砂漠の師父の言葉(Η)
原始キリスト教世界
語録集(Apophthegmata)1
砂漠の師父の言葉(Θ)
(8/24)
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188."1t"
字母Θの初め。
188."2t"
ペルメーの師父テオドーロスについて
188.3
1 ペルメーの師父テオドーロスは、3冊の美しい書物を所有していた。そこで師父マカリオスを訪ね、これに言う、 わたしは3冊の美しい本を持っており、これらに益されています。また、兄弟たちもそれらを利用して、益されています。そこで、どうかわたしに云ってください、いかなる益を為すべきでしょうか。わたしと兄弟たちの益のために、それを所持しておくべきか、これらを売って貧しい人々に施すべきか」。すると老師が答えて云った。「行いは美しい、しかしあらゆるものの無所有はもっと美しい」。これを聞いて、彼は帰ってそれらを売り、貧しい人々に分け与えた。〔主題別6-7〕
2 ケッリアに住持していたある兄弟が、孤独に乱された。そこでペルメーの師父テオドーロスのところに行き、これに云った。すると老師が云った。「行け、そなたの想念をへりくだらせよ、そして服従せよ、そして他の人々とともにとどまれ」。ところが、またもや老師のもとに立ち戻ってきて、これに言う。「人々とともにいても、安らぎを得ませんでした」。するとこれに老師が言う。「ひとりでも安らぎを得ず、他の者たちといっしょにいても〔安らぎを得〕ないのなら、何ゆえ修道者になったのか。患難を耐え忍ぶためではなかったのか。何年間修道服を着ているのか?」。彼は言う。「8年間です」。すると、これに老師が云った。「まこと、わしは70年もの間、修道服を身に着けているが、1日たりとも安らぎを得たことはない。それなのに、そなたは8年間で安らぎを得るつもりなのか」。これを聞いて、強められて帰っていった。〔主題別7-9〕
3 あるとき、兄弟が師父テオドロースを訪ね、お言葉を聞くことを彼に願って、3日間を過ごした。だが、相手は彼に答えなかった。彼は悲しみながら、立ち去った。そこで、彼に彼の弟子が言う。「師父よ、なぜ彼に言葉を云われなかったのですか。彼は悲しんで戻ってゆきました」。すると、これに老師が言う。「いかにも、わしは彼に言わなかった。他人の言葉によって栄化されんとすることこそ、商売人だからじゃ」。〔主題別8-9〕
4 彼がさらに云った。「誰かに友愛の情を持ち、その人が邪淫の誘惑に陥ったならば、できるだけ彼に手を貸して、彼を上へと引き上げよ。188.40 だが、彼が異端に陥り、立ち帰れというそなたに聴従しないならば、速やかにそなたから彼を断ち切るがよい。ぐずぐずして彼とともに深淵に引きずり落とされないためである」。〔主題別10-32〕
5 ペルメーの師父テオドーロスについて言い伝えられている、 彼が何ものにもまして重視していたのは次の3つ。清貧、苦行、人間どもを避けることである。〔主題別1-12〕
6 あるとき、師父テオドロースは彼ら〔兄弟たち〕とともにする機会があった。しかし彼らが食事の際に、うやうやしく黙して杯を受けようとせず、また「憐れみたまえ」とも言わなかった。そこで師父テオドロースは云った。「修道者たちは、『憐れみたまえ』と言うだけの自分たちの稟性を失ってしまった」。〔主題別15-32〕
7 兄弟が彼に尋ねた、いわく。「師父よ、わたしは数日パンを喰わないのがよいでしょうか?」。するとこれに老師が言う。「それは美しい。実際わしもそうしたことがある」。するとこれに兄弟が言う。「それでは、わたしのアイギュプトス豆を持ってパン焼き場に行き、これを粉にしようと思います」。するとこれに老師が言う。「今度パン焼き場に行く時に、そなたのパンを作るがよい。この外出にいったい何の用があるのか?」。〔主題別8-10〕
8 老師たちの一人が師父テオドーロスのところにやって来て、これに云った。「見よ、すごい兄弟が世俗にもどりました」。するとこれに老師が云った。「そんなことに驚くのか? 驚くことはない、むしろ、誰か敵の口をまぬがれることのできた者がいると聞いたら、驚くがよい」。〔主題別10-34〕
9 ある兄弟が師父テオドーロスのところに来て、自分がまだ業を為していない事柄をはなし、その問題を調べ尋ね始めた。するとこれに老師が言う。「まだ船を見つけず、そなたの荷物も積まず、航海する前に、もうしかじかの都市に着いてしまった。189.20 先ず仕事を為してはじめて、今そなたが話しているところに達するのじゃ」。〔主題別8-11〕
189.23
10 同じ人が、あるとき、生まれつき宦官である師父イオーアンネースを訪ねたことがある。彼らが話しているときに、云った。「わしがスケーティスにいたころ、魂の業がわれわれの仕事であり、手仕事は付属的なものであった。しかし今では、魂の仕事が付属的なものとなり、付属的なものが仕事になってしまった」。 〔主題別10-33〕
189.30
11 そこで、彼に兄弟が尋ねた、いわく。「わたしたちが今、付属的なものと考えている魂の仕事とはどんなものでしょうか。また今、わたしたちが仕事として持っている付属的な仕事とは、どんなものなのでしょうか」。すると老師が言う。「神の命令によって行われるすべてのことは、魂の仕事である。だが、自分のために働き、集めること、これは付属的なものとしなければならない」。すると兄弟が言う。「どうかその点をわたしにはっきりさせてください」。すると老師が言う。「見よ、わしについて、わしが病気であると聞いて、そなたがわしを見舞わなければならないとする、そなたは自問するであろう。『わたしの仕事を放っておいて、すぐ行くべきだろうか。まず手仕事をやり終えて、それから行こう』。ところが、また別の口実が出来て、結局のところ、恐らくそなたは出発しないだろう。あるいはまた、他の兄弟がそなたに『兄弟よ、どうかわたしに手を貸してくれ』と言ったとする。そこで、そなたは自問する、『わたしの仕事をやめて、彼と働きに行くべきだろうか』。そのとき、もし行かないならば、そなたは、魂の仕事である神の命令を捨てて、手仕事という付属的なことをすることになるのだ」。〔主題別10-177〕
12 ペルメーの師父テオドーロスが云った、 悔改めて身を処する人は、掟に縛られない。
13 同じ人が云った。「軽蔑しないというほどの徳は、ほかにはない」。
14 さらに云った。「修屋の甘美さを知る者は、軽蔑からではなく、自分の隣人を避ける」。
15 さらに云った。「さまざまな憐れみ(oijktirmovV)から自らを断ち切らねば、それらはわたしを修道者にさせないだろう」。
192.6
16 彼はさらに云った。「当節は、多くの人々が、神が休息を与える前に、休息してしまう」。
192.9
17 彼はさらに云った。「女がいるところで眠つてはならない」。
18 兄弟が師父テオドーロスに尋ねた、いわく。「わたしは諸々の掟を完遂するつもりです」。これに老師が、師父テオーナースについて言う、 かつて彼も云った、「神に従ってわたしの想念を全きものにしたい」、そして、小麦粉をパン焼き場に持っていき、パンを焼いた。そして貧しい人々が彼に請うたので、そのパンを与えた。さらにまた他の人々にも請うたので、籠と自分の着ていた外衣とを与え、小さな衣で腰を覆って、自分の修屋に入っていった。じつにそうやって、今度は自分を非難した、いわく。「わしは神の掟を完遂しなかった」。
19 あるとき、師父イオーセープが病気になり、師父テオドーロスのもとにひとを遣わした、いわく。「こちらへ、わたしが身体から離れる前に、あなたにお会いするために」。ところが、それは週の半ばのことであった。そこで、彼は出かけなかった。だが、人を遣った、いわく。「そなたが安息日までもつならば、行こう。もし逝去したら、あの世で相見えよう」。
20 兄弟が師父テオドーロスに云った。「どうかわたしに説話(rJh:ma)を云ってください、わたしは滅びそうなのです」。すると、つらそうに(meta; kovpou)彼に云った。192.30「わしは危機にある、いったい何をそなたに云いえようか」。
21 兄弟が師父テオドーロスのところにやって来た、彼のところに糸をも運んで、彼〔テオドーロス〕に編み方を教えるためである。老師はといえば、彼に言う。「行け、そして明け方ここに来るがよい」。長老は立ち上がって、糸をぬらし、彼のために龍を編む準備をし、「このようにし、また、あのようにせよ」と言って、彼をそこに残した。そして修屋に入って、座り始めた。時聞が来たとき、彼に食事をさせ、送り帰した。しかし、夜明け方、兄弟が再び修屋にやってきたので、長老は一言った。「ここからそなたの糸を取って、立ち去れ。そなたはわたしを誘惑と気苦労へと陥れるために来たのだ。」そして、もはや彼が中に入るのを許さなかった。
22 師父テオドーロスの弟子が云った、 かつて、ある人が玉葱〔Dsc.II-180〕を売りに来て、わたしの深鉢を満たした。すると老師が言う。「彼のために小麦で満たし、彼に与えなさい」。しかし、小麦の山は2つあり、一つは純粋なもので、もう一方は選別されていないものだった。そこで、わたしは選別されていないので、彼のために満たした。すると、老師は、悲しみともいえる表情で[003]わたしを見つめた。するとわたしは恐ろしくなって倒れ、深鉢を壊してしまった。そしてわたしは彼の前に跪いた。すると老師が言う。「立て、そなたに問題があるのではなく、わしが過ったのじゃ、そなたに、云ったのじゃから」。そして、老師は中に入り、純粋な小麦で自分の懐に満たして、玉葱といっしょ彼〔商人〕に与えたのだった。
23 あるとき、師父テオドーロスは兄弟とともに、水を汲みに出かけた。すると、先に歩いていた兄弟が、池の中に大蛇を見つけた。すると老師が彼に言う。193.1「行け、その頭を踏みつけよ」。だが、彼は恐れて、引き返さなかった。さて、老師が到着した、すると獣は彼を見て、恥じ入り、砂漠へと逃げ去った。
24 ある人が師父テオドーロスに尋ねた。「突然、倒壊のようなものが起こったら、あなたでも怖れますか、師父よ」。これに老師が言う。「たとい天が地にくっついたとしても、テオドーロスは恐れはしないだろう」。たしかに、彼は怯懦が自分から取り除かれるよう、神に祈っている人であった。彼に尋ねたのは、だからこそであった。
193.10
25 彼について言い伝えられている、 彼は、スケーティスで輔祭に任じられたが、その役割を引き受けるのを望まず、あちこち逃げ回っていた。しかし老師たちは、「あなたの輔祭の勤めを捨てないでください」と何度も言って、彼をスケーティスに連れ戻した。彼らに師父テオドーロスが言う。「わしに任せてほしい、そうすれば、わしがその典礼の役割に留まることに足るかどうか、神に祈ろう」。そして、神に祈って言った。「わたしがこの役割に留まることがあなたの御意志であるならば、わたしに確信をお与えください」。すると、地から天に届く火の柱が彼に示されて、こう言う声が聞こえた。「もしもそなたがこの柱のごとくなれるのならば、行け、輔祭の務めを果たせ」。これを聞いて彼は、もはや務めを受けないことを決心した。さて、彼が教会にくると、兄弟たちは、彼の前に跪いた、いわく。「輔祭になるのを拒まれるのでしたら、せめて〔聖体祭儀の間だけ〕杯を持ってください」。しかし、彼は、それを承知しなかった、いわく。「わしを放っておかないならば、わしはここを立ち去る」。それで、彼らは彼を放任した。 〔主題別15-33〕
26 また、彼について言い伝えられている、 スケーティスが〔蛮族によって〕荒らされたとき、ペルメーに住むためにやって来た。が、老齢のために病気になった。そこで、彼に副食のようなものを捧げた。すると、最初の人が持ってきたものを次の人に与え、こうして順番に、先に受け取ったものを他の者に与えた。そして、食事の時間には、訪れた者が持ってきたもの、これを食べたのである。
193.36
27 師父テオドーロスについて言い伝えられている、 彼がスケーティスに住持していたとき、ダイモーンが入り込もうとして彼のもとにやって来た。すると彼はこれを修屋の外に縛りつけた。さらに今度は別のダイモーンが入ろうとした。しかしこれをも縛りつけた。さらに第三のダイモーンが襲ってきて、二つ〔のダイモーン〕が縛りつけられているのを見つけ出した。そこで彼らに言う。「なぜ、おまえたちはこんな外に立っているのだ」。するとこれに言う、 中に坐っているやつがいて、われわれを入らせないのだ」。そこで、自分も反抗して入りこもうと企てた。しかし老師はこれをも縛りつけた。そこで、彼らは老師の祈りを恐れ、彼に呼びかけた、いわく。「われわれを解き放してください」。すると彼らに老師が言う。「立ち去れ」。こうして、彼らは恥じ入って退散した。
28 師父たちの一人が、ペルメーの師父テオドーロスについて語り伝えている、 ある日の午後、わたしは彼のところへ行ったが、彼がぼろぼろの小さな修道服を着て、自分の胸をはだけ、自分の頭巾を前に垂らしているのを見た。すると、見よ、ある長官が、彼に会うためにやって来た。その入が戸を叩いたので、老師は戸を開けて外に出、彼に会ってこれと話をするために戸口に座り込んだ。わたしは、彼の衣の端を取って、それで彼の肩を覆った。しかし、長老は手を伸ばし、それを払いのけてしまった。そして長官が去ったあと、わたしは彼に云った。「師父よ、どうしてこのようなことをしたのですか。あの人は益されるために来たのに。蹟きはしなかったでしょうか」。すると、わたしに老師が言う。「わしに向かって何を言うのだ、師父よ。。いったい、われわれは人間どもに隷従しているのか。われわれは必要なことをしたのだ。その他のことは避けよ。益を受けようと思う者は益されるがよい。蹟く者は蹟くがよい。だが、わしはありのままの姿で面会する」。そして、彼は自分の弟子に、通達した、いわく。「誰かがわしに会おうとしてやって来たら、人間に阿るようなことを云ってはならない。わしが食事をしているなら、『食事をしています』と云え、眠っているなら、『限っています』と云え」。
196.14
29 あるとき、三人の盗賊が彼の前に現れた。そして二人が彼をつかまえ、一人が彼の持ち物を運び去ろうとした。で、書物を運び出し、さらに修道服をも取ろうとした。そのとき、彼らに言う。「それは置いてゆけ」。しかし、彼らにその気はなかった。そこで彼は自分の両手を動かして、二人を投げとばした。これを見て彼らは恐れた。すると老師が彼らに言う。「怖がることはない。それらを四つに分け、三つを取れ、しかし一つは置いてゆけ」。そこで、彼らはそうした。自分の取り分として手に入れたのは、集会で着る小さな修道服であった。
196."24t"
エンナトーン人、師父テオドーロスについて
196.25
1 エンナトーンの師父テオドーロスが云った、 若い頃、わしは砂漠に住持していた。そういう次第で、2窯分のパンを焼くためにパン焼き場にいくと、そこにパンを焼こうとしている兄弟がいたが、彼に手を貸す者がいなかった。そこで、わしは自分のことは放っておいて、彼に手をかした。暇になったとき、別の兄弟が来たので、再びこれに手を貸してパンを焼いた。そしてさらに、第三の兄弟が現れたので、同じようにした。その後、やって来た各々に対して同じようにした。そして6窯分を焼いた。そして最後に、わたしの2窯分を焼いた、来る者が途絶えたからである。
2 エンナトーン人たちのうち師父テオドーロスと師父ルゥキオスとについて言い伝えられている、 彼らは、自分たちの諸々の想念をからかい、こう言いながら、50年間を過ごした。「この冬が過ぎたら、ここを移ろう」。だが、再び夏が来ると、彼らは言った、 この夏が過ぎたら、ここを出ていこう、と。永く記憶さるべきこれらの師父たちは、いつもこのようにして過ごしていたのである。〔主題別7-11〕
197.7
3 エンナトーンの師父テオドーロスが云った、 神が、祈りのときのわれわれのお座なりさと、詩編朗唱のときの捕囚状態とを思量なさるなら、われわれが救われることは不可能である。〔主題別11-35〕
197."11t"
スケーティスの師父テオドーロスについて
197.12
スケーティスの師父テオドーロスが云った。「想念が生じると、わしを乱すが、わしを専心させもする、しかし実修を為す力はなく、徳に向かう障害となるに過ぎない。それで、素面の人はこれを振り払い、祈りへと起き上がるのである」。
197."17t"
エレウテロポリス人の師父テオドーロスについて
197.18
1 イベーリア〔グルジア〕人の師父アブラアームが、エレウテロポリス人の師父テオドーロスに尋ねた、いわく。「どうすれば美しいのでしょうか、師父よ。おのれに名誉を得るのと、不名誉を受けるのとでは?」。そこで相手の老師が言う。「もちろん、わしは不名誉を受けるよりも、むしろ名誉を得る方を望む。なぜなら、美しいわざをなして、栄化されれば、わしはこの栄光にふさわしくないとして、わしの想念を断罪することができる。他方、不名誉は悪しき行いから生じる。されば、どうしてわしの心を慰めることができようか、人々がわしのために顕くとすれば? されば、善を行って、栄化される方が勝っているのである」。そこで、師父アプラアームが云った。「美しく云ってくださいました、師父よ」。
197.31
2[003]〔師父テオドトスを独立させないとおかしいよね〕 師父テオドトスが云った。「パンの欠乏は、修道者の身体を疲れさせる」。だが、他の老師が言った、 徹夜は、それ以上に身体を疲れさせる、と。〔主題別4-19〕
197."34t"
師父テオーナースについて
197.35
師父テオーナースが云った。「理性を神の観想から引き離すことによって、われわれは肉的な情念の捕囚となる」。〔主題別11-36〕
197."38t"
大主教テオピロスについて
197.39
1 あるとき、浄福なる大主教テオピロスが、ニトリアの山地を訪ねたことがある。そこで、山の師父が彼のところに赴いた。するとこれに大主教が言う。「道中、何かより多いものを見出されましたか、師父よ」。これに老師が言う。「それは、絶えず自分自身を責め、非難することです」。これに師父テオピロスが言う。「それを措いてほかに道はありません」。〔主題別15-31〕
2 同じ大主教である師父テオピロスが、あるとき、スケーティスを訪れた。集まっていた兄弟たちが、師父パンボーに云った。「〔大主教が〕益されるよう、主教に一言云ってください」。彼らに老師が言う。「わしの沈黙によって益されることがないなら、わしの言葉によっても益されることはできぬ」。〔主題別15-59〕
200.1
3 かつて、師父たちがアレクサンドレイアに出かけたことがある、大司教である浄福なテオピロスに呼ばれ、祈りを上げ、神域を占領するためであるが、彼らが彼と食事しているとき、仔牛の肉を供せられ、何の分別もなく彼らは食したが、大司教は一切れをとって、こう言いながら自分の傍にいた老師に与えた。「見よ、これは美しい一切れです、お食べなされ、師父よ」。彼らは答えて云った。「わたしたちは、今の今まで野菜を食べていました、もし肉なら、わたしたちは食べません」。そうして、もはや彼らの誰ひとりそれを味わうことはなかった。〔Anony162,主題別4-76〕
200.12
4 同じ師父テオピロスが言った。
「魂が身体から離れるとき、われわれはどれほどの恐怖、戦慄、苦難そして苦しみを見ることであろうか! なぜなら、敵対勢力の軍と権力、暗黒の君主たち、邪悪の世俗の主権者たち、諸々の長官たちや権威者たち、邪悪の霊たちが、われわれに迫ってくるからだ。然るべき仕方で、彼らは、魂が若い頃から死ぬまでに意識的、無意識的に犯した罪のすべてを示して、魂を捉える。彼らは、魂から生じたすべてのことを責めるために、立ち上がるのだ。そして、判決が告げられ自由になるまでの間に、魂はどのような苦しみを味わうであろうか。これこそ、魂に自由がもたらされることを見るまでの苦しみのときである。またさらに、神的な諸力が、敵対する者たちの前に立ち上がり、魂の善いところを示す。それゆえ、正しい裁き手によって、裁きが下されるまで、魂がどれほどの恐怖とおののきの中に身を置くかを、よく考えよ。
もし判決が相応しいものならば、かの悪霊たちは恥を受け、魂は彼らから解放される。その後、あなたは憂うことなく、聖書に書かれている通り、天国に住む。『喜ぶすべての人々の住まいは、あなたの中にある』〔詩編86:7〕。そこで、聖書の言葉が成就するのだ。『苦しみ、悲しみ、うめきは消え去った』〔イザヤ35:10〕。解放された魂は、言語に絶するそうした喜びと栄光へと進み、そこに身を置く。しかし、魂が怠惰の中に生きてきたことが分かると、魂は次の恐ろしい声を聞く。『主の栄光を見ぬよう、不敬虔な者を取り除け』〔イザヤ26:10〕。そのとき、魂は、怒りと苦しみと暗黒の日に捉えられる。そして、外の闇に渡され、永遠の火の責め苦を宣言され、終わることなく罰せられる。そのとき、世の誇りはどこにあるのか。虚栄、喜悦、快楽、幻想、安らぎ、喧騒、富、高貴さは、一体どこにあるだろうか。父、母、兄弟はどこにいるだろうか。彼らのうちの誰が、火に焼かれ、苦しい拷問に遭うこの魂を救い出すことができるだろうか。とすれば、聖なる敬虔な行為を、どれほど為さねばならないだろうか。また、それを得るためには、いかなる修行、いかなる行住坐臥、いかなる歩み、どれほどの厳格さ、どれほどの祈り、どれほどの見張りが、必要であろうか。『これらのことを待望しつつ、汚点なく、咎められるところもない者として神に見出されるよう努めなさい』〔2ペテロ3:14〕。それは、『わが父に祝福された者たちよ、さあ、世の始めから汝らのために用意されている国を受け継げ。世々とこしえに、アメーン』〔マタイ25:34〕という御言葉にふさわしい者となるためである」。
5 大主教である同じ師父テオピロスが、最期を迎えて云った。「浄福なるかな、師父アルセニオス、常にこの刻を記憶なさっていたとは」。〔主題別3-15〕
201."12t"
教母テオドーラについて
201.13
1 教母テオドーラが、教父(PavpaV)テオピロスに、使徒のことば、「『今の時を活かして用い』〔コロサイ4:5〕とはどういう意味ですか」と尋ねた[003]〔ここは受身にしないとおかしいよね!〕。相手が彼女に言う。「これは利得の異名である。例えば、虐待の時がそなたにあらんか。謙遜と寛容とによって、その虐待の時を活用し、おのれに利得をもたらせ。不名誉の時があらんか。堅忍によってその時を活用し、利得せよ。いかなる不利なことも、われわれがその気になりさえすれば、われわれの利得になるのじゃ」。
2 教母テオドーラが云った。「『狭い門から入るよう努めなさい』〔マタイ7:13〕。樹木は冬と雨とを得なければ、実を結ぶことはできません。わたしたちにとっても同様で、今の世は冬です。しかし、多くの患難と試練を通過しなければ、諸天の王国の相続人にはなれないのです」。
3 彼女はさらに云った。「静寂さを保つのは美しい。思慮深い人は静寂さを保つからです。たしかに、処女や修道者にとって、静寂を保つことは真に大事なことです。とりわけ若い人たちにとっては。しかし、知りなさい、静寂さを保とうとすると、すぐに邪悪な者がやって来て、魂を圧迫するのです、懈怠や、失望や、諸々の想念によって。また、身体をも〔圧迫します〕、諸々の病気、弛緩、膝と四肢の弱さによって、そして魂と身体の力を破壊するのです。『わたしは病人で、集会に参加する力がありません』と言わせるために。しかし、わたしたちが素面なら、これらすべては消え去ります。例えば、ある修道者がいました。集会に参加する前はいつも、激しい頭痛とともに、悪寒と発熱が彼を捉えました。そういう次第で、彼は自らに言いました、 見よ、わたしは病気で、ことによると死ぬかもしれない。だから、死ぬ前に立ち上がって、集会に参加しよう、と。そうして、この想念によって、自分自身を強制し、集会に参加したのです。そうして、集会が終わると、熱も止んだのでした。そしてしばしば、兄弟はそのような想念に抵抗しました。そして集会に参加し、想念に打ち勝ったのでした。
201.50
4 同じ教母テオドーラがさらに云った、 あるとき、ある敬虔な人がある人から侮辱を受けました。すると、相手に向かってこう言う。「わたしもあなたに同じことが言えます。しかし神の律法がわたしの口を閉ざすのです」。さらにまた、彼女はこうも言った、 あるキリスト教徒が、身体についてマニ教徒[022]と議論して、こう云った。「身体に法を与えなさい、そうすれば、身体が造り主のものであることが分かるでしょう」。
204.5
5 同じ彼女がさらに云った、 師というものは、権力愛(filarciva)から無縁で、虚栄には無頓着であり、さらには倣慢から遠ざからなくてはならない。また、へつらいによって欺かれたり、贈り物に目がくらんだり、大食にしばられたり、怒りに支配されたりしてはならない。辛抱強く、公正で、できるだけ謙遜でなくてはならない。試練によって高められ、寛大で忍耐強く、魂を愛する者でなければならない。
6 同じ彼女がさらに云った、 修行も、徹夜も、いかなる労苦も、救いことはない、真正な謙遜がないかぎりは。事実、ダイモーンたちを追い払おうとしている隠修者がいました。彼ら〔ダイモーンたち〕を調べました。「何によって、おまえたちは追い出されるのか、断食によってか?」。すると彼らが言いました。「われわれは食べたり飲んだりはしない」。「徹夜によってか?」。「われわれは眠りもしない」。「隠修生活によってか?」。「われわれは砂漠で暮らしている」。「では、何によって追い出されるのか?」。すると彼らが云いました。「謙遜以外に、われわれに勝つものはない」。謙遜がダイモーンたちに対する決定的勝利の証拠だと分かるでしょう。
204.23
7 教母テオドーラがさらに云った、 一人の修道者がいました。彼は多くの試練を受けたために言う。「わたしはここから出て行く」。そして自分自身の草履を履いていると、他の者が、自分も自分の草履を履こうとしているのを目にしましたので、これに言う。「あなたが出て行くのは、わたしのせいではありませんか? 見よ、わたしはあなたが行くすべてのところに、先立って行くでしょう」。〔主題別15-60〕
2016.01.19.
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