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back.gifエポロス断片集(3/6)



エポロス断片集

(4/6)





F108
[SERGIUS] Explan. i. Donat. I (Gr. L. IV 531, 17 Keil):

 アクセント〔の種類〕には、弱アクセント(baryseia)、鋭アクセント(oxseia)、中間アクセント(mese)がある。これらに[続くのは]第4に、以上の残りであるので、複雑で、呼称もさまざまである。Ammonius Alexandrius――アリスタルコスの学校を受け継いだ人物――は、鋭弱アクセント(oxybaris)と呼んだ。しかし、キュメ人エポロスは曲がるアクセント(perispasis)と。Dionysius Plympiusは、二重アクセント(ditonon)と。Hermocrates Iasiusは、対になったアクセント(symplekton)と。シュラクウサイ人エピカルモスは破格アクセント(keklasmene)と。じっさいは、どれもいっしょで、ギリシア語では曲折アクセント(perispomene)と呼ばれる。


F109
DIODOR. I 9, 5 (TZETZ. Chil. XII 528):

 最初の非ヘラス人たちについてわたしたちが述べ来ったのは、彼らがヘラス人たちの最古の人たちだと――これはエポロスの述べたところではあるが――考えたからではなく、先に説明することを望んだからで……


F110
POLYB. XII 27, 7:

 というのは、エポロスの主張しているところであるが、もしも彼ら〔組織づくりに従事した人たち〕がすべての出来事に立ち会うことができたなら、それは経験したものよりもはるかに異なったものになっていたであろう。


F111
同 XII 28, 8-12

 というのは、第6巻の序論で彼〔ティマイオス〕は主張している。――かなり偉大な自然本性と愛労精神と準備とを必要とするのは、歴史部門よりは、流麗な弁論の部門の方であると理解している人たちがいる、と。そして、こういった想念が最初にとらわれたのがエポロスであると彼は主張する。しかし、この御仁は、そういったことを言う人たちのところに通うことが充分にはできなかったため、〔単なる〕類推によって、歴史を流麗な弁論に結びつけようとし、〔その結果、〕編纂者についてでっちあげをするという、何にもまして奇妙奇天烈なことをしでかした最初の人になった。というのは、エポロス〔T 23〕が、……歴史記述者と弁論作家との一種の結合という仕方で、最も優美かつ最も説得的に述べたのは、ある偶然にすぎないからである。ところがこの御仁は、エポロスの追随者と思われないために……


F112a
CENSORIN. De d. nat. 17, 3:

 あるいは、エポロス――彼は自著の中で、アルゴスの古代の王の何人かは300年ぐらい生き長らえたと伝えている。


F112b
PLIN. NH VII 154:

 そしてエポロスもアルゴスの王が300年間〔生きながらえたと伝えている〕。


F113
STRABON V 2, 4 (SCHOL. DION. PER. 348):

 ペラスゴイについては、この部族は、最初は、ヘラス全域に、とりわけテッタリアのアイオリス人たちの間に広がっていたということは、ほとんど全員が一致承認している。また、エポロスが信じていると主張するところによれば、もともとはアルカディア人たちであったが、戦士の生活を選び、多くの人たちを勧誘してその同じ訓練を受けさせ、その全員に〔同じ〕名称を名乗らせ、かくて、ヘラス人たちの間でも、その他の人たちの間でも、およそ彼らが出向いていったことのあるかぎりの〔土地の〕人たちの間で、多大な名声を博した。というのも、彼らはクレテの移民であったと、ホメロスが主張している〔Od. XIX 175〕。なるほど、オデュッセウスがペネロペに向かって言う。「各人各様の方言、混じり合いたり。こなたにはアカイア人たち、そなたには心高ぶるエテオクレテス人たち〔「真正クレテ人たち」の意〕、かなたにはキュドネス人たち、また三部に別れしドリエイス人たちに、古参のペラスゴイ人たちも」。また、テッタリアはペラスゴイのアルゴスとも言われ、〔その地は〕ペネイオス河の出口とテルモピュライとの中間、ピンドス山麓の山地までで、ペラスゴイ人たちがこれらの地まで拡大支配していたことに由来するのである。またドドネのゼウス〔F 142〕も、ペラスゴイの〔ゼウス〕と、この詩人自身が名づけているのである。「ドドネの地、ペラスゴイの地なる、ゼウス」〔Il. XVI 175〕。さらにまた、多くの人たちが、エペイロスの諸民族を、この地までも拡大支配していたとして、ペラスゴイ族と述べてきたし、また英雄たちの多くをもペラスゴイという名称で呼んで、後に彼らにちなんで諸部族の多くの名祖としてきたのである。というのも、レスボス島をもペラスゴイの地と述べてきたし、トロイアのキリキアの辺境人たちをもホメロスはペラスゴイと述べたのである〔Il. II 840〕。「またヒッポトオスの率いしは、槍に名だたるペラスゴイの部族、彼ら、地味豊かなラリサに住める者たち」。ところで、エポロスによれば、この部族がアルカディアの出身だと言い始めたのはヘシオドスである。すなわち彼〔ヘシオドス〕は主張している〔F 44 Rz3〕。「息子たちの親は神にもまごうリュカオン、かつてこを生みしはペラスゴス」。さらにアイスキュロスも、『女嘆願者たち』か『ダナオスの娘たち』(v. 250 以下)かの中で、彼らの氏族は、ミュケナイ付近のアルゴスの出身だと主張している。さらにまた、ペロポンネソスもペラスゴイの地(Pelasgia)と呼ばれたとエポロスは主張している。そしてエウリピデスも、『アルケラオス』〔F 228 N2〕の中で、「ダナオスは……アルゴスにやってきて、イナコスの都市に住めり、かくて、それまではペラスゴイ人(Pelasgiotai)の名で呼ばれていた人たちが、ヘラス時代になるとダナオイと呼ばれるならいとなった」と主張しているのである。


F114a
STORABN XII 3, 21

 ある人たちは〔ハリゾネス(Il. II 856)という〕綴りを変えてアラゾネス(Alazones)とし、ある人たちはアマゾネス(Amazones)とし、また、「アリュベより(ex Alybes)」を「アロペーより(ex Alopes)」とか「アロベーより(ex Alobes)」とかに〔するのであるが〕、アラゾネスとは、ポリュステネス河対岸のスキュタイ人たちだと主張し……〔4 F 186〕、アマゾネスという場合は、ミュシア、カリア、リュディア――例えばエポロスの信ずるように、彼の祖国キュメの近くに〔いたと主張する〕。そしてこれは、おそらく、いくぶんかは道理(ロゴス)にかなった点をもっていよう。というのは、後にアイオリス人たちやイオニア人たちによって居住された地域は、それ以前はアマゾネスによって〔居住されていた〕と言うであろうから。そして、都市のいくつかの名祖となっていると彼は主張する。というのも、エペソス、スミュルナ、キュメ、ミュリナがそれである。


F114b
@8 STEPH. BYZ. 「ハリゾネス人たち(Halizones)」の項。

 民族名。ホメロス(Il. II 856)……エポロスの主張では、ハリゾネス人たちは、ミュシア、カリア、リュディアにはさまれた沿岸地方に住んでいたという。


F115
STRABON VIII 3, 33

 エポロスの主張によれば、アイトロスは、サルモネウス――エペイオイ人たちとピサ人たちの王――に、エリスからアイトリアへ追放されて、その地を自分の名にちなんで命名するとともに、そこの諸都市を集住させたという〔F122〕。そして彼の子孫であるオクシュロスは、テメノス一統のヘラクレイダイの友として、ペロポンネソス帰還の道案内をつとめ、自分たちに敵対する領土を配分するとともに、その他にも領土の獲得に関することを入れ知恵した。その代わり、先祖の地であるエリスへの帰還という謝礼を受け取った〔F18〕。かくて、出征軍を集めると、アイトリアから、エリスを領有していたエペイオイ人たち攻撃に帰還してきたという。しかし、エペイオイ勢が武装して相まみえてみると、両軍互角であったので、ヘラス人たちの古来よりのひとつの習慣にしたがって、アイトリア人ピュライクメスとエペイオイ人デグメノスとが一騎打ちのために進み出た。片や、デグメノスは弓を携えた裸兵――必中の射撃によって易々と重装歩兵に勝てると思って――。これに対して相手は、石弓と石袋を携えていた。相手の企みがわかっていたのである。そもそも、この石弓というものは、アイトリア人たちによって新しく発明されたばかりだったのである。しかも石弓の射程は長かったので、デグメノスが斃れ、アイトリア人たちは、エペイオイ人たちを追い出して、領土を占領した。さらには、オリュムピアにある神域の管理――アカイア人たちが保有していた――をも引き継いだという。そして、オクシュロスとヘラクレイダイとの友好関係のせいで、誓約によって易々と万人に一致同意されたのは、エリスはゼウスの神域たること、しかして武力をもってこの地に攻めかかる者は、呪われた者となること、また力を尽くして防衛に援助しない者も同様に呪われた者となることというものであったという。こういう次第で、後にエリス人たちの都市を所有した人たちも、市壁なしのままにしたし、この領地を通って出征に赴く者たちも、武器を引き渡して、国境を踏み出て後に返してもらったし、イピトスがオリュムピア競技を開催したのも、エリスが神域だったからであるという。以上のような次第で、〔この地の〕人々は発展を遂げたという。というのは、他の人たちはいつもお互いに戦争をしあっていたが、彼らにだけは、彼ら自身のみならず、外国人たちにも、長い平和期間がもたらされ、その結果、ここにはどこよりも最も人口稠密となったという。ところが、アルゴス人ペイドン〔F 176〕は、テメノスから10代目であったが、勢力の点では同時代の人たちを凌駕し、この勢力によって、多くの部分に分散していた全領土を、テメノスの籤によって統一するとともに、いわゆるペイドンの度量衡と呼ばれる、重さや貨幣――とりわけ刻印された銀貨――の単位を考案し、かてて加えて、ヘラクレスによって攻略された諸都市にさえ攻めかかり、彼〔ヘラクレス〕が開催した諸々の競技会をも自分が開催することを要求した。その中にはオリュムピア競技も含まれていたという。実際のところ、彼は〔エリスに〕攻め寄せると開催を強要したが、エリス人たちは平和ゆえに武器を保有していなかったので、阻止することもできず、その他の者たちも権勢に圧倒されたままであった。むろん、エリス人たちとしては、この開催を記載しなかったのであるが、しかし、これが原因で初めて武器を所有し、自分たち自身で自衛するようになった。さらにラケダイモン人たちも協力した。平和による善運を羨んでのことか、あるいはまた、ペロポンネソスの嚮導権――彼らが先に所有していた――を彼らから取り上げたペイドンを打倒するために協力者を得られると考えてのことか……。とにかくいっしょになってペイドンを打倒した。そしてエリス人たちを助けてピサならびにトリピュリアを得させたという。


F116
STRABON VIII 4, 7:

 エポロスによれば、クレスポンテスは、メッセニアを攻略したので、この地を5都市に分割し、その結果、この地の中央にはステニュクラロスが位置していたので、これを自分の王都に指定し、その他の諸都市――ピュロス、リオン、メソラ、ヒュアメイティス――には王たちを派遣し、メッセニア人たちを全員、ドリエイス人たちと法的対等者(isonomoi)となした。ところが、ドリエイス人たちが憤慨したので、彼は心変わりして、ステニュクラロスのみを都市と定め、ここにドリエイス人たちをも全員集合させたという。


F117
STRABON VIII 5, 4:

 エポロスの主張によれば、ラコニケを占領したヘラクレイダイ――エウリュステネスとプロクレス〔F 17〕――は、この地を6つに分割して都市の建設をしたという。そうして、その地方のひとつアミュクライは、ラコニケを裏切って彼らに売り渡した男、そして、その地を領していた人物を、アカイア人たちを帯同して休戦条約のもとアイニアに退去するよう説得した男に与えるべく選ばれたという。他方、スパルテをば、自分たち自身の王都と宣明し、その他の諸都市には王たちを派遣したが、人口の少なさゆえに、外国人たちで望む者たちは共住者(synoikoi)として受け容れることを委ねたという。また、ラスは、良港をもっていたので、停泊所として用いた。が、アイギュスの方は戦争の出撃基地に〔用いた〕|周囲の諸都市すべてに境を接していたからであるという。また、パライは、内側から、また外側からも最も多くの安全性を有していたので、国庫として〔用いた〕。また、服従者たちは全員をスパルテ人たちの周住民(perioikoi)として、等しく同権者(isotimoi)となり、国制にも諸々の公職にも参与し[隷属者(Heilotai)と呼ばれた]。ところが、エウリュステネスの子アギスが、同権(isotimia)を剥奪し、スパルテに貢納するよう下命した。他の者たちは服従したが、ヘロス地方を領していたヘロス人たち(Heleioi)は、叛乱を起こしたので、戦争によって力攻めで攻略され、ある決まりに従って奴隷と宣告され、その結果、所有者はこれを自由人とすることも、国外に売ることもできなくなった。この戦争は、対Heilotai戦争として語られているという。この隷属民制(heiloteia)――後にローマの覇権確立まで存続する――もほとんどは、制定したのはアギス一統である。つまり、ラケダイモン人たちは、これにいくつかの居住地と特有の公共奉仕を指定して、これを、ある意味で公共奴隷として保有したのである。


F118
同 VIII 5, 5:

 ラコン人たちの国制と、彼らのところで起こった変化とに関しては、その大部分は周知のことゆえ、省略してよかろうが、いくつかの点は、おそらく、言及に値しよう。すなわち、プティア人〔Phthiotes, pl. Phthiotai〕たるアカイア人たちは、言い伝えでは、ペロプスとともにペロポンネソスに帰還し、ラコニケに居住したが、勇徳にことのほか抜きん出ていたために、ペロポンネソスはすでに久しきにわたってアルゴスといわれてきたにもかかわらず、この当時、アカイア人のアルゴスと呼称されるようになり、ペロポンネソスばかりか、ラコニケも特別にそのように称されるようになったという。例えば、詩人の「メネラオスはいづこにありしか? よもやアカイイスのアルゴスにはあらざりしに?」〔という詩句――オデュッセイア、第3巻249〕は、「まさかラコニケにはいなかったであろうに?」というふうに受け取る人たちがいる。しかし、ヘラクレイダイの帰還のおりに、ピロノモスが裏切ってこの地をドリエイス人たちに売り渡したために、ラコニケからイオニアの地〔F117 p.73, 9〕――今もアカイア地方と呼ばれている――に移住した。このことに関しては、「アカイア誌」〔ストラボン、第8巻7章〕の中で述べることにしよう。かくてラコニケを領有した人たちは、初めのうちこそ慎み深くしていたが、ところがリュクウルゴスに国制を委ねてからは、他の人たちを圧倒しさった結果、ヘラス人たちの中で彼らひとりが陸上をも海上をも支配下に置き、ヘラス人たちの支配者として、テバイ人たちが、その後ではすぐにマケドニア人たちが、彼らからその嚮導権を剥奪するまで存続した。〔以下、アウグストゥスの時代まで続くが、省略〕。ところで、ヘッラニコス〔4 F116〕は、エウリュステネスとプロクレスとが国制を整備したと主張しているが、エポロスはこれを間違いとし〔T 30 a〕、次のように主張する、――彼はリュクウルゴスにはどの箇所でも言及しておらず、この人物の事業を無関係な者たちに帰している。いずれにせよ、リュクウルゴスひとりのために神殿が建築され、毎年供犠されるのであって、彼ら〔エウリュステネスとプロクレス〕には、開拓者であったにもかかわらず、彼らの血を引く者たちが、エウリュステニダイとか、プロクレイダイとか呼んでもらう程度の特典さえ与えてもらえず、片や、エウリュステノスの子アギスにちなんでアギダイ、片や、プロクレスの子エウリュポンにちなんでエウリュポンティダイと呼ばれる。これは、後者〔アギス、エウリュポン〕の権力支配の仕方が義しかったのに反し、前者〔エウリュステネス、プロクレス〕は外来者たちを受け容れ、これを通して権力支配したせいである。ここからして、いかなる開拓者でも贈与される始祖とさえみなしてもらえなかったのである。また、パウサニアスも、もう一方の家門[エウリュポンティダイ]のせいで追放されたにもかかわらず、亡命中に、リュクウルゴス――〔自分を〕追放した家門の出である――の法習について書を著し、その中で、彼〔リュクウルゴス〕に与えられた神託までも、たいてい頌詞形式で語っているのである。


F119
STRABON IX 2, 2:

 ボイオティアがこれに境を接する諸民族よりも勝っているとエポロスが表明するのは、以上の〔地味の〕点でもそうだが、ここのみが三方を海に面し、多くの港に恵まれていることにもより、クリサ湾とコリントス湾とによっては、イタリア、シケリア、リビュエの産物を受け入れ、ボイオティアに面した部分は、エウリポス海峡のところで、片や、アウリス、タナグラ地方の沿岸、片や、サルガネウス、アンテドン地方の沿岸というふうに、沿岸が二つに分かれ、前者には、アイギュプトス、キュプロス、そして島嶼方面の、後者にはマケドニア、プロポンティス、ヘレスポントス方面の海洋が続いているというのである。さらに彼は付言して、エウボイア地方をも自領の一部にしているのがエウリポス海峡で、これはそれほどまでに狭く、ボイオティアと2プレトロンの橋でつながれている(F 151)、と。以上の理由で彼はこの地を称揚し、嚮導権確立にとって要衝を占めていると主張している。――しかるに、彼らは育成(agoge)や教育(paideia)を用いることをせず、そのつど指導者となった者たちもこれを看過したために、たとえ矯正したときがあったとしても、それはわずかな期間にとどまったことは、ちょうどエパメイノンダスが示しているとおりである。すなわち、彼が亡くなった後、テバイ人たちは嚮導権をすぐに投げ捨て、自国のみで満足したのであるから。そしてこの原因は、言論や、人間どもとの交わりを軽視して、戦争の勇徳にのみを心がけたことにある、と。しかし彼〔エポロス〕が付言すべきだったのは、……。[3]ところで、ボイオティアは、先ず初めに非ヘラス系の人たちによって居住された。アオネス人たち、テムミケス人たち――スウニオン岬から流浪してきた――、レレゲス人たち、ヒュアンテス人たちがそれである。その後、カドモス一統のポイニキア人たちが占有した〔F 120〕。彼〔カドモス〕はカドメイアを城塞化するとともに、子孫に支配権を遺した。この子孫たちは、カドメイアにテバイを追加建設し、支配をともに守り、大多数のボイオティア人たちの支配者となって、エピゴノイの遠征にまで至った。しかし彼ら〔エピゴノイ〕のせいで、しばし、テバイを捨てた後(F 153)、再び舞い戻った。ところがトラキア人たちやペラスゴイ人たちのせいで、また同じように追放され、テッタリアで、アルネ人たちとともに支配を樹立し、久しきに及んだ結果、彼ら全員がボイオティア人たちとも呼ばれるようになった。その後、家郷へ立ち返った、――このとき、アイオリス人の艦隊がボイオティアのアウリス近辺ですでに準備を整え終わったときで、これを〔小〕アジアへ派遣したのが、オレストスの子どもたちであった。かくて、〔彼ら帰還者たちは〕オルコメノスをもボイオティアに合併し|それまでは、共同ではなく、ホメロスも、彼らをボイオティア人たちといっしょには数えておらず、とくにミニュアイ人たちと命名しているのである〔Il. II 511〕|、これといっしょになってペラスゴイ人たちはアテナイへ――この人たちにちなんで、都市の一部がペラスギコンと呼ばれた|その居住地はヒュメットス山麓であった|、トラキア人たちの方はパルナッソス山の方へと追い出した。またヒュアンテス人たちはポキスのヒュアンポリスを建設した。 [4]また、エポロスの主張によれば、トラキア人たちはボイオティア人たちと条約を結び、和平が成ったとしてかなり不用意に宿営している相手に、夜襲をかけた。しかし相手も反撃すると同時にまた、条約違反だと追及したところ、違反していないと彼らは主張したという。成約したのは昼間だが、攻撃したのは夜だというわけである。このことから、「トラキア流逃げ口上」という諺までいわれるようになったほどである。他方、ペラスゴイ人たちの方は、まだ戦争が続いているときに、託宣を受けるためにドドネに出かけたが、ボイオティア人たちもまた〔出かけた〕という。そうして、ペラスゴイ人たちに与えられた託宣は、彼の主張では、述べることができないが、ボイオティア人たちには、「不敬を働けばうまくゆく」という予言が託宣されたという。しかし祭使たちは、〔巫女は〕ペラスゴイ人たちの同族ゆえに、彼らを喜ばせようとして、またこの神域も、そもそもの初めからペラスゴイゆかりのものであったので(F 142)、そういうふうに予言を託宣したのであろうと勘ぐって、その女を略奪すると火中に投げ込んだという。悪行を働くことになるにせよ、そうでないにせよ、いずれにしろ正しい、彼女が託宣違反をしたのなら、懲らしめられたことになるし、彼女が何ら悪行を働いていなかったにしても、自分たちは命じられたことを実行したまでだと思いを致してである。これに対して神域の人々は、彼らを裁判抜きに、それも聖域の中で殺すことを適格とは認めず、裁判に付すことにし、女祭司たちの前に召還したという。しかしそれは、三人いたうち、生き残った女預言者たちであった。ところが〔ボイオティアの祭使たちは〕、女たちが裁判をする法はどこにもない、女たちと同数の男たちも追加すべきだと言い立てた。こうして、男たちは無罪判決を下し、女たちは有罪判決を下し、票数が等しくなったために、無罪判決者たちが勝訴した。こういう次第で、ドドネではボイオティア人たちに対してのみ、男が予言することになったという。ところで、女預言者たちがその占いを解釈して述べたところでは、神がボイオティア人たちに命じたのは、彼らのもとにある鼎を集めて、毎年、ドドネに送れということであった。実際のところ、〔彼らは〕それを実行している。すなわち、〔祭りの〕たびごとに、奉納物の鼎のひとつを夜、選んで、気づかれないように外衣の下に隠して、ドドネに鼎運びをしているのである。[5]その後、ペンティロス一統に協力してアイオリス植民を実行し、自分たちの中から大多数を同行させたので、ボイオティア植民とも命名されているという。その後、長い年月を経て、ペルシア戦争がプラタイア付近で起こり、この地方を壊滅させた。その後、ふたたび回復し、二度の戦闘でラケダイモン人たちを制して、テバイ人たちがヘラスの嚮導権を競うまでになった。しかし、エパメイノンダスが戦闘に斃れて後、その希望は無に帰したが(p.75, 7)、それでもヘラスのために、ポキス人たち――神域にあった共同体金庫を強奪した――を相手に闘った。


F120
SCHOL. EURIPID. Phoin. 7 「キュプリス〔=アプロディテの添え名〕の娘ハルモニアを」]

 デルキュロス(III)の主張では、ハルモニアはテバイ人ドラコンなる者――じつはアレスの息子――の娘だといい、この男をカドモスが殺害してハルモニアを娶った。しかしエポロスの言によれば、彼女はアトラスの娘エレクトラの娘で、カドモスがサモトラケを流浪していたとき、彼女を掠奪した。そして彼女のことを、母親エレクトラを讃えるために「門扉」という名で呼ぶという。今でもなおサモトラケの祝祭では彼女を渇仰している。

F120b1
SCHOL. N HESIOD. THEOG. 937 p. 117, 7 Di Gregorio: 「ハルモニアを」]

 諸々の身体の接着を。エポロスはその中でハルモニアをゼウスとエーレクトラの〔娘〕と謂う……
F120b2
SCHOL. X ebd. p. 117, 10:「ハルモニア」とは]

 諸々の身体の接着。エポロスが謂うには、ハルモニアはエーレクトラとゼウスの〔娘〕だと。

F121
STRABON IX 4, 7 (STEPH. BYZ. 「ナウパクトス(Naupaktos)」 の項)%10。

 ……〔西ロクリス人たちが〕領有した都市は、アムピッサとナウパクトスで、このうちナウパクトスは、アンティッリオン岬の近くに存続している。ここで行われた造船(naupegia)――ヘラクレイダイがこの地で艦隊を建造したにせよ、エポロスが主張するように、それよりもなお以前に、ロクリス人たちが装備したにせよ――にちなんで名づけられた。今はピリッポスの裁定によってアイトリア人たちのものになっている。


F122a
STRABON X 3, 2:

 エポロスはといえば、アイトリア人たちが未だかつて他の民族に服したことがなく、記憶されるかぎりの期間を通じて掠奪されたことのない民族でありつづけたのは、その土地柄の難しさと戦争に対する手練れとのゆえであると言いながら、〔その一方で〕主張することには、初めは全領土をクウレテス人たちが領していた。しかるに、エリスからエンデュミオンの子アイトロスが到来して、連戦のすえに彼らを制圧したので、クウレテス人たちの方は、現在言うところのアカルナニアに撤退し、アイトロスといっしょに帰還したエペイオイ人たちが、アイトリアにある諸都市のうち最古の諸都市を建設した。ところが、その10世代後、ハイモンの子オクシュロス――アイトリアから渡来した〔F 115〕――によってエリスは集住させられたという。そして、彼〔エポロス〕が以上の事柄の証拠とするのが、以下の〔2つの〕碑銘で、ひとつはアイトリアのテルマ――ここで役人選出をするのが彼らの父祖伝来のしきたりである――にある、アイトロスの似像の台座に刻まれたものである。
  土地の建設者、いにしえ、アルペイオス河の渦のほとりに
  育ちし者、オリュムピアの競技場の隣人、
  エンデュミオンの子 これなるアイトロスをアイトリア人たちは
  奉納せり、おのが徳の記念として仰ぎ見るべく。
もうひとつは、エリス人たちの市場にあるオクシュロスの人像にあるものである。
  いにしえ、アイトロスは、これなる土地生え抜きの民を棄てて、
  クウレテスの地を得たり、槍もて艱難辛苦のすえに。
  しかるに同じ生まれの10世代目、ハイモンの息子
  オクシュロス、この古都を建設せり。
[3]なるほど、エリス人たちとアイトリア人たちとがお互いに同族であることは、これらの碑文によって彼は正しく証拠立てている。同族であることのみならず、お互いの開祖であることも二つの碑文によって一致承認されるからである。これによって、アイトリア人たちの植民者がエリス人たちであるが、しかしアイトリア人たちがエリス人たちの〔植民者〕ではないと主張する人たちの嘘を彼は美しくも論駁したのである。しかしながら、著作や所論〔=T 15〕の矛盾――これについては、デルポイの占いの箇所でわたしたちがすでに提示した(F 31)と同じ矛盾を、ここでも彼は明らかに露呈しているのである。というのは、記憶されるかぎりの全期間を通じてアイトリアは掠奪されたことがないと言い、さらにはまた、初めからこの地をクウレテス人たちが領したと言うからには、述べられたことに寄与するのは、次の附論を導くことである。つまり、クウレテス人たちは彼の時代までアイトリアの地を領しつづけてきた……と。しかるに彼は、その推論の展開を失念して、彼が付け加えたのは、その附論ではなく、正反対に、エリスからアイトロスが来着して……。[4]おそらく、次のように主張する人がいよう。――アイトリアが掠奪されたことがないというのは、アイトロスの出現の後に、この人にちなんでその名を持つことになったとき以降のことだ、と。しかるに、この考えの説明を採りあげることもせず、続く章段での主張は、〔アイトロス遠征時〕アイトリア人たちの間にとどまった部隊の大部分――これがエペイオイ人たちの部隊だという。そして、後に、アイオリア人たちがボイオティア人たちと同時にテッタリアから立ち退いたときに、彼らと混じり合い、これとともにこの地を領したという(これもまた侵略である)……アポッロドロスも〔244 F 205〕、ボイオティアからヒュアンテス人たちが退去して、アイトリア人たちのもとに移住者となったと記録されていると述べたことがあるのである。しかるに彼〔エポロス〕は、あたかも行論を直くしたかのごとくに付言する。――これらのこと、および、これに類したことにおいて、「何らかの問題に完全に行き詰まったり、問題があったりした場合、わたしたちは論究しつくすを常とした……」〔T 18a〕。


F122b
@8 STRABON IX 3, 12:

 上述のこと〔F 31b〕に類似したことが、アイトリア人たちに関しても述べられている。すなわち、いつの時代にも彼らが破壊をうけたことはないと彼〔エポロスは〕主張しながら、こう主張するのである、――時にはアイオリス人たちが、占領していた異邦人たちを追い出して居住し、時にはアイトロスが、エリスからのエペイオイ人たちとともに、諸々の戦争で敵を打ち負かした。が、彼らもまたアルクマイオンとディオメドスによって〔打ち負かされた〕〔F 123〕と。〔原文のままでは意が通じず、異読あり。〕


F123a
STRABON X 2, 25:

 しかし、エポロスは、〔アカルナニア人たちがイリオンに〕共同出兵したことを否定する。というのは、アムピアラオスの子アルクマイオンは、ディオメデスその他のエピゴノイ〔「子孫」の意。〕といっしょに出征し、対テバイ戦を成功させたのちに、ディオメデスといっしょに進軍して、彼とともにオイネウスの仇敵たちに報復したと〔エポロスは〕いう。そうして、彼らにアイトリアを譲り渡したのち、自分はアカルナニアに侵攻し、この地を征服したという。他方、アガメムノンはといえば、このころ、アルゴス人たちに襲いかかり、やすやすと制覇してしまった。大多数がディオメデス麾下に追随していたからである。少し後になって、だから〔アガメムノンは〕、イリオン遠征が出来したとき恐れた――自分が出征して不在中に、ディオメデス麾下が家郷に向けて反攻を開始し(というのも、彼のまわりに大軍が結集したと聞こえていた)、支配権をもともと自分たちに帰属するものとしてわがものにするのではないか|というのは、一方〔ディオメデス〕はアドラストスの、他方〔アルクマイオン〕は父親の相続者であったから|――、こういったことを思案した挙げ句、彼らに、アルゴス割譲の代わりに戦争に共同するよう呼びかけたという。そこで、ディオメデスは説得されて出征に参加したが、アルクマイオンの方は、腹を立てていたので、意に介さなかったという。こういう次第で、ひとりアカルナイ人たちだけは、ヘラス人たちの出征に共同することもしなかったのだというのである。……[26]そこでエポロスは、トロイア戦争の前にすでにアカルナニアはアルクマイオンの支配下にあったとして、アムピロキコン・アルゴスは彼の創建と表明し、アカルナニアは彼の子のアカルナンにちなみ、またアムピロキア人たちは兄弟のアムピロコスにちなんで名づけられたと主張し、その結果、ホメロスの記録からは外れた言説に陥っているのである。しかしトゥキュディデス〔II 68, 3〕その他の人たちは、アムピロコスはトロイア出征の帰り、アルゴス情勢に満足できなかったので、その地に居住したと主張し、ある人たちは兄弟の権力支配を継承するためにやってきたと〔言い〕、ある人たちはまた違ったふうに〔言っている〕。


F123b
@8 STRABON VII 7, 7:

 アムブラキアの次が、アルゴス・アムピロキコンで、これはアルクマイオンとその子どもたちとの建設市である。エポロスの主張では、アルクマイオンは、エピゴノイによるテバイ遠征後、ディオメデスの呼びかけを受けて、彼とアイトリアに同道し、その地とアカルナニアとを併有したという。その彼らをトロイ戦争へとアガメムノンが呼んだので、ディオメドンは出陣したが、アルクマイオンはアカルナニアにとどまって、アルゴスを建設、兄弟を名祖にアムピロキコンと呼び、この領地を貫流して湾に流れ込む河を、アルゴリアにある河にちなんでイナコス河と命名したという。トゥキュディデス〔II 68〕によれば……。


F124
STRABON X 2, 9:

 『アルクマイニオス』の著者によれば〔F 5 Ki〕、ペネロペの父イカリオスには二人の息子――アリュゼウスとレウカディオスと――がいて、これらは父親とともにアカルナニアで権力支配した。そこで、これらの都市〔アリュゼイア、レウカス〕の名祖は彼らだと言われているとエポロスは思いなしている。


F125
SCHOL. ARISTEID. p.11, 17 Ddf:「しかし植民市を列挙する人たちもいる」]

 エポロス――彼はイオニアの植民市について書いた――まで含まれる。


F126
STEPH. BYZ. 「ベンナ(Benna)」の項。

 エペソスの5部族のひとつで、これの部族民がベンナイオイ(Bennaioi)と、エポロスによる。エペソスの建設者はアンドロクロスということ。この人物は、プリエネ人たちの救援にあたり、彼とともに多数のエペソス人たちも亡くなった。かくて、生き残ったエペソス人たちは、アンドロクロスの子どもたちと党争し、自分たちに対する救援を得たいと望み、テオスとカレネから植民者たちを受け容れた。これからエペソス5部族のうちの2部族が命名を得ている。すなわち、ひとつはベンナのベンナイオイ人たち、もうひとつはアッティケのエウオニュモン〔区〕のエウオニュモイ人たちである。そして、エペソスにおいて初めから領していた者たちをエペソス人と称する一方、後の新参者をテオス人、カレネ人と呼びならわしているのである。


F127
STRABON XIV 1, 6:

 エポロスの主張によれば、最初に建設されたのがクレテ人のそれ〔ミレトス〕で、海上にかぶさって――現在、旧ミレトス市のあるところに、城壁が築かれた。サルペドンがクレテ島のミレトスから開拓団を率いてきて、この都市にかしこ〔故郷〕の都市と同じ名を付けたのである。それまでこの場所を領していたのはレレゲス人であったけれども。しかし後にネレウス一統が現在の都城を築いたという。


F128
STRABON I 2, 6:

 しかしながら他にもある古い記録をエポロスが述べているが、これはホメロスがお目にかかったとしても無理からぬ代物である。すなわち、彼〔エポロス〕の主張では、アイティオピア人たち(Aithiopes)はリビュエを日没の地まで侵攻し、一部はそこにとどまり、一部は沿岸地帯の広くをも領したと、タルテッソス人たちによって語り伝えられている。これを根拠にホメロスも次のように言っていると証拠立てるのである。「アイティオピア人たち――これら人間界の果てに二派に別れて住まいする者たち」〔Od. I, 23〕。


F129a
PLIN. NH IV 119:

 しかし、バエティカに入るとすぐにガディス〔島〕に着く……[120]ここから、ヒスパニアに面してちょうど100パッスス〔歩測〕離れたところに、長さ1000パッスス、幅1000パッススの、もうひとつの島があり、かつてガディスという都市はここにあった。〔この島は〕エポロスとピリストス〔11 F 3〕とによればエリュテイアと呼称され、チィマイオス(III)とシレノス〔175 F 7〕とによれば、アプロディシアス、現地人たちによればユノの島と〔呼称される〕。より大きい方の島を、ティマイオス(III)は、多くの井戸があることからコティヌサと言う。われわれはみなタルテソスと呼んでいる。ポエニ〔カルタゴ〕語ではガディル――これはポエニ語で垣根を意味する。エリュテイアと称されたのは、〔カルタゴ人の〕始祖であるテュリア人たちは、紅海から来たと言われていたからである。この島はある人たちによって、畜牛をヘラクレスに略奪されたゲリュオネス人たちの領土であったと信じられている。しかし他の人々は、それはルシタニア沖にある別の島で、かつてそこに同じ名の島があったのだとしている。


F129b
@8 [SKYMN.] orb. descr. 152:

 これに続いてあるのがいわゆるエリュテイア島で、大きさの点では全く小さいが、牛群と牧草地を産し、〔牛は〕アイギュプトスやエペイロスの牡牛、さらには、テスプロトイ人たちのそれに近似している。西方の牛は、アイティオピアの開拓団が、この都市に入植したときに連れてきたと言われている〔F 128〕。


F130
STRABON III 1, 4:

 ……最初にヒエロン岬を。この岬は、エウロペのみならず、人の住む全地の日没方向の果ての標識である……岬そのものと、海に突き出たところとを、アルテミドロス(V)は、彼の主張では、現地に立ってみて、船になぞらえている。この姿形には、三つの小島が助太刀をしており、ひとつは衝角の、〔残り二つは〕吊錨架の位置を占め、〔これらの小島は〕ほどよい停泊所を保有している。しかしヘラクレスの神域もこの地では指摘できず――この点ではエポロスは虚言しているのである――祭壇も、また、神々のうち他の神の〔そういったもの〕も〔指摘できない〕……


F131a
STRABON IV 4, 6:

 エポロスの言によれば、ケルトの地を大きさの点で特大とするあまりに、現在わたしたちがイベリアと呼ぶ地域の大部分――ガデイラにおよぶ地域を彼らに割り当てているありさまである。また、その住人たちをヘラス好きと表明したり、彼らについて多くのことを奇異なふうに語ったりしているが、実情とは合っておらず、とくに奇異なのは次の点である。すなわち、彼らは肥満や、まして太鼓腹を嫌い、若者たちで太りすぎた者が居ると、帯の標準で罰するというのである。


F131b
@8 [SKYMN.] orb. descr. 183:

 しかし、ケルタイ人たちは、客となった相手に対する〔ヘラス人たちの〕歓待ぶりに、ヘラスに非常な親しみを感じていたので、ヘラスの諸々の習慣を採用している。例えば、彼らは民会を音楽(mousike)つきで開く。穏和さのために音楽を景仰したからである。〔?〕


F132
STRABON VII 2, 1:

 また、キンブリ人たちは上げ潮に向かって武器をふりかざすと主張する人もよろしくない。また、ケルト人たちは恐れを抱かないよう訓練を重ねて、家屋が上げ潮に流されるの堪え、それから家屋を建て直すと〔主張する人もよろしく〕ない。また、ちょうどエポロスが述べていることだが、彼らにとっては、戦いによるよりも水による方がより多大な破壊が結果すると、これはエポロスの主張していることだが、これもまた〔よろしくない〕。


F133
JOSEPH. c. Apion. I 67:

 というのは、ガラタイ人たちやイベリア人たちについては、精確無比との評判のある歴史編纂者たち――この中にエポロスが含まれる――が無知なあまりに、西方の地のこれほどの部分に居住しているイベリア人たちの都市はひとつであると思っていた。そして、彼らの間で行われたことのない習慣や、言われたことのない事柄を、あたかも彼らがそれを用いているかのように記述する無謀を犯したのである。

F134a
STRABON V 4, 5

 キュメの近くにはミセノン岬と、その中間にあるアケルウシア湖……さらに〔海浜地帯の〕バイアイに続いてロクリノス湾と、この湾内アオルノス……わたしたちより前の人たちは、ホメロスの冥界巡りの話は、このアオルノスでのことだと神話している。特にここには死霊託宣所もあって、オデュッセウスもここにやってきたと記している。さらに土地の人たちが神話しているところでは、鳥さえ、飛び越そうとして水中に落下するが、これは各地の地獄谷(Ploutonion)と同じく、立ち上る空気にやられるからだという。この土地も地獄谷の一種で、ここにはキムメリオイ人たちさえいたと言われていると彼らは想像した。たしかに、〔ここに船で〕乗り入れるさいには、ひとびとはあらかじめの供犠をし、冥土の精霊たちを宥めた上でのことにした。この地には、導師としてそういった神事を請け負う者たちがいたのである。また、同所には海のそばに真水の泉がある。しかし、ステュクス河〔冥界を七巻きして流れる河〕の水だと信じて、誰ひとりこれに手を出す者がいなかった。神託所もこのあたりに建立されていた。近くにある温泉と、アケルウシア湖とを根拠に、ひとびとはピュリプレゲトン河〔「火の河」の意。コキュトス、アケロンと同じく、冥界の河〕だと証拠立てていた。エポロスは、この地をキムメリオイ人たちのものと同定したうえで主張する――彼らが住むのは地下の住居で、この住居をアルギッラapgilla)と呼ぶが、一種の隧道を通ってお互いに往き来するとともに、外国人たちを、はるか地下深くに建立された神託所に迎える。そして、生計を採掘と託宣とに依存したのは、王が彼らに賦課を指示したことにもよる。神託に従事する者たちにとっては、日の目を見ることなく、穴蔵の外に出るのは夜のみというのが父祖伝来の習慣であり、このために、あの詩人も彼らについて、そもそも「照りつけるヘリオス〔太陽〕神が彼らにそそぎかかることすらあることなし」〔Od. XI 15〕と述べているのだ。しかし、後に、この人々は、とある王によって滅ぼされた。託宣が彼にとってよくなかったというので。が、神託所は別の場所に移されてなお存続している、と。


F134b
@8 [SKYMN.] orb. descr. 236:

 ラティネ人たちの後、オピキア人たちの地にできたのが、アオルノスと呼ばれる湾の近くの都市キュメであり、この植民市を建てたのは、最初にカルキス人たち、次いでアイオリス人たちである。[249]ここのケルベリオンなるものは、託宣所を地下に持っている。ここには、キルケから出港したオデュッセウスが来たと伝えられている。アオルノスの近くにあるキュメから神託にしたがって建設されたのがネアポリスである。

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