title.gifBarbaroi!
back.gif死者にとっての無念


エッセイ



野たれ死にの思想






   分け入っても分け入っても青い山     山頭火

 漂泊の俳人と云われる山頭火の俳句の中でも、とりわけてこの一句が好きだ。私にとって、それはもはや単なる一句ではなく、座右銘の域にまで達しているといってよい。青い山とは何か? おそらく、釈月性の漢詩の一句

  埋骨何期墳墓地
  人間到處有青山


が反響しているに違いないことに、今、気がついた。

 私も山歩きが好きだ。しかし、アウトドア、サバイバル、マウンテニアリングなどと横文字を並べられると、何か身にそぐわない居心地のわるさを感じてしまう。歳のせいかとも思っていたが、そうではないという気もする。

 そもそも、アウトドア、サバイバル……は、西洋人たちが自然との関わりの中で育て上げてきたものだ。それはそれで立派な文化活動にほかならない。それを認めるなら、日本には日本で、私たちの祖先が育て上げてきた自然とのつきあい方というものがあるのではないか。それは野遊びであり、求道としての旅であり、修行としての山駆けである。底の厚い登山靴で地響きを立てながら、修行の「場」としての山域に踏み入る暴慢さに、私はいつも何がしかの後ろめたさを感じないではいられない。そう感じてしまうこと自体が、やはり歳のせいか。

 何としてでも生き残り、生き延びる――そういう自然とのつきあい方もあるだろうが、しかし、力つきれば、しょせんは、自然の中で野たれ死ぬよりほかにない。どうも、西洋人は「いかに生きるか」ということばかり考えてきたが、東洋人は(そして私たちの祖先も)「いかに死ぬか」より正しくは「いかにして自然に帰入するか」を考えつづけてきたように思う。その考え方の違いは、墓標というものの考え方ひとつとっても、はっきり表れているように思う。

 越後には、越後三山(地元では魚沼三山)と呼ばれる日本でも有数の修験の山がある。八海山から鎖場に次ぐ鎖場を越えて、中ノ岳に向かう途中、荒山から見上げると、両側に200メートル以上も切れ落ちたやせ尾根が、御月山まで突き上げている光景は、なかなかの圧巻である。この岩峰には、何カ所も、遭難者の小さなプレートが打ち込まれている。おそらく、そこここで力つきたのであろう。

 しかし、この信仰の山を守りつづけている地元の人たちは、遭難箇所にプレートを打ち込むということに批判的だ。みずからが行者であると同時に、昨年まで駒の小屋を守っていた小島さんは言う。

 「小さな形のよい自然石を、その場所にそっと置いておく。昔からそうしてきたものだが」。

 死んだ後にさえも、石に刻んで名をとどめる――私たちの祖先は、そんな真似はしなかった。少なくとも、支配者・権力者ならぬ庶民の間では。

 野たれ死にということが、今、私の心を占めている。西行、芭蕉、種田山頭火、尾崎放哉……をいうのではない。彼らはもはや有名人だ。私の心にあるのは、例えば、つげ義春の漫画『無能の人』に出てくる井月のように、泥田の中で自分の糞尿にまみれて死ぬような死だ。私にとってアウトドアとは、少なくとも私の内面では、野たれ死にという「生き方」と、何の矛盾もなく結びついているのである。

 そんなおり、まぎれもなくその延長線上に位置するような新聞記事を発見した。野たれ死にも、自然の中ならぬ人間社会の中では、いささか悲惨の色合いを帯びるのは、致し方ない。

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                     「朝日新聞」1996.4.20.

 東京都江東区新木場4丁目の埋め立て地で18日夕、止まっていた乗用車の中で初老の夫婦が死んでいるのが見つかった。警視庁城東署の調べでは、夫(68)は死後約2週間、妻(64)は死後約1週間たっており、共に寒さと栄養失調で衰弱死したらしい。夫婦は1992年4月から、車内で暮らしていたとみられ、車には生活用具が積まれていた。妻は運転席に座り、助手席の夫に寄り添うように倒れていたという。

 夫婦が乗っていた車は、埋め立て地の工業団地のすみに止めてあった。ガス会社の施設と、営団地下鉄の車両改造工場にはさまれた人通りの少ない場所だ。近くには東京へリポートがあり、頭上をひっきりなしにヘリコプターが通過する。

 同署などによると、車の年式は古いが国産の高級車だった。窓には新聞紙が張られ、中が見えないようになっていた。車検は93年7月で切れていた。ガソリンもなく、タイヤ2本がパンクしていた。後部座席には毛布、ビニール袋に入った着替え、かさなどがあった。携帯用のガスコンロや、小さななべもあったが、車内にあった現金は十円玉が数枚だけだったという。

 夫婦は江東区内の公団住宅に住んでいた。夫が病気になって仕事にあぶれ、91年ごろから家賃が滞納しはじめた。92年4月に強制執行を受けて退去した。

 この公団住宅の人たちは「ご主人は鉄道関連会社で部長をしていた、といっていた。奥さんは出版社で編集長をしていた、と聞いていた」と話す。しかし、夫婦が勤めていたといういずれの会社にも、在籍していた痕跡はなかった。

 妻は自宅でピアノを教えていたことがある。強制執行で荷物が運び出された日も、その数時間前までピアノの音がしていたのを近所の人が聞いている。

 強制執行を受けた後、夫婦は公団住宅のすぐそばに車を止め、暮らし始めた。ほんの短い間だった。その後、夫婦の車は夢の島公園などを転々としている。

 92年9月には、城東署員が夫婦から事情を聴いている。同署や福祉事務所は夫婦に「車両生活」をやめるように何度も指導したが、夫婦は聞き入れなかったという。

 現在の場所に、夫婦が車をいつから止めたか、正確に覚えている人はいない。車両改造工場に勤める営団の職員によると、妻はいつもこざっぱりとした服装で、サングラスをつけ、帽子をかぶっていた。何度かあいさつをしようと思ったが、いつもうつむいていたという。

 夫は昨年1月から二ヶ月ほど、千葉県八千代市内の廃品回収業の会社で働いたことがある。日給4000円だった。「高齢者優遇」という新聞の求人広告を見て応募したというが、同僚(66)は「体が小柄で、仕事がつらそうだった」と話す。千葉県浦安市内のこの同僚の家で二度、酒を飲んだことがあるが、「こんどはお前の家で飲もう」と誘うと、とたんにしゃべらなくなってしまったという。

 遺体が見つかる1週間ほど前、車の近くを通った男性が「歩けないので、水をくんできて下さい」と妻に頼まれ、約150メートル離れた売店に水をくみにきた。妻は月に一度ぐらいこの売店に来た。いつもアイスクリームや氷を買っていたという。この売店の従業員が、夫婦の第一発見者になった。

 19日午後、営団職員が夫婦の「家」があった横の植え込みに、白い菊を植え、水も置いた。「親類が来るかもしれないが、もう車もなくて、死んだ場所もわからないだろうから」。職員はそう話した。
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