野次馬通信 抄録
わたしは、K街に、ひとりの病気の乞食がうずくまっているのを、この眼で見たのだ。人々が冷たい無関心の眼差しを向けると、その乞食は「どうか俺のことを忘れないでくだせいまし」と言うのだった、「金なんぞいりません。どうかこの俺をよく見てやってくだせいまし」 (一) 初夏は新緑の季節で、広場の片隅も街路の樹木も、生命の火炎を口から吐きだし、その胸苦しさに神経も動乱する。青くさい雑草の、生命の毒々しさが、緑の世界を修羅場とするのだ。昼はかげろうの立つこの草群で、夜はむしむしと暑い屋根の下で、生命の愛憎に満ちた狂奔が始まるのだ。 冬は乾燥のとき。空気は、からからにひからびて、歩道の敷石に、虫に喰われた枯葉が踊る。屠殺場の楡の木に、家畜の白骨がつるされていて、そいつが凩に乾いた音をたてるのだ。ぼくらは厚いコートに欲情を包み、聖者のように沈んだ表情で、寂しい死の街角を歩きまわるのだ。 夏の休暇の前の日に、ぼくらは寺院をめぐり歩いた。夕立がきたので、ぼくらは山門に駆けこんだ。それでも激しい雨は、容赦なくぼくらの身体を濡らした。ぼくらは濡れるのもかまわずに、じっと見つめあっていた。そして蛇のように抱きあっていた。わたしは彼女の細い身体を抱きしめながら、雨の冷たさが心の底まで浸んでゆくのを感じていた。陽が照りだすと、ぼくらは肩を組んで歩いた。そしてコーヒーを飲みながら、クイズをして楽しんだ。 それから、それからいろいろなことがあった。そう、いろんなことがあった。 ここはどこで、いったい自分はこんな所で何をしているのだろうか、と自問してみたことがあった。古い針葉樹に取り巻かれた公園で、高い高い巨木の梢が指さす上に、どんよりとした空を振り仰いだ時、わたしは飛びあがるほどに驚いた。不安がひしひしとわたしの動悸を速める。わたしの横に居るのは、いったい誰なのか。何故この女は、わたしの傍に、こんなにも青ざめた顔をして座っているのだろうか。出来ることなら、どんなに尋ねてみたかったことか、ぼくたちは何者で、こんな所で何をしているのだ、と。わたしは自分の横で、額にふつふつ滲んだ汗を、もの憂げにふいている女を見ながら、一心に思いをこらしていた。どうしてわたしはこんな所に在らねばならないのか、どうして大きな木があり、どうして針のような葉がどんよりとした空に突き刺しているのか。そして、どうしてわたしはこんなことを問わなければならないのか。わたしには、そのすべてがひどく重大な問題に思われ、またそのすべてが了解できなかった。すうすうと生あたたかい風の吹く日だった。 彼女はこんな手紙を寄こした。―― 足が、がくがくふるえ、涙がこみ上げてきそうで、涙は出ない。 あの帰り道、私は死にたいと思いました。道が、長く長く感じられ、大地に吸いこまれたくなりました。 私は、あのときの心臓の鼓動を、今も覚えています。 今の私は、どうしたらいいのか解りません。考える力もありません。ただ、たいへん重大な罪を犯したような気持ちです。たしかにあのとき、悪かったのは私です。あなたより私の方が、あのようなことを求めていたのかもしれません。私の何があんなことを求めていたのでしょう。 あなたが悪いのではない。私が悪かったのです。私は、あの時間を、できたら今からでも消してしまいたい。死にたい。あれから私は何度そう思ったでしょう。何もかも、私の負けです。道ゆく人が、すべて私を見ているようです。嘲笑していのようです。 罪を犯したと思っています。私の何がそうさせたのか疑問です。純粋なものが、すべて失われたように思いました。そして、何か大切なものをなくしたような。なくしたくない。何もなくしたくない。 私の何が、あんなことをさせたのでしょう―― 彼女の左の頬には、深く織りこまれた深紅色の小さなアザがあり、いつもはバラ色の頬のために隠されていたが、何かのはずみで、彼女が青ざめると、そのアザは白い肌に深紅の*しみ*を残すのだった。アザの形は小さな手のようで、わたしはその手を彼女と同じほどにいとおしく思っていた。しかし人々は、それを「血の手」と呼んで、それが彼女の容貌をまったく破壊していると断言した。さらに信心深い人は、「血の手」が恐ろしい人間の呪いと破滅とを握っているのだと噂しあった。 彼女の頬に接吻を求めると、彼女はかすかに青ざめて、左の頬の小さな手が、わたしの唇を求めているにもかかわらず、わたしは彼女の顔の青白さに、はっとさせられるのだ。そのたびに、わたしは蛇のような冷たい自分の心を知らさせるのだった。 「もう二度と、こんなことをしないでください」と、いつも彼女は言うのだった、「私はどうすればいいのか解らなくなってしまいます。私は苦しいのです。もしも何かが自由になったら、私は感情のままに動いてしまいそうで、とても不安なのです。でもそれは、あなたに対する本当の愛がそうさせるのか、私には解りません。とても動物的な感情です。残酷かもしれませんが、あなたの愛が本ものか、自分で考えてみてください。もしそうでなかったなら、いったい私たちは何なのでしょう。私は絶望です。かと言って私は、あなたを疑っているのでもないのです。いったい何を言おうとしているのか、自分でも解りません」 (ニ) 隣の家の飼い犬が、今朝もわたしを、欲情にまみれた悪夢から揺り起こした。まだ夜も明けたばかりの時刻だというのに、あの犬はいつもきまって吠え狂うのだ。何というきんきんと頭に切りこむような鳴き声だろう。まるでそれが義務でもあるかのように、あるいはまた、ひとたび破った混沌は、是が非でも破り続けなければならぬのだ、と言いきかせでもするかのように、その金属的な悲鳴の断続は、もうまったくの狂気だった。 わたしは湿っぽい布団の中で、下等動物のように身をくねらせてみた。しかし何をどうしようとも、気違い犬めの吠え声が聞こえなくなるということはない。むしろ金属的な叫喚は、一向に弱りもせずに、わたしのぶよぶよした腔腸のような心を、ちくちくと突き刺すのだ。しかし気違い犬めの何という執拗さであるのか。いったい犬は何を訴えているのか。どうして欲しいというのだ。わたしは憤ろしい思いに身を硬化させていた。理解しえない犬の鳴き声に、わたしは腹がたってならなかった。 ああ、殺してやりたい。あの犬を、今すぐにでも、この手で殺してやりたい。ぜひとも「この手」で殺さねばならぬ。それも決して他人から、如何なる非難をも受けないですむ方法を考えねばならぬ。その方法は、以前から決心していのように、病気と見せかけた毒殺がよい。ただでさえあの犬は、毛もぬけて赤い肌がただれているものだから、そのうち病気で死ぬだろう、毎朝のあの叫喚も、死の前兆だろうと思って耐えていたのに、一向に死ぬような様子もない。これはわたしの誤算だった。だが近いうちに、それもなるべく早く、あの醜い犬が一言も発しないようにしなければならぬ。さもなければ、この憤ろしさに、わたしの方が狂気となるだろう。最後の足の痙攣を残して、ついに犬が一声も出さなくなった時、わたしは笑ってやるのだ。犬が死んだ、醜悪なものは土にかえった、もう訳の解らぬ悲鳴は決してあげはしない、という実に晴れやかな気分で笑ってやるのだ。 そのためについ先日も、わたしは図書館の閲覧室に行って、鎧戸を閉められた暗い部屋で、いったい何という毒が最も容易に死を呼ぶものかと、わたしは貪る眼で探し求めていた。すると司書のP氏が、わたしの姿を見ると話しかけてきた。太っちょの彼はだいたいが愉快な男だが、それも天気とともに変化するようで、その日は珍しく沈んだ表情であった。 「いつも精が出ますねえ。何を調べておいでで」とP氏は少し軽蔑したような笑い顔を見せながら、わたしの前に開かれた百科事典に眼を落とした。「*どくやく*。ほう、面白いものに興味を持ってられる。ヒ素化合物に属するもの、水銀化合物に属するもの、モルヒネ、ストリキニーネ、エメチン、スコポラミン、ピロカルピン、アトロピン、ホマトロピン、エピレナミンなどを毒薬という、ですか。わたしも毒薬でも飲んで死んでしまった方が、身のためというもんですかね」 「それはまた、あなたに似合わずひどく悲観的ですね」。わたしは、わたしが誰にでも見せるあのそらぞらしい笑い顔を作りながら言った。 「そうなんですよ。この陰気な図書室ときたら、いかにわたしでも暗い気持ちになってしまってね。それにこう雨降りが続くと、世に毒素は満てりという気になりますよ。いや、それだけならいいのだが、わたしの父が病気でね、これじゃやりきれませんよ」。 ある陰惨で醜い下等な動物として、ひどく湿気の多い布団の中で棲息していたわたしは、狂おしい犬の吠え声にだんだん硬化して、ついに眠りの足りない身体を起きあがらせた。そこに有るものは、もう軟体の腔腸でもなく、ひろひろまさぐる触手でもなく、ひからびた皮膚と細い神経と、そしてからから鳴る骨をもった剥製の人間でしかなかった。 剥製の人間は、洗面所の鏡に自分の顔を写して、毎朝つぶやくのだ。「しかしおまえの冷淡で無表情な顔の中で、おまえの鼻だけは何と巨大な肉塊のように、じつにむかむかするいやらしさをたたえていることか。おまえの死人のような顔の中で、おまえの鼻だけが生きている。それもずっと下等な動物のように、全く盲目的な衝動でうごめいているように思えてならない。そしてその下等動物は、恐るべき猛毒で、おまえを形のない醜悪なものにするのだ」。 今日もK街には雨が降り続いていた。昨日もそうだった。もう幾日も同じことだ。わたしはK街を歩いていた。昨日もそうだった。もう何年間というもの同じことなのだ。こうしてわたしはK大学の、墓穴のような図書館に行き、そこの事務室でタイプを打つのだ。それがわたしの仕事なのだ。 雨に閉ざされたK街は、陰鬱そのものであった。六月は梅雨の季節で、とめどなく雨がそぼ降る。黒い蒸気が浮遊し、あらゆるものに吸着して、それらのものすべてをむしばんでいた。アスファルトは泥沼のようになって液汁をただれさせ、街路樹は、濃緑の葉を犯されている。雨の降らない日は、たいがい灰色の雲が垂れこめて、張りめぐらされた市電の架線に支えられていた。灰色のビルディングは六月の雨に濡れて腐蝕しはじめている。六月の雨は、生命をむしばむのだ。 わたしは、彼女と腕を組んで歩いた時の、ひっそりとした悩ましい靴音を思い起こしながら、滑稽なほど生硬な表情で、うつろな人々とK街を流れていた。 今晩は、何を、どうしようか。わたしは考えていた。 K街には、いつも一人の狂人の乞食が、人々の慰みとなっていた。彼は雨の日には汚れた長靴をはき、破れた傘をくるくる回して雨を散らせて喜んでいた。背の高さ寡らいうと子どものようでもあったが、あるいはもっと年長なのかもしれない。肉塊を無造作に削ったような、輪郭のはっきりしないぶよぶよした赤ら顔を見ていると、思わず顔を背向けたくなるような気をおこさせるのであった。雨の降らない日は、長靴を古ぼけた革靴にはきかえて、K街のビルディングの石段に、じっとうづくまっていた。そういう時は、たいてい膝の上の風呂敷から、小さな黒い表紙の本を取り出して読んでいるのであった。子どもたちが面白がって「おじさん、何を見てるの」と尋ねると、狂人は「俺の神様を探してるだ」と答えた。すると子どもたちは「神様ならあそこにいるよ」と言って、道路の向い側にある、小さな白塗りの教会を指さした。道行く大人たちは、狂人の乞食と教会とを見較べて、愉快そうに笑っていた。あのとき、あの女も「狂人がいる」と言って笑った。 何を、どうしようか、わたしは考え続けているのだ。 「あそこには、俺は入れねえだ」と乞食が言った。「死に神のように青白い顔をした牧師さまが、俺のことを、おまえを見ると自分まで罪に染まりそうだ、と言って入れてくれねえだ。もう少しきれいな服を着て来いとも言っただ。それで俺がきれいな服を着て行ったら、牧師さまは俺の顔を見て、おまえは何を求めにやって来たのか、と尋ねただ。俺の神様に会ってどうして皆が俺をいじめるか聞きたいだ、と言ったら、主は肉のように赤い顔の男には会いたがりたまわぬ、と言うだ。ではどうすれば顔の色が変わるだか、と聞いたら、自分の罪の深さを知ったら青くなるはずだ、と教えてくれただ」――気ばらしの場を見つけ出した人々は、空虚に嘲笑しながらも耳を傾けていた――「だけど俺にわからねえのは、罪とはいったい何ですだ。俺の罪はどこにあるですだ。 どうかお願いだから、この俺をもっとよく見てやってくだせいまし。そして俺の罪がどこにあるか教えてくだせいまし。でないと俺は神様に会えねえだよ」 あの時、そこにはP氏もいて、派手な絹のハンカチで汗をふきながら、したり顔で「そういうことは君、むしろ直接に神様に会って尋ねた方がいいよ」と言って笑ったものだ。 何が、どうなのか。わたしは少しも解らなくなった。 「シオンの娘、かたれかし、わがいのちの主に、野辺にてか、幕屋にてか、会いまつらざりし」と乞食が歌った。教会から流れる讃美歌をおぼえたのだろう。 今晩は、彼女と会わねばならない。 何をどうしてやろうか。醜い考えが浮かんできた。 あのとき、乞食は彼女に向かうようにして歌ったものだから、彼女は気味悪がって、わたしにそっと寄りそって手を握ったものだった。いや、それはわたしの手ではなくて、P氏の手だったのかもしれない。どちらだったか忘れてしまった。 (三) 喫茶メーデュオには窓ぎわに小さな鳥籠があって、一羽のカナリアが飼われていた。いつ見てもそのカナリアは胴をふくらませ、首をすくませてうづくまっていた。人々のしめやかな話し声にもきわめて無関心で、しっとり行き場を失ったタバコの煙りに、ひどく迷惑そうな眼をしばたたかせた。そうでない時は、たいがい背中の羽毛に嘴を埋めて眠っていた。 冬になると、鳥籠は暖炉の近くに移された。黒髪を後ろに束ねた店の娘は、暇になると暖炉に手をかざしながら、鳥籠の中をのぞきこんだ。そして唇をよせて「どうしたの」と声をかけるのが常だった。カナリアは知らぬ顔をしているか、ちょっと眼を開けるか、あるいはくるくると喉を鳴らせることもあった。店の娘のその仕種に憧れて、学生たちはよく喫茶メーデュオに行った。暇があると娘はカナリアに「どうしたの」と尋ねた。 わたしはメーデュオの奥まった所にすわって、たえまなくタバコを吸っていた。空気は濡れていて、わたしの心をひどく暗くする。カナリアは窓ぎわでうづくまっていた。窓の硝子には、裁きを受けるキリストと、彼を見上げる二人のユダヤ人とが浮き彫りにされている。今も店の娘は、じっとして動かないカナリアに独り話しかけている。わたしは娘の影のない清楚な姿を見ていて、ひどく居たたまれない気持ちを耐えていた。 「ちょっといいですか」太っちょのP氏が意地悪な笑いを浮かべながら、わたしの前に席を占めた。 わたしのすぐ後からP氏がメーデュオに入って来たことは知っていた。P氏は、常にわたしを尾行し、わたしが誰に会うのかを監視しているのだ。 「じゃまではないですか」P氏はあたりを見まわしながら尋ねた、「なに、あなたが居ることは知っていたのだが、ひどく考えこんでいる様子なので声をかけそびれていたのですよ。しかし妙に人と話したい気持ちでね。というのも病気の父が、ほれ先日も話していたでしょう、とうとう死んでしまいましてね、やっと今日で一段落したというわけですよ。どうもこういう言い方はしたくないのですが、いくら父でも死人は死人ですからね、ずっと遺骨なぞを抱いていると、こちらまで地の底に引きずり込まれるような気持ちになって、今日は人恋しくて生きた人間と話したくなったというわけですよ、はははは。しかしわたしは相当にしっかりしていたつもりだったのですが、火葬場でいざ骨を拾うという時には、さすがのわたしも手がふるえてどうしようもなかったですよ。まぁいろいろ言いますが、やはり親というものはありがたいもので、父は少し財産を残してくれましてね、わたしもひとつこれを機会に、遺産を土台に何かやらかそうと思っているのですよ」 「それはよかったですね」ひょいと口にした自分の言葉に、わたしは馬鹿なことを言ったと気がついた。 「はははは、とにかく今のわたしは精力がわいているのです」とP氏は落ち着きのない態度で言った、「わたしは金をもうけ、そして女を恋しますよ。はははは」 試みるように笑うP氏の、雨の日に咲いた花弁のような印象を残すぱっと赤い唇を見て、この男はひょっとすると自分の父親にヒ素を飲ませて、その血をすすって来たのではないかとわたしは思っていた。 とび色の霧に閉ざされたK街は、夕刻の騒がしさを残しながら闇に沈み始め、鈍い色彩が乱れて飛んだ。歩道を流れる人々の中に、黒いレインコートを着た女の姿を、わたしとP氏は窓ごしに同時に認めた。 「おや、わたしはどうやら邪魔なようですね」P氏は近づいてくる女に視線を注いだまま、暗い表情でつぶやくように言った。 わたしの待っていた女は、入り口で一瞬立ちどまったが、決心したように重いドアを押した。そして定まらぬ視線がP氏を捉えたとき、彼女は立ちすくんで青ざめた。その頬には紅色のアザが、ちぢみ上がりそうになりながら、いよいよその色を濃くした。 P氏が冷たい視線を、わたしと彼女に浴びせつつ立ち去った後も、彼女の左頬のアザは、なかなか消えなかった。ぼくらは、黙って座っていた。いや、わたしは、彼女の小さなアザを眺めていた。彼女の青ざめた頬に浮かんだアザを、その時ほど醜悪に思ったことはなかった。しかしそれと同時に「血の手」がわたしの暗い心を激しく揺り動かせた。わたしは生硬な表情にわざとらしい苦悩の色を加えつつ、黙ってタバコをふかせていた。 「何か話して」今にも泣きだしそうな顔をして彼女は懇願した。そしてアザが消えたかどうかを気にするかのように、そっと頬に手をやってみるのだった。 わたしは困った表情を作りながら黙っていた。他人に話すことなどわたしには何もないのだ。 「ねえ話してちょうだい。いったい何を考えているの。何とか言って。でないと、わたしどうすればいいのか解らなくなる。どうすればいいの。ちっとも解らないじゃないの」 「僕はまるで、まるで、そう、まるで壁みたいに何も考えてないさ」 すると女は口をとぎらせて「わたし、帰る」とつぶやいた。 わたしは女の顔を凝視した。すると女は再び消えるような声で「わたし、帰る」といって顔をそむけてしまった。 この耐えがたいような沈黙に打ちひしがれた女の姿は、何かわたしに残虐な愉快さを味わわせるものがあった。わたしは女の白い肌に眼をやりながら、黙ってタバコを吸っていた。彼女は何度かわたしの視線を受けとめ、そしてそのたびに横を向いた。わたしはタバコの火を消すと、彼女の手をとってやった。その白い指は、ねばねばした粘液を出す触手をもった動物のように、たちまちわたしの指にひろひろと絡まりはじめるのだ。わたしはその指に口をつけてやった。 「Pさんは、わたしたちのこと、どう思っているかしら」ふるえる声で彼女が言った。 「君はどう思ってほしいのだい」 底のない穴をのぞいたかのように、呆然とわたしの顔を見つめる女の、その節穴のような眼を見て、わたしは心の底から愉快になって、思わずにんまり笑ってしまった。すると彼女はあわてて視線をそらし、わたしの言葉と笑いとを何とか結びつけようと、自分勝手な解釈を下すのだ。 そしてぼくらは映画を見に行った。 ぼくらは別々のことを考えながら、夜の街を歩きまわった。糸のような雨が、ときどき思い出したように降っていた。わたしの腕に身を寄せた彼女は「わたしは悪い女ね」とささやいた。そのことに異論はないが、とわたしは思った、人間は口で言うほど自分のことを悪人だとは思っていないのだ。だからわたしには、彼女が求めている慰めを与えてやる必要があるわけだ。 「悪いことなんか何もないさ」とわたしは言ってやった、「たとえあったとしても、そんなものは口から吐き出してしまえば消えてすまうさ」 そう言いながら、わたしはP氏の顔を思い出し、訣別の時に、この女はどんな自虐的な表情を見せるだろうか、と考えていた。 夜おそく、ぼくらは別れた。彼女は握手して別れようと言って、白い手を差し出した。わたしは出来るかぎり愛別の心を示すようにと抱きしめてやった。 「わたしも、こうしてもらいたい気持ちだったわ」と彼女が言った、「でもわたしは、こんな動物的な感情に溺れることが嫌なの。こうしていると、わたしは罪を犯しているような気がして、苦しくてたまらないの。だのにあなたときたら平気なのね。こんなことをするのは本当のあなたなの、それともあなたではない別の誰かなの」 わたしはとても疲れていたので、彼女の頬の「血の手」に黙って接吻していた。 「やれやれ、これで今日の予定も、やっとすんだ」と心でつぶやきながら、わたしは夜の影のように広場を通り抜けようとしていた。 「ありがたいことに、わたしを苦しめ悩ませてくださる神様が居てくださる」……あの女は今ごろそう言って祈っているのだろうか。悪しき自分を告発しなければ、何かしら自分が善人でないような気がして、ひどく不安になる人間が多く居るものだ。わたしも彼らといっしょになって、聖なる陰気さを顔に浮かべ、会堂や大通りの辻に立って祈れたらよいのにと思う。そうすればこんなに疲れることもないのだ。 広場には乳色の濁った霧が垂れこめ、街灯の光をわびしく投げかけていた。わたしは危うく人とぶつかるところであった。見ればそれはあの狂人の乞食だった。わたしは思わず笑いだして「神様に会えたかね」と尋ねた。すると狂人は「これからサバト(夜宴)に行くところですだ」と答えた。 (四) 腐るように赤黒い太陽に照らされて、裁きを受けるキリストは苦悶した。荒漠とした丘には、孕んだやせ犬が尾を垂れて、岩陰で病菌をかちかち噛んでいる。キリストは悲しい視線を荒野に走らせる。ただれるように燃える岩塊が、有るものの本質をむき出しにしているかのように、一つの影を作っていた。キリストは「わたしは虚しい」と叫んで息をひきとった。流れる血が二人のユダヤ人に降り注いで、彼らは血に染まった赤ら顔を見合わせて言う「この人を見よ、罪は死んだ。人々が、忘却という剣で殺したのだ」と。太陽は黒雲に隠されて、岩が裂け、多くの青ざめた死人が現れた。死人たちは空虚な都市を流れて行く。 こんな日に、鳥籠のカナリアは死んでしまった。そして喫茶メーデュオの娘は、黒い服に身を包んで毎日しょんぼりしている。どうしたのか尋ねたら「わたしも死にたい」と言って涙をこぼした。 (五) 円満な顔をした薬局の主人は、一日中にこにこ笑いながら、来る客に毒薬を売るのだ。わたしは猫いらずをひと箱買った。 わたしはだんだん人と顔を合わせるのが嫌になって、いつも地面ばかり見て歩いている。市電の停留所からK街の敷石を数えてみたが、ちょうど百四十六個の所でやめてしまった。会いたくもないP氏にばったり会ってしまったのだ。P氏もちょっと困ったように立ちどまったが、何かすっきりしない笑顔を見せながら近づいて来た。 「あなたは今朝の新聞を読みましたか」 わたしは不機嫌に「いや」と答えた。しかしどうして自分はこの男に腹を立てているのか、自分でも不思議でならない。鈍い痛みのようなものがすっかりわたしを疲れさせ、以前にはあんなに易々と作れた笑顔を、今ではもう作る気さえ起こさせないのだ。 「小さな記事ですが、一人の女性が自殺したと書いてありました。昨夜のことだそうです」 「それがどうかしたのですか」 「いや、わたしはその動機に感激させられたのですよ。というのも、その女性の許嫁者が一ヶ月前に交通事故で死んで、特に昨日は結婚式をあげることになっていたということです。つまり彼女は、許嫁者の死を悲しむあまり、挙式の予定日にはついに耐えられなくて自ら死んだというわけですよ。猫いらずを飲んでね」 「猫いらずだって」 「そうです、あれには黄燐が含まれているので、同じ死ぬにも苦しみぬくそうじゃありませんか。とにかくわたしはその記事を読んで、変な話ですが、何だかすっかり嬉しくなってね、人間の善さを信じようと思いましたよ。他人事ながら涙の出る思いです」 「自殺の動機なんて誰にも、その当人さえ解りゃしませんよ。人は勝手な妄想や期待や自己満足によって自殺するだけですからね。例えばわたしが自殺するなら、他人は失恋によってだと言うだろうし、わたし自身もそう思って死ぬのだろうけれども、それは本当の動機ではないでしょう。苦悩とか絶望して人は自殺するのではなくて、そういうものがなくなってから、なおもそれらの名前のもとに人は死ぬだけのことですよ。自殺の動機はやはり不明のままです。自殺したその女性というのは、わたしに言わせれば、何もすることがなくなって、自殺しでもしてみようかと思って死んだのでしょう」 「そんな言い方をするもんじゃありませんよ。わたしは許嫁者に対する彼女の愛情を信じたいね。もし彼女のような女性がわたしのものなら、わたしはそれこそ人形のようにかわいがってやりますよ」 「そういう女性がもうあなたのものになったというじゃありませんか。いやなに、そんなに恐ろしい顔をすることはありませんよ。わたしは別に何とも思ってはいないのですから。ただわたしが交際した限りでは、彼女を人形のようにかわいがってはいけないとだけは忠告しておきますよ。彼女は常に自分が何か悪いことをしているのだと思いたい性分ですからね。そういう人間には、そう思わせとくことですよ。そうすると自分は何か崇高な悲劇の主人公のような気持ちになって満足するのです。そう思わないと、自分は何か不純な人間であるように思って、それこそ自殺しかねませんからね。ただし時々は慰めてやることも必要です。おまえはちっとも悪くはないんだと言って、彼女が自分でもそう思っていることを保証してやるんですね。これはほんの忠告ですよ」 P氏は気の毒そうに、絹のハンカチで汗をふきながら、くどくど言い訳をした。そんな言葉は犬に喰わせるがいい。 その夜、わたしは猫いらずの黄色い粒を、粉になるまでつぶしていた。ごりごりと粒がすりつぶされる音は、何となくわたしの心を重くした。遠くの沼で鳴く蛙どもの声が、わたしの心を狂おしくした――蛙オーメガよ、わたしは迷い出て、ことごとく無益なことをなしている。そう思うと、わたしは妄笑したくなったが、そのくせ狂おしさは一向に去りそうにもなかった。 毛が抜けて赤い肌のただれた隣の飼い犬は、とうとう血を吐いて死んでしまった。飼い主のよぼよぼした老人は、目蓋のたるんだ濁った眼をしばたたかせながら、わたしにその有り様を繰り返し話してくれた。 「わしのよい友人じゃった」老人は同じことを繰り返した、「死ぬ時はいっしょにと思うとったに」 わたしは黙って話を聞いていた。そして犬のために墓を作ってやろうと言って慰めた。 「今日、仕事が終わってから、いや、人と会う約束があるので少し遅くなりますが、夜にでも墓を掘ってやりましょう」 「あんたも、あの犬のよい友人じゃった」 老人のどんよりした涙を見ながら、わたしは自分でもそうだと思えてならなかった。 ぼくらの訣別は、喫茶メーデュオで簡単に終わってしまった。すべてはあの日と同じだった。彼女はK街に黒いレインコートを着て現れたのだ。そして入り口で立ちどまり、決心したように重いドアを押すのだ。定まらぬ視線がわたしを捉えると、彼女は同じように青ざめ、同じようにアザを頬に浮かべたのだ。ただ違うことは、そこにはもうP氏はいない。P氏はどこかの喫茶店で、彼女の報告を待っているのだろう。 「わたしが悪いのだから許して」 しばらくの沈黙の後で、彼女は顔を伏せて言った。そしてそっと頬に手の甲をやって、紅色のアザが消えたかどうか知ろうとするのも同じだった。 「おそらく誰も悪くはないさ」わたしは陰惨な笑いを浮かべていた。 「悪いのは、わたしなの」 「なるようになっただけじゃないか。罪の裁きは神に任せなさい、だ」 わたしは自分の言葉に苦笑しながら、彼女の手を取ろうとした。すると彼女は顔をあげて、期待が的中したときの満足と、ある不可解な不安と恐怖と、さらには嫌悪の眼でわたしを見つめ、そしてわたしの手を拒んで言うのだ「どうか許して」と。そして別れのしるしに、わたしの手をちょっと握りかえすと、走るように立ち去った。 こうして一人の男から別離した女は、ドアの陰でハンドバッグから白いハンカチを取り出し、目頭にやってから、さりげない様子でK街を歩いて行くのだ。黒いレインコートの姿は、たちまち闇の中へと消えて行ってしまうのだ。 わたしは惨めな思いでK街を歩いていた。K街には今日も病気の乞食がうづくまっていた。彼はもう何も言わず、あいかわらず赤い顔をして黙っていた。わたしは乞食に唾を吐いてやった。 「あんたは、どうしてそんなに俺のことを憎むだ」乞食は燃えるような眼で言った。 「それはおまえが醜いからだ」わたしは言ってやった。 「しかしあんたは」と彼は言った、「あの夢みるように空を見つめ、ぼんやりとし、狂信し、熱狂し、涙もろくて、騒がしく神の御名を唱えるうつろな人間どもより、もっとうつろで救われねえだ」 「なに、おまえだって救われないさ。ところで俺は救われたいとも思ってないさ」 夜の雨がしのつく中で、わたしは裏庭に、毒殺された犬の墓を掘っていた。荒れた土地は石が多くて、シャベルはそのたびに苦しげな悲鳴をあげた。一匹の阿修羅が、荒地に墓を掘っている。いったい何を埋めるというのか。 ああ。シャベルが重い。この庭は、どうしてこんなにも石が多いのだ。それにしても、墓穴の深淵はどうしてこんなにも、人を呑むようにぽっかりと口を開けるのだ。ここに埋められる屍体は、また来年の春、欲望の芽をふくだろうか。そして虫に喰われた、醜い病気の花を咲かせるだろうか。 わたしは思ってもみなかったほど、大きな穴を掘ってしまったものだ。眠りたい。最善は生まれなかったこと、次善は土の下に眠ることだ。そうすれば、あの女も涙を流してくれるだろうか。 「あんたも、この犬のよい友人じゃった」 老人のうつろな涙声が、夜の細い雨といっしょに、穴底の闇に呑み込まれていった……。 (67.07.) |