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エッセイ



奴隷の言葉





 自由人は、自由人なるがゆえに、拷問にかけるべからず。しかし奴隷は、自由人ではないがゆえに、もしもその言葉を証言として用いようとするなら、拷問にかけるべし。ーーこのような法習が、あの輝かしい古典期アテナイの人たちの間にあったことは、古代ギリシアの賛美者たちを少なからず傷つけてきた。

 自由人ならぬ奴隷の場合にかぎって、拷問の苦痛によって引き出された言葉のみが信ずるに足るという考え方が成立するためには、その前提として、奴隷の言葉は、本来、信ずるに足らぬ、奴隷は自然本性的に虚言するものだという観念がなければならぬ。ここにアテナイ人たちの原始性を、野蛮さを、未発達さを見ようとした点で、人間愛にあふれる研究者も、そうでない研究者も、見解を一にしているのである。

 しかしながら、自由人は真実を述べるが、奴隷は嘘をつくものだなどと、彼らアテナイ人たちは本当に信じていたのであろうか。奴隷でなくても、そもそも人間は拷問の苦痛に挫け易いものだとは、彼らには考えられなかったのであろうか。いや、もっと言えば、嘘しかつかぬ奴隷も、拷問の苦痛にはさすがに挫けて、ついつい真実を述べてしまうものだ、などと彼らは本気で信じていたのであろうか。

 自由人がいつもただ真実のみを述べていたわけでないことは、今日に残されているおびただしい数の法廷弁論の数編を一読するだけで充分に知れる。またアテナイ人たちも、自分たちの同市民である訴訟当事者たちが真実のみを述べていると(常にそのように宣誓することを求めはしても)信じていたわけではない。そうでなければ、そもそも裁判自体不必要であったろう。むしろわれわれを驚かせるのは、厳格な宣誓下に行われるはずの弁論において、原告・被告を問わず、彼らがいかにぬけぬけと虚言しているかという事実の方である。

 つまり、当たり前のことだが、自由人は真実を述べるが、嘘もつく存在なのである。しかるに、奴隷ならぬ自由人は拷問にかけてはならないという。なぜか。奴隷なら拷問を恐れもしようが、自由人は拷問を恐れないからである(リュシアス)。だから自由人は真実の言葉を守り通すのだ、などと早合点してはならない。なぜなら、真実を守り通すかも知れないが、虚言をも守り通すことができるからである。それが、自由人は拷問を恐れないということの本当の意味である。

 拷問を恐れないということと、拷問の苦痛に挫けないということとは、まったく別の問題である。アテナイ人たちが、自由人は拷問の苦痛に挫けないと信じていたかどうかは、軽々しくは断定できない。ただ、いかなる相手であれ、力でもって圧倒せんとするものに挫けてはならないと信じていた、ということだけは断定してよい。それは怒涛のごときペルシアの侵入を防ぎ切って以来の、彼らの根本的規範であった。したがって、拷問に関する彼らの考えは、おそらくは、こうである。ーー自由人も拷問の苦痛に挫けて、前言を翻すことがあるかも知れぬ。だが、それは前言を翻したというだけで、それが真実であるという証拠にはならない。虚言を翻せば真実になるかも知れぬが、真実を翻せば虚言になってしまうからである。要するに、拷問にかけようが、かけまいが、嘘をつこうと思えば嘘をつく。それが自由人の自由の意味である。自由人を拷問にかけてはならないのは、求める対象が真実であるとするなら、拷問には大して意味がないからにすぎない。

 ところが、奴隷の場合はどうか。奴隷は自然本性的に嘘をつく存在であると、アテナイ人たちが信じていたなどとは、とうてい信じられない。もしも、奴隷が常に虚言する存在なら、その言葉は、自由なるがゆえに真偽とりまぜて発言する自由人の言葉なぞより、真実に接近するには、はるかに信頼に足ることになるであろう。もちろん、奴隷が自分の主人の気に入ることなら何でも言おうとする傾向にあることは、彼らのよく観察する現実にほかならなかったが、その点に関しては、当時の自由人と大きな差があるわけではなく、また、最も自由であるはずの現代人とて大して自慢できる情態にあるわけではないのである。だが、自由ということが決定的な問題であったアテナイ人たちにとっては、自由を重視すればするほど、自由のない奴隷情態にある者との間に、ますますいかんともし難い断絶を感じていたことは確かである。

 奴隷はいつも嘘つきなわけではない。嘘をつくかも知れないが、真実も言う。その点では自由人と何ら変わりはない。違うのは、奴隷に自由がないということだけである。自由のない彼らには、また守るべき言葉(虚言であろうと、真実であろうと)もないと、どうやら、アテナイ人たちは考えたようである。つまり、彼らが言葉に求めたのは、その言葉が嘘か否かではなくて、言葉にかける主体的真実(誠実さ)であったといってよい。そして、それは、自由によって、あるいは、自由によってのみ、保証される、と彼らは考えた。これこそが、彼らが奴隷の言葉を証言として信ずるに足らずと考えた理由であったといってよい。

 自由によってしか保証されない言葉の主体的真実性を、自由ならぬ奴隷の言葉が獲得する唯一の方法は何か。それは、奴隷を肉体の極限にまで追いつめること、すなわち拷問である。アテナイ人たちが拷問を口にするとき、「のばすこと」「ねじること」によって奴隷が死に至ること、ないしは、少なくとも一生不具になることを初めから予想している節が伺える。拷問が、どうやら、このような酷薄非情な事態に陥るのが常であったらしいのは、哀れな犠牲者たちが頑強に黙秘を続けたからでも、相手がしぶとくて、拷問する側の求めるとおりに白状しようとしなかったからでもな い。犠牲者が息も絶え絶えにならないかぎりは、奴隷の言葉には主体的真実性(誠実さ)が具わらない、したがって、証言としての価値がない、と信じたからにほかならない。奴隷こそ、いい迷惑だったというしかない。

 しかも、奴隷が瀕死の情態で辛うじて漏らした言葉でさえ、真実である必要はなく、また、真実だなどとは、アテナイ人たちは決して信じてもいなかったであろう。奴隷の言葉は、非人間的な拷問(βασανοσ)が終わっての後、辛うじて証言として採用され、しかも、それが真実であるかどうかは、これから先、厳密なελεγχοσを通して初めて決まることにすぎない。

 拷問を通さぬ奴隷の言葉に何らの価値も認められないのは、それが虚言だからではなく、その言葉の主体が自由ではないからなのである。奴隷という存在に自由を認めないのは、市民権を有するアテナイ市民にほかならない。自分たちが相手の自由を奪っておきながら、しかも、ほかならぬ相手にその責めを帰する。ここに、差別意識の卑劣きわまりない詐術を見出すことができよう。それは何も古代アテナイ人たちだけの問題ではなく、われわれ自身の問題でもある。「奴隷は嘘をつくものだ」などという、尤もらしくはあるが、こちらが恥ずかしくなるくらい単純でお粗末な観念的前提は、じつはアテナイ人たちのものではなく、現代人であるわれわれが嵌まった落とし穴、もっと言えば、奴隷というものに対してわれわれ自身がいだいている偏見・先入観の産物にすぎないのかも知れない、ということを指摘しておきたい。

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