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back.gif犬儒派について

ディオゲネース・ライエルティオス
『ギリシア哲学者列伝』
第6巻1章

アンティステネース伝

〔c. 446-366 B.C.〕



[底本]

TLG 0004
DIOGENES LAERTIUS Biogr.
(A. D. 3)
1 1
0004 001
Vitae philosophorum, ed. H. S. Long, Diogenis Laertii vitae
philosophorum
, 2 vols. Oxford: Clarendon Press, 1964 (repr. 1966):
1 : 1-246; 2 : 247-565.
5
(Cod: 114, 802 : Biogr., Doxogr.)



[1]
 アンティステネースの子アンティステネースはアテーナイの人。しかし生粋のアテーナイ人ではないと言われていた。そのことでまた悪罵する者に対しては、「神々の母親だってプリュギア女だよ」と云ったと〔言われていた〕。というのは、彼はトラキア女の母親の〔子〕だと思われていたからである。そこでまた、彼がタナグラでの戦闘で勇名を馳せたとき、ソクラテスをしてこう言わしめることになったのである。もし二人ともアテーナイ人の親から生まれていたら、かくも高貴な者にはならなかったろうに、と。そして彼自身もまた、アテーナイ人たちが土地生え抜きであることを威張っているのを軽蔑しながら、だからといってカタツムリやバッタよりも生まれがよいことになりはしない、と言っていたのである。

 この人は、初め、弁論家ゴルギアスの傾倒者であった。彼が対話篇のなかに、そして特に『真理』や『哲学のすすめ』のなかに、弁論家ふうの文体を持ち込んでいるのはそのためである。[2] また、ヘルミッボスが謂っているところによると、彼はイストミア人たちの大祭で、アテーナイ人とテーバイ人とラケダイモーン人を非難し、賞讃するつもりでいたの だが、これらの都市から多くの人々が参集しているのを目にして、それを断る ことにしたという。

 しかしながら、その後、彼はソークラテースの仲間に加わり、そして自分の学徒たちにも、ソークラテースのもとで自分の相弟子となるように勧めたほどに、彼〔ソークラテース〕から裨益されたのであった。また彼は、ベイライエウスに住んでいながら、毎日、40スタディオンの道のりを〔アテーナイまで〕上って行って、ソークラテースの話を聴講し、彼〔ソークラテース〕のもとで、堅忍ということを受け取り、無心ということを得るべく努め、かくして犬儒的振る舞い(kunismovV)の創始者となっ たのである。
 また彼は、労苦(povnoV)は善いものであるということを、大ヘーラクレースとキュロス〔王〕とを引き合いに出して、つまり、前者はギリシア人のなかからの例であり、後者はギリシア人以外の人たちからの例であるとして、証明したのであった。

[3]
 彼はロゴスを定義して、「ロゴスとは、ものごとが何であったか、あるいは何であるかを明らかにするものである」と云った最初の人でもあった。
 また、彼は常々、「快楽に耽るぐらいなら、気が狂っているほうがましだ」と 言っていた。
 さらに、「将来感謝してくれるような女たちと睦まじくすぺきだ」とも。
 また、ボントス出身の若者が彼の講義に通おうとしていて、自分には何々が必要でしょうかと彼に訊ねたのに向かって、彼は謂った、「新しい教科書と、新しい筆と、新しい書板がだ」と。これは〔新しい(kainovV)という形容詞を付けることで、「理性もまた〔必要〕(kai; nou:)」というふうに〕理性(novoV)を強調したのである。
 また、どんな女を娶るべきかと訊ねた人に対しては、彼は謂った、「美しい女なら、共有するもの(koinhv)となろうし、醜い女なら、高い代価のつくもの(poinhv)になろう」と。
 あるとき、プラトンが彼の悪口を言っていると聞いて、「王者らしいことなのだ」と彼は謂った、「美しく行為しているのに、悪く言われるのを聞くのは」と。

[4]
 あるとき、オルぺウス教の秘儀を授けられていて、こうした秘儀に与る者はハーデースの館において数々の善いものに与るだろう、と神官が云ったので、「それでは、どうして」と彼は謂った、「あなたは死のうとしないのかね」と。
 あるとき、両親ともに自由人の親から生まれたのではないと悪罵されると、「たしかに」と彼は謂った、「両親とも相撲の心得ある親から生まれたのでもないけれど、ぼくは相撲の心得ある者となっているからね」と。
 わずかな数の弟子しかもっていないのはどうしてか、と訊ねられて、彼は謂った、「銀の笏で彼らを追い払うからだよ」と。
 なぜそんなに弟子たちを厳しく叱るのかと訊ねられて、「医者だって」と彼は謂う、「病人に〔そうしているよ〕」と。
 あるとき、姦夫が逃げて行くのを見て、「おお、不幸なやつよ」と彼は云った、「1オボロスでどんなに大きな危険も免れえたものを」と。
 ヘカトーンが『箴言集(Creivai)』のなかで謂っているところによると、追従者(kovlax)たちの手のなかに落ちるぐらいなら、鴉(kovrax)の群のなかに落ちた方がましだと、言っていた。一方は屍体を餌食にするが、他方は生きている者を食いものにするからだと。

[5]
 人間界において最高の浄福とは何かと訊ねられて、彼は謂った、「仕合せなままで死ぬことだ」と。
 あるとき知人が彼に向かって、備忘録をなくしてしまったと泣きごとを言ったら、「紙の上にではなく、魂のなかにそれらを書きとめておくべきだったのだ」と彼は謂った。
 鉄は錆によって腐蝕されるが、それと同じように、妬む者どもは、みずからのの性格によって蝕まれるのだと彼はよく言っていた。
 不死でありたいと願う人は、敬虔で義しい生を送らねばならないと彼は謂った。
 あるとき、彼は謂った、 — 都市が滅ぶのは、劣悪な人々を真面目な人々から区別することができなくなるときだ、と。
 あるとき、邪悪な連中から賞讃されると、彼は謂った、「ぼくは何か悪いことをしたのではないかと心配だよ」と。

[6]
 兄弟がともに同心して生きるなら、どんな城壁よりも堅固であると彼は謂った。
 船旅のための装具は、難破した場合でも、いっしょに泳いで抜け出せるようなものにしなければならぬと彼は謂った。
 あるとき、邪悪な者とつき合っていると悪罵されて、「医者だって」と彼は謂う、「病人たちと一緒にいるが、自分が発熱すわけではない」と。
 奇妙なことだと彼は謂った、 — 穀物のなかからは毒麦を取り除くし、戦争においては役立たずの者を排除するのに、国制のなかからは邪悪な連中を追い出さないとしたら、と。
 哲学から何が自身に得られたかと訊ねられて、彼は謂った、「自分白身と交わる能力だよ」と。
 酒の席で、ある人が彼に、「一曲歌ってくれ」と云ったら、「では、君の方はぼくに」と彼は謂う、「笛を吹いてくれ」と。
 下着(citwvn)をねだったディオゲネースに、上着(qoimavtion)を二つ折りにするよう言いつけた。[7] 学問のうち何が最も必要かと質問されて、 「いったん学んだことを忘れること(to; ajpomanqavnein)を」と彼は謂った、「取り除くこと」と。
 また彼は、悪口を言われるのを聞く人々に対して、石を投げつけられた場合よりも、もっと辛抱づよく耐えるようにと忠告していた。

 彼はまた、プラトーンは自惚れているといってつねづね嘲っていた。事実、祭りの練り歩きが行なわれていたとき、鼻息の荒い馬に目をとめると、彼はプラトーンに向かって謂う、「ぼくには、君もまた得意気に振る舞う馬のように思われるのだよ」と。しかしこれは、プラトーンが常々馬を賞讃していたからのことでもあった。またあるとき、彼は病気中の彼〔プラトーン〕を訪ねて行って、プラトーンが反吐を吐いた盥のなかを覗き込みながら、謂った「ここには胆汁は見えるけれども、自惚れは見えないね」。[8] 彼はアテーナイ人たちに、驢馬は馬であると票決するように勧告していた〔Cf. Plato, Paedrus 260C〕。そして彼らがこれを馬鹿げたことだと考えていると、「しかしながら実際、諸君のところには将軍たちがいるようだね」と彼は謂う、「何ひとつ学知していないのに、ただ挙手によって選ばれただけの将軍たちが」と。
 「多くの人があなたを賞讃していますよ」と云った男に向かって、「いったいどんな」と彼は謂った、「悪いことをしていたからかね」と。
 彼が襤褸外套(trivbwn)を裏返して、綻びたところを人目につくようにしたとき、これを目にしたソークラテースが謂う、「その襤褸外套を通して、君の名声欲(filodoxiva)が目につくね」と。
 パイニアースが『ソークラテースの徒について』のなかで謂っているところによると、ある人から、どうすれば美而善なる人間(kalo;V kajgaqo;V)になれるだろうかと質問されたとき、彼は謂った、「君の持っているさまざまな悪は捨てるぺきだということを心得ている人たちから、君が学ぶならばだ」と。
 贅沢を賞讃している人に向かって「敵の息子たちが」と彼は謂った、「どうか、贅沢をしてくれるように」と。

[9]
 造形家の前で恰好をつけている若者に向かって、「ぼくに云ってくれ」と彼は謂う、「もし銅〔像〕が、ものを言うことができたとしたら、何を自慢するだろうと思うかね」と。すると、相手が、「美しさでしょぅね」と云ったので、「では、君は恥ずかしくないのかね」と彼が謂った、「魂のないもの〔銅像〕と同じようなものを嬉しがっていることが」と。
 ボントス出身の青年が、塩魚を積んだ船が着いたら、自分が十分に面倒をみてあげますと彼に約束したとき、彼はその青年を連れて、空の袋を手にして、小麦粉を商っている女主人の店へ行った。そしてその袋に小麦粉を一杯つめこんだ上で立ち去ろうとした。そこで、店の女主人が代金を請求すると、「この青年が」と彼は謂った、「払ってくれますよ、塩魚を積んだ彼の船が着いたらね」と。

 ところで、彼はまた、アニュトスの追放やメレートスの死刑にも責任があったように思われる。[10] というのは、ソークラテースの令名を慕ってボントスからやって来た青年たちに出会ったと き、彼らをアニュトスのところへ連れて行ったのだった。ソークラテースよりも、この人の方が、習わし上は(ejn h[qei)賢いのだと云って。そのために、彼の周囲の人たちは憤激して、彼〔アニュトス〕を追放したということだからである。
 また彼は、身を飾り立てている女をどこかで見かけたような場合には、その女の家に赴いて、その夫に馬と武具とを持ち出してくるように命じた。そうして、もしその夫がそれらのものを所有しておれば、贅沢にしていることも許した — というのは、それらのもので彼らは身を守れるだろうから — が、そうでない場合は、装身具を取り外すように〔命じたのであった〕。

 彼の学説は次のようなものであった。徳は教えられうるものだということを彼は証明しょうとしていた。生まれがよい人と有徳な人とは同一であるということ。幸福になるのには徳だけで足りるのであって、ソークラテース的な強さ以外には何ひとつその上に必要ではないのである。
 そして、徳は行いのなかにあるのであって、多くの言葉も学問も必要としないものなのである。
 また、知者は自足している者である。なぜなら、他の人たちが所有しているものはすぺて知者のものだからである。
 また、不評判は善いことであり、それは労苦に匹敵するものである。
 また、知者は市民生活を送るにあたって、既定の法習に従うのではなく、徳の法に従う。
 さらに、知者が結婚するのは、子づくりのためであり、〔そしてそのためには〕最も育ちのよい女と一緒になるであろう。
 さらにまた、知者は恋もするであろう。なぜなら、知者だけがどのような人たちを恋すぺきかを知っているからである。

[12]
 なお、ディオクレースもまた、彼の言葉として次のようなものを書きとめている。
 知者には、奇異なことも解決できないことも何ひとつない。
 善き人は恋されるに価する者である。
 真面目な人々こそ友である。
 胆力があり、かつまた義しい人々を共闘者とすること。
 徳は奪い取られることのない武器である。
 多数の悪しき連中を味方にして、少数の善き人たちを相手に戦うよりは、少数の善き人々を味方にして、悪しき連中すべてを相手に戦う方がましである。
 敵に対しては注意を怠らぬこと。なぜなら、こちらの過ちを真っ先に感知するのは彼らであるから。
 身内の者よりは、むしろ義しい人を重んずること。
 徳は、男子のそれも女子のそれも同じである。
 善いことは美しく、悪しきことは醜い。
 邪悪なことはすぺて自分には関係のないこととみなせ。

[13]
 思慮(frovnhsiV)は最も堅固な防壁である。なぜなら、それは崩れ落ちることもなければ、裏切りによって敵の手に渡ることもないからである。
 城壁は、自分自身の揺らぐことのない理性の働きのなかから築かれなければならない。
 ところで彼は、〔アテナイの〕城門から少し離れたところにあるキュノサルゲス〔「白い犬」の意〕の体育場で対話するのをつねとしていた。キュニコス〔犬儒〕学派という名称も、そこから由来しているとある人たちが言っている所以である。また彼自身は、「+Aplokuvwn〔生粋の犬〕」と綽名されていた。
 また、ディオクレースが謂っているところによると、彼は襤褸外套を二重折りにして〔下着用にも〕使った最初の人であり、そしてその一枚だけですませて、そのほかには杖と頭陀袋とを携帯していただけであったとのことである。そしてネアンテースもまた、彼が上衣を二重折りにして用いた最初の人であると謂っている。しかしソーシクラテースは、『後継者たち』第3巻のなかで、そのような使い方をした最初の人はブスぺンドスのディオドーロスであって、その上にこの人は、顎ひげをのばし、頭陀袋と杖とを携えていたと〔謂っている〕。

[14]
 すべてのソークラテースの徒のなかで、この人〔アンティステネース〕だけをテオボンボスは称賛して、彼は恐るぺき才能の人であり、機知に富んだ会話によって、どんな人をも自分の思うままに導いたと謂っている。そしてこのことは彼の書物からも、またクセノボーンの『酒宴』からも明らかである。

 また彼は、ストア派のなかの最も男性的な〔厳格な〕学派の開祖になったようにも思われる。だから、エピグラム作家のアテーナイオスも、この派の人たちについて次のように謂っているわけである。

おお、ストアの教えに通暁している者たちよ。おお、この上なくすぐれた
学説を、聖なる書物のなかに書き留めた人たちよ。
魂の徳だけが唯一の善なりと〔書き留めた人たちよ〕。けだし、この徳のみが、
人々の生活と国々とを守り救ったのであるから。
だが、肉の悦びこそ、他の人々には愛すべき人生の目凛なのだ。
これを手に入れられたのは、ムネメー〔記憶の女神〕の娘たちのなかでも、ただお一人〔エラトー、恋の女神〕だけではあるが。
 〔Anthologia Graeca, IX-496〕

[15]
 この人〔アンティステネース〕はまた、ディオゲネースの無心(ajpaqeiva)や、クラテースの自制心(ejgkrateiva)、そしてゼーノーンの堅忍(karteriva)といった考え方を導いたのであり、つまり、〔その人たちの〕国制に礎石を据えたのは彼自身なのである。
 また、クセノボーンは彼のことを、交際するのにはこの上なく愉しい人であるが、他のことにはきわめて自制心に富んだ人であったと述べている。

 彼の著作は、十個の巻物にして伝えられている。すなわち、

第一の巻物には、
 語法、または、文体について
 アイアス、あるいは、アイアスの演説
 オデュッセウス、あるいは、オデュッセウスについて
 オレステースの弁明、あるいは、法廷弁論代作人について
 イソグラぺー〔類似の文章〕、あるいは、リュシアスとイソクラテース
 イソクラテースの『証人なしに』という演説への反論

第二の巻物には、
 動物の自然について
 子供をもうけることについて、あるいは、結婚について — エロースに関するもの
 ソフィストたちについて — 人相学に関するもの

[16]
 正義と勇気について — 勧告的なもの、第一、第二、第三
 テオグニスについて、第四、第五

第三の巻物には、
 善について
 勇気について
 法について、あるいは、国制について
 法について、あるいは、美しことと義しいことについて
 自由と隷属について
 信用(保証)について
 後見人について、あるいは、服従について
 勝利について — 財政に関するもの

第四の巻物には、
 キュロス
 大ヘーラクレース、あるいは、体力について

第五の巻物には、
 キュロス、あるいは、王制について
 アスパシア

第六の巻物には、
 真理
 対話することについて — 反対論法に関するもの
 サトーン、あるいは、反論することについて、三巻
 対話について

[17]
第七の巻物には、
 教育、あるいは、名前について、五巻
 名前の使用について — 論争的なもの
 間と答について
 思惑と知識について、四巻
 死ぬことについて
 生と死について
 ハーデースの館にいる人たちについて
 自然について、二巻
 自然についてのいろいろな疑問、二巻
 思惑、あるいほ論争家
 学習に関する諸問題

第八の巻物には、
 音楽について
 神託解釈者たちについて
 ホメーロスについて
 不正と不敬について
 カルカスについて
 偵察者について
 快楽について

第九の巻物には、
 オデュッセイアについて
 (吟遊詩人の)杖について
 女神アテーナー、あるいは、テーレマコスについて
 へレネーとぺーネロぺーについて
 プローテウスについて
 キュクローブス、あるいは、オデュッセウスについて

[18]
 ぶどう酒の使用について、あるいは、酩酊について、ないしは、キュクローブスについて
 キルケーについて
 アムビアラオスについて
 オデュッセウスとぺーネロぺーについて、また、犬について

第十の巻物には、
 ヘーラクレース、あるいは、ミダス
 ヘーラクレース、あるいは、知慮か体力かについて
 キュロス、あるいは、恋されている者
 キュロス、あるいは、偵察着たち
 メネタセノス、あるいは、統治について
 アルキビアデース
 アルケラオス、あるいは、王制について

彼が著したのは、以上である。

 ティモーンは、あまりの多さゆえに彼を非難して、彼のことを「あることないこと何でもひねり出すおしゃぺり男」だと謂っている。
 さて、彼は病気のために死んだ。ディオゲネースが来訪して、彼に向かって、「友人は必要ないでしょうね」と謂っのはまさしくその時だった。
 また別の日に、ディオゲネースは短剣を手にして彼のところへやってきたが、そのとき彼が、「誰がわたしをこの苦痛から救ってくれるだろうか」と云ったので、ディオゲネースは短剣を示しながら、謂った、「これが」。すると彼は、「わたしは、苦痛からと言ったのであって」彼が云った、「生きていることから、と言ったのではないよ」と。[19] つまり彼には、生への愛着のために、病気に耐えるのにはいくらか柔弱なところがあるように思われていたからである。
 なお、わたしが彼に寄せて作った詩があるが、それは次のようなものである。

生きている間は、君は、アンティステネースよ、生まれついての犬、
口ではなく、言葉によって心臓に咬みつく。
しかし、君は肺の病で死んだ。でも、誰かがきっとこう言ってくれるだろう、 「それがどうだっていうのか。
いずれにせよ、ハーデースへと導いてくれる者がなくてはならないのだ」と。
 (Anth. Pal. vii. 115.)

 ところで、アンティステネースという名前の人はほかにも3人いた。1人はへーラクレイトスの徒で、1人はエペソスの人。そしてもう1人は、ロドスの人で、歴史家であった。

 さて、われわれはアリスティッポスの徒やパイドーンの徒についてはこれまでに語ってきたので、いまやアンティステネースに由来する犬儒派とストア派の人々を登場させることにしよう。そしてそれは次のごとくに行なうことにする。

2011.03.04.

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