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back.gif第3章-2 


幕末・外国人要撃(6/6)

第3章-3







 この年、慶応四年は、1月から3月にかけて、上述のように、備前藩兵、土佐藩兵による外国人殺傷、さらには、イギリス公使パークス要撃事件と、新政府を震撼させる事件が続発したが、その一方で、鳥羽・伏見に端を発した戊申の内戦は、江戸、北越、東北へと移り、箱館五稜郭戦争までを含めれば、一年余り続くことになる。

 旧幕軍会津藩兵が、戊申戦役の緒戦となった鳥羽・伏見の戦いにおいて、薩長の近代的軍事力の前に敗北、敗走して江戸に帰還したころには、すでに、薩長を中心とする新政府軍によって、仙台藩に対し、会津追討令が発せられていた。
 会津藩追討を命じられた、仙台藩・米沢藩など奥羽十四藩は、閏4月、会津藩に対する朝廷の赦免を嘆願するが、却下され、奥羽越列藩同盟の前身となる反政府軍事同盟(白石列藩同盟)を結ぶ。
 その間にも、東征軍は「奥羽の関門」といわれる白河(現福島県白河市)に迫っており、
5月1日、白河は東征軍によって制圧される。ここに至り、奥羽十四藩に十一藩を加えた諸藩が、会津征討中止を嘆願するも拒否されたことから、5月3日、奥羽列藩同盟を締結。5月6日には、北越六藩が加わり、奥羽越列藩同盟を結んで、東征軍に対することとなった。

 江戸では、2月、一橋家の関係者が中心となり、彰義隊が結成される。隊では、その後、分裂も起こるが、上野戦争のころには、2千名あまり(正確な人数については不明)の勢力になっていたといわれる。だが、5月14日、大総督府が彰義隊に宣戦を布告すると、脱走者が相継ぎ、勢力は千人ほどに減少。翌15日の、大村益次郎が指揮する新政府軍の攻撃により、彰義隊は壊滅した。この上野戦争で生き残った一部の者たちは、その後、箱館戦争までを転戦する。

 一方、新政府は、3月14日、五カ条の誓文(維新政権の基本方針)を発布する。これには、翌3月15日の江戸城総攻撃の向かい、内には、公議政体論派を抑えて自己の下に諸政治勢力を結集、外には、列強諸国の支持を得ようとした配慮があったといわれる。
 さらに、3月15日、太政官は旧幕府の高札を撤去し、五枚の制札(「五榜の掲示」ともいわれる。第1から第3札は、永世の定法として、五倫を勧め、徒党・強訴・逃散を禁じ、キリシタン・邪宗門を禁じているが、これらは、江戸幕府の、全くの継承であり、第4札と第5札は、一時の掲示で、万国公法を遵守する旨を述べ、士民の本国脱走を禁じたものとなっている)を立てる。
 同日15日、江戸城を包囲していた東征軍は、徳川慶喜追討の命を受け、総攻撃と決していたが、前日14日の、大総督府参謀西郷吉之助・旧幕府陸軍総裁勝義邦らの、芝、田町薩摩藩邸における会談の結果、江戸城総攻撃は中止される。この勝・西郷会談の背景には、イギリス公使パークスら国際勢力による圧力と、武州・上州など、関東周辺に起こっていた一揆の力が大きく作用していた、といわれる。

 4月11日、徳川慶喜が恭順の意を表して水戸に退き、江戸城は無血開城。江戸城は東征軍によって接収された。

 混乱の続くなか、新政府は、閏4月21日、「政体書」(冒頭に五カ条の誓文を掲げ、次に政体の綱領、次いで官職と官等の二部に分けて、詳細に規定)を発表。政府の政治組織を明らかにした。
 さらに、5月15日には、太政官札を発行する。

 他方、白河を制した東征軍は、棚倉・泉・湯長谷・平・相馬の、各藩を次々に制圧。二本松藩も激戦の末に落城。奥羽越列藩同盟の一翼を担っていた長岡藩も同じ日に落城し、越後においてもまた新政府軍が勝利する。
 会津への侵攻を開始した新政府軍は、石筵・母成峠(安達太良山)方面から猪苗代湖を経て、若松城下に入る。激しい市街戦に、城下は大混乱に陥り、数々の惨劇が繰り広げられたといわれるが、会津征討越後口総督府軍の旗下にあった尾張藩士佐久間鍬三郎の草稿とされる『尾張藩 北越日記』(『北越戊辰戦争史料集』稲川昭雄編 新人物往来社 2001年11月25日刊 p.217)にも、手短だが、以下のような記述がある。
「一、坂下村南会城マテ道路、敵死者数ヲ不知多シ 死セル死人ニ気難堪、城溝中死人又  多シ。奥羽口ノ官軍、市中諸士ノ屋宇ヲ打毀チ、家財ヲ分取。其余商家ニ入テ、家財  取テ、売店ヲ市中ニ聞キ、農民ニ売之。嗟嘆之憐之。」(9月15日)
この間にも米沢藩に続き仙台藩が降伏。会津の孤立は深まっていった。そして、一ヶ月の籠城の後、明治元年9月22日、会津藩は東征軍の軍門に降る。

 内戦が拡大、熾烈を極めていた、7月15日、大阪が開港され、二日後の7月17日には江戸が東京と改称された。

 一方、旧幕府海軍副総裁榎本釜次郎は、上野戦争の当日、5月14日、横須賀・浦賀方面にいて、戦争を避けていた、と言われるが、その後、「主家成り行き」の有様を見届けた彼は、8月19日夜、旧幕府の軍艦開陽・回天・蟠竜・千代田形・長鯨・神速・美賀保・咸臨の八隻を率い、旧幕府幹部、旧幕府軍事顧問団のフランス陸軍教官らと共に、江戸湾を去って、仙台に向かう(このときの、フランス士官の同行は「公使の声明した局外中立に違反し、またフランスと友好関係を結んでいる日本の君主の主権にそむいて」いるということで、「フランス公使館にとって大きな頭痛の種であった」と、サトウは記している(サトウ前掲書(下)231p.))。
 榎本の艦隊が、仙台領石巻に到着したのは、会津藩が籠城体制に入った後の8月26日。28日には米沢藩が新政府軍に降伏の意思表示をする。

 東北戦争が終焉に向かっていた、9月8日、年号が慶応から明治に改められ、一世一元の制が定められる。

 その後、間もなく、仙台藩が降伏。会津が軍門に降った後、榎本は「東北で戦った旧幕臣を始めとする敗残兵で、政府に降伏するのを潔しとしない者すべてを、艦隊に引き取」り、10月12日、艦隊を率いて石巻湾を出発。蝦夷地へと向かった。彼らが、箱館の北、内浦湾に面した鷲の木に上陸したのは10月20日。2日後の22日に箱館戦争が始まる。そして、26日、榎本軍は箱館・五稜郭を占拠。11月には松前城を陥落させ、江刺も制圧するが、開陽が11月15日、座礁沈没。対する新政府軍は、アメリカから甲鉄艦を手に入れ、その他の軍艦や運送船等八隻を宮古湾に集結させた。これを、榎本軍が急襲するが、敗北。新政府軍の蝦夷地上陸により、激戦が続くが、明治2年5月11日、総攻撃が開始される。榎本たちが江戸湾を出て、9ヵ月、榎本たちの投降によって箱館戦争は終わった。1年5ヵ月におよぶ戊申の内戦の終結である。

 榎本らが蝦夷に戦っていた10月27日、慶応三年7月6日夜に長崎で発生したイギリス軍艦イカラス号水兵殺害事件の犯人が、筑前藩士であることが判明。被害者遺族に見舞金が支払われ、下手人金子才吉と同道していた6名の者が禁錮刑に処せられている。金子才吉は、慶応三年7月8日、すでに自刃して果てているが、筑前藩がこれを秘匿していたため、土佐藩に嫌疑がかかっていた事件である。

 11月19日、東京が開市され、かねてより開港の延期されていた新潟港が開港される。
 11月22、23日の両日、天皇、東京で、各国公使を引見する。

 状況は変化し、世の中は変わりつつあった。だが、サトウの古い友人で、それまで越後と会津で戦傷者の手当てに従事していた医師のウィリアム・ウィリスが、副領事に任命され、東京に戻っていた11月28日、外国人居留地のある築地から下谷に向かう途中、一人の壮士ふうの男に威嚇されたことを、サトウは聞く(サトウ前掲書(下)141p.)
 サトウは、「今でも一般の日本人は外国人に対して昔ながらの不信の念を持ち、外国使臣には仕方なしに我慢をしているが、進んでこれを歓迎する気持ちはない。これはやむを得ない災難だぐらいに思って」いる。また、天皇政府も、外国使臣たちを軽んじているが、外国使臣たちの側でも、横浜にいて、国家間の「諸問題を聞知する点にかけては、香港に駐在しているのと何の代わりもなかった」と記している(サトウ前掲書(下)232p.)。

 慶応から明治へと年号が変わり、その明治元年も、いよいよ押し詰まった12月28日、英・仏・蘭・米・独・伊六カ国が、局外中立の宣言を解除する(この局外中立解除に至る、何ほどかの経緯が、サトウ前掲書(下)240p.〜250p.に記されている)。


 慶応4年1月に始まった「戊申の内戦」は、明治2年5月まで続いた。
 新政府は、その間にも、上記のように、五か条の誓文を発し、五榜の掲示を行い、政体を定めて、太政官札を発行、江戸を東京と改め、年号を改元、以後一世一元とする等、天皇を中心とする統一国家形成のための地歩を着々と固めていく。
 そして、その後、日本はアジアで唯一の資本主義独立国家となっていくのであるが、この天皇制国家が、大陸への侵略を強行する政治支配権力となるのに、そう多くの時間はかからなかった。


おわりに

 幕末期、外国人を含む、実に多くの人々が 邀撃殺傷・襲殺、謀殺・故殺・暗殺、処刑されていった。記録に残る以外にも、時代状況の中で殺傷された多くの人々があったことは想像に難くない。同時に、時代のうねりの中で、自分たちに「敵する」人間の殺害に手を染めていった者たちも、身分を超えて多数あり、記録にないものを含めると、その数は相当数にのぼるものと考えられる。「庶民」もまた、『甲子兵燹図』に見るまでもなく、死を日常とする世界に身を置き、時代の思潮の中で、「天災」に翻弄される日々を送っていた。
 人は情況に規定され、時代の制約を受ける。草莽といわれた、武士階級以外の青年たちがそうであったように、イラクの、「普通」の家庭の青年たちもまた同様であろう。アメリカの侵攻以来、日々、同胞の死を目にした青年が、反アメリカをスローガンに闘争する「テロリスト」のことばに呼応して、行動に走るのは、時代の支配的思想に動かされ、山深い地から馳せ参じて攘夷行動を起こした、青年たちの例を見るまでもなく、理解し得ることである。だが、彼らに共通する、死を日常として生きる心性は、現代の日本に生きる大多数の人間にとって、想像をはるかに超え、理解の及ばないものであるにちがいない。
 「人間の脳は、基本的に身体の経験にない事柄を想像することはできない」といわれる。160年ばかり前の幕末期の「身体の経験」は、まずもって、現代日本人の中には残っていないばかりか、第二次大戦に向かう戦争前夜の日々さえも、「身体の経験」として記憶にとどめる人は少数になり、それらの人々の、「現日本の社会情勢は、戦争前夜の情況に酷似している」との声も、「身体の経験」にない人間の想像外のこととなっている。
 「身体の経験」の消滅にともなって繰り返される「権力」闘争と、その「悲惨」を回避する知恵を、人類は、発生の当初において賦与されなかったばかりでなく、進化の過程で、権力・権威への「憧れ」を増幅させつつ、闘争のうちに終焉を迎えるようプログラムされているのではないかと思われるような、歴史の相ではある。
 『服従の「言葉」・抵抗の「言葉」』において、富田章夫は、以下のように述べている。
「強大な権威の与える『大きな言葉』に対する不服従への、ささやかで遠い第一歩」は、「個人的体験に根ざした」、良心の声とは異なる「内なる『つぶやき』しかない」。「つぶやき」とは「苦悶する人間を眼前にした時のような、もっと直接的な、もっと情緒的な反応である」。「他の民族や他国民に不必要な苦しみを与えないですむ可能性、人類の滅亡につながるかも知れないシステムを作動させる歯車の一つとならない可能性は、個人という、こんなちっぽけな次元にしかないのではないかと思う」と。
 (『服従の「言葉」・抵抗の「言葉」』

 (2009.2.10)





【参考文献】(本文に明示したもの以外に参考としたものを以下に挙げる)

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  • 『体系日本の歴史 12 開国と維新』 小学館 1989年
     
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  • 『藤岡屋日記』 三一書房 1990年
     
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  • 石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』 吉川弘文館 1973年

     
  • 平尾道雄『維新暗殺秘録』 新人物往来社 1978年
     
  • 宮永孝『幕末異人殺傷録』 角川書店 1996年
     
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  • 内山正熊『神戸事件』 中央公論社 1983年
     
  • 大岡昇平「堺港攘夷始末」 『大岡昇平全集 13』 筑摩書房 1996年
     
  • 大岡昇平「『堺事件』疑異」他 『大岡昇平全集 19』 筑摩書房 1995年

     
  • 星亮一『会津戦争全史』 講談社 2005年
     
  • 今井昭彦『近代日本と戦死者祭祀』 東洋書林 2006年
     
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  • 『江戸の外国公使館』(開国150周年記念資料集)港区立港郷土資料館 2005年
     
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  • カール・クロウ『ハリス伝ー日本の扉を開いた男ー』 平凡社 1979年
     
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  • ミッドフォード『回想録』
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  • 『山口県の歴史』 山川出版社 1998年
     
  • 『堺市史』第三巻 本編第三  堺市役所、 1930年
     
  • 『堺市史』第七巻 別編  堺市役所、 1930年
     
  • 清水唯夫『下関・維新物語』 新日本教育図書 2004年

     
  • 『幕末維新全殉難者名鑑』 新人物往来社 1986年
     
  • 『幕末維新史事典』 新人物往来社 1983年
  • 『明治維新人名辞典』 吉川弘文館 1981年

     
  • 稲垣史生監修『江戸の大変〈天の巻〉』 平凡社 1995年
     
  • 高橋敏『幕末狂乱(オルギー)ーコレラがやって来た!ー』 朝日新聞社 2005年

     
  • 片倉もとこ『イスラームの日常世界』 岩波書店 1991年
     
  • 寺島実郎・小杉泰・藤原帰一編『「イラク戦争」検証と展望』 岩波書店 2003年
     
  • 酒井啓子『イラクはどこへ行くのか』(岩波ブックレット No.643) 2005年
     
  • 飯塚正人「イスラーム思想における生と死」『明治大学公開文化講座IIV』                                風間書房 2006年
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