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エッセイ


市場の神々

――斐川町 荒神谷遺跡の謎を考える(2)――



逆しまの剣

 記紀によれば、葦原の中つ国を平定せんと欲した高天が原勢力は、何人かの使者を「ことむけ」にさしむけたが、これらの使者は彼の地に住みついてしまって復奏しようとしないため、最後にタケミカヅチを派遣することとなった。出雲の伊那佐(紀では「五十田狭」)の小浜にくだった彼は、十握の剣を抜きはなち、これを逆さにつき立て、その切っ先にあぐらを組んで顕現した。有名な出雲の国譲りの序段である。

  剣を逆立てるのは、神が降臨する際の憑り代にするための儀式であったと考えられる。セルビア人の間では、神祭に際して、司霊者は、祭場の地面に組み立てた剣の上に趺坐し、ゲルマンの儀式でも、神の憑り代としての司霊者が、組み立てた剣の上に坐りこむことによって、神の出現を具象化したという(日本古典文学大系『日本書紀』上巻、補注)。剣とは少し違うが、かつて、高千穂峰にニニギが天くだる際につき立てたという「天ノ逆鉾」を拝したが、長さ一三八センチの巨大な鉾の穂先が天空にそそり立っている様は、確かに、そこに天つ神が降臨するにふさわしいように感じられた。このような、武器の穂先を介しての天空との交流という垂直志向は、アジア大陸のウラル諸族などが有する神の垂直降下の観念との一致を見せて興味深い。

 しかし、剣を逆立てるという行為は、神が顕現するための憑り代にするためという、ただそれだけのことなのだろうか。憑り代にするのなら、べつに剣の切っ先の方を地面につき立てた形でもよかったのではないのか。それをわざわざ逆立てたのには、何かもっと別な儀礼的な意味もあったのではないのか。わたしの発想の起点はここにある。

 そもそも、地面に武器の切っ先をつき立てることは、戦いの意思表示として世界共通の方法と考えられる。とすると、武器を逆立てるということは、逆に、敵意や害意のないことを自他に表す象徴的な意味があったのではないか。タケミカヅチは、十握の剣を逆しまに立てることによって、そこに話し合い(たとえ、武力を背景にした強制にすぎなかったとしても)の場を設定したのではなかったか。ひとたび設定されたその場を無視することは誰にも、神々にさえも許されない。それが古代人たちにとっての普遍的な約束事であったのではないか。

  そこで、ひとまず出雲を離れて、遠くギリシア古代に眼を向けてみたい。古代人の思考傾向について、一つの範型を見出すことができると考えるからである。


伝令官の杖

  紀元前6世紀の終わりから5世紀の初めにかけて、アジアを手中におさめたペルシア大王ダレイオスは、ヨーロッパ侵略の野心に燃えて、「土と水」の献上を要求する使者をギリシア各地に派遣した。この使者はギリシア語で伝令官(keryx )と呼ばれる。

  伝令官の訪れた都市のほとんどがペルシア大王の要求に応じたが、スパルタとアテナイは臣従を拒否し、ここに、ヨーロッパ対アジアの対決ともいうべきペルシア戦争(第一次)の幕が切って落とされることになる。

  ところで、アテナイでは、怒った市民たちがペルシアの伝令官を処刑坑に投げこみ、スパルタでは井戸に投げこんで、これを殺害してしまった。それは神も人も許すべからざるふるまいであって、以後、凶兆の出現に悩まされることとなる。困りはてたスパルタは、伝令官殺害の償いをするために、自発的に申し出た二人の若者をペルシアに送るが、ペルシア大王は、〃自分はスパルタ人と同じようなことはせぬ〃と言って、何の危害も加えず二人の身柄を送り返している。(ヘロドトス『歴史』巻七)

  伝令官は、いかなる国の、いかなる内容の親書を携えた者であろうとも、これを客分として待遇しなければならない。もしもこれに危害を及ぼすようなことがあれば、それは、報復的処刑という人間的な手段によっては償うことのできない 神行為にほかならない。したがって、ペルシア大王といえどもスパルタの罪を帳消しにしてやることはできなかったのである。この罪が償われたのは、二人の若者がスパルタの伝令官として他国に赴き、そこで殺害された時であると、当のスパルタ人たちが信じ、ヘロドトス自身も、それは当然の報復だったと書き記している。

  紀元前何世紀というこの時代に既に、国家の違い、民族の違い、さらには宗教の違いさえ超えて、ひとつの普遍的な掟が存在するという共通認識が、アジア世界とヨーロッパ世界とに共通に存在していた。部族や種族ごとに異なっていたであろう神々の神話体系そのものが、「賓客の掟」の枠組みの中に取りこまれていたのである。これは驚くべきことといわなければならない。

  しかし、このことに驚くのは、われわれが近代民族国家という観念に呪縛されているからであって、古代人にとっては、それはごく当たり前のことであったのかも知れない。古代においては、同一民族への帰属意識などというようなものはほとんどなく、血のつながりを中心にした部族とか氏族とかいった小集団ごとのつながりの方が民族に優先した。先にみた古代ギリシア世界においても、ペルシアという異民族に服従を誓ったギリシアの都市が、その日から異民族のために同一民族であるギリシア人と戦うことを、何ら異としなかった。それどころか、異民族と戦うことよりも、同一民族と戦うことの方を優先しさえした(例えば、ペロポンネソス戦争)。彼らが同一民族と手を結んだのは、自分が所属するポリス=共同体国家を守るための手段としてであって、ギリシア世界やギリシア民族を守るためではなかったのである。このことは、ペルシア側にしても同じことであった。

  要するに、古代においては、話す言葉も信ずる神々も異なる種々雑多な小集団が、モザイク状に入り混じって生活していた。そして、小集団に分かれていたことが、相互の交流・交易を必要不可欠にした。そこから、彼らは異質な者どうしが交わる方法を編みだしていったと考えられるが、古代人は、われわれの想像を絶して開放的であり、融和的であったことを認識すべきである。と同時に、古代人はきわめて残酷・非情でもあったことを忘れてはならない。ひとたび戦いになれば、男たちは皆殺しにされ、女・子どもは奴隷に売り払われ、都市は完全に破壊された。一部族・一氏族の殱滅など、古代史においてはごくありふれたことであった。驚くべき高貴さと恐るべき野蛮さ、この両者の共存こそが、古代という時代の特徴にほかならなかった。このことを忘れては、われわれは古代を見誤ることになるであろう。

 こういう現実にあったからこそ、敵意も害意もないことを示す普遍的な徴表と、その徴表を有する者を害することへの禁忌とが、必然的に確立されていったと考えてよい。伝令官には、伝令官の徴表が必要であった。それが「伝令官の杖(kerykeion 、ラテン語ではcaduceus)」と呼ばれるものである。伝えられるところでは、それはオリーブの木でつくられた杖で、上方に向かって二匹の蛇が絡みつき、上端には二枚の翼ないし翼のある兜がついていたという。元来は、二本の曲がった小枝のついた枝にすぎなかったが、後になって、曲がった小枝が蛇の絡みついているものと解釈されたという(フリース『イメージ・シンボル事典』)。蛇はしばしば剣の象徴であったことを考えると、この解釈は意味深長である。つまり、伝令官の杖とは、剣の象徴的代用具であって、本来は剣であったと考えられる。剣を逆立てるのは、休戦と講和の象徴的所作である。この休戦と講和を保証するのは、逆立てた剣の穂先に降臨したもう神々である。伝令官の杖の三叉は、対峙する両部族と、それぞれが奉ずる神々との三位一体性を象徴していたと考えられる。

 ギリシア神話においては、この伝令官の杖がヘルメスの持ち物とみなされ、別名「ヘルメスの(ヘビ)杖」とも呼ばれていることが注目される。ヘルメスは使者の神であると同時に、商売の保護神でもあった。交易というものが、武力に任せた掠奪や強奪でない以上、先ず、お互いが剣を逆さにつき立てて、敵意も害意もないことを示す象徴的な所作、ないしは、その意味を表す伝令官の杖がぜひとも必要であった。そのような交易が、一回限りではなく恒常的にくり返されると、そこが「市場」となる。したがって、市場には、そこが安全な場であることを保証する異族どうしの神々の降臨の場、すなわち、祭祀場の存在が前提となる。いや、市場そのものがひとつの神域であったと見てよい。したがって、古代ギリシアの市場(agora) は神殿を中心とし、神々(特に商売の保護神ヘルメス)の彫像が立ち並び、俗界との境界を示したのであろう樹が植えられていたのである。

 このことは、荒神谷遺跡を考えるうえで、きわめて示唆に富んでいる。つまり、荒神谷遺跡のある神庭とは、環日本海沿岸地域の古代人たちにとって、まさに交易の場=市場だったのではないかということである。


神々の庭

 最近とみに、日本海を円環の中心に置いた「環日本海文化圏」という大きな視野から古代史を検討することの重要性が認識されてきている。その意味では、「環地中海文化圏」ともいうべき西洋古代の在りようが参考になる。古代人にとっては、海は異文化・異族との交流・交易の妨げになるどころか、逆にそれを保証する存在であった。古代の出雲も、九州から北陸に及ぶ交易範囲の広さは早くから指摘されていたが、もっと大きく、環日本海沿岸地域とのつながりを視野におさめる必要があろう。古代人は、われわれの想像も及ばぬほど広範囲な交易網を形成していた。その網の目の一つの大きな結節点、それが原出雲にほかならなかった。

 原出雲がそのような重要な位置を占めるに至ったのには、その地理的位置と同時に、地形的特徴が大きな役割を果たしたと考えられる。記紀神話に登場する葦原の中つ国は、島根半島が形成された時期の出雲地方を背景にしていると見られるが、それ以前の島根半島は、細長い水道(野津左馬助のいう「素尊水道」)によって本州島から隔てられた、東西六十数キロに及ぶ長大な島であった。このような地形は、古代の海人たちにとって不可欠な絶好の潟港を提供した。原出雲は、この島根島と本州島とに挟まれた海域を中心に、水上交通の要地として発展していったと考えられる。特に、荒神谷遺跡のある神庭は、出雲風土記の神名火山に比定される仏経山の北東麓に位置する。仏経山は、長大な斐伊川の流れが、両岸の山々も切れて扇状に広がりゆく、まさにその出口にある。太古においては、斐伊川はここから直接海に流れこみ、良好な潟港を形成していたことであろう。したがって、神庭は交易の場すなわち古代の市場が開かれるにふさわしい場所に位置していた。

 交易によって物産が動くということは、人間が動くということである。人間が動けば神々もまた動く。原出雲には、環日本海沿岸地域から集まってきたさまざまな部族や氏族の小集団が集住していたことであろう。

 古代ギリシアの市場について、われわれの学ぶべき点のひとつは、元来、それは商取り引きを目的とする場所を意味したのではないということである。市場とは、ギリシア語では、異なった部族の集会する場を意味した(ギリシア語の市場agora は、集まるageiroという動詞の派生語で、「集会所」を意味する)。異なった部族が、部族の祭器をそれぞれ持ち寄り、そこに自分たちの奉ずる神々の降臨を願い、集会所=市場を開設した。それが神庭であった。祭器である銅鉾や銅鐸を地中に埋めたのは、土偶を地中に埋めた縄文時代以来の伝統に従ったものであろう。

 しかし、市場の平和は単に神々によって守られるわけではない。そこには物理的な守り手も必要であった。神庭を管理する者は、取り引きの安全を保証するとともに、そのことによって莫大な利鞘を得ることになる。埋納された三百五十八本の銅剣という数の多さは、この豪族の勢力のほどを物語っている。出雲風土記によれば、神庭のあった建部郷は、もともとはウヤツベノミコトという女神を奉ずるがゆえに宇夜の里と呼ばれていたが、出雲の地を征伐したヤマトタケルの名を後世に残すために、建部と改名させられたとある。とすると、ウヤ女神を斎き祭る部族が、ここ神庭を取り仕切っていたのであろう。


肥の河、血になりて流れき

 考古学的に見て、原出雲地方は、縄文時代から弥生時代へと、漸進的に移行していったようである。縄文時代の終わりころから米作も始まっていた。弥生時代に入って、農耕への比重がしだいに重くなるとはいえ、縄文時代の伝統も色濃く残していた様子が、当時の遺跡からうかがえる。農耕の浸透ぶりが遅いところに、この地方の自然条件の厳しさを見ようとする見方もあるが(内田律雄「原始・古代の出雲」)、むしろ、当時の出雲は農耕に依存しないでもすむほどの交易(貿易)立国であったと言えるかも知れない。しかし、時の流れは着実に、この先進地域を内と外から変容させようとしていた。

 先ず、内から。本州島側の河川のもたらす大量の土砂が、ついに本州島と島根島とを結びつけて、今あるような形に近づけていった。このような大量の土砂の堆積は、もちろん自然現象でもあったが、決定的役割を果たしたのは、斐伊川上流における鉄穴(かんな)流しと呼ばれる製鉄の興隆であった。

 産鉄集団スサ部族は、初めから産鉄集団として渡来したのではなかったと考えられる。出雲風土記によれば、神戸川の支流である波多川の上流域、飯石郡須佐郷に定住したとあるのがそれであろう。彼らのもたらした産鉄技術はまだ稚拙で、規模も小さかった。ところが、鉄穴流しという新しい製鉄法が伝わるに及んで、事情は一変した。権力をめざす者がこれを見逃すはずはなかった。そのうえ、産鉄集団もまた、渡来人なるがゆえに、生き延びるためには時の支配権力と結びつこうとした。こうして、産鉄は組織的・大規模に行われることになったのである。記紀神話によれば、スサノヲが山の神や谷水の神、とりわけ農耕の神と姻戚関係を結ぼうとした様子がうかがえるが、それは、彼ら産鉄集団が樹木を伐採し、山を掘り崩し、谷を埋め、泥水によって下流の農地にいかに被害を与えていたかということの反証にすぎまい。

 流れ出た土砂は巨大な扇状地を形成し、そこを斐伊川は幾筋もに分流し、出水時には、さながら血にまみれてのたうつオロチのように、その流路を変化させたことであろう(今は宍道湖に流れこんでいる斐伊川は、出雲風土記によれば、西に折れて大社湾に流れこんでいたことがわかる)。素尊水道の陸地化は目に見えて促進されていった。そのため、神庭は内陸部に取り残され、潟港から遠く隔てられることとなった。それは、交易の場にとっては、いわば生命線を断たれるに等しいことであった。


神々の服属

 土地を区画して水田をつくる、山を掘り崩して鉄を採る……、弥生人の発想原理は、万物に対等な神々が宿るとする縄文人の精神世界を根底的に覆すものであった。大地は、もはや、生きとし生けるものに共通な地母神ではなくなり、境界を定め、侵入する者は威嚇し排除すべき所有物になり果てた。土地の囲いこみは、富と権力の集中という結果をもたらす。これは、それまでの、自由な交易網の中心におのずから結節点が出来るというのとは本質的に異なり、支配権力による交易ルートの完全な集権化を意味した。もはや神々の降臨を願う必要はなかった。神は力あるところに宿りたもう。弥生時代の神は、話し合うことはもはや求めず、臣従のみを求めた。

 原出雲も時代の波と無縁ではあり得なかった。支配権めざして内紛が続き、外的勢力もこれに干渉した。天高が原から派遣されたタケミカヅチが降下したのは、同じ出雲郡でももはや神庭ではなく、杵築の郷の稲佐である。勢力の中心が移ったのである。本州島と島根島とを結ぶ海域は既に陸地と化し、古出雲の支配者はここを領した。談判の相手も、出雲統合の象徴オホクニヌシである。

 国譲りの要求に対して即答を避けるオオクニヌシの姿に、古出雲の抵抗を見る見方もあるが、むしろ、首長の独断専行という習慣を長く持たなかった原出雲の根強い伝統をこそ、そこに見るべきではないか。しかし、それはまた、外圧に対して統一的な抵抗体となり得ないという、国際国家ならぬ「族際国家」ともいうべき古出雲の弱点でもあった。内紛は常に、この地の権益を狙う外的勢力の代理戦争の様相を呈さざるを得なかった。イヅモタケル(古事記)とイヅモフルネ(日本書紀)とが二重写しになる(出雲風土記)のも、代理戦争的な内紛が古出雲では続いていたことをうかがわせる。

 この点でも、古代ギリシアの都市国家は参考になる。民主制のアテナイが寡頭制のスパルタと戦ったとき、アテナイは一丸となって戦ったのではない。アテナイは自分の内なる親スパルタ勢力(党派)を抱えながら、スパルタと戦わなければならなかった。親スパルタ派は、祖国を裏切りはしないまでも、戦争に協力もしない。そんな消耗戦の中で、生き残るのはどちらか、それとも、第三の勢力が両者を統合してしまうのか。それが古代の戦争の実態であった。

 とにかく、後の出雲郡(荒神谷遺跡のある建部郷もここに属する)のあった西出雲地方には、外圧に対する根強い抵抗勢力があったことは確かである。しかし、抵抗が根強いだけに、より徹底的に掃討され、同化を強要されたともいえる。外圧とは、原出雲が握っていた交易網をめぐっての、九州勢力(邪馬台国連合)と古大和勢力との支配権争いである。この争いに勝利した古大和勢力は、統一政権として歴史の表に姿を現すこととなる。

 このような時代の流れの中で、神庭は歴史の裏に忘れられてゆく。潟港の陸地化と後退は確かに大きな変化ではあったが、それが天変地異といったような劇的変化ではなかったこと、また、有力な豪族はみな済し崩し的に支配体制の中に自己を保身し、吉備の「温羅伝説」のように徹底抗戦をなし得た者がいなかったことが、公的にはもちろん、民衆の間にさえ神庭が語り伝えられてこなかった理由であろう。東出雲地方の意宇を中心とする豪族(出雲臣族)が、古大和政権の後ろ盾のもとに、出雲一国を最終的に統合支配するに至った四世紀初頭以降、神庭はごくありふれた農村地帯になり果てていた。

 話す言葉も信ずる神々も異なる者どうしの対等な交流・交易という慣習はもはや通用せず、交流・交易は、支配権力に服属するかぎりにおいて、したがって、言葉と神々とを同じくする者の間でのみ保証され、言葉と神々を異にする者たちとの間では、もはや征服と収奪しかないという時代に入っていたのである。

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