『対論』
[底本]
TLG 0591 002
Fragmenta varia, ed. F. Caizzi, Antisthenis fragmenta. Milan:
Istituto Editoriale Cisalpino, 1966: 29-59.
frr. 16-24b, 25-26, 28-39a, 40a-86, 88-101, 103-110, 111c-121.
5
FusiognwmonikovV(fr. 16): p. 29.
ProtreptikovV(frr. 17-18d): p. 29.
Ku:roV(frr. 19-21b): p. 30.
+Hraklh:V (frr. 22-24b, 25-26, 28): pp. 30-32.
Ku:roV h] peri; basileivaV vel =AlkibiavdhV(frr. 29a-33): pp. 10
32-34.
=Aspasiva (frr. 34-35): p. 34.
Savqwn h] peri; tou: ajntilevgein. 36-37b): pp. 34-35.
Peri; paideivaV h] peri; ojnomavtwn. 38): p. 35.
FusikovV(frr. 39a, 40a-40d): pp. 35-36.
15
Peri; oi[nou crhvsewV(fr. 41): p. 37.
=ArcevlaoV (fr. 42): p. 37.
9999 001 591 2 17
PolitikovV(fr. 43): p. 37.
Fragmenta incertae sedis (frr. 44a-86, 88-101, 103-110, 111c-121): pp. 38-59.
(Q: 6,766: Dialog., Phil., Physiognom., Rhet.)
種々の断片集(Fragmenta varia)
15.16.1
ATHEN. XIV, 656F.
アンティステネースが、『観相学』の中で、「というのも、あの女ども(呼び売りの女たち)は、豚の乳呑み児に一生懸命ご馳走している」。
15.17.1
ATHEN. XIV, 656F.
また、『勧め』の中では、「豚の乳呑み児の代わりに育てられた」。
15."18a".1
POLLUX onom. X, 68.
いわゆる細首水差し(kurivllion)というのは、アシア人たちの間ではボムビュリオン(bombuvlion)のことだと、アンティステネースが『勧め』の中で述べている。
15."18b".1
POLLUX onom. VI, 98.
ボムビュリオスとは、細い水差しで、飲むとき、ぼむぼむと音を立てると、アンティステネースが『勧め』の中で。
15."18c".1
Schol. in Apoll. RH. II, 569_570a(p.175 Wendel).
ebovmbeon, h{coun. ここからまた、ボムビュリオスとは、ミツバチの1種でもある。また、水飲み(pothrivon)の1種でもあるとは、アンティステネースの伝えているところである。〔この水飲みは〕細首である。
15."18d".1
ATHEN. XI, 784D.
ボムビュリオスは、ロドス島のqhrivkleionのこと。これの恰好については、ソークラテースが謂っている。「ある者たちは大杯(piavlh)で好きなだけ飲んで、すぐに杯を置くが、ある者たちは、すこしずつ滴るボムビュリオスで」。
15.19.1
DIOG. L. VI, 2.
また、大ヘーラクレースとキュロスと〔を例に〕とって、労苦は善きものであると証明した。前者はヘッラス人たちを代表して、後者は非ヘッラス人たちを代表して、引いたのである。
15."20a".1
ARRIAN. Epict. diss. IV, 6, 20.
ところでアンティステネースは何と言っているか? 聞いたことがないのか? 「王者らしいことなのです、おお、キュロスよ、良く為しても、悪口を聞くというのが」。
15."20b".1
MARC. AUR. VII, 36.
アンティステネースのことば。王者らしいことは、良く為しても、悪口を聞くこと。
15."21a".1
ARSENIUS viol. p.502.
キュロス王が、最も必要な学とは何かと尋ねられたとき、彼は謂った。学んだことを忘れるのが悪い、と。
15."21b".1
STOB. anthol. II, 31, 34.
同じひと〔アンティステネース〕が、最も必要なことは何かと尋ねられたとき、「学んだことを忘れるのが」と彼は云った、「悪い」。
15."22".1
DIOG. L. VI, 104.
ところで彼らの学説は、アンティステネースが『ヘーラクレース』の中で謂っているように、〔人生の〕究極目標は、徳にしたがって生きることというのであり、これはストア学徒と同様である。
15.23.1
DIOG. L. VI, 105.
また、彼らの学説では、アンティステネースが『ヘーラクレース』の中で主張しているように、徳は教えられるものであり、一度獲得されたら失われることのないものである。知者は、恋されるにあたいする者であり、似た者に友である者であり、また、何ものも運命(tuvch)にゆだねてはならない、という。
15."24a".1
[ERASTH.] cataster. c.40.
このケイローンは、ペーリオンに住んで、どんな人間よりも正義に抜きんでていたので、アスクレーピオスとアキッレウスとを教育した者であると思われている。彼のところにヘーラクレースがおもむいたのは、恋ゆえで、これといっしょに洞窟で暮らしたのは、パーンを尊敬していたからだと思われている。ケンタウロスたちのうち、彼だけは殺さず、これのいうことを聞いたと、ソークラテース学徒アンティステネースが『ヘーラクレース』の中で主張している。
15."24b".1
EUDOCIA violarium c.998 p.432.
さらにヘーラクレース本人も、恋ゆえに、彼(ケイローン)のもとにおもむき、これといっしょに洞窟で暮らしたのは、パーンを尊敬していたからだと思われている。ケンタウロスたちのうち、彼だけは殺さず、これのいうことを聞いたとは、ソークラテース学徒アンティステネースが『ヘーラクレース』の中で主張しているとおりである。
15.25.1
PROCLUS in PLAT. Alcib. 98, 14(p.44 Westerink).
とにかく、アンティステネースの『ヘーラクレース』も、ケイローンのもとで育てられたひとりの若者について言っている。「偉大で」と彼は謂う、「美しく若々しい者は、臆病な愛者(ejrasthvV)がこれを恋することはできない」。
15.26.1
PLUTARCH. de vit. pud. 536B.
こういうふうに確乎として、こういった連中に動じることもなく、アンティステネースの『ヘーラクレース』が勧告したあの勧告を堅持したのであった。つまり、〔ヘーラクレースは〕その子どもたちに、誰がおまえたちを称賛しようとも、感謝することはない、と言いつけたのである。これこそ、称賛者たちの前に恥じ入ることなく、また称賛を仕返しもしない、ということにほかならない。
15.27.
〔欠番〕
15.28.1
Gnom. vat. II.
この同じひと(アンティステネース)が、アキッレウスがケンタウロスのケイローンに仕えているところが画板に描かれているのを眼にして、「いいねぇ、僕ちゃん」と云った、「教育のためには、獣に仕えることさえ我慢するというのは」。
15."29a".1
HERODICUS ap. ATHEN. V, 220C.
アンティステネースは、『キュロス2世』の中でアルキビアデースを悪言し、女たちに対しても他の生活態度においても違法的だと言っている。すなわち、彼はペルシア人たちのように、母親とも娘とも妹とも交わっていると謂うのだ。
15."29b".1
EUSTATH. in Odysse. X, 7, p.1645.
しかしながら、尋常ならざる生活によって腐敗堕落し、言語道断な者となったアルキビアデースを嘲って、アンティステネースは謂う。女たちに対しても他の生活態度においても違法的だ。すなわち、ペルシア人たちのように、母親とも娘とも妹とも交わっていると。
15.30.1
SATYRUS ap. ATHEN. XII, 534C.
それゆえ、ソークラテース学徒のアンティステネースも、みずからがアルキビアデースの目撃者となったとして、彼は、生涯の各段階において、強く、男らしく、無教育で、果敢、麗しい者であったと謂う。
15.31.1
PLUTARCH. vita Alcib. I.
だが、アルキビアデースについては、その乳母は、生まれはラコーニア女、名はアミュクラ、また家庭教師はゾーピュロスということまで、わたしたちが知っているのは、ひとつにはアンティステネースが、ひとつにはプラトーンが記録していることによってである。
15."32a".1
PROCLUS in PLAT. Alcib., 114, 14(p.51 Westerink).
ところが、アルキビアデースは長じると美しくなったということは、彼は全ヘッラスの恋人と呼ばれたということを国民も明らかにしているし、アンティステネースも、アキッレウスもこういう人物でなかりせば、本当には美しくなかったろうという云い方で明らかにしている。
15."32b".1
OLYMPIOD. in PLAT. Alcib. 28, 18(p.20 Westerink).
身体的に美しかったことは、彼はヘッラス共通の恋人と言われたこと、アテーナイのヘルメース神像は彼の似像で等しく描かれたこと、犬儒派のアンティステネースが、彼について、こう言っていることから明らかである。「アキッレウスがこういう人物でなかったなら、麗しくはなかったろう」。彼〔アキッレウス〕については、美しさにかけてニレウス注1)を称賛したがる詩人〔ホメーロス〕が謂っている。
「他のダナオスの族の中でも、最美の士ニレウスは、かの誉れ高きペーレウスの子〔アキッレウス〕に次いで、イリオン城下に攻め寄せた」(Il. II, 673-74)。
33.1
HERODICUS ap. ATHEN. V, 216B.
ソークラテース学徒のアンティステネースも、(ソークラテースの)武勇伝について、プラトーンと同じことを記録している。「しかし、その話(logos)はまことならず」(STESICH. fr. 32)。というのも、この犬儒学徒は大いにソークラテース贔屓だからである。そのため、トゥキュディデースに注目する者たちは、彼らのいずれも信用ならないからである。というのは、アンティステネースにいたっては、この捏造にさらに付け足しまでして、次のように言っているからである。「わたしたちは、対ボイオーティア人たちとの戦闘で、あなたが武勲賞を受けられたと聞いております」。――「しッ、おお、客人よ。アルキビアデースの手柄であって、わたしのじゃないのだよ」。――「でも、あなたが譲られたのだと、わたしたちは聞いております」。
34.1
HERODICUS ap. ATHEN. V, 220D.
『アスパシア』は、ペリクレースの息子たち、すなわちクサンティッポスとパラロスとに対する中傷を(内容とする)。すなわち、彼らのうち、一方は、アルケストラトス――安手の売春宿の女たちと似た手口で稼いでいる――の親友であると謂い、もう一方は、エウペーモス――誰であれ出会った奴らに、低俗な冗談を飛ばしている――の馴染みにして知己であると〔謂っている〕。
35.1
ATHEN. XIII, 589E.
ソークラテース学徒アンティステネースの主張では、彼(ペリクレース)は、アスパシアに恋をし、日に2度、彼女のところに出入りし、この女性に挨拶したという。そして、彼女が不敬の公訴で訴追されたときには、彼女のために弁護し、生命や財産の危険に陥ったとき以上に、涙を流したという。また、キモーンがその妹エリピニケーと違法に睦みあい、その後、彼女はカッリアスに娶られ、彼〔キモーン〕は追放されていたが、ペリクレースは、彼〔キモーン〕の追放解除の報酬として、エリピニケーと交わることを得た。
36.1
DIOG. L. III, 35.
言われているところでは、アンティステネースも、自分の書いたもののひとつを読み上げたいと思い、彼(プラトーン)に出席するよう頼んだ。すると、何を読み上げるつもりかと訊かれて、反論の不可能なことについてだと云った。すると、相手は、「それでは、ほかならぬこの題目をどうして君は書けるのか?」と云って、自家撞着に陥ることを教えてやったので、プラトーンをこきおろす『サトーン〔ちんぽこ〕』という対話編を書いた。それ以来、ずっと、彼らはお互いによそよそしくなったのである。
"37a".1
HERODICUS ap. ATHEN. V, 220DE.
またプラトーンをも、猥褻・低俗にもサトーン〔=ちんぽこ〕と変名して、このような題名を有する対話編を公にして、彼〔プラトーン〕をこきおろした。
"37b".1
HERODICUS ap. ATHEN. XI, 507A.
むろん、アンティステネースを称賛することもできない。というのも、この人も多くの人をあしざまに云ったが、プラトーンそのひとにも遠慮せず、彼を低俗にもサトーン〔ちんぽこ〕と呼び、そういう題名をもった対話編を公にしたのである。
38.1
ARRIAN. Epict. I, 17, 10.
「論議(logika)は、何の実りももたらさない」 これについても見てみよう。もしも、ひとがこれを認めるとしても、それは、区別さるべきものと考察さるべきものとは別物であるということにすぎない。ちょうど、容積を量られるべきものと重量を量られるべきものとについてひとが云うことができるように。こういったことを誰が言っているか? ひとり、クリュシッポスやゼーノーンやクレアンテースのみであろうか? アンティステネースも言っているのではないか? 「教育の初めは、名称の考察」と書いているのは、いったい誰であるか? ソークラテースも言っているのではないか? つまり、クセノポーンが書いているところでは、あることについて、おのおのが何を表しているか、名称の考察から始めた、と。
"39a".1
PHILODEMUS de pietate 7.
アンティステネース〔の作品〕では、『自然学』の中で言われている。法習の上では、多数の神々が存在するが、自然本性的には一つであると。
"40a".1
CLEMENS ALEX. strom. V, 14, 108, 4.
ソークラテース学徒アンティステネースは、あの予言者的な声「主は言われる。『あなたがたはわたしを誰に等しいというのか?』」〔Isaias 40:18, 40:25, 46:5〕を義解して、「「神」は誰にも似ていない」と謂う、「だからこそ、何者も似像から彼〔神〕を学び取ることはできない」。
"40b".1
CLEMENS ALEX. protr. VI, 71, 1.
アンティステネースがこれを考えついたのは、犬儒派の主張としてではなく、彼がソークラテースの知己だったからにほかならない。「神は誰にも似ていない」と彼は謂う、「だからこそ、何者も似像から彼〔神〕を学び取ることはできない」。
"40c".1
EUSEB. praep. evang. XIII, 13, 35.
ソークラテース学徒アンティステネースも、あの予言的な声、主は言われる『あなたがたはわたしを誰に等しいというのか』を義解して、「神は誰にも似ていない」と謂う、「だからこそ、何者も似像から彼〔神〕を学び取ることはできない」。
"40d".1
THEODORET. graec. aff. cur. I, 75.
アンティステネースも、ソークラテースの弟子にして、犬儒派の指導者だが、全体の神について叫ぶ、「似像からは覚知できない、いかなる眼にも似ていない、だからこそ、何者も似像から彼〔神〕を学び取ることはできない」。
41.1
AEL. ARISTID.『聖論 ({Ierovi lovgoi)』 G=XLIX, 30 ss.(Keil)
真面目な内容の1冊を読み上げようとわたしは思った。その書の個々の内容は……云うことができないが……この書の最後に、とりわけ次のようなことが含まれていた。――競技者の誰かのために言われたことかもしれない――「これらすべてのことを神は推測して、満々と流れている川を見て、もし勝利する必要があるなら、水を飲むよう、しかし酒は控えるよう命じた。あなたも」と〔書は〕謂う、「これを真似るなら、単独であれ共同であれ、花冠を受けることができよう」。ここから彼は言った……
[33]この書こそ、アンティステネースの『〔酒の〕有用性について』であると思われた。彼が持ち出した酒には、ディオニュソスの一種の象徴がこめられていた。
42.1
HERODICUS ap. ATHEN. V, 220D.
『アルケラオス』は、弁論家ゴルギアスに対する(中傷を内容とする)。
43.1
HERODICUS ap. ATHEN. V, 220D.
彼の『政治家』という対話編は、アテーナイの民衆指導者たち全員に対する攻撃を内容とする。
"44a".1
ARIST. met. 1043 b4.
しかし、探求者たちにとって明らかなのは、語節(sullabhv)は諸々の字母〔=構成要素〕と結合(sunqevsiV)とから成るものではなく、煉瓦と複合が家であるわけでもないということ。そしてこれは正しい。なぜなら、結合は、そしてまた混合(mi:xiV)も、結合とか混合とがおこるその諸要素から成るものではないからである。そうでないことはその他のいずれの場合でも同様である。例えば、敷居が定まるとしたら、その位置が敷居によって〔定まる〕のではなく、むしろ後者〔敷居〕が前者〔位置〕によって〔定まる〕のである。人間にしても、「動物と二足と」であるのはなく、これらのほかに何かがなくてはならない。これら〔動物と二足と〕を質料(u{lh)とするなら、〔その「何か」は〕構成要素(stoicei:on)でもなく、構成要素から成るものでもなくて、これを除外すれば質料を語ることになるところのもの[有性(oujsiva)]である。だからして、もしこの何ものかが「有ること(to; ei[nai」つまり有性(oujsiva)の原因であるならば、この何ものかは有性そのものと〔人々は〕言うことができよう。……
b23.
したがって、アンティステネース派や、彼らのように無教育な連中が陥った行き詰まり(ajporiva)が、いくらかの意義を持っている。その〔行き詰まり〕によると、「何であるか」を定義することはできない(定義は長い言葉になるから)、むしろ、「どのようなものであるか」は教え得るが、定義することはできない。例えば、銀については、「何であるか」をではなしに、ただ「錫のようなものである」と〔いえるように〕。こうして、有性(oujsiva)には、定義と言葉〔説明方式〕のあり得るものがある。それは例えば、感覚的であれ、思惟的であれ、結合的(sunqevtoV)〔有性〕である。しかし、〔結合されてこの有性を成すところの〕第一の〔有性〕には〔定義が〕けっしてない。というのは、定義的な言葉とは、何かあることについて何かあることを言い表すことであり、その一方は質料的なものであり、他方は型式(morfhv)的なものでなければならないからである。
"44b".1
[ALEX. APHROD.] in met. 1043b23, p.553, 29.
(したがって、アンティステネース派や、彼らのように無教育な連中が陥った行き詰まり(ajporiva)が、いくらかの意義を持っている)
「わたしたちが云っていたことから解放される〔という意義〕」を補って聞き取るべきである、そうすれば、言われていることは次のようになる。「したがって、アンティステネース派が陥った行き詰まり(ajporiva)は、わたしたちが云っていたことから解放されるという意義を持っている」。すなわち、形相的部分と質料的〔部分〕とは別々であるということは示されてきたのだから、アンティステネース派の行き詰まりは、これらによって解放されるからである。ところで、彼らの行き詰まりとは、定義されることはできず、何かあるものの定義もないということである。彼らはこれを次のように論証した。すなわち、定義は、名称ではなく、もっと多くのものらから成る(これを長い言葉と〔アリストテレスは〕云った。例えば、理性と知識とを受け入れる理性的(logikovV)・可死的動物というのは、人間という名称のように〔短い立言〕ではなく、長い言葉である)、だから、定義は名称ではなく、定義されることはできない。そこで彼らは言う、――理性的動物とわたしたちが云う場合、質料と形相から結合されたあるものを言う。〔今の場合〕質料とは動物のこと、形相とは理性的なもの(logikovV)のことであり、さらに可死的なものが付け加えられ結合される。もし、そうだとすると、わたしたちは結合されたものらを、あたかもいくらあるかと数えるように、探究することになる。理性的動物と言い、さらにはまた可死的・理性的動物と〔言って〕、しかし〔それが〕定義であることをわたしたちは否定する。まさしくアリストテレースは、この行き詰まりはわたしたちが云っていたことから解放されると言う。すなわち、陸上のもの・二足のもの・動物は、形相の部分であって、質料の〔部分〕ではないことがすでに示されたのであるから、動物は質料だが理性的なものは形相だとか、あるいはまた、理性的動物は質料だが、可死的なものは形相だとか言うことが、どうして可能であろうか。いやしくも、動物・可死的なもの・理性的なものが質料の部分であるなら、こう言うべきであった。――動物・理性的なものは質料であるが、可死的なものは形相である、そして、可死的動物と言う人たちは、質料と形相から結合されたもののことを言っているのだと。というのは、それらは質料ではなく、彼らが言っているのは結合されたものではなくて、形相の部分なのだから。したがって、定義はある。にもかかわらず、彼らの主張では、定義されることはできず、人間とかウシはどのようなものであるかということは教えることができるが、定義されることはできないというのである。例えば、銀とは何であるかを定義したり云うことはできないが、どのようなものであるかは、それができる。例えば、銀とはどのようなものであるかと質問されたら、錫のようなものであると云うことが〔できる〕。したがって、と彼らは主張するのである、質料と形相から結合された有性の言葉を云うことはできるが、結合された有性を構成する形相ないし質料の定義をすることはできない、と。これに反して、〔アリストテレースは〕結合された有性の定義をすることはできると云うために、「感覚的〔有性〕であれ、思惟的〔有性〕であれ」を付け加えたのである。もちろん、諸々の感覚的有性が結合されたものであることは、明白である。また、もろもろの思惟的有性があることも、明らかである。例えば、数学的諸対象(maqhmatikav)は、質料と形相とから成り立っている。なぜなら、思惟的円は、半径という質料と、かくかくの図形という形相とからできているからである。しかし、〔アリストテレースは〕数学的諸対象をも有性と満足して云ったのではなく、おそらくは、これもアンティステネース派が言うので、これらを有性と述べたのであろう。とにかく、結合的有性は、それが感覚的であれ、思惟的であれ、これに定義を与えることができるが、それらから成る〔有性〕そのものは、〔定義を与えることは〕できない。定義とは、動物・理性的なものを全体として、何かについて何かを言い表すのであり、一方は形相、他方は質料だからである。
45.1
DIOG. L. VI, 3.
〔アンティステネースは〕「論(lovgoV)とは、何であったか、あるいは、〔何〕であるか(to; ti; h[n h[ esti)を明らかにするところのものである」と云って、論(lovgoV)を定義した最初の人であった。
46.1
ALEX. APHROD. in top. 101b39 p.42, 13.
(定義とは、「何であったかである(to; tiv h[n ei[nai)」を言い表す言葉である)
いやしくも、「〜であった(to; h[n)」が「〜である(to; e[sti)」を言い表し、「何であったか」を言い表す言葉が、「何であるかを言い表す言葉」と同じであるなら、明らかに、これが探究されていることの説明になるであろう。しかし、もしもそうなら、何であるかによって述語されたものらのうち、探究されているもの何かあるものを有する言葉は、その〔何かある〕ものの定義になろう。しかし、何であるかによって述語されるのは、諸々の形相の類である。同名同義的なのだから。すると、類によって形相を立てられた言葉は、何であるかを明らかにしているのだから、形相の定義ということになるだろうが、これは真実ではない。すると、「何であったか」で充分だと一部の人たちは考えた。その最初のひとはアンティステネースであると思われ、次いで、ストア派の何人かが含まれるが、しかし、有ること(to; ei[nai)を付け加えたのは道理にかなっているのである。
"47a".1
ARISTOT. met. 1024b26.
しかし、偽なる立言(lovgoV)は、それが偽であるかぎり、有らぬものら〔非存在〕についての〔立言〕である。それゆえ、あるものについての真なる立言は、それとは異なるものについては、すべて、偽なる立言となる。例えば、円についての〔立言〕は、〔円とは異なる〕三角形については偽である。ところで、それぞれのものについての立言は、ひとつ――「何であったかである」ということについての〔立言〕――のようである一方、〔立言は〕多のようである。というのは、限定付きのものも物事そのものも、例えば、「ソークラテース」というのも、「音楽的なソークラテース」というのも、同じものだからである。(ただし、偽なる立言は、厳密な意味では、何ものの立言でもない)。だからして、アンティステネースは、お人好しにも、何ものも、それ独自の言葉でしか立言されないと主張し、一つ〔の主語〕には一つ〔の述語〕あるのみと考えた。だからまたそこから、反論することができないとしたり、虚言することはほとんど全く不可能であると結論づけたのである。
"47b".1
ALEX. APHROD. in met. 1024b26, p.434, 25.
かく云うことで、アンティステネースをお人好しと〔アリストテレースは〕難じている。それは、あるものについての独自の立言は、それ以外のものについて何らの立言も言われていないと彼が言うからである。偽なる立言は、厳密な意味では、何ものの立言でもないということにくらまされて。むろん、厳密な意味で存在せず、一般的な意味でも存在しないなら、それはもはや存在しないのである。そこでアンティステネースは考えた。有るものら〔存在物〕はそれぞれ、独自の言葉によってのみ立言され、それぞれのものの立言はひとつである。なぜなら、立言は独自のものだから。しかし、〔立言は〕何かあるものを言い表すのではなく、何かについて〜であると言われるそのものの〔立言〕でなく、そのものとは異なったものである。ここからまた、〔アンティステネースは〕反論できないということをも結論づけようとした。なぜなら、反論しようとする人たちは、何かあることについて異なったことを言わねばならないが、そのものについて異なった立言をすることは、独自の立言はおのおののものにひとつあるだけだから、不可能である。〔立言は〕ひとつのものにひとつであり、言う人も、そのものについてひとりで言うのだから。したがって、もしも、同じものについて言うなら、お互いに同じことを言うことになろう(ひとつのもについて言葉はひとつなのだから)、しかし、同じことを言う人たちは、お互いに反論はできないであろう。もしも異なったことを言ったら、彼らはもはや同じものについて言っているのではないであろう、その物事にについて言葉はひとつであり、反論する者たちは、同じものについて言わなければならないのだから。まさしくこういうふうにして、反論することができないということを結論づけた。さらに、ほとんど偽ることもできないのは、何かあることについて、固有・独自の立言を云う以外、ほかの立言はあり得ないからである。しかし、この言葉がお人好しであるということを示すために、各人はそのものに独自の言葉によってのみならず、ほかのものの〔言葉〕によっても、偽って、易々と、数多の仕方で、簡単に、立言することを根拠にした。例えば、円の立言を人は三角形に適用したり、馬の立言を人間に〔適用したり〕できよう。
"47c".1
ARISTOT. top. 104b20.
しかし、立論(qevsiV)とは、哲学において周知の人々のひとりの、通念に反する見解(uJpovlhxiV)である。例えば、アンティステネースが主張したように、反論することができない、というのがそれである。
48.1
DIOG. L. IX, 53.
この人(プロータゴラス)は、反論することは不可能であるということを証明しようとしたアンティステネースの論(lovgoV)をも採りいれて、対話した最初の人である。これはプラトーンが『エウテュデーモス』の中で主張しているとおりである。
49.1
PROCLUS in PLAT. Crat. c.37.
アンティステネースが、反論してはならないと言ったということ。なぜなら、と彼は謂う、言葉はすべて真実をいう。なぜなら、言う人は、何らかのことを言う。しかし、何らかのことを言う人は、有るもの〔存在物(to; o[n)〕を言う。だが、有るものを言う人は、真実を言う、と。しかし、彼に対していうべきである、――虚偽もあり、有るものを言う人が虚偽を言うことを妨げるものは何もない。さらにまた、言う人は、何かについて言うのであって、何らかのことを言うのではない、と。
"50a".1
SIMPLIC. in cat. 8b25, p.208, 28.
昔の人たちのうち、ある人たちは、どのようなもの(to; poiovn)が存在することは認めたけれど、どのようなものか性(poiovthV)は完全に排除した。例えばアンティステネースがそうで、あるとき彼はプラトーンに異議を唱えて、「おお、プラトーン」と謂った、「わたしには馬(i{ppoV)は見えるが、馬性(i{ppovthV)は見えないのだ」。さらに彼は云った。「馬が見られる(oJra:sqai)この眼をあなたは持っているが、それによって馬性が観られる(qewrei:sqai)ものは、いまだかつてあなたが所有したことはないのだよ」。
"50b".1
SIMPLIC. in cat. 8b25, p.211, 15.
どのようなもの(to; poiovn)は、どのようなものか性(poiovthV)よりも、わたしたちにとって周知であり、関係が深い。というのは、どのようなものか性(poiovthV)は、まったく存在さえしないかのように、これをすっかり排除する人たちがいるが、どのようなもの(to; poiovn)を排除する人は誰もいないからである。こうして、アンティステネースは、馬を見ることは認めるが、馬性を見ることは認めない。前者は眼によって見られるが、後者は思量(logismovV)によって把握される。一方は、原因となるものの位置に立って先導するが、他方は、結果としてつきしたがう。一方は、身体にして結合物であるが、他方は、単純で非身体である。
"50c".1
AMMON. in PORPHYR. isagog. p.40, 6.
そういう次第で、アンティステネースは、類や形相は裸の思考(ejpinoiva)のうちにあると言うために、こう言う。「馬は見えるが、馬性は見えない」。そしてさらに、「人間は見えるが、人間性(a[nqrwpovthV)は見えない」。
51.1
PORPHYR. schol. ad Od. I, 1.
アンティステネースは主張する。ホメーロスは、オデュッセウスのことを、策に長けた者(poluvtropoVだと言って、称賛するよりは、むしろ非難している。ところが、アガメムノーンやアイアスのことは、策に長けた者とは作詩せず、単純で気高き者と〔作詩し〕、ネストールのことも、知者とは〔作詩〕せず、性格の点でゼウスにかけて狡猾で変わり身の早い者とも〔作詩〕せず、単にアガメムノーンその他の者たち全員の知人、何か善い点を持っているとするなら、軍隊のことに忠告し、隠し立てしない者と〔作詩している〕。そしてアキッレウスは、「胸に秘めていることと、云うこととが別々かもしれぬ」〔Il. IX, 313〕あの男〔アガメムノーン〕を、死に等しいほどの敵と考えるほどまでに、こういう性格を受け入れることから隔たっている。 そこで、これを解こうと、アンティステネースは主張する。では、どうか? はたして、オデュッセウスは、策に長けた者と述べられているのだから、邪悪な者(ponhrovV)なのか、知者ということで、彼のことをそういうふうに付言しただけではないのか? 要するに、策(trovpoV)とは、ある意味では性格を表し、ある意味では言葉の用い方を表すのではないのか? というのは、善良さ(to; eu[)へと策をめぐらせている性格を有する者は、善良な(eu[tropoV)人なのであり、策(trovpoV)とは、言葉のある種の形態(plasis)のことである。そして策(trovpoV)は、声にも調べの変化にも適用される。例えば、歌鶯に〔適用して〕、「しきりに調べを変えて(trwpw:sa)、調べも多様な声をそそぐ」〔Od. XIX, 521〕。
そこで、もし、知者たちというのが、対話に恐るべき者であるとするなら、同じ思考(noema)を数多くの仕方(trovpoV)で言うことを識ってもいるということであろう。同じことについて言葉〔議論〕の数多くの仕方(trovpoV)を識っている人とは、策に長けた(poluvtropoV)者のことであろう。そこで、もし、知者は、人間たちと交わることにおいても善き人たちであるとするなら、オデュッセウスは知者であるから、策に長けた人であるとホメーロスが主張する所以は、まさしく人間たちと数多くの仕方で交わることを識っているからにほかならない。こうして、ピュタゴラスも、童僕たちと議論するよう求められたときには、彼らに対しては童僕の言葉を用意したと言われている。女たちに対しては女たちに調和する〔言葉〕を、支配者たちに対しては支配者たち用の〔言葉〕を、壮丁たちに対しては壮丁たち用の〔言葉〕を。各人に益する知恵の仕方を見つけ出すことこそ、知恵のしるしである。これに反し、無法な者たちに対して言葉の単一の仕方(monotrovpoV)しか適用しないのは、無学(ajmaqiva)のしるしである。医術も、この術知の正しい使用の際には、事情は同じで、〔この術知は〕手当てされる者たちの多彩な症状に応じて、手当の多様な仕方(to; poluvtropon)を修得するするものである。こうして、策(trovpoV)とは、性格(h[qoV)の逆、非常に変化しやすいもの、定まらないものである。しかし、言葉の多くの仕方(polutropiva)、つまり、多彩な聴衆に対する言葉の多彩な使用法は、単一の仕方(monotropiva)となる。なぜなら、おのおののものに独自なものは、ひとつだから。ゆえに、おのおののものに調和するものも、言葉の多彩さを、ひとつのものに、つまり、おのおののものに益するものへと集束させるのである。ところが逆に、単相的なもの(monoeidovV)は、さまざまな聴衆に対しては不調和であるから、策に長けた者(poluvtropoV)を、多衆によって投げ捨てられたものとするのである。あたかも、彼らによって投げ捨てられた言葉のように。
"52a".1
PORPHYR. schol. ad Od. V, 211.
(きっと、あのかたに劣ることのないよう祈ります)。
アンティステネースは主張する。オデュッセウスは、知者だから、恋する者たちは多くの虚言をし、不可能事を約束するものだということを知っていたのだと。
"52b".1
PORPHYR. schol. ad Od. VII, 257.
(彼女〔カリュプソー〕がわたしに謂った。いつまでも不死・不老にしてあげよう、と)。
アンティステネースは主張する。恋する者たちは諸々の約束を偽ることを〔オデュッセウスは〕知っている。なぜなら、ゼウスの助けなくしてそれを為すことはできないからだ。
53.1
PORPHYR. schol. ad Od. IX, 106.
(キュクロープスども――増上慢で掟なき者ら――の土地に)。
アンティステネースは主張する。〔キュクロープスどものなかで〕ポリュペーモスのみが不正者である。というのも、ゼウスに対する本当の軽蔑者であるから。だから、残りの連中は義しい者たちである。だからこそ、彼らに大地はすべておのずから引き渡された。そして、これを耕さないことは義しい仕事なのである。
54.1
PORPHYR. schol. ad Od. IX, 525.
(大地を揺すぶる神〔ポセイドーン〕にしても、おまえの眼を癒すことはできないだろうから)。
オデュッセウスが、かくも無考えにポセイドーンを軽視して、「……できないだろうから」と云うのは何ゆえか? アンティステネースの主張では、癒し手は、ポセイドーンではなくて、アポッローンだということを知っているからだという。
55.1
PORPHYR. schol. ad Od. XI, 636.
(ネストールは老人ながら、労せずして持ちあげた)。
酒杯を持ちあげたのがネストールひとりだと作詩したのはなぜか? ……アンティステネースによれば、手に持った重さについて言っているのではなく、酩酊することなく、易々と酒を運んだことを言い表している。
56.1
ANON. sch. lips. ad Il. XV, 123.
(もしも、アテーネーが、神々一同のために戦々兢々となさらなかったら)
当然ながら、父神〔ゼウス〕を恐れ、反対してはならないことをすでに教育されてきていたので、将来のことを輝く眼の女神〔アテーネー〕は心配するのである。これにもとづいて、アンティステネースも主張する。知者が何かを為す場合は、あらゆる徳に照らして活動する、アテーナがアレースを3通りにいましめるように。
57.1
ANON. sch. ad Il. XXIII, 65.
(すると、たちまち、恐ろしいパトロクレースの魂が立ち現れた)
ここから、アンティステネースは、魂たちは、これをまとう身体と同形(oJmoschvmwn)だと主張している。
58.1
DIO PRUS. or. LIII, 5.
ゼーノーンは、ホメーロスの作品を何ひとつ非難することなく、〔ホメーロスは〕一部は思い(dovxa)にもとづき、一部は真理(ajlhvqeia)にもとづいて書いた、それは、反対に述べられていると思う人たちの間で、自分が自分に〔矛盾して〕争っているように見られないためである、と説明し、教えた。しかし、この言葉は、アンティステネースのもので、最初は、一部は思いにより、一部は真理によって、この詩人によって述べられているというものだった。しかし、後者はこれを完成することなく、他方は、細部にわたってそれぞれを明らかにした。
59.1
Sch. in ARISTOPH. thesmoph. 21.
(僭主たちは、知者たちと交わることで、知者となる) ソポクレースの『ロクリスのアイアス』に出てくる〔台詞〕……アンティステネースもプラトーンも、これはエウリピデースの〔台詞〕だと考えている。どうしてそう考えるのか、わたしは云うことができない。
60.1
PLUTARCH. quom. adul. poet. aud. deb. 33C.
ここで、欄外訂正も悪くない。クレアンテースもアンティステネースもこれを使ったが、後者は、アテーナイ人たちが観劇場で、「仲間にそうと思われなければ、何の恥ずかしいものか」と騒いでいるのをしげしげと見て、すぐさま返した、「恥は恥だ、思われようと、思われまいと」。
61.1
XENOPHON symp. III, 5s.
[5]「……いや、今度はあなたが」と彼(アンティステネース)は謂った、「言いたまえ、おお、ニケーラトス、どんな知識(ejpisthvmh)を自慢しているのか」
すると相手が云った。「父はわたしが善き男になるよう気遣って、ぼくがホメーロスの詩句すべてを学ぶよう強制しました。今も、イリアス全巻とオデュッセウスを暗唱して云うことができるでしょう」
[6]「あのことは」とアンティステネースが云った、「君に忘れられているね、吟唱詩人たちもみんなその詩句は知識しているってことが」
「いったいどうして」と彼が謂った、「忘れられていることがあろうか、ほとんど毎日彼らから聞いているのに」
「それじゃ承知しているかい」と彼が謂った、「吟唱詩人という阿呆の一種を」
「ゼウスにかけて、とんでもない」とニケーラトスが謂った、「ぼくにはちっともそうは思えない」
「明らかだからね」とソークラテースが謂った、「彼らが真意(uJponoiva)を知識していないということは。しかしあなたはステーシブロトスやアナクシマンドロスや他にも多くの詩人たちにたくさんの銀子を与えてのだから、[7]多くの価値あることは何もあなたに忘れられていないだろう。……」
62.1
XENOPHON symp. IV, 6.
[6]これに続いてニケーラトスが、「聞いてください」と謂った、「わたしからも、わたしといっしょになったら、あなたがたがより善い人になるということを。というのは、ご存じのとおり、最高の知者ホメーロスは、ありとあらゆる人事のほとんどすべてについて詩作しました。だから、あなたがたの中で、家政学なり民衆指導家なり将軍なり、あるいは、アッキレウスなりアイアスなりネストールなりオデュッセウスなりと似た者になりたいと望む人は、わたしを大事にすることです。わたしがそれらすべてを知識しているのですから」
「もしかして、王になることも」とアンティステネースが謂った、「君は知識しているのかい、彼はアガメムノーンを、善き王にして剛の槍使いと称揚しているのをわたしは承知しているから〔聞くのだが〕」
「ゼウスにかけて、もちろん」と彼が謂った、「わたしはね、……
63.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 13.
自分たち自身の難攻不落の想念によって、城壁をこしらえるべきである。
64.1
STOB. anthol. II, 31, 68.
善き人になろうとする人たちは、身体は鍛錬によって、魂は言葉〔議論〕によって、修練するべきである。
65.1
STOB. anthol. II, 2, 15.
反論する者は反論をやめるべきではなく、教えるべきなのだ。狂っている者を、たとえこちらが狂い返しても、これを治すことはできないのだから。
66.1
DIOG. L. VI, 103.
アンティステネースは主張した、とにかく、慎み深く(swvfrwn)なった者たちは、文字を学んではならない、それは、よそよそしい事柄で道を逸らされないためだと。
67.1
CHRYSIPPUS ap. PLUT. de Stoic. repugn. 1039E.
とはいえ、クリュシッポスの自分との戦い〔=自己矛盾〕を指摘せんとする人たちは、他の諸々の書物を繙くには及ばない。いや、〔今挙げた〕書物に限ってみても、時には、アンティステネースの「理性を手に入れるか、さもなければ〔首吊りの〕輪縄を手に入れるかすべきである」注5)ということを、称賛しつつ引用しているのである。
68.1
Gnom. vat. 3.
同じ人が謂った、無教育な者たちは、醒めてみる夢と。
69.1
DIOG. L. VI, 10.
次のも彼の学説であった。徳は教えられるものであることを証明しようとした。生まれのよい者と有徳な者とは同一人物であるということを〔証明しようとした〕。
70.1
DIOG. L. VI, 11.
徳は、幸福(eujdaimoniva)〔になる〕ために自足しており、ソークラテース的な強さ以外には何ものをもさらに必要としない。徳はまた諸々の行動のうちにあり、それ以上に言葉をも学問をも必要としない。
71.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 12.
徳は、奪い取られることのない武器である。数少ない善をもって、あらゆる悪と戦う方が、数多くの悪をもって、数少ない善と戦うよりも、まさっている。
72.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 12.
徳は、男のそれも、女のそれも、同じである。
73.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 12.
善きものらは美しく、悪しきものらは醜い。劣悪なものらは、すべて無縁のものとみなせ。
74.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 12.
義しい人をこそ、同族の者よりも重んじること。
75.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 5.
不死であることを望む者たちは、と彼は謂った、敬虔に、かつ、義しく生きねばならない。
76.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 12.
敵どもに心を傾注すべし。諸々の過ちを真っ先に感知するのは、彼らであるから。
77.1
PLUT. de cap. ex inim. util. 89B.
ここからして、正当にもアンティステネースはこう云った。自己救済しようとする者たちにとっては、真性の友か、あるいは、火のごとき敵が必要である。前者は、過ちを犯した者たちを戒めることによって、後者は悪罵することによって、〔過ちから〕そらせてくれるから。
78.1
ANTONIUS derm. XXXIII, 172.
過ちを犯す老人を戒めるな。古い樹を植えかえるのは難しいから。
79.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 12.
善は恋されるにあたいするものである。真面目な人たちは友である。胆力があり(eujyuvcoV)、かつ、義しい人たちを味方とすること。
80.1
DIOG. L. VI, 11.
知者は自足者である。他人のものはすべて、彼のものだからである。
81.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 12.
ディオクレースも次のように彼のことばを書きとめている。知者にとっては、奇異なものは何ひとつ、また窮することも、ない。
82.1
DIOG. L. VI, 5.
錆によって鉄が〔むしばまれる〕ように、物惜しみする者たちはその自分の性格によって、むしばまれる、と彼は言っていた。
83.1
ANTONIUS serm. XXXIII, 172.
悪人は、阿諛追従されると、より悪くなる。
"84a".1
HECATON ap. DIOG. L. VI, 4.
ヘカトーン注5)が『箴言集』の中で主張しているところでは、追従者の群れの中に落ちるよりは、カラスの群れの中に落ちる方がましであると〔アンティステネースは〕言っていたという。前者は屍体を、後者は生者を食うからというのである。
"84b".1
STOB. anthol. III, 14, 17.
アンティステネースは謂う、追従者の群れの中によりは、カラスの群れの中に落ちることを選ぶべきである。前者は死人の身体を、後者は生者の魂をそこなうからと。
85.1
DIOG. L. VI, 7.
聞き方の悪い者たちに、ひとが石を投げるときよりも辛抱するようにと〔アンティステネースは〕勧告していた。
86.1
Gnom. vat. 12.
同じ人が謂った、徳は寡黙だが、悪は、際限ないおしゃべりだと。
87.1
〔欠番〕
88.1
DIOCL. ap. DIOG. L. VI, 13.
知慮(frovnhsiV)は安全このうえない城壁である。倒壊することもなく、裏切られることもないから。
89.1
STOB. anthol. III, 14, 19.
アンティステネースが言った。同志は、善きものらが――ただし理性と知慮は別にして――すべてが同志にそなわりますようにと祈る、そのように、追従者たちも、自分の交わる相手に〔そなわりますようにと祈る〕。
90.1
EPIPH. adv. haeres. III, 26(Diels, Dox. p.591).
アンティステネースは……(fr. 122D)謂った、他人の悪を[あるいは、お互いの醜悪を]うらやんではならない。都市の城壁は、内部の裏切りに対して危ういが、魂の城壁は、揺るがず、破られることがない。
91.1
PHILO quod omn. prob. lib. p.869.
これらの点に注目して、雅やかさは担いがたいと、アンティステネースが云った。なぜなら、無知慮(ajfrosuvnh)は軽く運びやすいように、知慮(frovnhsiV)は。確乎不抜で、傾かず、揺るぎない重さを持っているからだと。
92.1
DIOG. L. VI, 6.
同心した兄弟といっしょに生きることは、どんな城壁よりも強固である。
93.1
STOB. anthol. III, 1, 28.
同心なき酒宴も、徳なき富も、快楽を有さず。
94.1
STOB. anthol. III, 10, 41.
王であれ、私人であれ、愛銭者にして善き人はひとりもいない。
95.1
DIOG. L. VI, 11.
不評判(ajdoxvia)は善であり、労苦(povnoV)に等しい。
96.1
Gnom. vat. 1.
アンティステネースは謂っていた。諸々の労苦は犬に似ていると。というのも、それらは馴染みのないものらに咬みつく。
"97a".1
CLEMENS ALEX. strom. II, 21, 130, 7.
再び、アンティステネースはといえば、謙譲(ajtufiva)を(全生涯の目的とはこれであると定めた)。
"97b".1
THEODORET. graec. aff. cur. XI, 8.
アンティステネースは、謙譲(ajtufiva)を、(究極の善と解した)。
98.1
DIOG. L. VI, 6.
難破しても、それをもって泳げるような、そういうものを旅の装備としなければならない、と彼は謂った。
99.1
PLUT. de Alex. magni fort. 336A.
アンティステネースは正当にも言った。敵どもには、勇気を除いて、あらゆる善がそなわるように祈るべきである。なぜなら、こういうふうにすれば、〔諸々の善は、これを〕所有する者たちのものではなく、〔これを〕制する者たちのものになるからである。
100.1
ARISTOT. polit. III, 1284a15.
ここからして明らかなことは、立法もまた、生まれも能力も等しい人々(i[soi)に関与するのが必然であるが、しかし、そのような人々に対しては、法は存しないということである。なぜなら、彼ら自身が法であるのだから。たしかに、彼らに対して立法しようと試みるのは、滑稽であろう。というのは、おそらくは、ウサギたちが民会演説をして、万人が平等(to; i[son)を持つことを要求したとき、ライオンたちが〔言った〕注6)と、アンティステネースが謂ったのと同じことを言うことになろうから。
101.1
DIOG. L. VI, 11.
知者が市民生活をするのは、現行の法習に従ってではなく、徳の〔法習〕に従ってである。
102
〔欠番〕
103.1
DIOG. L. VI, 5.
あるとき、彼が謂った。諸々の都市が滅びるのは、劣悪な者たちを真面目な者たちから区別できなくなったときだ。
104.1
DIOG. L. VI, 6.
彼が謂った、麦からは毒麦を取り除き、戦争では役立たずを〔取り除く〕のに、国制からは邪なものらを除名しないとしたら、奇妙なことであると。
105.1
MAXIMUS serm. 9, 561.
気違いに刃物を与え、ならず者に力(duvnamiV)を〔与える〕のは危険である。
106.1
PHILOD. rhetor. p.223, 12ss.(Sudhaus).
いったい、どうしてなのか? ソークラテースも、一対一なら、和解させる方法を知っていながら、一対多では、どうやら、充分でないらしいのは? アンティステネースも、ゼーノーンも、クレアンテースも、クリュシッポスも、他の誰かも、そういった進歩を手に入れていないというのは?
107.1
XENOPHON symp. IV, 56_64.
[56]「……客引きの仕事がどんなものか、先ず同意をみることにしよう。そのうえで、わたしがどれだけのことを質問しようと、うんざりせずに答えてくれたまえ、そうすれば、どれだけのことにわれわれが一致同意したか承知できるでしょう。あなたがたにもそう思われますか?」と謂った。
「たしかに(Pavnu me;n ou:n)」と一座の人たちが謂った。ところが、いったん『たしかに(Pavnu me;n ou:n)』と云うと、以降も全員がそう答えることになってしまったのである。
[57]「それでは、善き」と彼が謂った、「客引きの仕事とは、女であれ男であれ、これを取り持つことによって、いっしょになる相手を満足させるものであることを示すことだとあなたがたに思われるのではないか?」
[58]「たしかに(Pavnu me;n ou:n)」とみなが謂った。
「では、満足を得るためのひとつの手段はといえば、毛髪にせよ衣服にせよ、格好のいいのを持つことによってではないか?」
「たしかに(Pavnu me;n ou:n)」とみなが謂った。
「では、次のこともわれわれは知識しているのではないか、つまり、人間にとっては、ある人たちを同じ眼で友愛的にも敵対的にも視ることができると」
「たしかに(Pavnu me;n ou:n)」
「では、どうか? 同じ声で、謙虚にでも堂々とでも発話することができるのか?」
「たしかに(Pavnu me;n ou:n)」 「では、どうか? 言葉は、敵意を引き起こすようなものがあり、友愛に導くようなものがあるのではないか?」
「たしかに(Pavnu me;n ou:n)」
[59]「では、こういったもののうち、満足するのに役に立つものらを、善き客引きは教えることができるのではないか?」
「たしかに(Pavnu me;n ou:n)」
「より善いのは」と彼が謂った、「一人のひとに満足してもらえる人たちをつくるひとの方であろうか、多くの人たちにも〔満足してもらえる人たちをつくる〕人よりも?」
[60]しかし、この点では、返事〔の仕方〕が分かれた、つまり、ある人たちは「明らかに、最も多くの人たちに〔満足してもらえる人たちをつくる人の方がより善い〕」と云い、ある人たちは「たしかに(Pavnu me;n ou:n)」と〔云った〕。
しかし、彼〔ソークラテース〕は、これも同意されたと云ったうえで、こう謂った。「もしも、国家全体にとっても満足すべき人たちであることを立証できる人がいたとしたら、この人こそ完璧に善き客引きなのではないか?」
「はっきりしていますね、ゼウスにかけて」と全員が云った。
「それでは、世話する相手をそういう人たちに仕立てあげることのできる人がいれば、その術知を自慢するのは義しいであろうし、多額の報酬を得るのも義しいのではないか?」
[61]この点についても全員が一致同意すると、「とにかく、そういう人だと」と彼は謂った、「わたしには思われる、このアンティステネースは」
するとアンティステネースが、「わたしに」と謂った、「譲り渡してしまうんですか、おお、ソークラテース、その術知を?」
「ゼウスにかけて、そのとおり」と彼が謂った、「これに付随する〔術知〕も、あなたがすっかり仕上げてしまったのを眼にするから」
「その〔術知〕とは何ですか?」
「取り持ち術を」
[62]すると相手はひどく不機嫌になって問いただした「いったい、どうして、わたしのことをあなたが承知しているのですか、〔わたしが〕そんなことをしでかしたなどと?」
「承知しているとも」と彼が謂った、「あなたは、このカッリアスを知者のプロディコスに取り持った、この人〔カッリアス〕が愛知を恋慕し、あの人〔プロディコス〕が金銭を必要としているのを見たときにね。また、承知しているよ、あなたがエーリス人ヒッピアスに取り持ったのを、〔そうして〕彼からこの人〔カッリアス〕は記憶術をも学んだ。おかげでますます恋情的な人になってしまった、美しいものを見ると何でもけっして忘れられなくなったせいで。[63]さらに、最近もまた、たしか、ヘーラクレイア人の客人〔画家ゼウクシス〕をわたしの前でほめたたえて、わたしが彼に会いたがるようにさせたうえで、わたしに彼を紹介してくれた。とはいえ、あなたに感謝さえしているのだ。彼はきわめて善美な人にわたしに思えるから。さらに、プレイウウス人アイスキュロスをわたしの前で、また、わたしをあの人の前で、ほめたたえて、あなたの言葉のおかげで、わたしたちは恋におちて、お互いに求め合って追いかけっこをするほどのはめに陥らせたのではなかったか? [64]だから、あなたがこういうことをやれる人なのを見て、善き客引きだとわたしはみなしている。というのは、お互いに対して有益な人たちであると認識することができて、この人たちをお互いに求め合うようにさせることが可能な人、この人こそ諸都市をも友邦となし、ふさわしい結婚も成立させることができ、諸都市にとっても愛友たちにとっても同盟者たちにとっても、所有するに大いに価値ある存在だとわたしに思われるのである。ところが君ときたら、君は善き客引きだとわたしが謂ったのを、悪口を言われたのを聞いたかのように、怒っているのだ」
「いや、ゼウスにかけて」と彼が謂った、「今は〔怒って〕いません。なぜなら、そんなことができるとしたら、わたしは魂を富ですっかり圧しひしがれてしまうことになるでしょうから」
"108a".1
DIOG. L. VI, 3.
〔アンティステネースは〕常々言っていた。快楽にふけるよりも、気違いになりたいと。
"108b".1
SEXTUS EMPIR. adv. math. XI, 73.
例えば快楽を、エピクゥロスは善だと主張する。しかし彼〔アンティステネース〕は云う、「悪を快とするよりは、気違いになりたい」。
"108c".1
AUL. GELL. noct. att. IX, 5, 3.
ソクラテス学徒アンティステネスは、(快楽を)最高の悪だと言った……というのは、彼には次の言葉があるからである。「快楽にふけるより、気違いになった方がましだ」。
"108d".1
CLEMENS ALEX. strom. II, 20, 121, 1.
アンティステネースも、快楽にふけるよりは気違いになることを選ぶ。
"108e".1
EUSEB. praep. evang. XV, 13, 7.
とにかく、アンティステネースはソークラテースの聴聞者となった。知慮(frovnhma)において一種ヘーラクレイトス的な人物で、快楽にふけるよりは気違いになった方がましであると謂っていた。それゆえまた、知己たちに対して、快楽のために指を伸ばしてはならないと勧告していた。
"108f".1
THEODORET. graec. aff. cur. XII, 47.
犬儒派のアンティステネース(この人もソークラテース学徒である)も、快楽にふけるよりも気違いになった方がましであると云っていた。だからこそ、知己たちにも、快楽のためにけっして指を伸ばしてはならないと勧めている。
"109a".1
CLEMENS ALEX. strom. II, 20, 107, 2.
わたしとしては、アンティステネースを歓迎したい。「アプロディーテーを」と彼は言っている、「もしつかまえたら、射殺してやりたい。わたしたちの美しく善い女たちを数多堕落させたから」。そして、恋は自然の悪と彼は主張する。この〔悪〕に負けて、悪鬼たちは神を病と呼ぶ。すなわち、これによって彼の示しているのは、より無学な連中は、快楽の無知に負かされるということである。この〔快楽〕に近寄ってはならない。たとえ神の言いつけであっても、すなわち、子作りの必要から神から与えられたにしても。
"109b".1
THEODORET. graec. aff. cur. III, 53.
さて、ソークラテース学徒のアンティステネースは、おそらく、ディオゲネースの同志にして師匠であろうが、慎み(swfrosuvnh)を最も重視し、快楽を嫌悪して、アプロディーテーについて次のように言明して言う。「わたしとしては、アプロディーテーを、もしつかまえたら、射殺してやりたい。わたしたちの美にして善なる女たちを数多堕落させたから」。それどころか、恋を自然の悪と呼び、この〔悪〕に悪鬼たちは負けて、神を病と呼ぶ。まさにこういう理由で、快楽にふけるよりも気違いになることを彼は選ぶのである。
110.1
ATHEN. XII, 513A.
アンティステネースは、快楽は善であると主張したものの、後悔せぬ〔快楽〕は、と付け加えた。
"111a-b"
〔欠番〕
"111c".1
DIOG. L. IX, 101.
同じものが、あるひとによっては善と思われる。例えば、快楽が、エピクゥロスによっては〔善と思われる〕ように。しかし、あるひとによっては、アンティステネースによって〔のように〕、悪と〔思われる〕のである。
"112a".1
STOB. anthol. III, 6, 43.
アンティステネースは言った。門を入って来ない快楽は、当然、再び門を出て行くことはない。だから、切り取るなり狂うなりすることが必要であろう。
"112b".1
STOB. anthol. III, 18, 26.
アンティステネースの主張では、門を入ってくるのでない諸々の享楽は、阻止されるなり、狂うなり、完全に損なわれるかなりしなければなるまい。前もってそなわった飽くなさのために、小さな束の間の快楽に対して、ひとは悪しき変化を返済するのだから。
113.1
STOB. anthol. III, 29, 65.
快楽は、労苦をともなうのを追求すべきである。労苦の前にあるのではなくて。
114.1
DIOG. L. VI, 3.
感謝を寄せるであろうような、そういう女たちと近づきになるべきである。
115.1
DIOG. L. VI, 11.
(知者も)結婚するが、それは子づくりのため、だから、良稟の女たちといっしょになる。恋もする。何々に恋すべきか知っているのは、知者のみだからだからである。
116.1
CLEM. homil. V, 18, 147.
ソークラテース学徒アンティステネースも、いわゆる姦淫?(moiceiva)を払いのけるべきでない〔???〕ことについて書いている。
117.1
XENOPHON symp. III, 8.
「あなたは何だったかな」と彼が云った、「何を自慢するのですか、おお、アンティステネース」
「富を」と彼が謂った。
そこでヘルモゲネースが、彼にたくさん銀子があるのかと尋ねた。相手は1オボロスもないと誓言した。
「でなきゃ、多くの土地をもっているのか?」
「おそらく」と彼が謂った、「このアウトリュコス〔が全格闘技をするとき〕に振りかけるに充分な〔広さには〕なるでしょう」
「あなたからも聞くべきだろう。……
IV, 34_44.
「それでは、いざ」とソークラテースが謂った、「今度はあなたがわたしたちに言ってください、おお、アンティステネース、そんなにわずかしか持っていないのに、どうして富裕を自慢するのかを」
「それは、確信しているからなんですよ、諸君、人間たちが富や貧しさを持っているのは家の中ではなく、魂の中だと。[35]というのは、わたしは多くの私人たちを眼にするのです、――彼らはすこぶる多くの金銭を持っているのに、もっと多くを所有するためなら、どんな労苦、どんな危険でも引き受けようとするほど、それほどまでに貧乏だと考えているのです。また、兄弟をも知っています、――彼らは平等に相続しながら、その一方は支出に充分な、いやありあまるほどのものを持っているが、もう一方は万事に事欠いている。[36]さらにまた、何人かの僭主たちのことを察知しています、――彼らは財貨に飢えているあまりに、最低の窮民よりもはるかに恐るべきことをしでかす。というのは、なるほど、欠乏が原因なら、ある者たちは盗みをし、ある者たちは壁破りをし、ある者たちは人足奴隷の売買をする。[37]ところが、僭主たちときたら、家族皆殺しにしたり、集団殺戮したり、財貨のために国全体を奴隷化することもしばしばというような連中がいるからである。ところで、こういう連中を、わたしとしてはそのあまりの難病をおおいに憐れみさえする。というのは、多くのものを保有し多くのものを食べてもちっとも満ち足りることがない人のように、同じような情態を被っているようにわたしには思えるからだ。逆にわたしの方は、あまりに多くのものを持っているので、それを見つけるのが[わたしは]自分でもやっとというくらいである。それでもやはり、わたしには、食事をするにしても飢えに見舞われない程度、飲むにも渇かない程度、身にまとうにも、屋外であっても、最も富裕なこのカッリアスと同じくらい寒くないぐらい余裕がある。[38]まして屋内にいるときには、壁はすこぶる暖かい上衣にわたしには思えるし、屋根はすこぶる厚い外套に、まして寝床はあまりに満足なのを持っているので、起床するのも大仕事なほど。また、わたしの身体が性愛を必要とするときも、わたしにはあるがままで満足なので、わたしに惚れてくれるご婦人方には、他の人は誰も近づこうとしないので、ぼくがお近づきになれる。[39]しかも、こういったことがすべてわたしにはあまりに快適に思えるので、これらのうちのいずれかをやって、もっと快適になりますようにと祈るのではなく、より少なくなりますようにと〔祈るほどだ〕。こういうふうに、これらのうちのいくつかは、好都合であるというより快適であるようにわたしには思える。[40]しかし、わたしの富の中で最も価値ある所有物は、次のものだと計算している、――すなわち、わたしから誰かが今あるものさえ奪い取ったとしても、わたしに満足できる糧をもたらせないような、それほどまでにつまらぬ仕事は何もないとわたしが見ているということだ。[41]というのも、快適な目を見たいと思うとき、高価なものは市場から購入するのではなく(高くつくから)、魂から分配する。必要を待ってこれを供給する場合と、今もこのタソス産の葡萄酒に巡りあって、喉が渇いているわけでもないのにこれを飲むように、何か高価なものを用いる場合とでは、快楽の点で格段の相違がある。[42]いやそれどころか、金儲け(polucremativa)を心がける人たちよりは、倹約(eujtevleia)を心がける人たちこそはるかに義しいというのは当然だ。なぜなら、今あるもので大いに満足している人たちにとっては、他人のものなどちっとも欲しくないからである。[43]また、こういう富が自由人をももたらすことに心づくべきである。というのは、このソークラテースも――その富をわたしが手に入れたのは、この人からなのだが――、数や量によってわたしを援助したことはなく、運びうるだけのもの、それをわたしに手渡してくれた。わたしも誰に対しても物惜しみせず、愛友たちすべてに気前の良さを示しもし、望む者には、わたしの魂の内なる富を分け与えもしているのである。[44]かてて加えて、このうえなく優雅な所有物として、わたしにはいつも暇(scolhv)があるのはごらんのとおり、そのおかげで、観るにあたいするものを観ることも、聞くにあたいするものを聞くことも、最も高価だとわたしのみなすこと、つまり、ソークラテースと暇つぶししつつ、ひねもす過ごすこともできるのだ。そしてこの人も、多額の金子を勘定(支払い)できる人たちを賛嘆することなく、自分のお気に入りがいれば、この人たちといっしょに過ごすのだ」
[45]さて、この人が云ったのは以上のようなことであった。
118.1
ARRIAN. Epict. diss. III, 24, 67.
このようにして、自由(ejleuqeriva)が生じる。それゆえ彼(ディオゲネース)はこう言ったのである。「アンティステネースがわたしを自由にしてくれて以来、もはやわたしが奴隷ではない」。どうやって自由にしたのか? 彼の言うところを聞きなさい。「わたしのものと、わたしのでないものとをわたしに教えたのだ。所有(kth;siV)は、わたしのものではない。同族、家人、友たち、世評、馴染み、場所、暮らし、そういったすべてのものは、他人のものなのだから」。
それでは、あなたのものとは何ですか?
「まぼろしの使用(crh:siV)だよ。これをわたしに教えてくれた。わたしは妨げられないもの、強制されないものを持っていると。誰ひとりとして邪魔することができず、誰ひとりとして、わたしが好むと異なったふうに使用することを強いることはできないのだよ」。
119.1
STOB. anthol. III, 8, 14.
他人任せにするひとは、奴隷であって、自分自身を忘れているのだ。
120.1
XENOPHON symp. IV, 1_5.
[1]これに続いて、ソークラテースが云った。
「それでは、われわれに残されているのは、めいめいが保有することが、多くの価値を有するということを証明することであろう」
「聞いてください」とカッリアスが謂った、「まず、わたしから。というのは、わたしはあなたがたが、正義とは何であるかに行き詰まっておられるのを耳にしていた、その時期から人々を義しい者にしているのですから」
するとソークラテースが、「どういうふうにして、おお、あな畏れ多の御仁よ」と謂った。
「ゼウスにかけて、銀子を与えることで」
[2]するとアンティステネースが立ち上がって、大いに論駁の構えをみせながら、彼を問いただした。
「しかし人間どもが、おお、カッリアス、義しさを有するのは、魂の中にか、財布の中にか、どちらですか?」
「魂の中に」と彼が謂った。
「そうすると、あなたは財布の中に銀子を与えて、魂をより義しいものとするのですか?」
「大いに」
「どうして?」
「つまり、なにがしかの値で買って必需品を入手できる手だてがあると承知しているから、悪行をする危険を冒そうとしないってことです」
[3]「もしかして、あなたに」と彼が謂った、「彼らはもらったものを返すのですか?」
「ゼウスにかけて」と彼が謂った、「返すもんか」
「では、どうか、銀子の代わりに感謝を」
「ゼウスにかけて」と彼が謂った、「それも〔返さ〕ないどころか、もらう前より敵意を持つ者さえ何人かいる」
「びっくり仰天ですね」とアンティステネースが謂った、と同時に、相手を論駁しようとじっと見て、「他の人たちに対しては、彼らを義しい人にすることができるが、あなた自身に対しては、できないとすれば」
[4]「いったい何でそれが」とカッリアスが謂った、「驚くことなんですか? 大工や建築家でも、たいていは、他の多くの人たちのために家を造るけれど、自分たち自身のためにはつくることができないで、借家住まいしているのを、あなたは眼にするのではありませんか? さぁ、とにかく手を上げたまえ、おお、学者先生(sophistes)、論駁されたんだから」
[5]「ゼウスにかけて」とソークラテースが謂った、「とにかく彼には手を上げてもらおう。たしかに、占い師たちも、他の人たちの将来は予言できても、自分たちの行く末は予見できないと言われているから」
121.1
PHOT. lexicon「ourodoche〔小便受け〕」の項。
"oujrodovkh"とは、溲瓶(ajmivV)のことだと、クセノポーン。小便用壺(bivkoV)のことだと、アンティステネース。
2005.05.28. 訳了。 |