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back.gifウーラニオス 断片集


歴史断片集

ドゥウリス 断片集






[略伝]
サモスのドゥウリス。前340頃生-270没。
 歴史家、サモスの僭主。在位、前322以降-300年頃。
 テオフラストスの弟子で、サモスの僭主。その生涯に関する情報は非常に少ない。僭主の地位はおそらく父より受け継いだのであり、愛国的な指導者であった。著作の多い歴史叙述家でもあり、その主題の多様性から基本的には考古的な方法をとっていたことが明らかで、ペリパトス学派の研究目的を反映している。
 『サモス年代記』(ギリシアとマケドニアの歴史前370-281年までを扱う)、シュラクサイのアガトクレス伝、芸術史、法と体育競技に関する諸著作に及んでいるが現存するのは小断片のみである。最後の3篇は逸話抄論集的性格のものである。
 彼の歴史著作は古代において批判されている。すなわち、感情に訴え、芝居がかった形式を特徴とし、ペリパトス学派に由来すると思われる扇情的な歴史叙述(いわゆる「悲劇的歴史」)を発展させた重要人物であった。また関係の有無を問わず、詳細な事実をできるかぎり正確に編集してリアリズムを追求したエポロスやテオポムポスといった歴史家を批判した(後者の場合、たぶん、過度の修辞的な表現のゆえに)。彼のアガトクレス伝はプルタルコスとおそらくシチリアのディオドロスにも史料として用いられた。(ダイアナ・パウダー『古代ギリシア人名事典』原書房)



[底本]
TLG 1339
DURIS Hist.
(4-3 B.C.: Samius)

1339 005
Fragmenta, ed. K. M[u]ller, FHG 2. Paris: Didot, 1841-1870:
469-488.
frr. 1-83b.
5
(Q: 4,802: Hist.)





"t1-33"
歴史(Historiai)』

"t1"
《第1巻から》

断片1
Photius Bibl. cod. 176:

 ところで、サモス人ドゥウリスは、その『歴史』第1巻の中で次のように主張している。「エポロスとテオポムポスは、過去の歴史家たちにはるか遠く及ばなかった。なぜなら、模倣(mimesis)にも表現の快適さ(hedone)にも何ひとつ与らず、書くことのみを心がけたからである」。たしかに、ドゥウリスは、彼が非難する当の事柄における処理の仕方において、衆人に後れをとっている。しかしながら、テオポムポスのあの卓越した書――もっと古い時代の歴史家たちに二等賞の価値さえ許さぬ――を比べながら、その発言をしているのか、わたしは言うことができない。ただし、両人のどちらもが適切にそれを達成できなかったということを除けば、わたしは〔ドゥウリスの言を〕大いに力説したい。


"2-7"
《第2巻から》

断片2
Athenaeus XIII〔560B〕:

 あなたがたの誰ひとりご存じない方はいないとおもうが、親愛なる諸君、最大の戦争も女が原因で起こった。イリオン〔=トロイ〕戦争はヘレネーが原因で、疫病はクリュセーイスが原因で、アキッレウスの憤怒(menis)はブリセーイスが原因で、また、いわゆる神聖戦争も、別の配偶者――ドゥウリスが『歴史』第2巻の中で主張するところでは、生まれはテーバイ、名をテアノという女が、あるポーキス人に略奪された――が原因で起こった。そしてこの戦争も、10年間続き、10年目に、ピリッポスが〔テーバイの〕味方についたので、終結した。というのは、その時、テーバイ勢はポーキスを攻略したのである。

断片"3a"
Tzetzes ad Lyc. 103:
[2羽の鳩の生みの親たる資格を奪われた女]
 (ヘレネーは)2羽の鳩――イーピゲネイア(サモス人ドゥウリスの主張するごとく、これをテーセウスからもうけた)にせよ、ヘルミオネー(これをメネラオスからもうけた)にせよ――の生みの親たるの資格を奪われた孤独な女であった。なぜなら、最初はテーセウスが彼女を7年間掠奪し、彼女からイーピゲネイアをもうけた後は、彼女を奪われた。そして2度目は、アレクサンドロスが、海辺でちょうどバッコス信女たちとイノーに供犠している彼女と出会い、これを掠奪して、アイギュプトスに赴いて彼女といっしょになったのである。

断片"3b"
Id. ibid. 143:

 この女〔ヘレネー〕と結婚した男は5人。最初はテーセウスが7年間この女を掠したとは、サモス人ドゥウリスが主張するとおりであるが、彼女の兄弟であるポリュデウケースとカストールに敗れて彼女を奪われ、〔彼女は〕アテーナイの小国でイーピゲネイアをもうけた。このイーピゲネイアを養子にしたのがクリュタイムネーストラであった。

断片"3c"
idem ib. 183:

 しかし一部の人たちの言うのには、ドゥウリスもそうなのだが、このイーピゲネイアは、アガメムノーンの娘ではなく、テーセウスとヘレネーとの間に産まれた娘で、クリュタイムネーストラによって養女にされたという。

断片"3d"
Schol. Hom. Il. XIX 327:

 しかし一部の人たちによれば、彼〔ネオプトレモス〕はイーピゲネイアから生まれた。というのは、ドゥウリスは主張しているからである、――(アキッレウスによって)かどわかされてスキュロスに連れ去られたと。

断片 "4a"
Athenaeus IV〔155D〕:

 ドゥウリスが記録している。アレクサンドロスの父ピリッポスも、黄金の飲器(poterion)――50ドラクマの重量のある――を所有しており、寝る時はいつもこれを取って、自分の枕頭に置いていた、と。

断片 "4b"
Idem VI〔231B〕:

 というのは、昔は、ヘッラス人たちのところでは、黄金は本当に、きわめて稀であったし、銀も、銀鉱はったものの少なかった。それゆえ、大王アレクサンドロスの父親ピリッポスも、サモス人ドゥウリスの主張では、黄金製の盃(phialion)を所有していたが、枕の下に置いていつもこれを所持していたという。

断片 5
Athenaeus XII〔532E-F〕:

 テオポムポスの『デルポイから略奪された財産について』という題名の著書の中では、「アテーナイ人カレースに」と彼は主張する、「リュサンドロスを介して60タラントンが〔渡された〕。これを使って、アテーナイ人たちにアゴラで食事をふるまった、ピリッポスの外人部隊との間に起こった戦闘の祝勝に供犠するために」。この〔外人部隊〕を指揮したのは、「雄鶏」と添え名されるアダイオスで、この人物については、喜劇作家ヘーラクレイデースも次のように言及している。
  ピリッポスの「雄鶏」をとっつかまえて
  ――朝まだきに、コケコッコーと鳴きながらほっついてたやつだが――
  首を刎ねた。まだ鶏冠を持ってなかったからだ。
  こいつを一羽首を刎ねて、そうしてアテーナイ人たちの
  ぎょうさんにカレース殿はふるまった。なんて気前のよい御仁だったことか。

 ドゥリスも同じことを記録している。

断片 6
Plutarch. Demosthen. c.19:

 ところが、どうやら、ある精霊的な「運命(Tyche)」が、事態の巡りあわせのうちに、ちょうどこのときに全ギリシアの自由を終結させることになって、それらの事業に抵抗し将来に関する様々な前兆を示したが、中でもピュティアは恐ろしい託宣を授けたし、またシビュラの本にある昔の予言が歌われた。
 わたしはテルモドーンの戦いからは遠くにいて
 雲と空にいる鷲のように眺めた。
 敗れた者は泣き、勝った者は滅びた。

 ところで、テルモドーンというのは、言い伝えでは、わたしたちのところでは、カイローネイアを流れ、ケーピソス河に流れ入る小さな川である。しかし、わたしたちはそういうふうに名づけられた流れを現在は知らないので、わたしたちの推測では、ハイモーンと呼ばれている川が、当時はテルモドーンと言われていた。そして、〔この川は〕ヘッラス勢が陣営を築いたヘーラクレース神殿のそばを流れているということである。そして、その戦闘が行われたとき、この川が血と屍体で満たされ、これがために名称が変わったということをわたしたちは証拠立てられる。しかしドゥウリスの主張では、テルモドーンは河ではなく、幾人かの兵士がテントを設けて、その周りに濠を掘ったとき、石像を発見し、その碑文によると、傷ついたアマゾーン女族の一人を腕に運んでいるのが、テルモドーンだという。なお、このことに関しては、別の予言が歌われているという。
 漆黒の烏よ、テルモドーンの戦いを待て。
 そのときこそ人間の肉がたくさん出来よう。

断片 7
Plutarch. Eumen. c.1:

 ドゥウリスの記録によれば、カルディア人エウメネースは、ケッロネーソスにいて貧乏のために馬車の御者をしていた父の子であったが、読み書きや体育においては自由人として教育された。彼がまだ子どもだったころ、ピリッポスがその町に滞在していて暇なときに、カルディアの若者たちの全格闘技や、子どもたちの角力の競技を見物した、その中でエウメネースが好成績をおさめ、賢明さと男らしさを示したので、ピリッポスの気に入って、登用されたという。しかし、それより尤もらしく思われるのは、父祖伝来の賓客待遇(xenia)と友愛(philia)によって、エウメネースがピリッポスにとりあげられた言う人々の言うことである。


"t8-11"
《第5巻から》

断片 8
Athenaeus VI〔249C〕:

 しかしながら、アカイオス人アルカディオーンは阿諛追従者ではなかった。この人物について記録しているのは、同じテオポムポスと、ドゥウリスが『マケドニア誌』第5巻においてである。つまり、このアルカディオーンは、ピリッポスを憎み、自発的に祖国から亡命した。しかしきわめて良稟の士であって、彼の多くの発言も記憶されている。

断片 9
Plutarch. Demosthen. c.23:

 そこでアレクサンドロスはすぐさま使いを遣って、民衆指導者たちの中から、イドメネウスとドゥウリスの述べているところでは10人、しかし著作者たちの大多数、それも最も有名な人たちによれば、以下の8人の引き渡しを要求した。つまり、デーモステネース、ポリュエウクトス、エピアルテース、リュクウルゴス、モイロクレース、デーモーン、カッリステネース、カリデーモス。

断片 "10a"
Plutarch. Alex. c.15:

 軍隊の数については、最も少なく伝える人々は歩兵3万、騎兵4千、最も多く伝える人々は歩兵4万、騎兵5千と記している。この人数に対する金や食糧の準備として、アリストブウロスは70タラントン以上は持っていなかったとしるし、ドゥウリスは30日分の食糧しかなかったと。

断片 "10b"
Id. De fortun. Alex. orat. I, c.3.:

 そして運命(tyche)によって彼のために準備された輝かしくも莫大な軍資金は70タラントンだったとは、アリストブウロスの主張するところである。しかもドゥウリスによれば、それはたった30日分の兵糧にすぎなかったという。

断片 11
Clemens Al. Strom. I:

 ドゥウリスによれば、トロイアの陥落からアレクサンドロスのアシアへの侵攻まで1000年である。

"t12-15"
《第7巻から》

断片 12
Athenaeus IV〔167C〕:

 またドゥウリスは『マケドニア誌』第7巻の中で、キュプロスの王パシキュプロスについて、放蕩者だったと言い、また次のようなことを書いている。「アレクサンドロスは、テュロス攻囲の後、プニュタゴラスを派遣し、ほかにも贈り物を与えたが、取りもどしたかった領土をも〔与えた〕。この〔領土〕は、かつて王パシキュプロスが、放蕩三昧のせいでキティオン人ピュマトスに50タラントンで、領土と同時に自分の王位までも売り渡した。そうして、金を受け取ると、アマトゥウス注1)で老後を過ごした」。

断片 13
Athenaeus X〔434E〕:

 しかし、ペルサイ人たちのもとでは、1日――ミトラに供犠する日――だけ酩酊することが王に許されていた。これについては、ドゥウリスが『歴史』の第7巻の中で次のように書いている。「ミトラのためにペルサイ人たちによって挙行される祭礼の1日のみ、王は酩酊し、ペルシア舞を踊る。しかし、アシアにおける残りの人たちのうち誰一人として〔酩酊する〕者はなく、また、この日には誰しもが舞踏をさしひかえる。というのは、ペルサイ人たちは、乗馬と同じく、舞踏も同じように学ぶからである。そして、この〔舞踏の〕稽古による運動は、体力の鍛錬になかなか都合がよいと彼らは信じている」。

断片 14
Athenaeus XII〔528E-529B〕:

 サルダナパッロス――この人物のことを、ある人たちはアナキュンダラクセースの息子だといい、ある人たちはアナバラクサレースの〔息子〕だという――も、そういう〔贅沢をきわめた〕人であった。だからして、アルバケース――彼の臣下の将軍の一人で、生まれはメーディア人――が、宦官の一人スパラメイゼースに、サルダナパッロスに謁見できるよう取り計らってもらい、その望みがやっとのことでかなえられた時、このメーディア人〔アルバケース〕が参内して見ると、彼が眼にしたのは、かの〔王〕が顔に白粉を塗って女のように身を飾り、紫に染めた羊毛を、側妻たちといっしょに梳きながら、彼女らといっしょに座り、眉を〔描き〕、女用の衣裳を着け、髭を剃りあげ、顔を軽石でこすり――そのために牛乳よりも白く、眼の下に隈をいれていた――姿であった。そして白目をむいてアルバケースを見つめた。多くの人たち――この中にはドゥウリスも入っている――が記録しているところでは、こんな男が自分たちを王支配しているのかと、このことに腹を立て、刺し殺したという。しかしクテーシアスは云々。

断片 15
〔欠番〕

"t16"
《第8巻から》

断片 16
Anecdot. Gr. Bekkeri:

 サモスの歴史家ドゥウリスが『マケドニア誌』第8巻の中で、〔ドゥウリスは〕アキッレウスの養い親ポイニクス注2)の末裔であるという。

"t17-20"
《第9巻から》

断片 17
Athenaeus XIII〔606C-D〕:

 イアソス注3)には、イルカが子どもに恋をしたという話(logos)があると、ドゥウリスが第9巻の中に記録している。彼によれば、これはアレクサンドロスにまつわる話で、次のような内容である。「彼はイアソス出身の子どもをも呼び寄せた。というのは、その都市の近くにディオニュシオスという子がいて、この子は、ほかの連中といっしょに角力場から海に出かかて潜っていた。するとイルカが海洋からその子のところにやってきて、背中の上に乗せ、はるか遠くまで泳いで運び去り、再び陸地に降ろしたというのである」。

断片 18
Plutarch. Alex. c.46:

 ここで彼〔アレクサンドロス〕のもとにアマゾンの女王が会いに来たと多くの人たちが言っている……しかしアリストブウロスと……サモス人ドゥウリスも、これを作り事だと主張している。

断片 19
Schol. Apoll. Rh. II, 1294:

 プロメーテウスは、ヘーシオドスの主張では、火を盗んだせいで、鷲まで彼に送りつけられることが決定されたという。しかしドゥウリスの主張では、それはアテナに恋したせいで、ここから、カウカソス山地に住む者たちが、ゼウスとアテーナにだけは供犠しないのは、プロメーテウスに対する懲らしめの責任があるからだ。これに反してヘーラクレースを途方もなく崇拝するのは、その鷲を射落としてくれたからだという。

断片 "19a"
Plinius H.N. VII, 3〔30〕:

 ドゥウリスは言う。あるインド人たちは野獣と性交し、その子どもは混血種で半獣である、インドの同じ部分にいる一種族のカリンギ族では、女が五歳で懐妊し、そして8年以上は生きない、他の部分では男は毛の生えた尻尾をもっている、きわめて敏捷であるし、また他の連中は耳で完全に覆われていると。

断片 20
Athenaeus I〔17F〕:

 共同食事の際、半神たちは着座するのであって、横になるのではない。このことは、アレクサンドロス王のもとでも時としてそうであったとは、ドゥウリスの主張するところである。たしかに、かつて指揮官たち6000人ほどをもてなした時、銀製の腰掛けと寝椅子に、深紅の外衣を打ち掛けて、その上に着座させたのであった。

"t21-25"
《第10巻より》

断片 21
Suidas:

 聖なる火を吹き起こせる者はいない。ティマイオス『歴史』第38巻によれば、デーモクレイデース派の人々はデーモカレース注4)を弾劾して云ったという、――全アテーナイ人たちのうち彼にのみ聖なる火を吹きおこすことが許されていたのは、上部が清浄でない〔???〕からだ、と。しかしドゥウリスは第10巻の中で、ピューテアース注5)がデーモステネースを弾劾して似たようなことを云ったという。〔???〕

断片 22
Plutarch. Phoc. c.4:

 ポーキオーンが笑っているところも、泣いているところも、易々と眼にした者はアテーナイ人たちに中におらず、ドゥウリスが記録しているところでは、公共の浴場において入浴しているところも、たまたま外套を身にまとっているとき、手を外に出しているところも〔眼にした者は〕いないという。田舎や出征中には、寒さがひどくて耐えがたくないかぎりは、いつも裸足・裸体で歩き、兵士たちが既に楽しんでいるときでさえ、ポーキオーンは大嵐の予兆を身に帯びているかのようにふるまったという。

断片 23
Id. ibid. c.17:

 じっさいドゥウリスは述べている、――(アレクサンドロスは)大きくなって、ダレイオスを征服すると、書簡から「ご機嫌よう(Chairein)」〔という言葉〕を削除した。ただし、ポーキオーン注6)に宛てて書くときだけは別である。この人物に対してだけは、アンティパトロス注7)に対してと同様、「ご機嫌よう(Chairein)」〔という言葉〕で挨拶した。このことはカレース注8)も記録している。

断片 24
Athenaeus XIII〔560F〕:

 サモス人ドゥウリスの主張するところでは、女同士の最初の戦争は、オリュムピアスとエウリュディケーとの間に起こった。この〔戦争〕において、前者はバッコス信女のごとく、タンバリンをもって進軍し、後者のエウリュディケーは、マケドニアふうの完全武装をして〔進軍した〕、イリュリア女キュンナネーのもとで戦争の仕方を修練して。

断片 25
Strabo I:

 ドゥウリスの主張するところでは、メーディア地方にあるラガイ(Rhagai)がかく名づけられた所以は、カスピアイ・ピュライ一帯の大地が地震で破断し(rhagese)、その〔破断の〕結果、おびただしい数の都市や村落が倒壊し、河川はさまざまな変容を受けたからだという。

"t26"
《第15巻より》

断片 26
Schol. Apoll. Rh. IV, 264:

 ドゥウリスは、『マケドニア誌』第15巻の中で、アルカディアがそう呼ばれる所以となったアルカスは、彼〔ドゥウリス〕の主張では、オルコメノスの息子だという。それゆえアルカディアの都市もオルコメノスと〔呼ばれる〕。


"t27-28b"
《第16巻より》

断片 27
Athenaeus XII〔542B-E〕:

 また、パレーロン区のデーメートリオスは、ドゥウリスが『歴史』第16巻の中で主張しているところでは、年に1200タラントンの収入を得ながら、将兵たちや都市の経営のためにはそのうちわずかしか支出せず、残りはみな、生まれついての放縦さのために費消し、毎日豪華な宴を張って、おびただしい客を持てなした。宴のために費やした金額においてはマケドニア人を凌ぎ、懲りようにおいてはキュプロス人やポイニキア人を凌いだ。宴会場では香料が地面に雨と降り、床のいたるところに、さまざまに凝った花柄が工匠の手で描かれていた。婦人たちとの密会は、文字通りひそかに行われ、少年たちとの愛の仕草も夜ごとに行われた。他人に対しては掟を定め、生き方のいちいちを指図したデメトリオスではあったが、自分の生き方はまったく法の外であった。容姿にも心を配り、髪はブロンドに染め、顔に紅を刷り込み、ほかに香油も塗っていた。アルコンになって、ディオニュソスの大祭の行列を執り行ったとき、ソロイのカストリオンが彼のために作った詩を合唱隊が歌った。その中で彼は「太陽のごとく」と讃えられている、
  太陽のごとく、他に比ぶものなく高貴なるアルコン、
  神々しくぞ汝を崇めまつる。

断片 "28a"
Schol. Eurip. Alc. 254 ad verba
[それに祖国イオールコスの花嫁の臥所も]〔249行目〕注9)
 ……ドゥウリスも『マケドニア誌』第16巻の中で証言している、〔アルケースティスは〕イオールコスで花嫁となったと。ペリアスはイオールコスを王支配していたからである。

断片 "28b"
Schol. Apoll. Rh. I, 211:

 ドゥウリスはヒュペルボレイオイ人たちの子孫。

"t29"
《第17巻から》

断片 29
Athenaeus IV〔155C〕:

 また、サモス人ドゥウリスは、『歴史』第17巻の中で、ポリュスペルコーンは、と主張する、酩酊すると、老年であったにもかかわらず、踊った、その将軍術においても、手柄においても、マケドニア人たちの誰にもひけをとることなく、彼はサフラン色の内衣を身にまとい、シキュオーン風婦人靴を履いて、踊りつづけたという。

"t30-31"
《第22巻から》

断片 30
Athenaeus VI〔253D-F〕:

 アテーナイ人たちの阿諛追従ぶりについて、デーモカレースは以上のように述べている。しかしサモス人ドゥウリスは、『歴史』の第22巻の中で、勃起した男根注10)そのものをも〔……欠損……〕。
 最大のいとも親愛なる神々が
 この都市に来たりますよう。
 ここに、デーメーテールならびにデーメートリオスをば
 好機がともに招き寄せたればなり。
 前者〔デーメーテール〕は、コレーの厳かなる秘儀をば
 執り行わんがために到り、
 後者〔デーメートリオス〕は、神なればこそあらめ、晴朗にして、美しく、
 笑みをたたえて来ませる。
 友らみな円く〔囲み〕、その中に〔デーメートリオス〕みずから現れるとき、
 厳かにして、
 似たること、友たちは星々のごとく、
 かの御方は太陽のごとし。
 ようこそ、おお、最も力強き神ポセイドーンと
 アプロディーテーの御子よ。
 何となれば、他の神々は遠く隔たっておられるか、
 あるいは聞く耳もちたまわぬか、
 あるいは、おわさぬか、あるいは、われらに何ひとつも心を傾けたまわず。
 されど御身のみおわすを我ら眼に見る、
 木造にあらず、石造にもあらず、真実なる〔御身〕を。
 げにわれら御身に祈りたてまつる。
 先ずは、平和たらしめたまえ、最愛のかたよ。
 御身は主なればなり。
 テーバイのみならず、全ヘッラスをば
 征したるスピンクスをば――
 アイトーリア人こそ、断崖に座して
 あたかも古のスピンクスのごとく、
 われらの身柄をすべてを掠し奪い去るに、
 われら闘い得ず、
 (アイトーリアの流儀こそ、隣国の者らの身柄を掠し、
 今や遠国の者らの身柄までも〔掠める〕ことなれば)。
 何よりも先ずは御身みずから〔アイトーリア人たちを〕懲らしめたまえ。しからずんば、
 オイディプウスのごとき者をば見出したまえ、
 このスピンクスをば、あるいは蹴落とし、
 あるいは石(spinos)と化しうるごとき者を。

 これは、マラトンに戦った人々、すなわち、ペルシア人たちの王を跪拝する者を討ち取った人々、数えきれぬ無量の非ヘッラス人どもを殺戮した人々が、公の場ばかりでなく、私宅においても歌ったものだった。

断片 31
Athenaeus XII〔535E-536A〕:

 ドゥウリスは『歴史』の第22巻でこう言っている。「スパルタ王パウサニアスは、自国の粗末な服を捨ててペルシアの衣裳を着た。シケリアの僭主ディオニュシオスはふだんから礼服をまとい、金の冠をいただき、さらに、悲劇役者が着るような、肩に留め金のついたマントを羽織った。アレクサンドロスも、アシアを征服するとペルシア服を着た。しかしデメトリオスはこれらのいずれの者より上をいった。先ず彼の履き物が、大変な費用をかけて作ったものだった。その造りは、フェルトを素材とした、靴というよりはほとんど半ブーツで、そのフェルトはきわめて高価な紫のものである。しかも職人は、爪先と踵に金糸で、込み入った模様を編みこんでいる。乗馬用マントは、光沢のある茶色を帯びたグレーで、それに金で全天の星と黄道十二宮が織りこまれていた。真紫のフェルト帽をぴったりさせている鉢巻(ミトラ)には、金が編みこんであり、その先端は肩に垂れていた。アテーナイでデメトリア祭が行われたとき、舞台の前面に、馬ではなくて世界にまたがっている彼の姿が描かれていた」。

"t32-33"
《第23巻から》

断片 32
Athenaeus XII〔546C〕:

 さらにドゥウリスも『歴史』第23巻の中で主張している、――昔、権力者たちには酩酊への欲望があった。それゆえホメーロスは、アキッレウスがアガメムノーンを罵り、こう言うように詩作しているのだ、
  深酒して、犬の眼をしたやつ。〔Il. I_225〕
 またアガメムノーンの死にざまを表現して、謂う
  混酒瓶と、山盛りの食卓のかたえに
  われら倒れ臥せり。〔Od. Xi_419-420〕
彼〔アガメムノーン〕の死にざまも、酩酊に対する欲望そのもののから起こったと指摘している。

断片 33
Plinius H.N. VIII, 40〔143〕:

 リュキアのイアソンが殺されたとき、彼のイヌは食物をとることを拒んで餓死した。しかしドゥウリスがヒルカヌスという名を与えたイヌは、リュシマコス王注11)の火葬台に点火されたとき焔の中に身を投じた。そしてヒエロン王注12)の葬儀の時も同じようなことが起こった。


"t34-46"
アガトクレースとその時代

"t34-36"
《第2巻から》

断片 34
Athenaeus XIV〔618B-C〕:

 「また縦笛(aulos)のことをリビュスと詩人たちが命名するのは(ドゥウリスが『アガトクレースとその時代』第2巻の中で主張するところでは)、吹笛術を最初に発明したと思われているセイリテースが、ノマドイ族のなかのリビュア人で、この人物はまた最初に母神〔=キュベレー〕讃歌を笛で演奏した人だからである」。

断片 35
Schol. Aristoph. Vesp. 1030:

 ドゥウリスが『リビュア誌』第2巻の中で記録しているところでは、ラミアは美しい女であったが、これとゼウスが交わったため、ヘーラの嫉妬をまねき、彼女の生んだ子どもたちが破滅させられた。そのため、苦痛のあまり醜怪なものとなり、ほかの者たちの子ども掠奪して惨殺した。

断片 36
Tzetzes Lyc. 847:

 ある人たちの主張では、ドゥウリスによれば、リビュエーにネイロスの泉があるという。しかしそれは真実ではない。

"t37"
《第3巻から》

断片 37
Athen. XIII〔605D-E〕:

 わたしにはまったく自然なことに思えるのだが、スパルタ人クレオーニュモス注13)は、〔こんなことをした〕人間のうち最初の者だが、メタポンティス人たちから、最も貴顕にして最美の婦人、処女200人を得て、人質にしたと、サモス人ドゥウリスが『アガトクレースとその時代』の第3巻の中で記録している。

"t38-46"
《第4巻から》

断片 38
Suidas:

 エウリュバトス。邪悪なる者、傭兵徴用のため金銭をもってクロイソスによって派遣されながら、エポロスの主張によれば、その後でキュロスに寝返ったからである。エペソス人であった。ある人たちによれば、別のケルコープスであるという。ディオティモスは『ヘーラクレースの賞品』において、「ケルコープスたち(Kerkopes)は、ボイオティアの三叉路をうろついて、さんざん悪さをしていた。生まれはオイキアレー人、〔名は〕オーロスとエウリュバトスで、極悪非道の2人である」。ニカンドロスは、エウリュバトスはアイギナの極悪人だという。これについて言及しているのはアリストテレースが『正義について』第1巻の中においてである。しかしドゥウリスは『アガトクレースとその時代』の第4巻の中で、オデュッセウスの同志の血を引くと。

断片 39
Schol. Apoll. Rh. I, 501:

 ドゥウリスの主張では、ギガンテースたちによって運ばれた石のうち、あるものは海に落ちて島嶼となり、あるものは陸地に〔落ちて〕山々となったという。

断片 "40a"
Diodor. XXI, 6:

 テュッレーニア人たち、ガラティア人たち、サムニタイ、その他の同盟者たちの戦争の時、ファビウスが執政官となって、ローメー人たちによって攻略されたのは、10万だったと、ドゥウリスが主張している。

断片 "40b"
Tzetzes ad Lyc. 1378:

 ドゥウリス、ディオドーロス、ディオーンが次のようなことを書いている、つまり、サウニタイ、テュッレーニア人たち、およびその他の族民がローメー軍と戦争したとき、ローメー人たちの執政官デキオスは、トルクウアトゥスの同僚将軍であったが、そういうわけでみずからを血祭にさしだし、かくて敵勢の1000の百倍を1日のうちに亡き者にした。

断片 41
Athenaeusu XII〔542A〕:

 またドゥウリスは『アガトクレースとその時代』第4巻の中で、ヒッポニオン市の近郊にも、美しさは際立ち、せせらぎの流れるとある杜を示している、この〔杜の〕中に、アマルテイアの角と呼ばれるひとつの場所があるが、これをこしらえたのはゲローンである。

断片 42
Tzetzes ad Lyc. 772:

 サモス人ドゥウリスは『アガトクレースとその時代』の中で主張する、ペーネロペーは求婚者たち全員と交わり、山羊の脛もつパンを生んだという。かく、パンについてたわごとをいっている。というのは、パンはヘルメースと別のペーネロペーとの間に生まれたのであり、また別のパンは、ゼウスと「暴慢(Hybris)」の間に〔生まれた〕のであるから。

断片 43
Argum. Idyll. Theocr. VI.:

 ドゥウリスの主張では、家畜の豊かなることを願ってアイトネーにガラテイアのため乳の神殿さえ建造されているという。キュテーラ人ピロクセノス帰郷して、その理由が思いつかなかったので、ポリュペーモスはガラテイアに恋をしたという話を捏造したという。

断片 44
Athenaeus I〔19E-F〕:

 また手品師クセノポーンも驚異の的であったが、この人物は弟子としてプレイウウス人クラティステネースをあとにのこした。この〔クラティステネース〕は、火をひとりでに発火させたり、他にも多くの幻影を工夫して、それによって人々の度肝(dianoia)を抜いた。手品師ニュムポドーロスも同様であったが、この人物は、ドゥウリスの主張するところでは、レーギオン人たちに対して憤慨し、彼らを臆病と嘲った最初の人物であった。

断片 45
Athenaeus XI〔504B〕:

 ミモス――知者プラトーンがいつも手にしていたとドゥウリスが主張する――の作者(ソープローン)。

断片 46
Stephan. Byz.:

 アクラガスの諸都市――シケリアの5つの都市〔の名前〕は、傍に流れる河に由来する。すなわち、ドゥウリスの主張では、シケリアの大多数の都市は河にちなんで名づけられているという、シュラクウサイ、ゲラ、ヒメラ、セリヌウス、ポイニクウス、エリュケー、カミコス、ハリュコスとテルモス、そしてカマリナであるが、イタリアにおいても同様であると。


"t47-69"
サモス年代記

"47-49a"
《第1巻から》

断片 47
Athenaeus XII〔525E-F〕:

 サモス人の贅沢については、ドゥウリスがアシオスの詩を引用して、彼らは腕に腕輪をつけ、女神ヘラの祭りの時には、髪に櫛を入れて肩から背中までなびかせて行進したと言っている。これが風習になっていたことは、「髪をお下げに編んでヘラの宮居に行く」という諺からも実証される。アシオスの詩というのはこういうのだ、
 まさにそのように、髪をくしけずっては、彼らは
 ヘラの宮居に参る。美しい衣を羽織り、
 雪をなす長衣は、引きずって広大の地をはらう。
 頭の頂には、蝉のごとく、金の飾りものがとまり、
 金糸で束ねた髪は微風になびく。
 枝を凝らした輪飾りが腕を巻き
 ……楯に隠れた兵士を……。

断片 48
Steph.Byz:

 アウアシスは、アイギュプトスの都市。この都市をひとびとはオアシスとも呼ぶ……ヘーロドトスとドゥウリスは、この都市を浄福者たちの島と名づけていた。

断片 49
Zenob. prov. V, 64:

 ポリュクラテースは母親を配分する。この〔諺〕に言及しているのはドゥウリス。彼は言う、サモス人ポリュクラテースが、戦争で死んだ者たちの母親たちを集めて、これを養うよう市民の中の富裕者たちに与え、めいめいに向かってこう言った。これを汝の母親として与える。ここからこの諺が流布した。

"49a"
Steph. Byz.:

 ゴルギュイアは、サモスの1地方だとは、ドゥウリスが記録しているところだが、そこではディオニュシオスがゴルギュイア人として尊敬されているという。

"t50-68"
《第2巻から》

断片 50
Schol. Eurip. Hec. 915
〔?。1170行の方がふさわしいように思うが〕:
 ドゥウリスは『年代記』第2巻の中に次のように書いている。すなわち、アイギナ人たちに襲撃されたアテーナイ人たちは、彼らに対して討伐軍を派遣したが、相手はスパルタ人たちといっしょになって全員を殺害した。ただし一人だけ使者が生還したが、これを戦死者たちの女たちが〔怒って〕取り囲み、肩から〔衣服の〕留め金(perone)を引き抜いて眼を剔りだし、しかる後に殺害した。かくしてアテーナイ人たちは、為された出来事を恐るべきことと考え、女たちから留め金を取りあげた、これを肩掛けの守りにではなく、武器として使ったからにほかならない。そして自分たちは髪を伸ばし、女たちは切りつめ、男たちの内衣は足に届くほど長く、女たちはドーリスふう衣裳をよろこぶようになった。それゆえ、体育や内衣なしをドーリスぶると彼らは謂ったのである、と。注14)

断片 51
Diogenes L. I, 119:

 ドゥウリスが『年代記』第2巻の中で主張するところでは、彼〔ペレキュデース〕のためには次のような碑銘が書き添えられているという。
  わがうちに全知の極致あり。されど、何かそれ以上の知恵あらば、
  わが友ピュタゴラスにそれを言え、ヘッラスの地における
  万人の第一人者なればなり。かく公言するも、虚言になることはあるまい。

断片 52
Idem I, 22:

 さて、タレースは、ヘーロドトス、ドゥウリス、デーモクリトスの主張するところでは、父はエクサミュアス、母はクレオブウリネーにして、テリダイ一門の出、この〔一門〕はポイニキア人にして、カドモスとアゲーノールの血を引く中で最も生まれよき者であることは、プラトーンも主張するごとくである……ミーレートスの市民に登録されたのは、ポイニキアから亡命したネイレオスに同道してきたときのことであった。

断片 53
Diogen. L. I, 74:

 ピッタコスは、ヒュッラディオスの子にして、ミュティレーネー人。ドゥウリスの主張では、彼の父親はトラキア人だという。

断片 54
Diogen. L. I, 82:

 ビアスは、テウタメノスの子にして、プリエーネー人……この人物は、ある人々は富裕者だったと〔主張するが〕、ドゥウリスは、〔彼のことを〕寄留民(paroikos)だったと主張する。

断片 55
Diogen. L. I, 89:

 クレオブウロスは、エウアゴラスの子にして、リンドス人。だがドゥウリスによれば、カリア人だという。

断片 56
Porphyr. Vit. Pyth. 3:

 サモス人ドゥウリスは『年代記』第2巻の中で、自分の息子アリムネーストスについて記載し、デーモクリトスの教師だったと主張する。そして、アリムネーストスは、亡命から帰還後、青銅の奉納物をヘーラの神殿に奉納したが、これは2ペーキュスに近い大きさを有し、これの碑銘は次のように刻まれていた。  ピュタゴラスの親愛なる息子アリムネーストス、われを奉納せり、
 言説の中に数多くの知恵を見出して。
 サモスの音楽家がこれを取りあげて、

断片 57
Suidas:

 パニュアシスは、ポリュアルコスの子、ハリカルナッソス人……しかしドゥウリスは、ディオクレースの子で、サモス人だと記載している。トゥウリオイ人ヘーロドトスも同様に。

断片 58
Harpocratio:

 アスパシア……言い伝えでは、彼女はペリクレースの教師であると同時に恋人であった。そして2つの戦争――対サモス戦争とペロポンネーソス戦争と――の原因になった注15)と思われていることは、サモス人ドゥウリスと、テオプラストスの『政治学』第4巻からと、アリストパネースの『アカルナイ区民たち』〔520以下〕から学知することができる。

断片 59
Photius Lex. v.[サモスの民は入れ墨者のごとし]:

 ある人たちによれば、アテーナイ人たちは、戦争で捕らえられたサモス人たちにフクロウの入れ墨をし、サモス人たちは、サモス船の〔入れ墨をした〕という。こ〔のサモス船とは〕櫓座2列の船舶で、サモス人たちの僭主ポリュクラテースによって最初にこしらえられたものだと、リュシマコスが『ノトイ』第2巻の中で。図はドゥウリスのもの。

断片 60
Plutarch. Pericl. c.28:

 9ヶ月目にサモスの人々は降参したので、ペリクレースは城壁を壊し、軍艦を取りあげ、多額の罰金を課した。サモスの人々はその一部を即時納めたが、残りは定めの期間に支払うことに取り決めて人質を差し出した。サモスの人ドゥウリスはこのことを悲劇的に描いて、アテーナイ軍とペリクレースのはなはだしい残虐を非難しているが、それはトゥキュディデースもエポロスもアリストテレースも伝えていないし、真相を述べたものとは思われない。例えばサモスの艦長や水平をミーレートスの市場に連れて行って柱に縛りつけて、10日間もひどい目に遭わせてから棍棒で頭を殴って殺した上、屍体を葬らずに投げすてたというのである。しかしドゥウリスは自分に関わりのない事柄でも真相に基づいて叙述を行う習慣を持たない人であるから、ここではいっそう祖国の不運をいたましいものに書いてアテーナイ人たちに非難を浴びせたものと思われる。

断片 "61a"
Cic. Epp. ad Att. VI, 1, 18:

 例えば、古喜劇詩人のエウポリスはシキリア島へ航海中のアルキビアデースによって海に投ぜられた、と誰もが言ったものだ。それをエラストテネースが論駁した。彼は、証拠としてこの喜劇詩人がその時以後に上演した劇を挙げている。それゆえサモス島の良心的な歴史家ドゥーリスが多くの者たちと同じ誤りを犯したからといって笑われたりするだろうか。

断片 "61b"
Schol. Aristid. ap. Creuzerum ad Plotin. De pulchr.:

 人を名指しでからかうのはエウポリスに至るまでだと言われている。しかし、この〔習慣〕をやめさせたのは、将軍にして弁論家のアルキビアデースであった。というのは、彼はエウポリスにからかわれたので、自分がシケリアに共同出兵したとき、彼を海の中に投げこんだからである、こう云って――
 舞台でわしに水を掛けるやつめ注16)。今度はわしがおまえを海の波に
 浸けて、このうえなく辛い奔流で破滅させてやる。

断片 62
Harpocratio:

 アンドキデースのヘルメース。アイスキネースが『ティマルコスに対して』の中で。「アンドキデースのヘルメースと呼ばれるところのものは、アンドキデースの〔奉納物〕ではなく、アイゲース部族の奉納物である」。またアンドキデース本人も、『秘儀について』の中で、アイゲース〔部族〕の奉納物だと述べていた、したがって、ドゥウリスがそれはアンドキデースの〔奉納物〕だと言っているのは、放言である。

断片 63
Plutarch. Agesil. c.3:

 さて、アギスが王になったとき〔前415年〕、アルキビアデースがシケリアから亡命者としてスパルタに来た。この町にいくらもしないうちに王の妻ティアマイアと交わったという非難を受けた。アギスは、妻の生んだのはアルキビアデスの子であるから認知しないと言った。ドゥウリスの言うところでは、ティマイアはこれをそう気にしないばかりか、その家では女奴隷たちがささやいて、その子どもをレオーテュキデースでなくアルキビアデースと呼ばせていたそうである。いずれにしてもアルキビアデース自身も、ティマイアに近づいたのは相手を蔑ろにしたのではなく自分から生まれる者がスパルタの王になるのを名誉と考えたからだと言ったそうである。

断片 64
Plutarch. Alcib. c.32:

 アルキビアデースはそろそろ故郷が見たくなり、それよりなおいっそうこれほどしばしば敵に勝った自分を市民たちに見てもらいたくなって、多くの楯や戦利品でぐるりとアッティケーの軍艦を飾り、多くの捕虜を引き連れ、自分が破壊し屈服させた更に多くの敵艦の船首の飾りを携えて出航した注17)。船首の飾りは合わせると200をくだらなかった。
 サモスの人ドゥウリスはアルキビアデースの子孫だと称する男であるが、以上の事実に付け加えてピュティアの競技に優勝したクリュソゴノスが櫓を漕ぐ者のために笛を吹き、悲劇役者のカッリピデースがその調子をとり、その際二人ともまっすぐに脚まで垂れる上着や舞台でつける軽い上着やその他競技の時の飾りを身にまとい、旗艦に赤い帆を掲げて港港に進み入ったところは、宴会から出てきた人のようであったと述べているが、この話はテオポムポスにもエポロスにもクセノポーンにも書いてないし、追放とあれほど多くの災難の後でもどってくる者がアテーナイの市民たちの前にこういう豪奢な有様をして現れるということは尤もらしくない。じつはびくびくしてもどってきて港に着いてからも甲板の上から、従兄弟のエウリュプトレモスが浜辺に立ち他の友人や家族が大勢迎えに来て歓迎の叫びを挙げているのを見るまでは、船から下りなかったのである。

断片 "65a"
Plutarch. Lys. c.18:

 いずれにしても当時リュサンドロスは、それまでのギリシアに見られない程勢力を握り実力以上の気位と威望をそなえていたように思われる。ドゥウリスの記すところでは、ギリシア人のうちではこのひとに初めて町々が神に対するように祭壇を設けて犠牲を捧げ、この人のために讃歌を作って歌ったそうである。その讃歌の一つは始めがこういう文句だと伝えている。
  広々したスパルタから出た神聖なギリシアの将軍を称えて歌おう。おお、
  イエー、パイアン。
 またサモスの人々は自分たちの町のヘーラーの祭りをリュサンドレイアと名づけるように決議した。詩人の中ではコイリロスをいつも身近に置いて自分の業績を詩に作らせ、自分を称えて詩を作ったアンティロコスを喜んで、その帽子に銀貨を充たして与えた。コロポーンの人アンティマコスとヘーラクレイアのニケーラトスとがリュサンドレイアの祭りにリュサンドロスを称えて詩を作って競争したとき、ニケーラトスに冠を授けたので、アンティマコスは心を傷めてその詩を破ってしまった。そのころ青年であったプラトーンは詩の技術においてアンティマコスに感嘆していたので、失敗を悲しんでいたこの詩人を慰めて元気を出させ、無知な人々にとって無知だということは、見えない人々にとって盲目だということと同じく、ひとつの病気であるといった。しかし、竪琴弾きのアリストヌースが、ピュティアの祭りの競技に六度勝利を得てから、好意を示すつもりでリュサンドロスに、今度勝ったらリュサンドロスのものとして自分の名を布令させようと申し出たところが、『奴隷としてか』といった。

断片 "65b"
Athenaeus XV〔696E〕:

 さらにパイアン詩〔の特徴〕が、折り返し句さえもっていないことは、スパルタ人リュサンドロスに寄せて書いた本当のパイアン詩がその例であり、ドゥウリスが『サモスの年代記』という標題を持った書の中で主張しているところでは、この詩はサモスで歌われていたという。

断片 66
Etym. M:

 アポッローンが「厄除けの」と言われるのは、ドゥウリスによれば、腕に太陽(=アポッローン)を抱いてレートーがこう申しつけて云ったという。「パイアンといってごらん(Hieie pieson)」。

断片 67
Proclus ad Plat. Tim. I:

 誰あろうプラトーンは詩人の最善の判定者である……じっさい、ポンティス人ヘーラクレイデースが主張している、――かつてコイリロスの後継者の有名人たちのうち、アンティマコスの作品をプラトーンは称讃し、コロポーンに赴いてその〔アンティマコスの〕試作品を蒐集するようヘーラクレイデース当人を説得したという。ところがカッリマコスとドゥウリスはいたずらにぺちゃくちゃおしゃべりをしている、――プラトーンは詩人を判定するに充分な才はもっていなかったと。

断片 68
Zenobius Prov. II, 28:

 アッティカの周住者注18)。この〔諺〕についてはドゥウリスが言っている、――アテーナイ人たちは自分たちの周住者つまり隣人たちを追い払ったので、この諺が流布したと。しかしもっと有力なのは、アテーナイからサモスに派遣した入植たちに由来してこの諺がいわれるようになったということである。すなわち、アッティカ人たちがサモスに送りこまれ、そこに定住したとき、現地人たちを放逐したのである。


"t69"
悲劇について

断片 69
Athenaeus XIV〔636F〕:

 またドゥウリスが『悲劇について』の中で主張するところでは、マガディス〔という12弦の楽器〕は、生まれはトラキア人マグディスにちなんで名づけられたという。


"t70"
エウリピデースとソポクレースについて

断片 70
Athenaeus IV, 184, D:

 またドゥウリスが『エウリピデースとソポクレースについて』の中で主張しているところでは、アルキビアデースが吹笛術を学んだのは行き当たりばったりの人物からではなく、最大の評判を得ていたプロノモスからであったという。


"t71-72"
法習について

断片 71
Etym. M. "Thorax"〔胴鎧〕の項:

 サモス人ドゥウリスは『法習について』の中で主張している、――ディオニュソスはインドイ人たちに対して遠征したが、彼らを征服することができなかったので、混酒器を酒で満たし、彼らの領地の前に置いた。すると彼らは、無知蒙昧であったので、その飲み物をたらふくくらって、そうやって酩酊して制服されてしまった。ここから、詩人たちは、酩酊すること(methein)を「酔わせられる(thoressethai)」と言うのである。

断片 72
Schol. Platon. Hipp. maj〔293A〕:

 ドゥウリスが主張するところでは、これ(Makaria)は父親の火葬の火を消してしまったという。これにちなんで、マケドニア人たちの間では、弔われた者たちの娘が、これに子どもがいる場合に、父親のために同じことをすることが習慣になっていた。


"73-76"
競い合いについて

断片 73
Tzetzes ad Lyc. 613:

 塚(taphos)のことを墓(tymbos)と呼ぶ。ドゥウリスも『競い合いについて』の中で主張する、――墓(tymbos)のことは塚(taphos)と呼ばれる、と。

断片 74
Photius Lex.:

 セロリ(selinon)注19)の花冠は嘆かわしい。なぜなら、セロリは悲痛にふさわしいからだとは、ドゥウリスも『競い合いについて』の中で述べているところである。

断片 75
Photius Lex.:

 「アゴーン(Agon)」は固有名詞であるとは、ドゥウリスが記録しているところである。

断片 76
Schol. Platon.:

 ヘーラクレースでも2人にはかなわぬ。この〔諺の〕由来をドゥウリスは次のように説明している。ヘーラクレースは、彼〔ドゥウリス〕の主張では、アルペイオス河畔に祭壇が設置されたことを記念して、拳闘競技を奉納し、これに勝利し、次のオリュムピア祭に再び競い合ったが、エラトスとペランドロスとに角力で固められた、このことから、「ヘーラクレースも2人にはかなわぬ」が諺となったのだと。


"t77-78"
絵画について

断片 77
Diogen. L. I, 38:

 また他にもタレース〔という名の人〕たちがいたが……ドゥウリスが『絵画について』の中で言及しているのは、4人である。

断片 78
同 II, 19:

 しかしドゥウリスは、彼〔ソークラテース〕は奴隷でもあって、石で製作もした(と主張している)。アクロポリスにある着衣のカリスたちの像も彼の作品であると幾人かの人たちが主張している。


"t79"
彫刻術について(de Toreutice)』

断片 79
Plinius H.N. XXXIV, 19, 6〔61〕:

 ドゥウリスによれば、シュキオンのリュシッポスは誰の弟子でもなく、銅細工人であったが、彼が画家のエウポンポスに、あなたの先人たちのうちの誰を手本にしたかと問うたとき与えられた答えから、彫刻をやってみようという考えを初めて持ったのだという。画家は人々の群を指していった。われわれが模倣すべきものは自然そのものであって、芸術家ではない、と。


"t80-83"
出典不明断片集

断片 80
Plutarch. Prov. I, 48:

 アレーテースは土塊でも受け取る。すなわち、ドゥウリスの主張では、アレーテースがコリントスから亡命したが、神の託宣によって再び帰国しようとした。そして、田舎を見まわして(l. さまよっているとき)ひとりの牛飼いに食べ物を請うた。すると相手は提げ袋から土塊を取り出して与えた。だがアレーテースは吉兆として受け取った、それでこう云うのである。アレーテースは土塊でも受け取る。

断片 81
Proverb. Bodl.:

 月を自分の方へ引きずり降ろす……ドゥウリスは謂う、月蝕を予告する星占い師(astrologos)を、たやすく放免することはしない、と。
 [山下氏の指摘で訳文を修正した。もし文意を正しく受け取っているとしたら、この断片から、(1)月蝕の予告がかなりの精度でできるようになっていたことのみならず、〔2)占星術師に対する支配者の警戒まで読み取れることになるのだが、はたして……。]

断片 82
Zenobius II, 26:

 エレウシス祭はアッティカ流。自分たちだけですることを譬える。しかしドゥウリスは言う、――人々が自分たちだけで集まって何事かをする場合に、自分たちのことをこう言うと。エレウシス祭はアッティカ流。

断片 "83a"
Bekkeri Anecd. Gr.:

 アリストテレースの主張では、ドゥウリスが言っているという、――アシアの(キタラ)は、アシアの近くに住んでいるレスボス人たちから使い方をすっかり忘れられていると。

断片 "83b"
Etym. M.:

 "Kitharon"とは、骨部と弦部との類似性によって〔そう呼ばれる〕。だがドゥウリスは、キタイローン山に由来すると主張する。そこでアムピオーンが演奏したからだと。

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