第1巻・第5章
第6章[1] さて、次の年、一夕〔前406年4月15日〕、月食があり、アテナイにあるアテナ女神の古い神殿が焼け落ち、 ピテュアスが監督官に就任し、アテナイでは カリアス(1)が執政官になった年だが、ラケダイモン人たちは、リュサンドロスの任期および戦争の24年目が終わったので、艦隊に カリクラティダスを派遣した。 [2] しかし、艦隊を引き渡すときに、リュサンドロスは、カリクラティダスに向かって、海の覇者(thalattokrator)にして海戦に勝利した者として引き渡したいと申し入れた。だがカリクラティダスは彼に、エペソスからサモスの左岸沿いに――そこにはアテナイ人たちの艦船がたむろしていた――沿岸航行し、ミレトスで艦隊を引き渡すよう命じ、そうすれば、海の覇者と認めようといった。 [3] しかしリュサンドロスは、指揮官は他の者なのに、自分がお節介する気はないと主張したので、カリクラティダス自身がリュサンドロスから引き継いだ艦船のほかに、キオス(1)、ロドス、その他、同盟者たちのもとから来た50艘を追加艤装した。これを――140艘になったが――すべて結集して、敵国人たちと渡りあわんものと準備した。 [4] しかし、リュサンドロスの友たちによる反乱の兆しありと見てとった。彼らの奉仕ぶりは不熱心であったばかりでなく、諸都市に噂を広めていた、――ラケダイモン人たちは艦隊指揮官を交代させるさいに大きな過ちを犯している、適任者、しかもやっと艦隊のことに精通するようになった者、将兵をいかに扱うべきかをよく心得た者をやめさせて、海に無経験な者、ここでのことに無知な者を派遣することしばしばである、だから、どんなひどい目に遭うか危険なことだ――と。これがために、カリクラティダスは、その場に居合わせたラケダイモン人たちを集めて、彼らに次のように言った。 [5] 「わたしとしては、家郷にとどまっていられたら満足だし、リュサンドロスであろうと、他の誰であろうと、艦隊のことにより経験が深いようなら、わたしとしては、邪魔だてする気は毛頭ない。しかし、わたしは、国家によってこの艦隊に派遣されたのであるからには、命じられたことを可能なかぎり効果的にはたす以外には、為すべきことを何も持たぬのである。また、諸君についていえば、わたしが何のために名誉愛を競い、われわれの国家が何において非難されることになるか――そのことはわたしと同じく諸君も承知のとおりである――、何が最善なのか、諸君に思われるところを忠告してもらいたい。わたしがここにとどまるべきなのか、それとも、ここで起こったことを告げるために家郷に帰帆すべきなのかについて」。 [6] しかし、家郷の人たちに聴従し、彼がここにやってきた目的をはたすべきだと言うよりほかに敢言できる者は誰もいなかったので、〔カリクラティダスは〕キュロスのもとに赴いて、船員たちの報酬を要求した。 [7] しかしキュロスは、2日間待つようにと彼に言った。カリクラティダスはその引き延ばしに憤慨し、しかも、〔キュロスの館の〕門前に通いつめることに怒って、ヘラス人というのは惨めきわまりない、金のために異邦人どもに追従するとは、と言い、もしも家郷に無事帰ることができたら、自分の可能なかぎり、アテナイ人たちとラケダイモン人たちとを仲直りさせるつもりだと称して、ミレトスに引き上げてしまった。 [8] そして、この地から、三段櫂船をラケダイモンに派遣して金銭を要求する一方で、ミレトス人たちの民会を召集して次のように述べた。 「わたしとしては、おお、ミレトス人諸君、家郷の為政者たちに聴従するしかない。しかし諸君も、この戦争にこのうえなく献身的であることをわたしは要請する。異邦人たちの中に住みながら、今までに連中からあまりに多くの害悪を被ってきたのだから。 [9] また、諸君は、他の同盟者たちに向かって説明すべきである、――使いがラケダイモンから帰ってくるまでの間に、われわれがいかに速やかに、いかに甚大に、敵国人たちに害を与えたかを。いかにも、わたしは金銭を持ってくるよう使いの者を派遣した。 [10] というのは、ここにあったものを、リュサンドロスは余りものであるかのようにキュロスに返して立ち去ってしまったからだ。ところで、キュロスと言えば、わたしは彼のところに赴いたけれども、そのたびにわたしとの対話を引き延ばし、わたしはわたしで、彼の門前に通いつめることに自分を納得させることができなかった。 [11] だが、わたしは諸君に約束する、――〔祖国からの〕その受け取りを待つ間に、諸君によって結果する善事に対しては、それ相応のお礼をするであろうということを。いざ、神々のご加護を得て、異邦人どもに見せつけてやろう、――連中のご機嫌をうかがわなくても、われわれは敵対者たちに報復できるのだということを」。 [12] こう言うと、多くの者たちが立ち上がって、とりわけ、反抗の咎で非難されていた連中は恐れをなして、金銭の寄付を提案したばかりか、みずからも個人的に申し出た。彼はこれを受け取って、さらには、キオス(1)から船員たち一人当たり5ドラクマを支給して、レスボスのメテュムナ――敵であった――へと航行した。 [13] しかし、メテュムナ人たちは降伏を望まず、アテナイ人たちの守備隊がいて、国事を掌握していたのがアッティカ贔屓の者たちだったので、突撃して、総攻撃でこの都市を攻略した。 [14] かくして、財貨はみな将兵たちが分捕り、奴隷人足はみなカリクラティダスが市場にかり集め、メテュムナ人たちをも〔アテナイ人たちと同じく〕売り払うよう同盟者たちが命じたが、〔カリクラティダスは〕拒否した。自分が指揮官であるかぎりは、ヘラス人たちは誰ひとり、自分の可能なかぎり、奴隷人足とされることはない、と言って。 [15] だが、次の日、この者〔メテュムナ人〕たちの方は自由人として放免したが、アテナイ人たちの守備隊および奴隷人足たちの方は、すべて奴隷として売り払った。さらに、コノンに、おまえが海にちょっかいを出すのを阻止してやる、と言いやった。そうして、その相手が明け方に船出するのを望見して追撃し、サモスへの航行を阻止して、そこに逃げ込めないようにしようとした。 [16] しかし、コノンが逃亡をはかった艦船は船足が速かった。多く乗組員の中から少数精鋭の最善の漕ぎ手を選抜していたからである。かくてレスボスの ミュティレネに逃げ場を求めようとした。彼には10将軍のうちのレオン(1)とエラシニデスも同行していた。しかしカリクラティダスは、港に押しかけ、170艘の艦船で追撃した。 [17] そのためコノンは、あまりにすばやく敵国人たちに妨害されたため、港の前で海戦を余儀なくされ、艦船30を失った。しかし、兵員は陸に逃げおおせた。残りの艦船は、40艘であったが、城壁の下に揚陸した。 [18] そこでカリクラティダスは、港内に投錨して、そこから攻囲し、出港を差し止めた。さらに、陸上ではメテュムナ人たちを全軍呼びもどそうとし、また、キオス(1)からも軍隊を渡海させた。おまけに、金銭もキュロスから彼のもとに届いた。 [19] 対してコノンは、陸海両方を攻囲され、糧道はどこにもなく、しかも人員は町中に多く、またアテナイ人たちは、事態を聞き知らないのだから救援に来るはずもなく、最も足の速い艦船2艘を進水させて、夜明け前に艤装させたが、そのさい、全艦隊から最善の漕ぎ手を選抜し、艦上戦闘員を船腹内に乗り組ませ、掩蔽具(pararymata)を張り出させた。 [20] そうして、日がな一日そうやってじっとしていて、夕方になると、闇が降りてから、下船させた。敵国人たちにそういうことをしているのがわからないようにするためである。かくして、5日目に、適度の食料を積み込み、すっかり日が高くなって、守備兵たちも気がゆるんで、何人かは休息し始めたときに、港の外に漕ぎ出した。そうして、一艘はヘレスポントスの中へ、もう一艘は外洋へと突き進んだ。 [21] 守備兵たちは、めいめいが我勝ちに先を争うかのように、大混乱のうちに〔追撃の〕救援に入ろうとした。あるいは錨を切り離し、あるいは飛び起き。ちょうどこの時に陸上で朝食をとっていたからである。とにかく乗船して、外洋へと発進した艦船を追撃し、日没時にやっと追いつき、闘いによって討ちまかし、乗員もろとも曳航して陣営に連れ帰った。 [22] しかし、ヘレスポントスの中へ逃げ込んだ艦船は逃げおおせ、アテナイに到着して、攻囲のことを通報した。そこで、ディオメドンが、攻囲されているコノン救援のために、艦船12をともなってミュティレネ人たちの海峡に投錨した。 [23] しかし、カリクラティダスは、これに奇襲をかけ、艦船10を捕獲したが、ディオメドンは、自分の船と他のもう1艘とで逃げた。 [24] アテナイ人たちは、この出来事と攻囲とを耳にするや、艦船100と10艘による救援を決議し、年頃にあった者たち――奴隷も自由人も――全員を乗り組ませた。こうして、110艘を艤装して、30日以内に出撃した。騎兵隊の多くも乗り組んでいた。 [25] その後、サモスに向けて船出し、そこでもサモスの艦船10を手に入れた。他にも30艘以上をその他の同盟者たちからかき集め、そのすべてに乗り組むよう強要した。彼らの艦船で、たまたま国外にあったものも同様であった。かくて、艦船は全部で150艘以上になった。 [26] カリクラティダスは、救援隊がすでにサモスまで来ていると聞いて、艦船50と、指揮官としてエテオニコスとを残置し、120艘を率いて船出し、レスボスの マレア(2)岬(2)で夕食をとった。 [27] たまたま、その同じ日に、アテナイ人たちも アルギヌウサイで夕食をとっていた。ここはミュティレネの対岸である。 [28] 夜になって、〔対岸に〕火が見え、また、アテナイ人たちがいると彼に報告する者たちもいたので、奇襲をかけんものと、真夜中に船出しようとした。ところが、大雨が降りだし、雷まで加わって、船出を妨げた。結局、それが収まってから、夜明けとともにアルギヌウサイへ航行した。 [29] 対して、アテナイ人たちの方は、外洋に向かって左翼を張って迎え撃とうとしたが、その配置は次のごとくであった。左翼を受け持ったのはアリストクラテスで、艦船15を嚮導し、続くはディオメドンで、さらに15艘。そして、アリストクラテスの後衛にはペリクレス、ディオメドン〔の後衛〕にはエラシニデスがついた。また、ディオメドンの側には、サモス人たちが艦船10をもって一列に配置されていた。これを統帥したのは、サモス人で、名は ヒッペウス。これに続くのは部族艦隊の10艘で、これもまた一列。その後ろに、艦隊指揮官たちの艦船3艘、および、他の同盟者たちの艦船数艘がひかえていた。 [30] 一方、右翼は、プロトマコスが艦船15で受け持った。彼の側には、トラシュロスがさらに15艘で〔ひかえていた〕。そして、プロトマコスの後衛には リュシアスが、同じ数の艦船を引き具し、トラシュロスの後衛にはアリストゲネス(1)が〔ひかえていた〕。 [31] こういうふうに配置されたのは、突破を許さないようにするためである。繰船において、より劣っていたからである。対して、ラケダイモン人たちの艦船は、全艦が横一列に配置されていた。繰船においてより優れていたために、突破と回り込みに備えようとしていたのである。右翼を受け持ったのはカリクラティダスであった。 [32] カリクラティダスの操舵手――メガラ人の ヘルモン――は、彼に向かって、引き上げた方がいい、アテナイ人たちの三段櫂船は、はるかに多いのだから、と言った。しかしカリクラティダスは言った、――自分が死んでも、スパルテがより悪い状況になることは何もない、しかし、と彼は言った、逃げるのは恥ずかしいことだ、と。 [33] この後、彼らは長時間にわたって海戦し、最初のうちは密集していたが、後にはバラバラになってしまった。そうして、カリクラティダスが、艦船が激突したさいに海中に転落して行方不明となったばかりか、プロトマコス、ならびに、右翼の彼の麾下の者たちが〔敵の〕左翼に勝利し、ここに、ペロポンネソス人たちのキオス(1)への敗走が起こり、大部分はポカイアまでも〔逃げのびた〕。対してアテナイ人たちは、再びアルギヌウサイへ帰帆した。 [34] 失ったのは、アテナイ人たちの方は艦船25を、乗員もろとも――海岸に流れ着いたわずかを除いてだが――、対してペロポンネソス勢の方は、ラコニケの艦船――全部で10艘あったうちの――9艘と、その他の同盟者たちの艦船60以上である。 [35] さらにまた、アテナイ人たちの将軍団によって決定されたのは、艦船47をもって、テラメネスとトラシュブウロス――この二人は三段櫂船指揮官であった――、および、部族艦隊の何人かは、難破した艦船とその乗員の救出に、その他の艦船は、ミュティレネで守備しているエテオニコス麾下の艦船の攻撃に航行することであった。しかし、これを実行しようと望んでも、風と嵐がひどくなって、彼らを妨げた。結局、勝利牌を立てて、そこで野営した。 [36] さて、エテオニコスには、舟艇が海戦の模様をつぶさに報告した。すると彼は、これをもう一度送り出して、乗員たちにこう言った。――黙って港を出てゆき、誰とも口を利いてはならぬ、そして、すぐさまもう一度自分たちの陣地に漕ぎ入れ、そのさい、花冠をかぶり、カリクラティダスが海戦に勝利した、アテナイ人たちの艦船はみな破滅したと、大声で呼ばわるように、と。 [37] そこで彼らはそうした。彼の方は、彼らが帰帆するや、その吉報に犠牲を捧げたうえで下知した――将兵たちは夕食をとるよう、また、貿易商人たちは黙って財貨を商船に積み込んでキオス(1)に引き上げるよう(風は凪いでいた)、また、三段櫂船も全速力で〔そうするように〕と。 [38] そして自分は陸戦隊を率いてメテュムナへと撤退した。陣に火を放ったうえである。コノンの方は、敵国人たちがすっかり撤退し、風もかなり穏やかになってからであるが、艦船を進水させ、アルギヌウサイからすでに船出してきていたアテナイ人たちと遭遇したので、エテオニコスに関することを話して聞かせた。そこで、アテナイ人たちはミュティレネに寄航し、そこからキオス(1)攻撃に船出したが、何の成すところもなくサモスに引き上げた。 |