アンドロギュノスの山旅
1991年9月末。大型台風19号は、洞爺丸台風とほぼ同じコースをたどった。災害は 忘れたころやって来る。襲われた青森県の人々は、台風に対する「免疫」を失ってい た。特に、りんごのとりいれを目前にしていた農家が甚大な被害をうけたことは、私 たちの記憶に新しい。 災害はめったに起こるものではない。それゆえ災害の体験は蓄積しがたい。だから こそ、私たちの祖先は、子に孫に災害の体験をくりかえし語り聞かせてきた。しかし 今はそういう生活の知恵が失われているとして、弘前大学の助教授と学生たちが中心 となって、小学生の台風19号体験を文集にした。名づけて「リンゴの涙」という。 青森県下の学校関係にだけ配る予定で印刷されたこの文集が反響を呼び、テレビや ラジオで取り上げられた。私はたまたまラジオを聞いていて、詩二編の朗読を耳に し、呆然とするぐらいの衝撃を受けた。それは次の二編であった。 りんごとなみだの落ちる音 何も しらねで この二編の詩の反響は大きかったのだろう。日本損害保険協会が費用を出して増刷 し、先着五千名に無料で進呈するというニュースが流れた。さっそく申し込んだとこ ろ、現物が送られてきた。小学生53名の作品が、「台風に備える」「台風がやってき た」「台風がさって」「リンゴのじゅうたん」「出稼ぎにいかねば」という五章に分 けて掲載されている。特にあとの二つの章を読むのに、私は泣きっぱなしだった。 子どもたちはすごいと思った。と同時に、この「すごさ」を、子どもっぽさという 迷信の中に封印しようとしている大人たち。おしこめ、封印するだけではない。子ど もたちが刺々しい、まがまがしい甲冑で「こころ」を鎧わなければならなく仕向けて いる者、それこそが教師であり、学校という場ではないのかという怒りが私にこみあ げてきた。そのとき私の脳裏に浮かんでいたのが、いまだに子どもたちにビンタをく らわせているという怪人「ぎょうざ耳」や、子どもたちを侮辱する皮肉を発明するこ とに生きがいを見つけている仏の皮をかぶった邪鬼や、その他の「教育熱心な先生」 の姿であったことは言うまでもない。――先公どもは、子どもたちにもっと敬意を払 え! 子どもたちの内奥に脈々と流れているのは、お前たち先公どもよりもはるかに 高尚な精神なのだ。 殺伐とした学校という場で疲弊しているであろう子どもたちに、自分たちがいかに 高貴な精神の持ち主であったかを、もういちど思い返してほしいと考え、彼らを勇気 づける意味で、この文章をしたためるしだいである。心ある教師の手で、何らかの形 で教材化してほしいと思う。 1 子どもたちの「すごさ」の第一は、彼らが物事の本質をまっすぐに見透かし、それ をみごとなまでに言葉に定着させる能力を有している点である。ところで、物事の本 質は、いつも小さな、ささやかな、かそけきものの中に宿っている。子どもたちのま なざしはそのことを一瞬たりとも忘れず、身じろぎもせず凝視し、まっすぐに掬いあ げてしまう。 三和小学校四年生の龍太君は、お母さんの丸い背中から眼を反らすことができな い。空に広がった黒い雲に比して、「じっと 手をあわせて」おがんでいるお母さん の「丸いせなか」の何とよわよわしいことか。自然の猛威のたけだけしさの前で、お 母さんは目にいっぱい涙をため、いよいよ身をちぢこませて祈るしかない。しかし、 その祈りは、りんごのとりいれができますように、といった打算の祈りでは、もはや ない。丹精こめて今やとりいれるばかりになったりんごが 風にたたかれて それをどうしてやることもできないことを悼み哀しむ追悼の祈りではなかったの か。 ぼたぼた ぼたぼた 音を媒介として、りんごと涙とが重なり合い、りんごのような大きな涙を落とすお 母さん。その丸めた背中を通して、龍太君は情況のすべてを、感取したのである。 弘前西小学校二年生のけんじ君の家では、どうやら二階の屋根が飛ばされたらし い。お父さんが二階の様子を見に行っている間、けんじ君とお母さんとお兄さんとお 婆さんとは、「風が下から上の方へビューンとふいていくのをだまってみていまし た」。その時、二階の窓ガラスがガッチャーンというすごい音で割れ、お父さんが耳 から血を流しながら下りてきた。 「ガラスかげが耳さぶつかった」 「ぎりっと」。この一語に、お父さんの冷静さ、気丈さ、家族に対する責任感、さ らには、そういうお父さんに対するけんじ君の胸の熱くなるような信頼感がほとば しっている。この後、お父さんの指示で、風が少し弱まった時を見計らって、一家は 近所の親戚の家に避難するのだが、その時もお父さんは、 「ものとんでくればまねはんで、みんなざぶとんかぶれ」 という適切な指示を忘れない。そしてジャンパーを頭からかぶったお父さんを先頭 に、家族五人が一列になって「いっしょうけんめい」走って避難したと言う。でも、 そんなさなかにも、 かるがもの親子のように一れつならんで走っているので、おにいさんといっ しょにわらってしまいました。 これを、子どもらしい(幼稚な、無責任な子どもなればこそ持てる)余裕だと言っ てはならない。物事をまっすぐに見つめる者には、いつも余裕と呼びたくなるような 感性の広がりが生まれるものなのだ。 台風が青森を襲ったのは、夜明け前であった。それで、桔梗野小学校一年生のまゆ こさんも、眠いところを無理に起こされてしまった。お父さんとお母さんは心配そう に窓の外の様子を「ふくろうのような目で、ジローと見ています。わたしもまねをし て、ジローと見ると」、 かいものぶくろやかみくずが、とりのぐんだんのように、いきおいよくとびま わっているのがみえました。まるで、とりがせんそうしているみたいでした。 今度は違う部屋の窓を見ると、生協の箱やゴミが「どうぶつがはしりまわっている ように」飛ばされていくのが見えた。「こんどはどうぶつのせんそうです」。確かに そんなふうに見えることを、私たちも体験的に知っているのではないか。ここでの 「せんそう」を、アニメ的なあの明るい戦争を思い浮かべてはいけない。おびただし い紙屑やゴミが大風に飛び散らう嵐の雲に閉ざされた暗がりの不吉さを、まゆこさん は見逃してはいないはずだ。戦争というものの本質を、子どもたちの直観力は私たち の想像以上の正確さで見抜いているのではなかろうか。 2 子どもたちの直観力とともに、私たちを驚かせるのは、その共感力のすごさであ る。直観力と共感力とは相即関係にあり、両者融合したところに成立するのが詩的イ メージ(形相)である、というのが私の考えである。龍太君の場合、お母さんの切な い心情を全身でうけとめた時、そこにお母さんのまるめた背が形相化されたといって よい。 じゅうたん 大鰐第二小学校 四年 木田 梢 台風がさったあと 百姓にとって、農作物は単なる物ではない。百姓の生命と情(こころ)を養分とし てやしない、はぐくみ、そだてた、かけがえのない生きものにほかならない。そうい う昔ながらの百姓気質を、青森の子どもたちの詩文を通して、りんご農家の人々の中 に見出すことができる。 台風19号によって青森県のりんご畑は全滅に近い被害に遭った。地に落ちたりんご は単に落ちたのではない。最大瞬間風速53.9メートルの風にあおられながらも、必死で枝 にしがみついていたのだが、ついに力つきたのだ。梢さんが書き留めたおじいさんの 一言、 「ずいぶん りんごも苦しんだなあ」 には、戸外の嵐の音に胸のつぶれる想いをしながら、何としてでも枝にしがみついて いてくれと、一晩中必死の想いで念じつづけていたであろうおじいさんの苦しみがう かがえる。と同時に、ずいぶん苦しんだのは実は自分だけではなかったのだというこ とを思い知ったおじいさんの切なさ、灼けつくようないとおしさが二重写しになって いる。「りんごも」の「も」を味読したい。ずいぶん苦しんだのは、りんごだけで も、おじいさんだけでもなかった。おじいさんはりんごであり、りんごはおじいさん であったのだ。こんな意味深長な、しかしこんな小さな言の葉も、梢さんは決して聞 きのがさない。それどころか、おじいさん=りんごの想いを自分の想いとして、全身 全霊でうけとめ、落ちたりんごの実に「えだとこすりあったきずあと」を発見するの である。だからどうしても、「りんごさん いたかったでしょうね」と、「心の中 で」そっと呼びかけ、いたわってやらないではいられない。 長峰小学校一年生のれお君は、「なきながら りんごをひろっている」おばあさん と、「口もいわないで ひろっている」おじいさんを見て、 ぼくもなんだか かなしくなって 大和沢小学校五年生のひと美さんは、「りんごが殺されてしまった」と感じた。そ して、落ちたりんごを「一つ一つ大事に大事に拾っている」おじいさんとおばあさん の所作に、「せつない気持ち」でいっぱいになる。 拾ったりんごは穴を掘って埋める。自得小学校三年生の智美さんには、「なんだか おはかにうめているみたい」に思えた。 それにしても、男は逆境に弱く、女はしなやかに、したたかに生きる。この通説 は、子どもたちの眼を通してもどうやら本当であるようだ。梢さんのおじいさんも、 「私のよこで/ぼうぜんと りんごの木をみている」だけ。これに対しておばあさん は、「だまって りんごをひろいあつめている」。 三和小学校五年の春香さんの作文。 あれくるう台風の様子を、じっとまどから見ていた父の口から、 長峰小学校六年の耕子さんの家でも、「台風が去って数日。父はだらだらしている ばかり。物は言わぬが、その背中がくやしさを表している。母はそんな父をきづかっ てか、明るくふるまっているのが私にもわかる」。自得小学校五年の祭子さんの父 は、「こっちまで機嫌がわるくなってしまいそう」なほどいらだっている。その日、 りんご拾いの手伝いに畑に行った。 畑について、まっさきに目に入ったのが、まっかな畑でした。地面に落ちて しまったたくさんのりんごで、赤いじゅうたんがしかれているようでした。 先に挙げたれお君の、泣きながらりんごを拾うおばあさんと、口もきかずに拾うお じいさん。……どうやら、男は、大きな災難をなかなか受けいれられなくて落ちこん でしまうのに対して、女は、泣いたりわめいたり騒ぎまわりながら順応してゆくので あるらしい。祭子さんのお母さんの「ら」の6乗に底流しているしたたかさは、百姓 の子せがれとして生まれた私には、肉感的なリアリティをもって迫ってくる。 3 家族共同体において、子どもたちは単に幼稚な、未熟な、義理か厄介かといったよ うな存在では、決してない。一家の危難に際して、子どもたちは親の手伝いをして実 によく働いている。しかし、私の言うのは、単に農家にとっては子どもも貴重な労働 力であるという意味においてではない。 先にちょっと触れた耕子さんの家は、吹田農園を営む専業農家。もう何十年もりん ごつくりをしてきた父が、今年のりんごは初めて合格点数をつけてもいいと自慢する ほどの出来であった。 「こっこ、起ぎろ。台風きただ」 一家の危難の前に、子どもも大人と対等な人格となる。そういう存在として、大人 も子どもを遇するのだ。ここが大事な点である。 耕子さんはどうしてもお母さんに聞きたいことがある。「しかし、あまりにはりつ めた空気の中なので言い出しにくい。でも、聞かないわけにはいかなかった。私は母 の後ろ姿に問いかけた」。正面からではとても聞けないのだ。「お母さん。今年のり んごまねはんで、りんご作りやめるの」。これに対してお母さんも丁寧に答える。相 手は対等な人格なのだ。 「うん。そうなるがもしれね。でも、お母さんとしては、おじちゃとおば ちゃんが一生けん命作った畑でしょ。それをお母さん達がやめで、畑売ってち がうどごろに住むごとって、めいわぐなごとでしょ。それにお母さんは、こご はなれるごとできないんだ」 お母さんの言葉を聞いて、大都会にあこがれていた耕子さんも「ここ」が好きにな り、「もうりんご作りはこりごりだな」とこぼす父の愚痴を聞きながらも、「家族が いるから、どんなことにもうち勝っていけるのだ」と結ぶのである。 家族のことについて、子どもたちはどれほどその小さな胸を痛め、心を悩ませてい ることか。それは大人たち以上である。よく、「親の心、子、知らず」と言われる が、私はむしろ、「子の心、親、知らず」だと言いたい。長峰小学校六年の真紀子さ んには、お父さんに絶対やめてほしいことがある。 「借金返さえねえはんで、自殺しねばまねぐなったじゃ」 子どもたちは家族共同体に絶対の信頼を置いている。これあるかぎり生きられると 確信している。いや、もしかすると、子どもたちこそ、家族共同体の精神の権化なの かも知れない。 次の詩の作者は、学校と名前から推すに、耕子さんの妹であろう。 なんも 知らねで 長峰小学校 二年 吹田かおり 「今年 りんごおぢでまったはんで 幼い妹の無知をたしなめる小学校二年生(!)の姉のさかしらは今は問わない。 共同体としての家族の、その共同性を絶対至上の神とし、身を清め心を浄めて齋き 祀っている者こそ子どもたちであると言いたい。まことに、子どもは御子すなわち神 子であり、家族の未来を占う巫女なのである。 そんな子どもたちにとっては、出稼ぎが共同体解体の最も恐るべき前兆として映る のは、当然と言わなければならない。 青森県は、ただでさえ出稼ぎの多い県である。それが、台風の被害のために、出稼 ぎの時期を早めたり、祖父・祖母・父までが出かけたりしなければならなくなった。 みわこさんの家と同じく、先に挙げた春香さんの家でも、六人家族のうち三人が出稼 ぎに行くことになった。お父さんの口から「行がねばな」という言葉がいつ出るか、 春香さんはそのことばかりを考えている。長峰小学校六年の麻美さんの家では、お母 さんが出稼ぎに行くことになった。小学校四年生の妹と二人で、大鰐温泉駅に見送り に行った。 妹は泣きっぱなしで母とは話しませんでした。私は母と話をすると涙がこぼ れそうだったので、話をしないようにしました。 しかしお母さんは最後まで明るくふるまって出発した。二人の姉妹は、「電車が見 えなくなるまで手を振りました」。 台風がお父さんを連れて行った 三和小学校 四年 木村麻依子 「お父さん、りんご今年どうなってら」 麻依子さんのお父さんとお母さんのぼそぼそと貧しい会話は、草野心平の「秋の夜 の会話」のようにかぼそく、さみしい。 秋の夜の会話草野心平 さむいね。 それでいて、切ないまでのいとおしみがにじみ出ている。処女のような恥じらいさ えたたえて。 「いそがしぐね時、電話かげでな」 自得小学校四年生の奈保子さんのお父さんも出稼ぎに行くことになった。「ボスト ンバックを出したり、ダンボールに服を入れたり、荷造りを」する父に向かって、 母は、 こうして、断ちきりがたい想いを断ちきって、多くの家から、多くの親たちが東京 へ、千葉へと出稼ぎに行った。 桔梗野小学校五年生の光章君は、自分でも認めるほどの「甘えっ子」だ。お父さん が出かける前の日、 お父さんはいつもの元気がまったくなかった。いつもなら、お母さんとお姉 ちゃんが口げんかをすれば、すぐばく発するのに、その日はただテレビを見て 気をまぎらわせていた。 子どもたちのまなざしは、どんな心の襞をも照らし出してしまう。 お父さんの考えはお見通しだ。 光章君は、お父さんに何かサービスしてあげようと、肩を叩いたり腰をもんだりし てあげるのだが、自分でもわざとらしいと感じてしまう。 次の日、光章君はお父さんを見送るために朝早く起き、 時間割をそろえて、ジャンパーとランドセル、手袋を身につけて準備OK、 お父さんがいつバス停に行ってもいいようにして待っていたら笑われてしまっ た。 「そろそろ行くがな」。お父さんはあれこれの想いを断ちきって立ち上がる。光章 君もまた胸いっぱいの想いを断ちきろうとしたとき、お父さんとまったく同じ科白が 光章君の口を衝いて出てしまう。「そろそろ行くがな」。子どもは親の所作を、言葉 を、情(こころ)を、そっくりなぞってみないではいられない。それを子どもの「お どけ」と言いたくば言うがよい。 でかせぎ 野沢小学校 一年 くどうみわこ きのうね 先の麻依子さんのお父さんもとうとう行ってしまった。いつもと違って、お父さん のいないさみしい晩ごはんが終わってテレビを見ていると、おばあちゃんが言った。 「今日のごはん、いつもより多ぐあまるな。お父さんいればなんもあまんね んで、ごはんねぐなるんだばってな」 それを聞いて、麻依子さんは、家族の一人一人が「お父さんのいないさびしさを」 かみしめているのだと覚るのである。 * * * * ここまで書き来たって、わが想いは千々に乱れる。 1.初めの構想では、柳田国男が『山の人生』の冒頭に、その結構を崩してでも書き 留めておかないではいられなかった、小屋の戸口いっぱいに射しこんだ夕陽のなかで くりひろげられたあの幻想的な惨劇を引用し、悲惨さの中にたたずむ子どもの神々し さで結びたいと考えた。しかし、 2.出稼ぎに行ったあげく、妻子の待つ故郷に帰ることもなく、ついに流民となって 山谷に、釜ケ崎に行き倒れた者たちの乱褸のごとき後ろ姿もわが眼にちらつく。ある いはまた、 3.出稼ぎに行ってけがをすることもある。奈保子さんのお父さんも、出稼ぎに行っ てけがをして帰ってきたことがあると言う。もしも、二度と働けぬ身になったとした ら……。その怨念を、ヤマト権力に抗して蜂起し、敗れ去ったという悪路王の首にイ メージした詩人の詩もわが念頭を去らない。 4.あるいは、家族共同体を神聖視する子どもたちの意識がどこから来るのか、もっ と分析しなければならないとも思う。 しかし、これらすべて力に余るので、後考に期して今はここで中絶する。 |