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エッセイ



瓜子姫と天の邪鬼



   I 細切れの女神
   II 出雲の抵抗
   III アマノジャクの怒り



I. 細切れの女神

 東北地方に広く分布していることで知られる「瓜子織り姫」の昔話が、出雲の南部、仁多郡でも採集されている。

 子どものなかった爺さん婆さんに、川上から流れてきた瓜の中から、かわいらしい女の子が授かる。この瓜姫は機織りをよくした。やがて秋祭りの日になったので、じいさんと婆さんは、祭りに参るためのカゴを買いに出かける。そこにアマノジャクが現れ、機を織っていた瓜姫に、ちょっとでいいから戸を開けてくれと頼む。あまりにしつこいので、ちょっとだけ戸を開けてやったところ、アマノジャクが押し入ってきて、瓜姫を柿の木に縛りつけ、自分は瓜姫に化けて機を織る真似をしていた。帰ってきた爺さん婆さんが、瓜姫に化けたアマノジャクをカゴに乗せて宮参りをしようとしたところ、柿の木に縛られていた本物の瓜姫が大声で泣いたので、二人は間違いに気づいて怒り、アマノジャクをカゴの棒で突き倒し、首を切ってキビ畑に棄てた。キビの根が赤いのは、アマノジャクの血に染まったからだというのである。

 石見の邑智郡においても同様の昔話が採集されており、こちらの方はアマノジャクを三つに切って、クリとソバとキビの根本に埋めたので、以来、その三種の植物は根が赤くなるのだという。

 類話は信州(下水内郡・小懸郡)でも採集されており、原ヤマト勢力ともいうべき高天原族の服属勧告に一人抵抗したタケミナカタが諏訪に逃れたという伝説が思い出されて、遠く隔たった信濃と出雲との親近性をうかがわせて興味深い。特に、下水内郡のものは、アマノジャクが男ではなくて意地悪娘となっている点で注目される。

 そして、この信州を境として、「瓜子織り姫」伝説が西と東で著しい対照を示していることは注目に値する。

 東北地方に広く分布している「瓜子織り姫」説話では、瓜子姫がアマノジャクによってまな板の上で切り殺され、食べられてしまう点で、ひどく残酷な印象を与える。これに反し、信州以西の瓜子姫はみな助かっている。その代わり、今度はアマノジャクが細切れにされているのである。

 だが、その死はあながち無意味ではない。アマノジャクの屍体は、クリとかソバとかキビといった古代人たちの常食用植物を、ある意味で養い育てているのである。文化人類学や民俗学は、ここに古代人たちの重要な信仰の名残を見出そうとしている。

 古代人たちは、芽生え、生育し、実り、死に絶え、その屍体の中から再び芽生えるという、大自然の死と再生の営みそのものに、偉大なる大地母神の姿を見た。地母神は、殺害され、切り刻まれ、大地に撒き散らされることによって、人間の食べられる作物を芽生えさせた ――ドイツの人類学者イエンゼンによって、女神の名をとって「ハイヌウェレ型」と名づけられこの作物起源神話は、水田農耕を知らない世界の「古栽培民」の間に広く分布している。そして同じモティーフは、確かに日本の神話の中にも見出すことができるのである。

 すなわち、スサノヲがオホゲツヒメに食物を乞うたところ、女神は鼻・口・尻から種々のおいしい食べ物を取りだし、さまざまに料理し整えてさしあげた。これをのぞき見たスサノヲは、けがれた物を食べさせようとしたと怒って、女神を殺害してしまう。すると、殺された女神の頭から蚕が、二つの目から稲種が、二つの耳からアワが、鼻から小豆が、女陰から麦が、尻から大豆が化生したと古事記にある。

 日本書紀では、一書に曰はくとしてツクヨミ(月夜見)とウケモチとの話を載せ、殺されたウケモチの頭から牛馬、額からアワ、眉から蚕、眼からヒエ、腹からイネ、陰部からムギと豆が化生した。アマテラスは、アワ・ヒエ・ムギ・マメを「陸田種子(はたけつもの)」、イネを「水田種子(たなつもの)」と区別し、この世の人間の「食ひて活くべきものなり」として、五殻の起源を説明している。

 縄文時代の遺跡から発掘される奇妙な土偶が、縄文人たち自身の手で破砕されていること、いや、どうやら初めから破砕するためにつくられているらしいことは、縄文中期の人たちの間に「ハイヌウェレ型」神話が既に広く深く浸透していたことを推測させる。彼らは、土偶のかけらを土の中に逆立てて埋め、そこを聖なる場として祭っていたようだ。

 このような縄文人たちの死と再生に関する神話的モティーフが、オオクニヌシの物語にまでその痕跡をとどめていることは、注目すべきことである。オオクニヌシは、兄弟神である八十神の迫害を受けて何度も死んでは生き返るのみならず、最後には「根の国」に赴き、スサノヲの課するいくつもの試練を克服し、ついに八十神を追い払って統治者すなわち大国主となることを認められる。死と再生の儀式は、農耕儀礼であると同時に、古代人たちにとっては、それは成人式の祭りでもあったのである。

 瓜子姫は必ず食べられなければならなかった。あるいは、アマノジャクは必ず細切れにされ、畑にまかれなければならなかった。それがいかに残酷な印象を与えようとも、それは避けては通ることのできない儀式であった。そうすることによってのみ、彼らは再生を約束されていたのである。

 その意味で、瓜子姫がいきなり食べられてしまう東北地方の「瓜子織り姫」説話は、よく古型を保っていると言える。これに反して、悪さをしたアマノジャクが切り刻まれるという信州以西の説話は、古代人の大地母神信仰の名残をとどめつつも、近代的な(?)勧善懲悪思想の枠組みの中に取りこまれた民話であるといえる。

 だが、アマノジャクとはいったい何者なのか?




II. 出雲の抵抗



 縄文人たちは、日本列島の南から北まで、比較的均質な文化を展開していた。その原因のひとつは、彼らが驚くほど広範囲にわたって交易・交流を維持していたことにある。彼らは、われわれの想像をはるかに絶して、島から島へ、半島から半島へ、そして川を遡っては山に分け入り、山を越えては別の川を流れくだって、列島の横断も自由にやってのけていた。その意味で、古代人にとっては、東アジア大陸と日本列島とは、日本海を中心とした円環のひとつながりにすぎなかった。古代出雲地方を例にとっても、日本海沿岸に沿って、北九州から北陸に及ぶ広大な地域と交流し、中国山脈も何ら吉備・瀬戸内地方との交流の妨げにはならず、また、海上ルートは朝鮮半島を介して、あるいは直接に、アジア大陸に向けて開かれていた。この開放性こそ、縄文人の普遍的性格であり、その性格を最も濃厚に受け継いだ古代出雲人の特徴であったことを押さえておく べきである。

 だが、水田稲作農耕の技術を持った人々の渡来は、日本列島の歴史に大きな変化をもたらした。すなわち、「北の文化」と「南の文化」と、その間に位置する「中の文化」との三つの文化圏が、それぞれ別の道を歩むことになったのである。しかし、「中の文化」が日本の歴史の中心に据えられ、以後、南北の二つの文化は視野の外に置かれる。いわゆる弥生時代というのは、「中の文化」の視点から名づけられた歴史区分にすぎない。

 ところで、水田稲作の営みは、基本的には縄文人たちの精神世界と何ら対立も否定もするものではなく、むしろこれを引き継ぐもののように見えた。だが、そこには縄文人の世界を根本的にひっくり返す二つの原理が用意されていた。ひとつは、水田農耕民も自然を尊崇したが、その自然とは、水田農耕(人間)を中心に価値の上下を秩序づけられた自然にすぎなかったこと。この選良主義は、万物に神霊を認め、これを畏敬するという古代人の精神世界を、目に見えない形で衰退させてゆくものであった。といっても、その変化は、根底的なものではあっても、比較的ゆるやかであった。もっと決定的な変化は、土地(耕地)の囲いこみにあった。水田農耕民にとって、もはや大地は生きとし生けるものすべてに共通の母なる大地ではなくなった。境界を定め、ここに押し入ってくるものは威嚇し、排除すべき私有物となりはてたのである。

 こうして、水田稲作農耕の本格化にともない、水利権や耕地、あるいは蓄えた稲などをめぐって、部族間・地域間の緊張・対立が激化してゆくことは当然の成り行きであった。いつの時代も、争いは文明を飛躍的に変化させる(敢えて進歩とは言わない)。しかし、この争いを通じて、統一的な中央政権、いわゆる大和政権が出来あがるまでには、なお数百年間におよぶ争乱が必要であった。これが弥生時代の隠れなき姿であった。

 支配的な勢力が勢力範囲を拡大しようとするのは、単なる野心によるのではない。資源や産物の流通の安定を図るために必要な手段であったのだ。気の遠くなるような長い時間をかけて、縄文時代の人々はそのような流通網をゆっくりと築きあげていった。古代出雲は、そのような流通網の中心地の一つであった。しかし、弥生時代に入って、古い流通網を否定し、人々は新しい原理によって流通網をつくりあげようとした。その原理とは、権力の集中によるということである。

 時代の波は、出雲地方をもひたひたと浸食していった。対内的には大きく東出雲と西出雲との対立があった。対外的には、北九州勢力と後発の大和勢力との対立に巻きこまれないわけにはいかなかった。

 強大化する外的勢力にとって、出雲が常に争奪の的になるのは、

  1) 出雲がどこに向かっても開かれた土地であったこと。
  2) そして何よりも、この地にそれだけの価値があったから

にほかならない。その価値とは、ここが鉄文化の先進地域であったということである。

 そんな中にあって、出雲は老獪な外交戦術を展開したと考えられる。高天原族の再三にわたる服属勧告も、使者ないしは遠征軍を率いた本人が、そのまま出雲に住み着いてしまい、復命さえしようとしない結果になった事実を、古事記は包み隠そうとしない。

 強力な軍隊を付けて遣わされた天の若日子も、大国主の娘と結婚して、8年経っても復奏しない。そこで、高天原族は相談の末、鳴女(なきめ)と称する雉を遣わして、「汝を葦原の中つ国に使はせる所以は、その国の荒ぶる神どもを言むけ和(やは)せとぞ。何ぞ八年に至るまでかへりまをさぬ」と詰問させようとする。そこで鳴女が天の若日子の門の「ゆつ桂」の樹にとまって伝言すると、天の探女(あめのさぐめ)が聞きとがめて、「この鳥は、その鳴く音いと悪し。かれ、射殺すべし」と唆す。天の探女は、鳥占いをよくする巫女ではなかったかと考えられる。

 出雲と大和の間で、恐るべき諜報戦争が展開されていた様が想像できるし、天の若日子は、出雲に対する忠誠心を試されたのかもしれない。彼は勧められるままに鳴女を殺害し、ために、高御産巣日神の放った暗殺団に殺害される。そして高天原族は、おそらくは鳴女殺害を口実として、建御雷の神と天の鳥船の二人を遣わして、武力をもっての直談判に入らせる。ここに、ついに出雲の開放の論理は、高天原族の権力集中の論理に屈服したのである。

 大和への出雲の服属によって、今や、おそらくは最も過激な主戦論者であった天の探女の居場所は、もはやどこにもなかった。この天の探女を、アマノジャクの起源とするのが、民俗学の定説となっている。

 高天原族に対して敵愾心を燃やし、ために、この世のどこにも安住の地を見つけられなくなってしまった天の探女を、民衆は、しかし、忘却しなかった。民衆は、太古以来連綿と続く大地母神信仰を隠れ家に提供してやり、クリとかソバとかキビといった常食用植物の根本に、その痕跡をとどめさせたのである。

 しかし、それと同時に、彼女の反逆の精神は、何と貶められたことか! 今や彼女は、木霊や山彦となって、無知な人々を一驚させる程度の存在に落ちぶれてしまった。そして、高名な民俗学者がさらにとどめを刺した。

 「人生の理想の幸福な為には、アマノジャクなどは居ない方がよかったのだが、退いてこの現実の不如意を甘なひ又楽しまうとするには、彼も亦闕くべからざる大切な役者であつたのである」。(柳田国男)




III. アマノジャクの怒り



 下閉伊郡岩泉町で採録された「瓜子織り姫」説話は、次のような内容である。――

 爺と婆とが子供が無いので、欲しい欲しいと思って願掛けをした。
 ある朝、瓜畑に行ってみると、畑の真ん中に美しい女の子が一人いた。これア神様のおさずかりものだと思って、瓜子の姫子と名をつけて大事に育てた。
 爺さま婆さまは山さ薪とりに行く。誰が来ても戸を開けんな、このへんは狼(おおいぬ)がひどえしけに、と言って置いて出ていった。
 その後で瓜子の姫子は、一人でトンカラ、ヒンカラと機を織っている。そこへ山の狼が、瓜子の姫子、遊んべやアと言ってやってきた。(それから段々の問答があって結局)瓜子の姫子は俎板の上へ横になると、狼は包丁で頭だの手だの足などを切って、ああうめやエうめやえと言って食った。そうして骨こは縁側の下に匿して、残ったのを煮ていた。
 夕方に爺と婆とは山から帰ってきて、薪をがらがらと下ろして、瓜子の姫子、今帰ったぞと言うと、瓜子の姫子に化けていた狼は、さアさ腹が減って来たごったから、早くまんま食っとがれと言う。爺と婆とは瓜子の姫子を煮た汁を、ああうんめアうんめアと言って食うと、

  板場の下を見さ
  骨こ置いたが見ろやエ見ろやエ

と言って、狼になって山ささっさと遁げて行った。
 そして爺様と婆様とは、また二人っこになった。

 東北地方は、史上、何度も飢饉地獄に見舞われてきた。言い換えれば、それは、「食う」という人間の基本的な欲求のもつ「おぞましさ」を、人々が何度も経験してきたということであろう。「ああうんめアうんめア」と舌鼓を打つ人間の姿には、そういう「おぞましさ」を体験してきた者のみが有する実感がこめられているのではないか?

 それはさておき、東西の「瓜子織り姫」伝説を比較したとき、著しい対照をなしていることに、すぐに気づかされる。信州以西のアマノジャクは、さしたる悪戯をしたわけでもないのに、細切れにされるという過酷な報復を受ける。これに対して、いわば「瓜子織り姫」伝説の本場ともいうべき東北のアマノジャクは、瓜子姫の皮を剥ぎ、切り刻んで食するという、およそ考えうる最も残酷な仕打ちをしているにもかかわらず、単に殺されるだけか、うまくすれば逃げのびさえするのである。あたかも、民話の語り手たちは、いくぶんかアマノジャクの肩を持ってでもいるかのようにである。この違いは何なのか?

 あるいは、こう問うべきかもしれない。――瓜子姫は、何ゆえにかくまでも残忍な仕打ちを受けねばならなかったのか? 瓜子姫の罪とは何か?

 瓜子姫は機織り上手である。いったい何の機を織っているのか。それは、殿様に献上する品であったり、あるいは、自分が殿様や長者と結婚する時に着る嫁入り衣装であったり、宮参りの衣装であったり、内容はまちまちである。しかし、要は、彼女がしあわせであることに間違いはない。もしも瓜子姫に、アマノジャクに憎まれるような罪があるとするなら、この「しあわせさ」を措いて他にはない。

 とするなら、しあわせであることが、なぜにそれほどまでに憎まれねばならなかったのか?

 ここに、私は、大和政権に最後まで「まつろはぬ」民であった蝦夷の流れを汲む人々の伝えた「瓜子織り姫」伝説と、早々と服属してしまった出雲ないしは信州以西の人々の伝えた「瓜子織り姫」伝説との違いを見ないわけにはいかない。

 「まつろはぬ」者は、それだけ徹底的に弾圧される。このことは、大和と蝦夷との長い闘争の経過、そして、戦い敗れた後のさらに長い弾圧と差別の歴史を見れば、おのずと明らかである。このような人々の伝える瓜子姫は、二度と生き返ることはない。なぜなら、彼女は支配者である殿様や長者や、さらには押しつけられた外来の神に認められることを己の幸福としているからである。

 これに反して、出雲の瓜子姫は、アマノジャクに殺されることもなく、予定どおり、殿様や長者の嫁として、めでたく嫁いでゆき、かわりにアマノジャクが過酷な報復を受ける。アマノジャクをみずからの手で抹殺することによって、生き残った者たちは身の安全を、さらには身のしあわせを手に入れるのである。もしもそれが屈辱ではなくて、しあわせであるとするなら。

 アメリカ先住民の粘り強い抵抗に苦しんだアメリカ騎兵隊の将軍はつぶやいたという、「いいインディアンとは、死んだインディアンである」と。言うところの意味は、死んだインディアンはもはや抵抗しないというのである。しかし、このきわめて悪意に満ちた言葉は、じつは、当の先住民の側にとっても真実であったはずである。つまり、先住民がこの言葉を口にしたとき、そこには、誇り高い者たちは勇ましく戦って早々と死に、怯懦な者だけが生き残ったという痛恨の想いがこみあげてきたはずである。

 「まつろはぬ」民の後裔とはいえ、いや、「まつろはぬ」民の後裔であることを自覚すればするほど、支配的な勢力に媚びを売る瓜子姫を非難できるだけの資格は、もはや自分たちにも残されていないことを思い知らされたことであろう。瓜子姫を非難するということは、それはそのまま、おのれが生き残ったという事実を責め苛まざるを得ない。そこに、東北人の伝えるアマノジャクが深い陰影を刻まざるを得ない理由があったと思うのである。

 その意味では、あの高名な民俗学者の言うことは、少なくともその前半の部分では、民衆の気持ちをよく代弁していたと言える。すなわち、「人生の理想の幸福な為には、アマノジャクなどは居ない方がよかったのだが、……」と。

 だが、アマノジャクはいたのだし、今後も、「現実の不如意」があるかぎり、民衆の心の中に出没しつづけてやまないであろう。たとえ、いかほど落ちぶれた姿をとろうともである。

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