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back.gifAntiphon第4弁論


Antiphon弁論集



第5弁論

ヘロデス殺害について






[1]
 望むらくは、諸君、弁論の能力と諸事の経験とが、私にとって災禍と生起した害悪とに匹敵するほどのものであってほしかった。ところが実際は、後者は過当に経験してきたが、前者は役立つにはとても足りないのである。

[2]
 なぜなら、不当な罪状という受難を私が身に受けなければならなかったまさにその時に、経験は何ら私に益するところなかった。他方、出来事について真実を述べることによって私が助かるべきまさにその時に、弁舌の無能さが私を妨げているからである。

[3]
 すなわち、今までにも弁舌に有能でない人たちの多くが、真実さを信じてもらえず、これを明らかにすることができないために、まさにこれによって破滅した。他方、弁舌に有能な者たちの多くは、虚言することによって信じてもらい、虚言したそのおかげで助かっているのである。それゆえ、争訟に無経験な者の場合、行動そのものや事象の真実さよりも、むしろ告発者たちの言説次第であるのが必然なのである。

[4]
 それゆえ私が、諸君、あなたがたに要請しようとするのは、争訟者たちの多くは自分たちの言うことに耳を傾けるように要請するのであり、それは、自分たちに対しては自信がなく、あなたがたに対しては何か不正されるものとの予断を持つからでありるが、〔私の要請は〕そんなことではない――なぜなら、善き人たちの間にあっては、要請がなくても被告たちに傾聴することが尤もなのであり、原告たちも要請していないのにそれに与ったのである。

[5]
 ――いや、私があなたがたにお願いしたいのは次のことである。つまり、一つは、何か言い方で間違いを犯したら、容赦してくださり、その過ちは不正によってよりもむしろ無経験によって生じたと考えていただき、他方、何か正しく述べられたら、その陳述は利口さによってよりはむしろ真実さによって生まれたと〔考えていただくように〕ということである。なぜなら、行いの上で過ちを犯した者が言辞によって助かることも、行いの上では正しく行為した者が言辞によって破滅することも、義しいことではないからである。なぜなら、言辞は舌の過ちであるが、行いは考えのそれだからである。

[6]
 さらに、自分を賭して危険に挺身する者はどこかで何か過ちを犯すのが必然である。なぜなら、言われた内容のみならず、将来のことにも思いを致すのが必然だからである。すなわち、〔どうなるか〕未だ不明なことはすべて、予想によりもむしろ運次第である。したがって、このことが危険を冒す者に大いなる惑乱をもたらすのが必然である。

[7]
 なぜなら、私が眼にするのは、争訟にきわめて経験のある人たちでさえ、何らかの危険に陥っている場合には、〔普段の〕自分よりはるかに拙劣に語っている。これに反し、危険なしに何かを遂行する場合には、より安泰であるということである。

[8]
 かくてこの要請は、諸君、適法でもあり敬神的でもあって、しかも私の正義にかなっているばかりか、あなたがたの正義にもかなっているのである。それでは、告発内容について一つずつ弁明してゆくことにしよう。
 そこで先ず第一に、いかに違法至極にして横暴きわまりないことがこの争訟に対して行われているか、このことをあなたがたに説明するつもりであるが、それによってあなたがた大衆を逃れるためではない。というのは、あなたがたが宣誓をしていなくても、また、何らの法に従ったものでなくても、私はわが身を採決に委ねるつもりである。本件に関して私によって何ら過ちは犯されておらず、あなたがたは義しい判決を下されるということを信ずるがゆえである。〔私が説明するのは〕私に対して提起されているその他の内容についても、あなたがたにとって証拠となるのが、この連中の横暴さと違法性とだからである。

[9]
 すなわち、第一に、私は悪行者(kakurgos)として摘発起訴されているにもかかわらず、殺人の私訴の被告となっているのであるが、これは当地にある人たちの誰一人今までに受けたことのないことである。実際、私は悪行者ではなく、悪行者たちに対する法に照らして有罪でもないということは、原告たち自身がそのことの証人となっている。すなわち、盗人や神殿荒らしに関する法があるが、それらの何一つ私には関係のないことを彼らが立証したのである。かくのごとくに、この連行起訴に関しては、私に対するあなたがたの無罪評決こそ適法至極にして公正きわまりないものと彼らがしているのである。

[10]
 他方では、殺害ということを重大な悪事だと彼らは主張ししているが、そして最大であるという点では私も同意するのである。神殿荒らしや国家に対する裏切りも同様に。しかしながら、これらに関する法はそれぞれ別々なのである。そこで、私にとっては、先ず第一に、殺人の私訴の他の被告たちの場合には、立入禁止を警告する場所、そこで裁判を開いてきた。つまり広場(アゴラ)においてであるということ。第二に、殺人犯は殺し返されるべしと法が規定しているにもかかわらず、私に量刑の査定をしてきたが、それは私に益するためではなく、自分たち自身に利するためであり、しかも、その際に、法に定められた刑量よりもより少ない刑量しか死者に配分しなかったのである。いったい何のためか、話が進むにつれてあなたがたはにわかるであろう。

[11]
 さて第二に、あなたがた皆さんがご存知のことと思うが、いかなる法廷も殺人の私訴を野外で裁くが、その理由はほかでもない、一つには、裁判官たちが両手の清浄でない者たちと同じ建物の中に入らないようにするためであり、一つには、殺人の私訴の原告が下手人と同じ屋根の下にならないようにするためである。しかるにお前は、一つには、この法を踏みにじって他の人たちとは反対のことをしてしまった。もう一つには、お前は最大・最強の宣誓をすべきであった。つまり、殺人そのものについて以外のことでは私を告発すまい〔さもなければ〕、お前自身と子孫とお前の家族に災いあれと呪いをかけて。私が殺害したと称して。その際には、私がいかに多くの悪事を働いていても、本件以外の罪状で罪されることはなく、いかに多くの善事を働いていても、その善行そのものによって助かることもないはずである。

[12]
 これをお前は踏みにじり、自分で自分に法習を見繕い、自分は宣誓もせずに私を告発し、証人たちも宣誓せずに反証しているのである。彼らはお前と同じ宣誓を立て、犠牲獣に手を置いて私に反証しなければならないのにである。その上お前は裁判官たちに、宣誓もせぬ証人たちを信じて、殺人の私訴に有罪判決を下すよう命じている。この証人たちを、お前自身が現行法を踏みにじることによって信用ならぬ者となし、裁判官たちにとってお前の違法行為が法習そのものよりも有力とならねばならないと考えているのである。

[13]
 ところで、お前は言う。もしも私が解放されていたなら、留まることはなく、退去し去っていただろうと。あたかも、お前が私を強制したおかげで、私が心ならずもこの地に入国したかのように。しかしながら、私にとって、この国を奪われても構わなかったら、召喚されても出頭せずに欠席裁判を受けることも私にはできたし、また、最初の裁きで弁明した上で退出することを認められるということも、同じくできたのである。なぜなら、それは万人に共通だからである。しかるにお前は、他のヘラス人たちに共通なことを、私からだけは私的に奪おうとするのである。自分で自分に法を制定することによってである。

[14]
 ところで、こういったことに関する現行の法習が、あらゆる法習の中でも最も美しく最も敬神的であるということは、万人の同意するところであると私は思っている。この法が当地において最古からのものであることはもとより、さらには、同じ事柄には同じ法習が常に対応している、これこそが法習が美しいということの最大の徴である。なぜなら、時間と経験とが美しくないものを人間たちに教え込むからである。それゆえ、あなたがたが為すべきは、告発者の言説を基に法習を、それがあなたがたにとって美しいか否かを学びとることではなく、法習を基に告発者の言説を、それが正しく且つ適法にあなたがたに事実を説明しているか否かを学びとることである。

[15]
 かくのごとくに、殺人に関する法習こそ最美であり、未だ誰ひとりこれを動かそうとした者はいない。しかるにお前だけは、極悪非道にも立法者となろうとしたばかりか、さらには踏みにじって私を不正に破滅させようとしているのである。だが、お前が違法であること、この事実こそ私にとって最大の証拠である。お前はよく知っているからである。あの宣誓をした上で私を反証しようとするような者は、お前にとって独りもいないということを。

[16]
 さらにその上、お前は本件を信ずる者のごとくに本件の争訟を異論の余地なく一回の争訟にとどめることなく、異論と言葉の余地を残したのである。あたかもこれらの裁判官たちさえ信じてはいない者のごとくに。おかげで、ここで私が無罪放免になったとしても、大した意味はなく、悪行者が無罪放免になっただけで、殺人の私訴において無罪になったのではないと、お前は言うことができる始末である。だが、逆に、お前が勝訴すれば、殺人の私訴に負けたという理由で私を処刑するよう主張するであろう。はたして、これ以上恐るべき仕掛けがどうしてあり得ようか。お前たちは、ひとたびこの裁判官たちを説得できれば、お前たちの望むことを遂行できるのに、私には、いったん無罪放免になっても依然として同じ危険が残るとするならば。

[17]
 なおその上に、私が拘禁されたのは、諸君、およそ未曾有の違法きわまりない措置である。なぜなら、私が法にしたがって保証人を3人立てようとしたにもかかわらず、原告たちがこれ〔身柄拘束〕を遂行したために、私は保証人を立てられなくなったのである。他の外国人たちの中で、かつて保証人を立てようとした者が、監禁されたことは一度もない。もちろん、悪行者の取締官たちが適用しているのは、この同じ法である。したがって、この法もその他のすべての人たちに共通であるにもかかわらず、私だけを除外し、監禁から解かないようにしたのである。なぜなら、原告たちにとっては次のことが有利だったからである。

[18]
 つまり、先ず第一に、私がまったく備えなき者となり、自分のことを自分で遂行することができなくなるようにし、第二に、身に害を受けるばかりか、私の友たちまでが、身に害を受けることを理由に、私のために真実を言うよりも、原告たちのために虚偽を証言することの方により熱心になる――そういう友を持つことになるということが。屈辱は我とわが身と、私の身内にまで、その全生涯にわたってふりかかったのである。

[19]
 以上のごとく、じつに多くの点で、あなたがたの法習と正義とに負かされて、私はこの争いに巻きこまれたのである。しかしながら、そうだとしても、やはり、私の無実を立証すべく努めよう。もちろん、久しく虚言され策謀されてきた事柄、これを今ここで糾明することは困難である。予期しなかったことからは、人は身を守れるだけの余裕もないからである。

[20]
 さて、私が出航したのはミュティレネからだったのだが、諸君、この船には問題のヘロデスが乗っており、これが私によって殺害されたと彼らは主張しているのである。たしかに、私たちはアイノスに向けて航海したのだが、私は父親のところへ――その時たまたまそこにいたからである――、ヘロデスの方は、トラキア人たちに人足奴隷を〔身代金を取って〕解放するためであった。だから、同船していたのは、彼が解放するはずの人足奴隷たち、および、解放される〔身請けする〕はずのトラキア人たちであった。それでは、このことの証人たちをあなたがたに差し出そう。

証人たち〔証言する〕


[21]
 これが銘々の航海の理由であった。だが、私たちはたまたまひどい冬の嵐に見舞われ、そのために、メテュムナの領土らしきところに〔船を〕引き揚げざるを得なくなったのだが、そこに船が停泊しており、これに乗り移ったために彼が殺されたと彼らは主張しているのである。
 そこで、先ず第一に、以上のことが生じたのは、私の予謀によってではなく、むしろ偶然によってであるということを考察していただきたい。すなわち、糾明されるのは、私といっしょに同船するよう被害者を説得したなどと私が糾弾されるいわれなどなく、私は私的な用事のために自分で航海をしたということである。

[22]
 また、明らかに、充分な理由なくしてアイノスへ航海したのでもなく、この地に係留したのは、何か企みがあったからでもなく、必然に見舞われたからである。さらにまた、私たちが停泊した後、別の船に乗り換えたのは工作やだまし討ちのためでもなく、それもまた必然によって起こったことである。というのは、私たちが乗って航行していた船には、甲板がなく、乗り移ったのには、甲板があった。つまり豪雨のためにそれが生じたのである。では、このことの証人を差し出すことにしよう。

証人たち〔証言する〕


[23]
 さて、私たちは別の船に乗り移ってから、飲んだ。やがて、彼の方は、明らかに、船から下船して二度と乗り込んでこなかった。私の方は、その夜、船から下りることはまったくなかった。だから、次の日、彼が行方不明となったとき、捜索は他の人たちにいささかも劣らず私によってもなされたのである。現に、恐るべきことだと他の人たちの誰かに思われていたなら、私にとっても同様であった。そして、ミュティレネに報告者が派遣されるに至ったのは私のせいであり、私の考えで派遣されたのである。

[24]
 しかも、他に進んで赴く人が、その船の人たちの中にもヘロデスその人の同船者たちの中にも誰もいない場合には、私は自分の従者を派遣する用意があった。もちろん、自分を密告する者をわざわざ派遣するなどということはなかったろう。とにかく、捜索されたにもかかわらず彼はミュティレネにも他のどこにも見あたらず、私たちにとって航海日和になったばかりか、その他の船舶もすべて航海に上ったので、私も船に乗って立ち去ったのである。それでは、このことの証人たちをあなたがたに差し出すことにしよう。

証人たち〔証言する〕


[25]
 出来事は以上のとおりである。これだけのことを基にして条理にかなったことを考察していただきたい。すなわち、先ず第一に、私がアイノスへの航海にのぼるまでは、被害者が行方不明になったときに、人々の中に私を咎める者は誰もいなかった。この人たちも既に報告を聞き知っていたにもかかわらずである。〔さもなければ〕あのとき私は船に乗って立ち去ることはできなかったであろう。いや、あの当座は、真実や出来事の方が、この人たちの咎め立てよりも有力だったのであり、同時にまた私もまだ滞在していたのである。ところが私が船に乗って立ち去り、原告たちも策謀によってこの件をでっち上げ、私に対して工作した後になって、初めて咎め立てをしたのである。

[26]
 次に、彼らの言では、被害者が死んだのは陸上であって、しかも私が彼の頭に石を投げおろしたのだという。船から下りることはまったくなかった私がである。この件については、原告たちの知っていることはやたらと詳しい。ところが、いかにして被害者が行方不明になったのかは、彼らは何ら条理にかなった言葉によって明らかにすることができないのである。とにかく明らかなことは、どこか港の近くでそれが起こったとするのが条理にかなっているということである。一つには、被害者は酩酊していたのであり、もう一つには、夜、船から下船したのである。すなわち、おそらくは自分を制御できなかったであろうし、連れ去るにしても、夜、長い道のりを〔連れ去る〕理由はないのが条理であろうから。

[27]
 しかも、二日にわたって、港の中も港から遠く離れたところも、被害者の捜索が為されたにもかかわらず、目撃者ひとり現れず、血も他の痕跡も何も見つからなかった。その上、私が原告たちの言葉に同意したとしても、私が船から下りなかったという証人たちを差し出すことができるのである。しかし、万が一、私が船から下りたとしても、人間ひとり行方不明のまま気づかれないというのは、いかなる仕方でも条理にあわないことであろう。海からそれほど遠くは離れていなかったからには。

[28]
 いや、海に沈められたのだ、と彼らは言っている。どの船から? 明らかに、船はその港から出たはずである。すると、どうして見つからなかったのか? 実際のところ、被害者は殺された上で〔船の〕中に載せられ、夜陰に乗じて投げ出されたとするなら、船の中にその痕跡のようなものぐらいあるのが条理であったろう。ところが実際は、船の中で飲み、そこから出ていったのであって、その船の中に痕跡を見つけたと彼らは主張しているが、その船の中で被害者が殺されたのではないことには彼ら自身も同意している。ところが、海に沈められたという船は、船そのものも、何らの痕跡も彼らは発見していないのである。それでは、このことの証人たちをあなたがたに差し出すことにしよう。

証人たち〔証言する〕


[29]
 さて、私がアイノスへの航行途上にあり、私とヘロデスとが船中で飲んだその船がミュティレネに到着してから、先ず第一に、この船に乗り込んで捜索したところ、彼らは血を見つけて、被害者はここで殺されたと主張した。ところが、それは彼らの主張と合致せず、家畜の血であることが判明したので、その発言を撤回し、奴隷たちを逮捕して拷問にかけた。

[30]
 そして、その時その場で拷問された男は、私についてつまらぬことは何も言わなかった。ところが、何日も経ってから彼らが拷問した相手は、それまでずっと自分たちの手元に留め置いたので、この男は彼らに説得されて私について虚言したのである。では、このことの証人たちを差し出すことにしよう。

証人たち〔証言する〕


[31]
 これほどの時を隔てて後に件の男が拷問されたということは、あなたがたに証言されたとおりである。そこで、それがどのようなものであったか、この拷問そのものに心を傾注していただきたい。すなわち、この奴隷は、おそらくは原告たちが、一つには、自由を約束したであろうし、一つには、彼が呵責をやめてもらえるのは連中次第であったから、おそらくはその両方に説得されて私について虚言したのであろう。自由を得られると希望し、当座の拷問を免れることを望んで。だが、私が思うに、あなたがたは次のことをご存知である。

[32]
 つまり、拷問に最も多くの役割を演ずる者たち、この者たちの側に立って、拷問される者たちは何でも彼らの気に入ってもらえそうなことを言いがちだということである。なぜなら、助けになるのは彼らしかいないからである。とりわけ、自分たちが虚言する相手がそこに居合わせない場合には。だから、彼が真実を言っていないとして、これを刑車にかけるよう私が命じたなら、おそらくはたったそれだけで私に向かって虚言しないように気を変えさせることができたであろう。ところが実際は、彼ら自身が拷問者であるとともに自分たちに有利かどうかの評価者でもあったのである。

[33]
 かくして、私に対して虚言することで有利な希望が持てるとわかった間は、その言葉を堅持した。だが、殺されるとわかると、この時になってやっと真実を口にし、私に対して虚言したのは連中に説得されたからだと言ったのである。しかしながら、彼が頑固に嘘を言いつづけようとしたのも、後になって真実を言うようになったのも、いずれも彼の助けにはならず、

[34]
 連中はその男を連行して殺害したのである。私を訴追するために信用したその密告者をである。こうして、他の人たちとは正反対なことを彼らはしたのである。なぜなら、他の人たちなら、自由身分の密告者たちには金品を与え、奴隷たちには自由を与える。ところが原告たちは、密告者に贈り物として死を与えたのである。私が帰ってくるまでにその男を殺さないよう、私の友たちが通告しているにもかかわらずである。

[35]
 それゆえ、明らかに、彼らにとって有用だったのはその身柄ではなくて言説だったということである。なぜなら、件の男が生きていて、私によって同じ拷問にかけられていたなら、連中の策謀の告発者となったであろうが、殺されてしまったので、身は滅んでしまっているのだから、真相究明〔の機会〕を〔私から〕奪ったばかりか、彼によって虚言された言葉の方は、真実なりとしてそれによって私が破滅しかかっているからである。では、このことの証人たちを、〔廷吏よ〕どうか、呼んでください。

〈証人たち〔証言する〕〉


[36]
 つまり、原告たちがなすべきであったのは、私の信ずるところでは、ここに密告者本人を差し出して私を糾明し、彼をこそ争訟に用いることであったのだ。件の男を公廷に差し出し、拷問するよう命じて。殺すのではなくて。それにしても、一体全体、今、彼らはどちらの言葉を採用するつもりであるのか。最初に言った言葉をか、それとも、後の言葉をか。はたしてどちらが真実であるのか。私がその所行を働いたとやつが言ったときか、それとも、それを否定したときか。

[37]
 というのは、条理に基づいて本件を取り調べなければならないとしたら、後の言説の方がより真実のようである。なぜなら、自分が助かるために虚言したわけであるが、その虚言のせいで破滅しかかるや、真実を白状すればそれによって救われると考えたからである。しかし、彼のために真理の報復者となってくれる者は誰もいなかった。私がそこに立ち会っていなかったからである。いれば、後の言説の真実性が私の味方になってくれていたであろう。これに反し、いたのは、最初の言説を虚言されたままに晦まそうとする連中だけであったために、真実に到達することはついぞなかったのである。

[38]
 他の人たちであれば、誰かが自分たちを密告する場合には、彼らは密告者たちを隠したうえで抹殺するのが常である。しかるに原告たちは、自分たちで連行し、本件を調べた上で、私に対する密告者を抹殺したのである。私が、件の男を抹殺したり、彼らに引き渡すことを拒んだり、何か別の糾明を逃れたりしたなら、まさにそのことを彼らは本件に対する最強の証拠として使えたろうし、それこそが彼らにとって私に対する最大の証拠であり得たろう。しかるに実際は、私の友たちが警告したにもかかわらず、原告たちがそれから逃げたからには、私にとってももちろん同様に、それこそが、彼らの咎めだてしている罪状は真実を突いていないという、まさに同じ証拠になるはずである。

[39]
 さらにまた、次のことをも彼らはいっている。拷問にかけられたその男が、被害者をいっしょになって殺害したことに同意していると。これに反し、私の主張するのは、彼が言っているのはそんなことではなく、私と被害者とを彼が船から連れ出したということ、および、被害者が私によってすでに殺されていたのを、いっしょになって運び上げて船に乗せ、海に沈めた、ということである。

[40]
 そこで考察していただきたいのは、先ず第一に、刑車にかけられるまでは、件の男は極端な呵責を受けるまでは真実を口にして私に罪はないと言っていた。ところが刑車にかけられるや、呵責を受けて、その時になって私について虚言したのだが、それは拷問から解放されることを望んだがゆえである。

[41]
 ところが拷問がやむや、私がそういったことを何かしたとはもはや認めず、ついには、私と自分とが不正に破滅させられるといって嘆き悲しんだのである。私への親切からではない――とんでもない。虚言した奴なのに、――そうではなくて、真実によって強制されて、最初の言説こそが真実に陳述されたと確言したのである。

[42]
 その上さらに、もう一人の人物――同じ船で航海し、最後まで乗り合わせて、私の交際者であるが、同じ拷問にかけられながら、件の男の最初の言説と最後の言説とが真であると肯定し、私に罪はないと最後まで言い通し、刑車の上で言われた言説は、これを件の男は真理によってよりは呵責によって言ったのであるが、こちらを否認したのである。すなわち、前者の主張では、私が船から被害者を連れ出して殺害し、自分はすでに死んでいたのを私といっしょになって運び上げたという。後者の主張では、私は船からまったく下りていないというのである。

[43]
 もちろん、条理は私の味方である。なぜなら、むろん私はそれほどの悪人ではないから、被害者の殺害をたった一人で予謀し――というのは、関知する者がいれば、どんな危険が身にふりかかるかわからないから、誰も関知しないようにしながら、すでに犯行が私によって実行された後になって、証人たちや共謀者たちを選任するようなことのないことは、言うまでもないことだからである。

[44]
 また、被害者が殺害されたのは、海と船舶に非常に近い所であったというのが、原告たちの言葉である。だが、たった一人の男に殺されながら、声を上げることもせず、陸の人たちにも船中の人たちにも何も気づかれなかったのか。それも、日中よりも夜間の方が、市街よりも海岸の方が、はるかによく聞こえるのに。それも、人々がまだ起きている間に被害者は船から下りたと言われているのにである。

[45]
 そのうえ、陸で殺害され、船の中に乗せられたにしても、陸に証拠となる血も見あたらず、船の中にも見あたらなかった。夜間に引き揚げられ、夜間に船の中に乗せられたのにである。それとも、このような状況にありながら、陸上にあるのをこすり落としたばかりか、船中にあるのも拭い取れるような人間がいるとあなたがたに思われようか。日中であっても、沈着冷静で恐れを知らぬ人でさえ、完全には消し去ることはできないであろうのに。こういったことが、諸君、どうして条理にかなったことであろうか。

[46]
 したがって、先ずもって思いを致すべきは、――いや、あなたがたに何度も同じことを説明をするからといって、私に憤慨しないでいただきたい。なぜなら、危険は大きいのである。あなたがたが正しく判定する場合、その場合には私は助かるが、真実をくらまされた場合、その場合には私は破滅するのだから――だから、あなたがたの誰一人として次のことを看過してはならないのである。つまり、彼らは密告者を殺害し、そうして彼らが懸命になったのは、彼があなたがたの前に出頭できないようにすることであり、また、私の立ち会いのもとに件の男を連行してこれを拷問することもできないようにすることであった。

[47]
 本当は、原告たちのためになったのはこちらの方であったろう。しかるに実際は、件の男を買い取り、自分たちのために私的に殺したのである。情報提供者をである。国が決議したわけでもなく、被害者の下手人でもないのに。彼らは件の男を身柄拘束されたまま保護するか、私の友たちに担保として預けるか、あなたがた公職者に引き渡すかして、彼について票決ができるようにすべきであったのだ。しかるに実際には、自分たちで件の男に死刑判決を下して殺害してしまった。こんなことは国家にさえ認められていないことである。アテナイ人たちの同意なしに何びとに対してであれ死刑の刑罰を課するなどということは。いや、件の男のその他の言説については、ここなる人たちが裁定者となるようお前たちは要請しながら、犯行については、自分たちが裁判官になっているのである。

[48]
 そもそも、主人を殺害した奴隷たちでさえ、現行犯で捕まえられても、身内の者たちの手で彼らが殺されることもなく、あなたがたの父祖の法習にしたがってこれを公職に引き渡すのである。なぜなら、自由人に対して殺人容疑の証人に立つことさえ奴隷に許されており、主人にも、認められればだが、奴隷のために出廷することができるのであり、票決は、奴隷を殺害した者にも自由人を殺害した者にも等しく可能であるからには、件の男について票決が成立するのことこそが条理であって、裁判なしに彼がお前たちによって処刑されてはならないのである。かくして、私が今お前たちによって不正に被告になっているよりも、お前たちが裁定されることの方が、はるかに義しいということになるのである。

[49]
 さらには、諸君、拷問にかけられた双方の者たちの言説からも、義しさと条理とを考察していただきたい。すなわち、奴隷の方は二つのことを言った。つまり、ある時は、私がその犯行を働いたと主張し、ある時は否定した。ところが自由人の方は、今まで私について何もつまらぬことを述べたことがない。同じ拷問で責められながらである。

[50]
 すなわち、後者には自由をちらつかせても、他方の奴とは違って説得することができなかった。真理を道連れに危険に遭おうとも何であれ必要な受難なら蒙ることを望んだのである。もちろん、有利さの点では、連中の気に入ることを言いさえすれば、いつでもねじられるのをやめさせられるのをこの男も知っていたにもかかわらずである。とすると、どちらを信じるのが条理にかなうことなのか。最後まで同じことをずっと言いつづけた者か、それとも、時には肯定し時には否定した者をか。いや、このような拷問がなくとも、同じ事柄について終始同じことを言う人たちの方が、自己矛盾を来している者たちよりも信頼に足るのである。

[51]
 その上さらに、この奴隷の言説が双方に寄与するところも、いずれにとっても同等で、原告側には肯定が、私の側には否定が分かち与えられるであろう。ところが実際には、等しくなった場合は、原告よりもむしろ被告に有利なのである。投票の数が等しくなったときにも、原告によりもむしろ被告に有利であるからには。

[52]
 拷問というのは、諸君、このようなものであったのだが、これに信を置いて原告たちは、私によって被害者が殺害されたことがよくわかったと主張しているのである。しかしながら、私としては、何か心にやましいところがあったのなら、つまり、何かこのような犯行が私によって働かれていたのなら、二人を完全に見えなくしていたことであろう。一つには、私といっしょにアイノスへ連れて行くとか、一つには、大陸へ〔行くことを〕無理強いするとか、そうやって関知者たちが私に対する密告者として後に残ることのないようにするのが、私の意のままであったときに。

[53]
 さらに、彼らの主張では、船中で手紙を発見したが、これは私がリュキノスに宛てたもので、私が被害者を殺害したという内容だという。しかしながら、私が手紙を送るどんな必要があったであろうか。その手紙を運ぶのは関知者本人であるのに。したがって、一つには、犯人本人の方がより詳しく説明しようとするであろうし、一つには、彼には何も隠しだてする必要はなかったのである。運び人が知り得ないこと、先ずはこれをしたためて人は送るものであろう。

[54]
 次には、とにかく内容の長いこと、それは、長さゆえに報告者が覚えきれないために、これを人はしたためざるを得ないであろう。だが、本件は、件の男が死んでしまったという、報告するに短い内容にすぎなかった。さらに思いを致していただきたいのは、その手紙〔の内容〕は拷問にかけられた者〔の言うこと〕と相違しており、その奴隷〔の言うこと〕も手紙〔の内容〕と相違しているということである。すなわち、奴隷の方は拷問にかけられて自分が殺害したと認めたのであるが、その手紙が開かれてみると、殺害したのは私だと教えているのである。

[55]
 いったい、どちらを信ずべきか。というのは、初めに手紙を探した時には船中に見つけられなかったのに、後になって見つかった。ということは、その時にはまだそういうふうに彼らによって工作されていなかったのである。ところが、その奴隷が初めに拷問された時には、私の不利になることを何もいわなかったので、後になって彼らが船中にその手紙を投げ込み、そうやってこの罪を私に問えるようにしたのである。

[56]
 さらに、この手紙が読み上げられ、後に拷問にかけられた者〔の言うことが〕が手紙〔の内容〕に合致しなかったので、読み上げられた内容はもはや紛らわせようがなかった。すなわち、私について虚言するよう奴隷を説得しようと彼らが初めから考えていたのなら、手紙にある内容を

 
証人たち〔証言する〕


[57]
 被害者を殺害したのが私だとするなら、はたして何のためであったのか。というのは、私と彼との間には何の敵意もなかったからである。しかるに彼らは、私が被害者を殺害したのは親切(charis)からだと敢言するありさまである。いったい、他者に親切をつくすためにそんな犯行を働くような者がいたためしがあろうか。思うに、そんな者は誰もおらず、もしもそんなことを為そうとする者がいれば、彼には大きな敵意が備わっていなければならないばかりか、久しい以前から明白な予謀が策謀されていたのでなければならない。しかるに、私と彼との間には何ら敵意は存しなかったのである。

[58]
 よろしい、もしかして、私自身が彼からそれを蒙るのではないかという恐れを心に抱いたからか。というのも、そのようなことが原因で人はそんなことを働くよう強いられるものだからである。いや、彼に対してそのようなことが私に思い浮かんだことはない。それとも、彼を殺害して金品を取得しようとしたのか。いや、彼には〔財産は〕なかった。

[59]
 いや、むしろ、お前の方こそ、金品のために私を殺そうとしているのだと、このような犯行動機を私がお前に帰する方が、真実を衝いていて条理にかなっていよう。お前が私にあいつ〔を殺害する動機を帰する〕よりは。現に、お前は私を殺そうとしているのだから、私の親類縁者によって殺人罪のかどで罪される方がはるかにより義しいのである。私がお前やあの被害者の血縁者たちによって〔罪させる〕よりは。なぜなら、私の方は私に対するお前の明らかな予謀を立証したのに、お前の方は不分明な言葉で私を破滅させようとしているからである。

[60]
 以上において私があなたがたに述べたのは、私自身には被害者を殺害する理由は何もないということである。だが、どうやら、私はリュキノスのためにも弁明する必要があるらしい。彼を咎めないのが条理にかなっているというのは、彼自身のためだけではないのである。そこで、私はあなたがたに言おう。彼は被害者に対して私と同じ状況にあった、と。すなわち、被害者を殺しても彼の手に入るような財産もなかったし、被害者が死んだとて、逃れられるような危険など何ひとつ彼にはなかったということである。

[61]
 むしろ、被害者を破滅させることを望まなかったという最大の証拠がある。なぜなら、争訟や大きな危険に巻きこめば、あなたがたの法習に基づいて被害者を破滅させることが彼にはできたのである。たとえ、〔被害者が〕償罪の負い目を久しく彼に対して負っていたにしてもである。被害者が不正なることを証明すれば、彼は自分の私的な晴らすばかりか、あなたがたの国に親切を感謝することもできたにもかかわらず、彼は要請せず、これに立ち向かうこともしなかった。実際のところ、危険は彼にとっての方が美しかった〔有利だった〕にもかかわらずである…〔欠損〕…。

証人たち〔証言する〕


[62]
 とにかく、この時には彼は奴を見逃したのである。しかるに、彼が自分をも私をも危険にさらさないではおかないようなところ、そこにおいて策謀していたことになる。この場合、判決が下されれば、私からは祖国を奪い、みずからは神事や清浄事や、その他、人間にとって最大にして最も重要なことをも奪われることになったであろうのに。
 さらにその上、たとえリュキノスが彼を殺害することを何よりも望んでいたにしても――もちろん告発者たちの言い分に立ってのことにすぎないが――、自分で手を下そうとしないような、そんな犯行を私が彼に代わって実行するように説得されるということが、はたしてあり得たろうか。

[63]
 はたして、私は身を賭して危険に挺身することがふさわしいが、彼は金銭で私の危険を買い取るのがふさわしいからなのか〔否か〕。もちろん否である。なぜなら、後者には金銭はなかったが、私にはあったからである。むしろ、正反対に、条理からいえば、私が彼に説得されるよりも速く、彼が私にそれを説得されたことであろう。というのは、彼は5ムナの支払期限超過者となったため、自分を解放することもかなわず、友たちが彼を解放してやったぐらいだから。そればかりか、私とリュキノスとのつきあいの程度も、次のことがあなたがたにとって最大の証拠となる。つまり、私はリュキノスを友として、彼の気に入ることは何でもするほど、それほど親しくは付き合ってはいなかった。なぜなら、言うまでもなく、彼が身柄拘束されて酷い目に遭っているとき、彼のために5ムナを払ってやる代わりに、彼のためにこれほどの危険を引き受けて件の男を殺す、などということは、むろんなかったからである。

[64]
 さて、私自身が本件に咎なく彼もまたないということは、私の可能なかぎりの仕方で証明されたとおりである。ところで、告発者たちは、被害者が行方不明だということに、最も多くの言葉を割いているのだが、あなたがたも、おそらく、このことについてこそ聞くことを渇望しているであろう。しかし、それについて私が条理を通すことを求められるとするなら、それはあなたがたにとってと同じく私にとっても同程度〔の域を出ないの〕である。なぜなら、あなたがたもこの犯行に咎がないごとく、私もないからである、だが、真実を話すことが求められているなら、〔原告たちをして〕犯行者たちの誰かに訊問させるがよい。この者からなら、最も善く聞き出せるであろうからである。

[65]
 しかるに、犯行者ならぬ私には、せいぜい、私は犯行者ではない、ということぐらいしか答えられないからである。これに反し、実行者には立証は容易であるし、立証できなくても、よく条理を尽くすことはできる。なぜなら、悪党というものは、悪事を働くと同時に、自分の不正事の口実をも見つけだしているものである。これに反して、犯行に及んでいない者が、不明な事柄について条理を通すことは困難だからである。だから、私の思うに、あなたがたの各々も、誰かが誰かに、何かたまたま知らないようなことを質問したら、知らないと言うのがせいぜいのところであろう。だから、もっとそれ以上のことを言うよう命じる者が誰かいたら、あなたがたは大変な行き詰まりに陥るだろうと私は思う。

[66]
 そういうわけで、あなたがた自身でさえ切り抜けられないような、そんな行き詰まりを私に割り当てないでいただきたい。また、たとえ私がよく条理を通しえたとしても、これをもって私に無罪放免の根拠があると主張するのではなく、本件に関する私の無実を立証することが私にできれば、それで充分としていただきたい。したがって、私が無実である所以は、いかなる仕方で奴が行方不明になったのかとか、破滅したのかとかいうことを私が見つけだすところにあるのではなく、彼を殺害するということほど私にとって相応しからざることは何もない、というところに存するのである。

[67]
 ところで、私としては人伝に聞いて知っているのだが、今までにもすでに、一つには殺された者たちが、一つには殺した者たちが、見つからなかったというようなことが起こっているという。だからといって、居合わせた者たちがその罪をかぶせられるというのは、美しいことではないであろう。しかるに、今までにも多くの人たちが、別人たちの所行の罪をかぶせられて、その真相が知られないうちに、先に破滅させられるということがあったのである。

[68]
 例えば、あなたがたの同市民エピアルテスを殺害した者たちは今に至るもまだ発見されていない。だからといって、彼といっしょにいた者たちが、誰が殺害者かの条理を述べるべし、さもなければ、〔いっしょにいた者たちが〕その殺人罪の容疑者である、と主張する者が誰かいたなら、いっしょにいた者たちにとって美しくないであろう。そのうえ、エピアルテスを殺害した者たちの場合、その死体を見えないようにしようとはしていない、つまり、この連中の主張では、私は、死を策謀する段階では誰をも共犯者とせず、運びあげる段階で〔共犯者を作った〕というのだが、そのような、危険を冒して事を露見させるような真似もしていないのである。

[69]
 もう一つ、比較的最近のこと、12歳にもならぬ少年奴隷が主人を殺害しようとしたことがあった。そして、〔主人が〕悲鳴を上げたために、恐れをなして、喉に短剣を突き立てたまま逃げ去ったのだが、そうせずに、敢えて留まっていたとしたら、〔いっしょにいた者たち全員に容疑がかかるとするなら〕、家にいる者〔奴隷〕たち全員が破滅させられていたことであろう。なぜなら、その少年がそんなことを敢行するなどとは誰も思わなかったからである。ところが実際は、逮捕されて後に自分で自白したのであった。
 もう一つ、金品については、かつて、今の私と同じように、あらぬ罪をかぶせられて、あなたがたの同盟財務官たちが、一人を除いてその全員が、判決によってよりは怒りによって処刑されたが、後になって事実が判明したことがあった。

[70]
 ところで、この一人は――彼の名はソシアスといわれているが――すでに死刑判決が下されていたが、まだ処刑はされていなかった。そしてその間にも、いかなる仕方で金品がなくなったかが明らかにされ、件の男も、すでに「十一人」に引き渡されていたのだが、あなたがたの民会によって釈放されたのであるが、その他の者たちは何の罪もないのに処刑された後であった。

[71]
 こういうことを、私の思うのに、あなたがたご自身のなかの年長者たちは記憶しておられようし、若い人たちは私と同様聴いておられよう。
 かくのごとく、事件は時間をかけて詮議するのが善いのである。本件も、後になれば、いかなる仕方であいつが死んだのか、おそらく明らかとなるであろう。だから、あなたがたは、私が無実であるのに、破滅させた後になって、そのことを認識するようなことがあってなならず、前もってよく評議して、怒りや中傷に駆られてはならないのである。この連中ほど邪悪な忠告者は他にいないと考えて。

[72]
 なぜなら、何であれ、怒りに駆られた人間がよく判断しうることはないからである。すなわち、それは、評議する道具である人間の判断力をだめにするのである。ところが日々の経過こそ偉大にして、諸君、判断力を怒りから解き放ち、出来事の真相を見つけだすことができるのである。

[73]
 さらに、よくご承知のとおり、私は償いをするよりも、むしろあなたがたによって同情されるに値するのである。なぜなら、償いをするのが条理なのは不正者たちだが、同情されるの〔が条理なの〕は不正に危険にさらされる者たちなのだからである。そこで、私を義しく救うことの可能なあなたがたの力の方が、私を不正に破滅させたがっている敵たちの力よりも、常に勝っていなければならないのである。なぜなら、留保すれば、原告たちが命じているような恐るべきことを実行する可能性もある。だが即決すれば、正しく評議することは初めから不可能なのである。

[74]
 さらに、私は父のためにも弁明しなければならない。本来なら、彼が、父親として、私のために弁明するのがはるかに条理であったろう。なぜなら、前者は私の人生体験〔の期間〕よりもはるかに年長であるのに、私の方は父によって為されたこと〔の期間〕よりもはるかに年少だからである。そうして、原告が争訟しているときに、私が詳しくは知らないくせに、聞いて知っていることをもって相手に反証したとしたら、私によって恐るべきことを蒙ると主張したことであろう。

[75]
 ところが実際は、私がはるかに年少〔なために実際には知らないが〕言葉で知っている事柄の弁明をするよう強制しながら、それが恐るべきことをしでかしているとは考えていないのである。とはいえ、しかしながら、私が知っている範囲で、あなたがたの前で不正にも悪く〔言われるのを〕聞かされるがままに任せておくつもりはない。もちろん、父が行いによって正しく為したこと、これを私が言葉によって正しく弁じないために、失敗するかも知れない。とはいえ、やはりその危険は冒されなくてはなるまい。

[76]
 さて、ミュティレネ人たちの反乱が起こるまでは、あなたがたへの好意を行いによって示していた。ところが、国家全体が反乱するという悪い評議を下し、過ちを犯したために、国家全体といっしょに過ちを犯さざるをえなくなったのである。もちろん、そういう状況にあっても、あなたがたに対する考えは依然として同じであったが、あなたがたに同じ好意を示すことはもはや父の思いどおりにはいかなかった。なぜなら、国を後にするということも彼にとっては生やさしいことではなかった。自分を頼りとする担保、つまり子供たちや財産がたっぷりあったからである。また、国に留まるかぎり、それを確保することも不可能であったからである。

[77]
 しかし、あなたがたは、それらの責任者たち――その中に私の父が含まれていなかったことは明らかである――を懲罰したが、その他のムティレネ人たちには自分たち自身の土地に住む免罪を与えた後、それ以後は父によって過ちが犯されたようなことはなく、必要なことで実行しなかったようなこともなく、あなたがたの国であれミュティレネ人たちの国であれ、およそ国家が必要とする公共奉仕もしなかったこともなく、合唱隊奉仕にも奉仕し、関税をも納めたのである。

[78]
 なるほど、アイノス逗留が好きだったにしても、だからといって、国への務めは何一つ怠ったわけではなく、別の国の市民になったわけでもない。私が眼にするような連中とは違うのである。連中ときたら、ある者たちは本土に渡ってあなたがたの敵国人たちの間に住み、ある者たちは、条約に基づいて裁判沙汰までもあなたがたに提訴するのであるが。父が逃れようとしたのは、あなたがた大衆でもなく、あなたがた憎んでいるような告訴屋たちであったのだ。

[79]
 そういうわけで、国家全体との関係で、考え方によってよりはむしろ必然によって父が実行したこと、これの償いを私の父が私的にすることは義しいことではない。なぜなら、その時の過ちは全ミュティレネ人たちの永遠の記念だからである。すなわち、多大な善運を取り替えて多大な悪運となし、自分たちの祖国の崩壊を目撃したのだからである。これに反し、原告たちが私の父を私的に中傷していることを、あなたがたは傾聴すべきではない。なぜなら、私と父とに対するこの企みのすべてが財産目当てだからである。しかるに、多くのことが、他人のものを狙おうとするこの連中に寄与しているのである。父は私を助けるにはあまりに老齢であり、私の方は自力で充分に報復出来るにはあまりに若輩なのである。

[80]
 いや、あなたがたが私を助けてくださるべきであり、告訴屋たちがあなたがた自身よりも大きな権力を握るなどと教えるべきではないのである。なぜなら、もしも、連中があなたがたの前に出頭しながら望むがままのことを実行するようなことになれば、この連中には聴従すべし、されどあなたがた大衆は避けるべしと示されたことになる。これに反し、もしも、あなたがたの前に出頭して自分たちは邪悪な者と思われるばかりか、連中にとって何の得にもならないなら、名誉と権威はあなたがたのもとなるであろう、それこそが義しいのであるが。だから、あなたがたは私ばかりか正義をも助けるべきなのである。

[81]
 さて、人間的な証拠と証人たちとにもとづいて、弁明できるかぎりのことは、あなたがたのお聞きのとおりである。だが、こういったことについては神々から示される徴表によっても決定をくだされんとする者たちは票決されなくてはならない。というのも、国家共通事のときは、これが危難にあることも、これが危難にないことも、あなたがたはそれを最高に信じて安全に遂行するのだからである。だから、私的な事に関しても、それが最大にして最も信頼に足ることと考えるべきである。

[82]
 というのは、あなたがたはご存知だと私は思うが、今までにも多くの人たちが、両手が清浄でないとか、あるいは、何か他の穢れを持っているにもかかわらず、船に乗り合わせたために、自分たちの魂だけでなく、神々に関わることで敬虔であった人たちまでも共に破滅させたということ。もう一つは、やはり、他の人たちは破滅しなかったけれども、そういった連中のおかげで極端な危難にさらされた。もう一つは、神事に参列したじつに多くの人たちが、敬虔でないことが明白となったが、それは神事がしきたりどおりに進行するのを妨げたからである。

[83]
 ところで私にとっては、それらすべての場合に正反対のことが起こったのである。すなわち、一つには、私がいっしょに航海した同行者たちは、最美の航海を享受したのである。一つには、私が神事に出席したときには、神事が最美に運ばなかったときはないのである。これが、この罪状に対して、原告たちが私を告発しているのは真実でないという、私にとっての大きな証拠であると私は主張する。また私にはこのことの証人たちもいるのである。

証人たち〔証言する〕


[84]
 さらに、次のことも私は知っているのである、諸君。つまり、もしも証人たちが私に反証して、航海とか神事に私が出席しているときに何か不敬なことが起こったというなら、まさにこのことを彼らは確固たる証拠として使ったであろうし、この罪状の確証はこれで明快至極であると言明したであろう。神々からの徴表をもって。ところが実際は、徴表は原告たちの言説とは正反対であり、証人たちは私の言っていることが真実であると証言しているのみならず、原告たちが〔言っていることは〕虚偽だと告発しているのであり、あなたがたには証人たちを信じるよう命じ、自分たちが言っている言説をあなたがたは信じるべきだと主張しているのである。つまりは、他の人たちなら、諸々の行いによって言説を糾明するのだが、原告たちは言説によって諸々の行為を不信の対象と化そうとしているのである。

[85]
 さて、告発された事柄の中から、私の記憶しているかぎりのことは、諸君、私の弁明したとおりである。そこで、私の思うに、あなたがた自身のためにもあなたがたは私を無罪放免すべきなのである。なぜなら、その同じことが私を救うばかりか、あなたがたにとっても法と宣誓とにかなったことが生じるからである。すなわち、法習に従って裁かんとあなたがたは誓った。ところが私が連行起訴された所以の法に対して、私は有罪ではなく、私が咎めを受けている罪状については、法の上で争う余地が残されているのである。しかし、一つの争いから二つの争いが生じるとしても、その責めは私ではなくて、告発者たちにある。もちろん、私の敵対者たちが私について二つの争訟を引き起こしたのだが、裁判の等しい判定者たるあなたがたまでが、この争訟において私を殺人罪で予断を持って有罪判決を下す、などということはあるはずもない。

[86]
 あなたがたが、諸君、先走ってはいけません。そうではなくて、いささかなりとも猶予を与えてください。その間に、この事件の真相を究明しようとする人たちが最も正しく発見するだろうから。そういうわけで、私としてはこういったことについて、諸君、裁判は法習に従うべし、しかし義しさは法習に従ってできるかぎり何度も糾明さるべしと要請していたのである。なぜなら、それだけより善く認知されることができよう。というのは、争いの回数を多く重ねるのは、真理には味方するが、中傷には最も敵対的だからである。

[87]
 要は、殺人の私訴は、下された判決が正しくなかった場合でも、正義や真実よりも断固たるものである。なぜなら、あなたがたが私に有罪票決を下した場合、私が人殺しではなく、その犯行に無実であったとしても、裁きと法に服するのが必然だからである。したがって、自分は無罪であると自分で信じているからとて、すでに下された裁きを踏みにじろうとする者も、そのような犯行を働いた覚えは自分にはないからとて、法に服そうとしない者もありえない。つまりは、真実と相違していても裁きの方に屈服させられるとともに、真実そのものにも屈服させられるのが必然である。とりわけ、報復しようとする者がいない場合には、そうである。

[88]
 だから、まさにこういう裁判のための法習、宣誓、供犠、公告、その他、殺人の裁判のために生ずるかぎりのものが、その他の裁判のため〔に生ずるもの〕とは大いに異なっているのは、事柄そのもの――危難が関わっている事柄こそが正しく判決されるのが最も重要だからである。というのは、正しく判決されれば、不正された者にとって報復となるが、罪なき者が人殺しとして票決されれば、神々に対しても法習に対しても過ちであり涜神行為であるからである。

[89]
 また、原告が正しく咎めないことと、あなたがた裁判官が正しく判決をくださなこととは同じではない。なぜなら、この連中の咎めだては決定的なものではなく、あなたがたと裁判次第なのだからである。だから、とにかく、この裁判においてあなたがたが正しく判決を下さないなら、その過ちをどこかになすりつけようとする人がいても、これをないものとしうるところはないのである。

[90]
 しからば、いかにすればあなたがたはこのことについて正しく裁きうるのか。原告たちには、しきたりの誓いを立ててから告発するようにさせるとともに、私にも、まさに本件についてのみ弁明するようにさせることによってである。では、どうすればそうさせられるのか。今は私に無罪票決を下すことによってである。そういうふうにしても、私があなたがたの判決を免れることはなく、あなたがたはこの時でも私について票決を下す者となるであろうからである。今は私に容赦を与えたとしても、後日、あなたがたは何でも望みどおりに処置できるのであるが、破滅させてしまっては、私について評議する余地さえもうなくなるのである。

[91]
 実際のところ、何か過ちを犯す定めがあるなら、不正に無罪放免することは、破滅させたことが義しくなかった場合よりも敬神的なことである。なぜなら、前者は単なる過ちにすぎないが、後者は涜神行為でもあるからである。だから、大いに先慮しなければならないのである。治しようのない行いをしようとする人たちは。なぜなら、治しようのあることにおいては、怒りにかりたてられてにせよ、中傷に説得されてにせよ、過ちはより少ない。考えを変えさえすれば、人はまだ正しく評議できるからである。だが、治しがたい事柄においては、過ちを犯してしまった者たちが心を入れ替え〔過ちを〕認知することは害を大きくするだけである。現に、今までにも、あなたがたの中には、破滅させてしまったことで後悔している人たちがいる。しかしながら、あなたがたは騙されて後悔したのであるから、もちろんのこと、騙した者たちこそを破滅させてしまうべきであったのだ。

[92]
 さらにそのうえに、不本意なことで過ちを犯した者たちには宥恕があるが、自発的に〔過ちを犯した者に〕は宥恕はない。なぜなら、不本意な過ちは、諸君、運にすぎないが、自発的な〔過ち〕は意思だからである。いったい、考えをはたらせた事柄、これをその場で何びとかがしでかす場合ほど自発的なことがどうしてあり得ようか。実際のところ、不正に殺害するに、手を用いる者と票決を用いる者と、少なくとも力の点では同等なのである。

[93]
 さらに、よくおわかりのとおり、このようなことについていささかなりと身にやましいところがあったなら、私が当国にやって来ることは決してなかったであろう。ところが実際は、〔当国にやって来たのは〕正義を信じたからであり、正義ほど価値ある戦友は存在しないのである。不敬なことを働いたというやましさは何もなく、神々に対しても涜神を働いたことのない者にとっては。というのは、今までにもこういう場合に、身体は疲労困憊してしまっていても、魂が救出してくれたことがあるのである。身にやましいところがないゆえに艱難辛苦する用意のある魂が。これに反して、やましいところのある身には、そのこと自体が第一の敵である。なぜなら、身体は依然としてまだ強壮であっても、魂の方が先に参るからである。自分に迫ってくる報復を、不敬涜神行為のそれだと考えて。ところが私は、そのようなことは何もやましいところがないから、あなたがたの前にやってきているのである。

[94]
 ところで、告発者たちが中傷するということは、何ら驚くべきことではない。なぜなら、それこそが連中の仕事であるからだが、しかしあなたがたの仕事は義しくないことは聞き入れないことである。いうところの意味は、私に聴従することであなたがたが後悔するなら、改めて懲罰することがその薬になるが、連中に聴従して、原告たちの望むがままのことをしでかしたら、癒しにはならないということである。また、時の経過というものも長くはかからない。その期間内に、今、あなたがたが違法に票決するよう告発者たちが説得しようとしている当のことを、あなたがたは適法に実行できるのである。事は決して急ぐべきではなく、よく評議すべきことである。したがって、あなたがたは今はこの私訴の審理範囲の認知者となるだけで、裁判官となるのは後日にすることである。今は心証形成者となるだけで、真実の判定者となるの後日にすることである。

[95]
 よろしいか、死罪の被告になっている人物に対して虚偽の反証をするのはきわめて容易なことなのである。なぜなら、その場かぎりの説得をして処刑することさえできれば、身体と同時に報復もなくなってしまうからである。すなわち、友たちでさえ、破滅してしまった者たちのためにはもはや報復しようとはしないものなのである。たとえ望んだとしても、刑死してしまった者にどんな得があるであろうか。

[96]
 だからこそ、今は私に無罪票決していただきたい。だが、〔後日〕の殺人の私訴においてなら、原告たちがしきたりどおり宣誓を立てた上で私を告発することになり、またあなたがたも私について現行の法習に従って判決を下すことになり、そうなれば私にとっても、何か受難したとしても、違法に破滅させられたなどと言える道理はもはやないであろう。
 以上のことを、よろしいか、私はあなたがたにお願いするのであるが、その際、あなたがたの敬虔さを無視してもおらず、自分の義しさを失ってもいないのである。だが、私の救いもあなたがたの誓い次第である。それでは、以上の中から何でもあなたがたの望むところに聴従して、私に無罪票決を下していただきたい。
                            (1996.5.29.)
                           アー、しんど!
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