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back.gifエポロス断片集(2/6)



エポロス断片集

(3/6)





F59a
HARPOKR. 「露頭(geophanion)」の項。

 大地から採鉱する場所。サモスにある露頭については、これがいかにして発見されたかをエポロスが第9巻の中で明らかにしている。


F59b
@8 SUID. 「マンドロボロスのやりかたで(epi ta Mandrobolou)」の項。

 よりつまらない事態に陥ったことについて言われる。マンドロボロスというところでサモスの露頭が発見したとき、真っ先に黄金の雄羊を奉納し、次に銀製のを、次に青銅製のもっと小さいのを、そのあとはもはや〔奉納〕しなかった。エポロスによる。


F60a
SCHOL. APOKK. RHOD. II 965:

 エポロスは第9巻の中で主張している――アマゾン女人族は男たちに暴行されたので、彼女たちはある戦争に出陣し、生き残った者たちは殲滅し、外地から接近する者たちは受け容れなかった、と。


F60b
@8 STEPH. BYZ. 「アマゾン女人族(Amazones)」の項。

 テルモドン河に臨む女の民族、とエポロス。彼女たちを今はサウロマティスたち(Sauromatidai)(F 160)と呼ぶ。


F61
SCHOL. APOLL. RHOD. I 1037:

 この戦いについてデイロコス(III)も記している。|しかし、キュジコス陥落と戦闘の全体については、調和していない。すなわち、エポロスの主張では、ペラスゴイ人であったドリオナイ人たちは、テッサリアやマグネシアに居住していた者たちを、彼らによって閉め出されたことで敵愾心さえいだき、これを襲撃した、と第9巻の中に書いている。他方、アポッロニオスはデイロコスに従っている。が、カッリステネス〔124 F 6〕は、『敵地の沿岸航行誌(Periploo kat' echthran)』第1巻の中で主張している。――キュジコスの住民たちは夜陰に乗じてアルゴス号乗組員たち(Argonautai)を襲撃した、と。


F62
STEPH. BYZ. 「パラッンナ(Phalanna)」の項。

 ペッライビア(Perraibia)の都市……エポロスはこの都市をパラッンノンと第9巻の中で呼んでいる。

F63
STEPH. BYZ. 「パロス島(Paros)」の項。

 島……この島にちなんで「パロス流やりなおし」という諺が言われる、とエポロスが第10巻の中で。「ミルティアデスは、他の島嶼に何回か攻め上って荒らしたが、パロス島は、当時のキュクラデス群島の中で繁栄をきわめていた[しかも最大であった]ので、腰を据えて長時間かけて攻囲し、海上は封鎖し、陸上では攻城兵器を使用した。もはや城壁が崩され、都市を引き渡すことにパロス人たちが同意したとき、ミュコノス島付近のとある森がおのずから燃えだしたので、パロス人たちは、ダティスが自分たちに狼煙を上げたのだ解して、同意を欺いて、もはや都市をミルティアデスに引き渡そうとはしなかった。ここから、今でもなおわたしたちは諺に用いて、同意を欺く者たちのことを、パロス流やりなおしをすると称するのである」。


F64
SCHOL. ARISTEID. p.515, 22 Ddf
 エポロスは第11巻の中で主張する――彼〔キモン〕が所有したのは50タラントンであったが、これは富裕な婦人と結婚したおかげである。


F65a
THEON Progymn. 2 p.66, 31 Sp:

 さらにまた、破壊的論法も建設的論法も、これをわたしたちは金言集(chreiai)や英知集(gnomai)や記録集や(apophaseis)、そういったものの昔の〔著〕者たちの作品から得ている。まさしくこの種類に整合しうるのが、エポロスが『歴史』第11巻の中で、ネイロス河についてより昔の作者たちによって創始された記録集に加えて言っているかぎりのことである。


F65b
@8 JOANN. @1 LYD. De mens. IV 107 p.146, 11 Wu:

 さらに、キュメ人エポロスは『歴史』第11巻の中で主張している――アイギュプトスはもともと細長い地である、そして、毎年、泥土が伴われると、ネイロス河〔ナイル河〕によって冠水するが、河は液体のために、時宜を得た暑熱のせいで、より軽快な、より狭い方向へと流れ下る。


F65c
@8 AETIUS Plac. IV 1, 6 p.385 a 24 Diels

 歴史記述家エポロスは主張する――太陽熱のせいで、アイギュプトス全土が荒廃させられるが、あたかも発汗するごとく数多の泉を噴き出させる。この地には、狭い砂漠に近いアラビアもリュビエ〔f ∬ 64〕も貢献している。


F65d
@8 SCHOL. APOLL. RHOD. IV 269:

 エポロスによれば、アイギュプトスは堆積地だと彼は主張する、太陽〔熱〕によって大地が裂けるけれども、春には水が噴き出し、流れが拡大する、と。


F65e
@8 DIODOR. I 37, 4 (=Agatharchides 86 F 19):

 クセノポンとトゥキュディデスは、その歴史書の真実さの点で称讃されているが、アイギュプトス地域の記述に関しては、完全さにはほど遠い。これに反して、エポロスとテオポムポス(115 F 293)との一派は、この点に関して誰よりも大いに尽力し、真実を得損なうところ最も少ない……[39, 7]エポロスの方は、きわめて新奇な理由を導入して説き伏せようとするのだが、真実を得ているとはとうてい見えない。例えば、彼は主張する――アイギュプトスは全土が堆積地であり、海綿状であり、なおそのうえに、自然本性上軽石であって、大きくて切れ目のない裂け目を有している、そのため多量の湿り気を含有している。そして、冬の季節にはそれを内に保有しているが、夏の季節には、一種発汗のごとく、至るところから内より発散し、これによって河を満たす、と。[8]この編纂家は、アイギュプトスの地域の自然を観察したことがないのみならず、その地のことを知っている人たちからさえも心して聞き知ろうともしていないことがわたしたちには明らかである。


F65f
ARISTEID. or. XXXVI 64 (II 283, 23 Keil):

 「それでは、さぁ、〔話を〕続けてください」。
 哲学者で知者のエポロスの「飾りを歌ったのだ」。この飾りでもってあの御仁は、自分自身と著作とを飾り立てたのだが。じつをいうと、論難しようとする者は、発明したと称する者よりもより滑稽ではないかとわたしは懼れていたのだ。というのは、カタドゥパのはるか上流ではなく、われわれが知っている河川からなおはるかに水勢をネイロス河が引き出しているなら、これはあの人が暑さのせいにして主張するところであるが、はたして、リビュエやアラビアの山岳地から水が下流に離れて、中央に位置する水路のあるアイギュプトスを満たしているのかという疑念を、ひとはすぐに抱くであろうから。[68]そもそも、いったいぜんたい、河川が、すべてとは言わないにしても、この言葉どおり、暑さのせいで肥大化するなんてことがあるのだろうか? なぜなら、もしも太陽が大地の水路の中へと水を押しだし、対して大地が満たされきって、どこもかしこも水浸しになったら、いうまでもなく、暑熱の盛りには、河川が最大になるということはない、河川という河川はみな、おのおのが自分に合った大地の水路にあるのだからである。だからむしろ、そのときは最大ではなく、そのときは最小である。[70]「だから、ネイロス河から遠く隔たったところにある港湾が」と彼は主張する、「豪雨や融雪から遠ざかっているのに、満ちるのはどうしてであろうか?」 そんなことがまったく不可能であるとするなら、少なくともエポロスの言葉には符合するところは何もないであろう。なぜなら、[72]山岳地帯に閉じこめられた地域の水路が、原因となっているなら、河から遠く隔たったところにある港湾が満たされることはないであろう。これの証人はエポロスその人である。というのは、彼は論難を逃れようとして主張しているからである、――それで「このことが他の土地で結果することは不可能である。〔他の土地は〕アイギュプトスと違って、窪地でも後得の地でもなく、古来の地てあるとともに」あの人の呼び方によれば「自凝固地(autopage)」なのだから、と。別の人たちなら、こういったことを無量に言うことができよう(Diod. I 39, 11-13):じっさい、少なくとも論敵に対して彼自身が反論し、一例を典型として挙げて言い逃れようとしている。しかし、その名前さえも挙げておらず、そのため、河なのか土地なのか判断のしようもないにもかかわらず、言い勝ったと申し立てているのである。[78]「すなわち、アイギュプトスは細長く、流体を手渡してゆくには容易な地である」と。[82]そこで、もし、この地がリビュエやアラビアの間にあるとか、他のどの地よりも窪んでいるとかするなら、エポロスの言うのは真実とわれわれは認めよう。余所に探求するべきではない、同じではないのだからと言って、欺くぐらいなのだから。[85]エポロスの知恵と新しい見解(p.60, 15)に対しても、彼一人のみが真理に接したと主張している、それほどまでに言われたとしよう。しかし、リビュエのかなたに貿易風によって流れる甘い海 鰐たちによって シュバリス人たちのではなく マッサリア人たちの神話  おお、優美きわまりないエウテュメネス(V)よ、|……思われると称して、これらを真実としてあなたに向かってエポロスが言うなら


F66
STEPH. BYZ. 「テュケ(Tyche)」の項。

 シケリアの、シュラクウサイの近くの都市。エポロスは第12巻の中でテュケを島だと主張している。


F67
HARPOKR. 「スケプシス(Skepsis)」の項。

 ……トロイアの都市で、これに言及しているのは、他の人たちもだが、エポロスが第15巻の中で。


F68
STEPH. BYZ. 「エンテッラ(Entella)」の項。

 シケリアの都市。エポロス第<10+?>巻。住民の氏族はカムパノイ人たちにして、カルケドン人たちの同盟者。


F69
SCHOL. HM(ED) HOM. Od. III 215:「言うて下され、ほんに御身は承知で勝手にされどいでか、それとも国じゅうの者が、御身を悪く思うてでもか、御神の声になり聞き従い」〔呉茂一訳〕]

 彼らはしばしば託宣に聞き従って王たちを更迭したからである。エポロスも第<10+?>巻の中に神々について記している。「恐るべきは、生まれつき王位にある者を殺害することである。では、神々のはかりごとをわたしたちは最初に述べよう」というのがそれに唱和している。


F70
DIODOR. XIV 11,1

 [1]さて、こういったことが起こっている間に、ダレイオス大王の太守パルナバゾスは、アテナイ人アルキビアデスを逮捕して亡き者にした。ラケダイモン人たちの歓心をかおうとしたのである。ところがエポロスは、その策謀には他の理由があったと記しているので、この編纂者によって伝えられているアルキビアデスに対する策謀なるものを対置するのは無用ではないと私は信ずる。[2]すなわち、第17巻において彼が主張しているところによると、キュロスとラケダイモン人たちとは、〔キュロスの〕兄のアルタクセルクセスに対して同時に戦端を開くべく、ひそかに準備を整えていたが、アルキビアデスが何人かの連中からキュロスの目論見を察知し、パルナバゾスのもとに赴いて、この件についてつぶさに説明し、自分がアルタクセルクセスのもとに参内する通行を認めるよう要請した。大王に策謀を最初に暴露したかったのである。[3]しかしパルナバゾスは、話を聞いて、その通報役を奪い取り、この件について大王に明かすために腹心の部下たちを派遣した。こうして、大王のもとへの護衛者たちをパルナバゾスが与えなかったので、彼〔エポロス〕の主張では、アルキビアデスはパプラゴニアの太守のもとに進発し、この者の力で参内を果たそうとした。そこでパルナバゾスは、この件について大王が真実を聞き知るのではないかと恐れ、陸路、暗殺者たちをアルキビアデスに差し向けた。[4]かくして、彼がプリュギアのとある村で幕営しているところを捕らえた連中は、夜間、大量の薪を積み上げた。こうして大火が燃え上がったとき、アルキビアデスは自衛を試みたが、火と、彼めがけて投じられる投げ槍とに制せられて最期を遂げた、と。


F71
ATHEN. XI 101 p.500C:

 さらにまたデルキュリダスをもラケダイモン人たちはシシュポスと呼んでいたと、エポロスは第18巻の中でそう主張し、次のように述べている。「ラケダイモン人たちがティムブロンの代わりにデルキュリダスを〔小〕アジアに派遣したのは、〔小〕アジアの非ヘラス人たちは騙し討ちと罠とでどんなことでもすると聞いたからである。それで、デルキュリダスを派遣すれば、決して騙されることはあるまいと信じたのである。というのは、彼はその性格の点で少しもラコニア人的ではなく、まして単純さを持ち合わせていないどころか、むしろはるかに抜け目のない、獣のような男だったのである。それゆえ彼のことをシシュポスとラケダイモン人たちは綽名していたのである」。


F72
STEPH. BYZ. 「ヘルメスの平野(Hermou pedion)」の項。

 キュメの近くの地域。エポロス第18巻。


F73
HARPOKR. 「ヒエロニュモス(Hieronumos)」の項。

 ……ヒエロニュモスがアテナイの将軍になったことに言及しているのは、他の人たちもだが、エポロスも第18巻と第19巻の中で。


F74
HARPOKR. 「ヒエロニュモス(Hieronymos)」の項。


F75
STEPH. BYZ. 「ポインイカイオン(Phoinikaion)」の項。

 コリントスの山。エポロス第19巻。


F76
同 「オティエイス(Otieis)」の項。

 キュプロス人たちの版図。エポロス第19巻。「さらにまたアマトゥウス人たち、ソロイ人たち、オティエイス人たちもやはり戦争に反対して」。


F77
同 「アルゴス(Argos)」の項。

 ……アルゴス贔屓という語句も、この〔?〕エポロス第19巻。


F78
STEPH. BYZ. 「キュトン(Chyton)」の項。

 内陸の砦。エポロス第19巻。「クラゾメナイ出身の人たちは、内陸のキュトンと呼ばれるところに居住した」。


F79
HARPOKR. 「マンティネイア人たちの分住(dioikismos)」の項。

 イソクラテスは『平和について』の中(100)で、ラケダイモン人たちの条文に関して、「マンティネイア人たちを分住させた」と主張している。エポロスも第20巻の中で、ラケダイモン人たちはマンティネイアの都市を5つの村落に分住させたと主張している。


F80
PAP. BEROL. 5008 (Lex. zu Demosth. Aristokr. 198; Berl. Klass. -Text. I 80) B 1 [ナクソス沖の海戦でカルビオスは勝利したということ〔欠損〕]

 |ハラデ・ミュスタイ(Halade mystai)〔エレウシス秘祭の第2日目、ボエドロミオン月の第16日〕が行われるとき、灌酒祭(oinochoema)へと、秘祭の出席者たちは……管理者たち。エポロスも『歴史』第21巻の中で〔欠損〕……(以下、次の見出し語)


F81
STEPH. BYZ. 「ブウピア(Bouphia)」の項。

 シキュオニアの村落。エポロス第23巻。民族的にはブウピア人(Bouphieus)。


F82
HARPOKR. 「ネメアの涸谷(charadra)」の項。

 アイスキネス『使節について』(168)。ペロポンネソスのある地方がそういうふうに呼ばれる。「ネメアの涸谷の近く」とエポロスは第23巻の中で。


F83
STEPH. BYZ. 「クリュソポリス(Chrysopolis)」の項。

 ビテュニアのカルケドンの近く、遡航する者にとって右岸。エポロス第23巻。「カルケドン人たちのクリュソポリスを同盟者たちに引き渡した」。テオポムポスも『歴史』第1巻(115 F 7)の中で……


F84
STEPH. BYZ. (cod. Sequer.) 「デュメ(Dyme)」の項。

 アカイアの都市……市民はデュメ人(Dymaios)。エポロス第24巻。「デュメ攻撃の出兵が起こったため、初め、デュメ人たちは驚倒して」。


F85
DIOG. LAERT. II 53

 そうこうするうちに、アテナイ人たちがラケダイモン人たちの救援を決議したので、〔クセノポンは〕子どもたちをアテナイに遣わした。〔子どもたちが〕ラケダイモン人たちのために出征するためである。[54]というのも、〔子どもたちは〕ほかでもないスパルタで教育を受けたからであるとは、ディオクレスが『哲学者伝』(IV)の中で主張しているとおりである。こうして、ディオドロスの方は、何ら目立った働きもせずに戦いから生還したが、彼には兄弟と同名の息子がいた。その〔息子と同名の〕グリュッロスの方は、騎兵隊に配属され|マンティネイア付近の戦闘があったとき|頑強に闘って最期を遂げたと、エポロスが第25巻の中でそう主張している。このときの騎兵指揮官はケピソドロス、将軍はヘゲシラオスだったという。この戦いでは、エパメイノンダスも落命した。


F86
STEPH. BYZ. 「カッサノロス(Kassanoros)」の項。

 アイギュプトスの都市で、これにはエポロス第<20+?>巻が言及している。


F87
STEPH. BYZ. 「ビュマゾス(Bymazos)」の項。

 パイオニア〔北マケドニアのアクシオス河流域からストリュモン河までの地域。〕人たちの都市。エポロス第27巻。


F88
同 「ゼラニア人たち(Zeranioi)」の項。

 トラキアの民族。テオポムポス第45巻(115 F214)。ゼラニア市もその領地にある。エポロス第27巻。


F89
STEPH. BYZ. 「パロス島(Pharos)」の項。
 アドリア海の島で、同名の河を有す。パリア人たちの建設になると、エポロス第28巻にある。


F90
同 「ミュンドネス(Myndones)」の項。

 リビュエの民族。エポロス第28巻。「ミュンドネス人たちほど、よく知られ、その生活ぶりが裕福な人たちはいないと思われている」。


F91
同 「ヘルビタ(Herbita)」の項。

 シケリアの都市。エポロス第28巻。


F92
同 「イストロス(Istros)」の項。

 ……イアピュギアの第4の都市、エポロス第29巻による。


F93
SCHOL. T HOM. Il. XIII 302「プレギュアイ人たちと出かける」]

 ある人たちは、ギュルトネ人たちだと言い、ある人たちは、ポキスのダウリスに定住している人たちだというが、この住民たちは傲岸で、ピュトの神殿を破壊したことがあるので、あたかも「恐るべきことをしでかした人たち」のように言うのである……が、彼らについてもっと詳しくはエポロスが述べていて、彼らが住んだのはダウリスであって、ギュルトネではない。その所以は、ポキス人たちの間でも、暴慢なことをプレギュアイ人のようにふるまうと言われている、と。また、このことはデモピロスの第30巻の中にもある。


F94a
ANON. IN ARISTOT. Eth. Nic. III 11 o.1116 b 6 [Comm. i. Arist. Graec. XX 165, 24]:

 ボイオティアのコロネイアにあるヘルマイオン〔平野〕は、他の地域は起伏に富んでいるのに、この地の平らな場所としてそういうふうに言われ、かつて、ここでコロネイア人たちが戦闘隊形をとったことがあるが、これに救援してくれたのは、ボイオティア連合指揮官たちの麾下、メタコイオンから出陣してきた将兵たちであった。このとき、都市を占領しアクロポリスを――自分に売り渡されたために――制圧下においたのは、ポキス人オノマルコスであったが、〔コロネイア人たちは〕自分たちはとどまって、オノマルコス側の者たちに殺害された。門扉を閉じたままであったのは、逃亡すること、すなわち、祖国を見捨てることを、望む連中にも赦さないためであった。他方、ボイオティアから彼らの救援に駆けつけたメタコイオンからの将兵たちの方は、戦闘が始まるとすぐに敗走した。ボイオティア連合指揮官の一人カロンが戦死したのをさとったからである。この戦闘について記しているのは、ケピッソドロスの『神聖な戦争にについて』第12巻の中〔112 F 1〕、アナクシメネスの『ピリッポスについて』第4巻の中〔72 F 8〕、エポロス第30巻の中である。


F94b
STEPH. BYZ. 「メタコイオン(Metachoion)」の項。

 オルコメノスとコロネイアとの中間のボイオティアの要塞。エポロス第30巻。


F95
STEPH. BYZ. 「メリタイア(Melitaia)」の項。

 テッタリアの都市。アレクサンドロス『アジア』(V)。テオポムポス〔115 F 373〕はこの都市をメテテイア(Meleteia)と称す。市民はメリタイア人(Melitaieis)とエポロス第30巻。「ペライ人たちの僭主たちとメリタイア人たちは初め友好的であった」。


F96
ATHEN. VI p.232 D

 エポロス、ないし、彼の息子デモピロスは、『歴史』第30巻の中で、デルポイの神殿について述べて〔次のように〕主張している。「かくてオノマルコス、パウッロス、パライコスは、神の奉納物をすべて運び出したばかりか、ついに彼らの妻たちが手に入れたのは、エリピュレの装身具――アルクマイオンが神の命でデルポイに奉納したもの――や、ヘレネの首飾り――メネラオスが奉納したもの――であった。そもそも、これら両人のそれぞれに神が下された託宣とは、アルクマイオンには、いかにすれば狂気をまぬがれられるかと〔神託を〕うかがったとき、「汝、貴き賜物を我に嘆願することよ、狂気をやめさせるとは。されば、汝も貴き捧物を我にそなえよ――かつて、母親がアムピアラオスをば、馬匹もろともに地下に隠せし基となりし物を」というもの、また、メネラオスには、いかにすればアレクサンドロスを罰し得るかと〔託宣をうかがったとき〕、「純金の装身具を汝の伴侶の首より取ってそなえよ――かつてキュプリス〔アプロディテ〕が大きな喜びにとヘレネに与えし物を。かくすれば、アレクサンドロスはおぞましき返済を汝に支払わん」というものであった。ところで、この装身具をめぐって、どちらがどちらを取るかで妻たちの間に争いが起こることになった。そして、くじ引きで決めることになって、生活ぶりが見るからに陰気で威張りくさった方の女が、エリピュレの首飾りを、美貌は際だっているが淫蕩な方の女がヘレネのそれを引き当てた。そして後者はとあるエペイロスの若者に恋して駆け落ちし、前者は夫に死を企んだのである」。


F97
STEPH. BYZ. 「ボイオティア(Boiotia)」の項。

 ……エポロスの主張では、「アテナイ人たちは海軍の能力に、テッタリア人たちは騎兵の能力に習熟しており、ボイオティア人たちは演習の教練に、キュレネ人たちは戦車の操縦にいそしんでいる。『しかして、われわれは諸法の秩序ただしさに』」という。


F98 TATIAN. pr. UEllhn. 31 p.31, 16 Schw (EUSEB. PE X 11 p.491 D) :  なぜなら、ホメロスの詩作について、彼の生まれと、彼が盛年に達した時期とを先駆的に研究したのは、最も古くはレギオン人テアゲネスと……タソス人ステシムブロトス〔107 F 21〕と、アンティマコス……ヘロドトス(II 53)と……オリュントス人デュオニュシオスも(VI)。この人たちの後になると、キュメ人エポロスとテオポムポス(III)……メガクレイデス(VI)ならびにカマイレオンといった逍遙学派(peripatetikoi)。その後は文献学者たちで、ゼノドトス〔前325頃生〕……


F99
VIT. HOM. ROM. p.30, 27 Wil:

 ヒッピアス〔6 F 13〕、さらにはまたエポロスも、〔ホメロスは〕キュメ人だ〔と主張する〕。しかもエポロスは、その生まれをカリペモスに帰属させさえする。このカリペモスは、キュメに住んでいたのである。


F100
SCHOL. HESIOD. Opp. 633 p.300, 2 Gaisf:

 エポロスの主張では、この人〔ヘシオドスの父親〕はアスクラに赴いた、交易のためではなく、同族殺人のとがで閉め出されて、と。F1参照。


F101a
GELLIUS III 11, 2:

 あるひとたちは、ホメロスの方がヘシオドスよりも年齢的に年上だと書いているが、この中にはピロコロス(III)やクセノパネス〔11 B 13 Diels〕が含まれる。しかし、あるひとたちは、〔ホメロスの方が〕年少だと〔書いている〕。この中には、詩人Lucius Accius〔170-c. 86 B.C.〕や歴史記述家エポロスが含まれる。[3]しかし、Marcus Terentius Varroは、『イメージ論』第1巻の中で、どちらが年齢的に先か、確かなことあまりないと彼は言う、しかし、どこかで、いつの時代か、ともに生きていたということは疑いを容れない、と。このことの根拠として彼の示すのが碑文で、これは鼎に記されたものだが、その鼎は、ヘリコン山にヘシオドスによって納められたという代物である。[4]しかし、アッキウスは、『説教集』第1巻の中で、ちょっとしたことをまるで大問題であるかのように扱っている……[5]それは、ホメロスが、彼のいうのには、歌の初め〔Il. I 1〕に、アキレウスのことをペレウスの息子だと言ったとき、ペレウスが何者なのかにふれていないということである。これこそは、彼の言うのには、疑いもなく、〔以下、数行未訳。テキストの取込み失敗〕


F101b
@8 SYNKELL. p.326, 8 Bonn:

 ヘシオドスも有名になり、これをエポロスは、ホメロスの甥で〔ホメロスと〕同時代人と主張している。


F102a
EKLOG. HISTOR. COD. PAR. 854 (Cram. An. Par. II 227, 23)

 ところで、わたしたちは、エポロスや他の編纂者たちの幾人かが、彼〔ホメロス〕が〔ヘラクレイダイの帰還の〕何世代も後世の人だと主張しているとは知らないし、まして、詩人ヘシオドスと同時代に人生の盛りにあったと書いている人たちがいるとも〔知らない〕。


F102b
@8 HIERONYM. Chron. a. Abr. 1104 p.77, 16 Helm:

 この『ラテン史』の中にアグリッパが見つけた文言によれば、ラテン人たちの間でギリシアの詩人ホメロスは絶大な人気を博したという。これは、文献学者アポッロドロス〔244 F 63〕と歴史家エポロスとが主張しているところでは、前124年のローマ創建の前、Cornelius Nepos〔F 2 Pet.〕の言によれば、第101回オリュムピア年紀の前である。


F103
STEPH. BYZ. 「ボリッソス(Bolissos)」の項。
 アイオリアの、キオス(Chios)岬の近くにある都市……言い伝えでは、ホメロスはこの小都市で暇つぶしをした、とエポロス。


F104
DIODOR. V 64, 4:

 何人かの人たち――この中にエポロスも含まれる――が記しているところによれば、ダクテュロイ・イダイオイ(Daktyloi Idaioi)が生まれたのは、プリュギアにあるイデ山であったが、ミュグドンに率いられてエウロペに渡った。そして、1世の魔術師たちは、聖歌や典礼や秘儀を修得し、サモトラケあたりで過ごしていたが、この間に、原住民たちを徹底的に排除した。まさにそのころ、オルペウス――作詩と作曲に抜きん出た自然本性を具えていた――も、彼らの弟子となり、ヘラス人たちに初めて典礼と秘儀を導入したという。


F105a
SCHOL. DIONYS. THRAC. [Gr. Gr. III] p.183, 1 Hilg:

 他の人たちもそうだが、エポロスも第3巻の中で、字母の発明者はカドモスだと主張している。しかし一部の人たちは、発明者は彼ではないが、ポイニキア人たちの発明のわれわれへの伝承者だと、ヘロドトスも『歴史』(V 58)の中で、またアリストテレス(III)も記している。ebd. 190, 20. 1 F 20 の項。


F105b
@8 同 p.184, 20

 しかし文字はポイニキア文字と言われていると、キュメ人エポロスとヘロドトス(V 58)とが主張している。ポイニキア人たちがそれを発明したからである。


F105c
@8 CLEM. ALEX. Strom. I 75, 1 p.48, 10 Stah:

 しかしポイニキア人カドモスがヘラス人たちにとって文字の発明者となったと、エポロスが主張している。文字はポイニキア文字とも呼ばれるとヘロドトスが書いているからである。しかし一部の人たちは、文字を最初に考案したのは、ポイニキア人たちとシュリア人たちであると言っている。


F106
SCHOL. BTV Hom Il VIII 185

 というのは、ヘラス人たちすべての間で字種は同じではない。字母の名称さえ異なっている。例えば、san〔M。「フェニキア文字にはギリシア語以上に多くのsibilant、則ち[s]叉はこれに類似の音韻が多く、最初これらは全部使用され、従って相互に混用されていた」高津春繁『ギリシア語文法』p.21〕のように。また、サモス人カッリストラトスがペロポンネソス戦争の時代に写字法を移入し、エウクレイデスが執政官の年に、アテナイ人たちに伝えた、とエポロスは主張している。


F107a
CICERO Orat. 191 (QUINTILIAN. Inst. IX 4, 87):

 エポロス〔T29〕は……パイアン調ないしはダクテュロス調を求めるが、スポンデイオス調〔長長格〕とトロカイオス調〔長短格〕は避ける。なぜなら、パイアン調は3つの短拍を〔「初めのパイアン調」では、長短短短格となる〕、ダクテュロス調は2つの短拍を持つ〔長短短格〕ので、音節の短さと速さによって、より流暢に流れるが、スポンディオス調とトロカイオス調にはこの逆があてはまると彼は考えた。このひとつは長拍から、ひとつは短拍から構成されるので、後者は文体をあまりに急迫したものに、前者はあまりに鈍重なものにして、どちらも適度な〔文体〕にしないのである。とはいえ、前述の有名な人たちも、エポロスも、間違っている……[194]しかしながら、エポロスは、スポンディオス調――これを彼は避ける――を、ダクテュロス調――これを彼はよしとする――に等価だとは認めない。というのは、詩脚は音節の数によって測られるのであって、間隙の数によって〔測られるの〕ではないとみなすからである。また彼はトロカイオス調も同じだとした。


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@8 同 218:

 ひとによっては、パイアン調は、3音節以上を有するのであるからして、律動はあるが、詩脚は有していないとさえいう。たしかに、アリストテレスにせよ、テオプラストスにせよ、テオデクテスにせよ、エポロスにせよ、古代の人たちがみな同意しているところでは、〔音節は〕文の初めか中間に1つあるのが最適である。終わりにあるのもそのように彼らは考えているが、ここに置くのはクレティコス調〔キケロの解するクレティコス調の組み合わせは、「―∪―|―≧」〕がよりふさわしいようにわたしには見える。

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