第34話

両手利きの樹(dendron peridexion)について


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 インドに、「両手利きの樹」と名づけられた樹があるが、この樹の実は甘いことこのうえなく、すこぶる有用な樹である。イエバトなぞは、この樹の実によって養われることに完全に満足している(だから、樹の上に巣をつくるのである)が、大蛇はイエバトの逆で[憎み嫌っているので]ある。つまり、大蛇は、イエバトたちがねぐらにしているこの樹ばかりか、樹の影さえ恐れ、大蛇はイエバトはもちろん、樹の影にさえ近づけない。だから、樹の影が西に傾けば、大蛇は東に逃げ、〔樹の影が〕東に移れば、西に逃げる。けれども、影にいるイエバトがこの樹からさまよい出れば、大蛇はこれを見つけて、これを殺すのである。

 されば、この樹が一切の父にみなされるのは、ガブリエルがマリアに言ったとおりである。「聖霊があなたに臨み、至高者の力があなたを覆う」〔ルカ、第1章35〕。「彼にすがる者たちみなにとっての命の樹だからであり」〔箴言、第3章18〕、「このような樹は、自分の実を自分の盛りの時に与えるであろう」〔詩篇、第1章3〕し、さすれば、「わたしたちは翼の影に望みをかけよう」〔詩篇、第56(57)章2〕。かくて、聖ペテロの影は人間どもから破滅となる死を追い払った。されば、わたしたちもその知恵にすがり、歓喜、平和、節制、忍耐であるところの霊の実を摂取すれば、邪悪な悪魔はわたしたちに近づき得ないのである。これに反し、闇の所行、つまり、不品行、姦淫、偶像崇拝、情慾、悪欲、貪欲の中をさまようならば、悪魔はわたしたちが命の木にとどまっていないのを見つけ、やすやすと亡き者にするのである。ゆえに使徒も、磔柱の木が悪霊にとって破壊的なのを見て、叫ぶ。「わたしにはキリスト磔柱を誇りとするほかに、誇りとするものは決してない。その磔柱によって、世界はわたしに対して、わたしも世界に対して、磔にされたのだ」〔ガラテヤ書、第6章14〕。

 かく美しく、自然窮理家は「両手利きの樹」について言った。

 だから、樹を想うべし、神の指示を歓愛すべし、そして、人間はそれを守っているかぎり、悪魔を恐れない。しかし、神の指示を軽んずるとき、そのときには、大蛇も彼を捕らえるのである。




 「両手利きの樹」の直接の典拠は『キュラニデス』3巻37節である。そこでも、この樹木の出自がインドであることが明示されている。
 devndron peridevxionという表記から見て、サンスクリット語の右繞(右旋)p.gifr.gifa.gifd.gifa.gifk.gifs3.gifi.gifn3.gifaa.gif〔音訳して「鉢喇特崎孥(ハラドキナ」〕の音訳であろうと考えられる。しかしギリシア語では、”peri-”という前綴が付くことで、「非常に→過度に→周りに」などの意味が付け加わることになる。その結果、「両手利き」あるいは「両廻り」などの含意が出てくる。その結果、「右繞の敬礼を受けるに値する聖なる樹」から、「右利き・左利きを超えた聖なる樹」の意になると考えられる。—

1) インドで聖樹とされるのは、バニヤン樹・優曇華(うどんげ)(Ficus glomerata)・菩提樹など、いずれもイチジク属の木である。
vad_ficus.jpg とくにバニヤン樹〔バンヤン樹ともいう。ふつう「ベンガル菩提樹」と呼ばれる〕(Ficus bengalensis)は、樹高30mに達し、樹幹は太く、生長力が強い。とりわけ、横に伸びた枝から多くの気根を出し、これが地上に達すると幹のようになるという特徴を有する。そのため、1 本の樹が林のように見え、大きなものは樹冠部の直径130mにも達する。ここから、天上に根を張った宇宙樹という、インドに特有の宇宙観が生まれたのではないかとも考えられる。

 バニヤン樹は、イチジク属の特徴で、白い乳状の樹液を出し、径1.5cmほどの果臥(かのう) は無柄で、2 個ずつ赤熟する〔右図〕。樹液は一般には治癒効果を有するとされ、『アタルバ・ベーダ』 (前 1000 ころ) の頃から呪薬として用いられ、バニヤンの気根と実、優曇華(うどんげ)、菩提樹などの実を合わせてすりつぶしたものを、神聖な神酒(ソーマ)の代用として用いられる。
 point.gifFicus bengalensis Linn

 このバニヤン樹については、インドでは『ジャータカ』をはじめ種々の物語に登場し、子どもを授けたり、旅の安全を守る樹霊や鬼神 (夜叉(やしや)) がこの樹に宿り、動物犠牲をささげられていたことが語られる。また、願ったものをすべて与える「如意樹」としても現れ、"peridexion"というギリシア語は、そこからの連想であったかもしれない。

 また、インドでは「インドボダイジュとマンゴーの木、2本一緒に植えられてアートマンを表す」「ネパールやインドにはインドボダイジュとベンガルボダイジュを二本対にして植える習慣がある」(マジュプリア『ネパール・インドの聖なる植物』)。
 エジプトの太陽神はトルコ石でできた一対のシカモア・イチジクの間から昇るという話と共通するところが興味深い。

 大蛇との関連についてはいまだ確証がないが、竜を常食とする迦楼羅〔カルラ。カルダとも〕は、四天下の大樹に宿るという。この大樹が何かはっきりしないが、今後の調査を待ちたい。

sycomorus.jpg2) 興味深いことに、エジプトにおいても、聖なる樹はイチジクであった。それはネヘトnehetと呼ばれ、おそらくはシカモア・イチジク(Ficus sycomorus)〔左図〕と考えられる。この樹は、聖書では「イチジククワ」として登場する。point.gif第48話「桑の樹について」 ヒエログリフ(M1)は、この樹の象形で、一般的に樹を表す場合が多い。

 『死者の書』第109章には、天空の東の門には一対の「トルコ石でできたシカモア・イチジクの樹」があり、太陽神ラーはその間から毎日出てくると記されている。
nehet.gif ふつう、宇宙の樹は、太陽神ラー=ホルアハティの象徴として男性的な性格をもっていたが、シカモア・イチジクの方は、とくに3人の女神、ヌウト、アセト〔イシス〕、ヘト=ヘル〔ハトホル〕の現れと考えられていた。ヘト=ヘルは「シカモア・イチジクの女主人」と呼ばれたほどである〔例えば、「ベッティ・パピルス第1巻子本」I, 4. 1-3〕。右図のように、ヘト=ヘルかヌウトらしい女神の腕がこの樹からのびてきて、死者に食べ物と水を与えるシーンは数多く見られる。この図を見ると、死者夫婦はシカモア・イチジクの前にひざまずき、一方で女神の腕は水を注ぎ与え、もう一方で食べ物をのせた盆をさしだしている〔まさしく両手利き!!!〕(ウィルキンソン『古代エジプトシンボル事典』p.155-156)。
 望みのものは与えるという点で、インドの「如意樹」と通底していると言えよう〔多面多臂はインドの神像の特徴のひとつである〕。

atumrha.jpg エジプトの聖樹としては、実のなる落葉樹イシェドも重要な役割を演じている。左図は、オン〔ヘリオポリス〕を中心に崇拝されていた牡猫アトゥム=ラーが、夜の象徴たる大蛇アーアペプ〔アポピス〕を制して、天空に輝き出ることを表象している。背景にあるのがイシェドの樹 — ワニナシ(Persea americana Mill.)〔アボガドという英名でよく知られる〕で、牡猫アトゥム=ラーはこの樹を蛇から守っているのである。オン〔ヘリオポリス〕には古王国の時代から聖なるイシェドの樹があり、後にはイネブ・ヘジ〔メンフィス〕、テル・エル=バラムン〔エドフ〕でも聖なる樹とされた(『古代エジプトシンボル事典』p.156)。
 「また、ヤナギ(チェレト)も重要な意味をもつ木だった。ヤナギは、オシリス〔ウシル〕が殺害された後、その遺体をかくまった木であり、鳥に姿を変えたオシリスがよく羽を休めた木だということで、オシリスの象徴と考えられていた。バラバラにされたオシリスの遺体の一部を埋葬したという墓は各地にあるが、そういった町には必ず、墓にちなんだヤナギの木があった。毎年行われた「ヤナギ立て」という祭は、その土地の畑や木々がよく育つことを願うためのものだった」。
 (『古代エジプトシンボル事典』p.156)
3) グノーシス主義のヴァレンティノス派にごく近いところで成立したとされる『フィリポによる福音書』〔ナグ・ハマディ文書第II写本第3文書〕には、十字架が「右(手)のもの、左(手)のもの」と呼ばれている〔第67章d〕。しかもその十字架たるや、
 「大工ヨセフは庭に木を植えた。彼はその仕事のために木材を必要としたからである。彼こそが植えた木々から十字架を造った者である。そして彼の種子が彼の植えたものに掛かっていた。彼の種子とはイエスのことである。植えられた物は十字架である」。(第91章)

 新約聖書に、天国の樹の喩えが登場する。それは一粒のからし種のようなもので、これを取って庭にまくと、育って樹となり、空の鳥もその枝に宿るようになるというのである〔マタイ13_31以下、マルコ4_30以下、ルカ13_18以下〕。グノーシス文書を介して、『自然究理家』と新約聖書とが結びつきそうである。

excelsior.jpg  プリニウスは、トネリコ(bumelia)という木〔学名:Fraxinus excelsior。右図〕は、木そのものも、樹液も、その影ですら、毒や蛇を防ぐ力を持っていると書いている(『博物誌』第16巻64)。
 ゲルマン人のいう「世界の樹(Ygdrasil)」がトネリコであるところから、オットー・ゼールはこれが「両手利きの樹」だと断じるのであるが、トネリコの実が美味とは聞かぬ。

 大蛇が常に「両手利きの樹」の影を忌避して、その結果、奇しくも太陽と同じ方向に動く点は、日時計を連想させる。とすると、大蛇は影を忌避しているのではなく、じつはみずからが影をつくる光源体であるということにほかなるまい。そこで、われわれは、太陽よりも古く崇敬の対象であった月を連想することができる。多くの民族において、蛇は月の動物とみなされて、「月の化身」(エリアーデ)とされていた。ここには、月と太陽とがともに相手の影に入ることを忌避して争うという古代人の信仰を反映しているのかもしれぬ。

 そして、一本の聖樹をめぐっての、その上に巣を構える鳥〔鷲にしろ鷹にしろ、それは太陽の化身にほかならない〕と、これの卵ないし雛を狙う蛇とは、古くからの寓話のテーマとなった〔例えば、『パンチャタントラ』の第1巻6話「鴉の夫婦と黒い蛇とジャッカル」、20話「鷺と蛇と蟹と黄鼠」。これについては、point.gif『伊曽保物語』下28話「鳩と狐の事」の註を参照〕

 第22話「一角獣」において示唆したごとく、リシュヤシュリンガ伝説は、馬祀(祠)祭(a.gifs2.gifd.gifa.gif-m.gife.gifd.gifh.gifa.gif)との関連を示唆する。
 馬祀祭においては、祭壇中央に二本の神木が立てられる。この二本の神木は、アレクサンドロス大王伝に出てくる、大王の生死を預言した「太陽の樹・月の樹」を連想させる。

peridexion.jpg  画像出典、不明。最も近いのは、British Library, Harley MS 3244, Folio 58v(右図)であろう(The Medieval Bestiaryから)。