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エッセイ



映画「西便制」の言わなかったこと






  映画には、深く「せんさく」するまでもない作品もあれば、あれこれ「せんさく」させずにはおかないといった作品もある。どちらが作品としてどうと言うつもりはない。前者にもいい作品もあれば、後者にも、せんさくの果てに無に帰してしまうような作品もある。いずれにしても、映画『西便制』が、見る者に「せんさく」を強いる作品であることは確かである。そして「せんさく」の結果、あの映画は、ある種のおぞましさを秘めた作品であると私は確信するに至った。

 この映画は、パンソリの旅芸人である父と娘と息子とが主人公をなしている。といっても、彼らに血のつながりがあるわけではない。娘は孤児であったのを養女にしたものであり、息子は、ある村で契りを結んだ女の連れ子である。その女も今は死んでもういない。新しい時代の流れにおされて、パンソリという伝統的な民族芸能も、今はひたすら衰退してゆく。悲哀の材料は揃っていると言わなければならない。

 物語は、パンソリのすぐれた唄い手である娘の声に、「恨」がこもっていないというので、師匠でもある義理の父親が彼女に眼の見えなくなる薬をひそかに飲ませ、ついに失明に至らせたというので、観客に強い衝撃を与える。至芸に到達するとは、かほどまでに非情・酷薄なものなのか! こうして観客は、すべてを犠牲にして究極の芸を追求する父と娘の崇高美に(多少の疑念をいだきながらも)快く涙する。芸術のためなら、悪魔とでも契約を結ぼうとした者は、古今東西、いくらでもいる。この父と娘もそれであろうなどと納得して。

 ところが、それは観客の勝手な解釈にすぎない。確かに、父親は娘に向かって、お前の声は美しいだけで、「恨」がこもっていないと言った。また、彼女に眼の見えなくなる薬を飲ませたのも確かである。ところが、娘の声に「恨」のこもることを目的として娘を失明させたなどとは、どこにも言っていないのである。

 冷静になって考えてみれば、眼が見えなくなることによって「恨」が得られるのなら、そして、パンソリの唄い手には「恨」がどうしても必要なものなら、毒薬を飲むべきは娘ではなく、父親の方であったはずだ。それとも、父親の方はパンソリの奥義をきわめていたのであろうか。彼も、若いころ、すぐれた唄い手であったが、師匠の妾に手を出し、それが原因で破門され、しがない旅芸人に落ちぶれたのだということが、物語の展開の中で明らかになる。かつての無能な相弟子たちが今や羽振りをきかせているのに、自分は地方まわりの旅芸人でしかないという、自分の不遇さに対する鬱憤が、彼の心底にはどす黯くわだかまっている。そういう彼をわずかに支えているものは、パンソリにかけてはひとかどの者である(あった)という自尊心のみである。彼の「恨」とはその程度のものにすぎない。

 そういう彼が、映画では、いつの間にか、芸のためには悪魔にでも魂を売り渡すほどの芸術至上主義者へと変身してしまうのであるが、その経緯については映画は何も説明しない。とにかく、映画は、いつの間にか、芸の極致を求める父娘の修業物語へと転化してしまう。

 しかし、これは映像編集の魔術=まやかしにすぎない。編集は、表現するよりも、むしろ隠蔽する技術である。『西便制』の編集者は何を隠したのか。

 注意深く映像を追ってゆくと、次のような事実が明らかになる。
1)パンソリの唄い手として、彼にはもはや娘に教えることが何もなくなっていた〔謙遜としても、半分は真実であろう〕。
2)娘の眼をつぶしたのは、義理の息子に去られた後、しかも、自分も喉がつまってほとんど唄えなくなってからであった〔娘に唄わせるための演技であった可能性はあるが〕。
3)それ以前に、義理の弟に去られた娘は、唄うことができなくなっていたという事実を見落としてはならない。「恨」をこめる云々以前に、娘は唄を捨てていた。その娘の眼を奪ったのだ。
4)事実、娘の眼をつぶしたのは、たんに娘が逃げないようにするためであったという噂が、世間では取沙汰されていた。世間の噂は時として真実を衝くものだ。
5)このような動かしようのない事実群があるにもかかわらず、これを観客の視野から遠ざけているのが、娘の声に「恨」がないという父親の〃御託宣〃にほかならなかった。

 これによって、われわれ観客は、娘の声に本当に「恨」がないのかどうかを、自分の耳で確かめようともせず〔たとえ、「恨」があったとしても、自分の耳はそれを聞き分けられるかどうかも考えてみようともせず〕、パンソリを唄う声に「恨」をこめるという、おそらくは師匠である父親でさえ達成し得なかった(そもそも、達成し得るかどうかもわからない)ような目標を、われわれ観客も父親といっしょになって、娘に課することになるのである。以後、われわれ観客は、究極の芸の境地に向かって、父娘がどれほど酷薄な修業を積み重ねるのかという方向に沿って、物語の展開を追うようになる。

 これこそが、この映画の映像編集者が用意周到に仕掛けた罠であったのだ。映画は映像を提供するにすぎない。これをつなぎあわせて解釈するのは観客である。だが、映像編集者は観客の解釈を誘導することはできる。そして、それは見事に成功したといわなければならない。

 娘の眼を奪った真の理由が奈辺にあるにしろ、少なくとも父親は、「自分の行為」は許される(娘も許してくれている)と考えていた、という事実は注目にあたいする。彼はなぜそういうふうに考えることができたのか。何だかんだといっても、ついに娘が「恨」を得たからであろうか。しかし、父親は、〃失明しても(しかも、それが父親の所為であると知っていても)お前の声には「恨」がない〃と言っていたのではなかったか。だとすると、芸術のために娘の眼をつぶしたというのは嘘だったか、あるいは、少なくとも失敗だったということが、ここからもわかる。にもかかわらず、父親は「恨」について滔滔と説教を垂れるのである。〃生きることは「恨」を積むことだ〃、〃「恨」にうずもれず、「恨」を越えよ〃と。

 父親の最期に近いこの告白の場面を、われわれ観客は、父親の確信的態度に気圧されて、わかったような気になって(感動さえして)通りすぎてしまう。だが、よく考えてみると、実に奇妙な論理である。失明(させられること)によってさえ「恨」がないとしたら、いったい、何によって「恨」は得られるのか。ここで、次のような疑念が、再びむくむくと頭をもたげてくる。そもそも、父親は何を許されていると考えたのか?

 もしかすると、二人の間には師弟関係を超えた、父娘関係をも超えた関係があったのではないか。この場面から映画を逆にたどってゆく時、私はある〃おぞましさ〃を感じずにはいられない。←鶏を盗んで村人から激しく打擲される父、それを必死でかばう娘。父は娘に体力をつけるために肉を食べさせようとしたのだ。←寒いだろう、横になって休めと、失明した娘の面倒を見る男の甲斐甲斐しさ。←そして眼の見えなくなる薬が初めて話題にのぼる場面。友人の絵文字描きとの談話は、精力絶倫であるとかないとかの猥談である! 「恨」をいうなら、義理の関係であるとはいえ、父親が娘を犯すという悖徳の方が、失明よりももっと深い「恨」に人を染めあげるのではないか? しかし、映画は、そんな疑念をいだくことさえ恥じさせるほどに、すべてを芸に賭ける父娘の崇高美の中に収斂させようとするのである。

 今でも姦通罪が生きている韓国にあっては、血のつながりはないとはいえ、近親相姦は口にするだにおぞましい行為であるに違いない。芸術に賭ける執念という見せかけによって、父娘の関係をあれほど完璧に糊塗した『西便制』も、しかし、姉弟の関係については大らかに展開して見せる。誰もがすぐに気づくように、この映画は、弟がむかし別離した姉を訪ねて三千里という構成を一応とっている。「一応」というのは、そのことはあまり重要でないかのように扱われているからである。彼は今は妻も子もあり、製薬会社に勤めており、地方をまわって漢方薬を買いつける仕事をしている。その仕事のついでに、彼は姉を捜しつづけている。自分の子どもが病気になっても、帰ろうともしないほどの思い入れだとはいえ、弟にとって姉はその程度の存在でしかない。ところが姉にとっては、弟は恋情の対象であり、生きるすべてであったことが、物語の中で明らかになる。彼が旅芸人という時代遅れの仕事を嫌って〔否、パンソリの修行に励む父と姉との間に漂う、ある特別な雰囲気を察知し、これに堪えられずに、と言った方が正しい〕去った時、彼女は唄うことはもちろん、文字通り食べることさえできなくなるのである。父親の甲斐甲斐しい介抱によって一命を取り留めた後も、彼女は弟が自分を迎えにくることを、ただそれだけを待ちつづける。愛しい夫の帰りを待つ貞淑な妻のようにである。……古めかしいこの恋情は、しかし、『西便制』においては、あたかも、「恨」を積むための肥やしにすぎないかのように、こっそりと作品の隅に追いやられているのである。

 映画の終わり近く、弟はついに姉を捜しあてる。盲目の姉は、今は、貧しい居酒屋の男やもめの「世話」になっているらしい。二人は互いに相手がわかったが、名乗り合うことをしない。ただ、一夜を(パンソリの合奏によってではあるが)共にする。ものわかりのいい居酒屋の亭主が述懐する。〃肌には触れなくても、好いた男女が戯れるように〃、パンソリとプクとがぴったり合っていた。ついに〃「恨」に埋もれず、「恨」を越えた〃と。この男やもめの居酒屋の亭主は、今は亡き父親とほとんど相似であることにわれわれは気づかなければならない。

 映画『西便制』の主題が「恨」であることは間違いなかろう。そしてそれは、女主人公の人生そのものに具現していると、この映像制作者は語っているかのようである。しかし、それはいったいどんな「恨」であったのか。

 この映画を観る者は、盲目のパンソリの唄い手の世話をしていた、男やもめの居酒屋の亭主の、その「世話」の中身がいかなるものであったのかを、決して問おうとはしない。それは、彼の親切で紳士的な態度にほだされて、それを問うことがひどく下品・下劣なことであるように想わされるからであり、また、パンソリに対する彼の鑑識眼の高さに〔われわれは声に「恨」があるかどうかさえ聞き分けられないのに!〕気圧されるからである。

 われわれはまた、再会しても名乗ることもなく、まるで、旅先で安い女を買って一夜を共にした後のように、後をも振り返らず立ち去ってゆく弟を、不思議とも何とも思わずに見過ごすことができる。それは、義理の間柄とはいえ、姉弟相姦といういかがわしさにわれわれが堪えられないからであり、また、次のように好意的に解釈できるようにつくられているからである。つまり、再会した二人は今やもう別々の世界の住人であることを認め、それぞれの世界へ――弟は妻子の待つ市民世界へ、姉はより厳しい芸の修業の世界へと――還ってゆく、名乗り合うこともなく……と。そして、そこにこそ二人の真の悲恋があるなどと、紅涙を絞りさえするのである。

 同様にして、義理の父親の仕打ちでさえ、それが父親であったということで、さらには、すべては芸のためと解することで、心のどこかで許してしまい、涙さえ誘われる。

 そういうふうに、われわれ観客は映像編集者によって仕向けられているのである。

 しかしながら、映画『西便制』の真の主題は、芸の極致をきわめる修業の壮絶さにあるのではなく、実は、けなげな娘が、「男たち」=封建的・儒教的な男社会によって人間性を蹂躙されつくしてゆくという悲惨さにあるのだ。涙すべきことではなく、おぞましく、激しく憤るべきことなのだ。しかるに、あの映画は、非難も批判もせず、すべてを悲哀の中に許してしまう。芸術のためにすべてを(生命も人生そのものをも)犠牲にするという崇高美のオブラートに、現実の悲惨さを包みこみ、人々に快い涙を流させることで、カタルシスを与えてしまっているのである。

 すぐに気づくことだが、『西便制』は二重の構造を持っている。ひとつは、パンソリの唄い手である娘を主人公とする物語の流れであり、もうひとつは、彼女が唄う「春香伝」や「沈清伝」などのパンソリの女主人公の姿である。この二つが二重写しになっているところに、『西便制』という作品の特徴があるといってよいが、その二重写しによって現れてくる人物像とはいかなるものであるのか? それは、父親に対してあくまで(何をされても恨むことなく)従順に、生あるかぎり、我が身を犠牲にして尽くしつづける娘であり、愛しい男のためならいつまでも(生あるかぎり)待ちつづける貞節な女である。この点で、パンソリの主人公とこの映画の主人公とは合致するのである。

 このような、男にとってはまことに都合のよい「女」を、かつての日本と同じく韓国社会も、ひとつの儒教的理想像として求めつづけてきた。それが、今、彼らの紅涙をしぼっているとしたら、やはりかつての日本と同じく、急激な経済発展の中で失われつつあることの証左ではないのか。失われゆくものへの哀惜が、それがまだ完全には失われていない韓国社会で、あの映画を大ヒットさせた。それだけの通俗性が、あの映画には確かにあるといってよい。

 人間は、あまりの残酷さや、等身大の悲惨さには、涙など流さぬものだ。映画『西便制』の女主人公の実態は、日本でいえば「瞽女(ごぜ)」のごときものであったろう。この盲目の三味線弾きの女は、門付けをしながら、時に春も鬻いだという。そういう現実の悲惨さは捨象して、ただ放浪ということに小市民的な・ロマンチックな憧憬を投影し、これを錦秋の自然の中に配置して、そこに悲哀に満ちた美を見出して陶酔し、あるいは涙する。小市民の涙とは、そういったものであり、通俗性とは、そういったものである。そんな美を美と感じる心性こそ、おぞましいというべきである。そういうおぞましさを、至芸のもつ崇高美によって包みこもうとしたのが、映画『西便制』であったといってよい。あの映画が、美しい映像の裡に隠蔽してしまったものの多さを想って、私は何かしら腹立たしさを覚えないではいられない。

※     ※     ※


 ここまで論じ来たっても、なお、隔靴掻痒の感を禁じ得ない。何か核心的な問題を論じ落としているような気がしてならないのである。今、思いつくことだけ、二点、挙げておこう。

1)映画全体を、「女」の視点からとらえなおしてみることが必要ではないか。あの映画は、男にとって都合のよい「女」が、「男」の視点から描かれすぎている。女性の立場からの感想に耳を傾けてみるべきである。

2)上の問題と通底することであるが、韓国社会における障害者の実態が、まったく捨象されている。いや、むしろ、視力障害者となる(させられる)ということが、お涙頂戴の手段として利用されているとさえ思える。

 娘は、人並み以上の器量の持ち主であったから、「女」であることを武器にして、いくらでも生きてゆくことができたはずである。そういう彼女の眼を奪うということは、「女」であることを利用して生きるという生活の道を閉ざすという意味があったはずである。彼女は父親によって、パンソリの唄い手として、芸に生きるしか生きる道がないようにさせられたのである。

 「芸に生きる」といえば聞こえがいいが、しかし、爾余の一切を芸のために犠牲にするということと、その芸以外に生きる道がないということとでは、まったく意味が異なることを銘記すべきである。障害者に対する厳しい差別の現存する社会では、障害者はみずからの障害を「見せ物」として生きる以外に、生きる手だてはなかった。差別の現実は、盲目の女に、売春婦としての「商品価値」さえ認めなかったのだという事実を見のがしてはならない。

 そういう社会にあっては、逆に、ある種の「芸」を障害者の占有物として認めることによって、差別を固定化するという働きも生ずる。そのため、例えば、盲目の女でなければ瞽女にはなれず、瞽女になる(する)ために、わざわざ眼をつぶすというような、倒錯した悲劇も出現した。これは日本のことではあるが、娘を盲目にするという父親の発想の裏には、そういう差別的社会の現実が背景として透視されるのではないか。

 映画『西便制』の最後の場面、盲目の唄い手が幼い女の子(?) に手を曳かれて村々を放浪してゆく。あの児がボランティアであるはずはない。あの児の今後の運命を想うとき、この映画が悲劇の拡大・再生産を暗示するのみで、そういう悲惨を招来させるものの存在については、ほとんどわれわれ観客の眼を向けさせようとはしていないという事実を指摘しないわけにはいかない。



 朝日新聞に金時鐘の批評が載っているのを見つけた。彼もまたパンソリに対する思い入れで映画を観ているのであって、映画そのものを観ているのではないように思う。

 それにしても、「滴っていたのは……こみ上がってくる透明な涙だった」とか、「ソンファのひたむきな姿が、私を突き上げてあふれさせた」とか、内容空疎な詩的表現ほど気恥ずかしいものはない。かつてわたしも畏敬したことのある金時鐘ともあろう者が、こんなふやけた文章を書くようになったとは、淋しいかぎりである。
                          1994.08.10.
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