石原さんに遂に一度もお目にかかれなかった。愚かな私は夫人が恢復されたら、ゆっくりお訪ねして兄の手紙をお見せし、また私の知らない兄の姿を聞かせていただこうと考えていた。まことに<膝を置き手を置き最敬礼して>遂にお会いできなかった石原さんへの感謝の念いはつきない。
兄の死も全く唐突ではあったけれど、今思えばどこかで計画され約束されていた気配がひそやかに聞こえてくる感がする。帰国した日から日記のように詳細な手紙を書き、一年三ヶ月の間に写真を四回も撮っている。私と二人で、就職のため一人で、妻と二人で、妻の両親も加えて四人で、そして部屋をきれいに整理して朝日ののぼるころ死を迎えた。
石原さんは帰国後二十五年間ひとすじに詩を書きつづけられた。シベリヤの極限に耐えぬいて帰ってきてくださった二人の生涯を、雨夜の星のように大切に思う。
五十三年三月
乳幼児期の私は病気ばかりしていたので、母の手中に入りっぱなしであったが、それ以後は、”兄という磁場”で生きてきたように思う。死後二十三年の今日未だにそこから出られないというのは、私の未分化性を表していることに他ならないと思っているが、兄の手紙を読み返したついでに、二十余年間を振り返ってみよう。
小学校五、六年ころの兄は”天神さん”のニックネームがあった。いつも勉強していたからだと思うが、当時としてはまだ珍しい野球チームがあって、一、二年生の私たちが下校するとき、校庭の向こうで練習している兄たちの姿を見た。一中へ入って新しい帽子をかぶった兄を見る母の顔がどんなに輝いていたか。今思えば母にとって兄は”生き甲斐”そのものであり、将来に一切の夢を託していたのだろう。
兄が中学四年、私が小学六年の十一月、それまで一ヶ月くらい腹痛で弱っていた母が、腸チフスであったことが判って入院した。あまり丈夫な人であったため、かえって医者の誤診を招いて、手遅れになり、容態は悪くなるばかりだった。
家に母がいないのは、淋しいというより、わけのわからない大事件であった。そういう一日の夕、兄は私を連れて本屋へ行き、「浜田広介編世界童話全集」を買ってくれた。私はその中の”ワイルドの幸福な王子”が好きで、泣きながら何度も読んだ。翌昭和九年正月三日、母は死んだ。
兄は成績抜群、殊に英語が優れ、四年終了の時点で三高を受験するよう奨められていたが、母の死で家の中は落ち着かないまま、月日は流れ、結局五年卒業をして京都の古い商家の長男としてのしきたりに従い、家業を継ぐため薬専へ行くことになった。無試験で入り、特待生となった。兄の書棚は、日に日に増えて行き、私は本の題名とその著者名を覚えるのが遊びの一つになった。兄のニックネームは”ガンジー”に変わった。
家のすぐ近所の「カニヤ」という書店でエスペラント語のサークルが開かれていて、兄は熱心に出席していた。私は幼児の口真似よろしく、「ジョージョーンコレゴイ、ジュムユナイエスタスー」と歌って大笑いした。そのサークルに南禅寺の故柴山全慶師が居られて、兄はときおり師をお訪ねしていた。一方、薬専の聖書研究会にも属していて、賀川豊彦、岩橋武夫等の講演会に私を連れて行った。私はそれがきっかけとなってH教会へ通うことになり、後年受洗した。
兄が卒論準備にかかるころから、樹脂採集のため近郊の山へ出かけることがよくあったが、私はいつも荷物持ちに雇われ、お駄賃として行きがけにおやつを買ってもらうことで満足していた。何とも幼稚な話だが、夏休みの宿題の昆虫採集等は、はなから兄に任せっきりで、九月に先生から提出を催促されると、「まだ兄ちゃんがしてくれへんのです」と返答して一喝され、級友の爆笑を招いたりした。兄が親しい交わりを得ていた薬専や一中の先生方のお宅へ伺うときも、たいてい私もいっしょであった。
卒業後、大阪堂島の高橋盛大堂薬局へ勤めた。住み込みで、つまり家業見習いである。その夏、お中元の挨拶に行く父といっしょに訪れた。兄の居室で私は「洗濯どうしてんの?」と聞いたが、「この間ここの娘さんから云われたんや。『鹿野さん、声はキレイけどシーツ汚いな』て」。大笑いした。やがて徴兵検査、入営と慌ただしく月日は流れ、伏見歩兵聯隊へ入った兄は、初年兵教育期間中、”スリッパびんた”を受けたらしい。やがて自分が教育係になったとき、断固”スリッパびんた”をやらなかったので、覚悟を決めていた初年兵達から”お姫さん”と呼ばれたそうだ。話しながら苦笑していたのを覚えている。そのころ、足にひどい腫れ物ができ、蜂窩織炎と診断され、許可を受けて休養していたとき、上官に理由を聞かれ、その旨告げると、「きちんと理屈に合ったことを云う奴は嫌いじゃ」と怒鳴られたと、面白そうに話して聞かせたことがあった。
幹部候補生の志願をするのかと思っていたら、露語教育隊が出来て、奈良へ移った。奈良教育隊終了の際のお別れスピーチのテーマとして私のことを取り上げたら、白系露人の講師が、「美しい兄妹物語を聞いた」と涙ぐんだと兄は言っていたが、どのような話だったのか。今もときおり私は考えてみる。続いて東京教育隊へ移ってから、兄から手紙もよく来たし、私もまたよく出した。そのころ、私は家計が相当苦しいのを知った。じっさいはずっと以前から逼迫していたらしい。女学校卒業後、まったく無為に過ごしていた私は小遣いがなくて、兄の誕生日に簡単なメロディーと歌詞を葉書に記してプレゼントとした。たいへん喜んだ兄は、私の誕生日に本を送ると言ってきたので、私は当時流行の藤村詩集を希望したけれど、「羽仁五郎のミケランジェロ」が送られてきた。きっと兄は藤村の詩を好まなかったのであろう。
昭和十六年夏、いよいよ外地へ発った。お別れの休暇で帰郷したとき、夜、床に入ってから、本部要員として内地残留の機会があったのだが、外地へ征くことにしたと聞かされた。ハルピンからはときおり便りも来たし、中支戦線では、死者が増大していたし、兄の任地をむしろ安全圏に近いと喜ばしく思うこともあった。
十七年、矢継ぎ早に電報が届いて、現地除隊に引き続き、彼地で就職することに決めた。京都もすでに商売はほとんど出来なくなりつつあったし、集団で満州へ移住する人々の話を聞いたりする状態であった。東安省立防疫所の技手となり、省立病院の薬局も手伝い、現地医師養成所のロシヤ語講師ともなった。
その年の夏。わずかの休暇を得て帰京した。くつろぐ時もなく、任地へ戻ったが、大きなトランクに本がぎっしり詰まって、あまり重いので、スパイの疑いをかけられたと話していた。
女学校卒業後、四年目に私はかねてから憧れていた聖和女子学院の社会事業学部に入った。奨学金制度の適用を受け、寮費は兄が毎月電報為替で送ってきてくれた。私は霧に閉じこめられていた船がやっと方向を探し当てて出帆したような気持ちだった。ミッションスクールは軍部の弾圧が厳しく、外人の先生方はすでに全部帰国された後で、”軍人勅諭”国体の本義が修身の教科書になっていた。しかし保母養成ということで徴用令の除外になっていたため、徴用のがれの女の子たちが集まって、自由な面白さが漂っていた。新約のT先生は兄の薬専時代の聖書研究会の先生であり、私は何かとお世話になったし、旧約のW先生は、後年、私が現在の北白川教会に転会し、また共助会に属する機縁となった方である。
再び東安と京都に電報の往復が続き、兄は十一月三日、省立病院看護婦で新潟県出身のSさんと結婚した。
翌十二年二十二日、父が急死した。心臓麻痺であった。兄の結婚写真を待ちわびていたが、それも間に合わなかった。密葬をすませて兄夫婦の帰国を待ったが、遺体をそのままで待っていてほしかったと、兄は怒りをこめて泣いた。葬儀後、兄は私といっしょに学校まで来てくれたが、岡田山の芒ケ原を登りつめると、親しい友人らが駆けだしてきて、私ども二人を迎えてくれた風景が、三十五年後の今日、妙に鮮やかに生きている。父は少年のような純情さと、無気力非現実的なものを持った人だったので、生前から商売の実質は義叔父の手で運ばれていたから、実生活上の変化は別になかった。
しかし戦争が激化し、学校の弾圧はいよいよ厳しく、私のいる学部は閉鎖されて保育学部に合流することになった。”父の死”の上に重ねるように起こってくる問題に、私は勉強する意欲を失い、兄に相談すると、「こっちへ来なさい」との返答であった。そのころ、兄はもう東安を去って、千振開拓団に入植していたが、出産後間もない義姉と小さな甥は、東安に残って春を待っていた。私はすぐに決心して釜山航路の切符が入手できないため、敦賀から情津へ上陸することになり、兄と連絡をとった。しかし防諜がやかましくて、出航の日時を正確に知らせることは出来ず、「八ひテンキヨシ」とkの電文だったように記憶している。
十九年十一月八日、敦賀を出た。牡丹江駅まで兄が迎えに来ることに決まってはいたが、汽車の到着日時はまったくわからなかった。海は猛烈に時化、船員にさえ酔った者が出るくらいで、生きた心地はなかった。いろんな人が乗り合わせていたが、ほとんど内地へ用件をたしに行き、今、外の自宅へ戻る人々で、初めて一人で渡る私には皆親切を尽くしてくれた。情津に近づくと、防諜に関する注意が伝達されたが、上陸すると、漁師のような服装の男が、私に船の出航した時刻と場所を尋ねた。私は小学生のように「忘れました」とだけ言って、必死に駅へ急いだ。さいわい二人の若い婦人と道連れになって、牡丹江行の汽車に乗ることができた。その女性たちが下車した後は、牡丹江の部隊へ帰営するという憲兵と同席して種々助けられた。
兄とうまく会えるかとの不安にずっと怯えてきたが、船や汽車で知り合った人々もそれには皆言葉を濁した。一寸先も見えない不安の中に牡丹江駅に降り立つと、改札口にシューバを着た兄が立っていた。さすがに兄も驚き、三日くらいは毎日駅へ通うことを覚悟していたと話し、喜んだ。その夜はロシヤ料理のレストランで食事をしてホテルに入った。長い長い緊張から解かれて、夢を見ているような私に、兄は云った。「一回ハルピンへ連れて行ってやる。秋晴れの日にな」と。これは一年後に、予定外の状況の中で実現することになった。
義姉と小さな甥は、結婚当初に入った官舎にいた。都心から徒歩一時間くらいの地点にある高台で、向陽台と呼んだ。父となった兄を見るのは私にとってなかなか興味があったが、ごくありふれた親馬鹿で、生後一ヶ月半くらいの小さな赤ん坊に遊んでもらっていた。私の勤務先として兄は在満国民学校と放送局に依頼をしておいてくれたが、私は学校を選んだ。兄は開拓地へ帰り、私は向陽台はあまりに遠いので、学校に近い東安省立病院院長の家に住んで、翌年早々から勤務についた。
「知らんほど強いものはない」というが、まったく当時の私はそうであった。殊に”大陸事情”という科目に至っては、教師用教科書以外の知識は皆無であった。
春まだ浅い寒さの中を、義姉たちは迎えに来た兄と千振へ赴いた。
七月の終わりに、”ロシヤ兵蹴上げ戦術”の講習会があった。当時でもさすがに苦笑を隠しながら行われた。
八月九日早暁、ソ連機の襲来で、平常より早く出勤したまま、二度と家に帰れなかった。学校は民間人の避難の集結地となり、職員も最終列車に乗ることになった。が、発車直前に大爆発が起こって、皆山中へ逃れた。後で聞いたところでは、逃走にそなえて日本軍隊が点火したのだということである。憲兵隊もすでに空き家で、御真影を背負った校長は、そのままの姿で歩き出した。国境地帯で戦って敗れて後退してきたという血みどろの兵隊の乗った戦車が続々やってきた。トラックも後退してきた。民間人は乗せないと云っていたけれど、そのうち収容することになり、私たちも便乗した。牡丹江で戦争をするという最後の軍用列車にも乗った。民間人は私たち学校の女子職員だけであった。その列車もソ連の戦車に砲撃されて、全員山へ入った。自決した兵隊もたくさん見た。興安嶺山脈の中だったと思うが、ジャングル地帯を、夜、歩いた。
種々な経験はあったが、ともかく無事に生き延びて、九月一日、”海林収容所”へ入ることになった。女子収容所へ急ぐべく同僚と日暮れ近い野道を走っていた。山の中でちりぢりになって、二人きりだった。彼方から二、三人の男たちが来るので、戦闘帽を深くして急いだ。すれ違った男の中の一人が、何か叫びながら駆け戻ってくる。兄だった。「八月六日、最後の招集を受けて出てきたが、今、男子収容所へ行くところだ」と云う。つづけて、「青酸カリを持っているか」と怒ったみたいに云った。いっしょにいた方が、「お金をあげましょ。持って行きなさい」と、靴の中へ隠す方法を教えてくださった。それだけで別れた。
山中で別れた学校の同僚は皆先に到着していた。義姉たちの消息はわからなかった。兄のその後の様子もわからなかった。凍結期が近いので、”海林”にいた日本人全員は、”拉古”という地点の収容所に移った。元日本人の舎宅街でもあったのか、広大な面積に、屋根と外壁だけの建物が残っていて、東満地区からの避難民数万が集結していた。唯一の生活用水である河川に沿って毎日訪ね歩くと、三、四日で義姉たちの宿舎はわかった。甥の武彦はまだ生きていたが、ミイラ同様であった。やがて兄もこの近くの男子収容所にいて通訳をしているから、ときおり会いに来ると元気に話した。武彦は陽が沈むころから冷たくなってしまうので、義姉はふところに入れて夜中さすっていたが、四、五日経った暁方、もう体温は戻らなかった。九月二十六日であった。毎日数百人が死んで、広野は小さな土饅頭の墓地と化した。私は本当に火の玉を見た。暗い広野の果てを流れ飛ぶ火の玉を、私たちは拝んで送った。
日暮れ時になると、ロシヤ兵を待って高梁の陰などに日本の女が佇むようになった。あるとき偶然、兄が通りがかって猛然と怒鳴った。聞きつけたロシヤ兵が兄に銃口を突きつけ、大声で二人の応酬が続いたが、結局それだけで終わった。兄は、「俺は科学者だ」というと、あいつらおとなしくなると、静かに話した。最近腕時計をとられたときも、そう云ったら返してよこしたと云った。
しかしロシヤ兵を待つ日本女は増えるばかりだった。生の馬糧高梁が少しずつ配給になって、めいめい探し拾ってきた道具類で煮ていたが、彼女たちは人間らしい食物を得るために、人間を放棄せねばならなかった。その上、軍隊移動の際、射殺されたという話である。
結氷期が迫っているので、大隊を編成して南下を始めた。私は学校の仲間と別れて、兄たちといっしょに最後の隊に入った。十月初旬、空は本当によく晴れていた。ボロをまとった日本人の隊列が、その輝く青さの中をのろのろと延々と歩み去った。
ハルピンへ向かう汽車(貨車)は少し走ると停まり、ちょっと動いてまた停まるというようにして進んだ。この車中でも幼児が死んだ。なす術なく抱き続けている両親を説得して、兄はその父親とともに、停車中に埋葬をした。「子供を亡くすると、女親はとくに弱りますからね。奥さんを大事にしたげてくださいよ」と、兄は先輩らしく話していた。
ハルピンの花園小学校が東北各地からの難民の無料収容所であった。凄惨をきわめた。かつては児童たちが駆け回ったであろう校庭は、夜昼の区別なしに日本婦人の悲鳴が響き、私は鬱病患者のように、臭気たちこめるコンクリート床にうずくまったまま、外を見ることもしなかった。
兄と奈良教育隊時代から千振開拓団までずっといっしょに歩んだHさんが先にハルピンに出てきて居られて、そのお世話で私たちは、南崗にある天満ホテルというところへ移った。ここは有料収容所であるが、三人いっしょだから、仕事さえ見つかれば生活はできると、明るい気分になった。東安を出て以来初めての畳と布団の味であった。そこには小学塾が開かれていて、幸運にも私はさっそく仕事を得ることもできた。山中で死んだ兵隊さんからいただいた(正確には掠奪した)軍服をまとっていた私は、すでに整列している子供たちに待ってもらって、従来のハルピン在住者たちが供出してくださった洋服に着替えて、新任の挨拶をした。難民委員会に出て、奥地に閉じこめられている人々の救出活動に従事している兄は無報酬であるから、毎朝「はい、今日の新聞代、昼食代」等とふざけて大得意であった。
ハルピンの晩秋には、晴れ渡った青空から、グラニュー糖のような粉雪が、風に乗ってサラサラと舞い降りてくる日がある。兄はそのような時をひどく愛して、外に出て顔に粉雪を受けた。いっしょにバザールを歩いたこともあった。「庶民の生活意欲が溢れてるやろ。ええな」と云った。
この地には兄の友人・知人が多数息を潜めるようにして生活されていた。一夕、満服にサングラスの方が、日本酒一本をさげてこられた。数時間を楽しく過ごして行かれたことがあったが、その後、婦人と子供さんもいっしょに自決されたと聞いた。要職にあられた方であったらしい。元ハルピン特務機関Y氏夫人のM子さんが訪ねてくださったのは、十二月下旬だったろうか。何とも美しい優雅な方で、高価なシューバを着てもの静かに話される姿を、私は幽玄の世界のように感じた。無一物の私どもは、その後も長く親切な援助をいただいた。そのY夫人は石原さんが連行拉致されたことを伝えて帰られた。ちょうどHさんも見えていて、兄と二人、いつまでも石原さんのことを話し合っていた。勝手のわかった知人の多いこの土地で越冬するのがよいか、前途に不安はあっても、ハルピンを早く離れる方がかえって安全か。全くの無一物である私どもは前者を選んだ。
寒さが加わるにつれて発疹チフスが流行し、小学塾は一時閉鎖された。天満ホテルでも患者は続出したが、肺炎を併発した一人を除いて、皆恢復したので、いくらか安心をしたころ、私は発病して、しかも肺炎になった。体温計の端っこまで水銀が上がって、本当は何度あるのかわからないような高熱が二週間も続いて、熱には強い私もさすがに呼吸が苦しく、もう終わりかなと感じていた。私が意識不明と思っているのか、兄と義姉が、私の死を予想して話し合っているのを黙って聞いていた。戸外の雪は固く氷になっているので、それで冷やしてもらっていたが、「あめゆきとてきてけんじや」と、私は宮沢賢治を思っていた。恢復してからそれを話したら、兄も同様であった笑っていた。どういう理由かわからないが、ともかく私はそのうち解熱し始めて治ったのである。
天満ホテルには多数の家族が入っていたが、その主人たちが集団で働きに行っての帰途、いっせいに拉致連行されるという事件が起きた。収容所長は奥さん方と釈放要求に行ったが、話が通じなくてだめであった。それで兄に依頼に来られた。兄は自分は危険を予想できる立場の人間であることと、自分が出かけるとかえって皆の立場もまずくなるとしきりに断ったが、奥さん方の涙に抗しきれず、とうとう引き受けて、コメンダツーラへ出かけた。交渉は成功して全員そろって帰宅の途についたが、「かのさん、かのさん」と呼びとめられ、人違いと言い張ったが、相手は特務機関時代の顔見知りの白系露人で、「その美しい発音をする日本人はかのさんに違いない。よく覚えてます」と言ったそうである。
釈放された人々から事情を聞いて義姉と私は食事を運んだ。私は病後初めての外出であった。地下の留置所に聞こえよとばかり、大声で話した。その翌朝、見知らぬ男の人が隠れるようにして、「昨夜いっしょに泊められた者ですが、鉛筆がほしいと言ってられましたよ」と伝言を持って立ち寄ってくださった。私たちは空瓶にお茶を入れて、小さな鉛筆を紙でぐるぐる巻きにしたもので栓をした。なお、おにぎりの中へも入れておいた。兄から、”心配するな。こんなご馳走を作ってこなくてもよい。お前たちが食べなさい。内地へはできるだけ早く帰りなさい”と書かれていた。
次の食事を届けて、先の分の空いた器を持ち帰るのだが、わずかに残っているものを見ると、かえっていかにも兄が食べたことの証のように思われて、私どもは慰め合った。翌々日、露軍兵は両手を広げたジェスチュアで、そのコメンダツーラから移動したことを示した。天満ホテルまでの距離が何十倍にも感じられた。押し黙ってとぼとぼ足を引きずって帰った。
一家の男が拉致された家々を嗅ぎつけては金品を詐欺して歩く新商売があることを、まだ知らなかった私どもは、危うくひっかかるところであったが、おりよくHさんがこられて、その難から逃れた。義姉は故郷の山林を売って内地へ帰ってから借金を返済するから、今この地で借金しようと考えたのだった。
兄は消え去ったが、春は訪れた。スンガリーには、日本人の死体が解氷して浮かんでいるとしきりに噂された。義姉は露軍と交替して進駐してきた八呂軍に看護婦として徴用された。私はまた小学塾に出ていたが、六月半ばころから授業中黒板に書く姿勢を、どうしようもないほど辛く感じるようになった。三十八度を越える発熱もあり、右肋骨のあたりに激痛があって、全然食欲を失った。地段街の難民診療所に行けば、東安病院の方が残ってられるかもしれないと出かけていったけれど、すでに南下された後だった。
私の病気は湿性肋膜炎であった。私はふいに”捨てばち”に襲われ、一切を投げ出してしまいたくなった。「無一物で鎖骨のあたりまで水の溜まったこの肺を抱えて一人で京都まで帰れるものか」とブツブツ自分と問答しながら、フラフラ歩いた。中央寺院は日本の敗戦も関わりなく、みずみずしい緑の中に寂として清潔であった。だがすぐ傍らの路上にはもんぺ姿の日本婦人の死体が転がり、口許に蝿がたかっていた。明日の我が身とも思い、一方こうなってはならないとも思った。今年の秋で日本人引き揚げは終了すると言われていた。路上では立ち売りの店が並んでいて、私は「芭蕉の野ざらし紀行」を見つけた。改造文庫のなつかしい小さい本であった。買って帰り、床の中で終日読んだ。
毎日寝て過ごしていた七月のある日、収容所長と、かつて拉致されて釈放された人の奥さんが来訪されて、多額の現金を差し出され、「あのとき大勢の男たちの身代わりになっていただいたお兄さんへの感謝の気持ちです。お世話になった者が自由に出したのですから、遠慮なく使ってください」ということで、私は困っていたときでもあるし、ありがたくいただいた。そのかわり、”捨てばち”から立ち上がらねばならない義務ができた。義姉もいつ帰国できるかわからないし、どうしても私が日本に帰って兄夫婦と武彦の消息を伝えなければと、自重するようになった。
九月一日、引き揚げの大隊に編成された二千名近い者は、全員天満ホテルから白梅小学校に集結した。六日の早朝から夕刻まで、地下壕に積まれていた日本人屍体の搬出を見送った。数台の荷馬車に満載してどこかへ運び去り、幾度も繰り返された。作業に従事している人は、長い柄のついた鈎で魚を扱うより、材木を扱うよりもっと荒々しく引っかけては、壕から引っ張り出して荷台に積んだ。底になっていたものはすっかり腐乱してボタボタ雫が落ちていた。姓名も性別も遺族もまったく問題でなかった。
同室にいた一人が昼間街で買って食べた切り売りの水瓜が原因でコレラを発病した。すさまじい吐瀉が続いて、みるみる脱水し、土色に変色して萎んでいった。大隊付きの医者は見に来て、われわれ全員に固く口止めを要請しただけで立ち去った。私たちはそれを守って、見殺しを実行した。コレラ患者発生との通報をすれば、全員の足止めは必定であり、今年中に引き揚げられぬとあれば、この隊の何分の一が越冬に耐えられるか。
「水、水」というかぼそい声を後に、私は手製のリュックを背負って立ち上がり、出発した。
一歩進めば日本が近づき、兄が生きているであろうシベリヤからは遠のいた。”人間とは何なのか”。昨日終日見た死体、今朝のコレラの人。心は鉛を呑みこんだようだけれど、足は必死で急いだ。シベリヤへ送られるラスコリニコフに添って歩いたソーニャをふと思った。売春婦ソーニャのやさしさと純情を。ハルピン駅ではわれわれのほかに多数の棺桶を積んだ。その数のあまり多いのに驚いたが、無蓋貨車で一夜雨に打たれるごとに、棺桶は役立った。
八呂軍から国府軍に移管されるときが危険だと聞かされていたが、強行軍が体にこたえただけで、軍隊からは何の威圧も受けなかった。
十日間にわたる胡廬島の無為な生活は人皆のエゴを露出させ、他人の悪口を言うことにのみ精を出した。敗戦後結婚した若夫婦の初子がここで生まれた。医師の資格で大隊副隊長になっている医大の学生が、別れた恋人への思いを夜遅くまで綿々と訴えつづけた。”人間とは何なのか”。またしても喉元に問いがこみあげたが、そのまま凝固してしまった。
平安丸の船室に落ち着いて、「ご苦労様でした、お帰りなさい。内地は今年は豊作です」と言われたとき、私は素直に涙が溢れつづけた。
領海を離れ暫くして、私は“水葬”の儀式に参席した。海中に落とした柩の周辺を幾旋回して後、鎮魂と告別を表すあの汽笛の哀愁の深さは、今なお私の裡にしまわれている。
十月十七日深夜、京都に着いた。迎えに来てくれた義叔父や従兄弟たちと歩いて帰った。河原町通が少しも変わってないので、かえって妙な具合であった。義姉は一週間も前に帰国して、実家で元気にしていると聞いて、何よりも安堵した。暁方近くまで兄のこと、武彦のことを話して、私が帰る日のためにとっておいたという白米のおかゆを食べて、生まれ育った家の畳の上に布団をきちんと敷いて寝た。
※ ※ ※
二十四年、赤十字が手がけたのか、俘虜郵便というのがシベリヤから届いた。まぎれもなく兄の筆跡であったが、“自分の帰国をあまり期待しないで、それぞれの道を定めて進むように“との意味が簡単に書かれ、余白に般若心経が一面に記してあった。何かしら暗い予感がして、息苦しいような思いであった。今思えば、起訴され囚人となったときのものであったのか。翌年帰国帰郷する途次消息を伝えたいという方に京都駅で面会し、その後さらに丁寧な手紙をいただいた〔手紙:小花要三から鹿野登美宛〕。「或るひどいブラーンの朝、ポケットのほころびから眼鏡を落とされた鹿野さんは、その後気力が衰えたようだった……」「体力の衰えた鹿野さんは軽作業についていたが、トラックの運転手に頼まれてその回数を言われるまま水増ししてやった。そして報酬を受けとった。『どうしたらいいだろう。自分はこんなことをしてしまった』と鹿野さんは掌の貨幣を見せた。鹿野さんの目から涙が流れた。僕は驚いた。こんな人があるのか。当たり前のことをしただけなのに。……」との内容であった。私にはたいへん辛いものだった。
二十六年、偶然本屋で『語られざる真実』〔菅季治遺稿集、昭和25年8月、筑摩書房刊〕を見つけた。新聞で“菅季治”の名前を覚えていたから取り出し開いてみると、<エスペラント入門>という章があって、京都薬専出のKと出ていた。私は瞬間息を止めたほどの衝撃だった。すぐ求めて帰り、私は誰彼を掴まえては、「ちょっと、ちょっと、これ兄ちゃんのことと思わへん?」と言って、見せた。「ガランとした食堂に広がるKの澄んだ声……」。私にはその状景がはっきり見えた。
二十八年十一月二十九日の夜更け、ラジオがこんど入港する興安丸の乗船者名簿を読み上げていた。京都と新潟の部に神経を集中していた。「カノブ一カノブ一」とまさしく言った。当時、私は長島愛生園の保育所に勤めていたが、もしやと思って休暇をとって帰京していたのだ。三十日の夜、舞鶴に着いた。毛布にくるまって朝を待つ間、同じ喜びを前にした見知らぬ者同士、一つ家族のように睦まじく過ごした。
上陸が始まったらしい桟橋は人垣のため見えないけれど、なるべく早く会おうと私はそちらの方向へ進んだ。同じ服装の人たちが一列になって定間隔をとって歩いてこられた。
「あっ」一瞬信じかねた。あまりに固く閉ざされた頬が、土色であったから。しかし、「兄ちゃん」とぶつかって行くと、驚いて立ち止まり、頬はゆるみ血色は戻った。新聞記者やカメラマンが集まってきて、私たちは何度もポーズをとらされた。義姉親戚も見つけて駆け寄ってきた。兄は、「こんなに皆が来てくれるて思ってなかった」と言った。どうしてこんなことを言うのか、私は不思議だった。義姉は黙ったまま泣いていた。
頭の包帯の横から紫色の瞼や頬の覗いている人のことを尋ねると、声をひそめて、「後で話したげる。すごかったんやぜ」と言った。私は、菅さんの『語られざる真実』を出して見せた。菅さんの自殺に大きいショックを受けたけれど、エスペラント語入門の章を見ると、「うん、うん」とうなずきながら、いまだ鮮やかな記憶を反芻しているふうであった。十年前日本に帰ったときのことを思ってだろう。私に純綿のハンカチーフをお土産としてくれた。現在の私の宝物の一つである。
私は長島の勤務に戻り、兄は京都と新潟で数日あて過ごして後、私のところへ来てくれた。岡山駅前からバス乗り場までの道順があまりわかりやすくて、かえって物足りなかったそうだ。「ちょっとくらい迷子になって、人にきく方が感じ出るのにな」と笑った。落ち着いて穏やかで、何の違和感もなく、ほんの暫く自分の意志で旅行してきた人のようだった。私の仕事仲間たちも、特異な人から特殊な話を聞けるかと思っていたのに、あまり普通すぎてせっかくの楽しみを失ったというふうであった。
翌日は岡山の街を歩いた。建築中の現場を通ると、「おー」と云って立ち止まり、暫く見つめていた。「ようやったなぁ」と感慨深げであった。写真屋を通りかかると、急に「いっしょにとろう」と先に入っていった。映画館前で「樋口一葉のたけくらべにごりえ」の看板を見ると、暫く考えてから、「見ようや」と言うので入った。にごりえの最終の自害のシーンを、「すごかったなぁ」とひどくこたえたような云い方をした。シベリヤでの無惨な話を私は遂に一つも聞かなかった。伐採の話しにしても、兄はあちらの鋸のことばかり言うので、私は危険について尋ねると、やっと死体のねじきれたルーマニヤ人のことを話した。ソ軍担当官から収容所に対する要求を聞かれたとき、周辺に桜の木を植えてくれと答えた話を、非常に楽しい思い出のように語った。ソ側は「苗木を探したが、どうしても入手できないので、ちょっと待ってくれ、必ず努力する」と答えたそうだ。ただ、そのときの兄があまり楽しげであったので、私の記憶はいつの間にか桜の木が希望通り植えられたということに傾いてしまったのだが、はたしてどちらであったろう。もし後者なら、今年の春もシベリヤのどこかで桜並木が美しいはずである。そのころ、バリトンのゲルハルト・ヒッシュが来日していて、そのポスターを見て、日本の変化と、自分の不在の期間を改めて感じたふうであった。中華料理店に入って、肉を食べながら、私は今までとあまり急激な変化に注意をしてほしい、恐いからと言ったが、口に入れかけた肉片を、「やっぱりやめとこ。恐いし」と恥ずかしそうに笑いながら手を下ろした姿が、今も私は忘れられなくて困る。
もういつでも会えるのだということに満足して、私は特別何かを聞き出そうとも告げようとも考えなかった。「疲れるからもう一晩泊まっていったら」と私は言ったが、「会いたい人がたくさんあるし、あちこち泊まり泊まりしながら帰るから」と言って岡山を発った。それが永久の別れであった。
灯を
兄さま
いましばらく灯をください
この先は一本道で
さして遠くはないでしょう
しかし 花が咲いても
木の葉がちっても
浮き沈みする
はしたない私
兄さま
いましばらく灯を消さないで