title.gifBarbaroi!
back.gif青い日に


それまでの野次馬



ゆく蛍






 この夏休み、IV年生の上田君が亡くなったことは、皆さんも知ってのとおりです。先日、彼の追悼文集というのができて、隣の席の先生が見ていたので、ぼくもちょっと読ませてもらいました。

 ぼくは追悼文集というのは大嫌いで、普通は読まないんですけれども、高校一年生のみんなが、友だちの死というのかな、自分と同世代の死というものを、どういうふうに受けとっているのかと思って、興味をひかれて読んでみました。その追悼文集のけちをつけると、さしさわりのある人もあると思いますので、今日は別の話をしようと思います。

 溺れて死ぬというのも大変ショッキングな話ですが、今から話をしようと思うのは、一、二のクラスでは既に話したんですけれども、冷蔵庫の中で凍死した先輩の話です。

 苗字はK。名前はリョウ。竜という字を書いてリョウと読む。名前はすこぶる威勢がいいんですけれども、体つきはぽっちゃりとして、眉毛もややさがり気味。性格までおっとりとした生徒でしたが、水泳の得意なやつでね。高校を卒業してから大学の水産学部に入って、自分の得意な水泳を生かしたわけです。大学を卒業しまして、みんなのよく知っている、あの〃かっぱえびせん〃のカルビーに就職しました。就職してすぐ、四月に就職して六月ですけれども、六月の末近く、ある下請け会社の冷蔵庫――かっぱえびせんですから、当然のことながら、エビが冷凍されているわけです――冷蔵庫の調子が悪いので見に来てくれと言われて、さっそく派遣されて行ったわけです。行ったところが、もう夜になってまして、会社はみんな帰ってしまった後です。社長がいたので、その社長に案内されて冷蔵庫の修理に入ったわけです。

冷蔵庫と言いましても、非常に大きな冷蔵庫です。そこに入ってその修理をしていたところ、どうしたわけか冷蔵庫の扉が閉まってしまったのです。大きな冷蔵庫ですから、内側に電話がついています。電話はついているのですが、さっき言いましたように、もう夜ですから会社の者はみんな帰っていませんし、案内してくれた社長もその時はもう居なかったそうです。夜の八時ごろです。誰もいないために電話は通じない。

それから、こういう大きな冷蔵庫の場合には、必ず中から手動で開けられるようになっていなくてはならない。これが法律で決められているそうです。ところが、運悪く、手動の装置が故障していて動かない。あるいは、K君自身がその装置の操作の仕方を知らなかった――これは会社側の言い分ですが――、とにかくK君は、かっぱえびせんのエビとともに、冷蔵庫の中に閉じ込められ、凍死してしまった。享年23歳。大学を卒業して、すぐに亡くなってしまいました。

 K君の葬式があり、ぼくも焼香に行きました。家は琵琶湖を見下ろす高台にあり……と言えば高級住宅地という印象を受けますが、要はだいぶ田舎ですね。焼香を終わりまして、棺桶が出るのを待っていました。家の前に田んぼがありまして、その日は六月の末ですから、真夏日の熱い太陽がじりじりと照りつけていました。非常に暑苦しい中、出棺をその田んぼの畔道で待っていたんです。田んぼにはおたまじゃくしが何匹かいまして、そのおたまじゃくしたちが、あの愛敬のある顔で、水面に浮いたりまた水底に沈んだりしながら、呼吸をしている。〃ああ、こんな小さな生きもんでも生きているのに、あいつは死んだんやなぁ〃というふうに、ぼくはやや感傷にふけっていたんです。

 その時、追悼文を読み上げる声が拡声器を通して聞こえてきました。非常に感極まった声で、
 〃K君よ、君が冷蔵庫に閉じ込められた時に、いったいどれほど苦しかったであろう。どれほど辛かったであろう。壁をかきむしったであろう。その時、君の胸に去来したものは何であったろうか。父を呼び、母の名を呼んだのではなかったか……。〃
 そういうふうに、非常に感極まった声で追悼文を読み上げました。こらえ切れなくなった遺族の嗚咽の声が拡声器を通して流れ、もちろん、参列者たちも思わず涙にくれました。

 ぼくは、拡声器を通していつまでも続く追悼文を聞きながら、グロテスクやと思いました。グロテスク、醜悪やという感じがしました。追悼文を読み上げている者が、微に入り、細をうがって、K君の最期を再現して見せようとすればするほど、それはK君の死を悼む気持ちから遠のいていってしまっている。にもかかわらず、それをK君を悼むとし、いわばK君の名を騙っているところに、どうしようもないグロテスクさを感じるのです。

 死者、死んだ人間を悼むというのは、非常に難しいことだと思うんです。ほとんど不可能に近いことではないのかと。

 なぜ出来ないかと言ったら、ぼくたちは死を体験することが出来ないからです。死んでしまったら、それでおしまいですから、死がどういうものかを知ることが出来ない。だから実感がわかない。死ぬということの実感が持てないわけです。実感が持てないためにどうするかというと、自分が死ぬ時のことを一生懸命考えるわけです。自分が死ぬ時、自分はどうするやろ。例えば、溺れて死ぬんやったら、息が詰まってさぞかし苦しいやろなぁ。お母さんの名前を呼ぶやろか、こんなことで死ぬなんてごっつう後悔するやろなぁ……と、いろいろ考えるわけです。

 そこでは、死んでいった人間の立場になって、死んだ人間の心を思いやって考えている――ように思うんですけれども、それは、死者のことをほんまに考えているのと違って、実は、自分が死ぬ時はさぞ苦しかろ、さぞつらかろうと、自分の苦しみ、想像した苦しみに自分で自分に同情しているにすぎないのと違うのか。つまり、死者の立場に立ってものを考えるなんてことは、本当はできないのと違うか。生きている者は、いつも生きた人間、生きている自分自身のことしか考えていないのと違うかと思うんです。こういう自己中心の考え方というか、自分中心にしかものを考えられないような感覚というのが、死を考える時、いつも、ぼくたちにつきまとっているように思うんです。

 例えば、さっき言ったK君は、花も実もある二十三歳で死にました。上田君はもっと若く、十六歳。〃悔やんでも悔やみきれない十六歳〃と、追悼文集にあります。悔やんでも悔やみきれない十六歳というのやったら、それなら、三十のおばさんや、四十のおっさんやったら、死んでもたいして悔やむこともないのかと、まぁ、へそ曲がりと言われるかもしれませんが、ついつい言いたくなってしまいます。ひとの死の哀しみとは、年齢の多少とは関係ないのと違いますか。

 また、こういう人も居る、〃君の分まで、ぼくは生きる〃と。死んだ人間が、自分の代わりに生きてくれと願ったはずはない。それを、そう願っているように想うのは、生きている者の単なる思い上がりでしょ。そんなものは、他人の生を横取りしている、横領罪ですよ。

 また、こういう人も居る、〃君の失敗を繰り返さないように、君の失敗に学んで生きてゆく〃と。学ぶか学ばないかは、そいつの勝手です。しかし、唯一たしかなことは、生きている者に向かって、池で泳いではいけないという教訓を垂れるために、死んだ者は死んだのでは決してないということ。

 ……このように、ぼくたちはいかにも死者のことを一生懸命考えているように思うけれども、実は、死者の立場に立ってものを考えるなんてことは、ほんとうは出来ていないのだという気がするんです。

 話は変わるんですけれども、広島に平和広場というのがありますね。あそこに原爆慰霊碑というのがあります。ぼくにとって、広島は足を踏み入れられない土地でした。皆さんも見たと思いますが、原爆の写真集があります。あの写真集に必ずといっていいほど取り上げられるのですが、爆心地近くで被爆し、完全に炭化した、つまり、真っ黒焦げになった少年の写真というのがありますね。中学生の時、あれを初めて見て、ぼくは死というものを思い知らされた気がします。〃そうか、これが死というものか〃と身ぶるいしました。それと同時に、広島はぼくにとって恐ろしくて足を踏み入れられない土地になってしまったのです。

 ずいぶん大人になってから、ある時、意を決して広島に出かけて行き、原爆記念館、資料館、その他いろいろ見てまわりました。その時の感想については、言いたいことが山ほどあるんですけれども、話が広がりすぎるので、今はやめておきます。

 とにかく、さっき言ったあの慰霊碑の前に立ちました。立って、ぼくはものすごい腹立たしさを感じました。慰霊碑には何と書いてあったか。「過ちは二度と繰り返しません。安らかに眠ってください」と書いてある。慰霊碑にそう書いてあるということは、知識としては知っていました。しかし、実際にこの眼で見て初めて、ぼくはものすごくむかつきました。あの慰霊碑は破壊すべきだ、爆弾を仕掛けてぶっ飛ばしてしまえと思うぐらい、腹立たしい気がしました。

 なぜかと言うと――、生き残ったやつが〃過ちは二度と繰り返しません〃と言うために、生き残った者にそう言わせるために、死んだ者は死んだのと違う。そうでしょ。過ちを繰り返すか、繰り返さないかは、生き残ったやつの勝手だ。そういう反省をさせるために、死んだ者は死んだのと違うでしょ。生き残ったやつが勝手に反省し、勝手に誓いを立てて、それで死んだ者が満足する、自分の死に納得するとでも思っているのだろうか。安らかに眠ってください?――なんで眠られるかと言うんです。

 ぼくがなぜこんなに憤ろしい気持ちになってしまったのか、自分でも不思議なくらいですが、どうも一冊の本が原因であったように、今にして思うんです。石原吉郎という詩人がいたんです。いたんですというのは、この詩人は自殺してしまって、今はいないんですけれども、この人は戦後、シベリアの抑留生活を体験した人です。みんなも聞いたと思いますけれども、シベリアというのは、多くの日本人たちが抑留されて、そこでたくさん死んでいきました。多くの死を見つめてきた詩人です。この詩人はエッセーも書いています。そのエッセーの中にこんな一文があったのです。

 死者にとって唯一の無念とは何か。死んだ人間にとって、たった一つの無念さとは何か。それは、生き残ったやつが今だ生きているという一事であるという文です。ぼくは今でも、これをどう解釈していいのかよくわからないでいるのですが、とにかくこの一文に出会た時に、鉄槌で頭をなぐられたような気になりました。そういう経験がありますので、さっき言った原爆慰霊碑――過ちは二度と繰り返しません――自分の死を過ちとして片づけられる、片づけるという、そういう生きた者の不遜さというか、思いあがりみたいなものをぼくは感じてしかたないのです。安らかに眠って下さい。眠られるはずがない。こんなものは死者に対する慰めでも何でもない。むしろ冒涜だと思うんです。

 ぼくが言いたいのは、ぼくたちはとかく死んだ人間の立場になってとか、いろいろ言いますけれども、本当は、むしろ、死者の立場には立ちえない、立つことは出来ないと断念をする必要があるのと違うか。その断念をした上で、死んだ人間のことを考えた時に、初めて、生きている者の側からではなく、死んだ人間の側から、つまり、多少なりとも死者の眼を通して、ものが見えてくるのではないか。その時、ぼくたちはかろうじて死者を悼むということが出来るにすぎないのだと思うんです。

 ぼくたちは、特にみんなはまだ十六歳ぐらい、生きることが精一杯というか、生の意欲に燃えていると思うんですけれど、死者が教えてくれるのは、自分も死ぬということですね。ぼくたちは人間は死ぬということはよく知っている。人間は死ぬけれど、自分が死ぬとは思っていないのですね。自分も死ぬんだという、〃お前も俺と同じように死ぬんだ〃ということを死者は教えている。教えてくれていると考えるべきだと思う。だから、自分は死ぬ、その生をどうやって生きるかという自分の生を、死の側から考えてみるべきやないかというふうに思います。

 先ほど言った追悼文集ですけれども、班ノートというのがあったらしいんですね。上田君は、最後に、6月27日づけで、班ノートを書いています。6月27日ですから、おそらく、まとまった形で上田君が書いた最後の文章だと思います。その文章は、こうです。

 「先生、ホタル飼おう。ホタル、ホタル、ホタル。高校に入って、何か残ることをしたいなぁと思っていたんです。だから、ホタル飼おう。まだホタルのことは、名前は知っていても、生態はよく知らないし、生物部のいい研究材料になるし。それに、お金のことは、飼いたい奴でちょっとずつ出したらいいし、飼育場は材料だけ買ってきて作ったらいいし、先生のちかくに住んでいるホタルを飼っている人に言って、幼虫をもらったり、アドバイスを聞きに行ったらいいし、エサもいろいろな所に取りに行ってそれも育てたらいい。これだけ熱心に考えているんだから、先生ホタル飼おう」

 文章そのものは、はっきり言って、幼稚やと思います。まるで子どもが駄々をこねているような文章ですね。だけども、ぼくは、この文章の出だしに目を奪われました。「先生、ホタル飼おう。ホタル、ホタル、ホタル……」この三度の繰り返し、まるで蛍に魅入られたような繰り返しを心の中で反芻していると、文章の幼稚さを超えて、何か心を打つものがあります。

 これは、いずれ皆さんも読むかも知れませんけれども、『伊勢物語』という古典があります。この古典の第四五段に、次のような話があります。昔、男がいた。この男にある女が惚れた。しかし、女は親に大事に育てられた、いわば深窓の令嬢です。自分の方から惚れたと言い出せなくて、そのため女は重い恋の病にかかってしまった。それもよほど想いが深かったらしく、重病になって、明日をも知れぬ命になってしまった。女が恋の病であることを初めて知った両親は、びっくりしまして、男の所に行って、ぜひ娘の所に通って来てくれと、つまり、結婚してやってくれと頼んだ。男も、初めてそのことを知らされて、驚きあわてて女の所に行ったところが、女はすでに死んでいました。

 男は、原文には、「つれづれとこもりをりけり」とあります。何をする気力もなくなって、家にひき籠っていたわけです。「時は水無月のつごもり」と言いますから、陰暦の六月――冷蔵庫で死んだK君も六月、上田君の班ノートも六月。何か因縁めいたものを感じますねに――今でいえば七月末か八月上旬、夏の最も蒸し暑い時期です。宵のうちは音楽などで、自分ゆえに死んでいった女のことを想いながら、心を慰めていたが、やがて横に伏せた。しかし、眠れぬまま、ぼんやりと庭の植えこみを見ていた。と、「夜ふけて、やや涼しき風吹きけり」。その風に吹かれて、群がっていた蛍が、いっぱい、わぁーっと飛びあがった。「蛍たかく飛びあがる」。それを見て、男は、ほっと溜息をつくかのように歌をうたいます。その歌は

   ゆくほたる 雲の上までいぬべくは 秋風吹くと雁につげこせ

 昔から日本人にとっては、羽があって飛ぶものはみな、人間の魂を運ぶものと考えられていました。まして光を放ちながら飛ぶ蛍は、人間の霊魂そのものだと受けとめられていたようです。それでさっきの歌ですが、死んだ女の魂をもう一度もどしてくれるようにと、死者の国に住んでいるという雁に告げてくれ、というふうに普通は解釈されているようですが、ぼくにはどうしてもそうは読めない。

 女の魂が、火の玉になって昇天してゆくのを幻視したのだ、とぼくは想うのです。蒸し暑い夏の夜、風さえ死んでしまったような夜。しかし、夜もふけると、さすがに「やや涼しき風」が思いついたように吹く。すると、それまで草の葉陰にむらがっていた蛍が、こんなにもたくさんいたのかと思えるような蛍が、わぁーっと飛びあがり、乱舞する……。あの幻想的な光景は、見た者にしかわからないと思いますが、「先生、ホタル飼おう。ホタル、ホタル、ホタル」と書いた上田君は、その光景を、その時すでに見てしまっていたのではないのか。と、ふとそんなことを思ってしまうのです。

 さて、魂はもはや逝ってしまった。後にはいったい何が残るのか。まるで何事もなかったかのように流れてゆく「時」だけではないのか。友の死を知って、心に誓ったなにがしのことも、追悼文集の中に封じ込められたまま忘れ去られ、友の机に飾られた弔いの花は、力なくしおれ、ほこりをかぶり、かつてあったような日常が、かつてあったように流れてゆくだけ。そのことに気づいた時、まるで写真の陰画のように、そのすべてが色あせたものに見え、死んだ人間が死んだのだとうことを、痛切に、灼けつくように感じる。その切なさこそが、「秋風吹くと雁につげこせ」と歌った男の心境ではなかったかと思うのですが、どんなものでしょうか。

 今日の話を終わります。
                          (1990年10月12日)
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