title.gifBarbaroi!
back.gif野たれ死にの思想


エッセイ



アンドロギュノスの山旅





 こう見えても、多感なヲトメ時代というものがあった。そのころのわたしは、いっばしの山女(ヤマメではない)のつもりであった。ところが、人の出会いというのは妙なもので、わたしの連れ合いになつたのは、山とはまったく無緑な男であった。

 「山に登ったら、必ず下りなければならない。下りることを前提とした山登りに、なんの意味があるか?」

 わが連れ合いは、大学で哲学を専攻したとかで、わけのわからぬことをのたもう朴念仁であった。言われてみると、そんな気になって、わたしはぴたりと山登りをやめた。

 だが、紆余曲折は人の世の常、ふとしたことから、わが連れ合いは8ミリ映画に凝り始めた。映画だから、とうぜん、動くものを写すのかと思ったら、
 「不動のなかにこそ動あり」
と、またまたわけのわからぬことをのたもうて、暇を見つけては、石仏の撮影に駆けずりまわるようになった。 「石仏は動かないが、風にそよぐ樹葉、陽の移ろい、この光と影との交錯にこそ映画の原点がある」と、連れ合いはひとり悦に入っているが、本当のところは、「石の仏さんなら、何時間カメラを向けていても、文句はおっしゃらない」というのが本音であったようだ。

 ところで、わたしたち夫婦の間には、ひとつの掟がある。これを名づけて「アンドロギュノスの法」という。
 ギリシャ神話によれば 神々と人間とがまだいっしよに生活していたころ、人間の身体は球形をなし、そこから四本の手と四本の脚とが生えていたのだそうな。ところが神の怒りにふれたため、半分に切り離されて今あるような形になったという。それ以来、半身は半身を求めてさ迷うようになった。これを恋というのだそうだ。アンドロギユノスとは、神に切断される前の、両性具有の種族「男女」のことである。わたしたちの定めた「アンドロギユノスの法」とは、要するに、夫婦別行動はしないということである。

 そういうわけで、石仏の撮影に余暇をすごすようになった連れ合いとともに、もともと野山を歩くのが嫌いじやなかったわたしも、カメラの三脚持ちとして行動を共にすることとなった。ところが、名作と言われる石仏の所在地は都市に近く、交通も便利であるが、拝観料はもちろん、時には撮影料まで取られる。わが連れ合いも、「名作は形が整いすぎていておもしろくない」とのたもう。やはり野に置け石の仏というわけで、重い機材を担いでのわたしたち夫婦の石仏行脚が始まったのである。

 まことにそれは行脚と呼ぶにふさわしかった。夏のじりじり照りつける大陽の下、あるいは、冬の凍えるような氷雨に横なぐりされるなか、やっとの思いでたどり着いた時の石仏は、道中が困難であればあるほど、尊く見えたものである。

 なかでも印象深く心に残っているのは、長野県東筑摩郡と小県郡とを結ぶ古い峠、修那羅峠の石紳仏である。パスの接続がわるく、三時間ばかりも歩かされた。しかし、峠の鄙びた神社(修那羅山安神社)にたどり着いてみると、神社のまわりから裏山一帯にかけて、七百基とも八百基ともいわれる石造物が立ち並んでいた。しかも石像は神仏のイメージとはおよそかけ離れた異形のものが多く、それがまた抱きしめたいようなあどけなさをたたえて、ひっそりと鎮座まします。夢中になってシャッターを押している連れ合いの横で、わたしは白銀をいただいたアルプスの峰々に見入っていたものである。

 このころから、連れ合いの意識のなかで目的と手段とが逆転し、いつしか石仏にたどり着くまでの困難さに意義を見いだすようになっていたようである。山形県吹浦にある海岸の岩をそのま利用して彫ったという十六羅漢に会うため、わざわざ秋田県矢島口から鳥海山を越えて行こうと言いだしたのである。

 埋れ合いにとっては初めての二〇〇〇メートル峰、わたしにとっても初めてのテント行……、これは「自然と一枚になることこそが、行脚の不可欠の要素である」という連れ合いの哲学による。

 京都から夜行で羽後本荘に行き、ここから矢島を経て五合目祓川まで行くパスに乗る。ふと気がつくと、パスに乗っているのはわたしたち夫婦ふたりきり。夏も終わりに近く、乗っているバスも翌日を最後に運休する予定だったのである。

 終点でパスを降り、竜ガ原の湿原を突っ切って、胸を突くような急登が始まったところで、わたしは愕然とした。投げだしたくなるような荷物の重さ。胸が息苦しく動悸を打つ。頭が痛くて吐きそう…‥。山女の面目は、影も形もない。

 「登れへんかもしれへん」
 わたしの弱々しい泣き言に、
 「あかんのやったら、あかん言えよ。途中では引っ返せへんのやしな」
 わたしの半身のはずの連れ合いは、不機嫌な声で邪険に言う。わたしの頭に血がのぼった。相手も自分のことで精いっばいなのだ、ということに気のまわる余裕はない。もう死んでも絶対に弱音は吐かへんわッ! 涙が出そうだった。

 その日は、予定どおり、七合日の御田で幕営した。月の光が驚くほど明るかったが、月見をする気分ではない。夜になって出てきた風が、草原の草の葉をなぴかせ、それがしきりにテントを打つので、なかなか眠れない。それよりも、本当にこのまま登れるのか、引き返したほうがいいのではないかという不安で、ひと晩中まんじりともできない。

 次の日も空には一点の雲もない。御田からいきなりの急坂を登りきり、七ツ釜を目にしたとき、別の不安が頭をよぎつた。「渓流が飛沫をあげて乱舞する」はずの七ツ釜は、窪みの底に腐った水がわずかに滞っているだけ(今から思えば、時は一九八五年の猛暑。大小九つあるといわれる矢島コースの雪渓は、御田から上はすべて消え失せていたのである)。水場という水場はどこも干上がり、おまけに、雪渓のなくなった登り道は、溶岩塊のひしめく悪路に変じていた。溶岩の谷間である氷ノ薬師にたどり着いたときには、飲み水も尽き、ふたりとも疲労困憊していた。

 それから先は、遭難騒ぎにならないことだけを考えていた。火山礫がごろごろする最後の急坂、舎利坂は、ここで本当に舎利になるのではないかと恐怖しつつ、文字どおり這い登った。七高山にたどり着いたときには、ふたりとも倒れこんだまま、しばらくは身動きもできない。

 もはや外輪山をまわる元気はなく、千蛇谷から最短コースをとって象潟ロに下りたが、それでもパテた身にはつらい道のりであった。賽の河原にも水はなかった。山になれない身体には、渇きは急で耐えがたいものがある。まして、あるはずの水がなかったら……。わたしたちはふたりともほとんど半死半生の態で鉾立にたどり着いた。登山口にある東雲荘の管理人さんが、通りかかったわたしたちを見るに見かねたのであろう、親切にも中に招じ入れて、缶ジュースを飲ませ、りんごをむいてくだきった。わたしはそれさえも吐いてしまうほどにへばっていた。

 その日の夕方、吹浦の海岸に念願の羅漢像を鑑賞したが、連れ合いもシャッターを切る気力も失せていたようである。

 これで山登りには懲りたと思いきや、連れ合いはそれから山登りに関する本を片っ端から読みあさり、近辺の低山を徘徊し始めた。まるで鳥海山でパテた恨みを晴らしでもするかのようであった。もちろんわたしも喜んで同行した。こうしてわたしたちアンドロキュノス夫婦の本格的な縦走登山の歴史が始まったのである。石仏も忘れたわけではないが、今は8ミリもビデオに換え、山に登り、山を撮るというのが、わたしたちのアウトドアライフとなっている。

 わたしたちの場合、一週間前後の縦走登山を年に二、三回こなすことを目標にしているが、山のなかのその一週間ばかりがわたしたちのアウトドアライフなのではない。一週間の縦走を無事になしとげるために、残りの日々が方向づけられることになる。自宅近くの大文字山(四六六m)を往復することがふたりの日課になったし、週に二回はスポーツクラブに通っている。食生活の内容もすっかり変えた。要は、ライフスタイルそのものを変えたと言ってよい。

 「日常性のなかにまで貫徹されないような原則は空無である」

 わが連れ合いのご託宣である。山のなかで守らねばならないことは、下界の生活にも当てはまる原則でなくてはならない。洗剤はできるかぎり使わない、紙を無駄にしない、衣服は着られるところまで着る……それは気の遠くなるほど小さなことではあるが、しかしライフスタイルの転換なしには為し得ないことでもある。そして、ライフスタイルの転換なくしては、現実問題の解決も掛け声だけに終わるだろうという点で、わたしたち夫婦の意見は一致している。

 「余暇は人生の単なる息抜きではないし、またそうであってはならない」

 これもわが連れ合いのご託宣である。便利な乗り物で、便利な施設に行き、便利な用具に取りかこまれての野外活動など、人畜有害である。余暇活動とは、それを通して、まさしく己の生き方を問い直し、転換してゆくモメントでなくてはならないのだ、と。

forward.gifリンゴの涙
back.gif野次馬小屋・目次