瓜子姫と天の邪鬼
妖術の歴史は、おそらく、人類の歴史とともに古い。のちに、世界宗教と称される普遍的宗教が成立した後も、妖術の地下水脈は決して涸れたことはない。むしろ、民衆の意識に深く根ざしたこの信仰を、世界宗教は利用しこそすれ、これと正面切って事を構えるような真似はしなかった。 13世紀、ローマ・カトリック教会は異端審問会を設置し、南フランスのアルビ派、次いでバルド派などを異端とし、血祭りにあげてゆく。すさまじい弾圧を受けた異端派は、アルプス山中に身を隠した。しかし、いかに追及の手をのばそうとも、ついに異端派を根絶することはできなかったのである。 しかし、異端審問会による異端派に対する弾圧がいかにすさまじかろうと、所詮、それはカトリック教会内部の争いにすぎなかった。 ところが、主だった異端派を弾圧しつくし、異端審問官の仕事もなくなったかに見えた1484年(この年代に注目! 15世紀も終わりである!)、時の教皇インノケンティウス8世は教書を発し、妖術をはっきりと異端と断じた。かくして、異端審問官たちは、200年に及ぶ異端派追及のノウハウをすべて注ぎこんで、憑かれたように己の仕事に精励してゆく。全ヨーロッパに、魔女摘発の手が伸ばされることとなったのである。 魔女裁判というと、ともすれば中世暗黒時代の産物であるかのような印象を受けやすい。しかし、実際は、その最盛期は、人間理性がついに勝利をおさめたかに見えたルネッサンス以降、ことにルター、カルヴィンといった宗教改革者を生んだ地域において猖獗をきわめたという事実を見落としてはならない。こと魔女裁判に関して、人間の理性はまったく無力であった。いや、むしろ、抑圧された妖術が、理性を自分たちの世界に引きずり込んでしまったといってよいかもしれぬ。そこでは、理性こそが悪魔的であった。 17世紀になると、魔女裁判の余波は、敬虔な清教徒たちといっしょにアメリカにも飛び火する。かくして、コネチカット州ハートフォードを初めとして、メリーランド州、チャールズタウン、ボストン、ドーチェスターなどで「小さな(殺された人数が少ないという意味にすぎないが)」魔女裁判の洗礼を受けた後、ついにその世紀の終わり近く、アメリカにおける最後の、しかし最悪の魔女裁判を引き起こす。世に言うセーレムの魔女裁判である。以下、事件の経過をたどってみよう。 セーレムは、1626年にゴージャ・コナントと移民者が、そして1628年には、ジョン・エンディコットに率いられた約40人の英国移民者が入植し、初めて分離派の教会を建てたと言われている。その後、貿易港として発展し、一時はニューヨークやボストンをも凌ぎ、セーレムの商人は遠く中国や東南アジアの島々とも幅広い交易を展開した。 問題のセーレム・ヴィレッジは、現在のマサチューセッツ州ダンバーズ町に当たるが、セーレム港から内陸へ数キロメートル入った小さな集落にすぎなかった。もともとセーレム・タウンの一部に過ぎなかったが、1672年、「セーレム村」として独立した。1692年当時、そこに住むピューリタンの住民は、神を敬い、悪魔を恐れる真面目で勤勉な人たちだった。 1692年に先立つ年月は、植民者にとって容易なものではなかった。害虫がはびこり、日照りが続いて、州全体が凶作となり、農業で生計を立てている大多数の住民を苦悩のどん底に陥れていたのである。それに追い打ちをかけるように、1691年にボストンに大火があって町の大半を破壊した。さらにジャマイカのポートローヤルに大地震があって2000人が死んだが、その大半はマサチューセッツの住民の親戚か友人だった。こうした災害が、ニューイングランドから植民者をたたき出そうとする悪魔の悪巧みのひとつと考えられたのも、無理からぬことだった。〔右図は、1692年当時のSalem Village。出典はCrime Library〕 当時、この小さなセーレム・ヴィレッジはすでに問題の村だった。セーレム・タウンから名実ともに完全独立を念願するグループと、セーレム・タウンの衛星的状態に満足するグループとが対立していたのである。この主導権をめぐって2派が争い、この争いを避けようとした牧師が、すでに二人までも相次いで村を離れていた。 独立派の中心人物はトマス・パトナムで、1689年、彼は牧師の後任にサミュエル・パリス〔左図〕を迎えて教会をつくった。反独立派の人たちは、この教会の成立に反対し、村の集会所での礼拝を拒み、ほかの教会へ出席したり、彼らの地方税の支払いを拒否した。そして、1691年10月の選挙で、パリス派の5人の委員は落選し、代わって反パリス派の新議員が誕生した。彼らはパリス牧師の1692年度の給与を差し押さえ、牧師館周辺の土地獲得の合法性に異議を唱えて、彼の追い出しを図った。このような複雑な事情の中で、ほかならぬサミュエル・パリスの台所から、魔女狩りの火の手が上がったのであった。 聖職に就く前に、パリスは西インド諸島で貿易に従事し、バルバドス島から夫婦の奴隷を連れて帰っていた。夫のジョン・インディアンは純血のカリブ人で、教会の農地で働き、妻のチツバは家事を受け持った。彼女にはカリブとアフリカの血が混じっており、アフリカ伝来の西インド諸島の妖術オベアの知識を持っていた。しかし、そのころはキリスト教に改宗し、真面目な教会出席者であった。 1691年冬、植民地の長い夜のなぐさみに、チツバは二人の娘エリザベスとアビゲイルに妖術を披瀝した。エリザベスはパリスの娘で、9歳になるおとなしい子だったが、アビゲイルはそれより二つ年上の従姉で、悪戯好きのずるい娘だった。 やがて村じゅうから娘たちがこの台所に集まってきて、未来を占ってもらうようになった。その中には、近くに住むメアリ・ウォルコット(16)、スザンナ・シェルドン(18)、離れたところに住みノイローゼの母親をもつ神経質な12歳のアン・パトナム、それからパトナム家の女中で、盗み聞きの好きなマーシー・ルイス(19)がいた。 彼女たちは次々と仲間を引き入れた。ジョージ・ジェイコブズ老人のところで働くサラ・チャーチル、村医のグリッグズの姪で召使いのエリザベス・ハバード、プロクター家で働くメアリ・ウォレンなど、総勢は10人で、みな20歳以下だった。 チツバの占いは、わびしく単調な彼女たちの生活に興奮をもたらした。しかし、それは危険な興奮であった。未来を占うことは、ピューリタンのニューイングランドでははっきりと禁止されており、運勢占いは悪魔の業につながり、永遠の呪いと地獄の業火を意味した。か弱い少女たちに対する呪術の影響は甚大であった。少女たちは秘法を見せられて気も動転し、奇妙な行動をとり始めたのである。 先ず、年齢も幼く性質もおとなしいエリザベス・パリスがおかしくなった。彼女は恍惚状態に陥って、長い間宙を見つめていたかと思うと、急に悲鳴を上げて倒れるのだった。アビゲイルも同様だったが、さらに喉が詰まったようなゼイゼイ声を出すのだった。家の者が回復を願って神に祈ると、アビゲイルは耳を押さえ、エリザベスは悲鳴を上げて聖書を投げ飛ばすのだった。村医者のグリッグスも首をかしげて、「悪魔に憑かれた」という始末だった。 医者がこういう診断を下したといううわさはたちまち広まり、その日の夕方には、エリザベスの話を聞いたアン・パトナムが金切り声をあげ、誰かに打ち倒されたかのように床に倒れた。次の日には、同じ仲間のマーシー・ルイスが魔法にかけられ、続いてメアリ・ウォレンも魔法にかけられた。こうして少女たちの発作は広がっていった。メアリ・ウォルコットとスザンナ・シェルドンは痙攣を起こし、アン・パトナムは動物みたいにそこらじゅうをのたうち回るようになっていた。 この子たちをどうしたら助けられるか、村じゅうを挙げての問題となった。ところがジョン・プロクターは、すぐに治療法を見つけた。つまり、メアリ・ウォレンを紡ぎ車にくくりつけ、もしまた発作を起こせば、むちで打つと脅かしたのだ。すると、彼女は治ってしまった。そこで人々は、ハイティーンも混じっているこの<子どもたち>を嘲笑した。 しかしパリスは、笑いもしなければ、ジョン・プロクターの治療法を信じもしなかった。彼はセーレムの港と近くのベバリーから牧師を呼ぶことにした。彼らは2月の雪解け道をやってきて、少女たちのために祈った。最初少女たちは静かに耳を傾けていたが、しだいに落ち着きがなくなり、神の名が出るごとに体をよじるようになった。ついには床を転げ回って悲鳴を上げる騒ぎとなって、牧師たちも祈りを中断せざるを得なくなった。 そのときパリスは、奴隷のチツバのことが頭にひらめいた。西インド諸島へ航海した際、彼はオベアとかブードゥーという妖術の話を聞いたことがあった。これが、娘の病気の原因ではないかと疑ったのである。そこでチツバを用心して見張っていると、ある日彼女が何かを火の中から取り出して、犬に食わせるところにぶつかった。 「何だ、それは?」と聞くと、「ケーキです、だんな様」という答えが返ってきた。パリスは彼女が<魔女のケーキ>を作ったのだと気づいた。魔女のケーキとは、ライ麦に子どもたちの尿をまぜて作り、それを灰の中に入れて焼いてから、犬に食べさせるものだった。そして犬が震え出せば、その子は治ると信じられていた。つまり、チツバはこうして、愛するエリザベスを治そうとしたのである。 魔女のケーキを見つけたパリスは烈火のごとく怒って、チツバをむち打ち、彼女に妖術の知識があるのを白状させた。次にエリザベスを詰問して、台所での集いのことを聞き出した。ほかの少女たちは、エリザベスの話を初めのうちは否認していたが、ついには認めざるを得なくなった。 そこまでだったら問題は大きくならなかったが、「チツバのほかにも関係者がいるか?」と聞いたことから、事件は拡大した。 アビゲイルが「グッドおばさん」の名を挙げた。 この人なら、名前を挙げても差し支えなさそうだった。サラ・グッドは年齢不詳の浮浪者で、パイプをふかし、生け垣のあたりに野宿する、どこか得体の知れない女だったからである。 「ほかには?」 「オズボーンおばさん」 これも、何となくいかがわしい感じの女だった。資産家だったのだが、三度の結婚歴があって、もう1年以上も教会に現れていなかったのである。 1692年2月29日〔1692年は閏年だった〕、チツバ、サラ・グッド、サラ・オズボーンの3人に逮捕状が出された。 翌日(3月1日)、魔女の疑いある者を、正式の裁判にかけるまで収監しておくべきかどうかを決定する予備審査(Preliminary Examination)のために、セーレム・タウンから二人の治安判事が到着した。 二人の名はジョン・ハッソーン(*Hathorne)とジョナサン・コーエンだった。 Nathaniel Hawthorneの数代前、アメリカに渡っての2代目の祖先である。運命の悪戯か、犠牲者の一人フィリップ・イングリッシュの娘は、事情もよくわからないまま、ジョン・ハッソーンの息子の一人と結婚し、HathorneにWの一字を加えて、ここに一家系が成立したというわけである。 集会所が法廷に早変わりして、最前列に少女たちが座らされ、3人の尋問が始まった。最初、サラ・グッドが二人の警官に付き添われて現れた。彼女はハッソーンの質問に対して、子どもたちに危害を加えたこともなければ、妖術の知識もないと否定した。そのやりとりのあらましは、次のごとくである。 ハッソーン「サラ・グッド、お前は悪魔と親しいのかね」 サラ・グッド「親しい者なんかいません」 ハッソーン「お前は悪魔と契約をかわさなかったかね」 サラ・グッド「いいえ、そんなことはしていません」 ハッソーン「どうしてお前はこの子たちを傷つけるのかね」 サラ・グッド「私はこの子たちを傷つけたりはしません。そんなことは恥ずかしいことです」 ハッソーン「では、子供を傷つけるのに誰を雇ったのかね」 サラ・グッド「私は誰も雇ったりしません」 ハッソーン「では、どんな動物だ。もし人間を雇わないのなら、どんな動物を雇ったのかね」 サラ・グッド「どんな動物も雇ったりしません。私は誤って告発されたのです」 ハッソーン「お前は悪魔と契約したのだろう」 サラ・グッド「そんなことはしません」 ハッソーン(傍らの少女に向かって)「では、子供たち、このサラ・グッドをよく見なさい。そしてお前たちを傷つけたのが、この女かどうか言いなさい」 アン・パトナムが急に悲鳴をあげて立ち上がり、次に床の上に転がり、体を折り曲げ、苦しそうに助けを求めて叫んだ。すると、そこにいた子供たちも皆同じように悲鳴をあげて床の上を転げまわり、ベンチといわず壁といわず、体をぶつけて苦しみ始め、「サラ・グッドの霊が噛みついたり、つねったりしている」と叫んだ。人々は眼を丸くして恐れおののいた。これこそ魔女の証拠であった。 次のサラ・オズボーンも無実を主張したが、少女たちはすぐに発作を起こした。ハッソーンが「これはどうしたわけか」とその説明を求めると、彼女は「悪魔が私に無断でそうしているのでしょう」と言った。しかしその主張は退けられ、彼女は投獄され、2か月後、獄中で病死した。 最後にチツバの番となった。台所での集いの経験をバラされるのではないかという恐れもあって、少女たちの発作はいちだんとひどくなった。しかしチツバは、パリスが自分に加えた残酷な仕打ちを思い出した。つまり、チツバは、パリスにとがめられて否認したとき、さんざんに打たれ、自白すると、拷問をまぬがれたのだった。そこで彼女は、治安判事の前でも同じ手口をもう一度使うことにした。 「悪魔を見たことはないか?」と判事は尋ねた。 「悪魔がやってきて、仕えるように命じました」とチツバは素直に応えた。 法廷の喧噪は、水を打ったように静かになった。人々は彼女を凝視したまま、彼女の言葉に耳を傾けた。あの炉端で、うっとりと彼女の言葉に聞き入った少女たち同然であった。 3日間にわたり、チツバは不思議な陳述をおこなった。しかしその内容は、まさしく、人々のいだく妄想とチツバの空想との合作にほかならなかった。――悪魔は時にはネコ、ネズミ、ブタの形で現れるが、たいていは白髪で長身の黒衣の男となってやってきた。彼はみずから神を名乗り、携えてきた本に署名するように命じた。そこで彼女は血のように赤い印をつけた。彼女は棒にまたがって狂宴へ飛んで行き、ボストンやいろいろな場所から飛来する魔女といっしょになった。そしてサラ・グッド、サラ・オズボーン、さらに名前のわからない「その他の姿」が、子どもたちをつねるよう彼女に命じた……。 ついに一人でも魔女が自白したことで、村人たちはホッとしたが、「その他の姿」という言葉が引っかかった。それは誰か? 厳しい尋問がなされたが、誰もその名を挙げることができなかった。しかし、ついにマーサ・コーリの名前が子どもたちの口を衝いて出た。 マーサ・コーリは教会内でも評判がよく、その時代としてはかなりの教育を身につけた初老の、尊敬にあたいする婦人であった。彼女に罪があるとすれば……彼女は魔女の存在に懐疑的で、集会所での予備審査にも出向こうとはしなかった! その自分が魔女だと名指されたことで、彼女の懐疑は確信に代わった。彼女が魔女でないことは、誰よりも彼女自身が一番よく知っていたからである。そのことを治安判事や村人たちの前で話せば、みなは容易にわかってくれるだろう……。だが、その期待はみごとに裏切られた。マーサがアン・パトナムとの対面を求めて、彼女の部屋に入ってゆくと、彼女は急に発作を起こし、両親は彼女の生命に危険があると言って対面を拒んだ。マーサがアンの部屋から出ると、彼女の発作は治り、元通りの落ちつきをとりもどした。父親はさっそくパリス牧師に事の次第を説明し、マーサを魔女だと言い放った。 3月19日、魔女の容疑でマーサ・コーリに逮捕状が出され、ハッソーン判事によるおきまりの予備審査を経て、正式裁判に送られることになった。 マーサ・コーリの逮捕によって、セーレム村は完全に悪魔の支配下に入ったと言ってよかった。悪魔は、村人たちの心の奥底にあるものを、今はもう臆面もなく解き放った。そういう大人たちの心を見透かして、子どもたちはたいへん信仰のあつい女性と考えられていたレベッカ・ナースを魔女として告発した。 ナース夫妻は常に信仰心あつく勤勉であり、自分たちの努力によって貧困から身を起こし、裕福な生活をかちとっていた。村では重要な役職に就き、人望もあった。しかし、その一方では、ナース家が属する地主派と、セーレム村の比較的貧しい人々(その多くはパトナム派であった)との間には、土地に関する不和の長い歴史があった。したがって、ナース家の名誉も富も、そのすべてが悪魔の助けによって得られたものだと主張する者たちもいた。おまけに、レベッカ・ナースの家族は、パリスが村の牧師に就任することに反対もしていたのである。 3月24日、レベッカ・ナースが引き出された。四男四女の愛する母であり、耳が聞こえず病弱なこの老婦人(70歳を越えていた)は、尋問に対して自分の無実を静かに訴えた。その真面目な態度から、少女たちがいかにわめいても、彼女に対する嫌疑は晴れたかに見えた。 そのとき、アン・パトナムの母親の声が響いたのだ――「黒い男を連れてきやしなかったかい? 私に、神を裏切って死ぬよう命じたのは、お前さんじゃなかったかい?」 「神様、お助けください!」とレベッカ・ナースは叫び、当惑して両手を広げた。すると少女たちもすぐさま両手を広げ、それからは一挙手一投足すべてをまねした。この光景は何とも不気味なものだった。観衆はしだいにレベッカ・ナースの無実を疑い始めた。そして法廷は、彼女が目前で子どもたちを惑わした、と結論づけたのである。 このようにして、魔女狩りが大々的に始まることになった。少女たちが、自分を苦しめる分身霊の名を叫ぶと、その人は逮捕された。その人が裁判で無実を訴えると、少女たちは発作を起こし、これを証拠に犯罪が確定するという型を取った。 やがて、レベッカ・ナースの二人の姉妹(メアリ・イースティとセアラ・クロイス)も投獄され、エリザベス・プロクターも、彼女を弁護しようとした夫ジョン・プロクターとともに投獄された。少女たちの治療法を発見した彼は、「少女たちをむち打って懲らしめなければ、自分たちはみんな、悪魔か魔女にされてしまう」と言っていたが、それが現実のものとなったのである。 ジョン・プロクターが逮捕された日、その召使いのメアリ・ウォレンは彼に不利な証言をしなかったため、それを聞きつけた仲間の少女たちは、メアリを魔女だと告発した。そこでメアリは拷問によって、プロクターが悪魔の書の署名するよう命じた、と告白せざるを得なくなった。 画像は1692年8月5日、George Jacobs の裁判風景。 T.H. Matteson 画。The Witchcraft Papaers サラ・チャーチルも、自分の主人のジョージ・ジェイコブが逮捕されたとき、正気にもどったようだった。ところがやっぱり、治安判事その他の裁判官たちの敵意に抗しきれず、執拗な追及にとうとう、ジェイコブが悪魔の書に証明するよう強いた、と告白した。 4月になって最大の衝撃が訪れた。それは少女たちのリーダーだったアン・パトナムによるものだった。彼女は、魔女が集まっていたというあの牧師官の草地を通りかかって、急に立ち止まり、叫んだ。 「ああ恐ろしい、恐ろしい。牧師さんがやってくる。牧師さんも魔女の一味なのかしら?」 彼女が明かした名前は、セーレム村の前の牧師ジョージ・バローズだった。今度ばかりは、さすがに判事たちもすぐには手を出しかねた。しかし、パトナム家で働く前にバローズ家で働いていた召使いのマーシー・ルイスによって同じことが言われたので、逮捕状が出された。 バローズは遠く離れたメーン州で教区牧師をしていたが、司直の手は伸びて、食事中に捕らえられた。おまけに、逮捕の当日は大嵐だったため、裁判において、逮捕をまぬがれるために嵐を起こしたと糾弾された。 少女たちが次に名を挙げたのは、1620年メイフラワー号で最初に渡航してきた家系で、敬愛されている船長ジョン・オールデンだった。オールデンが法廷で少女たちをにらむと、彼女たちは悲鳴を上げて床に倒れた。彼は判事の方を向いて、「わしがあんたがたを見ても、どうしてあんたがたは倒れないのかね?」と言った。判事たちはこの言葉を無視して、彼を牢獄へたたき込んだ。しかしオールデンは、狂った少女たちのために命を落とすのはばかばかしいとばかり、看守に賄賂を使って逃げ出し、騒ぎが収まるまで姿を現さずにいて、結局助かった。 捕吏代理のジョン・ウィラードは、3月の魔女逮捕劇で何人かの魔女を逮捕したが、自分の職務が嫌になり、「娘たちを縛り首にしろ。あいつらはみんな魔女だ!」と叫んだ。これは正気の沙汰ではなかった。案の定、彼は12人の殺人現場を娘たちに目撃され、ランカスターまで逃亡したが、5月18日、逮捕連行された。 6月までに、少女たちが告発した者の数は100人に上り、牢獄もパンクしそうになったので、次々に正規の裁判にかけることになった。新任のマサチューセッツ州知事ウィリアム・フィップスの最初の仕事は、魔女裁判を行うための「特別法廷」を開くことだった。彼は高等刑事裁判所を設け、裁判長には、冷酷無残をもって知られる60歳のウィリアム・ストウトンを任命した。彼はその評判を裏切らなかった。 6月2日、第一回の法廷がセーレムで開かれ、最初の被告は、セーレム港の居酒屋の女将ブリジェット・ビショップだった。彼女は、商売柄派手な身なりをしているというので、ピューリタンの隣人たちからは嫌われていた。数人が彼女の分身霊によって眠りを妨げられたと証言したので、6月10日、「縛り首の丘」の大きなオークの木の枝に吊された。 6月29日、第二回目の法廷が開かれ、今度はレベッカ・ナースが、サラ・グッドを含む4人の女性といっしょに裁かれた。4人はすぐに有罪となったが、陪審員たちはレベッカ・ナースは無罪とした。すると裁判長のストウトンが烈火のごとく怒って再考を求めたため、陪審員は協議の結果有罪にした。 7月19日、あわれにもレベッカ・ナースは他の4人(グッドおばさん、エリザベス・ハウ、サラ・ワイルド、スザンナ・マーチン)ともども絞首刑にされ、珪長岩の割れ目の中の浅い墓所に投げこまれた。 この二度目の絞首刑に、残りの容疑者たちはパニック状態に陥った。レベッカ・ナースが処刑されたとなると、だれも無事とは言えなかったからである。中には、魔女だと申し立てれば一命は助かると信じて、告白する者も出てきた。告白した者を活かしておけば、さらに多くの魔女を摘発できると当局が思ったかどうかわからないが、結果は、無実を主張した者だけが絞首台へ送られるという不合理なことになった。 そして、当然のことながら、かなりの者が逃亡をはかった。しかし、「結局のところ、魔女たちの間にはデモクラシーはなかったのだった。魔女が貧乏人で、ランカスターぐらいまでしか逃げられなかったら、司法当局が追いついて絞首刑にするだろう。金持ちでコネがたくさんあって、そのおかげでニューイングランドを完全に脱出できたなら、判事たちは、死刑相当の逃亡犯罪人は植民地間で引き渡しが可能だという事実を無視して、何もしないだろう」(『少女たちの魔女狩り』p.227) 8月5日、三度目の裁判が行われ、ジョン・プロクター、エリザベス・プロクター、ジョージ・バローズら6人全員が有罪となった。このころには、ようやく公平な裁判を求める運動が起こりつつあったが、だがそれも、このマサチューセッツの地で神の支配を覆すために悪魔が魔女をたぶらかして動き回らせているという一般の恐怖感をぬぐい去ることはできなかった。 このころ、セーレムを実地見聞に訪れた重要人物にコットン・マザー師がいた。この人物は、アメリカから選ばれた最初の「ロンドン王立学会会員」(当時の理性の最高府!)で、妖術の存在を確信しており、*『妖術と悪魔つきに関する注目すべき神慮』(1689)の著者として名を馳せていたばかりでなく、最も権威のあるボストンの教会の牧師でもあった。彼はジョージ・バローズの審問に出席し、裁判は公正であるとあっさり宣言してしまったのである。――被告バローズはイチゴ摘みに行って、他の者よりもたくさんイチゴを摘むために見えない長衣を着込んでいた、という証言しかなかったにもかかわらずである。 ニュートンの『プリンキピア』の発行が1987年である事実に注目。 同時に有罪になったのは、ジョージ・ジェイコブズとプロクター夫妻だったが、エリザベス・プロクターだけは妊娠していたために処刑が延期になり、それで命拾いをした。 バローズが絞首台へ連れて行かれたとき、信じられぬことが起こった。首のまわりに綱が巻かれると、彼は主の祈りを正確に唱えだしたのである。魔女は主の祈りを逆に唱えるので、正確には唱えられないと人々は信じていた。人々がその疑念をささやき始めたとき、コットン・マザー師が馬上から群衆にこう告げた――「悪魔は時に天使を装うものである」。こうして、バローズを含む男4人(この中には、あの捕吏代理も含まれていた)と女1人の魔女の処刑は、とどこおりなく実行に移されたのである(8月19日)。 9月になって、15名が有罪判決を下された。その中には、半年前に少女たちをあざ笑ったマーサ・コーリーやチツバがいた。16番目の被告は、マーサ・コーリーの80歳になる夫ジャイルズだった。 ところがジャイルズ・コーリーは、「申し開くことがあるか?」との問いに返答を拒否した。当時の法律では、被告からの答弁がない場合、反逆罪以外には罪を裁くことができなかった。そこで彼は、口を割るために拷問に付され、体の上に重石を載せられることになった。法廷の近くの野原に引き出された彼は、胸の上に重い石を積まれ、重さのために舌が出て、判事が杖でそれを口の中へ押しもどした。それでも彼はがんとして口を開かなかった。そして、2日間苦しんだあげく、ジャイルズ・コーリーは死に、アメリカ史上唯一の合法的圧死者となった(9月19日)。それから3日後(9月22日)妻のマーサ・コーリーを含めて8人が処刑された。チツバなど残りの者は自白したので、牢へ連れもどされた。 次の裁判が行われる前に、少女たちはへまをやらかした。魔女が処刑されれば、それだけ少女たちの苦痛は減ると思われたのに、事実は逆で、ますますいろいろな人の名を口走り、はては判事の親族や州知事の妻の名まで出す始末で、偏見に満ちた判事たちも、これには首をかしげざるを得なくなったのである。 この当時、州知事はカナダ国境でインディアンと戦っていたのだが、留守中の出来事を知らされてストウトン判事を厳しく非難し、裁判を中止するよう命じた。 1693年5月、フィップス州知事は、妖術で告訴された者全員の釈放し、また大赦を布告して亡命者たちが帰ってきても安全なようにした。 この狂気の期間に、ほぼ200名が逮捕され、うち30名が死刑を宣告された。19名が絞首刑となり、1名が圧死し、2名が獄死した。逃げたのが1名、妊娠のため死刑延期になって助かったのが2名。死刑宣告を受けた後自白して助かったのが5名だった。 事件が収まった段階で、まだ150名が入獄していた。赦免になっても、出る前に裁判と入獄の費用を払わねばならなかったからである。チツバは最後まで獄中にいたが、それはパリスが金を払わなかったためで、結局、収監手数料という安い値段で、奴隷としてヴァージニアの紳士のもとに売られた。 これがアメリカの最後の、しかし最悪の魔女裁判であった。各国の最後の魔女裁判は、オランダが最も早く1610年、イギリスが1684年、そしてアメリカの1692年と続き、スコットランドが1727年、フランスが1745年、そしてドイツは1772年まで待たねばならなかった。19世紀も目前である。(ちなみに、異端審問は、1834年、スペインを最後とするという)。 と言っても、魔女裁判の歴史は劇的に終息したのではなく、ぐずぐずと、気がついてみたら、いつの間にか消えてなくなっていたというにすぎない。なぜなら、この集団妄想を終わらせる立場にある者たちは、扇動に加わった連中を除けば、無関心を装って口をつぐんでいたからである。 セーレムの魔女裁判も、これを真っ向から批判したのは、ロバート・カレフという商人であった。これに対して、コットン・マザーは、性懲りもなく、『目に見えぬ世界の驚異』(1693)を書いて反論を加えているのである。 以上は、 Jeremy Kingston : Witches and Witchcraft (邦題「魔女の恐怖」船戸英夫訳、学習研究社) および、 Marion L. Starkey : The Devil in Massachusetts (邦題「少女たちの魔女狩り」市場泰男訳、平凡社) 周藤康生「ホーソーン研究」大阪教育図書 に拠る。 なお、セーレムの魔女裁判の裁判記録"Verbatim Transcripts of the Legal Documents of the Salem Witchcraft Outbreak of 1692."は、The Salem Witchcraft Papersで読むことができる。 また、豊富なリンク集が17th c. Colonial New Englandにある(ご教示くださった Gen. Nakayama氏に感謝!) |