アンティステネース
CASTIGLIONE, Giovanni Benedetto (b. 1609, Genova, d. 1664, Mantova) The Fable of Diogenes Oil on canvas, 97 x 145 cm Museo del Prado, Madrid [略伝] シノーペーの両替商であった父親とともに、「通貨の価値切り下げ(paracaravsswn to; novmisma)」(この一句は有効な隠喩でありうる)罪で告発され、362年以降、何度か亡命し、人生の残りはアテーナイとコリントスで過ごした。(海賊に捕まったとか、デルポイの神託をうかがったとか、ソークラテースの信奉者アンティステネースの弟子であったとかは、架空話であろう)。彼は、以下のようなさまざまな、主としてギリシア的諸要素から、特徴的で独創的な生き方を展開した。すなわち、知恵は思想の問題であるよりは行為の問題であるという(ある類型の聖者や賢者によって信奉された)信念。法/習慣よりは自然に従って生きるという(前5世紀のさまざまなソフィストたち、原初主義者たち、アンティステネースによって進められた)原理。当時の都市国家に対する幻滅によって先鋭化し、普及した理想的社会ないし体制という伝説。実践的倫理以外の哲学の諸要素に対するソークラテース的拒否。学園よりは市場(ajgorav)におけるソークラテースの哲学の探究。反知性的伝統。(オデュッセウス、ヘーラクレース、スパルタ人たちによって、また、ある程度まではソークラテースによって、さまざまに表現された)徳が必要とする体力的強健さという伝統。受難の英雄や放浪者(オデュッセウス、ヘーラクレース、さまざまな悲劇の登場人物)の具現。(文学と実人生との両方における)物乞いの伝統。(さまざまな知者、聖者、労働者によって代表される)禁欲主義と貧しさの人生。転向者に幸福あるいは救いを約束する知者ないし聖者の伝説。そして、ユーモアのあるさまざまな伝説(冗談を言う人の実践的、言語的なユーモア;古喜劇の直言とぞんざいさ;ソークラテースの真面目で滑稽な機知)。 ディオゲネースが求めたのは、原初の人間、動物、神々の「自然な」生にできるかぎり密着した生であった。これが必然的に伴うのは、最低限の物質的所有(粗末な上着、身体の支えと保護に役立つ杖、食べ物を入れる頭陀袋)と、最低限の食べ物(土地のあがりと物乞いとによって得られる)。あらゆる自然的職分を公然と行うこと。身体的忍耐の訓練と、自然の状態と一致した放浪生活。自由、自足、幸福、そして徳がつきしたがうと想像された。それはまた、市民的人生と異なるのみならず、単に無意味であるのではなく、理想的生にとって有害であるとして、その完全な拒否、教育と文化の諸形式の完全な拒否を必然的に伴うものであった。それゆえ、ディオゲネースの攻撃目標は、慣習、結婚、家族、政治、都市、あらゆる社会的、性的、民族的区別、世間的名声、富、権力、権威、文学、音楽、そしてあらゆる知的思索のあらゆる形式に及んだ。このような攻撃は、隠喩的に「通貨の価値切り下げ」の義務として犬儒者に課せられた。したがって、cynicにこめられた現代の含意〔皮肉屋〕は誤った印象を与える。実際、人道的な態度はディオゲネースに現れる(例えば、性的自由と平等の唱導は、家族の否定から必然的に派生したのである)。 ディオゲネースは自足を主張したにもかかわらず、他の人たちを自分の法外な振る舞いに転向させようとし(それは自然な生を逸脱するものであった)、直接的な諫止によって、手ごわい機知と弁論の技能というあらゆる手を使い、また、作品を書いた。古代・現代の疑いにもかかわらず、確かなことは、ディオゲネースは『国制(Politeiva)』(Diog. Laert. 6. 72と、ピロデーモス『ストア派について』から再構成可能である)と、幾編かの悲劇の中で、自分の見解を説明しているということである。これらの書き物は、哲学的真理の実践的演示と、文学の形式的な否定の観念を妥協させるものであり、型にはまった哲学者たちとの実際の討論を意味していない。ディオゲネースは、言葉の上でプラトーンと口論し、プラトーンの哲学をばかげているとしりぞけた。ディオゲネースの『国制』は、犬儒の立場の真面目な声明であるとはいえ、「真面目な」哲学者たちの見せかけのパロディーであった。 ディオゲネースの宣伝的活動は、彼の積極性を時として不明瞭にさせるもの 犬儒派と非犬儒派との共通の人道性の認識 を必然的に伴った。人間愛(filavqrwpiva)は、犬儒哲学に不可欠であり、ディオゲネースの世界市民(kosmopolivthV)という上品な観念(世界は究極的に一であり、自然的、動物的な世界、人類、神々はすべて本来備わっているその部分にすぎず、という信念)にとって本質的である。 ディオゲネースに対する古代と現代の反動は、彼の機知に対する評価から、その高潔さに対する賛嘆、哲学的意義の否定、破廉恥に対する反感、社会的政治的に慣習的な価値に対して彼が見せかける脅迫に対する嫌悪、彼を尊敬すべき者にしようとする心得違いの試みまで切れ目がない。しかしながら、哲学の禁欲的な歴史の中に詳説される歪曲があろうと、大いなる伝説の中にディオゲネースを位置づけることは正しいのである。プラトーンさえ、彼のことを「狂ったソークラテース(SwkravthV mainovmenoV)」と称したとき(Diog. Laert. 6. 54)、半ば容認したように。 (OCD, J. L. Mo.) |