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back.gif第9章 テクストの変容・挿絵の変容


インターネットで蝉を追う

第10章

「蟻と蝉」の労働観






 通念によれば、「働き者の蟻」、「怠け者の蝉」というふうに図式化されているのであるが、はたしてこの図式はただしいのかどうか……? 例えば、最も古形を保っていると考えられるバブリオスを見ても、蝉は、「暇つぶしをしていたわけやおまへん」と胸を張って答えるのである。point.gifMythiambi Aesopici, Section 2 以後、この寓話の作家たちは、何の悪びれたところもない蝉の態度を、どう処理するかに頭を悩ませることになるのである。


額に汗して働け
なまけ者よ、ありのところへ行き、
そのすることを見て、知恵を得よ。
ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、
夏のうちに食物をそなえ、
刈り入れの時に、かてを集める。
  (「箴言」第6章6-8)

この地上に、小さいけれども、
非常に賢いものが四つある。
ありは力のない種類だが、
その食糧を夏のうちに備える。
  (「箴言」第30章24-25)

 蟻が働き者であること、そして、額に汗して労働することを、とうといこととみなすのは、人類共通の発想とみてよい。その意味でも、例えば奴隷制下のアテナイ人は、「生活は奴隷に任せておけばよい」というふうに、労働を卑しんでいたという通念には疑問をさしはさむ者である。


ヘシオドスの労働観

 ヘシオドス『神統記』〔以下、訳は廣川洋一〕の世界では、労働(ponos)は端的に悪(=禍=不幸、ギリシア語では同義)であった。それは「破滅の夜(ニュクス)」が生んだ「頑な心の争い(エリス)」の子で、忘却(レーテー)、飢饉(リーモス)、涙にみちた悲嘆(アルゴス)、戦闘(ヒュスミーネー)、戦い(マケー)、殺害(ポノス)、殺人(アンドロクタシアー)、紛争(ネイコス)嘘言(プセウドス)、口争い(アンピロギアー)、不法(デュスノミアー)と破滅(アテー)の兄弟であった(『神統記』223-232)。

 ところが、『仕事と日々』の冒頭において、ヘシオドスは、「争い」には二種類があることを宣明するのである。

すなわちひとつは邪な戦と闘いを殖やし育てる
酷いもの。うつせみの人間がひとりとしてこれを好ましく思うわけがなく、 過酷な
争いを仕方なく崇めるのは不死の神々のみ心によるからである。
ところがもうひとつは暗い夜(ニュクス)が長女として生んだもので、これ を
上天に住まい高館にいますクロノスのみ子が据えおかれた、
大地の根もとに、人間どもにとってはるかにためになるものとして。(14-19)

 この「善き争い(エリス)」は、人間の向上心といえばよいであろう。

土師は土師と、大工は大工と張りあい、
乞食は乞食と、歌人は歌人を嫉む。(25-26)

 しかし、向上心だけなら、やがては他人の財を狙って諍いが起こることになる。略奪=戦争も、古代ギリシア語にあっては労苦(ponos)にほかならない。労苦が必然の世界にあって、しかも労苦のもっている暗い側面から逃れようとするとき、ヘシオドスにあっては正義(dike)が要請され、この正義(dike)の観点から労苦(ponos)が評価しなおされた — それがヘシオドスの労働(ergon)であったと考えられる。〔いずれにしても、『仕事と日々』の背景に、財産相続をめぐる兄弟の諍いがあったことを忘れてはなるまい〕。

 「労働を必須とする時代のうちにある私たちが黄金時代の人々のように、幸福(eudaimonia)であるためには、「正しくある」ことにもとづく以外にないことに気づいたとき、労苦としての労働は、楽しいもの、喜ばしいものとして新たに発見されなければならなかった。「けれどもおまえは労働を喜びとして手順よくすすめるがよい」(306)と述べる詩人には「労働する人びとはたいそう神に愛でられる」(309)という確信があった、不幸にして不正な鉄時代の私たちを正しいゆえに幸いな「正義の都市」に導きいれる、ある確実な力を彼は ergon のうちに認めていたからである」(『ヘシオドス研究序説 — ギリシア思想の生誕 — 』未来社、1975.12.、p.229)

 キリスト教では、労働を、神の働き(ergon)に対する人間の応答ととらえているようである(そこから、召命=天職という発想が生まれるのであろう)。
 あまりに似ているので、いささか驚きである。

 ところで、以前にも言及したが([ariadnet:2207] )、興味深い1節を― ―

裸になって種を播き、
裸になって犂きかえし、裸になって刈り取るのだ、おまえがデメテルの
時宜の畑つ物を頂きたいと願うなら。こうすれば、
時宜の畑つ物はどれもよく育ち、後になって困窮し
他人の家に物乞いに行きしかも何ひとつ頂戴できないこともないだろう、
現にもおまえがわたしのところへ来たようには。だがこのわしはもうおまえ にはこの上くれてはやらぬし、
量ってもやらないだろう。愚かなペルセスよ、働くのだ、
神々が人間どもに定めおかれた、仕事に。でないとこの先 妻子を抱えて途方に暮れ、
隣人たちのあいだに食を求めても、人びとは構ってくれないだろう。
というのも、二度あるいは三度ならあるいは旨くいっても、それ以上に厄介 をかけたら、
何の効きめもなく、おまえは無駄なお饒舌(しゃべり)をすることに終わる だろう。
言葉の牧場(ノモス・エペオーン)〔千万言を連ね飾っても〕も無益となる だろう。(391-403)

 さまざまな問題があるが、とりあえずは、飢えた者には救いの手をさしのべるという互助は、暗黙の前提であったこと、したがって、物乞いをむげに断るには、それなりの理由がなければならない、ということは確認しておきたい。


「蟻と蝉」の原型

 「蟻と蝉」の寓話の原型が、働き者を称揚し、怠け者を貶めるところにあるとすれば、その原型は、おそらく、次のような話になるはずである。

〔ペリー校訂本〕第112話 蟻とセンチコガネ

 夏の盛り、蟻は畠を歩きまわって、冬の食糧を溜めこむために、小麦や大麦を集めていた。センチコガネはこれを見て、他の動物が仕事を止めてのんびりしている時に汗水流すとは、何ともしんどいことだと驚いた。
 蟻はこの時は黙っていたが、やがて冬になると、餌になる糞も雨に流され、飢えたセンチコガネが、食物を分けてもらおうと蟻の所へやって来た。これに対して蟻の言うには、
 「センチコガネ君、私が汗水流すのをとやかく言ってくれたが、君もあの時苦労していたなら、今餌に困ることはなかったろうに」
 このように、ふんだんにある間に将来に備えない者は、時勢が変わればひどい不幸に見舞われるのだ。(中務訳)

 この話に、セミであれキリギリスであれ、楽師を持ちこむことによって、主題は労働観から職業観に移行しているとみるべきではなかろうか。

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