リンゴの涙
先日は報恩講とかで、一年生はみな――ぼくも行ったのですが――本山参拝をしました。本山というと、せんだって爆破事件がありましたね。その爆破の跡を見物出来るというので、期待に胸をふくらませ、わくわくしながら行った人もいたようですし、また、もしかするとまた爆弾が仕掛けられているのじゃないか、ヘルメットでもかぶって行った方がよいのじゃないかと、内心びくびくしながら行った人もいたようです。 行ってみると、しかし、警備員の腕章をつけた人がやたらと多い外は、それらしい形跡は全くなく、爆破の跡も完全に修繕されていて、さすがは本願寺――1箇の爆弾ぐらいではびくともしない大教団の力の大きさを、まざまざと見せつけられた思いがしました。 それにしても、このところ、神社や寺院に対して爆弾を仕掛けるという事件が続いています。今いった本願寺爆破事件の前には、神社本庁爆破事件があり、さらに平安神宮放火事件があり、そして梨木神社にも爆弾が仕掛けられました。いったいこれはどうしたことだろう。じつは、これらの事件はすべてアイヌ人問題とも言うべきものに関連しているのであり、そしてそれは、日本の歴史そのものを問いなおすことを迫っているのです。 さっき挙げた一連の事件の流れをずっとたどって行くと、君たちは知らないと思いますが、1970年――今から七年ほど前ですね――「〈風雪の群像〉事件」という出来事にまでさかのぼれるようです。これはどういう事件かというと、爆破事件のような派手さはありませんが、しかし画期的な意味を持つ出来事で…… 北海道の旭川市に常盤公園というのがあるそうですが、そこに〈風雪の群像〉と題する彫像が建てられたのです。それは北海道の開拓を記念した開拓記念碑として建てられたものだそうです。制作者は本郷某と言って、〈わだつみの像〉の制作者として有名な彫刻家ですが、どんな彫像を考えたかというと、和人――アイヌ語では「シャモ」と呼ぶのだそうですけれども――そのシャモが腰に手をあてがい、両足を踏まえて、胸を張って立っている、そのシャモの足もとにアイヌの老人が膝をついて、何かを指さして案内するような、何かこう土地の案内でもしているような格好をしている、そういう構図だったわけです。 これに対して激しい抗議が起こったのです。シャモの前に膝をついたアイヌ像とは何事か、侮辱もはなはだしい、アイヌを立たせなさいというわけです。これに対し、制作者の本郷某は、膝をついていたアイヌの古老を木の切り株に腰をかけた像に変更した上で、次のように反論した。つまり、アイヌは開拓前から北海道に定着していた民族である。だから、老人でなくてはならないし、土地に近く位置しなければならないというわけです。和人は後から来て開拓の仕事を始めた。だから、若々しくしなくてはならないし、すっくと立ち上がった姿でなければならないというわけです――。 なるほどなあ、という気になりませんか。そして、そういう意味を表した彫像にケチをつける方が、よっぽどどうかしているという気になりませんか。 ぼくたちは――君たちも同じだと思うのですが――北海道は「開拓」されたのだと教えられ、また、そう信じ込んで疑おうともしません。「北海道開拓」という言葉を聞いても、何の抵抗も感じないし、何の疑問も持たないのです。だから、アイヌの老人が地べたに膝まづいていようが、木の切り株に腰をかけていようが、そんなことは気にもならないし、むしろその方がよりふさわしいようにさえ感じてしまうのです。なぜなら、北海道はわれわれの祖先が苦労をして「開拓」したのだから――。 しかし、いったいそれはどんな苦労だったのだろうか。北海道の厳しい自然にも苦労したことだろう。しかしそれ以上に、北海道の原住民を征服してしまうことに苦労したに違いありません。つまり、われわれ和人にとっては輝かしい業績とされる北海道「開拓」の歴史とは、北海道の原住民であるアイヌ人にとっては、自分たちの土地を侵略され、迫害され、征服され、そして支配されてきた屈辱の歴史に他ならなかったということです。アイヌ人にとっては開拓でも何でもなく、侵略に他ならなかったということです。そして、その「開拓」に苦労が多かったと言うなら、それは、絶対少数のアイヌ民族が民族の存亡をかけてそれだけ勇敢に、それだけねばり強く、自衛のための激しい抵抗をしたという証拠に他ならないでしょう。 しかしながら和人・シャモの勢力は絶大であり、アイヌはあまりにも少数でした。つまり、強いものが弱いものを征服したというだけのことであって、その勝利は不名誉なことではあっても、何ら名誉なことではありません。そういう「開拓」の記念碑として、侵略者の前に膝まづいているアイヌ像を造るなどというのは、無神経と言えばあまりに無神経ではありませんか。 しかし、その無神経さこそ、われわれの日本の歴史をつくりあげてきたのです。平安神宮にはエゾ征伐を命じた垣武天皇がまつられてあり、梨木神社には三条実美がまつられてあり、そして東本願寺は――北海道「侵略」にどのような役割を果たしたのか、残念ながらぼくはよくは知りません。が、侵略の尖兵の役割を果たすものがいつも宗教であることは、歴史が証明しています。 ところで、平安神宮に放火し、梨木神社に爆弾を仕掛けたと言われる「闇の土蜘蛛」ですけれども、この「土蜘蛛」というイカサない名前は、じつは『古事記』に由来しているのだそうです。ためしに『古事記』を読んでみると、神武天皇の東征――神武天皇が軍隊を率いて、東へ東へと征服の旅を続ける箇所があるのです。その神武天皇が忍坂(おさか)という所にやって来ると、そこに竪穴住居に住んでいる人々が居たというわけです。 竪穴住居と言えば、神武天皇の目から見ると、それだけでもう未開な住居に見えたろうと考えられます。しかも彼らは非常に勇猛な人々であった。しかし、彼らが勇猛であることは、神武天皇には野蛮で危険なことに感じられたろうと思われます。権力者というものは、自分に服従しようとしない者を常に恐れているものです。そこで神武天皇は、彼らを滅ぼしてしまおうとするのです。それも正々堂々と戦うことによってではありません。 どのようにしたかというと、その竪穴住居に住む人たち一人一人に、剣を隠し持った料理人を一人ずつ付けて、盛大な宴会を開いたのです。ということは、彼ら竪穴住居の人々は何も敵意を持っていなかったということやね。さて、宴会もたけなわとなり、彼らが気を許した頃を見はからって、剣を隠し持っていた料理人は、神武天皇の歌――その歌の一節に、戦時中の合言葉みたいなものになった「撃ちてし止まん」という文句があるのですが――その歌を合図に一斉に斬りかかり、かたっぱしから斬り殺し、皆殺しにしてしまったというのです。要するにだましうちやね。そのようにして虐殺された人々――これを『古事記』では「ツチグモ」と呼んでいるのです。 現代国語の教科書に「言葉の魔術」という単元があったはずです。その中に「同一化の魔術」という項があったでしょう。例えば、「あの人は蛇のような人だ」と言えば、聞いた者は蛇から受ける印象でその人を見るようになるというのです。蛇といっしょで、土蜘蛛というものも気味の悪いものですね。まして『古事記』では「尾あるツチグモ」――しっぽのはえた土蜘蛛と呼ばれています。そんなものは不気味な、気持ちの悪い、ひねりつぶしてしまいたい印象を与えるものですね。 『古事記』を読んでいると、ただ単に竪穴住居に住んでいたというだけの人々――勇猛で、誇り高かったであろうあの人々を、しっぽのはえた土蜘蛛を見るような目で見てしまいそうになるのです。そして、神武天皇のやっただましうちのきたなさよりは、そうやってしっぽのはえた土蜘蛛がひねりつぶされてよかったというような印象の方が、強くぼくたちの心に残るのです。また、それが『古事記』の作者の意図でもあったのでしょう。 日本という国が出来る以前から、そして日本という国が出来てから後も、ずっと現代に至るまで、日本の歴史は無数の土蜘蛛を踏みつぶし、踏みにじり、その事実を歴史の闇の中に葬って来たと言えるようです。しかし葬り去ることはできないのです。闇の土蜘蛛――葬り去ったはずの土蜘蛛の怨念が、まるで歴史の闇の底から今よみがえったようではありませんか。その「闇の土蜘蛛」の声明文とは次のようなものです。 「なんじら日本人知らずや、われら昔、この列島の大地に年ふる土蜘蛛の精霊なり。われら地のそこに沈められた呪いを忘れず、いまこそ時を得て、君が代を討ちほろぼし、千数百年のとしつきを越え、われらが世を打ち立てんとよみがえりきたり」 ぼくたちは、今、日本の歴史をその闇の側から検討しなおす必要があるのではないだろうかという、まあ、そういうふうな感想を、爆破事件のあった本山を参拝して持ったのでした。 終わります。 (1977年11月24日) ここでは触れなかったが、闇の土蜘蛛の犯行声明以前に、「風雪の群像」事件と問題意識を共有しながら、ひとつの結論に達したのが、「東アジア反日武装戦線」の活動(1974年)であったろう。この人たちの闘いの軌跡については、 東アジア反日武装戦線についてに詳しい。 |