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エッセイ



無告の深淵に向かって


  [序の1]
  [序の2]
  [学習ノート1]閔妃暗殺
  [学習ノート2]安重根
  [学習ノート3]三・一独立運動



[メモ]

序の1
 1992年3月30日から4月2日まで、野次馬別動隊は訪韓の旅に出た。以下は、その時の学習ノートである。

 今回の「韓国ツアー」を契機として、自分なりに学習したことは後に述べるとして、その前に、「ツアー」というものに関して実感したことを書き留めておきたい。それは次の3点である。

1 観光は「国策」事業であるということ。

 かつて、私の友人があるツアーにもぐりこんで、「国交正常化」以前の中国を旅したことがある。監視員つきのガイドは、万人坑を中心とする日本軍悪虐の爪跡ばかりを案内してくれたと言う。ところが、国交回復後のツアーではそれらがすべて省かれ、万人坑の質問をしてもガイドはその説明すらしてくれなかったと言う。これが国家と国家との「友好」の正体である。

 今回の我々の「韓国ツアー」のガイドをしてくれた(もと女子挺身隊の一員だったという)Y女史にしても、まことにプロと呼ぶにふさわしいガイドぶりであったが、しかし、彼女が説明してくれたことよりも、むしろ、彼女が何を説明してくれなかったかを想起すべきである。そうして、その背後に、単に一観光業者の営利のみならず、国家の意志が働いていることを看取すべきである。

2 国家は企業と同じく常に営利によって動くのであって、道義によって動くのではない。したがって、国家の喧伝と一般の市民感情とは乖離しているものであることを我々はいつも忘れてはならないということ。(近くは、「カンボジアの人々も自衛隊に来てほしがっている」という政府首脳の発言を見よ。「カンボジアの人々」とは具体的にダレであるのか?)。

 Y女史も、*国策ガイド*の立場を忘れて、思わず市民感情をのぞかせた場面があった。日本の憲兵隊が基督教信者ら二十九名を教会に閉じこめて焼き殺したという堤岩里に着いた時、さすがにY女史も感情を抑えられなくなったようだ。彼女は、過去の歴史に対する天皇の謝罪の言辞の曖昧さをなじり、侵略者は日本人であって、白衣の民族韓国人は歴史上一度たりとも他国を侵略したことはないことを強調し、侵略の事実をすべて洗い出して必要に応じて補償すべきだと、顔色を変えて弁じたてたのである。もっとも、責任は支配者=政府にあるのであって、あなたがたに言うべきことではないがと、声もなく立ちつくしている私たちの面目を最後に立ててくれたのではあるが。

3 しかし、その「一般市民感情」といったものでさえ、世論がつくられたものであるというのと同じ意味において、やはりつくりものにすぎないと私は考える。というのは、一般の市民感情と、かつて日本人によって無惨に殺戮された「無告の民」たちの無念さとの間には、断絶があると思うからだ。彼らの無念さに立つとき、もはやY女史のように、「責任は支配者=政府にあるのであって、あなたがたにはない」などと言うことができるか。彼らは、血の贖いを要求するのではないのか。

 以上のように、「国家=権力者=支配者」と「一般市民」と「無告の民」と、この三層を区別して物事を見なければならない、これが今回のツアーを通して私が学んだ一番大きなことであった。


序の2

 日本が侵略戦争の爪跡を残した地域に、おめおめと観光などできないというのが、我々の共通した想いであった。しかし、その一方では、侵略の傷を受けた現地に立ってこそ、戦争犠牲者たちの想いに一歩でも近づけるのであるし、加害者の側に立つ者としては、まさにそれこそが為すべきことでもあるという想いもあった。そういう、引き裂かれた想いを同じうする者たちで組んだ「韓国ツアー」であったが、旅行の日が近づくにつれて、気が重くなったのも事実である。「謝罪と懺悔の旅だなぁ」と、溜息まじりに何度つぶやいたことか。

 閔妃暗殺の現場である景福宮、その前に無慚に立ちはだかる朝鮮総督府、パゴダ公園にある三・一独立運動虐殺のレリーフ……こういったものを前にして、我々はただ声もなく立ちつくすことしかできなかった。居たたまれないと思った。しかし、この「居たたまれなさ」とは何であったのか? この疑問が、帰国してからもずっと私の心を占めていた。

 私が居たたまれなさを感じたのは、明らかに、自分もあの悪虐非道なる日本人の一人であるという帰属意識があったからにほかならない。裏を返せば、それはナショナリズムである。もう一度裏を返せば、それはいつでも反動的イデオロギー(排外主義・全体主義・ショーヴィズム)に転化する可能性を持つ。とするなら、「自分も日本人の一人として責任がある」という認識の仕方そのものに何か問題があるのではないのか。「全ての過ちを私たち日本人自身の過ちとして」という謝罪の仕方に、私はずっと馴染めないものを感じ続けてきたが、今その感をますます強くしている。

 もしも、私が侵略者の手によって無惨に殺されたとしたら、私は私の胸に銃剣を突き立てたその一兵卒の死を要求する。その一兵卒が命令されてやったと言うなら、私はその一兵卒とその命令者との死を要求する。私の胸に銃剣を突き立てた者を誰と特定できないのであれば、私はその者の所属する部隊の、軍隊の、民族の、国家の「代償」を要求する。その代償は、しかし、血の贖いである。国家は賠償を要求し、市民(国民)は道義的謝罪を要求する。しかし「個」としての私は血の贖いを要求する。血以外のものによって贖おうとする(贖うことができると思う)のは、生き残った者たちのみである。その意味で、私は、私の死を相手の血以外のものによって贖おうとする同族をも許さないであろう。声もなく殺されて逝った「無告の民」の無念さとは、そのようなものではないのか。

 この無念さに照らしてみたとき、無辜の朝鮮人の胸を刺した兵卒の一人一人に血の贖いをさせるべきである。その一人一人を名指すことができないのであれば、代わりの日本人に血の贖いをさせるのも仕方がないと考えるのが庶民感情というものではないのか。韓国孤児三千人の母と言われる田内千鶴子が、朝鮮人の手によって殺されそうになったとき、「日本人がしたことを思えば、私がここで殺されるのも仕方がない」と言ったという。これが加害者の側の庶民感情というべきものであろう。この思いあるがゆえに、我々は、朝鮮の地に足を踏み入れることをいつもためらってきたのではなかったのか。この思いあるがゆえに、現地において居たたまれなく感じたのではなかったのか。居たたまれなさとは、血の贖いを当然と考える加害者側の生理的反応である。

 しかるに、生き残った者たちは、いつも、死んでしまった者たちをネタにして敵を赦そうとし、敵もまた赦されると思って謝罪に来たりする。そうやって生き残った者たちはいつも赦し合って生き続けるのだ。

 もちろん、私は、許し合ってはならないと言っているのではない。ただ、それがいかに途方もない(神的な、と言ってもよい)営みであるかということを言いたいのだ。そして、悪虐非道な者の手によって虐殺された「無告の民」の無念さを媒介としないようないかなる営みも欺瞞であると私は断ずる。そういう欺瞞を、私は謝罪派の人たちの発言に感じてならないのである。

 「日本軍国主義と天皇制国家を許し」た「私たち日本人自身の過ち」を「心からおわびする」と、日本の心ある人々は言う(『無窮花(ムグンファ)の咲き競う中で』p.8 )。そこには、日本軍国主義と天皇制国家を許したのは自分たちであるという痛恨の念がうかがえる。ちょうど、「教え子を再び戦場に送るな」と叫んだ教師たちが、教え子を戦場に送ったのは自分たちであったと自覚したように。そして、天皇制国家日本の右傾化・反動化を許してはならないとの決意に嘘のあろうはずはない。ちょうど、「教え子を再び戦場に送るな」との思いに嘘がなかったのと同じく。にもかかわらず(あるいは、それゆえに、と言うべきか)、学校の教師たちが「日の丸・君が代」強制の前でかくも腑甲斐なくも敗退したように、「心からおわびする」と称する彼らもまた、ナショナリズムの陥穽の前では為す術を知らないであろうことが予想できる。

 例えば、もしも、「犠牲者に思いを馳せ、心に刻む」ような殊勝な一行が、血の贖いを要求するような一団に現地で襲撃されたとしたら……、彼らが真っ先に最も強硬な「征韓論」者になるのではないか。彼らはナショナリズムの枠組みを一歩も踏み出すことができていないからだ。ちょうど、教え子を戦場に送り続けていた教師たちが、教壇から降りようとしなかったように。〔何ということだ! 私はこの事実にうかつにも最近まで気づかなかった。自分の過ちで教え子を死なせたと言いながら、なおかつ教壇に立ち続けることのできるような教師は、既にその時点で人間として敗退しているのだ。〕

 「戦争責任を自ら問う」と言いながら、彼らが問うているのは、軍国主義を許してしまった「市民」としての責任であって、それ以上のものではない。自分たちを騙した国も悪いが、騙された自分(市民)も馬鹿だったと悔やんでいるにすぎない。そんな悔やみが、腹を切り裂かれた「無告の民」にとって何の慰めになろう。むしろ、問うべきは、腹を切り裂いたその一兵卒の責任ではないのか。しかるに、彼らは、その一兵卒も戦争犠牲者の一人として、その責任を厳しく問おうとはしない。この「個」の責任を指弾しない、――ここにすべての過ちの萌芽があると私は考える。戦争責任など問われても、一兵卒は何らの痛恙も感じないであろう。「市民」の責任など、観念の世界に雲散霧消してしまうだけである。しかし、無辜の民に向けて一丁の銃の引き金をひいた一兵卒の責任は、他の誰のものでもない、そのたった独りのものであり、それこそが問われねばならないと私は考えるのである。





学習ノート1閔妃暗殺

1 《閔妃暗殺》

 1895年10月8日未明、朝鮮公使三浦梧楼の命を受けたソウルの日本軍守備隊・日本公使館員・巡査、それに岡本柳之助ら「壮士」という名のゴロツキたちは、大院君を擁して景福宮に乗り込み、白刃を振りかざして王妃の寝室に乱入し、王妃とおぼしき婦人3名を殺害し、そのうち1名が閔妃であることを確かめ、室内を物色し、そのうえ死体をはずかしめ、門前の松林で焼き払った。(中塚明『近代日本と朝鮮』の文章による)

 一国の「国母」を虐殺し、屍体を辱めるという、これほどの侮辱をなし得る人間と同族であるという事実の前に、私は言葉を失う(注)。もっと恥ずべきは、事件関係者がこの事件によって皆「箔」をつけて出世していることである。三浦梧楼は枢密顧問官を経て晩年は学習院院長という「名誉ある」地位を与えられたという(梶村秀樹『朝鮮史』)。領事館補堀口九万一(大院君の担ぎ出し係。堀口大学の父)はブラジルなどの公使を歴任、公使館付き武官で朝鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐(守備隊を動員)は陸軍大臣になり、邦字新聞「漢城新報」社長の安達謙蔵(民間人の動員係)はいくつかの大臣を歴任して政党の総裁となり、同編集長で実行隊の一人であった小早川秀雄は九州日々新聞の社長となっている。暗殺実行隊の警察関係者の中に堺益太郎という巡査がおり、彼は後に統監府警保局警視に出世し、巧みな朝鮮語で安重根の取り調べにあたり、安重根に知己のごとき感銘を与えたという(角田房子『閔妃暗殺』。ただし、中野泰雄『安重根』では境喜明となっている)。これらのゴロツキの周辺にあの与謝野鉄幹がうろついていたことも忘れてはならない。

 (注)ここで大急ぎで付け加えておきたいのは、閔妃暗殺のあまりの破廉恥さに逆上して、その反動として閔妃を悲劇のヒロインに祭り上げてはならないということである。閔妃一派こそは、当時ようやくにして興った農民の反封建運動を残酷に弾圧し尽くした元凶であった。


 しかしながら、閔妃暗殺はいつ起こっても不思議でない雰囲気が蔓延していたという。そして調べてみると、既に10年も前に、閔妃暗殺はシナリオ化されていた。いわゆる「大阪事件」である。

3 《大阪事件》

 1885年、前年に解党した自由党左派の大井憲太郎らは、「朝鮮改革」を唱えて資金獲得のために強盗を企てたり爆裂弾を製造、139名が逮捕され、31名が入獄した。

 大井らの企ては、自由民権派の青年壮士を朝鮮に派遣して、朝鮮の親清派で現政権の中枢を占めている閔妃の一族を殺害し、朝鮮を清国から「独立」させ、それがきっかけになって起こるであろう日清間の紛争をもって、日本人の「愛国心」をよびさまし、それによって国内政治の「改革」をはかろうというものであった。

 大井は出獄後、東洋自由党を結成し、晩年には植民事業にも携わった。この事件でいっしょに入獄した一人が、婦人解放運動の先駆者(!) と言われる景山(福田)英子である。

  明治専制政府に対する最も強力な反権力運動の拠点とみなされていた自由党にしてこの様であってみれば、我々は閔妃暗殺を批判する根拠を日本のどこにも見出すことができないと言ってよい。

4 《自由民権運動》

 学校教育の中で、私の教師たちは私に何を教えてくれたのか。私は、今改めて、教師たち(特に日本史の教師ども)を恨まないではいられない。確かに、教科書には、「1873年、西郷隆盛・板垣退助らは征韓論に敗れて下野した」と書かれている。また、「1874年、板垣退助・後藤象二郎らが民選議院設立建白書を提出した」と書かれている。しかしながら、これらの事実の間にどういう関係・意味があるのか、私の歴史の教師どもは教えてはくれなかった。

 学校教育の中で、自由民権は偉大な運動であると教えられてきた。私もそう信じてきた。だから、大阪事件を知ったとき、すべての「運動」がそうであるように、自由民権運動も、初めはよかったのだが途中から堕落したのだと考えようとした。だが、それは途中から堕落したのではない。自由民権運動は初めから(換言すれば、本質的に)そういうものであったのだ。


 自由民権運動においても、我々は三層構造を見なければならない。「党首脳」と「一般党員」と、そして、蜂起の果てに弾圧され尽くしていった農民や猟師たち「困民」すなわち「無告の民」とである。


 「党首脳」たちとは何者であったか? 薩長の藩閥政府によって権力の座を追われた者たち(土肥)である。反権力と見えたのは、権力争いに敗れた者の権力闘争であったからだ。


 板垣退助は、福島事件(82)・高田事件(83)などの弾圧をよそ目に、政府の懐柔策に乗って外遊し(費用は政府の指図で三井が出した)、群馬事件・加波山事件(84)の跳ね上がりに恐れをなして解党した。87年、伯爵の爵位を受ける。96年、第二次伊藤内閣の内相、98年、隈板内閣の内相を務める。

 大隈重信は三菱とつながり、自由民権運動への弾圧が強くなると、自ら結成した立憲改進党を脱党(84)、事実上の解党状態に落とし入れた。88年、黒田内閣外相、96年、第二次松方内閣外相、98年、隈板内閣を組織。1914年、元老たちにおだてられ第二次内閣を組織、第一次大戦に参戦、対華二十一か条要求を強行……。老婆心ながら、早稲田大学の創立者であることも付け加えておこう。

 後藤象二郎は、板垣とともに外遊、その費用の出所を知っていたという。87年、条約改正問題を機に反政府大同団結運動を起こしたが買収されて入閣……。うんざりするようなこういう事実を、我々は一つ一つ洗い出してゆかなければならない。

 後藤象二郎は早くから朝鮮問題に関与し、金玉均(注)らを援助した。自由党と朝鮮問題との接点として注目されるが、そうとすると、閔妃暗殺をもって日本国に裨益させようとするシナリオは、1885年を遡るはるか以前からあったと想定することができよう。

 (注)金玉均=開化派独立党の首領。1884年、清朝を背景とする閔妃派の事大党政権打倒を謀り、日本から資金と武力の援助を依頼し、竹添進一郎公使指揮下の軍隊に助けられクーデターを実行た。新政権は清国軍により3日にして打倒され(甲申事変)、金は日本に亡命し、井上馨・福沢諭吉らの保護を受けたが、94年上海に誘い出され閔妃政府の刺客に暗殺された。そのため日本の対清・朝鮮世論を激昂させた。

 この背景があるから、三浦らは、閔妃暗殺を、朝鮮王朝内の権力闘争事件のように見せかけようとしたのである。

8 《征韓論》

 反政府・反権力という観点から、朝鮮侵略を批判する立場を自由民権運動に期待したこと自体が誤りであった。自由民権運動とは、初めから、朝鮮侵略を胸に秘めた者たちの政治運動であったのだ。

 1)単なる侵略政策論にすぎないものが、非は相手方にあり、これを懲膺するかのごときニュアンスが「征韓論」という言葉にはある。それが今でも日本の「公用語」であるのはなぜか。

 「日韓併合」もそうである。ここで私は、次の文章をどうしても引用しないではいられない。

 「近代の資本主義国家が他民族を抑圧し、いっさいの主権をもぎとり、これを属領とする植民地支配を、ただ日本と韓国の二つの国家があわさって一つになるというような、はなはだあいまいな「日韓併合」という言葉でおきかえたのはなぜなのか。七月六日の閣議決定の原案を作成した当時外務省の政務局長であった倉知鉄吉は、その間の事情を次のようにのべている。

 因に曰ふ、当時我官民間に韓国併合の論少からざりしも、併合の思想未だ十分明確ならず、或は日韓両国対等にて合一するが如き思想あり、又或は墺匈国の如き種類の国家を作るの意味に解する者あり、従て文字も亦合邦或は合併等の字を用ひたりしが、自分は韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明らかにすると同時に、其語調の余りに過激ならざる文字を選ばんと欲し、種々苦慮したるも遂に適当の文字を発見すること能はず、因て当時未だ一般に用ひられ居らざる文字を選ぶ方得策と認め、併合なる文字を前記文書に用ひたり。之より以後公文書には常に併合なる文字を用ふることとなれり……(『伊藤博文伝』下)」
(中塚明『近代日本と朝鮮』p.102 )

 「征韓論」にしろ「日韓併合」にしろ、事実を隠蔽するための用語を用いて教える歴史教育とは何なのか!

 2)朝鮮侵略政策論が(自由民権派を含む)明治政府要人に共通した考えであったことは常識である。もっと言えば、明治維新の指導者たちにとって、「尊皇攘夷」と「朝鮮(アジア)侵略」とは、表裏一体のイデオロギーであった。そして、彼ら指導者たちに絶大な影響を与えたイデオローグ、それが吉田松陰であったことも常識である。


 吉田松陰は『幽囚録』の中で言う。
「朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」。

 また、『獄是帖』の中で言う。「魯墨〔ロシアとアメリカ〕講和一定、決然として我より是を破り信を戎狄に失ふべからず。但章程を厳にし信義を厚ふし、其間を以て国力を養ひ、取易き朝鮮・満州・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」。

 いずれも、露骨極まりない朝鮮(アジア)侵略の扇動である。

10
 姜在彦は、「尊皇攘夷」の実態は「尊皇征韓」であったとし、「攘夷」がいつの間にか「征韓」にすり替えられた論理の不思議を指摘するのであるが(『朝鮮の攘夷と開化』)、それはすり替えられたのではない。

11
 他のアジア諸国と同じく、洋夷の脅威にさらされた日本も、どうしても開国の必要があった。しかし、民族のアイデンティティーを守りつつ(攘夷)、どうやって開国するか。これが問題であった。しかし、必要は発明の母である。攘夷と開化という相矛盾するものを止揚する論理、それが「洋夷に対抗するに、洋夷のごとくなせ」という侵略の論理であった。1863年薩英戦争、1864年四国下関砲撃事件の体験を待つまでもなく、朝鮮(アジア)侵略を以って洋夷に対抗するというのが、「攘夷」の初めからの方法論にほかならなかったのである。

12
 日本は、朝鮮を侵略し続けることによって、攘夷=民族のアイデンティティーを保ち続けることが保証された。朝鮮侵略は民族のアイデンティティーを守るための必要不可欠の条件だったのである。かくして、日本では攘夷が開国への道を開いてくれた。

 民族のアイデンティティーを保つための消極的なイデオロギーが「攘夷」だとすれば、積極的なそれは「尊皇」である。ここに、「尊皇攘夷」が明治維新革命の道を開いたのであった。

13 《国学》

 朝鮮侵略を露骨に扇動する吉田松陰の言説の背景に、国学運動のあったことを忘れてはならない。

 徳川幕藩体制の屋台骨が揺るぎだすとともに、体制イデオロギーであった朱子学に対抗して、その批判として洋学と国学とが興った。

 僧契沖(『万葉代匠考』)→荷田春満→賀茂真淵→本居宣長(『古事記伝』)というこの流れは、古典研究に科学的方法を開き、発展させ、大成するものであったが、外来文化(儒教・仏教)に染まる以前の日本民族固有の精神すなわち「古道」を究めんとしたところに、時代の雰囲気を濃厚に反映していたと言える。

 特に、平田篤胤の古道観は神道的・国粋的色彩を強くし、尊皇攘夷運動の理論的根拠とされた。(これと吉田松陰との思想的類同については未学習)

14
 要は、皇道イデオロギーの聖典が『古事記』と『日本書紀』であったことがわかれば足りる。

 ところで、『古事記』・『日本書紀』とは何であったのか。異民族を侵略し、そして異民族を支配する聖典である。これを聖典とする皇道イデオロギーが侵略論を初めから内包していることは明らかである。

 皇道思想とは、夷狄掃滅を動機づけられたイデオロギーにほかならない。逆から言えば、それは征伐すべき「夷狄」の存在を前提として初めて自己の存在理由が証明されるイデオロギーである。

15
 不思議でならないのは、彼らが『古事記』・『日本書紀』を読んでも、侵略される側に立ってみようとしないのはもちろん、天孫族の謀略の卑劣さを悲しもうともしないことである。彼らは「いわゆる天孫族による日本原住民の征服を、歴史の第一次的前提として確認する。この既成事実は、疑問や批判、吟味を受けつけない絶対的原理である」(太田竜『日本原住民史序説』)。

16
 日本原住民は征服者=天孫族によって歴史の闇の中に封殺されてしまった。その封印を解かないかぎり、「我々」の民族意識はいつも皇道イデオロギーの枠組みからついに抜け出すことはできないであろう。





学習ノート2安重根

1 《伊藤博文暗殺》

 1909年10月26日午前9時、日本の筆頭元老である枢密院議長伊藤博文は長春からの夜行列車によって随員とともにハルピン駅につき、ロシア帝国大蔵大臣ココフツェーフの出迎えをサロン車中で受け、挨拶をおえて、プラットフォームに降り、ロシア軍守備隊の儀仗兵を閲兵して、各国領事団の前を握手をかわしながら過ぎ、閲兵をおえて日本人歓迎者たちの方にもどりはじめたとき、軍隊の後方から近づいた「斬髪洋装の青年」の発射するピストルの弾丸を浴びせられた。背広の上着に半オーバーをかさね、ハンチングをかぶっていたこの男が安重根であり、銃撃を見てロシア軍将校がかれに飛びつき押したおしたが、安重根は組み伏せられながら、「コリア・ウラー」(韓国万歳を意味するロシア語)とさけんだ。後に調べられたところによれば、かれはブローニング八連銃を所持して、その七発が発射されていたが、そのうち三発が伊藤に命中して致命傷をあたえ、残りの四発は随行していた中村是公満鉄総裁の身体をかすり、貴族院議員室田義文の外套とズボンとを貫通し、左手小指に擦過傷をあたえ、川上俊彦総領事の腕と肩、森泰二郎(槐南)秘書官の腕、および田中清次郎満鉄理事の足にあたり、それぞれ軽傷をあたえた。

 銃撃をうけた伊藤は満鉄総裁中村是公、室田義文、古谷久綱などにかかえられて列車内に運ばれ、随員医師小山善および居留民団より派遣された医師森矯の応急手当を受けたが、小山のすすめるブランデーを呑み、加害者が韓国人であることを聞くと、「バカな奴じゃ」と語り、二杯目のブランデーを要求してさらに呑んだが、三杯目はすでに飲む力がなく、間もなく顔色が蒼白にかわり、9時30分に着弾後、30分たった午前十時に絶命した。(中野泰雄『安重根』)


 「バカな奴じゃ」とつぶやいた伊藤の胸中には、一個のテロによって歴史の流れを変えようとするテロの幻想性に対する侮蔑の心が働いたのか、それとも、侵略者の思い上がりからテロに対する報復の残虐さを見越していたのか。


 当時の日本人の「逆上ぶり」が書き留められている。「公を殺した韓国人の肉体をくれれば刀でめちゃめちゃに切り刻んでやりたい」「この学校に在学する朝鮮人学生をぶちのめせ」――知性の府の一つである六高の学生の発言である。(出隆の日記による)

4 《伊藤博文》

 長州藩出身。吉田松陰に直接師事した一人である。

 71年、岩倉具視遣外使節団の副使。73年の政変によって土肥勢力を排除、大久保利通の死後は内務卿として地歩を固め、明治14年の政変で大隈重信を追放して最高指導者となる。明治憲法体制確立の立役者。85年、初代の総理大臣・枢密院議長を務め、その後三度内閣を組織する。〔第一次内閣、保安条例で自由民権運動弾圧。第二次内閣、日清戦争を遂行。閔妃暗殺もこの期間。〕1903年、元老として日露戦争の指導にあたり、日露戦争後、戦勝国日本は米・英の支持を後ろ盾に保護条約の調印を強要した。


 1905年11月17日、伊藤は朝鮮政府の大臣一人一人に賛否を詰問した。

 「何時マデ愚図愚図考ヘテ居タツテ埓ノアク話デハナシ 唯今皇帝カラ余ニ各大臣ト議セヨトノ勅ヲ賜ハツタカラ一人一人ニツキ反対カ賛成カノ意見ヲ訊クカラ明答セラレタイ第一ニ参政大臣ノ意見ハ」
 スルト韓圭 参政大臣ハ泣キ相ニナツテ絶対反対ダト云ツタ
 「然ウカ」
ト伊藤候ハ韓圭 ト書イタ上ニ×印ヲツケル
 「御次ハ」
 御次ハ朴斉純外務大臣デアル 絶対反対デハナイカラ賛成ノ部ニ入レラレテ〇印其後ガ閔泳綺度支部大臣デアル 反対ノ×印 爾後ハ種々条件ヤ文句ガアツタガ結局全部賛成ノ〇印デ直ニ此旨ハ闕下ニ執奏セラレタ
 突然韓参政大臣ガ声ヲ揚ゲテ哀号シダシ遂ニ別室ニ連レ出サレタ 此時伊藤候ハ他ヲ顧ミテ
 「余リ駄々ヲ捏ネル様ダツタラ殺ツテシマヘ」ト大キナ声デ囁イタ 然ルニ愈々御裁可ガ出テ調印ノ段トナツテモ参政大臣ハ依然トシテ姿ヲ見セナイ ソコデ誰カガ之ヲ訝ルト伊藤候ハ呟ク様ニ「殺ツタノダロウ」ト澄マシテイル 列席ノ閣僚中ニハ日本語ヲ解スル者ガ二三人居テ之ヲ聞クト忽チ其隣ヘ其隣ヘト此事ヲ囁キ伝ヘテ調印ハ難ナクバタバタト終ツテシマツタ(『韓末外交秘話』西四辻公堯)

 条約によって日本は朝鮮に統監府を設置、伊藤が初代統監としてソウルに着任し、朝鮮の内政全般を左右することとなった。


 11月20日、『皇城新聞』は社長張志淵みずから筆を執り、「是日也放声大哭」と題する論説を載せ、その末尾に曰く、「ああ、痛恨の至りなり、忿懣の極みなり。わが二千万同胞よ、生きてありや、はた死せるなりや。檀箕以来四千年、沸沸と流れ来たりし国民精神は一夜にして亡びたるなり哉、痛なる哉、恨なる哉、同胞よ、同胞よ。」

7 《支配層の抵抗》

  侍従武官長閔泳煥        諌死
  元議政大臣(首相)趙秉世    諌死
  法部主事安秉          諌死
  宋秉濬             自決
  前参判洪万植          自決
  学部主事李相哲         自決
  駐英公使李漢応         憤死


 国王李煕(高宗)も抵抗の姿勢を崩さず、1907年、保護条約の不当を第2回万国平和会議に訴えようとしたが(ハーグ密使事件)失敗、その責任を取って廃位に追い込まれた。さらに日本は第三次日韓協約を強要、軍隊を解散させた。

9 《民衆の抵抗》

 このような情勢のもと、安重根は教育による民族独立運動を断念、ウラジオストックにのがれて義兵活動に入る。義兵は失敗したが、同志十二人を得、薬指を切ってその血で大極旗に大韓独立と大書し、独立万歳を三唱して国のために身命を賭することを天地に誓ったという〔獄中にあって薬指を切断、その血を以って数々揮毫したとするY女史の説明は誤りである〕。

 武装反日の義兵闘争は頂点に達し、日本当局の発表に限っても、1907年から8年にかけての交戦回数1770回を数えている。義兵の活動対象は対日協力者の処断、地方官庁や巡査駐在所、日本兵駐屯地、日本商家に及び、その激烈さは、例えば1907年7月から1908年5月までの対日協力者一進会の会員の死者9千2百余を出している。

10 《啓蒙派民族主義者》

 安重根は、「伊藤博文罪悪十五箇条」に言う。

1)韓国閔皇后弑殺の罪
2)韓国皇帝廃位の罪
3)勒定五条約(乙巳保護条約)と七条約(第三次日韓協約)の罪
4)無辜の韓人虐殺の罪
5)政権勒奪の罪
6)鉄道、鉱山と山林川沢川勒奪の罪
7)第一銀行券紙幣勒用の罪
8)軍隊解散の罪
9)教育妨害の罪
10)韓人外国遊学禁止の罪
11)教科書押収焼火の罪
12)韓人欲して日本保護を受くと云々して世界を誣罔するの罪
13)現在、日韓間に競争やまず、殺戮絶えず、韓国太平無事の様を以て、上天皇を欺くの罪
14)東洋平和破壊の罪
15)日本天皇陛下の父たる太上皇帝(孝明天皇)弑殺の罪

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 この15か条を通して、啓蒙派民族主義者としての安重根の思想の枠組み(限界性)が読み取れよう。安重根には、朝鮮王室(閔妃派)が朝鮮の民衆運動をいかに弾圧したかの認識が欠落しているのみならず、それはまさに侵略者日本に対しても当てはめられ、天皇の責任性を不問に付す。悪いのはすべて「君側の奸臣」であって、これさえ取り除けばすべては丸くおさまるというわけである。このことは彼の最終陳述に明確に表されている。

 「私が伊藤公爵を殺したのは、公爵がおれば東洋の平和を乱し、日本と韓国との間を疎隔するので、韓国の義兵中将として殺したのです。そして、私は日韓ますます親密になって、平和に治まったならば、ひいては五大州にもその範を示すことを希望していました。……だから今、伊藤公爵がその施政方針を誤っていたことを日本天皇陛下が聞こしめされたら、必ず私を嘉せらるると思います。今後は、日本天皇陛下の聖旨にしたがい、韓国に対する施政方針を改善せられたならば、日韓間の平和は万世に維持せらるべく、私はそれを希望しています」(中野泰雄『安重根』)

 「日本天皇の聖旨」とは、日清戦争の宣戦の詔勅中の「東洋の平和」「韓国の独立」のための戦争という言葉をさす。そして、安重根は、日露戦争の宣戦の詔勅も同じと考えていたが、実際は「東洋の平和」は「東洋の治安」に、「韓国の独立」は「韓国の保全」に書き換えられ、詔勅の中に帝国主義的侵略の意図が明確に示されていることを彼は見落としていた。

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 安重根は、暗殺5か月後の1910年3月26日(28日?)、旅順において処刑、32歳。さらにその5か月後、1910年8月22日、「韓国併合に関する条約」が陸軍大臣=朝鮮統監寺内正毅と韓国内閣総理大臣李完用との間に調印され、「韓国」の名は世界地図から消えた。

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 南山公園の安重根義士記念館は1970年ソウル市民の募金によって建てられたという。記念碑の「民族正気の殿堂」は朴正煕大統領の筆になるという。
 朝鮮の市民たちのナショナリズムが、安重根を民族の英雄・義士として嵩敬するのは当然である。しかし、支配者=権力者がその熱狂の炎に油を注ぐような真似をするときには、彼らがそこに何を見ているかをよく吟味しなければならない。朴正煕、この男は植民地本国=日本の陸軍学校に学び、中尉?にまでなっていた男である。

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 来年度から、日本の中学校の社会の教科書に、伊藤博文暗殺の項に初めて安重根が取り上げられ、「韓国では愛国者として尊敬されている」との説明が加えられるという。この併記は何を意味するのか。安重根が御国のために殺ったように、伊藤も御国のためにやったのだと、伊藤を免罪する役割しか果たさない。事実の枚挙など、何も教えないのと等しいということを、日本の歴史の教師どもによくよく言っておきたい。





学習ノート3三・一独立運動


 国家は滅びても民族は滅びず。朝鮮民衆の根強い抵抗に直面した日本は、大部隊の直線的討伐を、村落単位の憲兵駐屯方式に改めて、小地域の密集的占領によって義兵の活動を封じ込めようとした。後に、提岩里のような小さな村が憲兵隊の蛮行にさらされたのも、「憲兵警察」という総督府の警察機構のなせる業であり、このような水も漏らさぬ強権的な支配網を敷いて初めて、植民地支配は辛うじて保たれていたのである。


 1918年、第一次世界大戦の終了と前後して、民族自決の機運は世界的趨勢にあった。これを受けて、1919年、東京留学生の「二・八独立宣言」は、植民地朝鮮の独立運動家たちを勇気づけた。そして、1919年1月21日、徳寿宮に幽閉されていた高宗の急死(毒殺説あり)。3月3日が葬儀と決定。反日・民族独立の機運は最高潮に達した。

 一切の集会・結社が禁止された中で、合法的団体として宗教教団と教育機関があった。したがって、宗教家・学生がその組織網を使って独立運動の中核を担うことになった。特に天道教は東学以来の民族的性格を強く帯びていた。この天道教指導者が中心となり、それまで独自に運動を進めていた基督教・仏教指導者を糾合して、独立宣言の発表にこぎつけた。宣言書に名を連ねた人々の内訳は、天道教15名、基督教16名、仏教2名、合計33名である。

 1919年、3月1日、彼らは仁寺洞の明月館支店泰華館に集合、午後2時を期して独立宣言を朗読し、祝杯をあげ、既に包囲していた日本官憲に自ら逮捕された。

 一方、パゴダ公園には市内中等学校以上の学生および一般市民が十年ぶりに太極旗を手に続々と集合、金元璧、康基徳ら専門学校の学生指導者によって宣言が朗読され、「大韓独立万歳」の声は天地を揺るがした。この後、教員・学生らの先導によって市街への示威行動を開始、かくして三・一独立運動は朝鮮全土に波及した。


 三・一独立運動は、「一人の英雄的な指導者によって象徴されるような質のものではない。多くの無名の人々の、もちこたえてきた独立への意志が、ひとつに合流した民衆運動であった」(梶村秀樹『朝鮮史』)

4 《堤岩里の虐殺》

 水原郡での運動は3月1日の竜頭閣市場に集まった群衆の万歳高唱に始まり、3月下旬から4月上旬にかけて毎日のように万歳示威と面事務所・警官駐在所・郵便局・金融組合事務所などへの襲撃を展開した。郷南面においても、3月21日発安場の市日を利用して一千余名の示威が行われ、日本軍警との衝突があったが、雨汀面花樹里の警官駐在所が襲われて日本人巡査一人が殺された報復として、4月15日、日本軍警察はわずか三十数戸の小さな村、同面提巌里に襲いかかった。


 朴殷植『朝鮮独立運動の血史』は次のように記している。

 四月十五日午後、日本軍の一中尉(有田俊夫――朴慶植『朝鮮三・一独立運動』による)の指揮する一隊が、水原郡南方の堤巌里に出現、村民に対して諭示訓戒すると称して、キリスト教徒と天道教徒三十余名を教会に集合させた。そして、窓やドアをきつくしめ、兵隊がいっせい射撃を開始した。堂内にいたある婦人が、その抱いていた幼児を窓の外にだし、「わたしはいま死んでもよいが、この子の命は助けてください」と言った。日本兵は、子ども頭を突き刺して殺した。

 堂内の人々が全員ほとんど死傷した頃、兵士は教会に放火した。洪某氏は、負傷したまま窓からとびだしたが、日本兵はこれを射殺した。康某の妻は、布団にくるまって墻下にかくれたが、日本兵は同女を銃剣で突き刺し、布団むしにして火をつけた。

 また洪氏の婦人は、消火にきて射殺されたが、母親についてきた幼児二名もまた殺された。また、ある若い婦人は、その夫をたすけにきて殺された。こうして、教会のなかで死んだ者は二十二名、教会の構内で死んだ者六人となった。死体は焼却された。

 また日本兵は、 巌里の民家三十一戸に放火したが、火は八面十五村落三百十七戸に延焼し、死者は三十九人に達した。


 この事件は日本でも認めているし(注)、御用新聞『セウル・プレス』も社説で、この事件は一言も弁解の余地がないと言っている(山辺健太郎『日本統治下の朝 鮮』)。

 (注)陸軍省『朝鮮騒擾経過概要』に曰く、
 「当時来著セル発安城守備隊長ハ現況ニ鑑ミ暴動ノ主謀者ヲ剿滅スルノ必要ヲ認メ四月十五日部下ヲ率ヒテ提岩里ニ到リ主謀者ト認メタル耶蘇教徒、天道教徒ラヲ集メ二〇余名ヲ殺傷シ村落ノ大部分ヲ焼棄セリ」。

7 《朝鮮のジャンヌ・ダルク》

 4月1日午後1時、天安郡並川市場においても三千の群衆が独立宣言を朗読、万歳を高唱して示威を展開した。これに対して憲兵隊が機関銃を乱射したため死亡19、負傷者30名以上にのぼった。

 この並川の示威運動の指導者の一人が、ソウルから独立宣言を持ち帰っていた梨花学堂の学生柳寛順(16歳)であった。彼女の両親は同日の並川での闘争で日本憲兵に殺され、彼女は両親に代わって闘って逮捕された。彼女は獄中でも独立万歳を叫び続け、法廷では「我々にはお前たちに刑罰を与える権利はあっても、お前たちには我々を裁判するどんな権利も名分もない」として裁判を拒否し、日本人検事に「朝鮮人が何の独立か」と侮辱され、それに抗議したため、懲役三年の刑が七年の刑となり、拷問と栄養失調によって翌年10月、17歳で獄死した。


 細かな事実がどうであるかよりも、民衆がどのように語り伝えているかの方が大事である。虐殺されていった無名の一人ひとりが、民衆の生み出した「英雄」にほかならなかった。こういう英雄を「民衆」は連綿と語り伝え、新たな闘争の跳躍台を形成していったのである。

9 《虐殺と信仰》

 その後堤巌里は「イエスを信じて滅びた村」と呼ばれるようになり、キリスト者は夫を失い息子を失ったばかりか、非キリスト者の村人たちに辛い負い目を負った。……遺族のほとんどは教会に姿を見せなくなってしまった。羊は散らされたのである(マルコ福音書一四・二七)。

 しかし、……すべてのものがくずれ落ち、信仰すらふるわれ、ゆらぎ、崩壊するなかで、神は奇蹟的にただ一人、最愛の夫を失った若き農婦に明確な信仰を堅持せしめ、悲劇と信仰の証人たらしめた。……
 …… 夫や息子たちがとじこめられた教会堂が燃えあがり銃撃されるのを息をひそめて隠れ見ていた女たちがいた。そのうちの一人、当時二十三歳で夫を失った田同禮さんは、泣きながら夫を求めて教会の庭にやってきた十九歳の女性が首を斬られるのを見た。また、数日後、カナダ人の宣教師と共に、焼け跡に二十一人の黒こげの遺骸が離し難く一塊になっているのを見た。……堤巌の苦難の証人、田同禮さんはその祈りを継承し九十二歳の今日まで、七十年間毎日、あの午後二時になると教会にやってきて祈り続けてきた。(小笠原亮一)

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 「田同禮の祈りがよくわからない」と言ったとき、小笠原氏は、「それは信仰がないからだ」と答えた。「それでは、信仰がある者にはわかるのか」と訊き返したら、「いや、信仰があってもわからない者もいる」と、やや苦しげに答えた。

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 朴慶植『朝鮮三・一独立運動』の「あとがき」から。

1)たしか1973年8月の日本テレビの「終戦」記念番組で、「水原虐殺事件の遺族の年老いた女性」が「当時の残虐行為にたいし、怒りをこめてせつせつと語る姿」が映し出されたと言う。

2)その映像を見ながら、何年か前に新聞で読んだことを思い出したと言う。「水原の提巌里教会で夫が日本の憲兵警察によって殺され、その後二十数年間、寡婦としていつかはその怨みをはらすべく生きつづけた朝鮮女性の一人が八・一五解放を迎え、やっと怨みをはらすときがきたと、その警官をさがしだそうとしたが、民族の解放、独立の歓喜に浸り復讐をやめ、許す気持になったというのである」

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 私には、これらの女性の怨念の方が、田同禮老女の祈りよりもよくわかる。これらの女性は、田同禮老女に重なるのか否か。

 重なると私は考える。田同禮老女には「恨」があった。それは、二十数年にして「復讐をやめ、許す気持になったという」程度のものではなかったのではないか。

 死者は、もはや死んでしまったのだから、ゆるすことはできない。無念さが残るのみである。生き残った者が、死者に代わってゆるすとかゆるさぬとか、それは僣越と言うべきである。とするなら、ゆるすとかゆるさぬとかは、神の業である。

 ここまでは信仰がなくてもわかる。

 「父よ、彼らをおゆるしください」……この祈りは、裏を返せば、「彼ら」の罪を指弾することにほかならない。この祈りがつづけられるかぎり、「彼ら」の罪は(神の前にはもちろん、祈る者の前からも)消えることがない。自分の夫が虐殺された午後二時、七十有余年にわたって毎日祈り続けたという田同禮老女の「恨」のすさまじさをこそ我々は見るべきではないのか。愛の神はもと怒りの神であったはずである。

 そして、「不法と苦しみと悲しみに満ちた破れた関係を、……克服し新しい命の関係を打ち立て」るというのは、それ自体がひとつの奇蹟であって、信仰のない者には、おそらく、窺い知ることのできぬ領域なのであろう。

13 《檄》

 三・一独立運動の過程で、日本人に向けても数多くの檄文が出された。次のものは「朝鮮民族大同団」の檄文の一節である。

 「嗚呼人生ノ同志タル日本国民ヨ、苟クモ人類的良心アリ新国民タル知能アラバ宜シク反省セヨ、前非ヲ確立セヨ、新見ヲ目捷ニ迫ル東洋ノ惨禍ヲ如何ニセン、夢寐ノ間ニ滅亡ヲ致ス日本ノ禍機ヲ如何ニセン、冀クハ無謀ナル政府ノ罪悪的政策ニ盲従セズ国民的自覚ノ卓見ヲ神聖ニセヨ」

 しかし、このような檄に呼応する動きは、残念ながら、日本の国内にはどこにも(在日朝鮮人労働者によるもの以外は)なかった。

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 新聞は、独立運動を一部少数の天道教徒・基督教徒・あるいは外国人宣教師の扇動によるものとし、運動に参加した朝鮮人民を「暴徒」「犯人」と呼び、その蜂起を「暴民の警察署襲撃」「憲兵惨殺」「巡査虐殺」「内地人商店に暴行」「無関係な内地人男女まで殺害」などと誇大に報道、その徹底的弾圧を主張した。

 独立運動に最も同情的な論評を展開したと言われる吉野作造でさえ、植民地支配の武断的方法に対する批判が主眼であって、それ以上のものではなかったと言える。

 吉野の主張はこうである。
 ――個々の国家ないし民族(吉野作造においてはこの両者の異同は必ずしも明確ではない)は、その「特殊的の立場」を排して、「最高の正義の実現の為に努力」しなければならない。この理想を掲げて邁進しているのが、さしあたり日本である。「朝鮮統治の理想は、日鮮両民族の実質的最高原理に於ての提携でなければならない」。この原理のもとにおいてのみ「融合」が可能なのであって、「ただ日本に反対するの故を以て彼等を罵倒し、日本臣民としての法律上の義務違反ということだけで彼等を責めるのでは、真に心から彼等を日本の統治に伏せしむることは出来ない」のである。

 何のことはない。吉野の言っているのは、日本を盟主とする大亜細亜主義・大東亜主義にほかならない。

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 キリスト者も朝鮮支配政策に賛同・協力した者が多かった中で、柏木義円は、朝鮮人民の「民族的自覚を持して将来独立の理想を抱懐」することを妨げないとし、「朝鮮の民族意識の自覚でも、独立の精神でも皆之を容れ、民族や国家を超越したもつと大きなものに容れて融合したら如何であらう。……直に朝鮮民族のためになるならば何時でも独立を認容すると云ふ大きな心で統治したならば、必らず其統治に服して反つて独立など為す必要を感ぜぬであらふ」とした。

 「最高の正義」「大きな心」の立場からみれば、「独立」だの「民族意識」だの卑小のかぎりである。そんなもののために命を捨てる者など、愚かと言うほかない。さればこそ、彼らは、「御真影」の前で頭を下げるか下げぬかなどという卑小なことに、キリスト者としての命を賭けるはずもなかったのである。

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 その点、当時の為政者たちは問題の本質をよく見抜いていたと言わなければならない。司法省刊行の『思想研究資料』に言う。

 「ある宗教を「信仰」することは、絶対力に対する憧憬であり、故に「信仰」が純粋に個人の内部意思の表白に止る限り、それは宗教の「主観的要素」であるから放任してよい。しかし「儀式」は絶対力への憧憬を実現する手段であるから、これは国家の宗教政策の対象となるものである」

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 「日本のキリスト者のなかでもっとも反権力的」(朴慶植『朝鮮三・一独立運動』)だとされる植村正久、鈴木高志らの日本基督教会の思想については未学習。
 1910年の段階において、「朝鮮は神が日本国民に、「祖先たちに与えん」と誓われしもの。ゆえに、これを併有する権利あるなり。……。国民的親権者たるの本分を果たし、人類の進歩に貢献せざるべからず」(植村正久)と言っていた者の反権力性とはいかなるものか、大いに興味が湧く。

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 観念的批判のもつ欺瞞性は、三・一独立運動に心からの共感を寄せた柳宗悦にも見受けられる。
 彼は、「日本に対する朝鮮の反感を、極めて自然な結果に過ぎぬ」としながらも、しかし「人間の心に活ききつ」た「若い精神的な日本」が現れて、「朝鮮と日本との間に心からの友情が交される時」がくると言う。そのために日本が努力しなければならないのは勿論であるが、「貴方がたも血を流す道によって革命を起こして被下つてはいけない」と馬脚をあらわすのである。


終わりに

 「最高の正義の実現の為に努力」しなければならない(吉野作造)としながら、そこには日本による統治が暗黙のうちに大前提とされていた。そこに大亜細亜主義・大東亜主義の陥穽を見ることができる。ところが、これと同じ論理構造を、我々は最近のPKO法案の議論の中に見ることができるのである。アジアを国際連合とし、日本をアメリおよびその他数か国とすれば、見事な対応関係を見出すことができよう。そして第二次世界大戦において一敗地にまみれた日本は、再びその仲間入りをしようと躍起となっている。平和とは、誰にとっての、どんな平和なのかを我々は問い直すべきであろう。

 ところで、近代国民国家の形成において、民族意識はその不可欠の要素であった。しかるに現在、「国家」と「民族」とはその矛盾を露呈し、泥沼のような状況を呈している。

 国家には、中央集権化を求める求心的方向と、その権力の適用範囲を広げようとする拡張的方向との二方向の力学が働いている。民族もまた、その純粋性を求める求心的方向と、同族・同類性を求める拡張的方向との二方向の力学が働いている。したがって、この二つの似て非なるものが、安定した状態に達することはないのが当然と言えるかもしれない。

 振り返って「日本」をみたとき、その安定ぶりは世界に類をみない。それは「日本」が、日本の為政者が言うように、「単一民族国家」であるからだろうか。それとも、日本の中の異民族を圧殺・抹殺・封殺しさった結果の国家であるからだろうか。

 日本の大学で英語を教えている英国人の教師が、あるとき学生に質問したと言う。「英国は多くの民族から成る多民族国家ですが、日本はどうですか」と。アイヌ人の存在を指摘した学生が一人。もう一人の学生は、〃日本には在日朝鮮人がいるが、彼らは日本人ではない。沖縄人も日本人ではない〃と答えたと言う。そして残りの学生は、日本人は単一民族だと答えたと言う。日本の教育はどうなっているのかと、その英国人教師が驚いていた。

 教えて意味のありそうなことを何も教えようとはしない日本の教育に何か不気味なものを感じつつ、私は今、民族ないし民族意識というものにすこぶる興味がある。そして、民族意識や国家意識などという狭い枠を超克したつもりになった者たちが、みごとにその罠に絡めとられてゆく事実を想うとき、「民族」は小さな問題でも古くさい問題でもない。まさしく人類の未来を預言する問題ではないのか。この問題を私は今後の学習課題としてゆきたい。
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