第9章 テクストの変容・挿絵の変容
通念によれば、「働き者の蟻」、「怠け者の蝉」というふうに図式化されているのであるが、はたしてこの図式はただしいのかどうか……? 例えば、最も古形を保っていると考えられるバブリオスを見ても、蝉は、「暇つぶしをしていたわけやおまへん」と胸を張って答えるのである。Mythiambi Aesopici, Section 2 以後、この寓話の作家たちは、何の悪びれたところもない蝉の態度を、どう処理するかに頭を悩ませることになるのである。 額に汗して働け なまけ者よ、ありのところへ行き、 蟻が働き者であること、そして、額に汗して労働することを、とうといこととみなすのは、人類共通の発想とみてよい。その意味でも、例えば奴隷制下のアテナイ人は、「生活は奴隷に任せておけばよい」というふうに、労働を卑しんでいたという通念には疑問をさしはさむ者である。 ヘシオドスの労働観 ヘシオドス『神統記』〔以下、訳は廣川洋一〕の世界では、労働(ponos)は端的に悪(=禍=不幸、ギリシア語では同義)であった。それは「破滅の夜(ニュクス)」が生んだ「頑な心の争い(エリス)」の子で、忘却(レーテー)、飢饉(リーモス)、涙にみちた悲嘆(アルゴス)、戦闘(ヒュスミーネー)、戦い(マケー)、殺害(ポノス)、殺人(アンドロクタシアー)、紛争(ネイコス)嘘言(プセウドス)、口争い(アンピロギアー)、不法(デュスノミアー)と破滅(アテー)の兄弟であった(『神統記』223-232)。 ところが、『仕事と日々』の冒頭において、ヘシオドスは、「争い」には二種類があることを宣明するのである。 すなわちひとつは邪な戦と闘いを殖やし育てる この「善き争い(エリス)」は、人間の向上心といえばよいであろう。 土師は土師と、大工は大工と張りあい、 しかし、向上心だけなら、やがては他人の財を狙って諍いが起こることになる。略奪=戦争も、古代ギリシア語にあっては労苦(ponos)にほかならない。労苦が必然の世界にあって、しかも労苦のもっている暗い側面から逃れようとするとき、ヘシオドスにあっては正義(dike)が要請され、この正義(dike)の観点から労苦(ponos)が評価しなおされた それがヘシオドスの労働(ergon)であったと考えられる。〔いずれにしても、『仕事と日々』の背景に、財産相続をめぐる兄弟の諍いがあったことを忘れてはなるまい〕。 キリスト教では、労働を、神の働き(ergon)に対する人間の応答ととらえているようである(そこから、召命=天職という発想が生まれるのであろう)。 ところで、以前にも言及したが([ariadnet:2207] )、興味深い1節を― ― 裸になって種を播き、 さまざまな問題があるが、とりあえずは、飢えた者には救いの手をさしのべるという互助は、暗黙の前提であったこと、したがって、物乞いをむげに断るには、それなりの理由がなければならない、ということは確認しておきたい。 「蟻と蝉」の原型 「蟻と蝉」の寓話の原型が、働き者を称揚し、怠け者を貶めるところにあるとすれば、その原型は、おそらく、次のような話になるはずである。 〔ペリー校訂本〕第112話 蟻とセンチコガネ この話に、セミであれキリギリスであれ、楽師を持ちこむことによって、主題は労働観から職業観に移行しているとみるべきではなかろうか。 |