犬儒派作品集成・目次
[犬儒派=キュニコス学派について]
キュニコス(kuniko/j)とは、「犬のような人」の意味で、恥を恥としないような生活から犬(ku/wn)と呼ばれたシノーペーのディオゲネースと、その後継者たちをさす用語である。犬儒派の誕生、地位、意義、影響については、古代以来、論議の的でありつづけている。解釈上の違いが出てくるのは、犬儒派的な振る舞いや言説、犬儒派の著作のほとんどすべてが失われていること(しかし、他の哲学者よりも甚だしいというわけではない)、古代の伝統によるさまざまな歪曲(言説や逸話の発明、犬儒派の哲学的な系譜をソークラテースからストア派へと形式的に継承させる技巧的な統合、猥褻な部分の削除、論争好きな誤伝)に由来する。
犬儒派の思想は、形式的な哲学的学派ではなく、むしろ生活の仕方であり、その基礎を、「自然のままに生きる」という原則の極端な原始主義的解釈に置く。ディオゲネースは、生活の真実の仕方を発見したが、犬儒派内における多様性や発展はほとんどない。もっとも、*硬派の*犬儒派(本来の規則の厳格な唱道者は、あらゆる時期に見いだされる)と*軟派の*犬儒派(現実の社会的・政治的体制とさまざまな仕方で妥協した)、実践的犬儒派思想と文学的犬儒派思想(犬儒派によって書かれたり、犬儒派について書かれたもの)、犬儒派(何らかの意味で)と犬儒派思想に影響された人たちと、を区別することは可能である。
*硬派の*犬儒派思想は、ディオゲネースと、(これをいくぶん拡張した)テーバイのクラテースによって最もよく詳説された。前320-220、*軟派の*犬儒派思想は、オネーシクリトスによって多様に表現された。彼の『歴史』は、アレクサンドロス大王を犬儒派の哲人王として人物描写した。折衷主義者であるボリュステネースのビオーンは、アンティゴノス・ゴナタスの宮廷哲学者。テレースは学校の教師である。メガロポリスのケルキダスは政治家、立法家、社会改革者である。実践的犬儒派思想は、前2世紀と1世紀に衰退したが、初期ローマ帝国で復活した。ギリシア諸都市には犬儒派が蝟集した。犬儒派思想はめざましい個性を排出した(若い方のセネカAnnaeus Seneca, Luciusの友人のデーメートリオス。紀元後2世紀には、デーモナクス、ペレグリノス、オイノマオス)。ローマの当局は、当然ながら、*硬派の*(qua anarchists〔無政府主義者たちとしての〕)犬儒派と衝突した。後に、犬儒派とキリスト教修行者たちとは、時には混同され、時には区別された(幾人かの学者たちでさえ、イエスを犬儒派と主張している)。犬儒派の言及は6世紀までつづく。ヨーロッパ大陸の哲学は、犬儒派思想に何らかの関心を示し続けている。
犬儒派思想は、ギリシアとローマの哲学、支配的なイデオロギー、文学、そして(後には)宗教に甚大な影響を与えた。クラテースの後継者・キティオーンのゼーノーン〔335-263 BC〕が基礎を築いたストア学説は、もっぱら観想に基礎を置く犬儒派の発展である。ストア派の倫理学は本質的に犬儒派の倫理学であり、ストア派の世界市民主義は、犬儒派の発展である。ディオゲネースの『国制』は、ゼーノーンとクリュシッポスとのそれに影響を与えた。犬儒派思想の正統については、ストア学派内で議論され、その反作用は、ほとんど全面的な受容(アリストーン〔キオスの〕から、部分的な受容(ゼーノーン、クリュシッポス)、拒絶(パナイティオス〔c.185-109 BC〕)、猥褻部分の削除と理念的な定義のし直し(エピクテートス〔紀元後1世紀中頃から2世紀〕)まで並び立つ。もっと広範には、物質的所有物、個人的倫理に関する犬儒派の地位の極端さは、他の哲学の地位の定義を促進させた。ストア学派、エピキュロス学派から離れて、犬儒派から甚大な影響をこうむったにもかかわらず、犬儒派を相手に論争した。ディオゲネースとクラテースは、大衆哲学のなかで讃えられた。犬儒派の王は、この世の王とは完全に対照的な道徳的観念であるにもかかわらず、オネーシクリトス(アンティステネースやクセノポーンの後継者)は、その観念の流用や再定義を支配的イデオロギー(後には、ディオーン・クリュソストモスの王権論におけるように)によって容易にした。犬儒派倫理学は、キリスト教修行論に影響を与えた。
犬儒派の聴衆を極大化して云えば、犬儒派は(読み書きの拒否を公言したにもかかわらず)他のいかなる古代の哲学学派よりもおびただしい量の多様な著作をものにした。比較的形式的な哲学論文、対話、悲劇、歴史編集、書簡、散文詩的雑録(メニッポス)。犬儒派のdiatribh/、逸話の伝統、風刺精神、真面目でしかも滑稽な講話は、桁外れで、さまざまな哲学的・文学的影響を与えた(例えば、若きセネカやプルタルコスへのdiatribh/。哲学的伝記や福音書。ローマの風刺文学、ホラティウス、聖パウロ、セネカの書簡。ルゥキアーノス)。
A. O. Lovejoy and G. Boas, Primitivism and Related Ideas in Antiquity (1935);
D. R. Dudley, A History of Cynicism (1938; repr. 1967);
R. Höistad, Cynic Hero and Cynic King (1948);
M. Billerbeck (ed.), Epiktet: Vom Kynismus (1978);
M. -O. Goulet-Cazë, L'Ascèse cynique (1986);
H. Niehues-Proöbsting, Der Kynismus des Diogenes und der Begriff des Zynismus, 2nd edn. (1988);
L. Paquet, Les Cyniques grecs : Fragments et témoignages, 2nd edn. (1988);
G. Giannantoni, Socratis et Socraticorum Reliquiae 2. 5 B-N; 4. 413-583 (1990);
M. G. Downing, Cynics and Christian Origins (1992);
M. -O. Goulet-Cazé and R. Goulet (eds.), Le Cynisme ancien et ses prolongements (1993);
J. L. Moles, in A. Laks and M. Schofield, Justice and Generosity (1994), ch. 5.
(OCD J. L. Mo.)
犬儒派一覧表(List of Cynic philosophers)
この表は、犬儒派の哲学者を、大まかな年代順に並べたものである。
前4世紀 |
アンティステネース |
c. 445-365 BC |
ソークラテースの弟子。犬儒派の基礎を築いたとされる。 |
シノーペーのディオゲネース |
c. 412-323 BC |
犬儒派の原型。 |
オネーシクリトス |
c. 360-290 BC |
ディオゲネースの弟子。アレクサンドロス大王の遠征に参加。 |
アイギナのピリスコス |
fl. 325 BC |
オネーシクリトスの子、ディオゲネースの弟子。 |
シノーペーのヘーゲーシアス |
fl. 325 BC |
ディオゲネースの弟子。 |
トラシュッロス |
fl. 325 BC |
犬儒派。 |
シュラウクサイのモニモス |
fl. 325 BC |
ディオゲネースの弟子。 |
テーバイのクラテース |
c. 365-c. 285 |
キティオーンのゼーノーンの師。 |
マローネイアのヒッパルキア |
fl. 325 BC |
テーバイのクラテースの妻。 |
マローネイアのメートロクレース |
fl. 325 BC |
ヒッパルキアの兄弟、テーバイのクラテースの弟子。 |
テオムブロトス |
fl. 300 BC |
テーバイのクラテースの学徒。 |
クレオメネース |
fl. 300 BC |
犬儒派、クラテースの学徒。 |
前3世紀 |
ボリュステーネーのビオーン |
c. 325-c. 250 BC |
犬儒派にしてソフィスト。 |
アレクサンドリアのデーメートリオス |
fl. c. 275 BC |
犬儒派、テオムブロトスの弟子。 |
エペソスのエケクレース |
fl. c. 275 BC |
犬儒派、テオムブロトスとクレオメネースの弟子。 |
アレクサンドリアのティマルコス |
fl. c. 275 BC |
クレオメネースの弟子。 |
ソカレス |
fl. c. 275 BC |
犬儒派、タレントゥムのレオニダスによって言及されている。 |
マロネイアのソータデース |
fl. 275 BC |
犬儒派の論題について詩作。 |
ガダラのメニッポス |
fl. 275 BC |
犬儒派、道徳的諷刺家。 |
メネデーモス |
fl. 250 BC |
犬儒派。 |
メガロポリスのケルキダス |
c. 290-c. 220 BC |
犬儒派詩人。 |
テレース |
fl. 235 BC |
犬儒派教師、ディアトリべー作者。 |
前1世紀 |
ガダラのメレアグロス |
fl. 90 BC |
犬儒派詩人。 |
後1世紀 |
コリントスのデーメートリオス |
c. 1-c. 75 AD |
犬儒派教師、Thrasea Paetusとキケロの友人。 |
イシドーロス |
fl. 60 AD |
公的にネロを非難した犬儒派。 |
後2世紀 |
アガトブゥロス |
fl. 125 AD |
犬儒派、デーモーナクスとペレグリーノスの師。 |
沈黙の哲学者セクゥンドス |
fl. 130 AD |
ハドリアヌス帝に謁見した犬儒派。 |
キプロスのデーモーナクス |
fl. 150 AD |
エピクテートスを知っている犬儒派。 |
ペレグリーノス・プローテウス |
100-165 AD |
オリンピア祭のときに自殺した犬儒派。 |
パトラスのテアゲネース |
fl. 150 AD |
ペレグリーノスの死を賛美した弟子。 |
ガダラのオイノマイオス |
fl. c. 150 AD |
信仰の犬儒派的批判者。 |
アテーナイのパンクラテース |
fl. 150 AD |
犬儒派。 |
クレスケンス |
fl. 160 AD |
犬儒派、Justin Martyrの批判者。 |
後4世紀 |
ヘーラクレイオス |
fl. 360 AD |
ユリアヌス帝によって弁論のなかで批判された犬儒派。 |
アスクレーピアデース |
fl. 360 AD |
ユリアヌスをアンティオケーに訪ねた犬儒派。 |
イピクレース |
fl. 360 AD |
犬儒派。 |
競技者ホーロス |
fl. 375 AD |
オリュムピア祭の拳闘家。犬儒派になる。 |
後5世紀 |
エメサのサッルゥスティオス |
fl. c. 450 AD |
犬儒派になった新プラトン主義者。 |
[補説]「犬儒」の語源
日本語の「犬儒」という語の初見は、寺門静軒の『江戸繁盛記』である(竹村宏氏のご教示による)。
この初篇に「日本橋魚市」という随筆があり、文字通り魚市の魚介類を縷々述べた上で、本邦古よりタイを第1品と為す。……この地の犬皆常に生肉を食うをもっての故に、骨立ち毛落ちて、醜言うべからず、都人因って羸痩華髪(えいそうかはつ)なる者〔ひどく痩せて白髪の人〕を謂いて「小田原坊〔現中央区日本橋室町一丁目〕の犬」というとあり、さらに、次のような譬えをもって全体を結ぶ。
予も亦嘗て謂ふ、人徒らに体肥え腹大にして、一字の知ること無き者は、琵琶魚〔アンコウ〕是れのみ。虚誕浮誇、一事実無き者は、大口魚(タラ)是れのみ。筆拙くして家を唱へ、墨を含んで口を塗する者は、烏賊是れのみ。剣を佩びて士と称し、武を外れて禄を食む者は、白刀魚(タチウオ)是れのみ。コン[髪+几]頭緇服〔坊主頭に黒衣を着る〕、僧にして法無き者は章魚是れのみ。学んで行ふこと能はず、儒にして軽薄、醜言ふべからざる者は、小田坊の犬是れなりと。然れども、犬儒[註1]に非ざるよりは、亦常に鮮肉を食ふことを得ず。人儒[註2]は則ち骨皆離る、憐れむべきかな。
註1「犬儒」 えせ儒者。
註2「人儒」 人間らしい儒者。
しかし、「キュニコス」との関係はうかがえない。
寺門静軒(1796-1868)〔寛政8〜明治1〕は儒者(折衷学派)。江戸の人。名は良、字は子温、号は静軒。田口某、山本緑陰に儒学を学ぶ。家塾を開いて教授した。詩文にすぐれ、「江戸繁盛記」(5巻)を著して幕末天保期(1830〜43)の退廃的江戸風俗を描写して法に触れ、江戸を追われ、剃髪して自ら「無用の人」と称して諸方に転住した。のち新潟に住み、「新潟繁盛記」(2巻)、「静軒詩文鈔」(4巻)等の著がある。
哲学用語としての「犬儒」の用例が明示できるのは、西田幾多郎の『善の研究』明治44年(1911)と言える。しかし、これが初出ではなく、わたしたち(ML_Barbaroi!)の探求では、今のところ、清沢満之『西洋哲学史講義』という草稿(明治26年まで)が最も古い出典と言えそうである。しかし、その場合も、寺門静軒の「犬儒」との関係はうかがえない。
それでは、哲学用語としての「犬儒」はどこから出てきたのか。
わたしたち(ML_Barbaroi!)の推測は、こうである。
ヨーロッパ語(とくに英語)の"cynical"という形容詞は、もちろん"cynikos"というギリシア語を語源とする言葉であるが、語義の位相は異なる。この"cynical"の訳語として、すでに文久2年(1862)に「犬性の」という訳語が充てられている〔『英和対訳袖珍辞典』〕。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』明治42年(1909)に「Cynicといふ語は希臘のkyon 犬といふ語から出てゐる。犬学などといふ訳語があるからは、犬的と云って好いかも知れない」とあるのも、"cynical"をそのギリシア語の語源にさかのぼっての珍妙な訳語と言える。この流れの上に、「犬儒」という訳語ができたのであり(その初出は、依然として不明)、寺門静軒の「犬儒」を受け継いだ訳語ではないと言えよう……。
明治21年(1888)の英和辞典〔『附音挿図和訳英字彙』〕に、シニシズムとは「犬儒教の主義または行為」という説明が見られる。これよりも早く、明治15年(1882)の『増補訂正英和字彙』(第2版)に、Cynicismに対して「犬儒教」の訳語が充てられているが、これの第1版〔明治6年(1873)〕にはまだCynicismは立項されていない。したがって、この間に「犬儒」という訳語ができあがったと考えられる。
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