ヒッパルキア伝
ディオゲネース・ライエルティオス
『ギリシア哲学者列伝』
第6巻8章
メニッポス伝
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Vitae philosophorum, ed. H. S. Long, Diogenis Laertii vitae, vi. 8.
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メニッボスは、この人もまた犬儒派の人であるが、もともとはフェキア人であ り、アカイコスが『倫理学』のなかで述べているところによると、奴隷であった。またディオクレースの伝えるところでは、彼の主人はボントスの人で、バトンという名の着であったという。そして彼は、金が欲しさに、惨めなもの乞いの生活をしていたのであるが、ついには、テーバイの市民となることに成功したのだった。
さて彼には、真面目なところはひとつもなかったし、彼の書物は、たくさんの人を笑わせるようなことで充ちており、その点では、彼と同時代人のメレアグロスの著作と何か共通するものがある。
また、ヘルミッボスが述べているところによると、彼は一日ごとに利子をつけて金を貸した人だったので、そのことからまた、「日歩で貸す人」という綽名をつけられたということである。というのも彼は、船を担保にして金を貸して、その担保を手に入れることをしていたので、その結果、莫大な財産を貯えたということだからである。
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しかし最後は、彼は策略にはめられて、一切の財産を奪われ、意気消沈のあまり、首をくくって生涯を終えたのであった。
わたしが彼に寄せて冗談半分に作った詩は、次のようなものである。
生まれはフェニキア人だが、しかしクレタの犬の、
日歩で金を貸した男 彼はそう呼ばれていたんだから
あのメニッボスを、君はたぶん知っているだろうね。
この男はテーバイで、あるとき家を破られて、一切合財を失ったために、
それにまた、犬(キュニコス派)であることが何であるかも考えてみなかったので、
自分で首をくくったのだ。
そしてある人たちは、彼の書物とされているものは、実は彼のものではなくて、どちらもコロボンの人であるディオニュシオ女とゾビュロスのものだと述べている。そしてこの人たちはふざけ半分でそれらの書物を書いて、メニッボスに渡したのだが、それは彼がそれらの書物をうまくさばくことができるとみたからだというのである。
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ところで、メニッボスという名前の人は六人いた。第一は、リニアィア人の歴史について書き、またクサントスの書物の摘要を作った人。第二は、われわれのとりあげたまさにその人。第三は、ストラトニケアのソフィストで、カリア出身の人。第四は、彫刻家。第五と第六は、画家で、アポロドロスはこの両人に言及している。
それはともかく、犬儒派のメニッボスの書物は十三篇ある。すなわち、
ネキュイア 遺言状 神々の手になるかのように装われている書簡集 自然学者、数学者、および文献学者への反論 エピクロスの生まれと、彼ら(エピクロス派)によって崇められている月の第二十日とに閲して および、その他である。
(2011.03.06.) |