マテオの掟
はい、静かにしなさい。――というふうな、やわらしい言い方ではない。身体全体に力と怒りを込めて、「ジャカシイ!」と言って、皆が静かにしてくれたら大いに結構。あるいは、そうでなくても、「なんや、セン公のくせに生意気や」と言って、突っかかってきたとしても、それでもまだ救いはある。そうではなくて、投げつけた怒りも全く無視されて、生徒たちは相変わらずおしゃべりを続けているとしたら、怒った方は一体どうすればいいのか。 教室に一歩足を踏み入れると、もうもうたるタバコの煙。もちろん、目の前で吸っている者がいるわけではないが、上は教室の天井から下は机の上あたりまで、煙が雲のようにたなびいている。教壇の上に立つと、その煙で後ろの方の者の姿がかすんでみえるくらい。生徒はどうしているかといえば、一応みんな椅子に座って、おしゃべりに夢中である。 さて、出欠を取ろうと、名簿を読み上げてゆくが、誰も聞いていないから、返事をする者が一人もいない。中にひょうきんな奴がいて、一人で全員分の返事をしよる。注意をしたら、「なんや、せっかく愛想をふりまいたってるのに、なんで怒るんや」というような、不思議でならないといった顔をして、以後は完全に無視。みんなとのおしゃべりに加わってゆく。 おしゃべりといっても、これが普通じゃない。普通の声でしゃべっていたのでは、相手に声が届かない。それぐらいうるさい。だから、しゃべっているのじゃなくて、皆がどなりあいをしているようなものだ。そんな中で授業をするわけだから、教師の方も大声を上げる。しかし、いくら声が商売の教師でも、50対1ではかなわない。 そういうわけで、教師は50分の授業内容を20分ほどでしゃべって、スゴスゴ引き上げるしか仕方がない。精一杯大きな声でしゃべると、20分が限度だということ。あるいは、完全に無視された中でしゃべるという侮辱に、人間がもちこたえられる時間は、20分だということかもしれない。とにかくこうして一時間は過ぎて行く。 そんな状態でも休み時間というのは別にあって、運動場では単車に乗った生徒たちがラリーを始める。中には、そのまま校舎に乗り入れ、廊下から教室の中まで走りまわっている者もいる。これにはさすがの教師も、「あいつら、いったい何を考えとんのじゃ」とあきれるが、あきれるだけで別に手を打つわけでもない。 普通、学校には静かになる時というものがある。休み時間どんなにうるさくても、授業が始まると、学校全体がシーンとするものだ。ところが、この学校にはそんなものがない。一日中、校舎がワ〜ンとうなりを生じている。そうやって一日が終わって、生徒は学校から帰って行く。帰りがけに、校舎の窓を叩き割り、おまけに教室の中に小便をして行く。中には大便までして行く奴もいる。…… これが、今から15年以上も前、二週間だけという約束で教えに行ったある工業高校で、ぼくが目にした光景でした。 その高校は、そのころが最も荒れていました。窃盗だ、リンチだ、喧嘩だと、しょっちゅう新聞紙上をにぎわしていました。本当かどうか知りませんが、授業中、パチンコに行くという生徒を教師が自家用車で送り届けていたという噂が、まことしやかにささやかれていたのも、この時期のことでした。この荒くれたちを引き連れて、ラグビーで全国優勝をとげる監督が赴任するのは、この一年後か二年後のことだったと思います。 そのころ、ぼくはその同じ工業高校の定時制(夜間)で、社会の教師をしていました。一学期の終わり近く、上役の先生が暗い顔をして近づいてきて、〃昼間の社会の先生が二週間ばかり出張するので、代わりに教えに行ってもらえまいか。いやならいやでいいのだけども〃と、いやに遠回しな言い方で頼むのです。何も知らないぼくは、快く引き受けました。するとその先生は急にホッとしたような顔をして、「身の危険を感じたら、何時でも遠慮なく逃げて帰ってくれたらいいから」と言うのです。ナヌッ?と思いましたね。 まだ「校内暴力」という言葉もない時代のことです。教師が身の危険を感ずるといえば、近くは学園闘争における「大衆団交」というのがありましたが、当時それはすでに鎮静化していました。また、もっと古くは、新任の教師を生徒が取り囲んで殴るという荒っぽい儀式があったそうです。そのときに快く殴られてやる教師ほど生徒から尊敬された、なんて物語を何かで読んだことがあります。教師の吊るしあげなら、それに対抗するだけの理屈も自信もぼくは持っておりました。また、たとえ後者だとしても、体力にはいささか自信がありましたから、たとえボコボコにやられたとしても、次の日にはまた教壇に立つぐらいのことはできると思っておりました。たとえそうやって、どこか打ちどころが悪くて不幸にも死んでしまったとしても、それはまぁ殉職ということで、なかなか格好のいいことではないか、などと、今から思えば悲壮な決意をして教壇に立ったものでした。 教壇に立った結果は、さっきお話したとおり、教育というものの犯罪性を衝いて教師を吊るしあげるでもなく、暴力という荒っぽい儀式でコミュニケーションを図るでもなく、完全に無視です。こちらは、荒れている生徒と対決するつもりなのに、生徒の方が全然相手にしてくれない、相手にしてもらえないのです。相手にしてもらえないながらも、「倫理・社会」という教科でもあり、また、すでに鎮静化したとはいえ、学園闘争の興奮がまだ覚めやらない時期でもありましたから、学生活動家たちが提起した問題は何であったのかを、ほとんど絶叫しておりました。 そんなある日、生徒会執行部と称する生徒が、話がしたいからとぼくを呼びに来ました。彼らは、荒れた学校を何とかしたいと、心を砕いていました。何とかしたいけれど、教師は当てにならず、さりとて自分たちだけではどうしてよいものやら分からず、それでぼくのような者とでも話がしたくなったようです。それはそれとして、その生徒が生徒会室に案内してくれる途中、ついでに学校の建物も案内してくれました。 工業高校ですから、学校の中に溶解炉を持っている。鉄を溶かすための炉がある。生徒会の執行部というだけあって真面目なその生徒が、その溶解炉のところに案内して、「先生、この中にほりこんだら、骨までないようなるで」と言うのです。ぼくはギョッとしてその生徒を見ましたね。その生徒は、まるで独り言のように、「ほりこんでもたろか」とも言うではありませんか! その口調は、ぼくをからかっているようでもあり、挑発しているようでもあり、真意を図りかねたぼくは、恐怖を笑いにごまかしながら、ただ「遠慮しとく」とだけ言いましたが、そのとき初めて恐ろしいと思いましたね。 たとえ死んだとしても、死体があったら、まあ涙も流してもらえるけれど、骨まで完全に消えてなくなってしまったら、どうやって悲しんでもらうのですか。そして、吊るしあげるだけでは足りず、暴力をふるう。殴るだけでは足りず、殺してしまう。それでも足りずに、死体さえも存在することを許さぬような憎悪というものがあるのだということを初めて知りました。そういう憎悪のあることを知って、ぼくは本当に怖いと思いました。 さっきちょっと言いましたが、この学校のラグビー部を率いて全国優勝をとげたY監督という人がいます。この人が赴任したのは、それから一年かそこら後のことだと思います。そのY監督が何かの講演の中で次のように言ってました。――運動場で単車を乗り回しているんで、止めに行く。そうすると、生徒が怒って、運動場の端からY監督目がけてまっしぐらに走って来よるわけですね。走って来よる時に、Y監督がその講演の中で言うてましたけれど、自分が生徒たちとやって来たのは、何やったかというたら、信頼や言うわけですね。その生徒が怒りに燃えてまっすぐ自分のほうへ走ってくる。だけどもあの生徒は絶対自分をはねようとは思わない。絶対よけてくれるやろと、そういうふうに信じた。すると生徒は最後のところで避けていってくれた。そういうふうなことを言ってました。まさか自分は殺されはすまい。そんな生徒は一人もいない。そんな信頼が自分には最後のところであったんやというわけですね。 教師は生徒を信頼しなくてはならない。なるほどそのとおりだとぼくは思う。だけども、ぼくには、溶解炉の前で、「骨までなくなるで」と言った生徒の言葉が忘れられない。生徒は、教師である自分をまさか殺しはすまい、たとえ殺したとしても、死体ぐらいは残るであろうと信じる――それはよく言えば信頼だろうけれども、もうちょっと言えば、それはひとつつの甘さではないのか。バイクでひき殺してやろうと怒りに燃える生徒のその怒りも、死体の存在さえも許さぬほどには深くはなかったということです。だからこそ最後のところで、ひき殺さずによけた。また、教師の方も、死体の存在さえも許さぬほど、それほどの深い憎しみの存在を知らなかった。だからこそ信じることができたのではなかったか。そんな気がするのです。 どうしてそういう悲観的なことを考えるようになったかというと、その学校、さっき言ったようにめちゃくちゃな学校です。荒れに荒れまくっているわけです。ところが、ぼくが非常に不思議に思ったのは、そんだけ荒れている学校ですけれども、生徒たちはチャイムが鳴ったら、ちゃんと教室に入るのですね。先生の話は全然聴いていなくても、一応机というか椅子に座っているんです。そして五十分間終わったら、教室から出て行く。 もちろんエスケープする奴もたくさん居よるわけですけれども、ほとんどの生徒が、そうやって授業は教室に居なくてはならないというふうに思っているわけです。自分たちは教室に居ることによって、かろうじて学校とつながっている。いや、むしろ学校という枠のなかに自分を閉じ込めてしまって、そこからはみだすことができない。かと言って、主体的にとどまっているわけでもない。とにかく無性に腹が立つ。だけど、自分自身が何でこんだけ荒れているのか、何でこんだけ腹が立つのか、教師に向かって単車でまっしぐらに突っ込む、その腹立たしさの、腹立たしさをぶつける相手というのがいったい何なのかということが、彼らには分かっていなかったと思うのです。 彼らが荒れた原因というのは、いろいろあると思うんですけども、一番大きいのはやっぱり、その前にいわゆる高度経済成長というのがあったわけですけれども、まあ簡単にいうたら、金儲けしようというわけですね。金儲けするためにはどうしたらいいか。簡単なことです。できるだけ安い値段で仕入れて、できるだけ高い値段で、できるだけたくさん売る。安く仕入れたものを高く売るというとき、一番問題になるのは、労働賃金です。これを低く抑えなければ儲けにならない。つまり儲けるためには、安く人を雇うことです。大学卒業した奴は給料が高い。高校卒業した奴のほうが給料が安い。だから高校を卒業した奴を雇ったら、それだけ安く仕事をさせられる。もっと言えば中卒の奴を雇ったら、それだけ安く仕事をさせられる。だから、できのいい一部の者のほかは、早いこと学校を押し出してしまえということになる。そのためには、学校の勉強を難しくして、ついてこれん奴は落ちこぼれとかいうて、切り捨てていけばいい。そして早く社会に押し出して、安い賃金で働かす。その「落ちこぼれ」という言葉が流行しだしたのも、ちょうどその時期なんですね。 そうやって、次から次へと子供たちは切り捨てられて行くわけですけれども、その工業高校の生徒たちというのは、それまでは自分は工業を身につけて、そうして就職したいと希望に燃えているような生徒が多かった。ところがさっき言った時代というのは、普通科に行けないから工業高校に行くというような生徒が増えてきた。そういう生徒たちが荒れ始めた。そいういうふうな仕組みというか、社会の仕組みというものに彼らは気がつかなかった。気がつかないけれども、腹が立つ。腹が立つから荒れまわる。荒れまわるけれども、何に向かって荒れていいのか分からない。そういう、言葉は悪いけれども、無知があった。無知だったから、ちょっとした気休めが得られれば、彼らの腹立たしさはおさまってしまう。その程度の腹立たしさでしかなかったと思うのです。例えば、教師をちょっとビビラせたらそれで気がおさまる程度の。とても死体の存在さえ許さんというほどの怒りにはならない。 さきほどのラグビーの監督ですけれども、同じ講演の中で、次のようなこともおっしゃっていました。 監督になって、当時のラグビーの名門である花園高校との試合があった。百点以上の大差で負けた。それを見ていた監督は怒りが込みあげてきた。それは、自分のチームが弱いことに対してではなく、それだけ負けていながら悔しそうな様子さえ見せない、へらへら笑っている、その不甲斐なさが腹立たしかったというのです。その試合の後、監督は、「お前ら悔しくないのか」と言って、泣きながら選手たちを殴ったと言います。最初、何で監督が怒るのか分からなくてポカンとしていた選手たちも、やがて自分の不甲斐なさが悔しくなって、監督といっしょになって泣き出した。これが彼らが全国大会に向けて猛練習を始めるきっかけになったといいます。 テレビ・ドラマを地で行くような、とても感動的な話ですね。ぼくはこの話を聞いて涙を流しました。流しながら、だけど、あの荒れていた連中の怒りはそれでおさまったかもしれないけれど、「骨までないようになるで」と言った、あの生徒の絶望は救われまいと思っていました。テレビ・ドラマによくありますね。熱血青年教師というのが出てきて、「あの先生は本当にオレたちのことを考えてくれている」というので、今まで荒れていた生徒たちが荒れなくなるというワン・パターン・ドラマが。自分たちのことを分かってくれ、理解してくれ、考えてくれ、というのは、甘ったれです。だからこそ、ちょっと「オレについてこい」式の熱血ムンムン教師が現れると、彼らの荒れは治まってしまう。それだけのものでしかないということです。彼らは、自分が閉じ込められている枠を、枠の外から見ることができない。枠を枠として自覚することができない。つまり無知なのです。 そういう彼らだからこそ、彼らは枠の外を見ることもできない。 さっき言ったように、彼らは学校からの帰りがけ、校舎の窓ガラスを叩き割って帰ります。教室に小便や糞をして帰るわけやね。その後どうなったかといえば、そのあと夜間の生徒たちがその学校に来るわけです。そしてそこで勉強するわけですね。そうすると教室にしょんべんの匂いが立ちこめているわけ。ガラスが割れて、その割れ目から冬の寒い風と闇が吹き込んでくるわけです。彼らは、どうしたか。「昼の奴らは」というわけです。「昼の奴らは」と言うて、その先の言葉が出ない。「ぶっ殺したろ」とか、「ぶちのめしたろ」とか、そういう言葉にならない。言葉にならないだけ、それだけ深い恨みつらみがある。なんで俺たちはこんなしょんべんくさいところで勉強せないかんのや。その恨みつらみ、声にならない声がある。そういう生徒たちがいるということを、その昼間の生徒たちは知らなかった。自分の枠も見抜けない者が、どうして自分が閉じ込められている枠の外の世界まで見抜くことができようか。できるはずがありません。 皆さんは、普通科という高校にいるわけです。彼らが望んでも行けなかった、自分たちも普通科に行きたいと思ったけれど行けないで工業高校に行った。そういう普通科にいる。だけども、君たちの下というか、君たちに対して、「あいつらええなあ」という羨ましさや羨望のまなざしで見ている生徒たちがいるわけですね。さらにそういう生徒たちを見ている下の層がいる。今日の朝の一時間目の話にありましたけれども、そういう社会の仕組みの中で、自分がどういうふうな位置にあるのかということを勉強してほしいと思う。 今日はちょっと前置きが長くなってしまいましたけれども、皆さんには、とにかく勉強してほしいと思います。人を押しのけて、踏みにじって、自分だけええ目をしようと、関関同立だけが俺の目標だというような勉強ではなく、社会の仕組みの中での、自分と自分の下にいる人たちとが手を結び合ってゆくにはどうしたらいいか、そしてこの社会の仕組みというものをちょっとでもよくするにはどうしたらいいか、そういう勉強をしてほしい。その勉強をするためには、自分が今どこに位置しているのかということをきっちり見つめなくてはならない。また、見つめてほしいと思います。 ちょっと話があちこちしましたけれども、今日はこれで終わります。 (1987年11月4日) |