title.gifBarbaroi!
back.gif万里長征シテ未ダ還ラズ


それまでの野次馬



単独者として立つ






 ひとからは不思議がられるんですけれども、ぼくの家にはテレビもありませんし、新聞もとっていません。しかし、中国で大変なことが起こっているらしいということぐらいはわかります。そのニュースを聞きながら、不思議に思うことがあります。

 中国の民主化運動のうねりは、最終的には強硬派による虐殺と言いますか、無差別銃撃によって弾圧され尽くして、今やトウ小平とか李鵬とか楊尚昆とかいう権力者たちは、悪逆非道の暴君に仕立て上げられています。けれども、ぼくに言わせれば、支配者とか権力者とかいうものは、いつもああいうふうなことをやるものなのです。彼らは権力者がいつもやるようなことをやったまでのことでしょう。それを今さら改めて「あいつらはけしからん」といきり立っているほうがおかしいのではないか。いつでしたか、トウ小平が日本に来た時、「平和の使者」だとか「トウおじさん」などとはしゃぎ回っていたのは、いったいどこのどいつや、と言いたいですね。

 ところで、ぼくが不思議でしかたないというのは、そのようなことではないのです。天安門事件の写真もたくさん見ました。学生たちや労働者たちが銃で殺され、あるいは戦車にひき殺されているのですけれども、その写真の一枚を見ながら思いました。殺された学生の胸には、心臓のあたりに一発弾丸の痕がある。弾丸の痕があるということは、その弾丸を発射した鉄砲というものがある。鉄砲は自分勝手に弾丸を発射するわけではない。その鉄砲の引き金を引いた兵士が居るはずです。その引き金を引いた一人の兵士――彼は兵士ですから、命令に従ったまでのことでしょう。命令されているのに、もし相手を撃たなければ、彼自身が殺されるということが考えられる。確かに、殺されるよりは――やられるよりはやったほうがましだという考えは、ぼくにもよく理解できる。しかし、そう考えるのならば、なぜ彼は、自分がやられるかもしれないその上官に銃口を向けるということを考えなかったのか。

 一方、一般民衆の方はどうしたか。民主化運動の中で、十万人、百万人のデモがあった。一般民衆はそれを拍手をもって迎えました。しかし、その拍手した同じ手で、弾圧後は民主化のリーダーを指さし、「あいつがリーダーやった」と言って権力者に売り渡しているのです。

 一人の人間が、一発の銃弾によって虐殺された。その銃の引き金を引いた指を、われわれはなぜ問題にしないのか。一人の人間が、自分と同じ「民」に指さされ、死刑という制度によって抹殺された。指さしたその「善良な」市民の指を、われわれはなぜ問題にしないのか。それがぼくには不思議でならないのです。支配者・権力者がいかに悪逆非道であろうと、だからといって名もなき一兵士、名もなき一市民の責任がそれだけ軽くなるというわけではないはずです。むしろそういう責任追及をしないということが、支配者・権力者を生きのびさせる最良の方法になるのではないか。彼ら権力者たちは、そのことをよく知っているのではないかとさえ思えてなりません。

 今、中国では、独り独りの人間が、その在り方を生死を賭けて問われている。そういう意味で極めて厳しい状況にあるといえます。ひるがえって日本はと言いますと、情けないですね。一国の総理大臣が指三本でクビになりかかっているというのですから。その足もとでは、群馬県で、首と手足とを切り取られた少女の死体が投げ棄てられている。六人の男女がアベックを襲って、殺害して、埋める……この事件で、一昨日、主犯の十九歳の少年に死刑判決が下りました。十九歳というのは未成年ですね。未成年に死刑判決が下されたのは、戦後これで二人目です。一人は永山則夫、彼がやはり十九歳で死刑判決を受けています。

 実を言いますと、昭和45(1970)年の今日、6月30日、東京地方裁判所では、この永山則夫の十一回目の公判が開かれていました。
 それまでの公判において、永山則夫は、裁判長から「何か言うことはあるか」といわれても、一切口を開こうとはしませんでした。ところが、この日、6月30日、第十一回公判の時に、被告席に立った永山則夫は、しばらく裁判官の顔をじっと見つめていました。そして、おもむろに口を開きました。
 「あんた」……裁判官に向かって「あんた」と言いました。「あんた、俺のような男をどう思う?」と尋ねたのです。
 裁判官はびっくりして、「どう思うって?」と聞き返しました。
 「四人も人を殺してここに立っている、この男をだよ。あんたに個人として聞きたいんだ」。
 裁判官としてじゃなく、個人として聞きたいと言って、彼は裁判官を指さしました。裁判官を指さしたその指は、「あんたもだよ」と検事にも向けられました。そして、永山則夫は、「どうせ覚悟はできているんだ。こんな時間があるなら、俺はもっと勉強していたいんだ、トーコーで」と言いました。
 トーコーというのは、東京拘置所の略です。ところが、裁判官はどう言ったか。
 「なに、トーコー大で勉強したい?」と聞き返しました。東京工業大学、略して東工大です。

 永山則夫はほかならぬ拘置所の中で勉強したいと言ったのであって、東京工業大学で勉強したいと言ったのではありません。勉強といえば学校、それも大学しか思い浮かべられない裁判官と、「ブタ箱」と呼ばれる鉄格子の中で初めて何かに目覚めた囚人と、裁くものと裁かれるものとの間には、あまりに大きな、絶望的と言ってもよいような隔たりがありました。この隔たりを君たちはどう思いますか。怒りさえこみあげてくるのではありませんか。

 永山則夫の事件というのは、昭和43(1968)年、東京プリンスホテルでガードマンがひとり殺されたことに始まります。ガードマンの頭には二発の拳銃の弾が撃ち込まれていた。ところがその拳銃の弾というのが、非常に小さくて、錐で穴を開けたようなものであったため、最初は拳銃とはわからなかった。いったい何で殺されたのかよくわからず、なかなか捜査はすすまなかった。そして三日後、京都の八坂神社で警備員が、やはり今度も頭に四発の弾を撃ち込まれました。その警備員にはまだ息があって、「小柄な若い男がやった」とだけ言って死にました。東京と京都の二つの地域にまたがった事件なので、〃広域一〇八号事件〃に指定され、〃連続射殺魔〃という活字が連日のように新聞紙上に躍っていました。そしてさらに十二日後、今度は北海道の函館で、タクシーの運転手がやはり撃たれて死にました。さらに十二日後、名古屋でもタクシーの運転手が殺されたのです。凶器は全部拳銃です。

 この捜査、犯人の手がかりは、警備員の言い残した言葉以外には何もなかった。それから半年の間というもの、日本国中が、連続射殺魔事件というので、犯人がいつ現れるか、どこに現れるかわからんということで恐れおののいたものです。半年たったある日、東京のビジネス・スクールに、賊が侵入しました。ガードマンが取り押さえたところ、その犯人が、さっき言った凶器の拳銃を持っていた。こうして、事件はあっけなく解決してしまったのです。このあっけなさには、何やら裏があるようなのですが、今は触れないでおきます。とにかく連続射殺魔事件の犯人はつかまりました。永山則夫、当時十九歳でした。

 さっき言いましたように、裁判が開始されて、第十一回目の公判の時に、彼は初めて裁判官に向かって口を利きました。この俺をどう思うかと言い、勉強したいんやと言いました。そして裁判官のトンチンカンな対応に、彼は被告席の机を激しく叩いて、こう言いました。「ぼくがどこからここに来ているか、あんたも知っているでしょう。こうなったのは、どんな原因によると思う? こういう事件が起きたのは、あのころ、俺が無知だったからだ。今ようやくわかったんだ。東拘で勉強してからわかった。……なにもかも貧乏だから起きたんだ。俺はそれが憎い」と。

 永山則夫は中卒です。中卒と言っても、ほとんど学校には行っていません。中学三年間で七百日ほど学校に行かねばならない日があるんですけれども、永山則夫はその五百日まで休んでいます。家が貧しくて、学校に行っていられなかったのです。

 永山則夫は、昭和24(1949)年、網走呼人番外地に生まれました。父が賭博に狂ってほとんど家に寄りつかず、たまに帰って来ると、明日食べるわずかな米まで米びつの底をさらって持ち去ったと言います。どん底生活の中で、母親までが子供を残して家を飛び出します。後には、中学二年の姉を頭に、小学六年と小学三年の兄と、そして永山則夫との四人の姉弟だけが残されました。永山則夫が五歳の時です。父母に棄てられた姉弟四人が、北海道の極寒の地で餓死寸前までいくというような生活を送ってきました。その後、経緯はいろいろありますが、とにかく貧しさからは抜け出せませんでした。さっき言ったように、中学校もろくろく出席できないまま、押し出されるように卒業して、集団就職で東京に出て行きました。

 大都会東京も彼にとっていい所であるはずがありません。彼はこの日本の社会から脱出しようと、何度か密航を企て、そして失敗しています。いや、彼はこの世の中そのものからの脱出さえ企てました。つまり、彼は横須賀の米軍基地に侵入しています。これは、MPによって自動小銃で射殺されることを思い描いての行動でした。しかし、死を賭けたこの侵入は案外あっけなく、ものの見事に成功してしまい、かわりに兵舎から小型拳銃を手に入れることになったです。そして、東京プリンスホテル――永山則夫たちにとって無縁のあの高級ホテルに足を踏み入れ、当然ながらガードマンによって追い立てられた時、彼の手にあった拳銃は、自分を追い立てつづけるものに向かって火を噴く結果になったのです。

 彼は、自分が何をやったのかということを、拘置所の中で勉強しました。勉強いっても、ほとんど学校に行っていませんから、書き取りから、字を覚えることから始めるわけですね。誰が教えてくれるわけでもない、まったくの独学です。そして、先ほど言った裁判の時、俺はわかったと言うわけです。なぜ俺がこんなことをやったかわかった。それは貧しさが原因やと。四人の人間を殺したということは、自分の死をもってしか償うことはできない。だけれども、俺はそれが間違いやったとは思わない。相手を間違えた。自分の殺すべき相手を間違えていた。そのことが今わかったというのが、俺には悔しくてしかたがないと。そして、彼は、ボンガーという人の『犯罪と経済状態』という本の一節を、原文のまま法廷で暗誦しました。それはこんな文章です。

  Poverty kills the social sentiments in man,destroys infact all relations between men.He who is abandoned by all can no longer have any feeling for those who have left him to his fate.

 字を覚えることから勉強を始めた彼は、一年たらずの間に、こんな難しい文章を読みこなすまでになっていたのです。これひとつとってみても、拘置所に入ってからの彼の勉強ぶりが、いかにすさまじいものであったかわかります。

 ここではっきり言っておきたいのですが、彼は自分の行為を正当化するために勉強したのではないのです。四人の人間を殺した罪は、いかようにしても償えない。わずかに自分の死をもって償うしかない。彼にとってそれは自明の理でした。ただ、彼は、自分がなぜあのようなことをやったのか、その理由を死ぬ前に知りたかったのです。これが、責任を追及するということではないでしょうか。永山則夫は、自分で自分の責任をどこまでも追及しようとしたのです。だから、第十三回公判では、酌量すべき情状があるかどうかの審理がありましたが、永山則夫は審理を拒否しました。情状酌量の検討など必要ないというわけです。そして死刑判決を受けました(昭和54年)。
 (この背後にはいろんな問題があるが、経緯だけ述べると、昭和56年、東京高裁は無期懲役に減刑。これを不服として検察が上告。58年、最高裁は二審判決を破棄、差し戻した。)

 今日、永山則夫の話をしたのは、本当の勉強とは何かということを考えてみたかったからにほかなりません。本当の勉強というのは、自分の生き死ににかかわる勉強でしょう。自分はどんな生き方を、生きざまを選びとるのかという、まさしく生死をかけた問題でしょう。なるほど、ぼくたちは、日々、四苦八苦しながら勉強をしています。しかし、それらはいつも与えられた勉強でしかありません。はっきり言って、こんなものは本当の勉強ではないと思います。本当の勉強どころか、命令のままに民衆に向かって銃の引き金を引く兵士の勉強、あるいは、国家権力に仲間を売り渡す衆愚の勉強にもなりかねません。

 本当の勉強とは、何もたくさんの知識を得ることでは決してありません。自分自身を、今生きている自分をよく見つめていくこと。自分自身をつきつめてつきつめていけば、世の中というものがどうなっていて、どうあるべきなのかが透けてみえてくる。そして、端的に言えば、国家権力の前にさえ、孤立無援の単独者として立つことができるための勉強でしょう。永山則夫の不幸は、それを獄中で、しかも、国家権力によって死をせかされ続けながら、やらねばならなかったことです。

 もしかすると、単独者として立つということは、いつもほとんど死と同義であるのかも知れません。しかしながら、闘うべき相手を見あやまったまま生きながらえるものと、真実を見あやまることなく、見あやまらなかったが故に死にゆくものと、いったいどちらがより不幸なのか。
  一枚の天安門事件の写真を見ながら、ふと思ったことを述べてみました。
 それでは、今日の話を終わります。
                         (1989年6月30日)

[付記1] 『読売新聞』1989年12月29日付け

解放軍1500人鎮圧を拒否 今春の民主化運動 香港紙が報道

【香港二十八日=原特派員】
 二十八日の香港英字紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストは、今春の北京民主化運動の際、解放軍の幹部、兵士計千五百人が鎮圧命令を拒否した、と伝えた。民主化運動鎮圧に関し、解放軍内に対立があったことが確認されたのは初めてである。

 同紙によると、この事実は、軍及び党幹部に回覧中の、楊白冰・中央軍事委員会秘書長が今月行った演説の中で述べられている。

 それによれば、四月から、六月の天安門の血の鎮圧までの間、師団長級以上二十一人、連・大隊長級三十六人、中隊長級五十四人の幹部が「反革命暴乱鎮圧闘争の際、著しく軍規律に違反」し、兵士千四百人が「武器を捨て、逃亡した」という。幹部の中には、北京軍区第三八軍の徐欽賢司令官(音訳)も含まれており、徐氏は軍事法廷で重罰に処せられたという。

 楊秘書長は演説の中で、民主化運動の期間中、「軍の政治委員グループが政治的立場を堅固に主張せず、困難に当たって委員としての役割を果たしていなかったら、想像を超える事態になっていただろう」と述べた。これは、幹部と兵士の意思の抗命が激しかったため、軍中央が鎮圧作戦にあたり、軍の意思統一にてこずったことを示唆するものだ。これまで、共産党と軍は、民主化運動鎮圧の際、軍の全幹部は党中央軍事委と完全に意思が一致していた――と公式発表していた。



[付記2]
 1997年8月1日午前10時39分、東京拘置所内で永山則夫(48)の死刑が執行された。
 彼の著作は以下のとおりである。
『無知の涙』1971(合同出版、のち、角川文庫、河出文庫)
『人民をわすれたカナリアたち』1971 (辺境社、のち、角川文庫)
『動揺記I』1973(辺境社)
『愛か-無か』1973(合同出版)
『反-寺山修司論』1977(JCA)
『ソオ連の旅芸人』1986(言葉社)
『木橋』(立風書房) 新日本文学賞受賞
『捨て子ごっこ』1987(河出書房新社)
『死刑の涙』1988(言葉社私家版、のち、冒険社)
『なぜか、海』1988(河出書房新社)
『異水』1990(河出書房新社)
『日本』1997(冒険社)
『華』1997(河出書房新社)

forward.gifネクタイの話
back.gif野次馬小屋