかわらず、あなたがた忠告者たちのおかげで破滅したのに、私に不敬な訴訟を仕掛けたのである。 [5] さらに、私が訴追される根拠となっている法もまた私を無罪としているのである。なぜなら、策謀者は人殺たるべしと命じているからである。ところで私は、彼によって策謀されたことを別にすれば、どうして私が彼に策謀することがあり得ようか。なぜなら、同じ手段で彼から自衛し、被ったと同じことを仕返したのだから、はっきりしているのは、同じことを策謀し且つ策謀されたということになるからである。 [6] さらに、殴打によって死者が出たと想像して、私がその人殺しだと考える人がいるならば、思量しなおしていただきたい――仕掛けた者のせいでその殴打が生じたのだから、この者がその死の責任者であって、私ではないことは明らかであると。なぜなら、彼によって打擲されないよう私は自衛したにすぎないのだから。 かくして、法によっても殴打の仕掛人によっても無罪とされるのだから、私はいかなる仕方でも彼の殺害者ではなく、死んだ者は、不運によって死んだのなら、自分の不運に陥ったのであり――殴打を仕掛けたのが不運だったのである――、何らかの無思慮で〔死んだの〕なら、自分の無思慮で破滅したのである。正気の沙汰で私を打擲したのではなかったからである。 [7] さて、私が告発されるのは義しくないということは、私によって証明されたとおりである。それでは、私の告発者たちを、彼らが告発している点すべてにおいて彼らこそが有罪であるということを立証してみよう。すなわち、私はこの罪状に対して清浄であるにもかかわらず、人殺しとして彼は召喚しているばかりか、神が私に与えたもうた人生を私から奪い取ろうとしているのだから、神に対して涜神を働いているのである。さらには、不正にも死を策謀しているからには、しきたりを踏みにじっているのみならず、私の殺害者たらんとしているのである。さらに、不敬にもあなたがたが私を死刑にするよう説得しようとしているのだから、彼らこそがあなたがたの敬神の殺害者でもあるのである。 [8] それでは、この者たちには神が裁きを見舞われよう。だがあなたがたは、あなたがたの務めを考察し、私を有罪とするよりはむしろ無罪とすることを望むべきである。なぜなら、私が無罪とされるのが不正だとしても、それは、あなたがたが正しく説明を受けなかったせいで無罪放免されるのだから、死者の血讐は、説明しなかった者にふりかかり、あなたがたのものではなかろう。これに反し、あなたがたによって有罪とされたのが正しくなかったなら、私は復讐者たちの呪いを、この連中にではなく、あなたがたに帰するであろう。 [9] それでは、以上のことを知った上で、この涜神をこの連中に帰し、自らはその罪から清浄となっていただくとともに、私をも敬虔に且つ義しく無罪としていただきたい。かくすれば、私たち市民全員が清浄至極であり得よう。 第3部 告発のための第2弁論[1] 被告が、不敬事を為しながら、自分のしでかしたと同じようなことを言っていることに私は驚きはしないし、あなたがたが、為された事柄を明確に学び知りたいと望むがゆえに、斥けられるのが当然のようなことを被告が言うのを聞いても我慢しておられることも私は容認する。要は、被告は死因となった殴打によって被害者を打擲したことに同意しながら、自らがその死者の殺害者であることは否認し、死者の報復者たる我々こそが、生きながらえられていたのに、その彼を殺害した者だと主張しているのである。また、その他の点でも、被告が以上のことに似たり寄ったりの弁明をしていることを証明してみよう。 [2] そこで、先ず第一に、被告の言うところでは、被害者が殴打が原因で死亡したにしても、殺害したのは自分ではない。なぜなら、先に殴打した者、これが為されたことの責任者であると法によって定められており、死者こそが先に手を出したのだという。ところで、先ず第一に知っていただきたいのは、先に手を出したり飲み過ぎて乱暴狼藉を働くのは、若者たちの方が年長者たちよりもより尤もらしいということである。なぜなら、前者に対しては、生まれによる尊大さとか、体力の盛りとか、酩酊に対する無経験さとかが、怒りを恣にさせるが、後者に対しては、飲み過ごす者たちの経験や、老齢ゆえの脆弱さや、若者たちの力に対する恐怖心が、思慮深くさせるからである。 [3] さらにまた、同じ手段によってではなく、正反対の手段によって彼が被害者に対して自衛したということを、行為そのものが証拠立てている。なぜなら、前者は最盛期にある腕力を使って殺害したのである。これに反して後者は、優勢な者に対して不可抗に自衛したのだが、自衛した証拠を何一つ残しもせずに、死亡したのである。さらに、殺害手段が手であって鉄器ではないとするなら、手が鉄よりも彼にとってみずからのものである分、それだけ彼が人殺しなのである。 [4] さらに、先に殴打した者は、たとえ相手を亡き者にしなくても、殺害者よりももっと人殺しであると彼は敢言した。すなわち、その者こそが死の策謀者となると彼は主張しているのである。だが、私はこれとは正反対に主張する。すなわち、もしも両手が、私たちが心に思うことを私たちの各人のために実行に移してくれるにしても、打擲したものの殺害にいたらなかった前者は、殴打の策謀者となるにすぎず、死ぬまで打擲した後者こそが死の〔策謀者となるのである〕。後者が心に思って実行したことが原因で、被害者は死んだのだからである。 もっと言えば、不運は打擲者の側にあり、災禍は被害者の側にある。なぜなら、後者は、前者が実行したことが原因で破滅したが、自分の過ちによってではなく、打擲者のそれに遭って死んだのである。これに反して前者は、その気になったこと以上のことを実行し、自分の不運によってその気でなかった相手を殺害したのである。 [5] さらに、医者のせいで被害者が死んだのだと称しながら、私が驚くのは、私たち忠告者たちのせいで〔医者に〕委ねられて被害者が亡き者となったと彼が主張していることである。というのも、私たちが委ねなかったら、世話をしなかったせいで被害者は亡き者になったと彼は主張するつもりであろうからである。だが、かりに、医者のせいで死んだとしても――本当はそうではないのだが――、医者は被害者の殺害者ではない。法が医者を無罪としているからである。そして、被告の殴打が原因で私たちが医者に委ねたのだから、私たちが医者を利用せざるを得なくした張本人以外の者が、どうして人殺しであり得ようか。 [6] さて、かくも明白に、あらゆる仕方によって、被告が殺害したと糾明されているにもかかわらず、悪辣さと破廉恥さのあまりに、彼にとっては自分の涜神のために弁明するだけでは足りずに、被告の穢れを追及している私たちまでも、不法と不敬を働いていると主張するのである。 [7] たしかに、被告にとっては、以上のことも、さらにまた、以上のことよりももっと恐るべきことでも、言うのがふさわしい。そういったことを実行してきたのだからである。だが私たちは、死〔の状況〕は明白であること、殴打が死因であることは同意されていること、法は撲殺した者に殺人罪を適用していることを立証し、被害者に代わってあなたがたに遺言しているのである――被告の死によって復讐者たちの呪いを宥め、国家全体を穢れから清浄にするようにと。 第4部 弁明のための第2弁論[1] 被告本人は、自らの有罪性を自覚してではなく、告発者たちの真剣さに恐れをなして、撤退した。だが私たち友人にとっては、彼が死んでからよりも生きている間に彼のために防衛してやるのがより敬神的なことである。もちろん、彼自身が自分の弁明をするのが最善であろう。だが、こちらの方がより危険がないと思われたので、私たちは、彼を失うのは最大の嘆きとなるので、弁明しなければならないのである。 [2] さて、私には、不正は先に殴り始めた者にあると思われる。ところで、原告は尤もらしからぬ証拠を用いて、手を出したのは被告の方だと主張している。すなわち、眼で見、耳で聞くがごとくに、そのように、若者は暴慢であり、老人は思慮深いということが、自然本性にかなっているとするなら、あなたがたの判決は何も必要なかったであろう。なぜなら、年齢そのものが若者たちに有罪判決を下すであろうから。ところが実際は、思慮深い若者たちが多くおり、飲み過ごす年長者も多くいるのであって、原告にとっても被告以上に有利な証拠とはならないのである。 [3] そこで、私たちと被害者とにとって証拠が共通であるからには、私たちの方があらゆる点で有利である。なぜなら、証人たちは被害者が先に殴り始めたと主張しているからである。さらに、被害者が先に手を出したからには、その他のあらゆる告発内容からもその罪を免れている。なぜなら、いやしくも殴打者は、殴打のせいで医者に委ねられるようあなたがたを強制したのであり、直接死にいたらしめた者〔医者〕よりはもっと重い殺人犯であるとするなら、先に殴り始めた者こそ殺人犯だということになるのである。すなわち、被害者のせいで自衛者が殴打し返し、殴打者が医者にかからざるを得なくなったのである。だから、被告は不敬なことを被ることになろう――もしも、殺害していない者が殺害者に代わって、先に手を出していない者が手を出した者に代わって殺人犯となるとしたら。 [4] さらに、策謀したとしても、被告は原告ほどではないのである。なぜなら、もしも、先に殴り始めた後者は、打擲しても殺害する気はなかったけれど、自衛しようとした前者は殺害する気でいたとしたら、もちろん前者が策謀者であったろう。ところが実際は、自衛した前者も、打擲したけれども殺害する気はなかったにもかかわらず、過って、思いがけぬところを殴打してしまったのである。 [5] したがって、殴打の策謀者にはなるけれども、どうして死を策謀し得ようか。無意思で殴打した者が。 さらに、過ちもまた、自衛した者にとってよりも先に手を出した者にとってより親しいのである。なぜなら、前者はやられたことをやり返そうとしたのであって、後者のせいで過ちを犯すよう強制されたのである。これに反して後者は、やったこともやられたこともすべてが自分の放埒が原因であり、自分自身の過ちと相手の過ちとの元凶なのだから、殺人犯なりというのが義しいのである。 [6] さらに、自衛したにせよ、やられた以上にもっと強くではなく、むしろはるかに弱くであったということを、説明しよう。後者は暴慢にして飲み過ごして、あらゆる狼藉に及んだが何も自衛しなかった。だが前者はやられないように撃退しようとしたが、やられたことを心ならずも被るとともに、相手のなした受難から逃れたいと望み、ふさわしい程度よりもより少なく、先に手を出した者から自衛したが、攻撃はしなかったのである。 [7] ところで、腕力が強いため、やられるた以上により強く自衛したとしても、だからといってあなたがたによって有罪とされるのは義しいことでもない。なぜなら、先に手を出した者には、あらゆる点で重大な罰条が課せられるが、自衛者には、決して何らの罰条も記録されていないからである。 [8] では、義しくであろうが不正にであろうが、殺すべからずということについてはすでに答えられている。なぜなら、殴打のせいではなく医者のせいで被害者は死亡したのであるが、これは証人たちが証言しているとおりだからである。さらに、運もまた先に手を出した者のものであって、自衛した者のものではない。なぜなら、後者は心ならずもすべてを為し且つ被ったのであって、他人の運に見舞われたのである。これに反して前者は、意思してすべてを実行したのであって、自分の行為が原因で運を招来し、自分の不運のせいで過ちを犯したのである。 [9] それでは、告発内容のどれに対しても被告が無罪であるということは、立証されたとおりである。そこで、人あって、彼らの行為を共通、不運も共通と考え、言われた内容を基に、被告が有罪であるほどには〔原告よりも〕無罪ではないと判断するならば、たとえそうだとしても、有罪にするよりも無罪にすることの方が義しいのである。なぜなら、不正されたということを原告がはっきりと説明しないかぎり、有罪にすることは義しくないばかりではない。被告も、問われている罪状が明白に糾明されないかぎりは、罪されるのは不敬なことだからである。 [10] さて、以上のごとく、あらゆる点で訴えの内容から被告は無罪であるのだから、私たちが彼に代わってあなたがたに要請しても、むしろより敬虔なことなのである――殺人犯を懲らしめようとして清浄な者を処刑してはならないと。なぜなら、処刑すれば、処刑された者に劣らず、その責任者たちに血讐を招来するばかりか、被告は自分を殺害した者たちに対して復讐者たちの穢れを二倍にするであろうから。 [11] それでは以上のことを恐れて、清浄な者をその罪状から解き放つのがあなたがたの務めだと考え、他方、不浄な者を明らかにすることは時間に委ね、報復は最近親者たちに任せるがよい。さすれば、義にして敬虔きわまりないことが実現され得よう。 |