テーバイのクラテース
[出典]:Wikipedia「Hipparchia of Maroneia」
[略伝] 人生 わたしはヒッパルキア、ぞろりとした長衣まとった女の仕事ではなく、
蝶の属名にヒッパルキアの名前が採られている。 哲学 彼女がクラテースといっしょに酒宴に参加したとき、無神論者テオドーロスに彼女は次のような詭弁を仕掛けた。 これに対して、彼女は、「世のたいていの女と異なって」〔D.L. vi. 97〕、抗いも羞じもしなかったと言われている。また、テオドーロスが(エウリピデスの『バッカイ』を引いて)、「機の傍に梭を置き去りにしている女は誰か」と言ったとき、彼女はこう答えたといわれている。 「わたしが」と彼女が謂う、「そうよ、テオドーロスさん。でも、わたしが自分について悪い料簡をおこしているとは、あなたに思われないでしょうよ、織機に向かって浪費する時間を、教育に使ったとしても」。 他にも数多くの逸話がヒッパルキアについて伝えられているが〔D.L. vi. 98〕、ほとんど失われた。われわれはまた、クラテースがキティオーンのゼーノーンに教えたということを知っている。しかし、ゼーノーンがそのストア主義を展開する際に、ヒッパルキアがどれほどの影響を与えたのか、われわれは知ることができない。しかし、ゼーノーンの(『国制』の中で表明した)愛と性に関するラディカルな見解は、ヒッパルキアとクラテースの関係に影響されたのかもしれない。 後世への影響 私たちの哲学がキュニコス派と呼ばれるのは、私たちが何事にも冷淡だからではなく、私たちが甘ったるい世間一般の意見は我慢できないものとわかっているんで、積極的に他のものに耐えているからなのだ。それが名前の由来であり、前者の者たちは自分たちをキュニコス派とは呼ばない。だから、キュニコス派のままでいなさい、そして、それを続けなさい。君たちの方が本来我々(男性)より悪くはないし、また、牡犬より牝犬が悪くないのだから。すべて(人々)は法のせいか、悪徳のせいか、奴隷として生きているが、君は自然から解放されないといけない。 その他の書簡は、犬儒派書簡の多くと同様、当時実際にあった逸話に基づいたものであった。2通の書簡の中〔Pseudo-Crates, Epistle 30, 32〕には、ヒッパルキアが自分でつくった袖無しマントをクラテースに送ったと言われている。けれども、クラテースは、彼女がその仕事に従事するために、夫を愛する何者かであるかのように大衆に思われるかもしれない」ことを恐れている。クラテースは、彼女が羊毛紡ぎを捨てて、哲学に従事することを熱望する。それが、彼女が彼と結婚した所以だからである。他の書簡で〔Pseudo-Crates, Epistle 33〕、クラテースは、彼女が家事を採った理由を知る。ヒッパルキアは、子を産んだという。彼女が子を産むのは、犬儒的訓練のおかげで容易であるという彼女に同意した後で、クラテースはつづけて、その子をどう育てるべきかについて彼女に忠告する。 産湯は冷水にせよ、産着は袖無し外套、食べ物は母乳、ただし多すぎぬようにせよ。揺りかごは亀の甲羅でつくられたもので、……ものを言い、歩けるようになったら装わせよ。ただし身につけさせるのは、アイトラーがテーセウスにしたように剣ではなく、杖と袖無し外套と頭陀袋を。これらは剣よりもよく人々から守る。そして、アテーナイに送れ。 最も注目すべきなのは、おそらく、シノーペーのディオゲネースがマローネイアの人々に送った書簡であろう。 あなたがたが都市の名前をマローネイアから、現在の名前であるヒッパルキアと呼ばれるように変えたのは天晴れです。真実女性でありながら、哲学者であったヒッパルキアにちなんで名づけたことは、葡萄酒を売る者であるマローンにちなむよりは、あなたがたにとってよりよいことだからです。 残念ながら、マローネイアの人々がその都市をヒッパルキアと改名したという証拠はない。 近代への影響
両親の反対や、クラテースの意図的な不承認にもかかわらず、クラテースに対するヒッパルキアの求愛の物語は、16世紀以降の人気のある話となった。Lodovico Guicciardiniの備忘録『Hore di ricreatione』(1568年刊)の呼び物であり、それはまた、オランダの詩人Jacob Catsの『Proefsteen van de Ttou-ringh(結婚指輪の試金石)』(1637年刊)の中の物語の一つでもあった。William Pennは彼女のことを『No Cross, No Crown』の中で書いたが、彼はこれを1668年獄中で書いたのだった。Pennにとっては、彼女はピューリタン的訓練と美徳の実例にほかならなかった。 わたしが探し求めるのは、この世の虚飾でも女々しさでもなく、知識と美徳なのです、クラテースさん。そして節度のある人生を選ぶのです。優雅な人生よりも先にね。というのは、真の満足は、貴男もご存知のとおり、心の中にあるのですもの。永続する喜びのみが、求める価値のあるものなのです。 クラテースとの結婚は、Pierre Petitに霊感を与え、ラテン語の詩『Cynogamia, sive de Cratetis et Hipparches amoribus』(1676年刊)を書かせた。同じ世紀に、イタリアの修道女Clemenza Ninciは、『Sposalizio d'Iparchia filosofa(女流哲学者ヒッパルキアの結婚)』という題名の戯曲を書いた。この戯曲は、クラテースと結婚したいというヒッパルキアの願望と、願望の実現を邪魔する障害とを扱っている。この戯曲は女子修道会での上演のために書かれたものであるが(すべての役は修道女によって演じられた)、19世紀になるまで公刊されることはなかった。ドイツの作家Christoph Martin Wielandは、書簡小説『Krates und Hipparchia』(1804)の中で、クラテースとヒッパルキアを英雄に仕立てた。クラテースとヒッパルキアは、Marcel Schwobの『Vies Imaginarires』(1896)の主役である。アメリカの作家H. D. は『Hipparchia』(1921)という、ヒッパルキアの娘の高度に架空の説明(H. D.が想像する彼女はまたヒッパルキアを思い出させる)小説を書いた。ヒッパルキアは『L'Étude et le rouet』(1989)という書に霊感を与えている(『ヒッパルキアの選択』という題で英訳されている)。これはフランスのフェミニスト哲学者Michèle Le Dœuffの作品で、女性と哲学との関係について省察している。 |