アンティステネース伝
Vitae philosophorum, ed. H. S. Long, Diogenis Laertii vitae, vi. 2. [20] そこで彼は、アテナイにやって来て、アンティステネースに弟子入りしようとした。ところが相手は、自分は誰ひとり弟子を受け入れたことがないからといって、入門を断ったので、座り込みという強硬手段に訴えた。それで、とうとう、〔アンティステネースが〕彼に向かって杖を振り上げると、彼は自分の頭を差し出しながら、「ぶってください」と云った、「あなたが何かはっきりしたことをおっしゃってくださるまでは、わたしを追い出すのに足りるほどの堅い木を、あなたは見出せないでしょうから」。このとき以来、彼〔アンティステネース〕の門弟となり、そして亡命の身だったので、簡素な暮らしを始めたのであった。 [22]テオブラストスが『メガラ誌』のなかで述べているところによると、彼はネズミが走りまわっているところを観察して、それが寝床を求めることもなく、暗闇を気にすることもなく、また美味美食と思われているものを欲しがりもしないのを見て、自分のおかれた状況を切り抜ける手だてを見出したということである。ある人たちによれば、彼は粗末な上衣(tri/bwn)を二重折りにして着用した最初の人であったが、それはそうせざるをえなかったからであるし、またそのなかに身体を包んで眠るためでもあった。また、彼は頭陀袋(ph/ra)をたずさえていたが、そのなかには自分の食糧が入っていた。さらに彼は、どんな場所でも使って、食事をとるのにも、眠るのにも、あらゆることに供し、そして対話した。そしてまたそのようなときに、ゼウスの神殿の柱廊(ストア)や、ボンぺイオン(行列用祭器の保管庫)を指さしながら、アテーナイ人たちは自分のために住みかをしつらえてくれていると、謂うのが常であった。[23] 身体が弱ってからは、杖にすがるようになった。それ以後は、いつでも、といっても、町なかではなく、旅に出るとだが、それ〔杖〕と頭陀袋とをたずさえていたと伝えているのは、アテーナイを一時支配したオリュンピオドーロスや、弁論家のポリュエウクトス、そしてアイスクリオーンの子リュサニアスである。また彼は、ある人に手紙を出して、自分のために小屋をびとつ用意してくれるように頼んだが、その人が手間どっていたので、メートローオン(キスベレの神殿で、公文書の保管所)にあった大甕(pi/qoj)を住居として用いた。これは、彼自身もいくつかの書簡のなかではっきりと述べていることである。また彼は、夏には熱い砂の上をころげまわったり、冬には雪をかぶった彫像を抱きしめたりして、あらゆる手段を使って自己を鍛錬したのであった。 [24] 彼はまた、他人を見下すことにかけては恐るべき人物であった。そして、エウクレイデースの学派(sxolh/)は胆汁(xolh/)だと言ったし、プラトーンの講義(diatribh/)は暇つぶし(katatribh/)、ディオニュソス祭の競演は馬鹿者どもにとっての大がかりな人形芝居だと言い、民衆指導者たちは群衆の召使であると〔言った〕。さらにまた彼が言ったのは、人生において操舵手たちや医者たちや哲学者たちに出会ったときには、人間というものは動物たちのなかでも最も聡明な者であると思う。しかし他方、夢判断する人たちや占い師たちや、この連中の取り巻きたち、あるいは、名声や富を自慢している者たちを目にすると、人間ほど愚かな者はないように思われる、ということであった。また、つねづね彼の言っていたのは、人生を生きるためには、言葉か、あるいは、首吊り縄を用意しておかねばならないということであった。 [25] またあるとき、プラトーンが贅沢なご馳走の並んだ食事の席で、オリーブの実に手を出しているのを見とがめて、「どうしてかね」と謂う、「賢者にしてシケリアくんだりにまで航行したのは、こういう食卓が目的であったのに、今ここに供されたものを享受しようとしないのは?」。すると相手が、「いや、神々にかけて、ディオゲネースよ、あの地でも、ぼくはたいてい、オリーブやそういったものですごしていました」。そこで彼が、「それなら、どうして、シュラクゥサイくんだりまで航海する必要があったのかね。それとも、当時、アッティカの土地はオリーブを産しなかったのか?」。ただしパボーリノスは、『歴史研究姓録集』のなかで、これはアリスティッボスの言ったことだとしている。また別のとき、彼〔ディオゲネース〕が乾し無花果を食べていたら、彼〔プラトーン〕に出会ったので謂う、「君に分けてあげてもいいよ」。そこで相手がもらって食べると、〔ディオゲネースが〕謂った、「分けてあげるとは言ったけれど、平らげていいとは言わなかったぞ」。 [26] ある日、彼〔プラトーン〕が、〔シケリアの僭主〕ディオニュシオスのところからやって来た友人たちを招待していたとき、〔ディオゲネースは敷いてあった〕絨鍛を踏みつけながら、謂った、「プラトーンの軽挙妄動(kenospoudi/a)を踏みつけてやっているのだ」。これに対してプラトーンは、「おお、ディオゲネースよ、君はどれほど多くの見栄(tu/fos)をさらしていることか。見栄を張っていないようにみせかけてはいるけれど」。ただし、ある人たちの伝えるところでは、ディオゲネースが言ったのは、「プラトーンの見栄を踏みつけてやっているのだ」というのであった。これに対してプラトーンが謂ったのは、「いかにも、ディオゲネースよ、〔君は〕別の見栄でもって〔そうしているのだ〕」ということだったという。もっとも、ソーティオーンが(『哲学者伝』の)第四巻のなかで述べているところによると、これは、この犬〔ディオゲネース〕が〔第三者にではなく〕プラトーンその人に向かって直接に云ったのだという。ディオゲネースがあるとき、彼〔プラトーン〕にぶどう酒を、その際また乾し無花果も所望した。そこでプラトーンは酒甕をまるごと彼に送ってやった。すると彼が、「君は」と謂う、「二たす二はいくらになるかと質問されて、二十と答えるのか。それと同じで、君は所望されたものに応じて与えることもしなければ、尋ねられたことに応じて答えることもしないのだ」。こういう次第で、〔プラトーンは彼のことを〕際限もない冗舌屋だと嘲笑った。 [27] ヘッラスのどこかに善勇の大人たちを見かけたかと尋ねられたとき、「〔善勇の〕大人は」と云った、「どこにもいない。しかし〔善勇の〕子どもたちなら、ラケダイモーンに」。あるとき、彼が真剣な調子で話をしているのに、誰ひとり近づいて来ないので、無駄話を始めた。すると、大勢集まってきたので、彼は罵った、――くだらぬお喋りには真剣になって聞きに来るのに、真面目な話は[軽視して]のろのろとやって来る、と。また彼は言っていた、――こづいたり蹴ったりして人間どもは競争するのに、美而善(kaloka)gaqi/a)については、〔競いあおうとする者は〕誰ひとりいない、と。また、文献学者たちが、オデュッセウスの悪いことは粗探しするのに、自分自身のことには無知のままでいることに彼は驚いていた。さらにまた、音楽家たちが、リュラの絃は調子を合わせるのに、魂の状態は不調和なままにしていることにも。[28] 数学者たちが、太陽や月は注視するけれども、足下にある事柄は見過ごしていることや、弁論家たちが、正義について論ずることには真剣だけれども、これを少しも実行していないこと、いや、それだけでなく、お金好きの人たちが、お金をけなしているくせに、これを過度にほしがっていることにも〔彼は驚いていた〕。また、財産よりもまさっているからという理由で、義しい人たちを称賛しながらも、他方では、財産家たちを羨望している連中を、彼は非難していた。また彼を苛立たせたのは、健康であるようにと神々に犠牲を捧げておきながら、まさにその犠牲式のさなかに、健康に反するほどのご馳走を食べること。その一方では、主人たちが食欲に食べるのを目にしながらも、主人の食べものを何ひとつ掠め取ろうとしない奴隷たちには、彼は感心していた。[29] 彼が称讃したのは、結婚するつもりではいるが結婚しないでいる人、船旅に出るつもりではいるが出ないでいる人、政治にたずさわる気持はあるが、そうしないでいる人、子供を養育する心づもりはあるのに、そうしないでいる人、権力者たちといっしょに暮らす用意はできているが、彼らに近づかないでいる人たち、であった。彼はまた、友人たちには指を折り曲げずに(開いたままで)手を差し出すべきだとも言っていた。ところで、メニッボスが『ディオゲネースの売却』のなかで述べているところによると、彼が捕えられて売りに出されたとき、お前はどんな仕事ができるかと訊ねられた。彼は答えた、「人びとを支配することだ」。そして触れ役に向かって、「触れてくれ」と謂った、「誰か、自分のために主人を買おうという者はいるか、と」。〔そのおり〕坐ることを禁じられると、「何の違いもない」と彼は謂った、「というのも、魚たちだって、どんなふうに置かれていようと、売られていくのだから」。[30] また、われわれが壷や皿を買う湯合には、これを叩いてみるのに、人間の場合は、ひと目見ただけで満足するのは驚くべきことだとも謂った。彼を買ったクセニアデースに言った、自分は奴隷であるとしても、自分の言うことに従ってもらわねばならない。というのも、もし医者や操舵手が奴隷であったら、これに従うだろうからと。ところで、エウブクロスが『ディオゲネースの売却』という表題の書物のなかで述べているところによると、彼はクセニアデースの息子たちを、次のような仕方で教育したということである。すなわち、他の学業をすませると、乗馬、弓引き、右投げ、槍投げの指導をしたし、またその後、息子たちが相撲場に通うようになってからは、彼は体育教師に対して、競技選手向きの訓練を施すことを許さないで、ただ血色をよくし、身体を好調に保つことになるだけの訓練を行なわせたのであった。 [31] また、その子どもたちは、詩人や著作家たち、さらにはディオゲネース本人の作品のなかからも数多くの章句を暗唱させられたし、そして記憶にとどめやすくするための早道となるありとあらゆる方法も練習させられたのであった。また家にあっては、彼らは身の廻りのことは自分で始末をし、粗食に甘んじ、水を飲んですますように彼は教えた。さらに、髪は短く刈らせて飾りものはつけぬようにさせたし、また上衣をつけず、靴もはかず、道中ではロはつぐんだままで、あたりをきょろきょろ見廻すこともないようにさせた。その上また、彼らを狩りにも連れて行ったのだった。他方、子どもたちの方でも、ディオゲネースその人には気くばりをして、彼のために両親に対していろいろと頼みごとをしてやったのであった。また、この同じ著者(エウブゥロス)が述べているところによると、彼はクセニアデースのもとで年老いて行ったのであるが、死んだときには、その息子たちによって葬られたということである。またそのおりに、クセニアデースが、どんなふうに彼を埋葬したらよいかと訊ねたとき、彼は謂った、「うつむけにして」。[32] 相手が尋ねた、「なにゆえ?」。「もうしばらくすると」と彼が云った、「下にあるものはひっくり返されて上になるだろうから」。これは、当時すでにマケドニア人たちが覇権を握っていた、つまり、低い地位から身を起こして身分の高い者になっていたからである。ある人が、彼を豪邸に案内して、ここでは唾を吐かないようにと注意したら、わざと咳いて、その人の顔面に疾を吐きかけて、もっと汚い場所が見つからなかったので、と言った。もっとも、これはアリスティッボスのやったことだと主張する人たちもいる。あるとき、「おおい! 人間どもよ」と声をかけたので、人びとが集まってくると、杖で打って云う、「わしが呼んだのは人間だ、ろくでなしどもではない」。これはへカトーンが『箴言集』第1巻のなかで述べていることである。 さらにまた、アレクサンドロス〔大王〕が、もし自分がアレクサンドロスでなかったとしたら、ディオゲネースであることを望んだであろうに、と云ったとも伝えられている。 [33] 不具者(a)naph/roj)とは、聾者や盲者のことではなくて、頭陀袋(ph/ra)を持たない人のことだと言っていた。あるとき、頭を半分刈ったままの姿で若者たちの宴席に入って行ったら、これはメートロクレースが『箴言集』のなかで述べているところだが、打擲をくらった。そこでその後、殴った連中の名前を石版に書きつけて、それを首に吊り下げて町中を歩き廻り、彼らが非難され懲らしめられて、ひどい仕打ちを受けるまではやめなかったという。彼は自分のことを、誰からも称賛されているような種類の犬だと言っていた。だが、称賛者の誰ひとり、自分を連れて狩猟に出かけようとする者はいないのだと。「ピュティア祭で人びとを打ち負かした」と云った者に対しては、「いや」と云った、「人びとを(a)/ndraj)打ち負かしたのはこのわしであって、あんたが〔打ち負かしたのは〕人足奴隷たち(a)ndra/poda)だよ」。 [34] 「あんたはもう年寄りだ。これからはくつろぎたまえ」と云う者たちに対して、「何だって!?」と謂った、「もしもわしが長距離コースを走っていたとして、ゴール間近になったときに、いっそう力を入れるのではなくて、わしはくつろぐぺきだというのかね」。食事に招かれたときに、出席をことわった。なぜなら、先日出かけた際にも、自分に感謝の気持を示してくれなかったからだと。裸足で雪の上を歩いたり、その他にも前〔23節〕に述べたようなことをいろいろとした。しかしそれだけではなく、彼は生肉を食べることを試みさえしたが、さすがに、これだけは消化できなかった。あるとき、弁論家のデーモステネースが飯屋で昼食をとっているところをつかまえた。しかし相手が奥の方に引っ込もうとするので、「それだけますます」と謂った、「飯屋のなかに入り込むことになるよ」注1)。またあるとき、外国人たちがデーモステネースに会いたがっていると、彼は中指をつき出して〔指さして〕、「ほら、あれが君たちの」と謂った、「アテーナイ人たちのデーマゴーゴスだよ」。[35] また、ある人がパンを道に落として、それを拾い上げるのを恥ずかしがっていたとき、彼はこの人を諭してやろうと思って、ぶどう酒の甕の首に紐をくくりつけて、それを引きずりながら、ケラメイコス区のなかを通り抜けて行った注2)。 合唱舞踏団教師たちを見倣うべきだと彼は言っていた。というのも、この人たちもまた、他の団員たちが正しい音程で歌えるようにするために、主音を(本来の音程よりも)少し高くしてやるからだと。大部分の人間は、彼の言では、ほんの指の差で気がふれているとされるものだ。例えば、中指を突き出して歩いているひとがいれば、気がふれているとひとに思われるだろうが、人さし指を〔突き出して行く〕場合には、もはや〔そうは思われ〕ないだろうからと。たいへん貴重なものがほんの捨て値で売られるし、またその逆でもあると彼は言っていた。たしかに、彫像は三千ドラクマもするのに、1コイニックス(一人一日分)の大麦粉がたった銅貨二枚で手に入るのだからと。 [36] 彼を〔奴隷として〕買入れてくれたクセニアデースに彼は謂う、「さあ、命じられたことはしてくださるように」。そこで相手が、 [37] あるとき、小さな子が両手で〔水をすくって〕飲んでいるのを眼にして、頭陀袋のなかから水呑(kotu/lh)を取り出すと投げ捨てて、云う、「簡素な暮らしぶりでは、この子がわしを打ち負かしてしもうた」。さらにまた椀(trubli/on)をも投げ出した。同じように、小さな子が容器をこわしてしまったあとで、パンの窪みにレンズ豆のスープを容れているのを眼にしたからである。さらにまた、彼は次のような推論した。万物は神々のものである。ところで、知者たちは神々の友である。しかるに、友のものは共有である。それゆえ、万物は知者たちのものである。あるとき、女がかなりみっともない格好をして神々の〔像の〕前にひれ伏しているのを眼にして、彼女の迷信を取り除いてやろうと思って、ベルガ人ゾーイロスの謂うところによれば、近づいていって云った、「用心しないか、おお、女よ、いつも神が背後に立っていて――というのは、万物が神に満たされているのだから――そんなみっともない恰好はしないように」。[38] アスクレービオスに彼が奉納したのは、打擲者(plh/kthj)〔つまりディオゲネースのこと〕であった、額ずいている者たちに襲いかかってこれを打ちのめしたところの。 さらに、悲劇のなかで聞かれる呪いは、自分の身に実際に実現していることだと言うを常としていた。とにかく自分は、 [40] ネズミが食卓の上をちょろちょろしているのに向かって「見ろ」と謂う、「ディオゲネースも食客を養っているのだ」。プラトーンが彼のことを犬だと云ったとき、「いかにも」と彼が謂った。「なぜなら、〔わしを〕売り飛ばした連中のところへ〔性懲りもなく〕わしは戻って行ったのだから」注4)。公衆浴場から出てきたとき、多くの人間が入浴していたかと訊ねた者には、彼は否定した。しかし、多くの群衆が〔入浴していたかと訊ねた〕者には、同意した。プラトーンが、「人間とは二本足の、羽のない動物である」と定義して、好評を博したとき、雄鶏の羽をむしりとって、これを講義場に持ちこんで謂う、「これがプラトーンのいう人間だ」。以来、この定義には、「平たい爪をした」ということばが付け加えられることになった。どの刻限に食事をとるぺきかと訊ねた者に対して、「金持ちなら」と彼が謂った、「とりたいと思う時に。しかし貧乏人なら、とることのできる時に」。 [41] メガラ人たちのところでは、羊は毛皮で保護されているのに、彼ら〔メガラ人たち〕の子どもたちの方は裸のままでいるのを見て、彼は謂った、「メガラ人の息子であるよりは、雄羊である方が得だね。」 彼に角材をぶつけておきながら、「気をつけろよ」と云った者に向かって、「ということは、もう一度わしに投げつけるのかね」。彼は言っていた、民衆指導者(dhmagwgo/j)は群衆の召使、その花冠は名声の吹出物だ、と。白昼にランプに火をともして、こう言いながら歩きまわった、「わしは人間を探している」。あるとき、びしょ濡れになって立ちつくしていた。それで、周りにいた人たちが気の毒がると、そこに居合わせたプラトーンが謂った、「もしあなたがたが彼を気の毒に思うなら、立ち去りたまえ」。彼の虚栄心(filodoxi/a)を指摘したのである。ある人が彼に拳骨をくらわしたとき、「やれやれ」と彼が謂った、「わしは何という大事なことを忘れていたことか。被り物をしてから散歩に出るのだったということを」。[42] いや、メイディアスが彼を拳骨で殴りつけて、「これでおまえに3000ドラクマの借りができた」と言うと、次の日、彼は拳闘用の革紐をつけて、その男をぶちのめして謂った、「これでおまえに3000発の借りができた」。薬屋のリュシアスが、神々を信じているかと訊ねると、「どうして信じないでおれようか」と彼が云った、「神々に憎まれるとすれば、あんたこそだと想像しているときに」。しかし、これは、テオドーロスの云ったことだとする人たちもいる。ある人が身を浄めているのを見てことばをかけた、「おお、悪霊に憑かれた人よ、わからないのか、身を浄めたからといって、文法の誤りから免れることができないように、人生における〔誤り〕から〔免れることは〕できないってことが」。人間どもの祈願について告発していた、彼らが願い求めているのは、自分たちに善いと思われていることであって、真実に善いことではないのだといって。[43] 夢で見たことに脅えている者たちに対してはこう言っていた、目覚めているときの行為については顧慮することなく、眠っているときに見る幻については大騒ぎしているのだ、と。オリュムピア祭で、「ディオークシッボスが勇者たちに打ち勝った」と触れ役が触れると、「その御仁が〔勝ったのは〕人足奴隷、勇者たちに〔勝ったの〕はこのわしだ」。 ところで、彼はまたアテナイ人たちから愛されてもいた。例えば、若者が彼の大甕(pi/qoj)をこなごなに壊したとき、〔アテーナイ人たちは〕前者には鞭打ちを、くだんの人物には別の〔大甕〕を提供したのであった。また、ストア派のディオニュシオスが謂っているところでは、彼はカイロネイアの戦いのあと、捕えられて、ビリッボス〔王〕のところへ連行された。そして、お前は何者かと尋ねられて答えた、「あなたの飽くなさ(a)plhsti/a)の斥候です」。これによって彼は驚嘆されたので、釈放されたという。 [44] あるとき、アレクサンドロス〔大王〕が、アテーナイに駐留していたアンティパトロスに宛てて、アトリオス(「憐れな人」、あるいは「不幸をもたらす者」という意味をもつ)なる者を介して、書状を送ろうとしたとき、〔ディオゲネースが〕その場に居合せて謂った、 ベルディッカスが、自分のところに来なければ殺すぞと脅したとき、彼は謂った、「何も大したことではない。糞黄金虫や毒蜘昧だって、それぐらいのことはするだろう」。むしろ、「お前なしに生きるとしても、余は幸福に生きてみせるぞ」というふうに脅迫してくれることを、彼は期待していたのであった。彼はしばしば声を大にして言った、人間どもの生は神々から容易に授けられているのに、そのことが見えなくなってしまったのは、彼らが蜂蜜入りの菓子だとか、香油だとか、その他そういった類のものを欲しがるからだ、と。そういうわけで、家僕に靴をはかせてもらっている者に向かって、彼は云った、「あんたは鼻もぬぐってもらうのでなければ、まだ浄福ではないらしい。しかしそれは、あんたの両手が不具になったときだろうに」。 [45] あるとき、神殿を管理する役人たちが、宝物のなかから潅奠用の盃を盗んだ男を引き立てて行くのを眼にして彼は謂った、「大泥棒たちが、こそ泥を引き立てて行く」。あるとき、若者が十字架に石を投げつけているのを眼にして、「お見事」と彼は云った、「お前はその的を射あてるだろうから」。彼の周りに立っていた少年たちが、「咬みつかれないように用心しょうね」と言ったのに対して、「元気を出せ」と謂った、「小僧ども、犬はビート(青二才)は食わん」。ライオンの皮を羽織ってふんぞり返っている男に向かって、「よしてくれ」と彼は謂った、「勇気の衣を辱めるのは」。カッリステネースを浄福視し、アレクサンドロス〔大王〕のもとで何という贅沢にあずかっていることかと言った者に対して、「あれは悪霊に憑かれているんだ」と云った、「昼食をとるのも夕食をとるのも、アレクサンドロスが適当と思うときなんだから」。 [46] 金に困ると、友人たちに、貸してくれとは言わず、(返すぺきものを)返してくれと言ったものだった。あるとき、広場で手淫に耽りながら、「ああ」と謂った、「お腹もまたこんなぐあいに、こすりさえすれば、ひもじくなくなるというのならいいのになあ」。若者が太守たちの伴をして宴席へ出かけて行くのを眼にして、引き離して家族のところへ連れて行き、厳重に見張っておくように命じた。美しく飾り立てた若者が彼にあることを質問したのに向かって彼は謂った、着物をまくり上げて、女なのか男なのか示さないうちは、お前と口をきかない、と。浴室でコッタボス遊びをしている若者に向かって、「うまく行けば行くほど、それだけいっそうまずいことになるよ」。ある人たちが宴席で、まるで犬にでもやるように、彼に骨を投げあたえた。すると彼は、帰りぎわに、ちょうど犬がするように、彼らに小便をひっかけた。 [47] 弁論家たちや、またすべて名声を求めて語っている人たちを、彼は「三重にみじめな者」と言う代わりに、「三重人格者」と呼んでいた。無学な金持ちを、彼は黄金色をした羊だと云っていた。放蕩者の家に「売物」という文字が記されているのを眼にして、「わかった」と云った、「そんなに酔いつぶれてしまったんでは、お前が持ち主をやすやすと吐き出す(追い出す)だろうってことが」。ある若者が、自分を悩ます人たちが多くて困ると訴えると、彼はその若者に向かって、「やめることだな」と謂った、「あんたも、人の気をそそるような素振りをあちこちで見せるのは」。不潔な公衆給湯に向かって、「ここで入浴する者たちは」と謂った、「どこで入浴すればいいのかね」。太ったキタラ弾きの歌い手が誰からも罵られていたとき、彼ひとりこの男を褒めた。そして、何ゆえかと尋ねられると、「これだけの大きな身体をしていながら、キタラに合わせて歌って、盗賊にもならないからさ」。 [48] 聴衆からいつも見捨てられているキタラ弾きの歌手に彼は挨拶した、「やあ、雄鶏さん」。相手が、「何ゆえ(そう呼ぶのか)」と云うと、「なぜなら」と謂った、「あんたが歌うと、みんなが目をさますから」。ある若者が演説をぶっていたとき、彼は懐にハウチワ豆をいっぱい詰めこんで、その男の真ん前でむしゃむしゃ食べ始めた。すると、そこに集まっていた大勢の者が彼の方に目を向け変えたので、どうして人びとは、あの男を見捨てて、自分の方を見るのか不思議だよ、と彼は謂った。また、強烈に迷信深いある男が彼に、「一撃で君の頭を打ち割ってみせるよ」と言ったとき、「それならわしの方は」と云った、「左側からのクシャミひとつであんたを震え上らせてやろう」。へーゲシアスが、彼の著作のひとつを自分に貸してくれるように頼んできたとき、「馬鹿だね」と彼が謂った、「おお、ヘーゲシアス、乾し無花果なら、絵に描いたものではなくて、本物の方を選ぶくせに、勉強のことになると、あんたは本物には目もくれないで、書かれたものの方に向かって行くとはね」。 [49] また、彼が追放になったことについて彼を非難した者に向かって、「だが、そのことがあったればこそ」と云った、「おお、悪霊に憑かれた人よ、わしは哲学をすることになったのだ」。逆にまた、ある人が、「シノーぺー人たちが君に追放刑を宣告したのだね」と言ったら、「そこでわしは、彼らに故国に留まることを宣告してやったのさ」。あるとき、オリンピックの勝者が羊を飼っているのを見て、「ずいぶん速く」と彼が云った、「おお、最善の人よ、オリュムピアからネメアへと移動したんだな」。何ゆえ競技者たちは無神経なのか、と尋ねられて、彼は謂った、「豚肉と牛肉とで身体が出来ているからさ」。あるとき、彼は人像を無心した。そして、何ゆえそんなことをするのかと尋ねられると、「練習しているのだ」と云った、「断られることを」。ひとにものを無心する場合には――というのも、最初は食べるのに困ってそうしたわけだが――彼は謂った、「もし、他の人にも与えておられるのなら、わたしにも下さい。だが、まだ誰にも与えておられないなら、わたしからまず始めてください」。 [50] あるとき、僭主から、人像にはどのような青銅がより適しているかと尋ねられて、彼は謂った、「ハルモデイオスやアリストゲイトン(の像)が鋳られたようなのが」。〔僭主の〕ディオニュシオスは友人たちをどのように扱っているかと尋ねられて、「財布のようにだよ。中味がいっぱいなのは吊り下げているが、空っぽなのは放り出しているのさ」。新婚の男が家の戸口に、 [51] 善勇の士人たちは神々の似姿であると〔彼は謂った〕。恋は暇を持て余している者たちの仕事だと〔彼は謂った〕。人生において惨めなものは何かと尋ねられて彼は謂った、「困窮している老人だ」。獣たちのなかで何に咬まれるのが最悪かと尋ねられて彼は謂った、「荒々しい奴のなかでは密告者、温和な奴のなかでほ追従者」。あるとき、二頭のケンタウロスが最悪の描かれ方をしているのを見て、謂った、「このうちどちらがケイローン〔ケンタウロスの名前と同時に、「より悪い」という意味がある〕かね」。お世辞は、蜂蜜で人を窒息させるようなものだと彼は謂った。胃袋は生活を吸いこむカリュブディス(渦巻)だと彼は言っていた。あるとき、笛吹のディデュモーン注5)が姦夫の罪で捕えられたと聞いて、「その名前からして」と彼は謂った、「ぶらさげられるのがふさわしいやつだ」。何ゆえ金は蒼白さをおびた色をしているのかと尋ねられて彼は謂った、「それを狙う奴が大勢いるからさ」。ある女が駕籠で運ばれているのを見て、「檻は」と彼が謂った、「獣だけのものではないのだね」。 [52] あるとき、逃亡奴隷が井戸の縁に腰かけているのを見て謂った、「お若いの、落ちないように気をつけろよ」。公衆浴場で、[青二才の]着物泥棒を見かけて謂った、「狙いは少々の軟膏(a)leimma/tion)なのか、それとも、他人の着物(a)/ll' i(ma/tion)なのか」。あるとき、何人かの女がオリーブの樹で首をつっているのを見て、「どの樹にも」と彼は謂った、「こんな実がなっておればいいのになあ」。追い剥ぎを見て謂った、 下女か少年奴隷も持っているかと尋ねられて、彼は謂った、「いない」。そこで、「それでは、死んだら、誰があなたの葬送をしてくれるのか」と云うと、彼は謂った、「この家を欲しい者が」。 [53] 美形の若者が無警戒に眠りこんでいるのを見て、彼はつついて、「目をさましなさい」と謂った、 ぜいたくにおかずを買いこんでいる者に向かっては、 プラトーンがイデアについて対話し、机性(trapezo/yhj)とか盃性(kuaqo/thj)とか名づけたとき、「わしには」と彼が云った、おお、プラトーンよ、机や盃は見えるけれども、机性とか、盃性とかは、どうしても見えん」。すると相手が、「それは道理だ。君は、机や盃を見る眼は持っているが、机性や、盃性を観る理性(nou~j)を持っていないのだから」。 [54] ある人から、「ディオゲネースはどんな人だとあなたに思われるか」と尋ねられて、「ソークラテースだよ」と彼〔プラトーン〕は云った、「狂ってはいるが」。どのような年頃に結婚すべきかと尋ねられて彼は謂った、「青年はまだその年ではないし、老人はもうその年ではない」。拳骨から得られるものは何かと尋ねられて、「〔頭を守るための〕被り物」と彼は謂った。美粧している若者を見て彼が謂った、「男たちのためなら、的はずれ(a)tuxeij)、女たちのためなら、間遠い(a)dikei~j)」。あるとき、若者が顔を赤らめているのを見て、「元気を出せ」と彼は謂った、「そのようなのこそ徳の色だ」。あるとき、二人の法律家〔が論じ合うの〕を聞いたあとで、その二人をともに非難した、一方は盗んだのだし、他方は何も失っていないと云って。どんなぶどう酒が飲むのに快適かと尋ねられて彼は謂った、「他人のぶどう酒」。「多くの人が君のことを嘲笑しているよ」と云った者に対して、「しかし、わしは」と謂った、「嘲笑されてはいない」。 [55] 生きることは悪だと云った者に対して、「生きることがではなく」と云った、「悪く生きることが」。彼の奴隷が逃亡したのを探すようにと忠告する者たちに対して、「おかしな話だよ」と彼は謂った、「もし、マネース〔奴隷の名前〕はディオゲネースなしにも生きていけるが、ディオゲネースの方はマネースなしには生きていけないとすれば」。 オリーブの実で朝食をとりながら、菓子がつままれたとき、これを放り出して謂う、 また別のときには、 お前はどこの産の犬かと尋ねられて、彼は謂った、「腹の空いているときはメリタ(マルタ)産の犬で、満腹のときはモロシア産の犬だ。これらはどちらも多くの人が褒めている犬だが、いざ猟に連れて行くとなると、彼らは労苦を恐れてあえてそうしようとはしないのである。それと同様に、あんたたちもまたもろもろの苦痛にあうのが怖くて、わしと生活を共にすることができないのだ」。 [56] 知者は菓子を食べるのかと尋ねられて、「何でも」と云った、「食べる。それは他の人たちと同様に」。何ゆえに、ひとは乞食には施しをするが、哲学者にはしないのかと尋ねられて、彼は謂った、「足萎えや盲人になるかも知れぬとは予想しても、哲学者になるだろうとは決して〔思わない〕からだよ」。彼がある愛銭家に無心した。相手がしぶっていると、「あんた」と云った、「あんたにお願いしているのは、食いぶち (trofh/)であって、葬式代(tafh/)ではないのだよ」。あるとき、通貨を偽造したことで非難されると、彼は謂った、「たしかに、かつてのわしは、今のあんたと同じような人間だった時期があったよ。だが、今わしがあるような人間には、君は将来決してなれないだろうな」。また、同じ件で彼を悪罵した別の者に対しては、「たしかにすぐに小便をひっかけたりもしていたが、今は、そんなことはしない」。 [57] ミュンドスにやって来て、城門は大きいのに、町そのものは小さいのを眼にして、「ミュンドスの諸君」と彼は謂った、「城門を閉めたまえ、諸君の町が出て行かないように」。あるとき、紫の衣を盗もうとしていてその現場を押さえられた男を眼にして彼は謂った、 [58] あるとき、市場のなかでものを食べていたといって罵られると、「市場のなかだったのだよ」と彼は謂った、「おなかが空いたのも」。またある人たちは、次の話も彼についてのものだと謂っている。すなわち、彼が野菜を洗っているのをプラトン眼にして、傍によって、おだやかな口調で彼に云った、「もし君がディオニュシオスに仕えていたら、君はいまごろ野菜なんかを洗うことはなかったろうにね」。すると相手も同じくおだやかな調子で答えたという、「あんたも、もし野菜を洗っていたなら、ディオ ニュシオスに仕えることはなかったろうにな」。「多くの人たちが君を嘲笑しているよ」と云った者に対して、「彼らに対してはまた、ロバたちがそのようにしているな。だが、彼らもロバのすることなんかを気にしていないように、わしもまた彼らのすることなんかを少しも気にしていないよ」。あるとき、若者が哲学しているのを眼にして、「よきかな」と云った、「お前〔=哲学〕が身体の愛者たちを、魂の美しさの方へ転向させようとしているのは」。 [59] あるひとが、サモトラケーの奉納物に驚嘆していたので彼は謂った、「救われなかった人たちも奉納していたなら、はるかに多くの奉納物があったろうにね」。しかし、これはメーロス人ディアゴラスのことばだと謂っている人たちもいる。美形の若者が、宴会に出かけようとしているのに謂った、「より悪い人間(xei/rwn)となって帰りてくるだろうよ」。さて、その若者が帰ってきて、次の日、「ぼくは行ってきましたが、でも、少しもより悪い人間(xei/rwn)にはなりませんでしたよ」と云ったら、彼は謂った、「なるほど、ケイローンにではないが、エウリュティオーン〔よりだらしのない人間〕になったのだよ」。気むずかしい男に無心した。すると相手が、「わたしを説き伏せたなら」と言ったので、彼は謂った、「あんたを説き伏せることができたとしたら、首をくくるように説き伏せただろうよ」。ラケダイモーンからアテーナイヘ帰ろうとしていた。すると、「どちらへ? またどこから?」と訊ねた者に、「男部屋から」と彼は云った、「女部屋へ」。 [60] オリュムピア祭から帰ってきた。このとき、群衆は大勢だったかと訊ねた者に向かって、「大勢だったよ」と彼は云った、「群衆はね。しかし人間は僅かだった」。放蕩者は、突き出た崖の上に生えている無花果の木のようなもので、その実を味わうのは人間ではなくて、鴉や禿鷹がこれをついばむのだと彼は云った。プリュネー〔アテーナイの遊女〕がデルポイに黄金のアブロディテー像を奉納したとき、彼はその上に、「ヘッラス人たちのうちの不身持な女より」と記したと言い伝えられている。あるとき、アレクサンドロス〔大王〕が彼の前に立って、「余は、大王のアレクサンドロスだ」と云ったら、「わしは」と謂う、「犬のディオゲネースだ」。どんな振舞いをするから犬と呼ばれているのかと尋ねられて、彼は謂った、「ものを与えてくれる人たちには尾をふり、与えてくれない人たちには吠えたて、悪者どもには咬みつくからだ」。 [61] 無花果の木から実をとっていた。すると番人が、「その木で、つい先日、人が首をつった」と云ったので、「それならわしが」と謂う、「この木を祓い清めてやろう」。オリンピック大会の勝者がひとりの遊女に熱い眼差しを向けているのを見て、「見ろ」と彼は謂った、「闘争狂いの雄羊が、行きずりの小娘によってどんなふうに首をひねられているかを」。器量よしの遊女は、命取りになる蜂蜜入りの飲み物に近似していると彼は言っていた。彼が市場で朝食をとっていると、周りに立って見ていた人たちは、口々に「犬」と言った。すると彼の方は、「お前たちこそだ」と謂った、「わしが朝食をとっているのを周りに立って見ているのだから」。二人の軟弱な男が彼を避けようとして身を隠すと彼は謂った、「心配するな。犬はビート(青二才)にかぶりつきはせん」。売春している子どもについて、あれはどこの出身かと尋ねられて、「テゲア出身注6)」と彼は謂った。[62] 才能のない格闘技選手が医療の仕事にたずさわっているのを眼にして謂った、「これはどういうことかね。それとも、かつてあんたを打ち負かした連中を、今度はあんたがくたばらせてしまおうというのかね」。ある遊女の息子が、群衆のなかに石を投げつているのを眼にして、「気をつけるんだよ」と彼は謂った、「お前のお父さんにぶつけないように」。 ある少年奴隷が、愛者からもらった戦刀を彼に見せびらかしたとき、「戦刀は」と彼は謂った、「美しいが、柄注7)が醜い」。ある人たちが、彼に贈物をした人を褒めたとき彼は謂った、「しかし、それを受けとるだけの値打ちのあるぼくの方は褒めないのだね」。ある人から粗衣(tri/bwn)返してくれと要求されて彼は謂った、「もしあんたがそれを贈物としてくれたのなら、わしの持ちものだし、貸してくれたのなら、使用中だ」。あるすり替え子(u(pobolimaioj)が、上衣のなかに金をもっていますと彼に云ったので、「なるほど」と彼は云った、「だからこそ、その〔外衣〕を〔枕に〕すり替えて寝るのだね」。[63] 哲学から何が彼に得られたかと尋ねられて、彼は謂った、「他に何もないとしても、少なくとも、どんな運命に対しても心構えができているということはな」。どこの国の出身かと尋ねられると、「世界市民(kosmopoli/thj)だ」と彼は謂った。ある者たちが、息子が授かるようにと神々に供犠していたので、彼は謂った、「しかし、どのような性質の子が生まれてほしいかについては、供犠しないのかね」。あるとき、講の出資金を請求されると、それの取り立て役に向かって彼は謂った。 他の人たちからは(剥ぎ)取るがよい、だが、ヘクトールには手を出すな。 王たちの側室は女王だと彼は謂った。なぜなら、何でも自分たちによいと思えることをするのだから、と。アテーナイ人たちが、アレクサンドロス〔大王〕にディオニュソス〔の称号〕を票決したとき、「わしも」と彼は謂った、「サラピスにしてくれ」。不浄な場所に足を踏み入れているといって罵った者に対して、「太陽だって」と彼は謂った、「便所のなかに〔入りこむ〕が、穢されることはないからな」。 [64] 神殿のなかで食事をしていると、その最中に、穢れたパンが供されたので、これを拾い上げて投げ捨てた、穢れたものは神殿に入るべからずと云いながら。「君は何も知らぬくせに哲学をしている」と云った者に対して、彼は謂った、「たとえわしが知恵のあるふりをしているだけだとしても、それこそがまた哲学をしていることなのだ」。わが子を〔弟子入りさせようと〕引き合わせて、この子はたいへんよい素質をもっているし、また性質もいたってすぐれていると云った者に対して、「それなら、どうして」と云った、「わしが必要なのかね」。真面目なことを言いはするが、実行することのない者たちのことを、キタラと何も異なるところはないと彼は言った。なぜなら、キタラもまた、聞きもしなければ、感じもしないのだから、と。劇場へ入って行くときには、出て来る人たちと鉢合せになるようにした。それで、何ゆえにと尋ねられて、「これこそが」と彼は謂った、「全生涯を通じてなそうと心がけていることなのだ」。 [65] あるとき、ひとりの若者が女じみた仕草をしているのを見て、「恥ずかしくないのか」と彼は謂った、「自分自身のことを、自然よりも劣ったものにしようとたくらむとは。というのも、それ〔自然〕はお前を男にしたのに、お前は自分をむりやりに女にしようとしているのだから」。愚かな男が弦楽器を調律しているのを見て、「恥ずかしくないのか」と彼は謂った、「音声の方は楽器に合わせるべく調律しながら、魂の方は生活と不調和なままにしていることが」。「わたしは哲学には向いていません」と云った者に対して、「それなら、どうして」と彼は謂った、「おまえは生きているのだね、美しく生きるつもりがおまえにはないのだとすれば」。自分の父親を軽蔑している者に対して、「恥ずかしくないのか」と彼は謂った、「おまえが自分を誇りにしている所以の、当のものを軽蔑するとは」。器量よしの若者が似つかわしくないほどのおしゃぺりをしているのを見て、「恥ずかしくないのか」と彼は謂った、「象牙の鞘から鉛の戦刀を抜きはなったりして」。 [66] 居酒屋で飲んでいるといって罵られて、「もちろん、床屋では」と謂う、「散髪してもらうよ」。アンティパトロスからちょっとした粗衣(tribw/nion)をもらったといって罵られて、彼は謂った、 彼に角材を打ち当てながら、「気をつけろよ」と云った者に対して、これを杖でなぐりつけてから云った、「気をつけろ」。遊女に言い寄っている男に向かって、「何で手に入れたいのかね」と謂った、「おめでたい男よ、手に入れないほうがよいものを」。香油を塗っている者に対して、「気をつけろ」と云った、「あんたの頭のよい香りが、あんたの人生に悪い臭いをもたらさないように」。家僕は主人に、劣悪な人間は欲望に隷従すると彼は謂った。 [67] 人足奴隷がそう呼ばれるのは何ゆえかと尋ねられて、「それは」と彼は謂う、「人間の足をもっているけれど、魂の方は、そんなことを詮索している、今のあんたが〔持っている〕ようなありさまだからだ」。放蕩家に1ムナを無心した。他の人たちには1オボロス無心するのに、自分には1ムナも〔無心する〕のは何ゆえかと訊ねられて、「それは」と云った、「他の人たちからはまたもらえるという望みがあるけれど、あんたからは、またもらえるかどうかは、神々の膝の上にあることだからね」。彼は無心するが、プラトーンは無心することなんかないといって罵られて、「あの御仁も」と彼は云った、「無心しているよ。ただ、 才能のない射手を見て、的のそばに座った、「ここなら当らないだろう」と云いながら。恋している者たちは、快楽を求めながら得損なうと彼は謂った。 [68] 死は悪かどうかと尋ねられて、「どうして悪でありえよう」と彼は云った、「それがやってきたとき、われわれが知覚することのないものが」。アレクサンドロス〔大王〕が前に立って、「そなたは、余が恐ろしくないのか」と云ったのに対して、「いったい、あなたは何ものか」と彼は云った、「善か、それとも、悪か」。そこで相手が、「善だ」と云ったので、「それでは、誰が」と彼が云った、「善を恐れるでしょうか」。教養は、若い者たちにとっては慎み、老人たちにとっては慰め、貧しい人たちにとっては財産、富める着たちにとっては飾りである、と彼は云った。あるとき、姦夫ディデュモーンが、乙女(ko/rh)の眼を治療してやっていたのに向かって、「気をつけろよ」と彼が謂う、「処女の眼を診てやっている間に、瞳(kosmopoli/thj)をだめにしないように」。ある人が、友人たちから謀られているぞと云ったとき、「いったい、どうしたらいいのだ」と彼は謂った、「友人たちをを敵と同じように扱わねばならないとしたら」。 [69] 人間界で最美なものは何かと尋ねられて、彼は謂った、「直言(parrhsi/a)」。教師の〔教室〕に入って行って、ムゥサ〔の女神像〕はたくさんあるが、生徒はわずかなのを見て、「神々のおかげで」と彼は謂った、「先生、たくさんのお弟子さんをお持ちですね」。また彼は、デーメーテールのこと〔飲食〕も、アブロディテーのこと〔性交〕も、何でもみな人前で行なうのを常としていた。そして、何か次のような言葉〔論〕を提起していた。――もし、食事をとることが何らおかしなことではないとすれば、広場でとってもおかしくはない。ところで、食事をとるのはおかしなことではない。ゆえに、市場でとってもおかしくはない。また、人の見ているなかで、しばしば手淫に耽りながら、こう言っていたものである。「お腹の方もこするだけで、ひもじさがやむとよいのになあ」。さらに、他にも彼に帰せられていることがあるけれども、数が多いので、列挙すれば長い話になるだろう。 [70] ところで、彼の言によれば、修練(a)/skhsij)には2つある、ひとつは魂の〔修練〕、もうひとつは身体の〔修練〕である。後者は、それによって鍛錬を続けることで生じる諸々の表象(fantasi/a)が、徳の実践へと向かう動きを容易にしてくれる〔修練〕である。もう一方の〔修練〕は、他方の〔身体の修練〕なくしては不完全な〔修練〕である。というのは、好調さ(eu)eci/a)や強さ(i0sxu/j)は、魂にかかわるものであれ、身体にかかわるものであれ、どちらも本来ふさわしいもののなかに生ずるからである、と。そして、鍛錬を積むことによっていかに容易に徳を修得するかということの例証を彼は提示したのであった。例えば、手仕事の技でも、その他の技術においても、職人たちは訓練(mele/th)によって並々ならぬ手ぎわのよさを身につけているのが見られるし、笛吹きや競技選手にしても、おのおのが固有の不断の労苦によって、どれだけ他を凌ぐはどの者になっているか、そしてもしこの人たちが、そういった修練を魂にまでも移し及ぼしたならば、彼らの骨折りは、無益なものにも無効なものにもならなかったであろうことが見てとれる、ということ〔を彼は提示したのであった〕。 [71] さらに彼が言ったのは、人生においては、修練なしには、何ごともけっしてうまくゆくことはないのであって、この力能こそが万事を克服して行くのだということである。だからして、無用な労苦ではなく、自然にかなった〔労苦〕を選んで、幸福に生きるようにすべきであり、悪霊に憑かれた生き方をするのは無知(a!noia)のせいである。というのも、快楽に対する軽蔑こそが、前もって練習されることで最も快適になるからである。つまり、ちょうど、快適な生活に慣れている人たちは、それと反対の生活に向かうときには不快を感ずるように、正反対に修練された者たちは、諸々の快楽そのものを軽蔑することに、むしろよりいっそうの快適さを感ずるからだという。以上のようなことを彼は語りかけていたのであり、またその通りに実行していたことも明らかである。つまり、彼は本当に通貨(no/misma)を改鋳したのであって、法律(no/moj)によることには、自然(fu/sij)にもとづくことほどの意味は何ら与えなかった。彼が言うところは、自由にまさるものは何もないとして、ヘーラクレースと同じ型の人生を送り通すということだったのである。 [72] すべては知者のものであると言い、われわれが先に述べた〔37節〕ような言葉〔論〕を提起した。〔すなわち〕すべては神々のものである。また、神々は知者の友である。ところで、友のものは共有である。ゆえに、すべては知者のものである、というわけである。また法に関しても、これなくしては、市民生活を送ること(politeu/esqai)はできないと〔彼は言う〕。なぜなら、国家(po/lij)がないのに文明(a)stei/on)に何らかの益のあることを彼は否定する。国家とは文明である。そして、国家なくしては、法も何の益もない。ゆえに、法は文明である、というわけである。また、生まれの良さとか、名声とか、すべてそのようなものを彼は茶化した、悪徳の飾りであると言って。また、唯一の正しい国制は世界的な規模のものである、とも。さらに彼が言ったのは、婦人は共有であるべきこと、そして結婚という言葉も使わないで、口説き落した男が口説かれた女と同棲すればいいのだと。それゆえに、その息子たちもまた共有である〔べきだと〕。 [73] また、神殿から何かを持ち去るとか、あるいは、ある種の動物の肉を味わうとかすることは、少しも異様なことではない。人肉に手を出すことさえも、異国の風習から明らかなように、不敬なことではない、と。また、正しい言い方をすれば、あらゆるものがあらゆるもののなかに含まれ、あらゆるものを貫いて行きわたっているのだと彼は言う。すなわち、(身体の構成要素である)肉(の一部)はパンのなかにも含まれているし、パン(の一部)はまた野菜のなかに含まれているのである。というのは、その他の物質についても、そのいたるところにおいて、目に見えぬ孔を通して、微粒子が中へ入ったり、また蒸気となって外へ出たりしているからである、と。この説は、悲劇『テュエステス』のなかで彼が明らかにしているものである。ただしこれは、一連の悲劇作品がほんとうに彼のものであって、彼の弟子のアイギナ人ビリスコスの作、もしくは、パポリノスが『歴史研究雑録集』のなかで、彼の死後にこれを書いた人としているルゥキアーノスの子パシボーンの作ではないとしての話であるが。彼はまた、音楽や幾何学や天文学、およびその種の学問は、役に立たないもの、必要ないものとして、無視してよいと考えていた。 [74] ところで彼は、以上述べたところからも明らかなように、話し合いのなかでの受け答えにおいては、きわめて巧みに勘どころを押えることのできた人であった。 また彼は、奴隷として売りに出されたときにも、まことに堂々とした態度でそれに堪えた。というのも、彼はアイギナ島への航海中に、スキルパロスの率いる海賊どもによって捕えられ、クレータ島に連れて行かれて売りに出された。そして触れ役の者が、お前にはどんな仕事ができるかと尋ねたとき、「人びとを支配することだ」と彼は答えたからである。またその折りに彼は、紫の縁飾りのある立派な衣裳を身につけた或るコリントス人、つまり、前に述べたクセニアデースのことであるが、その人を指さして、「この人におれを売ってくれ。彼は主人を必要としている」とも言ったのであった。それで、クセニアデースは彼を買い取って、コリントスへ連れ帰り、自分の子供たちの監督にあたらせ、また家のこといっさいを彼の手に委ねた。そして彼の方は、家事全般をたいへんうまく取りしきったので、主人のクセニアデースは、「よきダイモーン(福の神)がわたしの家には舞い込んだぞ」と言いながら、そこらじゅうを歩き廻ったほどであった。 [75] また、〔キュニコス派の〕クレオメネースが、『子供の指導について』という表題の書物のなかで謂っているところによると、知己たちが彼の身代金を払ってやろうとしたら、彼の方は、彼ら〔知己〕のことをおめでたいと云ったという。というのは、ライオンだって、飼い主たちの奴隷ではなくて、飼い主たちこそライオンの〔奴隷〕だから、と。つまり、恐れるというのは奴隷のすることだが、この野獣は人びとに恐怖をあたえるのだから、と。また、この人の行なう説得には一種驚嘆すべきものがあり、言論でもって、誰であろうとすぺての人をやすやすと虜にすることができたのである。例えば、言われているところでは、アイギナ人のオネーシクリトスとかいう人は、二人の息子のうちの一方のアンドロステネースをアテナイに遊学させたのだが、この息子はディオゲネースの弟子になって、その地にとどまってしまった。そこで父親は、(様子をさぐらせるために)もう一方の息子をも――この方が年上で、先に述べた〔73節〕ピリスコスであるが――彼のところへ送ったところ、このビリスコスもまた同じょうに引きとめられてしまった。[76] それで遂に三度目は、父親自身が出かけてきたのであるが、この父もまた同様に、息子たちと一緒になって哲学に励むことになってしまったということである。ディオゲネースの言論には、何かこのような魔力があったのである。彼の聴講者のなかにはまた、「誠実な人」と綽名されたボーキオーンや、メガラ人スティルポーン、そして他にも多くの政治家たちがいた。 さて、彼は九十歳近くで生涯を閉じたと言われている。その死については、いろいろと異なった言葉〔説〕が言われている。すなわち、ある人たちは、彼は生の蛸を食べてコレラにかかり、それがもとで亡くなったという。またある人たちは、自分で息をつめて〔亡くなった〕という。このなかに、メガロポリス人ケルキダスも入っており、メリアンボス〔イアムボス調の抒情詩〕のなかで次のように言っている。 他の人々の謂うには、彼は犬どもに蛸を分け与えようとしていたところ、足の腱を咬みつかれて、それで往生したという。しかしながら彼の知己たちは、アンティステネースが『哲学者たちの系譜』のなかで謂っているところでは、息をつめたことが死の原因だろうと推測していたという。すなわち、彼はたまたまコリントス近郊の体育場のクラネイオンで過ごしていた。そして、いつもの習慣で、知己たちがそこへやって来たとき、彼が外套にくるまっているのを見つけたが、彼が眠っているとは思えなかった。というのは、彼はうたたねしたり、居眠りしたりする人ではなかったから。そこで、粗衣(tri/bwn)を広げてみると、彼がすでに息たえているのがわかり、これは、彼がもうこの生から立ち去りたいと望んでしたことだと彼らは解釈した。 [78} そこでまた、伝えられるところによると、誰と誰が彼を埋葬するかということで、弟子たちの間に争いが起った、いや、彼らは掴み合いをするまでにもなったのである。しかし、そこへ彼らの父親たちやその筋の着たちがやって来て、これらの人の手によって、彼はイストモス(地峡)に通じる城門の傍に埋葬されたということである。またその人たちは、彼のために円柱状の墓碑をそこに建て、その上にパロス島産の大理石の犬を据えたのであった。またその後、彼の故国の市民たちも、彼を称えて青銅の像を建て、その上に次のような詩句を刻んだのであった。 [79] わたしにもまた、プロケレウスマティコス調(四短音節脚)の詩型で彼に寄せて作った次のような詩がある。 しかし、ある人たちの言うところによると、彼は死が迫っていたときに、死んだ後は埋葬しないで、どんな野獣の餌食にでもするように投げ捨てておくか、それとも、坑のなかへ押し込んで僅かの土をその上に盛っておくかするようにと、(だが、また別の人たちによると、イリッソス河に投げ込むようにと、)命じたということである。そしてこれは、仲間の者たちに迷惑をかけまいとしてのことであったという。 なお、デーメートリオスが『同名人録』のなかで謂っているところでは、アレクサンドロスがパピュローンで死んだのと、ディオゲネースがコリントスで死んだのとは同じ日であったという。なお彼は、第百十三回オリンピック大会期(前324-321年)の頃には老齢であった。 [80] また、彼の書物として伝えられているものには、次のものがある。 しかしながら、ソーシクラテースは『哲学者たちの系譜』第1巻のなかで、またサテュロスは『哲学者伝』第4巻のなかで、ディオゲネースには何一つ著作はなかったと謂っている。なおサテュロスの謂うには、ディオゲネースの悲劇作品とされているものは、彼の知己で、アイギナ人のビリスコスの作であるという。しかしソーティオーンは(『哲学者たちの系譜』)第7巻のなかで、次にあげるものだけがディオゲネースの著作だと謂う。『徳について』、『善について』、『エロース論』、『乞食』、『トルマイオス』、『ポルダロス』、『カサンドロス』、『ケバリオーン』、『ピリスコス』、『アリスタルコス』、『シシュボス』、『ガニュメーデース』、『箴言集』、『書簡集』である。 [81] ところで、ディオゲネース〔という名前の人〕は5人いた。第1は、アポッローニア人で、自然学者。この人の書物の冒頭は、次の言葉で始まっている。「どんな議論を始めるにあたっても、必要なことは、わたしの思うに、異論の余地のない出発点を提示することである」。第2は、シキュオーン人で、『ベロボンネーソス誌』の著者。第3は、われわれがとりあげてきたまさにその人。第4は、ストア派の人で、セレウケイアの生まれの者。このセレウケイアは〔パピュローンに〕近いので、彼はまたパピュローン人とも呼ばれている。第5は、タルソス人で、詩に関する問題について書物を著し、それらの問題を解決しょうと試みた人である。 さて、われわれのこの哲学者は、アテーノドーロスが『散策』第8巻のなかで謂うところでは、香油を身体に塗っていたので、いつもつやつやして見えたという。 |