title.gifBarbaroi!
back.gif闇の土蜘蛛


それまでの野次馬



万里長征シテ未ダ還ラズ





 昭和44年1月2日――昭和44年というのは、みんなの生まれる1年ないし2年前のことですね。1月2日というのは、皇居で一般参賀、つまり天皇陛下に対してわれわれ国民が新年おめでとうございますの挨拶をしに行く一般参賀というのが毎年おこなわれている日です。

 ところで、この昭和44年というのは、それまでとはちょっと違った意味があるのですね。というのは、それまでの6年間、あの一般参賀は中断されていたのです。なぜ中断されていたかというと、あの天皇の住んでおられる宮殿は長和殿と呼ばれるそうですが、あの建物の修築工事が総工費約130億円をかけて、6年の歳月を費やして、やっと出来あがって、それのまあ一般披露かつ祝賀という意味もあった、その一般参賀が昭和44年1月2日だったわけです。

 午前10時ごろ、新しい宮殿「長和殿」のあのバルコニーに――その当時、あのバルコニーにはまだ防弾ガラスは入っていなかったのですが――130億円をかけてまぶしいバルコニーに天皇が立たれました。そして約1万5000人ほどの参賀客の「万歳」の声におこたえになっていた。その時、一人の男がですね、ゴムパチンコ――みんなゴムパチンコというのを知っていますね、こう二又になっていて、ここのところにゴムバンドをつけて、玉をぱっと飛ばすやつですけれども――そのゴムパチンコでパチンコ玉を天皇陛下めがけて撃ったやつがいたのです。その男は、バルコニーでにこやかに手を振っておられた天皇陛下めがけてパチンコ玉を三発たて続けに撃ち、さらに、「ヤマザキ、天皇を撃て!」と大きな声で叫びながらもう一発撃ったのです。

 玉はどれも天皇には当たらず、バルコニーのすそかくし――あの菊の紋章のあるところに当たっただけでしたが、その男はすぐに捕りおさえられました。まあ、捕りおさえられたというのは新聞の報道で、本人に言わせると、わけがわからずぽかんとしとった皇宮警察官に「さあ、行きましょう」と言って、その警察官の手首を引ぱって詰め所に自分で連れて行ったと言ってますけれども。この男の名前は、前科一犯、奥崎謙三、48歳。48歳にもなった男がパチンコ玉で「ひと」を撃った、なんて言うと何かバカみたいですけれども、なぜそんなバカみたいなことをしたかと言うと、これには非常に長い、彼の人生そのものと言ってよいようないきさつがあったのです。

 奥崎謙三は兵庫県明石市で生まれ、家が貧しかったために小学校を出たあとは転々と住み込み店員などをした後、バッテリー商会に入って仕事も定着しかかったころ、20歳の時に戦争に駆り出されました。初め中国戦線に送り込まれたあと、敗戦の色が濃くなった昭和18年、南洋はニューギニア戦線に駆りたてられて行ったのでした。奥崎謙三は工兵として送り込まれました。工兵というのは、道路をつくったり、橋を架けたり、飛行場をつくったり、そういうふうなことをする兵隊です。

 この工兵として送り込まれたのですけれども、みんなも知っているとおり、南洋の戦場に送り込まれた兵隊たちは、誰もかれもが非常に悲惨なめにあったわけですが、特にニューギニア戦線に送り込まれた兵士たちはそうでした。彼らは、アメリカ軍の艦砲射撃によって、一平方メートルあたり約数トンの砲弾を打ち込まれたと言われる。それぐらいの激しい攻撃を受けました。一平方メートルですから、爆弾を一発打ち込まれたらそれでおしまいですね。そこに何トンもの爆弾を打ち込まれたのです。生き残れる方が奇蹟と言わなければなりません。そして、奇蹟的に生き残った兵隊たちは、島に上陸してきたアメリカ兵によって、今度は機銃掃射を受ける。さらにそれを生きのびても、あとに待っているのは、飢えと、あのニューギニアのジャングルと、マラリアだったのです。

 敵の機銃掃射に逃げまどい、飢えに倒れ、マラリアに冒され、どんどん死んでく。しかも、日本兵はしょせん侵略者ですから、原住民の反撃によって死んで行く者もいる。そして発狂する者 ……食べるものがないという極限状況の中で、最後には、日本兵の最大の敵は日本兵であるという、日本兵が日本兵の肉を食うという、人間の肉を食べるということまで起こったと報告されています。それぐらい悲惨な戦場であったわけです。

 例えば、奥崎謙三が所属していたのは独立第三十六連隊と言います。これは1000名あまりの部隊だったそうですけれども、生き残って日本に帰ってきたのは、奥崎謙三を含めてわずかに6名にすぎなかったということです。ここに居る皆さんの中で、わずか3名しか生き残れない、それぐらいの人命が南方の戦場ではうしなわれていったのです。

 そういう状況の中で、ニューギニアのジャングルの中をはいずり回りながら、奥崎は考えた。

 なんで俺はこんな所で、こんな惨めな死に方をしなくてはならないのか。次々と戦友たちは死んでゆきます。発狂してゆきよる。そんな中で、なぜ、自分たちは南洋のジャングルの中で、泥にまみれ、飢え、気が狂い、うじむしの餌になって朽ち果ててゆかなくてはならないのか。

 そんな疑問が、だんだん怒りとなってふくれあがってゆく。ところがその奥崎も、最後にはとうとう敵の銃弾を三発浴びて、もう身動きができなくなった。あと一発だけとどめの弾を撃ってもらおうとしたところが、アメリカ兵は彼を捕虜にしてしまった。そういう偶然がいくつも重なって、奥崎は、1000人あまりの兵隊たちの中で、わずか6名の生き残りの一人として、日本に帰って来たわけです。

 日本に帰ってきたけれども、さしあたり、明日からの暮らしをどうにかしなくてはならない。……これは『羅生門』に出てきた表現でしたね――明日からの暮らしを何とかしなくてはいかんというので、奥崎謙三は神戸で、戦争に駆り出される前の経験をいかして、「サン電池工業所」というバッテリー会社をつくりました。

 そして店も順調に発展してきたので移転でもしようとした時に、悪徳不動店業者に――たちの悪い不動産業者にひっかかってしまった。その時に奥崎は、その悪徳不動産業者に、そんなえぐいことやめとけ、もうちょっと人の道をわきまえたらどうやと、説教をしに行こうと思った。だけで、まあ説教しただけで聴くような相手ではないやろから、まあちょっと痛い目にあわせて、ほんでまあ、二、三年刑務所でも入って来ようかと、それぐらいのつもりでナイフを持って行った。

 ところが、相手は「へい、すんません」とは言わなんだわけです。奥崎謙三が持っていたナイフを突きつけたら、相手が抵抗してきて、もみあいになって、思わず知らず刺したら、相手が死んでしまった。それで殺人罪。これで10年間、大阪の刑務所にくらいこみました。これが前科一犯。

 この10年の間に、奥崎謙三はさっき言った自分の過去をずっとふりかえったわけです。 …… なんで俺はこんな情けない生活をせないかんのか。何が一体問題なのや。

 いろいろ考えた結果、思い当たったのは、自分たちをその南方の戦場に送りこんで、ほとんど皆殺しにした、その責任者は誰か。その最高責任者は天皇や。天皇の名前はヒロヒトと言いますけれども、天皇ヒロヒトが俺たちをこんな惨めな思いをさせる一番の張本人や。

 それやったら、あの南方で惨めに死んでいった兵士たちは、アメリカ兵と戦うのじゃなくて、ニューギニアから東京に向かって――皇居めがけて攻め上るべきやった。ところが、その戦友たちはみんな死んでしまっている。残っているのは俺だけや。それじゃ、無念の想いで死んでいった戦友たちに代わって、俺ひとりでも戦ってゆこう、と。そういうふうなことを考えたわけです。

 そして監獄を出てきた。監獄を出て来て、一般参賀が再開された昭和44年の1月2日、奥崎謙三は東京まで出かけて行きまして、そして天皇めがけてパチンコ玉を撃ったわけです。

 これはもう、みんなもわかるように、おそれ多くも天皇に対してそんなことをするなんて、これはもう気違い沙汰ですね。また、警察もマスコミも、気違い沙汰でかたづけたかった。天皇に向かってパチンコ玉を撃つなんて、まともな正気の日本人の考えられることではない、というふうに国民に受け取ってもらいたかったわけです。

 だから警察は、偏執性妄想狂の前科者の犯罪と発表し、マスコミもそのとおりに報道しました。事実、奥崎謙三は約2か月ほど精神病院にほうりこまれました。ところが、検査しても異常なところは何も認められない。それで裁判にかけられました。裁判にかけられて、今度は暴行罪で1年6か月の刑に服するわけです。

 考えてみたらちょっとおかしい話やと思うんですけれども、別に天皇陛下にパチンコ玉が当たったというわけではない。パチンコ玉で撃とうとしたら、それがちょっとバルコニーに当たっただけ。それで暴行罪で1年6か月。天皇は「普通の人間」ではなかったというわけです。

 で、まあ、これでこりたかと思ったら、ところが、その後ですね、数年たって、奥崎謙三は再び東京に現れました。東京に現れて、銀座やとか新宿に歩行者天国というのがあるそうですが、その歩行者天国のビルの上からビラをまきよった。そのビラというのが、わいせつ文書でね、要するに男と女がセックスやってる写真。その写真の顔の部分だけ切り抜いて、その顔の部分に皇族の写真を張りつけた。これを歩行者天国に集まった群衆の頭の上からばらまいたのですね。これ「わいせつ罪」。それでまたつかまりまして1年2か月。これで前科三犯。

 これでこりたかいなと思っていたところが、4年ほど前ですが、昭和57年の9月ですけれども、その当時、世の中を騒がせた田中角栄ね、もと総理、ロッキード裁判が今でも続いていますけれども、その「田中角栄を殺せ」という本を書いたそうです。この本を書いて、殺せと言っても、他人に殺せとは言わん、わしが殺しに行く、と本に書いた。これはもう殺人容疑ですね。それで警察に引っぱられました。これで前科四犯。

 その次の年、昭和58年です。だから、1年前のことですね。12月、この奥崎謙三は、衆議院ですね――今ちょうど選挙がまた始まりましたけれども、前回の衆議院選挙で、国会議員になろうとして兵庫一区から立候補したのです。

 立候補して、衆議院の選挙のパンフレットと言えば、普通は、どこそこの大学を出て、どういう会社の重役で、どういう会の役員をしていてと、いろんな肩書きを書きますね。奥崎謙三の肩書きはたった2行――小学校卒業、前科四犯。これだけなんですね。

 この肩書きで国会議員に立候補したんですね。選挙演説ももちろんやりました。ぼくはたまたまラジオを聞いていたら、あのラジオで今流していますね、あの選挙演説で奥崎謙三が出てきました。ぼくはそれを聞いて涙が出そうになったのですけれども、あのもう軍隊口調なんです。

 わたくし奥崎謙三は、命あってここまできたからには、なにがなんでも天皇ヒロヒトを倒すつもりです。しかし相手はあまりに強大で、自分はあまりに無力です。どうかわたしくしに力を与えてほしい――と、あの選挙演説で堂々とぶちあげているんです。

 何か、こう、40年前の日本軍の兵士がどんなものだったかは知りませんけれども、ニューギニア戦線に生き残った兵士が、何万、何十万という戦友の亡霊を引きずって、40年という時空を飛び超えて現れたような、そんな印象を受けました。ぼくは奥崎謙三の怨念のようなものを感じて、ラジオを通してではありますが、身体が震えるのを感じました。

 どうなることかと思っていたところが、12月15日、突如、新聞の第三面に大きな記事が二つ出ました。その日の新聞の半分、右半分には、野坂昭如を知っていますね、彼は、さっき言った田中角栄の向こうを張って、彼も立候補していたのですが、その彼が右翼の男に刺されかかったという、その記事です。そして新聞の左半分に、国会議員に立候補している奥崎謙三が、殺人未遂でつかまった、という記事です。これで前科五犯ですけれども。

 何をやったかというと、広島に出かけて行きまして、選挙戦の真っ最中ですよ、選挙をやっている真っ最中に広島に出かけて行きまして、もと自分の上官で、中隊長をしていたT某とか言うそうですけれども、その中隊長のところを訪ねて行きまして、戦争中、その中隊から脱走した者が二、三人いるらしい。その二、三人を、T某は軍法会議にもかけずに銃殺してしまった。それに対して奥崎謙三は、「責任をとれ。なんで軍法会議にかけなんだんや。かけずに勝手に殺したその責任をとれ」と言うて、相手のためにわざわざピストルまで用意してやって、これで自殺せえ言うて、ピストルを突きつけたそうです。

 最初は,そんなもん断られるに決まっていますね。二、三べんしつこく行ったところが、そのT某の息子さんがですね、警備員をしているそうですけれども、息子さんが、なんちゅう気違いおやじやというので、それをつまみ出そうとした。それで奥崎謙三は持っていたそのピストルで相手を撃ったわけです。それが相手の左胸に当たったんです。まあ急所は外れたんですけれども、だから殺人罪ではありませんけれども、殺人未遂でつかまった。これで前科五犯ですね。奥崎謙三は、今、年齢は65歳。

 ぼくはこの奥崎謙三をふとしたことから本で知りまして、その後、ずっと、今言ったような彼の活動をずっと追跡してきたわけです。いろんなことを考えさせられるんですけれども、いろんな問題があって、ぼく自身まだ整理しきれていないんですけれども、奥崎謙三を見ていてぼくが一番考えさせられるのは、体験というのは一体何やろか、ということです。奥崎が敗戦後40年間、それほどこだわり続けたもの――奥崎謙三に対してそれほどこだわり続けさせたものは一体何やろか、ということをいつも考えさせられるわけです。

 確かに奥崎謙三は異常な体験をしました。けれども、奥崎謙三の体験というのは、多くのその当時の日本人が体験したことでもあるはずです。奥崎謙三よりもさらに異常な体験をしている者もいくらでもいるはずです。

 ところがほとんどの日本人は、その体験を全部、こう、忘れ去ってしまうというか、口をぬぐってしらん顔をして生きているわけです。例えば、みんなも写真で見たことがあると思いますが、日本兵が中国に侵略して、中国の人たちを日本刀の試し斬りにし、首を斬って、その斬った首を片手に持って、わしが切ったんや、いうて記念写真を撮っている。そういう写真がありました。

 ああいう体験、ああいう異常な体験をしている者は何人も居るはずなんですね。だけど、そういう日本人が自分の行為を恥じて自殺したとも、毎日中国の方に向かって土下座して謝って暮らしているとも、聞いたことがない。彼らは、みんな口をぬぐって知らん顔をして、敗戦後40年間、のうのうと生きてきている。

 ところが奥崎謙三は、それにこだわったわけです。自分の体験というものにこだわり続けた。そのこだわり続けたことが、奥崎謙三をここまで追いつめるというか、ここまで熾烈な過激な生き方をさせたものやと思うのです。だから体験にこだわるということは、ぼくたちには非常に大事なことではなかろうか、と思うのです。

 この奥崎謙三の話をしようと思うきっかけになったのは、もちろん、前々回に佐伯先生が、天皇制批判をここでぶちあげましたけれども、あの佐伯先生のささやかな体験――小学校の時に植樹祭に引っぱり出されたおかげで英語の点数が取れなかったという、あの怨念が20年目にしてよみがえり、この前県民の森で、天皇陛下お手植えの樹とかいうのを目にしたとたんによみがえった、とおっしゃいましたが、体験というのはね、大きな体験とか異常な体験である必要はないのです。どんな小さな体験であろうとも、それにこだわり続けるという主体があって初めて意味を持ってくるものなのです。

 だから、ぼくたちは毎日体験を積み重ねています。この毎日の体験をたいていは見過ごしてしまっています。自分では気がつかないまま通り過ごしているわけなんですけれども、そこにこだわり続けた時、何か大きな本質的な問題というものに行き着くと思うのです。そういう意味で、ぼくたちがこの奥崎謙三から何かを学ぶとすれば、ぼくたちの毎日の体験の中に何か問題はないかと掘りさげてゆくことが大事なのだということ、そういうことではないかと思うのです。

 今、奥崎謙三はどうしているかというと 国会議員に立候補している者が殺人未遂事件を起こすなんて、こんなスキャンダルがありますか。ところが、あんなスキャンダルの好きなマスコミさえ完全に無視しています。彼を気違い扱いすることによって、菊の紋章には触れたくない、ということなのでしょう。

 奥崎謙三の経営する「サン電池工業所」は、神戸市にあるのですが、今は彼の奥さんが守っています。そして彼は今、広島の拘置所で「おつとめ」――これは奥さんの言葉なんですが――をしているそうです。第25回目の公判中ということです。

 おそらく奥崎謙三は生きて再びこの社会の日の目を見ることはないと思うんですけれども、彼の闘いの終末というか、死にざまというか、どういう終わり方をするのか、ぼくは見とどけていたいというふうに思います。

 それでは今日の話を終わっておきます。
                         (1986年6月24日)

[奥崎謙三]
1956年 傷害致死罪で懲役10年。
1966年 大阪刑務所を満期出所。
1969年 天皇に向けてパチンコ玉発射。懲役1年6か月。
1972年 『ヤマザキ、天皇を撃て!』三一書房(1987年、新泉社より再刊)
1976年 天皇ポルノ写真事件。
     『宇宙人の聖書』サン書店(1987年、新泉社より再刊)
1981年 『田中角栄を殺すために記す』サン書店
1983年 元中隊長村本政雄の長男に発砲。
1987年 殺人未遂で懲役12年の判決
     ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」上映。
     『ゆきゆきて「神軍」の思想』新泉社 1988年
     『非国民奥崎謙三は訴える!!!』新泉社 1996年
     『服役囚考』新泉社 1997年
1998年8月20日 府中刑務所出所。

 You Tubeで奥崎謙三の政見放送が見られる。「奥崎謙三 政見放送」


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