シノーペーのディオゲネース
犬儒派作品集成
オネーシクリトス
〔盛時 330 B.C.〕
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[略伝]
オネーシクリトス(=OnhsivkritoV)(c. 360-c. 290 BC)
〔コス島の〕アステュパライアの出身。シノーペーのディオゲネースの弟子。アレクサンドロス大王の操舵手。前325/4年の航海で、ネアルコス〔大王の提督。前320年代活躍〕の副官をつとめたが、鋭い意見の対立があったことが記録されている〔アッリアノス『東征記』7_20_9、『インド誌』32_9 ff.〕。
オネーシクリトスは後にアレクサンドロス大王を讃美する文章を書いた(虚構であることを否定している)が、主意はクセノポーンの『キュロスの教育』を手本としたものである。伝存している引用は、インド誌、とりわけバラモンの哲学や、平等主義的な理想郷として描いたムシカヌス王国に集中している。
とにかく、彼はタプロバネー〔つまりスリランカ(セイロン)〕の詳細を伝えた最初の著者であり、彼の南太平洋の記述は、ネアルコスのそれと重なり、おそらくは、ネアルコスに霊感を与えた。
FGrH 134;
T. S. Brown, Onesicritus (1949);
Pearson, Lost Histories of Alexander, ch. 4.
(OCD, A.B.B.)
ディオゲネース・ライエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第6巻4章「オネーシクリトス伝」
[底本]
Jacoby, F., Die Fragmente der griechischen Historiker(F GR Hist), Zweiter Teil B, Berlin 1929.
※翻訳に際しては、以下の邦訳を利用させてもらった。
ストラボーン/飯尾都人訳『ギリシア・ローマ世界地誌』(龍渓書舎、1994.7.)
プリニウス/中野定雄訳『プリニウスの博物誌』(雄山閣)
アッリアノス/大牟田章訳『アレクサンドロス大王東征記/付 インド誌』(岩波文庫、2001.6.)
プルタルコス/村川堅太郎訳「アレクサンドロス伝」(世界古典文学全集23『プルタルコス』筑摩書房、昭和41年10月)
ディオゲネス・ライエルティオス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝(中)』(岩波文庫、1989.9.)
ルゥキアーノス/山田潤二訳「歴史は如何に記述すべきか」(『神々の対話』岩波文庫、1953.6.所収)
生涯と著作(Testimonia)
T1
DIOG. LAERT. VI 84:
オネーシクリトス、この人をある人たちはアイギナ人だと〔謂っている〕が、マグネシア人デーメートリオスはアステュパライア人だと謂う。この人もまたディオゲネースの弟子たちのうちの著名な一人であった。ところで、彼の経歴にはクセノポーンのそれと似たものがあったように思われる。というのは、後者はキュロスの遠征に加わったが、前者はアレクサンドロス〔の遠征に参加した〕からである。また、後者は『キュロスの教育』なる書物を著したが、前者はアレクサンドロスはどのように教育されたについて書いた。さらに、前者はキュロスを讃える賛辞をつくったが、後者はアレクサンドロスに対する頌詞をつくった。そして文体の上でも、両者はほぼ似通っているが、ただし〔オネーシクリトスのものは、クセノポーンのものを〕真似たものであるだけに、手本にしたものと比べると劣っている。
T2
STRABON XV 1, 65(=F 17 p.729, 13):
ディオゲネース――自分もこの人の聴講生だった。T5a 参照。
T3
DIOG. LAERT. VI 75-76:
また、この人の行なう説得には一種驚嘆すべきものがあり、言論でもって、誰であろうとすぺての人をやすやすと虜にすることができたのである。例えば、言われているところでは、アイギナ人のオネーシクリトスとかいう人は、二人の息子のうちの一方のアンドロステネースをアテナイに遊学させたのだが、この息子はディオゲネースの弟子になって、その地にとどまってしまった。そこで父親は、(様子をさぐらせるために)もう一方の息子をも――この方が年上で、先に述べた〔73節〕ピリスコスであるが――彼のところへ送ったところ、このビリスコスもまた同じょうに引きとめられてしまった。[76] それで遂に三度目は、父親自身が出かけてきたのであるが、この父もまた同様に、息子たちと一緒になって哲学に励むことになってしまったということである。ディオゲネースの言論には、何かこのような魔力があったのである。
T4
ARRIAN. Ind. 18, 9(=Nearch. 133 F 1):
アレクサンドロスみずからが坐乗する船の舵取り役をつとめることになったのはアステュパライア〔島〕出身のオネーシクリトス。T5-6; F10; 18; 27参照。
T5
a) PLUT. De fort. Alex. I 10 p.331 E:
犬儒ディオゲネースの弟子オネーシクリトスを、操舵手たちの長に任命したことは、多くの歴史家たちによって記録されている。
b) PLUT. Alex 66:
艦船には、インド地方を右手に見ながら周航するよう命じた。指揮官にはネアルコス、操舵長にはオネーシクリトスを指名して。
c) STRABON XV 2, 4:
また、水軍を、ネアルコスと操舵長オネーシクリトスとに任せて……T10; F10; 13; 27-28; CURT. IX 10, 3; X 1, 10参照。
T6
ARRIAN. Anab. VII 5, 6:
〔スサにおいて、アレクサンドロスはネアルコスその他に論功行賞を行った(133 T9〕これらに次いでは〔インドス川下りで〕王の坐乗船の舵取り役をつとめたオネーシクリトスに冠を授けた。以上に加えてヘーパイスティオーンその他の側近護衛官たちにもまた、それぞれ論功行賞をおこなったのである。
T7
LUKIAN. Quom. hist. conscr. 40:
もし目の前のことに奉仕する人があったら、彼は当然阿諛追従の徒と考えられるだろう。歴史は昔から……そういった人たちを避けてきたのだ……。例えば世人が語るアレクサンドロスの話がよい例である。彼は謂った、「オネーシクリトスよ、余は死後少しの間生き返ってみたい。そのとき人々がこの本を読んで何というか知りたいのだ。もし現在彼らがこれを読んで称讃し歓迎しても怪しむには及ばない。なぜなら彼らの一人ひとりがこの小さからぬ一種の餌で、余の好意を獲得しようと思っているのだから。
T8
PLUT. Alex. 46:
(F1) ずっと後になって、すでに王となっていたリュシマコスに、オネーシクリトスが自分の本の第4巻で、アマゾーンの女王について書いてあるところ読んで聞かせたとき、リュシマコスは静かに笑って、「その時わしはどこにいたのか」と言ったと伝えられている。
T9
a) [LUKIAN.] Macrob. 14(=F 36):
アレクサンドロスの歴史を著したオネーシクリトス。
b) ARRIAN. Anab. VI 2, 3(=F 27):
アレクサンドロスについて書きとめた記録の中で。F39参照。
T10
STRABON XV 1, 28(=F16):
オネーシクリトス、この人は、アレクサンドロスの操舵長どころか、驚異譚の操舵長と呼んだ方がよいという人がいるかもしれない。というのは、アレクサンドロス麾下の者たちは誰しもが、真実よりは驚くべきことの方を受け入れがちだったが、この人物はあれほど多くの連中の誰にもまして、途方もない話が好きだったように思われる。ところが、〔この人は〕信頼に足ること、言及に値することをいくつか語っているから、〔この人を〕信用できないからといって、これらの話を看過すべきではない。
T11
同上、II 1, 9:
ところが、インド地方について著作した人になると、たいていの場合みなが虚言者になってしまい、デーイマコス(III)にいたってはとりわけひどい。メガステネース(III)の言うのは第二にひどい。オネーシクリトス、ネアルコス(133 T14)、そのほかこの種の人々になると、その説明もすでにたどたどしい……。だが、パトロクレース(V)にはこのような経歴はほとんどなく、他の証人たち――これを用いたのはエラトステネース(V)だが――も、信用が置けないわけではない。
T12
GELLIUS IX 4, 1-3:
T13
a) PLIN. NH I 2:
……(s. 75-76)どこで、いつ、影がなくなるのか。出典、……オネーシクリトス(183章以下=F9-10)、エラトステネース(185章)……
b) 同上、I 6:
……位置、種族、……出典、……ユバ王(96章)……オネーシクリトス(81章;96章;109章;124章=F13; 28-30)、ネアルコス、メガステネース、ディオグネートス……
c) 同上、I 7:
異様な身体の種族……出典……メガステネース(23章;25章;29章)、クテーシアス(23章;28章;207章)、タウローン(24章)、エウドクソス(24章)、オネーシクリトス(28章=F11)、クレイタルコス(29章)……
d) 同上、I 10:
鳥の性質……出典……ユバ王(126章)、……ニカンドロス、オネーシクリトス、オユラルコス(207章)、ヘシオドス(208章)。
e) 同上、I 12. 13(樹木の性質:外国の樹木):
……出典……クレイタルコス、アナクシメネス、ドゥリス、ネアルコス、オネーシクリトス(XII 34=F3)、ポリュクレイトス……
f) 同上、I 14. 15:
……果樹……出典……テミソンの『医薬について』、オネーシクリトス(XV 68=F4)、ユバ王。
断片集(Fragmenta)
『アレクサンドロスはいかにして教育されたか』
F1
PLUT. Alex. 46:
ここ〔スキュタイ〕で彼〔アレクサンドロス〕のもとにアマゾーンの女王が会いに来たと多くの人々が言っている。その中には、クレイタルコス(137 F 15-16)あり、ポリュクレイトス(128 F8)あり、オネーシクリトスあり、アンティゲネース(141 F1)あり、イストロス(III)がいる。しかし、アリストブゥロス(139 F21)、接待役カレース(125 F12)、プトレマイオス(138 F28)、アンティクレイデース(140 F12)、テーバイ人ピローン(III)、テアンゲレー人ピリッポス(III)、かてて加えて、エレトリアのヘカタイオス(VI)、カルキスのピリッポス(VI)、サモスのドゥリス(76 F46)は、これは作り事だと謂っている。アレクサンドロス自身も後者の人たちの証人に立っているように思われる。というのは、彼はアンティパトロス宛ての手紙であらゆることを正確に書いているが、スキュタイ王がその娘を彼の妻として与えようとしたとは書いているが、アマゾーンの女王については何も書いていないからである。〔T8に続く〕。
書名のない断片集
F2
PLUT. Alex. 15:
この〔アジア遠征軍〕に対する兵糧の準備として、彼〔アレクサンドロス〕は70タラントン以上は持っていなかったとアリストブゥロス(139 F4)は記し、ドゥリス(76 F40)は、30日分の食糧しかなかったと、オネーシクリトスは、そのうえ200タラントンの借金があったと記している。――De Alex. fort. I 3 p.327D.
F3
PLIN. NH XII 34:
オネーシクリトスの報告によると、ヒュルカニアの谷間にオックスの樹というイチジクに似た樹があって、それは毎朝2時間密をしたたらすという。
F4
同上、XV 68:
オネーシクリトスの報告によると、ヒュルカニアのイチジクはわが国のものよりも甘く、樹はもっと多産的で、たった1本の樹に実が270モディウスもなるという。
F5
STRABON XI 11, 3:
昔は、その暮らし方や風習の点で、ソグディアノイ族とバクトリアノイ族とは、遊牧民とそれほどの違いはなかった。それでも、バクトリアノイ族の風習の方がわずかに野性を脱していたが、これについてのオネーシクリトス1派の説明も最善ではない。例えば、老齢や病気で弱った者たちを生きながら犬の群に投げ与え、犬はこの仕事用に飼ってあり、土地の言葉で「葬り犬」と呼ばれていたという。また、母市バクトラの城壁より外側の地域を見るときれいなままなのに、壁内のほとんどのところは人骨に満ちていた。この掟を廃止したのが、アレクサンドロスだというのである。
F6
ARRIAN. Ind. 3, 6(=STRABON XV 1, 12):
クテーシエース(III)は、……インドイの土地が、残りの全アジアに匹敵すると言っているが、これは妄言だ。〔インドの広さを〕全世界の三分の一としたオネーシクリトスも同断だ。133 F5参照。
F7
同上、6, 8(=STRABON XV 1, 13; 45):
それに〔エティオピアにも〕インドと同じように雨が降るというのは、あり得ないことではない。他の点でもインドの地はエティオピアと異なるところがないからだ。インドの河川にもエティオピア、エジプトのナイル川におけると同様にワニがいるし、インドの河川の中にはカバを除くと――そのカバにしても、オネーシクリトスはいたと主張しているのだが――、ナイル川に棲息しているほどの魚類やその他水棲の大型動物は、どれもこれも見つかるのである。
F8
STRABON XV 1, 20:(Aristobulos 139 F35)
河川があふれることと地上の風が吹かないことについては、オネーシクリトスの説明もこれを認めている。すなわち、彼の謂うには、沿岸地帯とりわけ河口に面した海は遠浅だが、これは沖積土と上げ潮そして海風が優勢なことからきている。XV 1, 34.
F9
PLIN. NH II 183:
同じように、こういう報告がある。アレクサンドリアの南5000スタディオンのところにあるシエネの町では、夏至の正午には全然影がない。そしてこれを試験するためにつくられた井戸では、光がその底に届き、これは明らかにその時刻には太陽はその地方の真上にあることを示していると、そしてこのことは、オネーシクリトスの文書によれば、同時刻にインドのピュアシス河〔インダスの支流ベアス河〕の南でも起こるという。
F10
同上、II 184-185:
オレテス山脈のインド人種族の地域にマレウスという山がある。その近くでは夏には影が南の方へ、冬には北の方へ投げられる。そこでは北方の星座はたった15日間の夜に見えるだけだ。またインドの有名な港パタラでは太陽は右側に昇り、影は南の方に落ちる。アレクサンドロスがこの地に滞在していたとき、大小の熊座が夜の早い時刻にのみ見えた、ということが注目された。アレクサンドロスの案内人であったオネーシクリトスは、この星座はインドの影のないところでは見えない、そういうところは影無しと呼ばれ、そこでは時間の計算はなされていないと書いている。
F11
同上、VII 28:
オネーシクリトスは言う。インドで影が全然ない部分には背丈が5キュービット2パルムもある人々が住んでいて、彼らは130年も生きる。そして彼らは歳をとるということはなく、みな中年で死ぬのだと。F24参照。〔ほんなら、なんで130歳まで生きるとわかるんや!?〕
F12
STRABON XV 1, 15:
タプロバネー〔スリランカ=セイロン〕島について、オネーシクリトスは、その大きさが5000スタディオンだと謂うが、これが長さと幅のいずれなのかを定義していない。また、本土からの距離を20日間の航海を要するほどだが、船に張る帆が貧弱なうえに両側から肋骨材を入れないまま建造した船だから航海しがたいとする。また、この島とインド地方〔本土〕との間にはこのほかにもいくつかの島があり、この島がいちばん南にあたる。島のまわりに両棲類の大型海獣が棲み、あるものはウシに、あるものはウマに、あるものはそのほかの陸上動物に似ているという。
F13
PLIN. NH VI 81:
タプロバネーは、「反対国人の国」という名で、長い間いまひとつ違った世界であると考えられていた。しかしアレクサンドロス大王の時代と功業とが、これが島であることの明白な証明を提供した。アレクサンドロスの海軍司令官の一人オネーシクリトスは、そこではインドのものより、もっと大型で、もっと好戦的精神をもった象が飼われていると書いている。
F14
STRABON XV 1, 43:
オネーシクリトスの謂うには、〔ゾウたちは〕300歳までも生き、まれに500歳にも達するが、いちばん強壮なのは200歳あたり。妊娠期間は10年にもなる。この人やそのほかの人々も述べているところによると、インド象はリュビア象より大型で力も強く、だから後足で立ち上がると鼻で胸壁を払いのけ、樹木を根こそぎ引き抜く。
F15
同上、XV 1, 18:
インドキビについて、オネーシクリトスの謂うには、小麦よりも小粒の穀物である。これは河と河との間の流域で育つ。また、脱穀がすみ次第炒っているが、炒るのは、種が国外に持ち出されるのを防ぐため、もみ打ち床から日に当てないまま運び出すことはしない、と前もって誓いを立てていることによる。
F16
a) 同上、XV 1, 28:
この〔タクシラ〕地方より上方の山脈内にアビサロスの治める地方があって、この王が送った使者たちが伝えた話によると、王は手許に2頭の巨蛇を飼い、オネーシクリトスによると1頭は80ペーキュス、もう1頭は140ペーキュスであった。
b) AELIAN. NA XVI 39:
アステュパライア人オネーシクリトスの言うには、アレクサンドロスの遠征のおり、インドに2頭の巨蛇がいた。これを飼っていたのはインドス人アペイサレースで、そのうちの1頭は140ペーキュス、もう1頭は80ペーキュスだった。アレクサンドロスはこれをとても見たがったと彼は謂う。
c) TZETZ. Chil. III 940-949:
アイリアノスの謂うには、アレクサンドロス大王は、これを見たがったとオネーシクリトスが言っているという。そこで彼〔アレクサンドロス〕は、軍隊に静かに通り過ぎるよう命じた。足音で連中を怒らせないよう、インド人が彼に教え、申しあげたからである。それら〔巨蛇〕の眼は真ん丸で、マケドニア兵の円楯と同じ大きさなのを〔アレクサンドロスは〕眼にした。
F17
a) STRABON XV 1, 63-65:
オネーシクリトスは、自分がこれらの知者たちと対話するよう命を受けて派遣された、と謂っている。というのは、アレクサンドロスが耳にしたのは、一群の人々が裸体のまま生きつづけ、忍耐の訓練をしていて、この上ない尊敬を集めているということ、また、これらの知者たちは、招きを受けても他人の許へ足を運ばず、もしも彼らが修行しまたは論じていることがらについて、何か少しでもふれたいと思うなら、自分の方から彼らのところへ出かけて来るよう命じている、ということであった。事情が以上のようであり、王は、自分が知者たちの許へ行くことも、知者が望まないのに父祖以来の掟を破らせて無理に何かを行わせるのも、共に適当ではないと考えた。そこで自分が派遣された、と〔オネーシクリトスは〕謂った。さて、市から20スタディオン離れたところに、男が15人いるのを見つけた。彼らは、それぞれが思い思いの姿勢で立ち、座り、あるいは裸のまま地に横たわりながら夕刻までを不動の行に過ごし、それから市中へ去って行った。一番の難行は太陽の下に留まることで、しかも日盛りには行者のほか誰ひとり裸足で地上を歩こうとしてさえ楽ではないほど暑い日差しだった。
[64] この一団のなかのひとりカラノスと対話したが、この行者は大王のお伴をしてペルシス地方まで来ると共に、火葬のたきぎへ身を置いた後、父祖の法に従って自殺した人物である(F18)。しかしこの時は、この行者はちょうど石上に横たわっていた。そこで、近寄って挨拶すると、こう云ったと謂う。
「わたしは王の許から派遣されて、あなた方の知恵を聴講し、それを王へ伝えるために来た。だから、別にお邪魔でなければすぐにでも聴講に加わりたい」。 すると、行者は、相手が軍衣、広つば帽、サンダル靴を着けているのを見て、笑いながら、「往古は」と謂ったという、「どこもが大麦、小麦でいっぱいで、まるで今日の塵ほどもあった。泉も流れつづけ、泉には、水の泉もあれば乳もあり、蜂みつに似た流れのも、酒、オリーブ油のもあった。しかし、人間たちは飽食し、ぜいたくになったあげく、思いあがってしまった。ゼウスはこのありさまを憎んで、これらすべてのものを消滅させ、人が苦労を重ねて暮すよう定めた。節制をはじめとする徳が広く世に現われて、ふたたび善いものが豊かに供給されるようになった。しかし、今日すでに人間どものやっていることは飽食や思いあがりと隣合せになり、現にあるものの消滅ということが起こりかねなくなっている」。
行者は以上のように語ると、「もしもあなたが聴講するつもりなら、身につけた服装を取去って裸になり、同じ石の上に横たわって、講義に参加しなさい」と勧めた。
ところが、自分がとまどっていると、その名をマンダニスといい、この一団での一番の長老で一番知恵のある人がカラノスを「思いあがり者」と叱り、しかも思いあがりを責めた上で自分を招きながら云ったという。「わたしは王を讃える。讃えるのは、王があれほどに大きな国を治めながらも、知恵を欲しているからだ。武具に身を包みながら哲学を探求している人を、わたしは王以外に見たことがないからだ。もしも、進んで求める人びとには納得させ、気の進まない人びとには強制して、節度を持たせるだけの力を備えている人びとがいて、これら当人が思慮深ければ、これはどんなことにもまして有用なことだろう。しかし、わたしが三人の通訳を通して対話し、しかも三人とも言語以外のことではその理解力が大衆並みの域をまったく脱していないとすれば、わたしの教えが有用なことをまったく開示できなくても、それは仕方のないことだろう。これでは、水が泥土をくぐつてもきれいなままに流れていることを期待するのとおなじようなものである」。
[65] 言われたことは、要するに、以下の内容に帰すると〔オネーシクリトスは〕謂った。まず、魂から快と苦を取り去る教説が一番優れている。また、苦痛と労苦は別のもので、自分たちにとって前者は敵対的だが後者は親しいものであり、その証拠に自分たちは肉体が苦労に耐えるよう訓練して精神の働きを強化しようとしている。そして、この精神の働きによって自分たちは、党派争いをも止めさせ、万人に対しても公私両面にわたって善い結果を生むような助言者となっているし、何より今日ではタクシレス王に対してアレクサンドロスを迎え入れるよう勧告した。なぜなら、王が自分より優れた人を迎えたなら、自分の方がりっばな説得を受けることになるし、自分より劣った人を迎えたなら相手をりっばにしてやればよいからである、と。
以上の説を述べると、長老は、ギリシア人の間でもこの種の教説を述べる人がいるか、とたずねたという。そこで、ビュタゴラスもこの種の教説を述べ、生き物の肉を避けるよう勧めていること、ソークラテースとディオゲネースの教えも前者と同様で、ディオゲネースからはわたしも直接その教えを受けた、といった。すると長老は答えて、
「わたしが考えるには、その人たちは総じて思慮深い考えをしているが、誤っているところがひとつあって、それは自然より法を優先させている点だ。すなわち、質素なものを食べて生きていれば、わたしのように裸で過していても恥ずかしくはなかろうし、しかも暮しの用具をなるべく必要としない家庭こそ一番優れている」といった。
これらの知者は、自然に関する諸問題とそれに加えてさまざまな予兆や雨、干ばつ、病気についても数多くの研究をしていたと〔オネーシクリトスは〕謂った。
さて、この一団は市中へ去って行くと市場あたりで諸方へ散って行った。そして、いちじくやぶどうの房を運ぶ人に折よく出会うと、その人がこれを施物として差出すのを受取る。もし、運んでいる品がオリーブ油ならそれを注ぎかけたり塗ったりしてもらう。富裕な家では、女人部屋を含めて邸内全部をかれらのために開放し、一行が入ってくると食事や談論を共にする。苦行者が一番恥ずかしいことと見なしているのは肉体の病気で、自分の身体に痛が起きたのではないかという懸念を抱くと、火を通して(病体から)魂を連れ出す。その際、火葬用のたきぎを積上げわが身に油を塗って座ると、たきぎへ点火するよう命じ身を動かすことなく火に焼かれる、という。
b) PLUT. Alex. 65:
一方、最も名声があり、自分だけで静かな生活をしている者の所には、オネーシクリトスを派遣して、自分の所に来るよう所望した。オネーシクリトスは、犬儒派のディオゲネースに学んだ哲学者である。そして彼は、カラノスがきわめて傲然として、着物を脱いで裸になり、説教を聞けと乱暴に命じ、そうでなければゼウスの所から遣わされたとしても彼には話しはしないと言ったという。ダンダミスはそれよりも穏やかで、ソークラテース、ピュタゴラス、ディオゲネースについてよく聞き、これらの人々は天性よい人々であるが、法律の前にあまりに身を低くして暮らしていたと言った。
F18
LUKIAN. De mort. Peregr. 25:
というのは、彼ら〔婆羅門僧たち〕は、アレクサンドロスの舵取だったオネーシクリトスがカラノスが身を焼くのを見て言った言葉に従えば、火の中に飛び込むのではなくて、薪を積み重ねた時、近くに身動きもせずに立ちつくして身の焼かれるのに耐え、ついでその上に登り、横臥の姿を少しも変えずに威儀を正して焼かれるのである。
F19
PLUT. Alex. 60:
ポーロスに対する戦争については、どのように行われたかを、アレクサンドロスが手紙で書いている。〔渡河してすぐ近くの小島を占領した〕。ところがヒュダスペス河が嵐のために荒れ狂い、浪は天まで届くほどとなって岸を越え大きな奔流となってどうどうと流れた。本流とその間は両方から削られ崩されて人々はしっかり立つこともできなかったとのことである。そこで彼は「アテナイ人諸君、諸君の名誉のため、私がどんな危険を冒しているか信じられるか」と言ったそうであるが、これはオネーシクリトスの言うところで、アレクサンドロス自身の言うところでは、兵士たちは筏を捨てて胸まで水につかって武器を持ったまま奔流を渡り……
F20
同上、61:
ポーロスに対する戦闘がすんでからブゥケパラスが死んだ。これは戦闘直後でなくかなり後で、多くの人々は負傷して手当てを受けているうちに死んだと言い、オネーシクリトスは老齢のため弱り切ったからであると言うが、これはブゥケパラスが30歳で死んだからである。
F21
STRABON XV 1, 30:
カタイア地方と、地域の長のひとりソーペイテースが治める地方は、両川〔ヒュダスペース河と〕に挟まれた流域にあたるが、別の説では、アケシネース、ヒュアロティス両川より向こう岸にあたり、もうひとりのポーロスが治める地方に隣接する地域だとする。このポーロスは、大王の捕虜となった同名の王の従兄弟だった。従兄弟の方が治めていた地方をガンダリスと呼ぶ。
カタイア地方でのこの上なく新奇な話として美しさをめぐる話が史書に伝わり、それによると馬と犬の場合のように優美さがことのほか尊ばれる。まず、オネーシクリトスによると、姿形の一番美しい人が選ばれて王となる。また、赤児は生まれて二か月過ぎると、法に適った姿形をしているので生きる価値があるか、またはそうでないか、について公共の場で判定を受ける。そして長のひとりが指命を受けてこの判定を下すと、赤児は生きるか殺されるかどちらかになる。
また、あごひげを色とりどりの染料で染めるが、これも顔を美しく見せようというただそれだけが願いである。インドではこの地方以外でも多くの人が髪にも衣服にもその美しさに気をつかうし、その上インド地方は驚くほど多彩な染料を産出する(F22)。住民は、ほかのことでは質素だが飾りたてるのが好きである。
カタイア族に特有な風習として史書に報告されていることだが、花婿と花嫁は互いに自分で相手を選び、夫が死ぬと妻もいっしょに火中に投じられるが、この習慣は、かつて妻たちが若者を恋して夫を捨てたり毒を盛ったりしたことがあったことに起因するという。それゆえ人びとは毒物の使用が止むようにするためこの法を定めた。しかし、法も原因も納得できる話ではない。
ところで、話によるとソーペイテースの治める地方に塩を掘り出している山があり、その量はインド地方を全体としてじゅうぶんにまかなえるほどである。また、そこからほど遠からぬ別の山々には金、銀鉱が共にあって、探鉱師ゴルゴスが鉱脈の優秀さを示した。インド族は採鉱や精練に不慣れで自分たちがどんな品物を供給しているのかも知らず仕事ぶりもかなり単純である。
F22
STRABON XV 1, 21-24:
インド地方では、たしかに樹木も常識では考えられないようなのが数多く育ち、そのひとつに、若枝が下へ向って垂れ、葉が丸楯ほどにもなる樹がある。オネーシクリトスはムゥシカノスの治める地方に見られることがらについて、かなり余計なせんさくまで述べ立てるが、著者によると、この地方はインドの最南端にあたる。そして、その記述によると、ある種の巨木があって、若枝は成長すると12ペーキュスにも達し、それから後は下へ向かって成長をつづけるが、その様は下方へたわめられているようで、ついには地面にふれるまでになる。それから枝は地底に広がって根を付けるが、これは地中での取り木に似ているし、その後さらに上の方も太くなって幹になる。そして、この幹からふたたび前とおなじように若枝が成長するにつれて下方へ曲がるともうひとつ別の根つきの枝となり、それからまた別の根つき枝を作り、こうしてつぎつぎに根つき枝を作る。従って、一本の樹から広大な傘が出来、その様は多くの柱を立てて作ったテントに似ている。また、これらの樹の太さについての著者の説明によると、幹の胴まわりは五人でも抱え切れないほどだった。
アリストプロス(139 F36)も、アケシネース川とこの川がヒュアローティス川と合流している地点一帯のこととして、若枝が下方へ曲っている樹とその太さについて述べているが、それによると、一本の樹の下で騎馬隊が50騎も日蔭に入って真昼の一刻を過したほどだったし、オネーシクリトスはこの数を400騎としている。……(Aristob. 139 F37)……。しかし、樹の太さについての話で、すべての人々の上を行くのが、ヒュアローティス川の対岸地域での目撃談で、それによると、その樹は一本で真昼刻に5スタディオンもの影を作るという。また、この人が謂うには(F23)、毛を付ける樹の花には種があり、この種を取除いて残りを羊毛と同じようにして紡ぐ。
[22] 〔同じ著者が〕言うには、ムゥシカノスの治める地方に小麦に近い品種の穀物が自生し、また、ぶどうもあって、これを使って酒を造る。ただし、ほかの著者たちはインド地方にぶどう酒はないと話している。アナカルシスによると、だからアウロス笛もないし、楽器としてはシンバル、太鼓、カスタネット以外に何もなく、この三種も手品使いたちが持ち歩いているものである。
また、アリストブゥロスに加えてそのほかの著者たちも述べているが、治療用とその逆の殺人用の何れについても薬(毒)草や根類が共に豊富であり、この点色とりどりの植物があるのと共通するところがある。この著者がさらに加えて述べるところによると、致死性の毒物を何か見つけ出したものはその毒を消す薬物をも見つけ出さないかぎり死刑に処せられるが、見つけ出すと王たちから特典を授かるという法まであるらしい。
また、著者によるとインド南部の土地はアラビア、エチオピア両地方とおなじように肉桂、甘松香そのほかの香料類を産するが、これは、よく日が射すという点でこの土地が後二地方とどこか似ていることによる。ただし、水があり余っている点ではインドのこの地方が格段に上だから大気が湿り、この点で成育にも繁殖にも後者より以上の力がある。土も水もこの点は大気とおなじである。だからこそ、人が気づいているとおり、それだけインド地方内の動物は陸生と水生とを問わずそのほかの諸族の地方の動物より大きい。
ただし、ナイル河もほかの地方の河川より繁殖力に優り、大型の動物とりわけ両生類を産し、この国の女人は時として四つ子まで産む。アリストテレース(F284 R)は七つ子をも産んだ女人がいると報告し、自分でもこの河を多産と成育を促す河と呼んで、その原因を太陽が適度に煮熱し、その際肝心の栄養分を残して余分なものを蒸発させることに求めている。
[23] つぎのことがらも、上記のものとおなじ原因から起ると思ってよい。すなわち、これこそアリストテレースが述べているところだが、ナイル河の水はほかの水にくらべ半分の熱で湯になる。また、この著者によると、ナイル河の水は長くて幅の狭い地方を一直線に進み、多くのクリマ帯と多様な大気のなかをつぎつぎと場所を変えるが、インド地方の流れは平野部へむしろ多く溢れて河幅を広げ、その分だけ同一クリマ地帯のなかで長い間停滞している。だから、この差に応じて後者の流れはナイル河より成育によく、河に住む動物もこちらの方が大型で数も多い。雨水が雲から注がれる際にも、すでに熱が加わっている。
[24] しかし、アリストプゥロス説(139 F35)を奉じる人びとは、平野に雨は降らないと主張してアリストテレースの上記の説に同意しないかも知れない。反対にオネーシクリトスの考えでは、それぞれの動物が持つ特有の要素はこの水が原因となって起る。そして、後者はそのことを示す点として異郷の家畜が水を飲むと体の色も変って地元の家畜のようになることをあげる。これはたしかにうまい説明だが、しかしエチオピア人が水に入るだけで肌は黒く髪はカールしている点をも理由に立てるのは、もはや当を得た説明ではない。
また、オネーシクリトスはテオデクテース(p.806, 17 N2)が当の太陽にその原因を帰しているのを非難するが、これも当を得ない。テオデクテースは次のように述べる。
太陽はかれらに触れぬばかりにして戦車を駆りながら
人びとの身体へ炎をあげる黒煙の、暗い花にも似た色を添えた。
そして燃えさかる相とて見せぬ火でその頭髪を熔かしてカールさせた。
〔オネーシタリトスにも〕何か言い分はあるだろう。その説によると、エチオピア族の地方では太陽がほかの種族の地方より近いのではなく、むしろ垂直な(真上の)位置にあり、ほかの地方よりも余計に焼かれるのはこのためである。従って、「太陽がエチオピア族に触れぬばかりに」という説明は、太陽がすべての地方の人間から等距離にある以上当を得ないし、太陽の熱がこの種の影響を及ぼす原因ではない。たとえば、胎内にいる児が太陽に当たることがない以上胎児に影響はない云々
F23
SERV. DAN. Verg. A I 649:
F24
STRABON XV 1, 34:
また、ムゥシカノスの治める地方についても、これを賞賛しながら、〔オネーシクリトスは〕立ち入った説明をしていて、それらの話のなかには、ここの住民以外のインド族とも共通した点がいくつか報告されている。例えば、100を三〇歳も越すほど長命だし(F11)(しかも一説にセーレス族はこれよりもっと長命だという人たちもいる)、この地方にはあらゆるものがふんだんにあるのに暮らしは質素で身体も健康だ、という。独特な慣習としてラコニア風の一種の共同食事を行ない、その際に人びとは公共の場で食事し肉には狩りの獲物を使う。また、鉱床はあっても金貨も銀貨も使わないし、奴隷の代りに(F25)元気盛りの若者を使い、使い方はクレタ島でアバミオーテースたち、ラコーニア地方でへイローテースたち、をそれぞれに使っているのと同じようである。また、学問知識については、医術以外に何も詳しく研究せず、しないのは知識によっては学び過ぎることがすなわち悪事だからで、戦争に関する知識やその種の諸学問がその例である。また、殺人と非道な行為以外には裁くことをしない。なぜなら、これら二つについてはその被害を受けないようにすることは自分では不可能だが、契約のなかで起こる諸問題は各自の判断で左右できることだからである。従って、誰か信用を反故にするものがいてもそれに耐えなければならず、それだけでなく、その人をはたして信用すべきかどうかにも気を付け、こうして市が裁判だらけにならないようにしなければならない。
F25
同上、XV 1, 54:
この人〔Megasthenes〕が謂うには、インドイ人たちは誰も奴隷を使役しないが、オネーシクリトスが明言するところによると、この使役がムゥシカノスの治める地方の住民には特有の習慣として存在し、しかも、これは有徳な行為である。後者によると、この地方での有徳な行為の例はこのほかにも数多く、それほどこの地方はこの上なく立派に法の支配を受けている。
F26
同上、XV 1, 33:
インドス河は、パタレーネーで分かれて、2つの河口を形成する。ところで、これら〔河口〕間の距離を、アリストプゥロス(139 F48)は1000スタディオンと謂う。ネアルコス(133 F21)は、さらに800スタディオンをこれに加える。オネーシクリトスは、河口が囲んだ島は三角形をなし、その各辺が2000スタディオン、河幅は、河口が分れるあたりで、約200スタディオン、島をデルタと呼び、大きさはエジプトにあるデルタと等しいと謂うが、この説明は誤っている。一般には、エジプトのデルタは、底辺が1300スタディオン、両側辺はいずれも底辺より短かい、と言われている。だが、パタレーネー島にある有名な都市はパタラ市。島の呼び名もこの市から来ている。
F27
ARRIAN. Anab. VI 2, 3(SUID. s. Ne&arxoj=Nearch. 133 T1).:
ネアルコスは彼〔アレクサンドロス〕によって全船団の指揮を任され、彼〔アレクサンドロス〕が坐乗した船の舵取り役をつとめたのはオネーシクリトスであった。この〔オネーシクリトス〕はアレクサンドロスについて書きとめた記録の中で、実際は舵取りでしかなかったのに、自分が船団の指揮官だったように記し、この点でも嘘を書いているのである。
F28
PLIN. NH VI 96-100:
[96]しかしこれらの国々(sc. カルマニア、ペルシス、アラビア)についての詳細な説明に進む前に、オネーシクリトスがアレクサンドロスの艦隊を率いて、インドからペルシスの内部へと回航した後に報告し、またつい最近ユバが詳細に述べた事実を示し、それから最近確かめられ現在従われている海路について述べるのが適当である。
オネーシクリトスとネアルコスの航海の記録は、公の停泊地についても、航行距離についても述べていない。そして第一に、アレクサンドロスによって建設され、彼らの出発点であったクシュリネポリスの市の位置についての十分明確な説明も与えられていないし、その市がその河畔にあった河についても示されていない。[97]にもかかわらず、これは述べる価値のある次の箇所箇所について記している。ネアルコスが航海中建設したアルビスの町、航行できるアルビウム河、アルビスに向かい合って70スタディアムのところにある島。この民族の領土にレオンナトゥスがアレクサンドロスの命によって建設したアレクサンドリア、使用できる船着き場のあるアルゲヌス、航行できるトンベルム河、その近くにいるパリラエ族。それから魚食種族、それはある海岸の非常に広い面積を占めていて、海路それをよぎるには30日を要する。「太陽の島」とも「ニンフの寝床」とも呼ばれる島、そこの土壌は赤色で、その上ではすべての動物が例外なく死ぬのだが、その原因は確かめられていない。オリ種族。[98]停泊地を与え金を産するカルマニアの河ヒュクタニス。旅行者に大小熊星座が見え始めるのはここであること、大角星が全然見えない夜があり、見えても終夜は見えないということ、ペルシア王の支配がこの地点まで及んでいること、銅、鉄、砒素、そして赤鉛がここで採掘されていることを書き記した。次にカルマニア岬があり、そこからそれを横切って5マイル行くと、反対側にアラビア種族のマカス族がいる。3つの島があり、そのうち、本土から25マイルのオラクタ島だけが真水の供給があり、人が住んでいる。[99]湾のただ中、ペルシスの海岸の沖に4つの島がある――それらの近くで艦隊は並んで泳いできた長さ20キュービットの海ヘビどもに脅かされた――アラドゥス島、ガウラタエ島、両者ともギュアニ種族が住んでいる。ペルシア湾の中ほどに商船が航行できるヒュペリス河、シティオガヌス河、それを遡ること7日でパサルガダエがある。航行可能のプリュスティムス河、無名の島。グラニス河、これはかなりの船を運ぶが、スシアネを貫流していて、その右岸にアスファルトをつくるデクシモンタニ族が住んでいる。ザロティス河、その河口は、それを熟知している者でなくては航行は難しい。それから2つの小さい島。次に来るのは沼のような浅い水のひろがり、それでもそこはある水路を通って航行できる。エウフラテス河の河口、カラクスの近くにエウラエウス、ティグリス両河によってつくられた湖水、それからティグリス河にによってスサに達する。[100]彼らは三ヶ月の航海の後、そこでアレクサンドロスが祝宴を張っているのを発見した。それは彼がパラタで彼らにわかれてから七ヶ月めであった。これがアレクサンドロスの艦隊が辿った道筋であった。……
F29
PLIN. NH VI 109:
オネーシクリトスとネアルコスの記すところでは、インダス河からペルシア湾まで、そしてそこからエウプラステス河の沼沢のそばにあるバビロンまでは1700マイルの航海であるという。カルマニアの一角にはカメ食い種族がいて、彼らは亀甲で家の屋根を葺き、カメ肉を常食にしている。これらの人々は、アラビス河を出発して次に到着する岬に住んでいる。彼らは頭部を除いて、全身もじゃもじゃして毛髪で覆われ、魚皮でつくった衣類を身につけている。
F30
同上、VI 124:
ネアルコス(133 F1h)とオネーシクリトスは、エウプラテス河は、ペルシア湾からバビロンまで412マイルの間航行可能だと報告している。
F31
AELIAN. NA XVII 6:
ゲドローシオイ族〔オマーン湾からインダス河にかけての地域に住む種族〕については……オネーシクリトスとオルタゴラス(V)が言っている。長さ半スタディオン、幅も当然それに見合っただけの海獣がいると。伝えられるところでは、この〔海獣〕は非常な力を持っていて、しばしば、鼻孔から鼻息を吹きあげると、あまりに大きな海の渦を巻きあげるので、それを知らず経験したこともない者たちにとっては、嵐であるように思えるほどだという。
F32
STRABON XV 2, 14:
オネーシクリトスの言うには、カルマニア地方には、砂金を押し流している河があり(F28 p.734, 15)、また銀、銅、赤色顔料土を採掘する鉱床もあり、さらに山が2つあって、一方は黄色顔料土、他方は塩を産する。
F33
同上、XV 3, 5:(Nearch. 133 F25)
オネーシクリトスの謂うには、エウプラテス、ティグリス両河を含むすべての河川が湖に注ぐが、エウプラテス河はそこから再び独自の河口を持って海に接する。
F34
同上、XV 3, 7:(Aristobul. 139 F51)
しかし、オネーシクリトスの述べたのには、塔墓は十層になっていて、一番上の階にキュロスの遺骸が横たえられ、ギリシア語の墓碑銘がペルシア文字で彫りこんであり、「ここに横たわるは、われ、キュロス、王たちの王」、そしてこれ以外にもペルシア語で同じ意味のことを述べた銘があった。
F35
同上、XV 3, 8:
オネーシクリトスはまた、ダレイオス王の墓についている次のような文にも言及している。「われは友たちにとっての友。最善の騎士にして射手となった。狩人たちを凌駕した。あらゆることをなす力を持っていた」。
F36
[LUKIAN.] Macrob. 14:
また、ペルサイ人たちの王、昔のキュロスは、ペルサイ人たちやアッシュリア人たちの年代記作者たちが説明しているところでは(これにはアレクサンドロスの歴史を著したオネーシクリトスも賛同しているように思えますが)、100歳のとき、友たちをひとりずつ訪ね、大部分が自分の息子カムビュセスのせいで破滅させられたのを知り、カムビュセスが「あんたの命令でやったことだ」と主張したので、ひとつには、息子の野蛮さに嫌気がさし、ひとつには、自分が乱心したと自責の念にかられ、意気消沈して生を終えました。
F37
ANON. EPIT. METTENS. 97 Wagner:
F38
PLUT. Alex. 8:
彼〔アレクサンドロス〕は、天性、学問、読書を好んでいた。そして『イリアス』を戦術の資料と考え、またそう呼んでいて、手箱na&rqhxのイリアス注8)と呼ばれるアリストテレスの改訂版を携えて、いつも短剣といっしょに枕の下に入れておいたと、オネーシクリトスがその歴史に書いている。他の書物で、アジア内部で手に入らないものは、ハルパロスに銘じて送らせていた……
疑わしい断片
F39
ANON. ALEX.-GEDICHT(W. Wager Trois Proemes Grecs, Berlin 1881) v. 29:
この人物〔アレクサンドロス〕は、エジプトの昔の知者たち、その中にはアッシュリア人のあのオネーシクリトス、この人物の事績をすべて事細かく著した人物も含まれているのだが、の謂うには、不幸にも父親としてネクテナボーンを、生母としては美しきオリュムピアスを得たという。この女性は、ネクテナボーンの悪巧みにたぶらかされ、その妖術によって大いに惑わされて……アレクサンドロスを産んだ……
2006.02.25. 添削終了。 |