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back.gifタブラ・ラサ(白い拒絶)


エッセイ



服従の「言葉」・抵抗の「言葉」


   I. 「言葉が通じない!」
   II. 服従の「言葉」
   III. 抵抗する「言葉」




I.「言葉が通じない!」

 ある私立の男子高校のことである。
 二学期も後半に入り、学園祭を始めとする大きな行事もみな終わって、やっと学校全体が落ち着きをとりもどしかけたころ、新任の若い女性教師が生徒指導部に駆けこんできた。体育クラブの生徒の一人が、自分に向かって牛乳パックを投げつけ、暴言をはいたと言うのである。

 この一言で、学校は一種のパニックに陥った。くだんの生徒は厳しい停学処分に処せられ、校長、副校長(校長と教頭との中間の地位を占める)、同和委員長(この学校は同和教育に熱心なのである!)の三役は、その女性教師が担当しているクラスにそろって出向き、〃おまえたちのやっていることが、いかに卑劣で男らしくないか〃と訴え、職員会議では男性教師が〃人権問題だ〃といきまいて同和委員会の無能をなじったし、義憤にかられた若い男性教師は、女性教師の授業時間に「巡視」を買って出、態度の悪い生徒は廊下に呼び出して殴りつけさえした……。

 まるで、現在の教育現場の貧寒さを揶揄する戯画を見ているようであるが、戯画のようなことが平然と、いや、むしろ大真面目に演じられているのが、今の学校という場なのである。こういった教師たちの思考回路を分析してみるのも興味深いことに違いないが、今は本筋から外れるので深入りはしない。わたしの関心を引いたのは、その女性教師が事情説明の中でふともらした言葉である。

 全校で千数百人の男子生徒を擁する高校であるから、教師たちも、わずか一人の養護教員をのぞけば、他はみな当然のごとく男性教師ばかりであった。それが数年前から、非常勤講師として女性教師もわずかに採用し始めたが、彼女たちは教師稼業何十年といういわばプロであった。そんな中に、大学を出たばかりの女性が英語の教師として就任したのである。青春期のまっただ中にある生徒たちにとって、まぶしいような存在でないはずがなかった。

 初めのうち、授業とはまったく関係のない興味本位な質問、時には性的な質問を露骨にする生徒がいた。だが、丁寧に応えてやっているうちに、そのような質問はなくなったと言う。そのかわり、授業がだんだん騒がしくなり、いわゆる「おさえ」が利かなくなったと言う。
 担当教科が英語であったことも、彼女にとっては不幸であった。生徒間の学力の差は大きく、しかも、だんだん授業についてゆけなくなる生徒は、時とともに増えてゆく現状が、今の高校にはあるからである。

 しかし、彼女は熱心な先生であった。放課後になると、何人かの生徒を残してグループ学習をさせてもいた。ただ、彼らは出来のよい生徒であったことが、他の生徒たちの反感をかう結果になったかも知れない。しかも、こちらの生徒はいよいよ馴々しく振る舞い、彼女もそれがひとつのコミュニケイションの方法と受けいれていたと言う。

 こうして、授業として成り立たないような状況で一学期が終わったと言う。だが、これは何も彼女の担当クラスだけのことではなく、よくある風景のひとつにすぎない。

 二学期初め、恒例の学力テストが実施された。いずれの教科も芳しくない結果であったが、特に英語は惨憺たるものであった。彼女の担当クラスだけがではない。学年全体がそうなのである。

 試験問題の内容が不適切だったのではないかとか、自分たちの教え方がまずかったのではないかとか、誰でもが真っ先に思い浮かべるであろうような反省は一切なく、英語科の専任の教師たちは、生徒たちの不勉強にひたすら腹を立てて、今までは単なる検査にとどまっていた学力テストの結果を、二学期の成績(評定)に加えることを一方的に決定した。もちろん、成績というと過敏に反応する(まがりなりにも努力する)生徒たちの習性を計算に入れての決定であった。
 この会議に非常勤講師の彼女は寄せてもらっていない。このように決まりましたと知らされ、生徒にもそのように通告するよう指示されただけである。

 ベテラン教師たちのクラスでは、通告はさしたる混乱もなく行われた。生徒たちはしばらく不満の声を上げただけである。
 しかし、彼女のクラスではそうはいかなかった。通告に対して、たちまち十数人の生徒たちが詰め寄り、教壇上の彼女を取り囲み、怒りをぶちまけた。彼女は、「この子たちに言葉は通じない」ということがわかり、初めて恐怖に駆られて、廊下に逃れ出たと言うのである。

 その後、生徒たちの憤懣がくすぶりつづける中で、女性を侮辱する卑猥な内容の落書きが黒板に書きなぐれ、そういう雰囲気を最も敏感に察した体育クラブの生徒の一人(それは、勉強ができないということを象徴するようなクラブ推薦で入学してきた生徒であった)が、牛乳パックを彼女に向かって(当たらないように)投げつけ、暴言をはいたという次第である。

 ここには、勉強する意欲のない生徒たちと、評価権を振りかざすことによって勉強させるしか能のない教師たちと、そういう者たちが一定の関係性を強要されている現在の普通の(ということは、進学校ではない)教育現場の姿が集約されていると言ってよいのだが、特にわたしの関心を引いたのは、女性教師の口を衝いて出た「言葉」の問題である。

 「この子たちに言葉は通じない」、――いったい、そう言う彼女の方は、生徒に通じるような言葉をはいていたのだろうか。教師に詰め寄り、取り囲み、わめき散らすことによってしか表現することのできなかった生徒たちの、その「言葉」の方は、はたして彼女に通じていたのであろうか。
 あるいは、こういう問いかたをした方がいいかも知れない。
 同じことを告げているにもかかわらず、他の教師たちのクラスでは、大した抵抗もなく通じてしまったのはなぜであろうかと。

 われわれが、言葉が通じるとか通じないとか言う場合、そこには常に拭いがたい自己中心主義がつきまとっている。
 例えば、言葉が通じないという場合の最も卑近な例は、おそらく、共通する言語をもたない外国人と対面した場合であろう。なるほど言葉が通じない。だが、この場合でも、問題になるのはいつも「自分の言葉が」相手に通じるか否かであって、相手の言葉が自分に通じるかどうかということは、考えてみようともしないのが普通である。

 言葉のもつこの自己中心主義は、母(国)語を同じくする者の間では、はるかに深刻な問題を提起することになる。なぜなら、そこでは単なる「意思の疎通」はもはや問題ではなく、言葉が通じるか否かは、相手が自分の言葉を受けいれ、納得し、これに聴従するか否かを問われることになるからである。

 言葉は初めから通じるようにできている。
 その言葉が通じないのは、もはや言葉の問題ではなく、道理の問題である。言葉が通じないのは、相手が道理に昏いからである。われわれが、「あの人には言葉が通じない」というとき、そこでは、もはや意思の不通という単なる事実を述べているのではなく、通じない相手に対する決定的な非難と侮辱を意味しているのである。

 このように、言葉が通じないという言表には、二重の意味がこめられていることに、われわれは留意しておく必要がある。すなわち、
 1.それは、言うことが相手にわからない。
という意味であり、
 2.もうひとつは、相手が自分の言うとおりに従わないという意味である。

 先ほど述べた女性教師に憤懣をぶつけた生徒たちは、教師が何を言っているのかわからなかったのではない。教師の言うことがわかったからこそ、彼らはあのように怒り狂ったのだと言ってよい。にもかかわらず、「言葉が通じない」と非難されたのは、彼らが教師の言うことを受けいれなかったから、教師の言うことにおとなしく従わなかったからにほかならない。

 この女性教師も、他の教師たちも、言っている内容はどちらも同じだったはずである。ただ、女性教師の方は、説明の仕方、言いかたが下手だったのかも知れない。
 わけ知り顔の人々は、それ以前に、そもそも「教師ー生徒」という基本的な関係がうまく成立していなかったことを指摘するかも知れない。生徒は女の教師をなめていた!
 たとえそうだとしても、「教師ー生徒」という関係が本来的に内包している問題性が、彼女のクラスでは端的にあらわとなったのに反し、他のクラスでは巧妙に隠蔽された(言ってよければ、言いくるめられた)のだという事実に変わりはなかろう。
 ここで「朝三暮四」の故事を思い浮かべるのも、あながち的外れではあるまい。ドングリの実が、朝三暮四であろうと朝四暮三であろうと、サルたちの餌が減らされたという事実に変わりはないのだ。
 しかし、残念ながら、あの故事に登場するサル以上の「人間」になるようにと教えることが、今の学校の仕事なのではない。むしろ、通じるはずのない言葉でも通じさせてしまうのが、ベテラン教師のベテランたる所以とみなされているのである。

 これは、「民主的な」為政者が、何らかの政策を国民の「ご理解とご協力」を得て実施しようとするときと同じだといってよい。
 為政者がどれほどへりくだった物言いをしようと、あるいは、どれほどもったいぶった言いかたをしようと、国民に問われているのは、為政者の言葉に従うか否かであって、政策の修正や改変に関する意見の開陳を期待されているわけではない。もしも政策に従おうとしない者があるなら、彼はあたかも道理をわきまえぬ「非国民」「人非人」のごとく扱われる。
 言うことがわかるということと、言うことに従うということとは異なるはずなのに、ここでは、もはや「理解する」「わかる」ということは即ち「聴従する」ことと同義とみなされている。
 もしも言葉が通じなければ、残るのは力の論理だけである。しかも、道理は力をもった側にある。

 言葉がもつこの「押しつけがましさ」は、いったいどこからくるのか? われわれが直面しているのは、もはや支配と被支配、命令と服従の問題である。
 自由選択の余地なく覆いかぶさってくるという意味では、それはもはや権力の問題でもある。
 今日、われわれの社会では、権力が外的な単一の威力として現前することはめったにない。といって、権力の問題がなくなったわけではない。単に眼に見えにくくなっているというにすぎないのである。




II.服従の「言葉」

 1962年、イスラエル諜報部は、それまで20年にわたって探索しつづけていた一人の男を、ついに南米において発見し、これを拉致してイスラエルの法廷で裁いた。ナチ親衛隊上級大隊長、ゲシュタポB4部長、数百万にのぼるユダヤ人大量虐殺の首謀者の一人、アイヒマンである。悪魔の化身のごとき男を想像していた世の人々は、机の前に座って職務を忠実にはたすことしか知らぬ平凡な役人にすぎない彼の姿に衝撃を受けた。
 いったい、平凡な人間にあのような真似ができるのか。

 人類に対する罪を問われた彼は、自分は「命令の運搬人」にすぎなかったと主張した。
 悪魔のような恐ろしい応えか、さもなければ身も世もあられぬ懺悔を期待していた人々は、その応えの平凡さに失望し、かつ、卑劣きわまりない責任逃れだと激昂した。
 われわれにとっては、悪は悪と認知されないと困るものなのだ。

 いったい、人間は命令にどこまで従うものなのか。
 平凡な人間は、自分が残忍であることにどこまで堪え得るものなのか。
 そもそも、アイヒマンは責任逃れをしようとするほどに責任を感じていたのであろうか。
 こういう問題意識をもったアメリカの心理学者が、恐るべき心理実験をしている(スタンレー・ミルグラム/岸田秀訳『服従の心理ーアイヒマン実験』河出書房新社)。
 この実験の恐るべき点は、ひとのよい平凡な人間をペテンにかけて、心理実験の実験台にのせたこと、そして、彼らも状況しだいで、いともやすやすとアイヒマンになり得ることを実証してみせたところにある。

 二つの部屋が用意される。一方の部屋には電気椅子があり、そこに「生徒」役の人物が縛りつけられている。もう一方の部屋には、実験の責任者とみなされる人物と「教師」役の人物とがおり、彼の前には、15ボルトから最高450ボルトまで、15ボルトずつの度合で電圧を上げられるようになった送電器が据えられている。
 そして、「教師」は、例えば、「青い箱、よい日、野生の鴨」というように、一連の単語の対を読み上げ、次に、「青い」と対になっていたのは、「空、インク、箱、ランプ」のうちのどれだったかと質問する。「生徒」からの応えはランプで示される。それが間違いである場合には、罰として電気ショックを与えられるのであるが、重要なのは、間違えるたびに15ボルトずつ電圧が上げられてゆくことである。後もどりはない。
 こんな教育機器を夢想したこともないという教師は、決して少なくはないはずである。

 「生徒」の学習と記憶の科学的実験のように見せかけて、実は、実験されているのは「教師」役の人物である。彼はこの実験をどこまでつづけるのか。つまり、電圧のボタンをどの水準まで押すのか?

 「記憶研究のための人員を求む」という募集広告に応募してきた「教師」役の被験者たちは、実験者からひとたび指示されるや、「生徒」を死に至らしめるであろう最後のボタンを押すまで、行動を中断しようとはしなかった。
 送電器が本物であることを示すため、「教師」は45ボルトのサンプル・ショックを体験させられているにもかかわらず。
 そして、送電器のスイッチには電圧がはっきりと表示され、4個のスイッチ(つまり60ボルト)ごとに、ショックの強さが言葉でも明示され、スイッチを押すと、パイロットランプに鮮紅色の光がつき、電気ブザーが鳴り、電圧上昇器に青い電光が走り、電圧計の針が右に揺れ、各種の中継クリニックがカチッと鳴り……、
 「生徒」に送るショックの強さが増加してゆくことを「教師」が忘れないように、スイッチを押す前に必ず電圧の水準を声をあげて読み上げることになっていたにもかかわらずである。

 これではあまり実験の意味をなさないので、次には隣の部屋から「生徒」の反応が伝わるようにしてみた。
 75ボルトでは、ちょっと不快感を示してぶうぶう言う。
 120ボルトでは、ショックが苦痛になり始めたと大きな声で告げる。
 135ボルトでは、苦しいうめき声が発せられ、
 150ボルトでは絶叫する。
 「先生、ここから出して! もうこれ以上実験はやりたくない! もういやだ!」。
 この絶叫がだんだん強まり、
 180ボルトでは「痛くてたまらない」と叫び、
 270ボルトでは苦悶の金切声を上げ、
 300ボルトでは、もうテストに応える気がしないと絶望的に叫ぶ。
 315ボルトではすさまじい悲鳴をあげ、
 330ボルトになると、もう何も聞こえてこず、「生徒」の応えも返ってこない。
 しかし、「教師」は実験者から、無答は誤答とみなして作業をつづけるように指示される。……
 実は、実験者も「生徒」も、この実験のために訓練された素人の演技者にすぎないのだが、まったくそれと知らない「教師」は、さて、どこまでショック送電器のボタンを押しつづけるのか。

 40人の「教師」たちのうち25人(62.5%)が、実験者の指示に従い、送電器の最強のショックに達するまで「生徒」を罰しつづけた。450ボルトのショックが三回送られると、実験者が実験の中止を命じた。

 「生徒」が泣こうが喚こうが、15ボルトずつショックの水準を上げるボタンを押してゆく人間。もう何も応えられなくなった「生徒」に、それでも質問をし、応えが返ってこないというので、ショックの水準を上げてゆく人間。何の反応も示さないものに向かって質問し、450ボルトまで、もうそれ以上のボタンがなくなるまでボタンを押しつづけている人間の姿には、想像すると鬼気せまるものがあるが、もっと恐ろしいのは、これが平均的な人間の姿であることを、この実験が暴き出してみせたことである。

 容易に予想されることだが、「生徒」を「教師」に近づければ近づけるほど、この実験の続行を拒否する被験者(「教師」役)が増えてくることも証明された。つまり、「生徒」が同じ部屋にいる場合、最後まで実験をつづけた者は40人中16人(40%)に減る。さらに、「生徒」が自分の手をショック・プレートにのせないかぎり、ショックを受けないようにし、150ボルトの水準で「生徒」は実験の中止を要求し、ショック・プレートに手をのせることを拒否するようにする。したがって、罰を与えるには、「教師」は自分の手で「生徒」の手をショック・プレートに押しつけなければならない。この条件下では、しかし、それでも40人中12人(30%)の者が、最後の段階までいってしまうのである。

 設定されたさまざまな条件下での実験を通して、ミルグラムは、「教師」の反応が、あくまで「権威」に対する反応であることを明らかにする。
 われわれは、命じられたからするのでもなく、まして命じられた内容が善だからするのでもない。権威が命じるからするのである。そこではもう何をするかは問題ではなく、誰が命じているのかだけが問題なのである

 ここでミルグラムは、サイバネティックスの理論を引きながら、「代理状態( agenticstate)」という概念を導入する。
 「サイバネティックスの分析の観点から言えば、代理状態とは、自己調節的存在が、ヒエラルキー的統制組織のなかで機能できるように内部的に修正されたときに生ずる状態である。/主観的観点から言えば、代理状態とは、個人が自分自身を、より高い地位の人による規制に服さねばならない社会的場面におかれていると見なしている状態である」。

 代理状態にあっても、命令や指示が与えられないかぎり、服従行為は生じない。しかし、逆に言えば、それは、命令や指示が目に見えない形で与えられれば、あたかも自分は自発的にふるまっているかのように思いこませながら、服従させることも可能になるということでもある。

 人間をこのような代理状態に移行させるものは何か。換言すれば、権威への服従の心性を形成する先行条件は何か。ミルグラムは次の三点にまとめている。

 1)個人の家庭経験
 われわれは生まれてすぐから、権威構造のただなかで成長する。子どもは先ずは親の規制に従わなければならない。良心の声すなわち道徳的命令も、親の命令や禁止をその源泉とする。
 そして、道徳的命令に従うよう親が子どもに言い聞かせるとき、親は実際には二つのことを同時に行っているのである。すなわち、第一に、「従うべき特定の倫理内容を提示している。第二に、権威的命令そのものに服従するよう子どもを訓練している」。
 こうして、命令の内容は種々異なっても、服従への要求だけは変わらず、それは特定の道徳内容よりも強い力をもつようになる。

 2)制度的背景
 社会的制度そのものが権威構造を有している。家庭の保護から抜け出た子どもが移されるのは、学校という制度的権威組織である。授業は、ただ知識を教授する場ではない。知識を与えつつ、権威の言うことをおとなしく聴くことをもしつけているのである。また、子どもたちは、教師によって規制されるが、その教師も校長に頭が上がらないことを知る。その校長も教育委員会や学園理事会に……と、自分たちを規制する力が、どこか見定められぬ遠くに淵源していることをも感知する。
 こうして、権威が、あの人この人と名指しできない抽象的な存在になってゆくと同時に、非人格的権威に敏感に反応するよう教えこまれる。その結果、記章、制服、肩書きなどで示される抽象的地位に反応し、敬服のみが権威に対する適切で快適な反応であることを体得してゆく。

 3)報酬構造
 権威に服従すれば一般に報酬が得られ、服従しなければたいてい罰せられる。しかも、報酬はヒエラルキーの位階を一段あがるいう形で与えられる。この経験は、個人に深い情緒的満足を与え、さらに服従へと促すと同時に、権威構造を世代から世代へと永続させることになる。こうして、社会的秩序は内面化される。
 服従は必ず、内面化された基盤、すなわち、自発性を何らかの形で有する。自発性と自発的服従とを区別するものは、何らかの命令や指示の有無を別にすれば、何もないのである。

 こうして形成された心的態度は、権威を、それも、合法的権威を認知するや、もはや行為内容については問題にせず、自分に指図している権威に対してのみ責任を感じるようになる
 ここにおいて最も恐るべき点は、道徳心が(弱まりこそすれ)消滅しないこと、むしろ、個々人の道徳心がそのままある一点、つまり、権威に対する責務をどれほどうまくやり遂げるか、に傾注されることである
 したがって、ひとたびこのシステムが動き出すや、その中断はほとんど不可能である。なぜなら、その動きを止めようとするいかなる企ても、道徳的罪悪と感じられ、不安、恥、困惑を惹き起こすからである。不服を申し立てることは比較的容易でも、不服従を行為にまで表すための精神的代価は大きい

 「自分の行為の重荷を背負うのは、服従した被験者ではなく、服従しなかった被験者である」





III.抵抗する「言葉」

 人間は、人間社会の中で生きるからこそ、人間になれる。人間社会の外では、人間にはなれない。これは、狼に育てられたアマラとカマラとが発見される以前から自明のことである。

 人間が人間になるということ、すなわち、人格(personality) を獲得するということは、個人が与えられた社会的・文化的規範を内面化してゆくということでもある。
 ところで、われわれは、権威の存在しないような社会は、想像するのも困難である。むしろ、権威は社会に必要不可欠でもあるのだ。
 権威とは、ある与えられた社会的場面の中で、社会的コントロールの立場にあると認知された存在である。だから、必ずしも高い社会的身分にある必要はない。劇場では誰もが案内嬢のコントロールに服するのである。
 もしも、権威と遭遇するたびに、これに従うべきか否かを問わねばならないとしたら、人間社会はそれだけで機能麻痺に陥るであろう。したがって、服従の心性の形成は、人間の形成の一側面でもあると言わなければならない。

 ところで、言葉というものが社会的・文化的規範である以上、言葉の獲得と服従の心性の形成とは、相即関係にあるに違いない。実際、ミルグラムの分析をみても、その関連性の深さは、容易に想像できる。言葉を獲得する過程はまた人格を獲得する過程でもあり、それはまた服従の心性を形成する過程でもある。

 しかしながら、われわれは言語活動について、いまだ十分な知見を手に入れてはいない。言語学は社会現象としての「言葉」を対象とし、心理学は個人現象としての「言葉」を対象とするにすぎない。言語使用者としての人間そのものを問題にする学問は、いまだ学問としての体裁を整えていないのである。
 だが、次のことは自明と言ってよい。すなわち、社会(規範として)の言葉と自己(表現として)の言葉とがあるということ、したがって、そこには常にある種のずれがあるということである。同じ言葉を使っていても、そこにこめられた意味合いは、まったく同じというわけにはいかないのである。

 このことは二重の意味で重要なことに思える。
 ひとつは、プロパガンダはこのずれの中に押し入ってくるという意味において。
 もうひとつは、そのずれが逆に、服従を内的に抑制する契機にもなるという意味においてである。

 先ず、前者について。
 ここで、悪と知っていて悪を為すことはないという、あの古典的な議論を思い出すのも無駄ではない。
 行為の目的は常に善である。〃心ならずも悪を為す〃と称する者も、それを為す方が自分にとってより善いと思えばこそ、それを為しているのだというのである。
 そうとすれば、善の様相を呈していれば、いかなる行為も心置きなくできるというものだ。
 服従者が心置きなく服従できるように、言葉の言い替えがなされることは、われわれのよく知るところである。破壊が勇気、殺人が男らしさ、卑屈は忠誠、敵に対する憎悪は愛国心、侵略すら存亡を賭けた自衛と呼ばれ、すべてが正義という最高の価値のもとに秩序づけられ、正当化される。
 合法的なイデオロギーの裏づけを得れば、服従者の行為を止め得るのは、もはや最高権威の中止命令だけである。

 ナチ親衛隊の中将以上の指揮者を集めたポーゼンの会議で、SS全国指導者にして警察長官ヒムラーは次のように演説している。

 「ユダヤ人の強制追放・絶滅を口にするだけならたやすいことだ。〃ユダヤ人を根絶やしにしてやる……さあ、みんなでやろう〃とはナチ党員誰しも云々するところだ。……かく言う党員の中で、(SS隊員以外)誰も実行を心がけた者はいなかったし、誰もこの実行に耐えられなかった。
 だが、ここに集まっている(SS幹部)諸君のほとんどは、死体が100、500、1000と集め置かれている光景がどんなものかおわかりであろう。こういう状態に直面しても持ち堪えることができ、取り乱さずにいられるということが、親衛隊をこれまで不屈のものにしてきたのだ。これこそわが親衛隊の歴史の……書かれざる栄光の一頁なのである」

 彼らは殉教者のような勇気と同志愛とをふるいたたせて、ユダヤ人絶滅の作業にいそしんでいたのだ!

 空軍のパイロットになって、〃投下された爆弾によって、荷馬車や人間が吹き飛ぶさまは、赤いバラのように美しい〃と、父親にあてて書いたというムッソリーニの息子も、このナチ親衛隊の幹部たちからそれほど隔たっているわけではあるまい。息子は父親に、自分の仕事ぶりを誇示したかっただけであろうから。

 それでは、道徳的心情や美的感情までも規定してくる、このような恐るべき服従のメカニズムを抑制ないし抑止するものは、いったい何であろうか?
 ここにおいても、言葉のずれが重要な働きをするように思う。

 彼らSS隊員は、自分のしていることがわからなかったのだという意見がある。この場合、「わかる」という語義が問題である。
 もしも、それが、行為内容がわからなかったという意味なら、否である。
 ミルグラムの被験者たちにおいても、自分が何をしているかがわからなかった者は一人もいない。にもかかわらず、「生徒」が別室に隔離されている場合には、すべての被験者が気安く最後の段階までいってしまうのである。「わかる」ということと「実感する」ということとは違うのだ。
 実感するというのは、自分が何をしているかという行為内容が単にわかるということではない。自分のしている行為の「意味」がわかるということ、行為の意味を解釈するということである。

 しかし、われわれは、権威によって提示される解釈を受けいれやすい傾向を持つことは、先に見たとおりである。
 人間は行為するが、その行為の意味については、権威に定義していただこうとするのである。
 あのナチの親衛隊員たちでさえ、数百、数千の屍体がごろごろ転がっている情景がどんなものかよくわかっていた。ある程度、「実感」さえしていた。
 だからこそ、それに持ち堪えること、そこで取り乱さないことが勇者の証とされ、彼らはその解釈を受けいれた。そして、彼らは自分の「実感」の方は抑圧し、いやむしろ、残忍さに持ち堪えることが困難であればあるほど、こちらの方に自分の勇敢さをより実感していたのである。

 権威への服従という、人間のこの傾向性を抑制し得るものは、もはや個人的体験に根ざした内なる「つぶやき」しかないとわたしは考える。これは良心の声とは違う。
 良心の声はただ「善を為せ」と命じるだけで、何が善かは教えてくれない。それを教えてくれるのは権威である。むしろ、良心の声は、内面化された権威の声である
 これに反し、「つぶやき」は、苦悶する人間を眼前にした時のような、もっと直接的な、もっと情緒的な反応である。
 「こんなことは、いやだ。こんなことは、したくない」。
 この弱々しい小さな「つぶやき」が、やがては強大な権威の与える「大きな言葉」に対する不服従への、ささやかで遠い第一歩である。
 ナチ親衛隊員といえども、屍体がごろごろ転がっている情景が愉快なはずはなかった。このとき、彼らは、支配者の命令の言葉と、自分の内なる言葉とのずれに直面した。そして、自分の行為の「意味」を自分で問う機会を手にしていたのだ。
 もっとも、多くの者がついに問うことをしなかったけれども。

 このことは、ミルグラムの実験において、被験者がみな、嬉々としてボタンを最後まで押したわけではない事実とも符合する。実験の間、汗を出し、ふるえ、時には引きつった笑いをもらし、彼らは激しい緊張にとらわれていた。
 それは、自分の行為の意味が生活感情すなわち常識的感覚(commonsense=共通感覚) と相違することを告げる情緒的信号にほかならない。

 だが、この「実感」は、心理的にいくらでも遠ざけることができるのである。
 自分の行為がどんな結果を惹き起こしているのかを見ないため、顔をそむける者。「生徒」の抗議の声が聞こえないよう、問題を大声で読み上げる者。自分の作業以外の他の一切を心から遠ざけるために、眼の前の送電盤にのみ精神を集中しようとする者。電気ショックは苦痛ではないと、事実を否認しようとする者。「生徒」に与える苦痛を少しでも軽減しようと、ショックの持続時間を十分の一に短縮する努力をする者。責任は自分にないという保証をしつこく責任者に求める者。わざと答えがわかるように問題を出そうとする者……。

 彼らはそうやって、「自分は人を痛めつけている」という行為の実感(つぶやき)からくる緊張を薄め、心やさしい人間という自己像を守ろうとした。そして、罰を受けるのは「生徒」がトンマだから仕方がないと、責任転嫁さえした。〔現実の教師が最もよく使いそうな手である〕。

 ごく少数の者が、心の中のつぶやきを紛らわせてしまわず、次の段階に移る。
 遠回しに、遠慮がちに、実験者の注意を「生徒」の苦痛に向けようとするのである。
 しかし、実験者は新しい命令を発する必要はない。
 「今していることを、つづけてください」。
 これだけの指示で、被験者は実験を続行するのである。

 さらにごく少数の者が、実験をつづけるべきではないと、はっきり主張することができる。
 しかし、それだけのことである。
 彼は実験に反対はしても、自分から席を起とうとするわけではない。
 当為は権威に服従することにあり、不服従は道徳的罪悪である。
 「実験はつづけるべきです」と言われれば、つづけるのである。
 皮肉な見方をすれば、彼は、権威への服従関係はそのままに、ただ、緊張の水準を自分が堪え得る程度に引き下げ、良心的な自己像を守るためだけに、反対の意見表明をしたにすぎないということができる。
 「とにかく、おれは反対した。後のことは知らん」。
 そうやって、心置きなく作業をつづけられるというわけである。

 このように、緊張解消のさまざまな手段を講じて、「実感」は心の中から遠ざけられ、代わって権威の言葉が押し入ってくる。

 実感することと実行することとの間には、超えがたい溝があるように思う。
 この溝を超えさせるものは何か。
 行為を「自分の」行為として意味づけること。したがって、常に個人責任を負う心構えをもつこと。つまりは、「他者」(権威ではない、一個人)の問いかけに対して、個人として応えようとすること。〔責任(responsibility)とは、問いかけに応えること(response)である!〕。
 要は、心のつぶやきに――生活感情すなわち常識的感覚(common-sense =共通感覚) から紡ぎだした自分の「言葉」に――誠実であること。したがって、自分の基本的な経験に矛盾することを承認しないことである。

 しかし、これでもまだ、わたしは、不服従の実際行動へと溝を飛び超えさせる根源的な動因は何かに答え得ていないように思う。

 「真理の法廷」や「歴史の法廷」を引き合いに出すことは容易である。今世紀、残虐きわまりない戦争や争乱は、「もうひとつの法廷」の証人を数多く生み出した。彼らは、現世の法廷の不名誉きわまりない極刑こそが、「もうひとつの法廷」の最高の栄誉であることを証してくれた。
 われわれもまた、いざとなったら、彼らのように雄々しく「もうひとつの法廷」に立つことができるかも知れない。

 だが、いざという時では遅いのだ。

 われわれが直面しているのは、ぬるぬると過ぎゆく、この日常的な、具体的な場面において、不服従の行為へと踏みださせるものは何かということである。そこでは、良心の声なるものが何の役にも立たなかったように、「もうひとつの法廷」がそれほど役立つとも思えないのだ。

 誰からも(自分自身からさえも)「よし」とされないような行為へと踏み出させるものとして、今のところ、わたしは、「心のつぶやき」といった、こんな曖昧なものしか言い立てることができない。
 われわれは大いに間違うかも知れない。しかし、他の民族や他国民に不必要な苦しみを与えないですむ可能性、人類の滅亡につながるかも知れないシステムを作動させる歯車の一つとならない可能性は、個人という、こんなちっぽけな次元にしかないのではないかと思うのだ。
 何の罪もない犠牲者に向けた銃の、その引き金を引くか引かないかは、最終的に個人の問題である。

 ナチ親衛隊員といえども、銃の引き金を引くことを拒否したがために、無残にもその場で射殺された者が皆無であったわけではない。
 「もうひとつの法廷」に立った殉教者とは異なり、彼はそれを為すべきと思って為したのではない。ただ、命令に従うことができなかっただけである。
 だから、敵に対するほどの敬意も払われず、彼は抹殺されなければならなかった。

 みずからも「よし」とは思えぬ不服従という行為へと、一線を踏み超えてしまった彼らは、その名前さえ歴史の闇に葬られている。
 しかし、彼らが踏み超えた溝の深さ、精神的負担は、栄光に包まれた「もうひとつの法廷」の殉教者の比ではなかったはずである。為すべしとの信念のもとに為される行為には、まだしも救いがあるのだから。
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