title.gifBarbaroi!
back.gifテーバイのクラテース

犬儒派作品集成

マローネイアのヒッパルキア

〔c. 300 B.C.〕



[出典]Wikipedia「Hipparchia of Maroneia」

Hipparchia.jpg
ローマのVilla Farnesina出土の壁画。
クラテースとヒッパルキア。
花嫁になるべく、自分の所有物を持ってクラテースに近づくヒッパルキア。

[略伝]

マローネイアのヒッパルキア(+Ipparciva)(fl. c. 325 BC)
 犬儒派の女流哲学者。テーバイのクラテースの妻。
 〔トラキアの〕マローネイアに生まれたが、家族してアテーナイに移住、そこでヒッパルキアは当時ギリシア世界における最も有名な犬儒派哲学者クラテースに接触、恋に落ち、両親の反対をおしきって彼と結婚した。夫とともにアテーナイの路上で、犬儒派らしい貧困生活をつづけた。
 彼女の哲学的見解は伝存していないが、たいていの犬儒派と同様、彼女の影響は、当時の上品な女性のけっして受け入れられない生き方を選ぶという、人生のその実例に存する。クラテースに対する愛、因習的な価値に対する拒絶は、後世の文筆家たちの一般的な主題となった。




人生

 ヒッパルキアは、前350年頃、トラキアのマローネイアに生まれた〔D.L. vi. 96, Suda, Hipparchia〕。家族はアテーナイに移住、そこで兄弟のメートロクレースは、テーバイのクラテースの弟子となった〔D.L. vi. 94〕。ヒッパルキアはクラテースと恋に落ち、想いがつのって、もしも彼との結婚を許してくれなければ自殺すると、両親に告げた。両親は、娘を思いとどまらせてくれるようクラテースに懇願、クラテースは彼女の前に立ち、衣服を脱いで、「これがそなたの花婿だ。財産はここにあるだけだ」と言った〔D.L. vi. 96〕。案に相違して、ヒッパルキアは大いに満足し、クラテースと同じ衣服をまとって、犬儒者の生活を選び、夫とともにどこでも公的な場に現れた〔D. L. vi. 97〕。クラテースは、自分たちの結婚を「犬の結婚(kunogamiva)」と呼んだ〔Suda, Krates〕。彼らはアテーナイの回廊や柱廊に住みついたと言われ〔Musonius Rufus, 14. 4.〕、Apuleiusや後世のキリスト教作家たちは、彼らは日中、公然と性交したと、おぞましげに説いた〔Apuleius, Florida, 2. 49.〕。これは犬儒派的破廉恥(ajvaivdeia)の首尾一貫した行為であり、ヒッパルキアは男の服装をして、夫と対等に生きたという単純な事実にすぎなかったにもかかわらず、アテーナイ社会にとっては衝撃であったにちがいない。
 ヒッパルキアは、少なくとも2人の子 — 女の子〔D.L. vi. 93〕と、パシクレースという男児〔Suda, Krates, D.L. vi. 88〕をもうけた。彼女が何時、どのように死んだかは知られていない。シドーンのAntipater作と伝えられるエピグラム詩が彼女に寄せられている。

わたしはヒッパルキア、ぞろりとした長衣まとった女の仕事ではなく、
犬儒たちのたくましい生を選んだ。
わたしを喜ばせるのは、留め金ついた長衣でもなく、底深い沓でも、
艶々した髪抑えでもない。
むしろ、頭陀袋と、旅に連れだつ杖、これにふさわしい
二つ折りの外套と、大地の上に広げる寝床。
わが名は、マイナロン山のアタランタよりもすぐれよう。
知恵が山駈けることよりもすぐれているほどに。
 〔Greek Anthology, 7. 413.〕
hipparchia-small.jpg
学名"Hipparchia aristaeus algirica"

 蝶の属名にヒッパルキアの名前が採られている。




哲学

 彼女は哲学的論文をいくつか書き、無神論者テオドーロスに宛てたいくつかの書簡があるとSudaはいうが〔Suda, Hipparchia〕、どれ一つも伝存していない。テオドーロスとの対話が伝えられている。

 彼女がクラテースといっしょに酒宴に参加したとき、無神論者テオドーロスに彼女は次のような詭弁を仕掛けた。
 「テオドーロスが何か行って、不正すると言われないことは、ヒッパルキアが行っても、不正するとは言われない。テオドーロスが自分を打っても、不正するのでないなら、ヒッパルキアが彼を打っても、不正するのではない」。
 彼は彼女の言うことに応えられなかったが、彼女の衣服を引っ張り上げた。
 〔Suda, Hipparchia

 これに対して、彼女は、「世のたいていの女と異なって」〔D.L. vi. 97〕、抗いも羞じもしなかったと言われている。また、テオドーロスが(エウリピデスの『バッカイ』を引いて)、「機の傍に梭を置き去りにしている女は誰か」と言ったとき、彼女はこう答えたといわれている。

 「わたしが」と彼女が謂う、「そうよ、テオドーロスさん。でも、わたしが自分について悪い料簡をおこしているとは、あなたに思われないでしょうよ、織機に向かって浪費する時間を、教育に使ったとしても」。
 〔D.L. vi. 98〕

 他にも数多くの逸話がヒッパルキアについて伝えられているが〔D.L. vi. 98〕、ほとんど失われた。われわれはまた、クラテースがキティオーンのゼーノーンに教えたということを知っている。しかし、ゼーノーンがそのストア主義を展開する際に、ヒッパルキアがどれほどの影響を与えたのか、われわれは知ることができない。しかし、ゼーノーンの(『国制』の中で表明した)愛と性に関するラディカルな見解は、ヒッパルキアとクラテースの関係に影響されたのかもしれない。




後世への影響

 ヒッパルキアの名声は、疑いもなく、哲学を実践し、夫と対等に生きた女性であったという事実に依拠している。この2つの事実は、古代ギリシア、ローマにおいて尋常のものではなかった。犬儒派の生き方を選んだ女性は他にいたにもかかわらず、ヒッパルキアはその名が知られている唯一の女性であった〔「犬-蠅」という綽名の高級売春婦ニキオーンが、アテーナイオスによって引用された『犬儒派の宴会』に登場するが〕。彼女はまたディオゲネス・ライエルティオス『哲学者列伝』に登場する82人の哲学者の中に登録された唯一の女性であり、後世の作家たちを魅了しつづけた。例えば、後1世紀に書かれた一連の『犬儒書簡集』には、クラテースがヒッパルキアに宛てた忠告を趣旨とするものがいくつかある。

 私たちの哲学がキュニコス派と呼ばれるのは、私たちが何事にも冷淡だからではなく、私たちが甘ったるい世間一般の意見は我慢できないものとわかっているんで、積極的に他のものに耐えているからなのだ。それが名前の由来であり、前者の者たちは自分たちをキュニコス派とは呼ばない。だから、キュニコス派のままでいなさい、そして、それを続けなさい。君たちの方が本来我々(男性)より悪くはないし、また、牡犬より牝犬が悪くないのだから。すべて(人々)は法のせいか、悪徳のせいか、奴隷として生きているが、君は自然から解放されないといけない。
 〔Pseudo-Crates, Epistle 29〕

 その他の書簡は、犬儒派書簡の多くと同様、当時実際にあった逸話に基づいたものであった。2通の書簡の中〔Pseudo-Crates, Epistle 30, 32〕には、ヒッパルキアが自分でつくった袖無しマントをクラテースに送ったと言われている。けれども、クラテースは、彼女がその仕事に従事するために、夫を愛する何者かであるかのように大衆に思われるかもしれない」ことを恐れている。クラテースは、彼女が羊毛紡ぎを捨てて、哲学に従事することを熱望する。それが、彼女が彼と結婚した所以だからである。他の書簡で〔Pseudo-Crates, Epistle 33〕、クラテースは、彼女が家事を採った理由を知る。ヒッパルキアは、子を産んだという。彼女が子を産むのは、犬儒的訓練のおかげで容易であるという彼女に同意した後で、クラテースはつづけて、その子をどう育てるべきかについて彼女に忠告する。

 産湯は冷水にせよ、産着は袖無し外套、食べ物は母乳、ただし多すぎぬようにせよ。揺りかごは亀の甲羅でつくられたもので、……ものを言い、歩けるようになったら装わせよ。ただし身につけさせるのは、アイトラーがテーセウスにしたように剣ではなく、杖と袖無し外套と頭陀袋を。これらは剣よりもよく人々から守る。そして、アテーナイに送れ。
 〔Pseudo-Crates, Epistle 33〕

 最も注目すべきなのは、おそらく、シノーペーのディオゲネースがマローネイアの人々に送った書簡であろう。

 あなたがたが都市の名前をマローネイアから、現在の名前であるヒッパルキアと呼ばれるように変えたのは天晴れです。真実女性でありながら、哲学者であったヒッパルキアにちなんで名づけたことは、葡萄酒を売る者であるマローンにちなむよりは、あなたがたにとってよりよいことだからです。
 〔Pseudo-Diogenes, Epistle 43〕

 残念ながら、マローネイアの人々がその都市をヒッパルキアと改名したという証拠はない。




近代への影響

Hipparchia_crates.jpg
Jacob Cats
『Proefsteen van de Trou-ringh』から。
クラテースは、自分に対するヒッパルキアの
求愛を思いとどまらせようと説得している。
彼は自分の頭を指さして、怒りを表している。

 両親の反対や、クラテースの意図的な不承認にもかかわらず、クラテースに対するヒッパルキアの求愛の物語は、16世紀以降の人気のある話となった。Lodovico Guicciardiniの備忘録『Hore di ricreatione』(1568年刊)の呼び物であり、それはまた、オランダの詩人Jacob Catsの『Proefsteen van de Ttou-ringh(結婚指輪の試金石)』(1637年刊)の中の物語の一つでもあった。William Pennは彼女のことを『No Cross, No Crown』の中で書いたが、彼はこれを1668年獄中で書いたのだった。Pennにとっては、彼女はピューリタン的訓練と美徳の実例にほかならなかった。

 わたしが探し求めるのは、この世の虚飾でも女々しさでもなく、知識と美徳なのです、クラテースさん。そして節度のある人生を選ぶのです。優雅な人生よりも先にね。というのは、真の満足は、貴男もご存知のとおり、心の中にあるのですもの。永続する喜びのみが、求める価値のあるものなのです。

 クラテースとの結婚は、Pierre Petitに霊感を与え、ラテン語の詩『Cynogamia, sive de Cratetis et Hipparches amoribus』(1676年刊)を書かせた。同じ世紀に、イタリアの修道女Clemenza Ninciは、『Sposalizio d'Iparchia filosofa(女流哲学者ヒッパルキアの結婚)』という題名の戯曲を書いた。この戯曲は、クラテースと結婚したいというヒッパルキアの願望と、願望の実現を邪魔する障害とを扱っている。この戯曲は女子修道会での上演のために書かれたものであるが(すべての役は修道女によって演じられた)、19世紀になるまで公刊されることはなかった。ドイツの作家Christoph Martin Wielandは、書簡小説『Krates und Hipparchia』(1804)の中で、クラテースとヒッパルキアを英雄に仕立てた。クラテースとヒッパルキアは、Marcel Schwobの『Vies Imaginarires』(1896)の主役である。アメリカの作家H. D. は『Hipparchia』(1921)という、ヒッパルキアの娘の高度に架空の説明(H. D.が想像する彼女はまたヒッパルキアを思い出させる)小説を書いた。ヒッパルキアは『L'Étude et le rouet』(1989)という書に霊感を与えている(『ヒッパルキアの選択』という題で英訳されている)。これはフランスのフェミニスト哲学者Michèle Le Dœuffの作品で、女性と哲学との関係について省察している。

book.gif ディオゲネース・ライエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第6巻7章「ヒッパルキア伝」

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