title.gifBarbaroi!
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それまでの野次馬



マテオの掟






 先日、歯を磨いておったのですが、これはまあ毎日のことで、取り立てて言うほどのことでもない。
 歯を磨いた後、口をすすごうと思って水を口に含んだのですが、これもまあ誰しもやっていることでして、特に珍しいわけでもない。
 ところで、口をすすいだ水ですが、飲み込むわけにもいかず、ぱっと吐き出したのです。そうしますと、前歯が一本、水といっしょに洗面台の中に飛び出してしまった。あッと思って、あわてて拾おうとしたのですが、恩知らずな前歯は洗面台の中をコロンコロンと二、三回駆け回った後、水とともに去りぬです。
 そういうわけで、私、前歯を一本失いまして、歯がないと空気が漏れるわけなんですね。そのため、どうしてもしゃべりにくい。発音がうまく出来ないのです。それで、今日はうまく話せるかどうかわかりませんが、聞き苦しいところも辛抱して聞いて欲しいと思います。

 10月1日から就職試験が始まり、君たちの中には既に就職先の決まった人も居るだろうと思う。11月になれば大学の推薦入試も始まります。そして短い冬休みをはさんで三学期――三学期といっても2週間ばかりで、後は大学の一般入試のために、皆は日本各地にさまよい出ることになるのだろう。そうして行く先の決まった人も決まらない人も卒業というように、君たちのまわりは極めてあわただしい状況になっている。こういう時にこそ、今一度気持ちをしずめてみる必要があるのではないかと思います。

 まわりのあわただしさに押し流されていては、必ずや後悔することになるに違いないのです。「後悔する! それこそ卑怯でめめしいことだ」――これはシェイクスピアの言葉で、私がいつも自分に言い聞かせていることでもあるのですが、後悔からは何も生まれません。後悔しないためには、常に自分の一歩一歩を自分で確認しながら前進することが必要だと思います。自分で選び、自分で踏み出した道であれば、たとえ失敗しても、その失敗は無意味ではないと私は断言できます。その失敗から多くのことを学び、それを次なる一歩に生かせられるのが人間だと思うのです。

 とにかく、今や君たちは試練の場に立たされているのだと言ってよいと思う。何が試されるのか? それは、君たちひとりひとりの生きざまです。このことを今日は少しばかり話してみたいのです。

 入社試験にしろ、入学試験にしろ、君たちはみな試験官の前に立たせられます。試験官は、君たちが入りたいと思っている会社や大学に、君たちが入れるかどうかを判定する力を持った存在です。その力は、言ってみれば、権力と名づけてもよいかもしれません。
 そして、君たちも日常的に経験しているように、力を持った者の前では、私たちはとかく卑屈になりがちです。理由は簡単明瞭です。相手は力を持っており、自分は持っていないからです。自分の内に、相手と対抗し得る何ものも持たない時、ひとはとめどなく後退を余儀なくされる。つまり、私たちはただひたすら相手の気に入られようとする。気に入られるためならば何でもするというようになる。相手の求めるものにすべて応じようとする。

 「名前は?」と尋ねられたら名前を答える。「住所は?」と尋ねられたら住所を答える。本籍は? 親の職業は? 財産は?……「尊敬する人物は?」と尋ねられたら、本当は梅川さん――銀行強盗のあの梅川昭美さんのことなんですが、――あの梅川さんが好きなんだけれども、シュバイツァーと答えたりする。「君の学校からうちの会社に二人受けに来ているが、実は一人しか採用するわけにはいかないんだよ」とささやかれれば、「実はもう一人のやつは、あれはホモなんですよ」と耳打ちしたりする。

 ここまでくれば、キタナイということは誰にでもわかるのですけれども、それではどこまでがキタナクなくて、どこからはキタナイのかということになると、よくはわからないということになる。また、何がキタナクて何がキタナクないかという基準も曖昧だと言わなくてはなりません。
 例えば、「尊敬する人物は?」と尋ねられて、自分の思いとは違うことを言った場合はどうか。嘘も方便さとすましていられる人も居るだろう。いや、たとえ他人がどう思おうと自分は梅川さんを裏切ることはできないという人も居るだろう。「親の職業は?」と尋ねられて、「俺の親は代議士をしている。世間からセンセイと言われるぐらいだから立派な職業に違いない――今、私は皮肉を言ったのでして、本当はここで皆の笑いが欲しかったところなんですが――立派な職業に違いない」と思って胸を張って「私の親は代議士をしています」と答える人も居るだろう。あるいは、親が何をしていようとも俺とは関係ない。関係のないことに答える必要はないと、腹を立てて答えることを拒否する人も居るかもしれない。

 要するに、そこでは、自分はどういう人間として生きるのかという、その生きざまが問われているのだと思うのです。そして、自分の内によほど確固たるものを持っていないと、私たちはどうしようもないキタナサの中にのめり込んで行ってしまうと思うのです。そうならないためには、私は少なくとも二つのものが不可欠だと思います。ひとつは信念、もうひとつは想像力です。

 信念という言葉が適切かどうかはわかりませんが、要するに、いかなる力にも屈服しない、力を超えたものの存在を信ずる心ということです。
 権力は私たちから多くのものを奪い取るかもしれない。もしも、生きてあることが最も大事なことであるとするなら、私たちは権力を持った者の言いなりになることも仕方のないことになります。
 しかしながら、人間にとって最も大事なことは単に生きてあることではなく、より善く生きることであるとするなら、その「より善き生」を選んだがために生命を奪われたとしても、それは決して敗北を意味しない。むしろ、力を超えたものの存在を実証していることになるのではないか。
 そして、そういうものが存在する限り、あれは仕方がなかったというような弁解は通用しなくなります。しかし、そういうものの存在することを信じられないところでは、実は、キタナイとかキタナクないとか、そんなことは問題にもなってこないはずです。

 しかしながら、どんなに立派な信念を持っていたとしても、それだけではほとんど何の役にも立ちません。
 例えば、裏切りはキタナイと誰しもが信じています。だから、さっき友達の告げ口をしたような者に対しては、誰しもが非難を浴びせ、少なくとも自分はそんな真似はすまいと心に固く誓うに違いありません。でも、裏切りを裏切りと気づかなかったらどうだろうか。
 例えば、「父親の職業は?」と尋ねられて、代議士は立派な職業だからと胸を張って答えた者は、世の中には立派でない職業もあるということを無意識のうちに前提しているのです。そして、自分の父親がそういう立派でない職業についていたとしたら、試験官に尋ねられた時、なかなか返答しにくかったはずです。
 自分の仲間に、そういう父親を持ったそういう仲間の居ることが、その人には見えていない。見えていないどころか、自分はそんな父親を持たなくてよかったと、心の底でほっとしているはずです。自分はあいつのようでなくてよかったと思うのです。
 裏切りとは、自分がその人の仲間であることを否定し拒否することだ、と言ったひとが居ます。親の職業を試験官に尋ねられて得々と答えられる者は、そうすることのできない友達を見捨てたのであり、その人と仲間であることを否定し拒否したのであり、裏切りという点では、ホモダチを売った者と五十歩百歩だと言えます。
 このように、自分の言動が現実の場で果たしている意味をどこまで深く測り得るか――これは想像力の問題だと思うのです。そして、これを欠くかぎり、どんな立派 な信念を持っていても何の役にも立たないと言うのです。

 ここで、私は皆さんに、マテオ・ファルコネという人物を紹介したいと思います。

 地中海にコルシカという島があります。そう、ナポレオンの故郷です。マテオ・ファルコネも、コルシカの生まれです。このコルシカの人間の気質は、マフィアの故郷と言われるシチリアの人間の気質ともよく似ていると思うのですが、頼るべきものは自分だけであるという考え方をするようです。
 例えば、泥棒に入られても、官憲に届け出るようなことはしない。むしろ、泥棒に入られることを恥とする気風がある。なぜなら、泥棒に入られるということは、泥棒が報復を恐れなかったということ、つまり、泥棒に見くびられたということになるからです。自分に加えられた侮辱に対しては血を以て報いるのが当然だとコルシカの人は考えます。マテオ・ファルコネは、そういうコルシカ人の気質を体現したような、しかも銃の名人でした。だから、誰ひとりとしてマテオと事を構えようとはしませんでした。

 或る日、マテオは妻を連れて仕事に出かけました。フォルチュナトという十歳になる息子が留守番に残されました。そこに、ひとりの男が官憲に追われて逃げてきたのです。足を撃たれていて、走ることが出来ません。匿ってくれと言うのをフォルチュナトは断っていたのですが、五フラン銀貨を見せられて、干し草の中に隠してやるのです。
 そこに、曹長に率いられた兵士たちが追いついて来ました。そして犯人はどこへ行ったかと尋ねます。フォルチュナトは、とぼけたことばかり言って取り合いません。曹長は怒って、牢屋に入れてやるとか、拷問にかけてやるとか言って脅すのですが、フォルチュナトは少しも動じません。
 脅しが何の効果もないことを悟った曹長は、十フランはする銀時計を見せて、犯人の居る所を教えてくれたらこれをやると約束します。フォルチュナトはまだ十歳の子供なのです。その高価な銀時計が欲しくて欲しくて、とうとう追われている男の隠れている干し草の山を教えてしまうのです。

 帰って来たマテオ・ファルコネは、息子の持っている銀時計を見て全てを悟ります。そして妻に尋ねるのです。「おい、この子は俺の子か?」と。妻は顔を赤くしながら、当たり前やないけ、わたしの畑はあんた以外に耕したことはないのよ、と言ったかどうかは知りませんが、とにかく、マテオは息子を近くの空き地に連れて行き、ひざまずかせ、お祈りをしろと言います。
 息子は知っている限りのお祈りをするのですが、やがてそれも途切れた時、マテオ・ファルコネの銃口が火を噴いたのでした。

 これは、実は、メリメの『マテオ・ファルコネ』という短編小説の話です。皆さんと同じくらいの歳の時に読んだのですが、それ以来ずっと、私の心から離れません。そして思い出すたびに、ああでもないこうでもないといろんなことを考えさせられるのです。
 官憲から犯罪人として追われている人間を裏切った――これは死に値するような罪であろうか? たとえ死に値するとしても、わずか十歳の子供であるのに、情状酌量の余地もないというのか? むしろ、息子を処刑するマテオ・ファルコネこそ、神をも畏れぬ傲慢の罪を犯していると言えるのではないか?……

 このように、いろんなことを考えさせられるのですが、それについて今ここでひとつひとつ話している余裕はありません。むしろ自分で本を読み、自分で考えてみてほしいと思うのですが、ここでは二つの点だけを指摘しておきたいと思います。

 ひとつは、外から押し入って来るような目に見える敵と闘うことはむしろ容易だということ、恐るべきはむしろ目に見えぬ敵だということです。
 フォルチュナトも、銃剣を持った兵士たちの脅迫に対しては、鼻でせせら笑っていました。しかし、銀時計を目の前につきつけられ、それを欲しいと思った時、自分の心に打ち勝つことは出来なかったのでした。
 確かに力、暴力は恐ろしいものです。だから、生きるか死ぬかというような危機的状況においては、力に屈し、卑屈になり、人間的に駄目になって行く者が圧倒的に多いわけです。
 しかしながら、暴力によって奪われるものは、せいぜい生命までであるという居直りも、困難ではあっても、出来ないわけではないと思うのです。
 相手が権柄ずくで接してくれば、私たちは恐れよりむしろ怒りの感情を持つのではありませんか。皆さんも、もしも試験官から、「わしの会社、わしの学校に入りたかったら、わしの言う通りにせえ」と威丈高に言われたら、ナニクソという気持ちになるはずです。
 しかし、現代の社会では、力がむき出しの形で示されることは先ずないと言ってもよいと思います。権力は、「友情に満ちた人間的な様子をして」私たちに接近して来ます。そのようなものと敵対し対決することは極めて困難だと言わなければなりません。
 なぜなら、私たちは敵と対面していながら、それと気づくことが出来ないのですから。敵の正体が不可視ないし不透明なところで、私たちはどうしてよく闘うことが出来ようか。現代という時代、あるいは、私たちが生きてある日常性とは、まさしくそういう状況にあると思うのです。

 このようなぬるぬるしい状況にあるからこそ、だからこそ私たちはより厳しい「掟」を必要としているのではないのか。これが私の指摘したい第二点です。

 ここで言う「掟」とは、誰かから強制されたものではありません。自分が自分に課す決まりです。そしてその厳しさとは、規則の細々しさを言うのではありません。また、罰則の重さを言うのでもありません。掟の厳しさとは、守るべき決まりの仮借のなさを言うのです。
 例えば、裏切りとは、単に味方を敵に売り渡すと言うことだけではなく、仲間を否むことだというように、その最も深い本質的な次元から日常的な自己の言動を照らし出してゆく――それが掟の厳しさだと思います。そういう「掟」をみずからに課し、みずからを律してゆく生き方が、状況がぬるぬるしいものであればあるだけ、それだけよけいに必要ではなかろうかと思うのです。

 何か大変偉そうなことを言っているように聞こえたかもしれませんが、私は既に歯も抜け始めたような、後は老いぼれてゆくのを待つ身です。だからこそ――と言いたいのですが――君たちのような青年に、どこまでも厳しい生き方を期待したいのです。しかも、自分がどう生きるのかが、今、君たちに問われているのです。
 それでは、これで今日の話を終わります。
                          (1982年10月14日)

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