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back.gifエポロス断片集(4/6)



エポロス断片集

(5/6)





F135
STRABON VI 2, 1:

 エポロスのように、もっと簡単に、〔シケリアの〕周航路は5昼夜だと述べた人たちがいた。


F136
同 VI 2, 4:

 というのは、〔シケリアの〕非ヘラス系の人たちのうち、一部は原住民であったが、いくつかは対岸から渡ってきたのである。しかしヘラス人たちは、海岸地帯はどこにも手出しをさせなかったが、内陸部から完全に閉め出すだけの力はなく、ここに至るまでシケリア人たち、シカニア人たち、モルゲテス人たち、他にもいくつかがこの島にとどまりつづけ、その中に、イベリア人たちも含まれている。この人たちこそ、エポロスの主張では、非ヘラス系の人たちのうちでシケリアの最初の植民地開拓者と言われているという。


F137a
同 VI 2, 2:

 しかし、カタネとシュラクウサイとの中間にある都市、つまりナクソスとメガラとは放棄されたが、ここには河川の河口が集中していて、アイトナ山から流れ下った河川は、みなこの良港に河口を持っていた。さらにここにはクシポニアの岬もあった。エポロスの主張では、これら〔の諸都市〕はヘラス人たちがシケリアに建設した最初の都市で、それはトロイア戦争の10世代後だという。すなわち、それまでの〔ヘラス〕人たちは、テュッレネの掠奪者たちや、この島の異邦人たちの野蛮さを恐れるあまり、交易目的でさえ航行しなかった。ところが、アテナイ人テオクレスが、風のせいで航路をシケリアにそれて、住人たちのつまらなさと土地の徳性とに気づき、帰郷してから、アテナイ人たちは説得できなかったが、エウボイアにいたおびただしい数のカルキス人たちと、イオニア人たちも何人か、さらにはドリス人たち――その大多数はメガラ人たちであった――も〔何人か〕引き具して航行した。かくて、カルキス人たちはナクソスを、ドリス人たちはメガラ――それまではヒュブラと呼ばれていた――を建設したという。


137b
@8[SKYMN.] orb. descr. 264:

 続いて遭遇するのが、シケリア島で、ここでは、初め、非ヘラス系の異語――大部分がイベリア語に結びついていた――が話されていたが、この土地の奇妙な海岸線の特徴から、イベリア人たちによって「三角島」(Trinakria)よ呼ばれたが、後に、今度はシケロスが権力支配したときに、シケリアと命名されたという。その後、ヘラス系の諸都市を持つに至ったのは、言い伝えによれば、トロイア戦争の後、10世代後に、テオクレスが、|この人は、生まれはアテナイ出身であった|、カルキス人たちのところから艦隊を引き連れて、話では、イオニアの植民地開拓者たちが、次には、ドリスの開拓者たちが、集結したという。しかし、ここで争いがおこり、カルキス人たちはナクソスを建設し、メガラ人たちはヒュブラを建設した。


138a
STRABON VI 1, 7

 次に、ロクロイ・エピゼピュリオイという都市は、クリサ湾のロクリス人たちの植民市で、クロトンとシュラクウサイとの建設の少し後に、エウアンテスによって植民された。しかしエポロスが、オプウンティオイ・ロクロイの植民市と主張しているのは、よろしくない。


138b
@8[SKYMN.] orb. descr. 312:

 エピゼピュリオイといわれるロクリス人たちが近くにいる。この人たちは、成文法――これを制定したのはザレウコスと思われている――を用いた最初の人たちと伝えられている。しかし彼らはオプウンティオイ・ロクロイの植民者である。しかし、オゾライのロクリス人たちも何人かいたと伝えられている。


F139
STRABON VI 1, 8:

 〔エピゼピュリオイ・ロクロイは〕成文法を用いた最初の人たちだと信じられている。そして、長期間にわたってよく治められていたが、ディオニュシオスがシュラクウサイから落ちてきて、ありとあらゆる無法行為をしつくした……このロクロイの法文――これをザレウコスは、クレテやラコニアの慣習法や、アレオパゴスの慣習法に基づいて制定した――に言及したエポロスの主張では、ザレウコスが初めて一新した点は、それまでは、不正事に対してそれぞれ個別に罰を規定するよう裁判官たちに委ねられていたのを、彼が法習にしたがうよう規定したことにあるが、それは、同じ行為に対して裁判官たちの判決が同じではないので、罰は同じであるべきだと考えたからである、という。さらにまた、[同じ]契約事について扱いをより簡素化したことを彼〔エポロス〕は称讃している。後には、トゥリオイ人たちが厳密にしようとし、ロクロイ人たち以上に評判になりはしたが、〔市民は〕より劣悪となったという。というのは、法習に遵う者たちとは、告訴屋稼業の連中のことをことごとく守る人たちではなく、単純な現行法を遵守する人たちだからであるという。これはプラトンも述べたこと〔Rep. 404e-405a〕であって、法習の数が最も多いといった、そういう人たちの間では、裁判の数もつまらぬ生活も〔多いこと〕、あたかも、医者の数が多い人たちの間では、当然、病気の数も多くなるがごとくである、と。


F140
同 VI 1, 12:

 また、イアピュギア人たちは、以前、クロトンに住んでいたと、エポロスは主張している。


F141
同 VI 1, 15:

 しかし、メタポンティオンの開拓者は、デルポイに近いアリサの僭主ダウリオスだと、エポロスは主張する。


F142
VII 7, 10:

 エポロスの主張によれば、〔ドドネの神託所は〕ペラスゴイ人たちの建立物であるという。

F143 STRABON VIII 1, 3:  ところでエポロスはと言えば、西部から始めてアカルナニアがヘラスの最初の地だと主張する。というのは、これ〔アカルナニア〕はエペイロス諸族に最初に接する地だからというのである。じっさいこの人が、沿岸部を基準として、そこから書き起こしているは、地誌作成のためには、海が主導的な役を果たすと判断してのことであるようだ。さもなければ、マケドニアやテッタリアの地に面する側をヘラスの初めの地と言い表すこともできたであろうから……


F144
[SKYMN.] orb. descr. 470-478:

 ヘラスのことを重点的に述べているのに続けて、今度はヘラス周辺の諸地域の全体をも、エポロスに従って民族的に説明することにしよう。アルカナイの背後はアイトリアで、エリスからの植民を受けた。すなわち、初めはクウレテス人たち(Kouretes)がこの地に定住していたが、アイトロスがエリスから来着して、アイトリアと名づけ、前者を追い出して……


F145
同 535-549:

 さて、クレテ島は、ペロポンネソスのかなたに横たわり、大きさは大きく、繁栄をきわめている島で、ラコニケのマレア岬〔かなた〕から、細長く外洋へと、ドリエイス系のロドス島まで伸びており、ほとんど大部分、昔からの人群れと諸都市によって経営されている。しかし、最古の建設者たちとして〔島が〕有しているのは、彼らの間でエテオクレテス(Eteokretes)〔「真正クレテ人」の意〕と言われる人たちにほかならない。つまり、言い伝えでは、最初、クレテ人たちがヘラスの海を支配し、島嶼にある諸都市をも領したという、さらには、それらの諸都市に集住させたとエポロスは述べた。また、彼の主張では、この島名の由来も、クレス(Kres)なる者にちなみ、これこそは土地生え抜きの王であるという。〔島までの距離は〕ラコニケから隔たること数日の航程である、と。


F146
STRABON X 4, 15 (EUSTATH. Il. II 649):

 この詩人は、クレテのことを一方では百市と言い〔Il. II 649〕、他方では九十市と言うが〔Od. XIX 174〕、エポロスはと言えば、10市は後から建設されと主張し、それはトロイア戦争の後、アルゴス人アルタイメネスに追随してきたドリス人たちによってである。だから、九十市と名づけたのはオデュッセウスだと彼は言う。なるほど、この話は説得的である。しかし他の人たちは、10市はイドメネウスの敵たちによって破壊されたと主張している。


F147
同 X 4, 8:

 エポロスの述べたところでは、ミノスが景仰したのは、古代のラダマンテュスという者であった。〔ラダマンテュスは〕公正無比の人物で、彼〔ミノス〕の兄弟と同名であったが、法習、都市の集住、国制によってこの島を開化した最初の人と思われているが、制定された決まりの一つひとつは、ゼウスから授かったと申し立てた。まさしくこの人物をミノスもまねて、どうやら、9年間ずっと、ゼウスの洞窟に上って、そこで暇つぶしをしたうえで、いくつかの体系づけられた下知をたずさえて立ち去ったが、そのさい、これをゼウスからの命令のだと主張したのである。この理由について、詩人も次のように述べた〔Od. XIX 178〕。「ここに、ミノス、9年間、王位にあり。ゼウス大神の話友だちとして」。〔エポロスは〕こういうことを言ったのであるが、古代の〔著述家〕たちは、この〔ミノス〕について、またもやこれらに矛盾する別の諸説を述べているのであって、例えば、〔ミノスは〕僭主的にして暴力的にして苛斂誅求であったというふうに、ミノタウロスやラビュリントスにまつわることを、また、ウステセウスやダイダロス〔F32; 57〕の身に結果したことを、悲劇化しているのである。これらがどちらであるのか、言うのは困難である。また、他にも一致しない話があり、ミノスのことを島外から来た外人だと言うのがある一方、土地の者だとするのもある。しかしながら、詩人がむしろ第二の説に賛同しているように思われるのは、彼が次のように主張する場合である。〔Il. XIII 450〕。「先ず、ミノスをば、クレテの牧司(epiouros)として生みたり」


F148
POLYB. VI 45, 1:

 クレテ人たちの〔国制〕に話を移すと、知るに値するのは、次の二つの論点――、すなわち、どうして、昔の編纂者たちの中でも最も聡い人たち――エポロス、クセノポン、カッリステネス〔124 F 50〕、プラトン――が、先ず第一には、〔クレテの国制が〕ラケダイモンのそれに等しく、同一だと主張するのか、そして第二には、それが称讃さるべき存在だと彼らが言明するのはどうしてなのか、ということである。[2]このどちらも真実でないようにわたしには思われる。それは次のことから考察できよう。[3]先ずは、等しくないということについて行論をすすめる。そもそも、ラケダイモン人たちの国制の独自性とは、言われているところでは、先ず第一には、地所の保有(engaioi kteseis)に関することであり、これ〔地所〕には、誰もより多く与ることはなく、市民全員が国有地を等しく所持しなければならない。[4]第二は、利得の保有(he tou diaphorou ktesis)に関することで、これが彼らの間で決定的に無意味となれば、その多寡をめぐっての名誉愛は、その国制から徹底的に排斥されることになる。[5]第三に、ラケダイモン人たちの間では、王たちは永遠に支配権を有し、長老の肩書きを持った者たちは終身の〔支配権を有し〕、国制に関すること全般は、これを管掌する人たちによって、また、その同僚たちとともに、管掌される。[146_1]これに反して、クレテ人たちの間では、万事がこれと正反対である。すなわち、土地は権力に応じて、言われているところでは、無制限に、我が物として所有することを法習は認めている。[2]また、利得も、必然であるばかりか、それの保有は最美なこととさえ思われるほどまでに、彼らの間では尊重されているのである。[3]これを要するに、貪欲や強欲に対する態度は、彼らの間では土地柄なのであって、そのさまたるや、全人類の中でひとりクレテ人たちの間でだけは、利得のないことこそ恥ずべきこともみなすほどなのである。[4]もちろん、彼らの間でも支配に関することは年中行事であるし、民主制的仕組みも持っている。[5]だから、自然本性的に正反対のこれら〔両国制〕について、お互いに類縁であり同族であると、あの人たちがわたしたちに報告してきたのは、どういう意味なのか、困惑することしばしばなのである。[6]〔あの人たちは〕これほどの相違を見過ごしたことは別にしても、ひとつの話にじつに多くの尾ひれをつけて、過去の人たちの中でひとりリュクウルゴスのみは、〔国制の〕要諦が何であるかを観察していたと主張するのであるから。[7]なぜなら、市民生活全体がまっとうされるゆえんは二つ――戦争に対する勇敢さと、自分たち相互の同心――であるから、〔リュクウルゴスは〕強欲を排斥することによって、これと同時に、諍いや党争の基となるものはすべて排斥してしまった、と。[8]かくて、ラケダイモン人たちは、そういった諸悪から遠ざけられているので、ヘラス人たちの中で最美に、自分たち自身の政事を執り行い、同一のことを知慮している、と。[9]こういったことを言明し、これとは対照的に、クレテ人たちが、自分たちに植え込まれた強欲のせいで、最多の私的・公的な党争、殺人、部族内的戦争情態に転落しているのを観察して、〔あの人たちは〕自分たちにとっては無価値と思っていながら、無謀にも、これらの〔二つの〕国制が等しいと言うのである。[10]じっさい、エポロスは、それぞれの国制について、名称は別にしても、同じ語句さえ用いてその解説をしているので、その結果、もともとの名称に意を払わなければ、彼がどちらの国制を説明しているのか、いかなる方法によっても区別することはできないであろう。


F149
STRABON X, 16:

 国制については、エポロスが書きとめているが、最も重要な点のみ略述すれば足りるであろう。彼の主張では、次のように思われているという――立法者は諸都市にとって自由こそ最大の善きものと前提した。なぜなら、この自由のみが、善きものどもを所有者たちの私有に帰するのであって、奴隷状態においてはこれを支配者たちのものとして、被支配者たちのものにはならないからである。だから、これを保有する者たちにとっては、これを守護する必要がある。ところで、同心が起こるのは、対立抗争が廃棄されたときであるが、対立抗争は強欲と暴慢によって起こる。ということは、慎み深く平らかに生活している者たちにとってはどんな場合も、等しい者に対する嫉妬も暴慢も憎しみも起こらないということである。それゆえ、子どもたちには、組(agele)と名づけられたところに通うよう、一人前になった者たちには、共同食事所(syssitia)――成人用[共同食事所]と彼らは呼ぶ――で食事するよう命じ、かくすることによって、貧民層が公的に養育されて、富裕層と等しいものに与れるようにする。また、怯懦ではなく男らしさを身につけさせる目的で、子どもころから、武器や労苦によって養育する結果、暑さも、寒さも、でこぼこ道も坂道も、また、訓練や部隊編成での〔模擬〕戦闘における殴り合いをも、ものともしなくなる。さらにまた、弓術や武装しての踊りでも訓練するが、これを最初に取り入れたのはクウレス人たちであったが、後には、振り付けをした人がいて、この人物にちなんで、この闘いの踊りはピュッリコス踊りとも呼ばれるようになり、遊戯さえも戦争に役立つこととは無縁ではなくなったのである。同様にしてまた、歌唱における律動も、極度に急調を用いたが、この律動は、タレスの発明になり、祝勝歌もその土地の歌謡も法制の多くも彼に帰せられている。さらにまた、衣服も履き物も戦争用を用い、贈り物も彼らにとって最も貴重なのは武器であった。
 [17]一部の人たちの言では、クレテの法制の多くはラコニア起源だという。しかし真実には、発明されたのは前者によってであり、厳格に施行したのがスパルタ人たちであり、クレテ人たちは、諸都市が、とりわけクノッソス人たちの都市が傷めつけられて後は、戦備を軽視するようになった。そのため、法制の一部は、彼ら〔クノッソス人たち〕のもとよりは、むしろリュットスやゴルテュンその他の一部の小都市で遵守された。かくてまた、リュットス人たちの法制を証拠として、ラコニアの法制の方が古いと主張する人たちがいる。〔リュットス人たちは〕植民者だから、母市の習慣を守ったのである、さもなければ、より善く組織し為政した者たちがより劣悪な者たちの景仰者だというのは馬鹿げているから、というのである。しかし、こういったことを言うのはよろしくない。なぜなら、現在の状況と昔のそれとは逆転してしまっているのだから――というのも、かつてクレテ人たちは制海権を持っていて〔F 145〕、知っていることを知らないふりをする人たちに対して、「クレス人のくせに海を知らない」という諺になっていたほどであるのに、今は海軍を放棄してしまったのだから|、前者〔現在の状況〕を後者〔昔のそれ〕の証拠にしてもいけないし、諸都市のいくつかがクレテにおけるスパルタ人たちの植民市だからと言って、このスパルタ人たちの法制にとどまるよう強制されることもないからである。じっさい、植民市の中には、祖国の法制を守っていないところも多く、クレテの非植民市の中には、植民市と同じ習慣を保持しているところも多いのである。
 [18]また、スパルタ人たちの立法者リュクウルゴスは、クレテに植民団を派遣したアルタイメネスよりも5世代若い。なぜなら、この人は、プロクレスがスパルテに集住させた〔F 18〕のと同じ時期にアルゴスを建設したキッソスの子だと記録されているのに反し、リュクウルゴスの方は、プロクレスよりも6代後に生まれたということが万人から一致承認されているからである。そもそも模倣品が原型よりも先に存在することはなく、まして、若いものが年長のものよりも〔先に存在することは〕ない。また、ラケダイモン人たちの間では土地柄となっている踊りや、律動や、しきたりどおりに歌う祝勝歌や、他にも法制の多くが、彼らの間ではクレテ起源と呼ばれているのも、かしこに発したもののようである。さらに、公職のうちあるものは、内容もお同じ名前も同じものを持っており、例えば、長老会という役職も騎兵というのもそうである。|ただし、クレテの騎兵は実際に馬をも所有することになっていた。これによって、クレテの騎兵の役職の方が古いと証拠立てられる。〔クレテでは〕この名称の本義を保持しているのに、前者〔ラケダイモン人たちは〕馬の飼育をしないからである|、しかし、監督官たちはクレテのコスモイ(kosmoi)と職能は同じであるが、異なったふうに名づけられている。ところが、共同食事は、クレテ人たちのもとでは今でもやはり成人会と呼ばれるが、スパルタ人たちのもとでは、とどめておらず、以前と同じように呼ばれてはいない。けれども、アルクマンの作〔F 71 Diehl〕に次のようにある。「饗宴や祝宴では 成人会の招かれ人たちから 祝勝歌を始めるがよい」
 [19]さて、クレテ人たちによって言われていることだが、彼らのところにもリュクウルゴスがやって来たのは、次の理由によるということだ。つまり、リュクウルゴスには年長の兄弟ポリュデクテスがいた。この人が身重の妻を後に残して亡くなった。そこで、さしあたってリュクウルゴスが兄弟の代わりに王位に就いたが、子どもが生まれると、この子を後見し、この子に支配権がわたることになっていた。ところが、彼を悪罵する者がいて、彼がいずれ王位に就くことをはっきり知っていると放言した。そこで彼は、こんな言葉がもとで当の子どもから陰謀がでっち上げられると危惧して、たまさか〔その子が〕死にでもしたら自分が敵対者たちから責任をとらされるのではないかと恐れ、クレテに出ていった。これこそが出郷の理由であるといわれているという。そして、〔クレテ島に〕やって来た彼は、抒情詩人にして立法者のタレスと親交を深め、彼のもとで、先のラダマンテュスと後のミノスとが、いかにしてゼウスから法習を人民に導入したか、そのやり方を研究したという。さらには、アイギュプトスにも行って、かしこの法制をも精査し、一部の人たちの主張するところでは、キオスで暇つぶししていた〔F 103〕ホメロスとも出会い、ふたたび家郷に引き上げてみると、兄弟の息子、つまりポリュデクテスの子カリラオスが王位に就いているところに出くわしたという。それから、法習の制定に取りかかり、デルポイの神のところに通って、そこから法令(prostagma)を持ち来ること〔F 174〕、あたかもミノスの一統がゼウスの洞窟から〔持ち来たった〕かのごとく、大部分はそれに似通っていたのである。
 [20]以上がクレテの法制の要諦である。そして、細々とした事柄のうち、彼〔エポロス〕が述べたのは次のようなことである。結婚は、彼らの間では、子どもの組から同じ年代の者たち選抜されて全員が同時にする。しかし、結婚相手の少女を自分のところに案内するのは、すぐにではなく、家のことを差配するにすでに充分な女になってからである。そのさい、持参金は、男兄弟がいる場合は、兄弟の分け前の半分である。他方、子どもたちが学ぶのは、文字とともに、法習に基づく歌唱や、何種類かの音楽である。こうして子どもたちは、まだ若年のうちから、共同食事所[成人会]に連れて行く。そして、地べたに座って、冬場も夏場も同じく、みすぼらしい襤褸外套(tribonion)〔tribon の縮小形〕にくるまって、お互い同士がいっしょになって過ごし、また、お互いに対しても成人たちに対しても奉仕する。こうして、喧嘩になるときは、自分の属する成人の成員がお互い同士ですることも、別の共同食事会を相手にすることもある。それぞれの公会堂〔andreion 〕ごとに教育監(paidonomos)が就任することになっていた。しかし、もっと大きい者たちは、組に連れていかれる。この組を結成するのは、子どもたちの中で特に目立った、特に有能な者たちで、各人が集められるかぎり多数の組員を集めるのである。しかしそれぞれの組の指揮者には、たいていの場合、結成した子の父親がなり、この父親は、狩りや徒競走に引率し、聴従しない者を懲らしめる権限を有していた。養育は公費でまかなわれる。規定の日時には、縦笛と竪琴とをたずさえ、リズムに合わせて、組と組とが戦闘を行う。あたかも戦闘の習慣と同様に。そして、素手による怪我を、ときには鉄製武器による怪我をさえもたらした。
 [21]彼らにとって独特なのは、愛者に関する法制である。というのは、恋人をものにするのは、説得によってではなく、掠奪によってなのだから。愛者は3日ないしそれ以上前に、掠奪を実行するつもりである旨、友人たちに予告する。友人たちにとっては、その子を隠したり、いつも決まった道を行かさないようにしたりするのは、恥ずべきことであった。その子が、こういう愛者のものになる値打ちがないといっているようなものだからである。そこで彼らは同行して、略奪者が地位やその他の点で、その子と同等ないしそれ以上の身分の一員である場合には、追跡を試みるものの、法制を程々に満たすだけで、後は喜んでさらって行くのにまかせる。これに反して、値打ちがない場合は、彼らが奪い取るのである。かくて、追跡の終了は、その子が略奪者の成人会に連れ込まれたところまでである。ところで、恋の対象になるのは、美しさの点で抜きん出た子ではなく、男らしさと端正さで抜きん出た子であると彼らは信じている。そして、贈り物を送った上で、その子を地方の〔愛者が〕望むところに連れて行く。この掠奪の立会人たちもお供する。そして2ヶ月間|というのは、それ以上の期間、子どもをつかまえておくことは赦されなかったので|もてなしを受けたりいっしょに狩りをしたりした上で、都市にもどってくる。そして少年は解放されるが、そのさい、贈り物を受け取るが、それは戦闘用衣服や牡牛や酒杯(poterion)や|以上は法制にしたがった贈り物である|、他にももっと多くのもっと高価なもので、そのため、出費がかさむので、友たちが資金援助する。かくて、少年はといえば、牡牛をゼウスに供犠し、いっしょにもどった連中をもてなす。それから、愛者との交際について、満足しているか否かを表明するが、これを法が認めているのは、掠奪のさいに少年に何か暴行が加えられた場合に、その場で自分で報復し、逃げ出すことができるようにするためである。しかし、見目美しく、貴顕の血筋を引く少年たちにとっては、愛者を得られぬことこそ恥ずべきことである。性格のためにそんな目に遭うのだからである。これに反し、ほだされた者たち(parastathentes)(掠奪された者たちをそういうふうに呼ぶのである)は名誉を得る。例えば、合唱舞踏や徒競走のさいに、最高に光栄な場を占め、愛者たちから貰った衣裳で他の連中から格段に着飾ることが赦されるのである。しかも、そのときのみならず、成人してからも綺麗な衣裳を身にまとい、この衣裳によって彼が世に聞こえた人であると知られることになるのである。というのは、恋人を評判者(kleinos)と呼び、愛者を念者(philetor)と呼んでいる。以上が、愛者たちに関する法制である。
 [22]また、役人としては10人を選ぶ。そして最重要事に関しては、長老会と呼ばれる評議に付す。そしてこの公儀(synedrion)に出席できるのは、コスモイの支配に値し、その他の点でも評判のあると判定された人たちである。


F150
STRABON VIII 6, 14:

 カラウリア小島(Kalauria nesidion)……ここにポセイドンの庇護神域〔駆け込み寺〕があるが、この神は、レトとはデロスを与える代わりにカラウリアに取り替え、アポロンとはピュトを与える代わりにタイナロンに取り替えたという。エポロスはさらに次の神託をも語っている。「あなたにとって

は同じこと、デロスを聖別するもカラウリアを聖別するも、また、貴きピュトを聖別するもタイナロンを聖別するも」

F151
PLIN. NH IV 63:

 エウボイアそのものも、程よい水路エウリポス〔海峡〕によってボイオティアから隔てられ、橋によって結び合わされている(F119)……[64]かつては、カルコドンティス(Chalcodontis)と呼ばれていたけれども、ディオニュシオス(IV)とエポロスの伝えるところではマクリス(Macris)、アリスティデス(III)によればマクラ(Macra)、カッリデモス(VI)によれば、ここで銅が初めて発見されたことから、カルキス(Chalcis)、マナイクモス〔132 F 7〕によればアバンティアス(Abantias)、詩人たちによれば、ふつう、アソピス(Asopis)と〔呼ばれる〕。


F152
SCHOL. BT HOM. Il. IX 381:「またオルコメノスに納まるかぎりのものをもってしても……ない」]
 ボイオティアのそれ〔オルコメノス〕をいっている。ここにはミニュアイ〔の宝庫〕が建っている。というのは、エポロスを信ずるなら、これのそばには広い平野があり、さらにここで崇拝されているカリスたち(Charites)に多くの贈り物が運ばれてくるからである。


F153
STEPH. BYZ. 「テルプウサ(Telphousa)」の項。

 ……エポロスでは、アラルコメナイにあるティルポサイオン山。

F154
同 「アブデラ(Abdera)」の項。

 ……エポロスは、アブデロンと同名として、都市をもアブデロン(Abderon)と称する。これの派生語がアブデラ。市民はAbderites。たしかに、Diolkosという語からDiolkitesという語が、Oxyrynchosという語からOxyrynchitesという語が派生している。また、aに移行した中性名詞からの派生も見出される。例えば、Gabalaに対する Gabalitesのように。


F155
同 「セストス(Sestos)」の項(EUSTATH. Dion. 513):

 プロポンティス海に臨む都市。エポロスの著作では男性名詞として言われている。しかしアテナイ人たちは「セストスで(en tei Sestoi〔女性名詞の単数与格〕)」と称する。

F156
SCHOL. APOLL. RHOD. II 168:

 ボスポロスに関する歴史は昔の人たちの著作の中で格別に語られている。例えば、ニュムピス(III)の主張では、アカリオン(VI)が記しているという、――そもそもプリュギア人たちは、海峡を渡ろうとして、牛頭の彫像をつけた船をこしらえたと……他方、エポロスの主張では、イオはポイニキア人たちに掠奪されて、アイギュプトスに連れ去られ、アイギュプトスの王は〔イオの父親〕イナコスに、彼女の代わりに牡牛を送った。ところが、彼〔イナコス〕はすでに亡くなっていたので、彼らはそれを見せ物にしてまわった。〔地元の人々は〕その生き物をそれまで知らなかったからである。で、牡牛を連れた人たちが渡るために航行した場所、それがボスポロスと命名されたという。


F157
STRABON VII 3, 15:

 すなわち7河口ある……が、エポロスはイストロス河〔ドナウ河〕を5河口として述べている。


F158
ANON. PER. P. EUX. 49 (=PS. SKYMN. 835 以下):

 エウロペの外れ、マイオティス湖のちょうど口にところにあるのがパンティカパイオンで、これはボルポロス海峡の名の由来となった王の領地である。ここより奥地は、非ヘラス系スキュティアの地が、無住の地と境を接しているが、ヘラス人たちには誰にも知られていない。[2]イストロス河に最も近いのがカルピス河だとエポロスは述べていた。これに次いで「耕作民」(Aroteres)〔"aroter"「鋤ひく者」の複数。正しくは、"Skythai aroteres"〕と、さらに遠くにネウリス人たちがいて、岩地を抜けると再び無住の地に至る。[3]日昇の方角へボリュステネス河〔ドニエプル河〕を渡河すると、いわゆるヒュライエ(Hylaie)に居住するスキュティア人たちがいるという。「農耕民」(Georgoi)〔"georgos"「地を耕す者」の複数〕はここより奥を領している。さらに、再び広大な無住の地がつづく。しかし、この地を越えると、スキュティアの「食人族」(Androphagoi)の民族。そこから先を占めるのは再び無住の地だという。[4]パンティカペス河を渡河すると、リムナイ人たちの民族のほか、もっと多くの名も知れぬ民族がいるが、「遊牧民」〔単数は"nomas"〕の名を冠せられた諸族は、まったく敬虔にして、彼らの中には、かつて魂あるものに不正したことのある者が一人としていないという。そして、述べられたところでは、住居移動と乳の常食が、馬乳飲みのスキュティア人たちの習慣であるという。また、獲得することも、全員の財産も、共有することを受け容れて暮らしている。賢者アナカルシスも、敬虔このうえない「遊牧民」出身だと彼は主張している〔F42; 182〕。[5]そして、何人かの者たちがアジアに出ていって定住したが、その人たちこそサカイ人たち(Sakai)とも呼ばれる人たちである。しかし、サウロマタイ人たち〔F 160〕とゲロノイ人たちとの民族、第三にアガテュルソイ人たち(Agathyrsoi)の名を冠せられた民族は、見分けやすいと彼は主張している。〔この断片の訳に自信なし〕


F159
ANON. PER. P. EUX. 49, 6(=PS. SKYMN. 865以下):

 さらに、マイオタイ人たちにちなんでその名をとったマイオティス湖がつづき、この湖にタナイス河〔ドン河〕が、アラクセス河からその流れをとって、流れ込んでいると、テオス人ヘカタイオス(1 F 195; 264 F 13)が言っている。しかしエポロスの記したところでは、〔タナイス河の〕水源はある湖で、これより奥地は不明という。さらに彼の説明では、川筋は2河口で、いわゆるマイオティス湖と、キムメリオス・ボスポロスとに〔流れ込んでいる〕という。


F160a
ANON. PER. P. EUX. 45(=PS. SKYMN. 865以下):

 タナイス河と言えば、これは大陸をあちらとこちら二つに分かち、アジアの境界をなす河であるが、ここに最初に住みついたのはサルマタイ人たち……次いで、サルマタイ人たちの後にタナイス人たちの氏族――イアザバタイ人たちといわれる民族であると、デメトリオス(85 F 1)は述べており、これによってマイオティス湖とも言われる。しかしエポロスの言うところでは、サウロマタイ人たちの民族と言われている。このサウロマタイ人たちと混血したのが、テルモドン河畔で起こった戦闘からのがれてきたアマゾン女人族と言い伝えられている。これによってサウロマタイ人たちは「女に制覇された者たち(Gynaikokratoumenoi)」と綽名されていると。


F160b
@8 STFPH. BYZ. 「イアザバタイ(Iazabatai)」の項

 マイオティス湖のほとりの民族で、これをサウロマタイ人たちと主張するのがエポロス。


F161a
SCHOL. APOLL. RHOD. II 1029:

 エポロスとニュムポドロス(IV)が彼ら〔モッシュンオイコイ人たち〕について記しているところでは、彼らは王が自分たちの何らかの不正を判決すると、これを幽閉し、飢え衰えさせるという。


F161b
@8 ANON. PER. P. EUX. 35 (=PS. SKYMN. 900以下):

 ケラスウス(Kerasous)……からコテュオラ(Kotyora)の近くまで、最初に居住した民族、いわゆるモシュンオイコイ人たちは、法習の点でも行動の点でも、習わしとして野蛮きわまりない者たちであった。すなわち、語り伝えられるところでは、全員が高い樹の塔の中に住み、いつも衆人環視の中であらゆることを為すのを喜ぶという。そして、自分たちの王を塔の中に閉じこめるばかりか、最も重要なものを取り上げる――つまり養いを与えないという。


F162
STRABON XIV 5, 23:

 エポロスの主張するところでは、このケロネソスに定住したのは11氏族(genos)である|3氏族はヘラスの氏族、残りは、混血は別にして、非ヘラス人の氏族。海沿いにはキリキア人たち、パムピュリア人たち、リュキア人たち、ビテュニア人たち、パプラゴニア人たち、マリアンデュノイ人たち、トロイア人たち、カリア人たち。そして、ピシディア人たち、ミュシア人たち、カリュベス人たち、プリュギア人たちは内陸部に|これを補正してアッポロドロスは(244 F 170)、17番目としてガラティア人たちの氏族がいたと主張し……上述のヘラスの氏族はトロイア戦争後に定住したが、非ヘラス氏族は時とともに大いに混血したという……[24]しかし、彼〔アッポロドロス〕は、詩人の詩句を引き合いに出して虚言しているのであって、エポロスの言明を充分には補正していないこと明らかである。何となれば、エポロスに先ず問い質すべきは次の点であった。すなわち、いったいどうして、カリュベス人たちは、シノペからもアミソスからも東方にこれほど遠く隔たっているのに、これをケッロネソス内に位置づけたのか……その結果、もしもカリュベス人たちをケッロネソスの一部に位置づけるくらいなら、むしろカタオニア人たち、カッパドキア人たちの両方を、さらにはリュカオニア人たちをも位置づけるべきであるが、これらをさえ彼は無視しているのである。それでは、彼がカリュベス人たちを内陸部に配置したのは何故なのか。この氏族を詩人はハリゾネス人たちと呼んだが……やはり、一部は海沿いに、一部は内陸に分割する方がより善く、カッパドキアもキリキアも同じようにすべきであった。しかるに彼は、前者はその名前も挙げず、キリキアの人たちは海沿いの氏族のみを述べたのである。そうすると、ピシディアの人たち――「海というものを見知らぬ男たち、また、塩にまぶしてものを食うということさえ知らざる者たち」(Od. XI 122)は、いかなる地を占めるのか? そればかりか、リュディア人たちのこともメオニエ人たちのことも彼は述べていない……[25]また混血氏族はいくつあるのか? ……[26]ヘラスの氏族の3つはどういうふうであるのか……? つまり、もしも、昔、イオニア人たちとアテナイ人たちとは同一であったということで、ドリエウス人たちとアイオリス人たちも同一であると言われているとすれば、結果は2氏族となるであろう。逆に、後代の習慣にしたがって、例えばお国言葉によってでもよいのだが、区別するとすれば、氏族も4つになるであろう……ところがこのケッロネソスに居住しているのは、とりわけエポロスの区分に従えば、イオニア人たちのみならず、アテナイ人たちもなのだ……


F163a
STRABON XIII 1, 4:

 カリュアンダ(Karyandeus)人スキュラクスは(III C)は、アビュドスから書き起こす。エポロスはといえば、同様にアビュドスからキュメまでをアイオリスとして語っている。


F163b
@8 同 XIII 1, 39:

 というのは、後になって、ダルダノスに至る沿岸地域全域が、後者〔イリオン人たち〕の支配下に入れられ、今に至るも後者の支配下にある。しかし、古くは大部分アイオリス人たちの支配下にあった。そのためエポロスは、アビュドスからキュメに至る地域を、ためらうことなくアイオリスと呼んだのである。


F164
SREPH. BYZ. 「アリスベ(Arisbe)」の項。

 トロアスの都市、ミテュレネ人たちの植民市で、これの建設者はスカマンドリオスと、アイネイアスの子アスカニオス……レスボスにあるのは別の都市で、マカルの娘アリスベにちなむ。エポロスは彼女の系譜をメロプスに属させ、彼女はプリアモスの子アレクサンドロスの最初の妻になったという。


F165
PLIN. NH V 136:

 自由な島キオス(Chios)――これをエポロスはアエタリアという古代の名で呼んでいる。メトロドロス(43?)とクレオブロス(VI)とは、妖精のキオネ(Chione)にちなんでキア(Chia)と〔呼んでいる〕。が、雪〔ギリシア語では"chion"〕にちなむという人もいる。またマクリスともピテュウサとも〔呼ぶ人もいる〕。

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