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エポロス断片集

(2/6)





F17
THEON Progymn. 2 p.67, 11: (F13)

 アリストデモスについても、稲妻に打たれて亡くなったという。


F18a
同 2 p.67, 12

 諸々の事柄の説明のうち、一部はヘロドトスの著作からも――例えば、その第4巻〔42章〕からは全地を3分割することに関して得ることができるし……トゥキュディデスの著作からも、その第1巻〔20章〕からヒッパルコスの暗殺に関することを〔得ることができ〕……さらにもっと多くを、わたしたちは他の歴史家たちの著作からも得ることができる。エポロスの著作はといえば、その第1巻から、ヘラクレイダイの帰還のさいのペロポンネソス分割に関する事柄を。


F18b
STRABON VIII 8, 5:

 ペロポンネソスに居住した人たちについて、エポロスが述べている人たち、つまり、ヘラクレイダイの帰還後の人たちを建設者として付け加えるのも、おそらくは、場違いなことではなかろう。つまり、コリントスの〔建設者〕にはアレテスを〔F 19〕、シキュオンにはパルケスを、アカイアにはティサメノスを、エリスにはオクシュロスを、メッセネにはクレスポンテスを、ラケダイモンにはエウリュステネスとプロクレスを、アルゴスにはテメノスとキッソスを、アクテ〔「海岸」の意。固有名詞としてはアルゴリスの東岸一帯〕周辺の地域にはアルガイオスとデイパンテスを。


F18c
@8 [SKYMN.] orb. descr. 516:

 かくて、ペロポンネソスの北の部分|ここを領するのは、ひとつは、それ以前からこれを領する|有名な都市コリントスに住んでいた、シキュオン人たちと|他にもうひとつはアカイア人たち。西方の山岳地帯|つまり西は、エリス人たちとメッセニア人たち。|さらに、南中と南風の方角の地域は|ラコン人たちと、アルゴス人たちも。さらに日の出の方角|日のもと〔東〕は、アクテ地帯を領するかぎりの諸都市。|内陸部にはプリアシア〔プレイウウス人たちの領地〕と|これに次ぐ最大の民族アルカディア人たちのそれも。|しかし、彼らの言うには、アルカディア人たちは土着民なるも、|後にアレテスがコリントスをば建設し、|パルケスがシキュオンを、そしてアカイアは|ティサメノスが〔建設した〕、されど、エリスの開祖はオクシュロス|〔彼はエリスの〕嚮導者、クレスポンテスはメッセニアの、|さらにエウリュステネスとプロクレスとはラケダイモンの、|アルゴスのはキッソスと、これといっしょにテメノスが、|アクテ一帯の住民のは、アグライオスと、話では、|テメノスの婿であるデイパントスとが〔嚮導者〕。


F19
SCHOL. T PLATON. EUTHYD. 292 E:

 ゼウスの子コリントスとは、あまりに尊大にすぎて、始末の付け方が悪く邪悪なことについて言われる。というのは、植民者であったメガラ人たちにコリントス人たちが過酷な命令をしたとき、最初は服従していた。しかし、コリントス人たちの暴慢のやむことなく、メガラ人たちの身を破滅させてしまうので、メガラ人たちは受難のないことを望んで離反しようとして、すぐさまコリントス人たちのもとを去った。すると、コリントス人たちは、メガラ人たちに言い掛かりをつけようと、使節団を派遣した。彼ら使節団は、民会に出席すると、他に多くのことをあげつらったが、最後に、出来したことに対しておまえたちに償いをさせなければ、ゼウスの子コリントスさまが義しくも憤慨なさるであろう、と。これにはメガラ人たちは激怒して、たちどころに使節団に石を投げつけた。少しして、コリントス人たちに味方する者たちが現れ、戦争が起こったが、〔メガラ人たちが〕これに勝利して、コリントス人たちが敗走して退却するとき、追跡して殺害すると同時に、祝勝歌を歌い合うために、ゼウスの子コリントスを勧請したのであった。この慣用句に言及しているのは、アリストパネスの『蛙』〔439〕……また『タゲニスタイ』〔I 523, 509 K〕、エポロスも『歴史書』第1巻の中で、またプラトンも『エウテュデモス』で。しかし、他の人たちは、際限なく威張り散らすことについての諺として言われると主張している(Aus Zenob. p.356 Miller)。すなわち、離反するために出発したメガラ人たちに、コリントス人が、「こんなことはゼウスの子コリントさまが我慢なさるまい」と言いつのった、と。ピンダロス(N VII 106)もこれに言及している。


F20a
MACROB. V 18, 6-8:「……

 「他の河川であれば[他の河川なら]近在の住民たちだけが供犠するのに、アケロオス河のみは、人間だれしもが尊崇するようになっている。他の河川を、それに固有の〔名前の〕代わりに共通の名前をつけるのではなく、アケロオス河に固有の名称を共通して付けてである。つまり、真水すべて――これこそが名前の共通性である――を、その固有の呼称にちなんでアケロオスとわれわれは呼ぶのであるが、これに反して、その他の名前の場合には、固有の名前の代わりに共通な名前でしばしば名づけることがある。〔例えば〕アテナイ人たちのことならイオニア人たち、ラケダイモン人たちのことならペロポンネソス人たちと呼ぶ〔というふうに〕。この問題の理由説明として、ドドネの神託以上にふさわしいものを言うことがわたしたちはできない。というのは、そのほとんどすべての神託において、神はアケロオス河に供犠することを言いつけるのが習わしであり、その結果、多くの人たちは、アカルナニアを貫流する河ではなくて、真水の全体がアケロオスと神託によって呼ばれているのだと信じて、神の呼称を真似ているのである。その証拠に、神的なことにかかわるとき、われわれはそういうふうに言うのが習わしになっている。例えば、われわれが水をアケロオスと呼称するのは、とりわけ誓約や祈願や供犠のさいであるが、これらこそみな神々にかかわることなのである」。


F20b
SCHOL. HOM. Il. F〔21巻〕 195 (P. OX II 221 col. IX 21)

 エポロスは第2巻の中で[主張している]、ドドネの神託所はほとんどすべての託宣の中で、アケロオスに供犠するよう言いつけており、ここからヘラス人たちは河はすべてがアケロオスだと信じている、と。


F20c
SERV. DAN. Verg. ge I 8:

 というのは、オルペウス(F 344 Kern)が教え、喜劇作家アリストパネス(Lys. 381)と歴史家エポロスが伝えているように、アルケロオスとは、古代においては一般に、真水の河はすべて、昔の人たちはそう呼んでいたのである。


F21
AMMON. De Diff. verb. p.70 Valck:

 テバイ人たち(Thebaioi)とテバイ生まれ(Thebageneis)とは異なることは、ディデュモスがピンダロスの『祝勝歌』第1巻の註〔p. 238 Schm.〕の中で主張しているとおりである。「これにちなんでテバイ生まれはイスメニア祭の優勝者に黄金の鼎をも送る。テバイ生まれとテバイ人たちと何が違うのか? エポロスは第2巻の中で主張している。「この者たちは、ボイオティアに組み入れられた者たちである。そもそもは、アテナイとの国境地帯に隣り合って住んでいたのを、もともとのテバイ人たちが長年の後に帰服させた。すでに彼らは幾重にも混血し、キタイロン山麓とエウボイアの向かいを占有していたにもかかわらず、テバイ生まれと呼ばれた。テバイ人たちによって他のボイオティア人たちと併合させられたからである」。


F22
HARPOKR. 「アパトゥリア祭(Apatouria)」の項。

 ……アテナイの祝祭で、彼らはこれをピュアネプシオン〔豆煮〕月に4日間にわたって開催する、と『祝祭について』を書いている人たちが(IV)が主張している。出所は失念したが他の人たちも、またエポロスも第2巻の中で〔述べている〕、――国境をめぐって生じた騙し討ち(apate)が基である、つまり、アテナイ人たちがメラニアの地をめぐってボイオティア人たちと戦争したとき、アテナイの王メラントスと、テバイの王クサントスとが一騎打ちをして、騙し討ちにして殺したのである、と。


F23
PHOT. SUID. 「ペリトイダイ(Perithoidai)」の項。

 オイネイス部族〔アッティカ10部族のひとつ〕の区で、イクシオンの子ペイリトオスの末裔。アテナイには、ヘラス人たちで望む者たちは歓迎すべしとの法習があって、テッサリアが陥落したとき、ペイリトオスとテセウスの客友関係(philoxenia)に基づいて迎え入れた。さらには、ペリトイダイと呼んでいた地まで、彼らに分配した。エポロスが第3巻の中に記している。


F24
STEPH. BYZ. 「アテナイ(Athenai)とは、エウボイアの……〔欠損〕、ディアスの建設になる、とエポロス第3巻」の項。

 「アバスに、アルコンとディアスとアレトゥサという子どもができ、このうちディアスは都市を建設して、祖国にちなんでこのように名づけた」。市民は(Athenaios)と(Athenaikos)、都市は(Athenai)と(Diadai)と言われる、と。


F25
STEPH. BYZ. 「ラムプソス(Lampsos)」の項。

 クラゾメナイの領土の一部、キュドリデスの子ラムプソスにちなむ、とエポロス第3巻。


F26
同 「スキュピア(Skyphia)」の項。

 クラゾメナイの小都市、とエポロスが第3巻の中で。「スキュピアに定住した」。一部の人たちは80年間にわたって。


F27
PHOT. SUID. 「コリュコスの人(Korykaios)

……すなわちコリュコス(Korykos)はパムピュリアの岬で――ここには都市アッタレイアがあったが、この都市の人々は、岬に襲来する掠奪団から自分たちがひどい目に遭わないようにするため、他の港に停泊中の人たちのところに紛れ込んで、〔船員は〕何人かとか、どこへ航行するのかとか聞き込んでは、掠奪団に通報していたのである。ここから、「コリュコスの人が聞き出す」という諺さえできた……エポロスが第3巻の中で。「岬のたもとに」と彼は主張している、「外洋に突き出たところにいわゆるコリュコスの人たちが住んでいて、一部は混血していたが、都邑をこしらえた。ミュオッネソスの隣である。そうして、停泊中の交易商たちに接近した。買い付け人か同船者のようなふりをして。そうして、何を運んでいるのかとか、どこに航行するのかとかを調べて、ミュオッネソス人たちに通報、そこで後者が彼らを襲撃するを常とした。こうして、自分たちも略奪品の相当な分け前に与ったのである」。


F28
STFPH. BYZ. 「ミュカレッソス(Mykalessos)」の項。

 ボイオティアの内陸の都市……カリアにも別の都市がある、とエポロス第3巻。


F29
ATHEN. VI 84 p.263 F:

 エポロスは『歴史』第3巻の中で、「クラロタイ(klarotai)と」と彼は主張している、「クレテ人たちが奴隷たちをそう呼ぶのは、連中が籤(kleros)の対象であったことに由来している。しかし、キュドン地方には、連中のためにしきたりとなっていたある祭りがあり、この祭りの間は、自由人たちは都市に足を踏み入れず、奴隷たちがすべてを支配し、主人として自由人たちを鞭打つこともできた」。


F30a
STRABON. I 2, 28

 さらにエポロスも、アイティオピア〔エチオピア〕に関する昔の評判を報告しているが、彼が『エウロペ〔ヨーロッパ〕について』という書中で主張しているところでは、天空と大地とに関係する場所を4つの部分に分割し、東風に向かう部分はインドを含み、南風に向かう部分はアイティオピアを、日没の方向はケルタイを、北風に向かってはスキュタイを〔含む〕という。さらに付け加えて、アイティオピアとスキュティアはより大きいという。「なぜなら、思うに」と彼は主張する、「アイティオピアの民族は、冬の日の出の方向から[冬の]日没の方向まで広がっているからである。そしてスキュティアはこれの反対側に位置する」と。


F30b
KOSMAS INDIKOPL. Topogr. Christ. II p.148 (Migne Patrol. gr. 88, 117):

 エポロスの、彼の『歴史』第4巻から。「すなわち、東風の起こる地、日いづるところ近くの 地にはインドス人たちが居住している。南風に向かう南中の地はアイティオピア人たちが占有している。西風の吹き来る日没の地はケルタイ人たちが領有している。北風と熊たちの地にはスキュタイ人たちが居住している。そして、これら各地域のそれぞれが等しいわけではなく、スキュタイ人たちとアイティオピア人たちの地はより大きく、インドス人たちとケルタイ人たちの地はより小さい。しかし、〔二つの組の〕それぞれの地の大きさは似たり寄ったりである。すなわち、インドス人たちは日昇の熱帯地と寒冷地との中間にいる。ケルタイ人たちは日没の熱帯地から寒冷地までの地域を領有している。そして後者は前者の中間地に等しく、しかもほぼ完全に向かい合っている。これに対し、スキュタイ人たちの居住地は、太陽の巡行軌道の間隙の地を領有している。これにはアイティオピア人たちの民族が向かい合っており、これは、日昇の寒冷地から日没地の最深奥地にまで広がっていると思われている」。このエポロスは、昔の編纂者で、哲学者で、歴史記述者である。 <70<72註(NOTOS) 寒冷の日昇地(XEIMERINH ANATOLH) <71アイティオピア人たち(AIYIOPES)>71寒冷の日没地(XEIMERINH DUSIS)>72 <72<72東風(APHLIVTHS) <71インドス人たち(INDOI)>71>72 <72<71ケルタイ人たち(KELTOI)>71 西風(ZEFUROS)>72>72 <72熱帯の日昇地(YERINH ANATOLH) <71スキュタイ人たち(SKUYAI)>71 熱帯の日没地(YERINH DUSIS) BORRAS>72>70


F30c
@8 [SKYMN.] orb. descr. 167-182

@1  次いで〔タルテッソスに続いて〕ケルタイの地と呼ばれるのは|サルディニアに横たわる海までで、|これは日没の地に面する最大の民族である。|というのは、日昇地の内にあるほとんど全領土には|インドス人たちが住んでいるが、南中の地に面する領土には|アイティオピア人たちが南の風近くにいる。またケルタイ人たちは、西風の地から、日没の地は|熱帯の地までを領しており、北風に向かう地はスキュタイ人たちが。|かくして、インドス人たちは日昇の熱帯の地と|寒冷の地との中間に住す。もとにもどって、ケルタイ人たちは|熱帯にして日没地の昼夜平分時の地に〔住んでいる〕、という話である。|かくて、民族〔の数はといえば〕その集団からいって4つで|住民たちの数の点でも等しい。|しかし、領土の点ではアイティオピア人たちのそれはより大きく、また、スキュタイ人たちの有するのは|大部分が荒蕪地である。一方では旱魃が、他方では冠水が彼らよりもひどく|さえあるのが原因である。


F31a
THEON Progymn. 2 p.95, 8 Sp:

 こういった神話的説明をぶちこわすだけでなく、そういった言葉〔話〕がどこから流れ出てきたのかまで明らかにするということは、多くの人たちには見られぬより完成された状態である……じっさいのところ、エポロスも第4巻の中で用いているのはそういった方法なのである。自然本性を野獣的だと前提しているという理由で、ドラコンが指弾されているのは。〔この断片の訳に自信はない。〕


F31b
STRABON IX 3, 11-12

 エポロスはといえば――わたしたちが彼を最大限援用するのは、語るに値する人物ポリュビオスもたまたま証言しているとおり、こういったことに関する〔エポロスの〕配慮〔が行き届いている〕せいだが――、時として彼は目論見や当初の約束事とは正反対なことをしているようにわたしに思われる。例えば、歴史の著作の中で、彼は神話好きの人たちを貶し、真理を称揚して、この占いについての説明に一種崇高な約束を付け加えるのである、自分はいかなる場合も真実を最善と信じる、とりわけこういう主題においては、と。「なぜなら、他の事柄については常にこういう仕方で追求しながら」と彼は主張する、「こと万物の中でも最も嘘偽りのない占いに関しては、かくも信じるに足らぬ嘘偽りの言説を用いるなど、奇妙であろうから」と。ところが、こういったことを口にしながら、すぐさま次のように言い出す始末である。「ひとびとの想像では、アポロンがテミスといっしょになって占いをこしらえたのは、わたしたち〔人間〕の種族を益したいと望んだからである」と。しかも、「益する」という意味は、「穏和を呼びかけ慎み深くさせ、そのために、ある人たちには託宣を通して、あることは下命し、あることは諫止し、またある人たちには完全に容赦さえしないということだ」という。「神がこういうことをつかさどっておられる方法は」と彼は主張する、「ある人たちは、神ご自身が現し身となってと信じ、ある人たちは、ご自身の望みの人間どもの思いつきとして授けることによってと〔信じている〕」と。[12]さらに先に行くと、デルポイの何たるかを説いた上で彼は主張する、――昔、パルナッソス人と呼ばれる土地生え抜きの人々がパルナッソス山に住んでいた、その時代に、アポロンがその地に赴き、わたしたちの実りやその他人間の生活に有益な物どもを与えて人間たちを手なずけた。さらにアテナイを発って、現在、アテナイ人たちがピュティア祭列を派遣するあの道をデルポイへとたどった。そしてパノペウスに降りていったとき、その地を領有していたティテュオス――凶暴で違法な男――を倒した。また、パルナッソス人たちがこの神に邂逅して、他にも難儀な男がいると告げ口した。その名はピュト、呼び名はドラコン〔竜〕を、〔神が〕弓で射るとき、〔パルナッソス人たちは〕「イエ〜、パイアン」と声援し、このことから、対向戦列に突撃せんとする人たちに、現行の吶喊歌の習慣が伝えられることになったのである。さらに、このとき、ピュトの幕屋もデルポイ人たちによって火をつけられ、このとき起こったことの記念に、今でも同じように焼くのだという。アポロンの射弓、ティテュオスやピュトの懲罰、アテナイからデルポイへの道行き、全地の漂白など、これ以上に神話的なことがあろうか? もしも彼がこれらを神話と解していないのなら、どうして、神話上のテミスを女性、神話上の竜を人間と呼ぶべきであったろうか? もっとも、彼が歴史の方法と神話の方法(topos)とを混同したいと望んだのなら話は別だが。


F32
THEON Progymn. 2 p.96, 1 Sp:

 リュクウルゴスやミノスやラダマンテュスや、またゼウスや、クレテ人たちおよびその他、クレテで神話的に説明されている事柄について、他のそういったこともすべて否定される。


F33
STRABON X 4, 9

 クレテについて一致承認されていることは、往古、この島はよく治められ、ヘラス人たちの最善の人たち――最も早くはラケダイモン人たちを、この島の景仰者としたということである。このことはプラトンも『法律』の中で明らかにし、エポロスも『エウロペ[の国制]』の中に書きとめている。


F34
THEON Progymn. 2 p.95, 27 Sp:

 往古にはプレグラ、今はパッレネの名で呼ばれている地に居住していたのは、野蛮で神殿略奪者で人食いの連中、いわゆる巨人(ギガンテス)であったが、これをヘラクレスは、トロイア攻略のさいに打ち負かしたと言われている。そして、ヘラクレスの一統は少数であったにもかかわらず、多数で涜神的な連中を制圧したことから、この戦いには神々の働きがあったのだと万人に思われた。


F35
HARPOKR. 「トロネ(Torone)」の項。

 ……トラキアにある都市、とエポロスは第4巻の中に記している。


F36
HARPOKR. 「オイシュメ(Oisyme)」の項。

 ……トラキアの都市であると、他の人々もだがエポロスも第4巻の中で主張しているとおりである。


F37
同 「ダトス(Datos)」の項。

 トラキアの非常に繁栄した都市。じっさい、この都市から、「善き人々のダトス」という一種の諺さえできた。この諺と、近隣領地とについて明らかにするとき、時には「(to Daton)」と中性名詞で言い、時には「(ten Daton)」と女性名詞で〔言う〕と、エポロスが第4巻の中でそのつど。しかし、一度だけだが、男性名詞で「(ton Daton)」とテオポムポスが『ピリッポス記』第3巻の中〔115 F 43〕で〔使っている〕。しかしながら、このダトス人たちの都市はピリッポスによって改名させられたが、それは、マケドニアの王ピリッポスがこの都市を制圧したときだと、エポロスが、またピロコロスも第5巻の中で(III)、主張している。


F38
同 「マロネイア(Maroneia)」の項。

 ……もちろんマロネイアもトラキアにある都市であって、ホメロスによってイスマロスと呼ばれている都市がそれだと言い伝えられている。しかしこの都市にはデモステネスが言及し(50,20)、……エポロスも第4巻の中で〔言及している〕。


F39
同 「アイノス人たち(Ainious)」の項。

 ……アイノス(Ainos)はトラキアの都市。ホメロス〔Il. IV 520〕は「そも、アイノスより来たりし者」。そしてエポロスは、第4巻の中でトラキアの諸小都市について述べているところで主張している。「この人たちの領するのがアイノスという都市――この都市には初めアロペコンネソス〔トラキアのケルソネソス南西部の海港都市〕のヘラス人たちが居住していたが、後には、ミテュレネとキュメからの植民者たちが移住した」。


F40
同 「(Krithoten〔"Krithote"の対格〕)」の項。

 ……クリトテ(Krithote)は、ケッロネソスにある一都市とは、ヘッラニコスが『トロイア史』第1巻〔4 F 27〕の中で主張しているところである。しかしエポロスは第4巻の中で、この都市はミルティアデスとともここにやって来たアテナイ人たちによって居住されたと主張している。


F41
SCHOL. APOLL. RHOD. II 360:「エリケの岬というのはアルクトス〔熊座〕の向かい側にあり、至るところ高くそびえ立ち、これをカラムビス(Karambis)とひとびとは呼んでいる」]

 カラムビスはパプラゴニアの高くて切り立った岬で、外洋つまり北極星〔アルクトス〕の方向へ突きだしていると、エポロスも第3巻の中で言及している。


F42
SRRABON VII 3, 9

 エポロスは、歴史の第4巻――エウロペという副題を持った巻――の中で、エウロペを渉猟してスキュティアに及び〔F158参照〕、終わり近くで、他のスキュティア人たちやサウロマタイ人たちの生活ぶりを不同と主張している。なぜなら、ある人たちはあまりに難儀な連中人で、食人さえするが、ある人たちは〔食人はもとより〕他の生き物さえ敬遠するから、と。「だから、他の人〔史家〕たちは」と彼は主張する、「彼らの野蛮さに関することを語る。それは、恐るべきこと・驚くべきことは、驚倒させるということを知っているからである」。しかし、為すべきことは、正反対なことを語りもし、例示もすることである。かく言う自分は、義しさこの上ない諸習慣を用いている人々について言説を為す、すなわち、スキュティアのノマドイ〔「遊牧民」の意〕人たちの一部は、馬乳で育ち、義しさにかけては、誰よりも抜きんでており、この人たちに言及しているのが、詩人たちである、と。ホメロス〔Il. XIII 1以下〕は、「また「乳飲み(Glaktophagoi)」のアビオイ人たち、義しさこの上なき人たち」の大地をみそなわすはゼウスと歌う。ヘシオドスは、いわゆる『大地〔ゲー〕女神の遍歴』の中〔F 54 P3〕で、ピネウスはハルピュイアたちに導かれて「「乳のみ」たち(Glaktophagoi)の大地へとゆく、荷馬車を家として」と〔歌う〕。さらに、彼は理由説明をして、その暮らしぶりは質素、金儲けを事とせぬゆえ、お互いに対しては規律ただしく――万事を、なかんず女たちや生子や親類すべてを共有するゆえであるが――、外部の人たちに対しては闘うことをせず、勝利することもない――隷従の原因となるものを何も持たないからである、という。さらに、彼〔エポロス〕が挙げているのはコイリオスで、〔コイリオスは〕ダレイオスが架橋した『浮き橋の渡し』〔F 3 Ki〕の中で言う。「羊飼いのサカイ人たちは、生まれはスキュティア人なれど、小麦をもたらすアジアに住めり。遊牧の民にして、規律ただしき人々の植民者たりし」。また、アナカルシスをエポロスは賢人と呼び〔F 158; 182〕、彼の主張では、この種族の出身にして、慎み深さにおいても洞察力においてもその完璧さゆえに7賢人の一人とみなされたという。また、鞴(ふいご)、二重碇、陶工の轆轤(ろくろ)はこの人の発明になると言う。しかし、わたしがこんなことを言うのは、次のことをはっきり知ったうえでのことである、すなわち、――この人〔エポロス〕がみずから言っていることは万事が最高の真実ではない、とりわけアナカルシスのことはそうである、|どうして轆轤が彼の発明品だということがあろうか、年長のホメロスがすでにそれを知っていたのだから:「さながら、陶工が両掌に馴染みし轆轤を〔めぐらす〕ときのごとく」〔Il. XIII 600〕|むしろ〔わたしがこんなことを言うのは〕このことで次のことを指摘したかったからである、――ノマドイ人たちのうち、自余の人間どもから最も遠く離れている人たちは、乳飲みにして生活に追われているが、このうえなく義しい人たちであるということが、昔の人たちによっても、後代の人たちによっても、一種共通の噂として信じられるようになったのであって、ホメロスによって創作されたのではないということである。


F42a
SCHOL. APOLL. RHOD. I 1276:

 滑稽にもエポロスは、初め、アナカルシスが二重碇を発明したと信じていた。〔滑稽なのは〕どうしてかと言えば、アナカルシスよりもアルゴ号乗組員の方が古いからである。


F43
STEPH. BYZ. 「ティバッラニア(Tibarania)」の項。

 ポントスに臨む地域で、カリュベスたち(Chalups)やモッシュンオイコイ人たちに隣接している。民族的には(Tibaranoi)と(Tibarenoi)、女性は(Tibarenis)。エポロスは第5巻の中で主張する、「(Tibarenoi)は遊ぶこと笑うことの景仰者にして、それを最大の幸福と信じている。彼らに境を接するのがカリュベス人たち(Chalybes)、そしてレウコシュロイの民族である」。


F44a
SCHOL. APOLL. RHOD. II 845:

 ボイオティア人たちとメガリス人たちと、ポントスのほとりにヘラクレイアを建設したということは、エポロ第5巻も他の人たちも記している。


F44b
@8 同 II 351:

 マリアンデュノイ人たちの土地は、メガリス人グネシオコスといっしょにボイオティア人たちが占領したと、エウポリオン(F 90 Scheidw)が記している。


F45
STEPH. BYZ. 「ブリュッリオン(Bryllion)」の項。

 プロポンティスのほとりの都市。しかしエポロスは第5巻の中で、キオス(Kios)がその都市だと主張している……地域はブリュッリス(Bryllis)で、ダスキュレイオンはこの地方にある小都市である。


F46
同 「アバルノス(Abarnos)」の項。

 パリオン地方の都市、地域、岬……ヘカタイオス(1 F 220)は……ラムプサコスの岬だと主張している。しかしエポロスは第5巻の中で、この都市は、ラムプサコスを建設したポキス人たちによって、ポキスにあるアバルニスにちなんでそう呼ばれたと言っている。


F47
MACROB. V 20, 6-7の項:

 イデ山の山頂は、そこからはっきりと輝き出すことから、ガルガラと呼ばれる。しかし、ひとびとがガルガラというのは、すぐ前にある都市と考えたい。最も有名な歴史著述家エポロスは、第4巻の中で次のように言っている。「アッソスについで、近くにガルガラという都市がある」。


F48
ATHEN. VII 87 p.311E

 アルケストラトスが言及している(XLV 1 Brandt)ガイソン(Gaison)とは、プリエネとミレトスとの間で海と合わさっているガイソン港のことだと、キュジコス人ネアンテスは『ヘラス史』第6巻の中に(84 F 3)記している。しかしエポロスは、第5巻の中で、ガイソンとはプリエネ近くの河で、この河は港に流入していると主張している。


F49
HARPOKR. 「ソロイ(Soloi)」の項。

 ……ひとつはキュプロスの都市、ひとつはキリキアの〔都市〕と、他の人たちも記しているがエポロスも第5巻の中に。


F50
SUIDAS 「奴隷たちの都市(Doulon polis)」の項。

 リビュエの[諺]。エポロス第5巻。


F51
STEPH. BYZ. 「ヒュドラ(Hydra)」の項。

 リビュエのカルケドン周辺の島。エポロス第5巻による。


F52
同 「カリシア(Chalisia)」の項。

 リビュエの都市。エポロス第5巻中。「〔海に〕乗り出した人によって、そのことにちなんでカリシアと名づけられた都市」。他にも〔1 F 7〕、ポントス海に臨んだのもあり、これはアマゾン女人族の一都市で、これの建設者たちがカリシア人たち(Chalisioi)である。


F53
STEPH. BYZ. 「カリコン・テイコス(Karikon teichos)」の項。

 ヘラクレスの柱の左岸にあるリビュエの都市。エポロス第5巻による。


F54
ATHEN. IV 41 p.154 D-E

 ヘルミッポスが『立法者たちについて』第1巻の中(IV)で表明しているところでは、一騎打ちの発明者は、デモナクトスの……進言を受けたマンティネイア人たちである。そしてこれの景仰者となったのが、キュレネ人たちであるという。またエポロスが『歴史』第6巻の中で、「戦闘の演習をしたのは」と主張している、「マンティネイア人たちとアルカディア人たちで、戦闘用衣服や古式の武装を発明したのが彼らだったので、今もなお"マンティネイア式"と呼称されている。かてて加えて、重装備戦の教練も最初に発明されたのはマンティネイアにおいてで、この技術を教示したのはデメアスである」と。


F55
STEPH. BYZ. 「ポリエイア(Phorieia)」の項。

 アルカディアの村落。民族的にはPhoriaeus。エポロス『歴史』第<>巻による。


F56
同 「ハリエイス(Halieis)」の項。

 アルゴリスの海岸沿いの都市。……エポロスは第<>巻に言う、――住民はティリュンス人たち(Tirynthioi)で、出かけていってどこかの土地に住むことを評議し、神にお伺いを立てた。すると〔神は〕次のように託宣した。「汝の取るところ、汝の腰をおろすところ、汝の海の家を持つところに呼ばれん」。彼らがそういうふうに言われたのは、ヘルミオネ人たちの大多数は漁師だったので、領地のその部分に居住したことによる。


F57
THEON Progymn. 2 p.66, 26 Sp:

 さらにまた、シカニア〔シケリアの古名〕の王コカロスのもとへのダイダロスの寄留についても、エポロスは第7巻の中で、ピリストス(III)は第1巻の中で触れている。


F58a
HARPOKR. (SUID.) 「(Eurybaton)」の項。

 ……エポロスは第8巻の中で、エウリュバトスはエペソス人だと主張している、――クロイソスから金銭を受け取って、出征軍を対ペルシア戦争に動員しようとしたが、やがてキュロスからもらった金銭を手中にして裏切り者となった。そして、このことから、邪悪な連中がエウリュバトス呼ばれるようになった、と。


F58b
@8 SCHOL. HERMOG. Rh. Mus. LXIII 140, 2:

 エポロスが言うには、彼はエペソス人であったが、クロイソスの命で金銭を携えてペロポンネソスへと派遣されながら、外国兵用報酬目当てにキュロスのもとに脱走したという……


F58c
@8 SUID. 「エウリュバトス(Eurybatos)」の項。

 悪人。エポロスの主張では、クロイソスの命で傭兵徴募のために金銭を携えて派遣されながら、後にキュロスの側に寝返ったことから。で、彼はエペソス人であった。しかし、ある人たちによれば、ケルコプス人の別人だという。ディオティモスは『ヘラクレスの比武』(p.213 Ki)で……ニカンドロス(F 112 Schn)は、エウリュバトスをアイギナの狡猾きわまりない男とし、これにはアリストテレスが『正義について』(F 84 R)第1巻の中で言及している。デュウリス(76 F 20)は……別人のおデュッセウスの末裔という……


F58d
DIODOR. IX 32 (Exc. De virt. I 220, 9)

 クロイソスは……、エペソス人エウリュバトスを、デルポイに遣るふりをして、ペロポンネソスに派遣し、そのさい、これに黄金を与えて、できるかぎり多数のヘラス人たちを外国兵として徴募しようとしたということ。ところが、派遣されたこの男は、ペルシア人キュロスのもとに立ち去って、仔細を打ち明けた。このため、エウリュバトスの邪悪さはヘラス人たちの間でも有名となり、今に至るも、誰かの邪さを悪罵したいと望む者は、相手をエウリュバトスと呼ぶのである。[Exc. de virt. et vit. p.241 V., 553 W.]

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