Antiphon第5弁論
[1] 人間たるものにとって最高に悦ばしいのは、裁判官諸君、身に何らの危険も生じぬことであり、祈る者は誰しもそのことを祈るであろう。したがって、また、万が一、危険を冒さざるを得なくなった場合でも、少なくとも備わってほしいのは、こういう事態においても最も大事だと私が信ずる当のこと、つまり、自分は何らの過ちも犯してはいないと、みずからにやましいところがなく、何らかの災禍が生じるにしても、それが生じるのは悪徳や恥辱とは関わりなく、つまりは不正によってよりはむしろ運によって〔生じるの〕だということである。 [2] また、こういった事柄に関する現行の法習は、法習の中でも最美にして最も敬虔に制定されているとは、万人の賞揚するところである。なぜなら、本来、法習はこの地における最古の存在であり、しかも、同じ法習は常に同じ事柄を対象としており、こういったことこそが、法習が美しく制定されていることの最大の徴だからである。すなわち、時間と経験は何が美しくないかを人間たちに教えるものである。したがって、あなたがたのなすべきことは、告発者の言説を基に法習が美しいか否かを学ぶことではなく、法習を基に連中の言説を〔学ぶことである〕、正しく且つ適法的にあなたがたに教えているか否かを。 [3] ところで、この争訟は、危険が身に及び訴追されているのが私であってみれば、私にとって最大のものである。とはいえ、私の考えるに、あなたがた裁判官にとっても、殺人罪の裁きを正しく審理するということが重要であり、それは何よりもまず神々と敬神のためであり、第二にはあなたがた自身のためでもある。というのは、こういうことに関する裁きはたった一回切りである。だから、この裁きが正しく有罪判決を下さなくても、義しさと真実さよりも強力なのである。 [4] なざなら、殺人犯でない者やその犯行に有罪でない者でも、あなたがたがいったん有罪判決を下せば、その裁きに服し、国家や神域や諸々の競技や供犠や、人間たちにとって最大最古のものから、法によって閉め出されることを強制されるからである。すなわち、これほどの強制力を法は持っているのであって、その結果、人が自分の支配下にある者たちの中の誰かを殺害し、しかも報復しようとする者がいない場合でも、しきたりの力と神威を恐れるあまり、みずからを清浄にし、法に述べられている場所からは身を引くのである。そういうふうにすれば、最善に行えると希望するからである。 [5] なぜなら、人間の人生の大部分は希望を頼りとしている。ところが、涜神を犯して神々に関することを踏みにじる者は、人間たちにとって最大の善きものである希望そのものさえも、自分で自分から奪うことになるからである。現に、犯行に有罪でないと信じるからといって、下された裁きを踏みにじろうとするような者も、逆に、自分ではそのような犯行を働いたという後ろめたさを感じながら、法に服そうとしないような者も、誰もいないであろう。要は、裁きが真実と無縁であっても服すばかりか、報復しようとする者がいなくとも、真実そのものに服することを強制されるのである。 [6] だから、まさにこういったことが原因で、法習や宣誓や犠牲や公告や、その他にも殺人罪の裁きにのために生ずる限りのことが、その他の訴訟の場合とは大きく異なる所以は、諸々の危険がかかわる事柄そのものを、正しく審理することが最も重要だからである。なぜなら、正しく判決を下されることは、不正された者にとっては報復となるが、無実の者が殺人犯として票決されることは過ちであり、神々のみならず法習にとっても涜神行為だからである。また、原告が正しく咎めだてしないことと、あなたがた裁判官が正しく審理しないこととは同じではない。なぜなら、前者の咎めだては最終決定ではなく、〔最終決定は〕あなたがたとこの裁きとの成り行き次第だからである。とはいえ、あなたがたが正しく審理しないなら、その責めをどこかに着せようとする者がいても、のがれられる余地はないのである。 [7] ところで、諸君、私がこの弁明に関して有している考えは、告発者たちが告発に関して有しているそれと同じではないのである。なぜなら、連中は敬神のため、また正義のために訴追をなしていると称しているが、告発は全体として中傷と欺瞞のためになしており、これこそは人の世における最高の不正である。つまり、彼らが望んでいるのは、私が何らかの点で不正しているなら、〔それを〕糾明して、私に義しく報復することではなく、中傷して、私が何ら不正していなくとも、危害を加えて、この地から追放することなのである。 [8] そこで、私が要請するのは、先ず第一に、本件そのものについて答えること、および、出来事のすべてをあなたがたの前で陳述すること。第二には、連中が告発しているその他の内容について、あなたがたによろしければ、弁明させていただきたい。というのは、それによって、私には名誉と利益をもたらし、だが告発者にして侮辱者の連中には恥辱をもたらすと考えるからである。それどころか、実際は恐るべきことなんですよ、みなさん。 [9] 彼らには、私が合唱隊奉仕とか他の何らかの事柄において国家に対して何か不正したのなら、暴露・糾明して、敵対的なやつとして報復し、国家に利することができたとき、この時には彼らの誰一人として、この野郎はあなたがた大衆に不正していると、小事も大事も糾明することができなかった。しかるにこの争いにおいては、殺人罪の原告となり、しかも法は、案件そのものを告発すべしというふうに定めているにもかかわらず、私に対して工作し、国家に関わる事柄で、虚偽の話を拵えて、中傷を加えているのである。また、国家には、〔国家が〕不正されたのなら、報復の代わりに告発を配当し、自分たちの方は、国家が不正されたと称しながら、その償いを自分たちが私的に取得しようとしているのである。実際のところ、これらの告発は感謝にも信頼にも値しない。なぜなら、彼らが告発を為している所以は、国家が何らか不正された場合に、その償いを国家が受け取るためであるなら、国家にとって感謝に値しようが、そのためでないのは勿論のこと。本件のような事案において訴追する事柄とは別の事柄を告発するような者は、信ずるに値しないのは勿論、むしろ信ずべきではないのである。だから、私としては、あなたがたの考えがほぼわかっているのである。 [10] つまり、本件そのものとは異なる別の案件のために、有罪票決なさることもなく、無罪票決なさることもないと。なぜなら、それが義しくもあり敬虔なことでもあるからである。では、以上の点をおさえて私は始めよう。 [11] 私がタルゲリア祭の合唱隊奉仕者に任ぜられ、パンタクレアを教師として、また私の部族に加えてケクロピダ部族を抽選された後、私は可能なかぎり最善に且つ最も公正に合唱隊奉仕を務めたのであった。つまり、先ず第一に、教場として私の屋敷の中で最も都合のいい部屋をあてがったが、これはディオニュシオス祭で私が合唱隊奉仕をした時にも教場に使ったものであった。第二に、合唱隊募集も可能なかぎり最善におこなったから、誰をも罰することもなく、抵当を力ずくで取ることもなく、誰にも憎まれることもなく、むしろ、両者にとって最も悦ばしく都合このうえないかのように、私は命じ要望し、彼らは自発的に望んで送ってくれたのであった。 [12] しかし、少年たちがやってきてから、先ず第一に、私には側にいて監督する暇がなくなった。なぜなら、私にはアリスティオンおよびピリノスとの間にたまたま面倒が起こり、弾劾裁判を起こしてからは、これを評議会と他のアテナイ人たちに正当かつ公正に明示することを私は重視したからである。そこで、私は、この件に心を傾注する一方、合唱隊に何か必要があった場合の監督に任じたのが、パノストラトスで、彼はこれら原告たちの同区民ではあるが、私の義理の息子で、これに私の娘をやったのである――これに出来るかぎり最善に監督するよう要請したのである。 [13] なお、彼に加えて、二人の人物――一人は、エレクテドス部族のアメイニアスで、折々の募集と部族の監督をするよう同部族民たち自身が票決した人で、有為の士と思われた人物、もう一人は、ケクロピド部族の--(欠損)--で、彼もまたその都度この部族から募集することを常としていた。なお、第四番目はピリッポスで、彼には教師や誰かその他の者たちが何か言ったときに購入や出費をするよう下命し、かくして、少年たちが出来るかぎり最善に合唱隊奉仕を受け、私の多忙さが原因で欠けるところが何もないようにしたのである。 [14] 合唱隊奉仕の方はかくのごとくに取り計らわれた。しかし、以上の点で何か私が言い逃れのために虚言しているなら、告発者には何でも望むことを次の弁論の際に糾明することが出来るのである。それどころか、実状はこれこのとおりなんですよ、みなさん。これら取り囲んでおられる人たちの多くは、事情そのものはすべて精確にご存知であるばかりか、宣誓係官からも耳にされており、私がどんなことを答えるか私に心を傾注しておられるのであり、この人たちに私は自分が宣誓に相応しい者であると思われたいばかりでなく、真実を述べることで私に無罪票決するようあなたがたを説得したいのである。 [15] そこで、先ず第一に、私があなたがたに明示しようとするのは、少年に薬を飲むよう命じたことはなく、強制したこともなく、与えたことも、飲む時に側にさえいたこともないということである。しかし、以上のことを大いに強調する所以は、自分を罪状から無縁とし、誰か別人を罪に陥れるためではない。むろん、私としては〔そんな気はない〕、運命でないかぎりは――運命こそは、私が思うに、人間たちの他の多くの人たちにとって死の原因である。私にしろ他の誰にしろ、各人に--〔定められた運命〕が生じないように逸れさせることはできないのである。 [16] 証言されたことは、諸君、本件について私があなたがたに約束したとおりのことである。そこで、以上のことそのものを基に考察すべきは、原告たちが宣誓供述した内容と私が宣誓供述した内容と、どちらがより真実にしてより宣誓にかなっているかということである。つまり、原告たちの方は、私がディオドトスの死を策謀して殺害したと宣誓供述し、私の方は、殺害していない、まして手づから犯行におよびもしていないし、策謀もしていないと。 [17] さらに、原告たちはそのことを基に咎めだてをし、咎があるのは、少年に薬を飲むよう命じた者ないし強制した者ないし与えた者だという。だが私は、原告たちが咎めだてしている当の事柄を根拠にして、私は無実であることを明らかにしよう。すなわち、私は命じたことも強制したことも与えたこともないのである。なおそのうえに、飲む時に側にいなかったということも付け加えたい。いやしくも、誰か命じた者がいるなら不正だと彼らが主張しているなら、私は不正ではない。命じなかったからだ。いやしくも、誰か強制した者がいるなら不正だと主張しているなら、私は不正ではない。強制しなかったからだ。いやしくも、薬を与えた者に咎があると主張しているなら私に咎はない。私は与えなかったからである。 [18] たしかに、咎めだてすることや有罪票決することは、望む者にとっては可能である。それぞれの者がその権利を持っているからである。しかしながら、生起しなかったことが生起したとか、不正していない者が不正したとかは、この連中の言説によって決まるのではなく、正義と真実によって決まるのだと私は考える。もちろん、人知れず為されたこと、殺害を目的に策謀されたこと、こういった、証人のいない事件については、告発者と弁明者との言説そのものを基に判断を下すべく、言われた内容を追跡もし、ほんのちょっとしたことから推測もして、はっきり知ってよりはむしろ尤もらしさから事件について票決するよう強制される。 [19] ところが、先ず第一に、告発者たち自身が同意しているとおり、少年の死が生じたのは予謀(pronoia)によってではなく、まして企み(paraskeue)によってでもなく、第二に、為されたことはすべて公然と、しかも多くの証人たち――大人に子供、自由人に奴隷――の面前で為されたのであり、このことから、いやしくも、誰かが何か不正したのなら、明々白々であろうし、また、不正した者を咎めだてしない者がいれば、〔その者が〕真っ先に糾明されることであろう。 [20] ところが、思いを致すべきは、諸君、訴訟相手たちの考え方と、事件に着手する仕方との両方である。なぜなら、原告たちが私に対して為していることと、私が彼らに対して為していることとは、初めから何ら等しくないからである。 [21] すなわち、このピロクラテスがテスモテタイの公廷(heliaia)に出頭して述べた日は、少年が出棺される当日で、合唱隊にいる彼の兄弟に薬を飲むよう私が強制して殺したというのである。これに対して、原告が以上のことを述べた後、私は民衆法廷に出頭して、同じ裁判官たちに述べたのである。つまり、ピロクラテスが私より先に告発し法廷に引き込むのを認めるのは、法的に義しくない、なぜなら、アリスティオンおよびピリノスと私との争いが、翌日および翌々日に予定されており、まさにこのために彼は言説を述べているからである。 [22] しかし、彼が咎めだてし中傷している内容は、彼の虚言であることの糾明が容易である。というのは、よろしいか、関知している人たちは多く、自由人に奴隷、若者に老人たちと、合計で50人以上もおり、この人たちが、薬を飲んだことについて言われている言説も為されたことも、生じたこともすべてを知っているからである、と。 [23] こういったことを民衆法廷で述べたばかりでなく、すぐその時に彼に申し入れをし、次の日にもまたもや同じ裁判官たちの前で繰り返し、彼が望むだけの証人を得るために居合わせた人たちのもとへ行くよう命じ、彼のために一人一人名前を挙げて、この人たちに尋問し糾明するよう〔命じたのである〕、自由人たちなら、自分たち自身と正義のために、真実と生起したことを述べるのだから、それに相応しい仕方で〔尋問し糾明するように〕、また、奴隷たちなら、彼の尋問に真実を述べているように思われればよし、さもなければ、自分のところの奴隷たちならすべて拷問に差し出す用意があるし、他人の奴隷たちの何人かを彼が命ずるなら、その主人に差し出すよう説得して、どんな仕方であろうと彼の望む仕方で拷問することを彼に同意したのである。 [24] しかも、法廷で私が申し入れをし、述べたとき、当の裁判官たちも他の私人たちも、多くがこのことの証人として居合わせたのであり、そのときその場でも、後日いついかなる時も、この点で彼らが係争しようとしたしたことは一度もなかったのは、彼らはよく知っていたからである――私に対するこの糾問は自分たちのためにはならず、むしろ彼らとは反対に私のためになる、と。何ら義しいことを咎めだてしておらず、真実さえ咎めだてしていないからである。 [25] ところで、諸君、ご承知のとおり、これらの強制は人の世において最強・最大の存在であり、これに基づく糾明は、義しさに関して明白至極にして最も信頼に足るものである。関知者の多くが自由人であれ、奴隷であれ、自由人たちには、自由人にとって最大にして最も重要なもの、つまり、宣誓と信用によって強制でき、奴隷たちには、別の強制によって――白状すれば殺されることになっていても、それでもやはり真実を言うよう強制される。なぜなら、さしあたっての強制は各人にとって将来の強制よりも強力だからである。 [26] そういうわけで、私は以上すべてのことを彼らに申し入れたのであり、したがって、人間であれば真実と正義を訊き出すことのできる相手から訊き出すことが彼らにはできたのであって、何ら釈明の余地はなかったのである。しかも私の方は、咎めを受け不正者として――そう原告たちは主張しているのだが――、彼らにとって最も義しい糾明に我が身を差し出す用意があった。しかるに、何か不正されていたにしても、糾明することを拒んだのは、咎めだてをし不正だと主張する当人たちにほかならなかったのである。 [27] 万が一にも、この連中が申し入れをしているのに、居合わせた者たちをあきらかにすることを拒んだり、奴隷奉公人たちを、咎めだてする者たちに引き渡すのを拒んだり、他の何かの申し入れを回避したのが私だったら、これらの事実すべてを、私に向かって罪状は真実なりという最大の証拠として使ったことであろう。ところが、私が申し入れをしているのに、原告たちが糾明を回避したのだから、もちろん、同じ道理で、私に対して彼らが咎めだてしている罪状は真実でないという、彼らに対する私の側の証拠となるのが義しいのである。 [28] さらに、次のことも私は承知しているのである、諸君、つまり、居合わせた証人たちがすべて連中のために私に反証したのなら、彼らはまさにこの人たちを最強の証人として使ったであろうし、これを――反証した証人たちを――明々白々な証拠だ言明したことであろう。ところが、その同じ証人たちが、私の言っていることは真実であるが、原告たちの言っていることは真実でないと証言しているにもかかわらず、私のために証言している証人たちを、あなたがたが信じないようにと連中は教え、自分たちの語る言説は、あなたがたは信じなければならないと主張しているのである。私が証人たち抜きに述べれば、虚偽だと告発したにちがいない言説をである。 [29] まことにもって、恐るべきことである――同じ証人たちが、彼らのために証言すれば信ずべきものとなり、私のために証言すれば、信ずべからざるものになるとしたら。そこで、証人たちがまったく居合わせなかったのに、私が差し出したとか、居合わせた者たちを差し出さなかったとか、関係のない誰か別人を差し出したとかしたのなら、彼らの言説の方が私の証人たちよりも信用に足るというのは尤もなことである。これに反し、証人たちが居合わせたことに同意するばかりか、私も居合わせた人たちを差し出し、初日からすぐに、私自身も証人たちもみな、今あなたがたに言ったと同じことを言っていること明らかなときに、諸君、こういったことに基づく以外に、真実を信ずべきこと、あるいは、真実ならざることを信ずべからざることとする根拠が、ほかにあるであろうか。 [30] なぜなら、為されたことについて言葉では教えるが、証人たちは差し出さないような者がいれば、その言説は証人を欠いていると人は主張するであろう。他方、証人たちは差し出すが、今度は証人たちに等しい証拠を明示しなければ、望む人がいるなら、同じことを言うことができよう。 [31] ところが、私があなたがたに宣明しているのは尤もらしい言説と同時に、言説に合致する証人たちであり、証言に合致する行いであり、行いそのものから結果する証拠であり、なおそのうえに、これらに加えて二つの最大最強のもの、つまり、彼ら自身によって糾明され、また、私によっても糾明された彼ら自身と、および、逆に、連中と私自身とによって無罪とされた私をである。 [32] というのは、原告たちが咎めだてしている事柄について、私が糾明せんとしたとき、彼らは何らか不正されたのかどうか糾明することを拒否したのであるからには、むろん私を無罪としたことになり、自分たち自身に対しては、自分たちが咎めだてしているのは何ら義しいことではなく、真実でさえないということの証人に、自分でなっているのである。実際のところ、私の証人たちに加えて、訴訟相手自身を証人として差し出しているのに、罪状から無罪放免されるためには、これ以上にどこへ赴けばいいのか、あるいは、いかに証明すればいいのか。 [33] さて、私の考えるに、陳述された事柄に基づいても、証明された事柄に基づいても、諸君、あなたがたが私に無罪票決するのは義しいであろうし、この罪状に私が何ら該当しないということは、すべての人たちがご存知である。しかし、なおもっとより善くあなたがたが学ぶため、そのためにもっと多く語り、あなたがたに証明したい――この告発者連中は、人間たちのうち最も宣誓に外れ、最も涜神的な者たちであり、この裁判のせいで、私によってのみならず、あなたがたみなさんやその他の同市民たちによっても、憎悪されるのが当然であるということを。 [34] すなわち、原告たちは、少年が死んだ初日と、次の、横たえられていた日には、この事件において不正だとして私を自分たちからは何ら咎めだてしようとはせず、私と交わり対話していたのである。ところが、三日目、少年が出棺される日になって初めて、私の敵たちによって説得されてしまい、咎めだて、および、しきたりの場所から閉め出さるべしとの公告とを画策したのである。ところで、彼らを説得したのは何者たちであったか。また、いったい何のために彼らを説得することに熱心であったのか。もちろん、私がそのこともあなたがたに教えなければならない。 [35] 私が告発しようとしていたのは、アリスティオン、ピリノス、アムペリノス、および、彼らが横領仲間に加えたテスモテタイの書記官補佐とであり、この連中を私が評議会に弾劾したのである。しかも、為された行為からして連中には無罪放免になる希望は何もなかった――実際、不正の事実はそのようなものであったのだ――。そこで、この原告たちを説得して告訴させ、私に対してしきたりの場所から閉め出さるべしと公告させたのであるが、これによって自分たちには、あらゆる厄介事からの救いと解放とがあると考えたのである。 [36] というのは、法は次のように規定しているからである――何びとかが殺人罪の私訴で提訴したなら、しきたりの場所から閉め出さるべし、と。かくして、しきたりの場所からから閉め出されれば、私は出頭することができず、あの連中は、事件を弾劾して攻撃しようとしていた私が出頭できないのだから、無罪放免されて不正の償いをあなたがたにしないですむことを容易にしようとしたのである。それも、ピリノスおよび別の連中が工作したのは、私に対してが最初ではなく、以前にもリュシストラトスに対しても〔工作したことのある〕ことは、あなたがたご自身が耳にされているとおりである。 [37] さて、原告たちが、時期としては少年が埋葬された次の日すぐに、家を浄めしきたりの儀式もしないうちに、私を告訴することに熱心であったのは、あの連中の中の最初の者が裁判を受けることになる日を見守っていて、連中の中の一人をも私が出訴できず、不正事を裁判所に摘発起訴もできないようにするためであった。 [38] ところが、バシレウスが彼らに法習を読み上げ、起訴するにも必要なだけの召喚を行うにも時間的余裕がないことを示したので、そこで私は、これを工作した連中を法廷に引き出して、全員に勝訴し、彼らにはあなたがたご存知の罰を与えられ、連中が金をつかませた原告たちが自分たちにとってものの役に立たなくなって初めて、私本人と友たちのところに接近し、和解を要求し、過ちの償いをする気になったのである。 [39] そこで私も、友たちに説得されて連中と和解したのだが、そこはアクロポリスの中の証人たちの前で、この証人たちは私たちをアテナ女神の近くで和解させたのである。かくして、その後、彼らは私と交わり、対話したのである。神域の中でも、市場の中でも、私の屋敷でも、彼ら自身の屋敷でも、その他いたるところで。 [40] 結局のところ、ああゼウスよ、すべての神々よ、このピロクラテス御本人は評議会場の評議員たちの前で、私と壇上に立って、私の手をとって対話し、この男は私に名前で呼びかけ、私もこの男に呼びかけたので、評議会には恐るべきことだと思われたことであろう――前の日には私と交わり対話しているのを彼らが目撃したその相手たちによって、私に対してしきたりの場所から閉め出さるべしと公告されるのを聞き知ったのだから。 [41] そこで、どうか、考察し想起していただきたいのです、諸君。そうすれば、私はあなたがたに証拠を明示できるだけでなく、連中によって為されてきた行いそのものを根拠に、私が真実を言っていることをあなたがたが知るのは容易なのである。そこで、先ず、バシレウスを彼らが告発し、私への気兼ねから彼が私訴を提訴することを拒んだと彼らが主張している点、これこそ彼らが真実を言っていないという、彼らに反対の証拠になるであろう。 [42] なぜなら、バシレウスは提訴した後、三ヶ月間に三度、予審した上で、四ヶ月目に私訴を回付しなければならなかった。ちょうど今のようにである。ところが彼の任期の残りは、タルゲリオン月とスキロポリオン月との二ヶ月しかなかった。したがって、もちろん任期中に回付することもできず、さりとて殺人の私訴を引き継ぐこともできなかったのである。この地においてバシレウスが引き継いだ例はいまだかつて一つもないのである。だから、回付することも引き継ぐことも彼には認められていない私訴を、あなたがたの法習に違背してまで提訴しようとはしなかったのである。 [43] また、彼らに対して不正したのでないという最大の証拠もある。すなわち、このピロクラテスは、執務審査を受けるべき者たちを、他の者たちの場合はかき乱し誣告するのが常であるのに、このバシレウスに対しては、恐るべきこと・とんでもないことを働いたと主張しながら、執務審査員に告発しようとはしていないのである。はたして、これ以上に大きな証拠をわたしはあなたがたに明示し得ようか。私によってもバシレウスによっても不正されたのではないという証拠として。 [44] さらに、今のバシレウスが就任した後も、ヘカトムバイオン月の第一日目から始めて三十日間、その望む日に告訴することが彼らにはできたのに、いずれの日にも告訴しなかった。さらにまた、メタゲイトニオン月の第一日目から始めて、いつでも望む日に告訴することが彼らにはできたのに、ここでもまたやはりまだ告訴せず、この月も20日間をすごした。かくして、今のバシレウスになって合計50日以上が彼らのもとですぎ、この間に告訴することが彼らにはできたにもかかわらず告訴しなかったのである。 [45] そうして、他の人たちなら誰でも、同一のバシレウスの任期中に時間的余裕がなければ--(欠損)--のに、原告たちときたら、法習をすべて承知していながら、私が望んで評議会場に出ようとしているのを目にして――この評議会場には男評議員ゼウスと女評議員アテナとの神殿があり、評議員たちはここに入って宣誓をするのだが、私もその一員で、同じことをするばかりか、その他のあらゆる神域に評議会員とともに入って、この国のために供犠をも捧げ誓いをもして、これらに加え、第一当番の期間、二日間を除いてずっと当番議員を務め、民主制のために神事も行い供犠も捧げ、票決も行い、国家にとって最大にして最も価値あることについて意見も述べてきたこと明らかである。 [46] 原告たちも出席し内地にいたのだから、告訴して私をそれらすべてから閉め出すことが彼らにはできたにもかかわらず、告訴しようとはしなかった。とにかく、本当に不正されたのなら、それは心にとどめ思いを致すに充分なことであった。自分たち自身と国家といずれのためにも。それなのに、告訴しなかったのはなぜであるのか。彼らが交わり対話した理由と同じである。すなわち、殺人犯とは認めないがゆえに私と交わったのであり、まさにその理由で告訴しなかったのであって、私が少年を殺害したのではなく、その殺人に有罪であるわけでもなく、その事件は何も私に関係もしないと彼らが考えていたからである。 [47] はたして、これほど悪質、あるいは、不敬な人間があり得ようか。自分たちがみずからを説得し得ないこと、これにあなたがたが聴従することを要請し、自分たちが行いに基づいて無罪判決を下したこと、これにあなたがたが有罪判決を下すよう命じているような連中ほどに。つまり、他の人たちなら行いに基づいて言説を糾明するのだが、この連中は言説に基づいて行いを信じられぬものとして確定しようとしているのである。 [48] たしかに、私が他に何も述べもせず、暴露もせず、証人たちを差し出しもせず、あなたがたに証明するに次のこと、つまり、この連中が、私を攻撃目標に金銭を受け取った時には、咎を着せ公告したにかかわらず、与えようとする者がいないときには、交わって対話したという事実をもってしたなら、これを聞いただけで無罪票決して、連中をあらゆる人間の中で最も宣誓にもとる不敬きわまりない連中と信ずるに充分であったろう。 [49] いったい、原告たちが訴訟沙汰にしなかったようないかなる私訴があろうか、あるいは、瞞着しなかったようないかなる法廷があろうか、あるいは、あえて踏みにじらなかったようないかなる宣誓があろうか。今も30ムナを私を攻撃するために、調達官たちや契約官たちや収税吏たちや、これらの書記官補佐を務めた書記官補佐たちから受け取って、評議場から私を放逐しながら、このような宣誓を誓ったような連中がである。私が当番議員の時、連中が恐るべきこと悪質なことを働いていると聞き知って評議会に提訴し、捜査して事実を究明すべしと教えたのが原因である。 [50] 今も自分たちと供託された者たち――金銭が預けられた連中とが、犯した不正の償いを既にはたし、為されたことも明らかとなり、その結果、原告たちが否定したいと望もうと、容易にはできないありさまである。彼らによって為された事件はかくのごとしなのである。 [51] しからば、彼らが欺くことを拒んだようないかなる法廷があるか。あるいは、この不敬きわまりなき連中が踏みじりろうとしなかったようないかなる宣誓があるか。あなたがたがヘラス人たちの中で最も敬神的にして最も義しい裁判官たちであることを知りながら、それでもなおかつ可能ならば欺かんとして、あなたがたのもとへやってきているような連中が。これほど重大な宣誓をしたにもかかわらず。 |