title.gifBarbaroi!
back.gifネクタイの話


それまでの野次馬



堕天使






 盛大な拍手と、温かいホホエミをもって迎えていただきまして、ありがとうございます。

 とにかくうっとうしい暑さ。この暑さのせいで、たまっていたものが爆発したのかどうかわかりませんけれども、学校の便所に爆竹を仕掛けたやつがおる。まぁ、初めのうちは、欲求不満のはけ口かと思って、先生もみな苦笑しながら軽くみていたんですけれども、次の日もやっぱり便所で爆竹が鳴る。次の日も鳴る。学校側はとうとう怒りまして、各HRで担任から警告を発してもらったところが、まだおさまらない。もう最後の手段や。こうなったらもう最後の手段やというので、何をやったかと言いますと、全校生徒にカードを配りまして、このカードによって情報提供を求めたわけです。とにかく、爆竹犯を知っている者は、そいつの名前を書いてくれ。知らない者は、どんなささいなことでも、噂でもいいから、それらしいことを耳にしたのなら、それを書いてくれ。全く何も知らないという者は、こいつならしそうやと思うやつの名前を書いてくれ……というふうに、全校生徒にカードを配って、情報の提供を求めたわけです。そうしたところが、あるクラスで、多くの者が松尾という生徒の名前を挙げたのです。

 その松尾というのはどんな男かと言いますと、常日ごろから、校則という校則に違反することに燃えているような男です。靴のかかとを踏んで歩くなと言えば、靴のかかとを踏んでぺたぺた歩く。シャツをズボンの外にだらしなく出すなと言ったら、シャツを出してでれでれ歩いとる。脱毛……脱毛ちゃう。脱毛と言うたらおかしいんやな、髪を脱色するなと言うたら、すぐ脱色して来よる。カバンを変形するなと言うたら、かばんをすぐにペシャンコに変形して持って来る。一事が万事そういうわけで、こいつは足の先から頭のてっぺんまで校則に違反している。勉強の方も、遅刻常習犯。授業中はしゃべるか、おとなしいと思ったら寝ているか、あるいは机の下の漫画に読みふけっているか。そういう意味では、学校からいつも目を付けられていた男です。この男の名前が、爆竹犯としてあるクラスでたくさん書かれた。

 警告を無視されたということで怒りに燃える学校側は、当然、こいつならやりそうなやつやということであらかじめ目をつけていましたから、この男を厳しく取り調べました。ところがこの松尾はがんとして口を割らない。割らないまま、時間がたって、仕方がないのでその日は帰しました。

 松尾の仲間がいまして、この仲間は心配して彼の帰りを待っていました。そこに松尾が行きまして、こう言います。「俺は絶対やってないのに、学校のやつらは俺がやったと、犯人やと決めてしまっている。むかついてしゃぁない。こうなったら犯人を俺の手で挙げたる。みんな協力してくれ」というふうに頼むわけです。みんなも、「そら、おもろい。真犯人を挙げて、学校のやつらに謝らしたろ」というんで、真犯人を挙げようと、みんなで便所に張り込みを始めます。

 ところが、なかなか真犯人が挙がらない。ある時は、松尾が便所に入ってちょうどクソをしていた時に、横のボックスに爆竹が仕掛けられていまして、それが爆発するということもありました。この爆竹犯人はなかなか頭がよくて、すぐ爆発するようにはしてない。ちゃんと線香で時限装置をつくって、ちょうど授業が始まって約十分ぐらい。授業が始まってみんなが授業に集中するぐらいの時に爆発するように仕掛けてある。なかなか巧妙な手口です。

 そういうわけで、なかなか捕まらなかった。ところが、この松尾一派は、執念の張り込みのあげく、とうとう犯人たちが爆竹を仕掛けているところを取り押さえた。二人の男が仕掛けとったんやね。それは松尾一派とは別の、しかしやはり落ちこぼれグループの永井という男と木越という男だったんです。

 この二人を取り押さえて、仲間は二人を選択教室に引きずり込みました。すぐに生徒指導部、学校側に引き渡そうという声もあったんですけれども、仲間の一人のおっちょこちょいの藤沢というのが、「いや、その前にリンチやリンチや」と、リンチやってから学校側に突き出そう、それでもおそくはない、と主張します。リンチをやるについては何といってもSM雑誌が役に立つというわけで、懐からSMセレクトとかいうのを出して見せるというシーンもありました。

 ところが、松尾は、「まぁ待て」と、いきり立つ仲間を抑えて、静かに聞いてみようと。「なんでお前ら、そんなことをしたんや」と言うて、相手に聞いたんです。そうすると、その爆竹犯人の永井というのが、「もうこうなったら何でもしゃべったる」。どういうことをしゃべったかというと、「実はこれは人に頼まれたんや」と。

 誰に頼まれたんやというたら、松尾と同じクラスに非常なガリ勉がいよるわけですね。彼によれば、高校というのは、大学に行くためのワン・ステップに過ぎない。とにかく大学さえ行けたらいいと考えている。ところが松尾一派というのは、いつも授業の邪魔になるわけやね。とにかく、先生が松尾に注意を与えるたびに授業が中断する。しかも松尾は、注意されるようなことを次から次へと考えつくような男です。ときたま授業で当たっても、松尾が答えるまでにやたらと時間がかかる。そのために授業がつぶれてしまうことが再三ある。そこでこのガリ勉の、吉川というやつですけどね、この男はなかなか金持ちのぼんぼんです。これが、松尾とは対立するおちこぼれグループの一人である永井を呼びまして、金に糸目はつけない、何とか松尾を追放してくれと。この学校から追放してくれ。手段・方法は問わない。そういうふうに頼んだというわけです。そこで永井は考えた。考えた結果が、さっき言った爆竹を仕掛けたらどうか。そうすれば多分みんなは松尾がやったと思うに違いない。それでやったと言うわけです。

 やったところが、先生は皆あわてふためいとる。それを見ているのはおもろい。先公があわてふためいているのを見るのはおもろい。金はもうかる。一石二鳥や。俺の頭のよさを見たか、というようなことを話すわけです。

 だけど、そのおかけで松尾が犯人扱いされとるやないか。これをどないすんにゃと言うたら、「そんなこと、俺の知ったことか。確かに、金を受け取ってひとを落とし入れようとしたのは悪い。だけども自分は、松尾がやったなどと一言も言うてない。さっき言った情報提供の時にも、松尾の名前は俺たちは一言も挙げてない。にもかかわらず勝手に、ほかのやつらが先入観というか、あいつならやりそうやということで名前を挙げただけや。そんな他人の責任まで取れるか。お前らもよう考え。この学校というのは、要は缶詰工場と変わらへん。先公なんて、品質のいい缶詰めにはええレッテルを貼り、悪い缶詰めには悪いレッテルを貼って、そして俺たちには〃不良品〃のレッテルを貼るしか能のない、レッテル貼りのおっさんにすぎん。俺たちは缶詰め工場の缶詰めとちゃうで」というふうに、この永井がマジになって言うのです。

 この演説を聞いて松尾は感激しまして、「なるほどそうや。先公は、松尾というのは悪いことをやるもんやと思っている。言うてみたら、松尾は悪いことをするに違いないと期待しとる。それやったら、その期待に応えてやろやないか。ひとの期待には応えないかん」」と、妙に納得してしまうのです。

 それ以後は、松尾が中心になりまして、爆竹を仕掛けてゆきます。これはもう組織的です。あっちの便所で鳴ったかと思うと、こっちの便所。それも必ず授業時間中に鳴る。組織的な反抗運動というのか、そういうことになってきました。

 学校は臨時職員会議を開いて、150年の……120年だったか忘れましたけれどもね……百何十年の伝統のある学校のこれは危機やと。戒厳令をしこうと。そういうふうに学校長は怒鳴るわけです。

 それを知ってか知らずしてか、松尾一派は、そこの図書館の横の茂みの中で作戦会議を開いている。松尾は、爆竹を仕掛けるなどという、まぁいってみれば子供じみた悪戯の段階が面白くなくなった。おもろくないと言うよりは、自分の反抗をそんな子供じみた段階では留めたくなかった。もっとエスカレートしたい、もっと大きな何かにぶつかってゆきたいと思った。思って、それじゃどうするか。松尾は言うのです。

 みんなだったら、校長室に石でもぶつけようかと、――これはA学年六組の人が言うてましたけども、誰が言うてたかは言いませんけれども……。ところが、そんなんちゃう。校長の頭に石をぶつけても、どうということはない。光を増すだけや。もっと本質的なことがある。それは何や。もっと象徴的なこと。それは、ここや。この講堂や。この講堂こそは本校の象徴である。この講堂に爆竹を仕掛けようということを松尾は提案した。

 仲間たちは、それを聞いてびびってしまった。「そら、嫌や」と。「もうようついていかん」と。「俺はもう断る」。松尾は怒るわけやね。「お前ら……、おもろい言うたんは、お前らやないけ」。怒る。だけども相手はしょぼくれて、「やっぱり俺は卒業証書が欲しい。これ以上はようやらん」と本音をはく。「ほんなら勝手に立ち去れ」言うたら、みんな立ち去ってしまって、誰も居なくなる。誰も居なくなったんで、松尾はがっかりして、そばにあった樹の幹を蹴とばすのです。何度も何度も。

 松尾の怒りの中身は何であったか。それは、自分たちがやってきたことは、学校というものに対する、あるいは、体制に対する反抗だなどと、いくらえらそうなことをいっても、しょせんは子供じみたイタズラの域を少しも出るものではなかった。そのことを自分たち自身で証明してしまったという、自分たちの不甲斐なさに対してのものです。

 ところが、ふと振り返ると、一人だけ残っている。これは奥野という男です。真面目一方の男で、真面目なだけに勉強もよくできる。しかし運動はどじくさい。普通なら弱い者いじめの対象になりそうな男なのに、なぜか鼻つまみ者の松尾をしたい、松尾もことのほかかわいがって、なかなか妙な取り合わせの奥野が一人だけ残っている。
 松尾が、「お前、卒業証書ほしないんか」と言ったら、その奥野が、「そら、欲しい。欲しいけども、やむにやまれんということもありまっせ」。
 それを聞いて松尾は感激して、「奥野!」というわけ。
 奥野も、「先輩!……先輩というのは、松尾は一年だぶっているわけで……先輩!」と言って、二人でひしと抱き合います。
 抱き合いましたら、ちょうどこんな赤い夕陽が、山の端にかかっている。二人は夕陽を指さして、まるで青春ドラマそのものですけれどもね、指さして、青春の感激をかみしめるわけです。

 そして二人はこの講堂に忍び込みまして、何とかみ仏マークのもとに爆竹を仕掛ける。
 ところが、その時、見回りの先生が通りかかるのです。オオカミというあだ名の陸上部の先生です。
 オオカミは講堂の中の異様な雰囲気に気づきます。
 松尾と奥野はあわててこの台の上から飛び降りて逃げかけたんだけども、奥野が、やっぱりどじくさいやつですから、飛び降りた瞬間に足をくじいて、動けなくなってしまった。そのあたりです。そのあたりで動けなくなった。
 オオカミはこっちの扉から様子をうかがいに入ってきます。
 松尾は、動けなくなった奥野を見、近づいてくるオオカミを見て、一瞬迷いましたが、いきなりぱっと立ち上がって、わざわざ後ろの遠い方の扉から走り逃げるわけです。オオカミはそれを追いかけていって、だから座席の間にうずくまっている奥野には気がつかなかった。それが松尾のねらいだったわけです。

 結局、松尾はつかまり、爆竹事件は始めから終わりまですべて自分ひとりでやったと主張し、退学処分になりました。学校側も、これ以上問題を広げたくない――というのは、なぜ松尾が爆竹を仕掛けるようになったのかを問うていけば、学校や教師のものの考え方までが批判の対象になってくるでしょう。そういうふうに問題を広げたくないという意図があったものとみえて、学校側は爆竹事件を反抗行動ではなくて単なるイタズラとして、そしてその責任をすべて松尾一人に着せて、それ以上は追及しようとはしませんでした。また、そのことに抗議する者は、彼が敵対した教師たちの中にはもちろん、彼の仲間であるはずの生徒の中にも、誰もいませんでした。こうして、学校は現在のような平静さを保ち続けているのです……。

 実を言うと、これは映画なんですけれども、爆竹を仕掛けて、カードで情報を求めたというところまでは、本校で本当にあった話です。そこから先は、以前、私の受け持っていたクラスで作った『堕天使』という映画のストーリーなんです。なかなかようできた映画やと思うんですけどもね。

 現実には、カードで情報を求めた段階で、犯人はわからないまま、爆竹事件はピタリとやみました。
 しかし、そのクラスでは、何かがおかしいと思いました。何がどうおかしいのか、はっきりした説明はできないが、犯人のタレコミを求める方も、それに何の疑問も持たずに協力した自分たちも、何かがおかしい。それにこだわり、話を少し誇張してみた結果が、このような映画になったわけです。

 この映画のラスト・シーンはどんなものかと言いますと――またもとのとおりに学校は平静にもどります。あんなに大騒ぎしたのに、学校は何ら変わっていない。そのなかで、休み時間。かつての松尾の仲間たちが事もなげにしゃべっているわけです。
 「何ぼ何でも松尾はやりすぎやった。だけどまぁ、俺たちは退学にならなくてよかった。松尾がみんなひっかぶって、俺たちの名前を出さなかったので、ほんまに助かったなぁ」と、そういう話を事もなげに、何の痛みもなくやっています。
 そんな仲間にも加わらず、奥野はひとり沈みこんでいる。そして、心の中で、松尾との最後のやりとりを思い出している。

 松尾が退学と決まったので、奥野は松尾のところに行って「先輩、俺もやめる」とね、「やっぱり俺も責任とって学校をやめる」と松尾に言うわけです。そうすると松尾が、「あほなこと言うな」と。「人間というのは、出来ることを精一杯やったらええんや」と。「お前は学校に残るということしかできないんや。退学してどうこうできる男ではない。だからお前は学校に残れ」というふうに言うてくれたことを思い出しながら、一人沈んでいます。

 次のシーンがラスト・シーンですけれども、廊下、長い廊下があって、その廊下の一番はしの方に机が一つぽつんと出されています。この机は、もちろん、松尾が退学したので、もう用がないというので、廊下に放り出されているのです。その机がだんだんアップで映ってゆきます。そのアップしてゆくときに、ちょうど授業が終わったらしくて、授業の終わりの合図が教室の中から聞こえてきます。
 このドラマの高校は、ケマン高校と言って、校章はあの菩提樹の葉だか実だか花だか知りませんが、あれを中心に光線が飛んでいるのです。このケマン高校では、授業の始めに合掌して、「み光のもと、我ら、今、幸いにこの清き授業を受く。お願いします」と言って授業を受け、授業の終わりにも、再び合掌して、「我ら、この清き授業を終わりて心豊かに、力身に満つ。ありがとうございました」と言うことになっている学校なんですけれども、その声が廊下に響いてくる。そして今は主のない机だけが、画面いっぱいに映っている、というところで終わるという映画です。

 今日、この話をしましたのは、時間がないので二つだけ言うておきますと、一つは、学園祭ですね。A学年4組では学園祭で映画をやろうということに決まりました。こうやって皆の前で宣言したからには、後には引けないということがあります。ほかのクラスもやっぱり学園祭というのは、手間暇かけて本気になってやってほしいなという願いが一つあります。

 それから、先ほどの映画の内容ね、非常に優れた内容の作品だとぼくは思っています。何が優れているかと言うと、批判というのは、相手を批判したからといって、大して役には立たない。批判というのは必ず両刃のやいばで、必ず自分自身に降りかかってくるというか、返ってくるところがある。
 先ほどの映画というのは、自分たちの裏切りやとか、それから謀略やとか、そして一人の友達を犠牲にして、後は知らん顔して口をぬぐっている自分たちの卑劣さやとか、松尾という一人の男の苦しみについて想像さえしてみようとしない非情さ・利己やとか、そういったものを恐れることなく暴き出している。自分の弱さを直視できることは精神の強さです。そこが非常に優れている、深みのある映画やとぼくは評価しています。

 毎日がこう暑いと、とかくぶつくさ文句が出るわけですけれども、その文句をもうちょっと掘り下げていったら、単なる文句で終わらない、もっと本質的な何かが見えてくるんと違うかというふうに思います。映画の中で、永井という男が展開してみせた「学校=缶詰め工場」論は、当時すでに言い古されたものですが、今では「自分は缶詰め工場の缶詰めではないのか」という疑問さえ君たちの間から出てこないらしいのは、喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか、判断に苦しむところです。
 時間がきましたので、今日の話を終わります。
                          (1991年6月27日)
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