title.gifBarbaroi!
back.gif荒地


創作



チチラ






I

 チチラはボクのコイビトでした。
 そして二人はまったくの二人きりで、小さな夢の国にいたのです。夢の国というのは、まるでもう白夜のようで、淋しく、静かで、狂おしく、ちょっぴり流れた悲哀の涙が、霧となってもやもやとしているのでした。
 チチラの家は北の方にぽつんとあって、ボクの家は南の方にぽつんとありました。ボクは紙で作った小さな家の屋根にまたがっていました。チチラとボクとは、小さな街に隔てられていました。
 その街には家が一軒もなくて、ただ暗い空間にすぎないのですが、ぼんやりとした夜の微光がちらちらしていて、やっぱりそこは街だったのです。街にはやっぱり淋しい光る道があって、やせこけた犬が、尾を垂れて、とぼとぼ、黒い長い影を曳いて、北の方へと歩いていました。
 チチラの家もやはり紙の小さな家で、おかっぱ頭のチチラは、窓から細い顔をのぞかけていました。チチラの家の窓からは、あたたかい黄色の光があふれていました。屋根の上からボクは、大きな眼をまばたきもせずに、窓のチチラに話しかけるのです。
  やあ、こんばんは、かわいいひと。
 おかっぱ頭のチチラは、細い眼を伏せて、何だか恥ずかしそうに答えるのです。
  ええ、こんばんは、ごきげんいかがです。
 こうしてボクたちは話をするのです。砂の上のゆがんだ時計が、きっかり二時をさすまで。
 それにしても、シュロの葉に書いた六通目のボクの手紙を、あのびっこのハトはチチラに届けてくれたのでしょうか。
 チチラが言いました。忘れな草はまだ咲いているでしょうか、と。ボクは大きな眼で、裏庭のお花畑を見て、そしてきっぱりと言いました。忘れな草はずっと咲きつづけてるさ、と。
 夢の国は白夜のようで、街には犬が、あのびっこのハトを口にくわえて歩いていました。びっこのハトは、きらりと赤い眼を落としました。



II

 古い昔のローマ時代のことだったと思います。
 ボクは二頭立ての戦車に乗っていました。ボクはローマ時代の身分の高い戦士のように、きれいな甲冑で身を固めていました。そしてボクはひどく急いでいました。戦車は土けむりをもうもうと立てながら走ります。長い鞭がボクの頭の上でびゅうびゅう唸り声をあげ、二頭の馬の尻をかわるがわる打ちすえるのでした。そのたびに、馬の背中からは汗だか血だかが飛び散りました。
 やがてボクは大きな宮殿の前に着きました。ひらりと戦車から飛び降りると、ボクは宮殿の大理石の階段を駆け上って行きました。宮殿はひどく古ぼけていて、大理石の階段には雑草さえ生えていました。そして大理石の床も壁もひどくしみていて、ひんやりとかび臭いコケがへばりついているのでした。もちろん人は誰も居ません。
 ぐるぐると何回か階段を上って、ボクは白い大理石で造られた広い廊下に出ました。廊下の右手は大きな窓で、窓からは太陽の白い光がいっぱいに射しこんでいました。廊下の左手にはいくつかの部屋があって、その中の一つにボクは入って行きました。入り口には、やはり白い大理石の柱に、武装した処女の像が彫刻されていました。処女の肩には、大きな青い眼をしたフクロウがとまっていて、ボクを見ると怒ったように眼をぎょろつかせたのです。でもフクロウは何も言いませんでした。
 部屋に入ると、すぐ正面に大きな窓が目につきました。窓の向こうは、ただもう広い砂漠で、太陽の光にぎらぎらと輝いていました。たった一本きりの、枯れかけたイチジクの木の傍で、ミイラが踊っている以外は、ただもう砂ばかりです。空もほこりっぽい色をしていました。
 ボクは部屋の中を三度歩き回りました。というのも、何のために自分はこの宮殿に急いで来たのか、すっかり忘れてしまったからです。三度目にはっきりと思い出しました。ボクはこれから戦いに行かなければならなかったのです。敵は「恥」ということを知らぬ醜い野蛮人たちです。しかし敵はとても強くて、戦いには暗い影がさしていました。でもボクは行かねばなりません。それはボク自身のためでもあり、また何よりもチチラのためなのです。ボクが負ければ、チチラは野蛮人たちにひどく意地悪をされるでしょう。それはボクとって死よりもつらいことなのです。
 その時ひとりの少女が部屋に入って来ました。それはチチラでした。チチラもやはり古いローマ時代の服装をしていました。その服装にボクは何だか悲しいものを感じました。
 チチラは眼に涙をためて、どうしても行くのですか、と言いました。その涙は何だか嘘のようにボクには思われました。ボクはぶっきらぼうに答えました、でも行かなきゃならない、と。
 するとチチラはボクに、エジプトの夕焼け雲で織ったという緋のマントを差し出しました。それを身につけると、ボクはとても勇敢そうに見えました。でもボクは心細くなったのです。だって、こうなったら、もうどうしたって行かなきゃならないじゃありませんか。
 ボクはチチラの赤い唇を見つめていました。それからまたチチラの小さな胸を見つめていました。するとフクロウが、非難するように青い眼をぎょろつかせて、とんぎった鋭いくちばしで叫びました。
  テーン・カキステン・ドゥレイアン
  ホイ・アクラティス・ドゥレウウーシン

 ボクにはフクロウの言葉がわかりませんでしたが、とにかくボクはチチラをそこに置き去りにして、戦いに行くことにしたのです。

 しかし宮殿の外に出て見ると、さっきボクが乗って来た戦車がありません。そのかわり、二匹のネズミのひいている戦車がありました。しかたなくボクはそれに乗って戦いに行くことにしました。
 でも二匹のネズミはよたよたしていて、おたがいにぶつかりあっているだけで、戦車は少しも前に進みません。ボクがいくら鞭でひっぱたいても、ネズミたちは右往左往するばかりです。
 そのうち地平線のあたりに砂けむりが起ちのぼり、たくましい軍馬にまたがった敵たちが野蛮な声をあげて攻めて来ました。砂けむりの中に、曲がった剣がきらきらと白くきらめいています。しかしその恐ろしい音は、ボクには何だかよそ事のように思われてなりませんでした。
 宮殿の方を見ると、チチラが窓から細い眼をもっと細くしてボクを見ていました。ボクは砂漠の太陽で眼がくらくらしました。



III

 夏の日の夕べのことでした。
 ボクはチチラと海に行きました。大きな黄金色の太陽が、水平線の上に輝いていました。そして浜辺から太陽のところまで、ひらひらする黄金の波の道がずっと続いているのでした。この道を歩いて行けば、ボクらはすぐにも太陽にとどきそうに思われました。
 ボクは砂浜を歩いていました。ボクの足にまとわりつく砂も、やはり黄金色に輝いていました。砂丘のむこうには、こんもりとした松の林が続いていて、その松の一本一本の鋭い葉も、やはり黄金の針のように見えました。
 チチラは波打ちぎわを素足で歩いていました。黄金の波がチチラの足もとで何かささやいていました。波のささやきに耳を傾けながら、チチラは黙って歩いていました。
 ボクは熱い砂の中を歩いていました。砂浜にはたくさんのゴミが散らばっていました。そしてボクの横には、片目の男が並んで歩いていました。
 「こうやって歩いていると」
 片目の男が言うのです。
 「こうやって歩いていると、音楽をつくりたくなるんだよ。ボクはね、ボクは音楽を愛しているのだ」
 ボクは立ちどまって、片目の男を見つめました。男の片目には、白い貝殻のかけらがはめこんでありました。この男は、口から赤い舌をしゅうしゅうと出すウロコのある動物に、とてもよく似ているとボクは思いました。
 ボクは言ってやったのです、ねぇキミ、音楽なぞつくらなくっても、もう聞こえてくるじゃないか、って。
 波打ちぎわでは、チチラが寄せては返す波と追いかけっこしていました。チチラの亜麻色の髪が、さんさんとゆれていました。そういうチチラをボクはとても愛しているのです。チチラは無垢なのです。
 ボクらは再び黙って歩きだしました。ボクと片目とはやっぱりごみごみした砂浜を、チチラはひとりで波打ちぎわを。
 ボクは砂の中に半分だけ隠れているシュロの葉を見つけ出しました。そして赤い星のかけらも見つけ出しました。あった、とボクは叫びました。これでしょ、キミが落としたもう片方の眼というのは。ボクはその赤い眼を拾ってやりました。
 「そんなことは大した問題じゃない」
 男は赤い舌をしゅうしゅう鳴らせました。

 「ボクはね、ボクは音楽を愛しているのですよ。ところが音楽をつくるということはとても難しいのだ。まず第一に思想がなくてはならない。思想だよ、キミ。キミには思想があるのですか」
 ええ……、とボクは気のない返事をしました。
 「ところがチチラには思想がない!」
 赤い眼の男は鋭い声で叫びました。
 ええ……、とボクは再び答えましたが、ちょっぴり不安になってチチラの方をふり向きました。チチラは波打ちぎわを素足のままで歩いていました。そしてボクの方を見て楽しそうに笑いながら、白い足をちょっと持ちあげて見せたのです。チチラの足先には緑色の海藻がつまみあげられていました。
 夏の夕べは、あらゆるものが黄金に輝いていました。チチラの脱ぎすてたサンダルが、浜辺でぽつんと夕陽をあびていました。
  夏の日の
  夕べの空に黄金の火矢
  夕べの浜に黄金の波



IV

 チチラがドイツ語のレッスンをしていました。
 リーベ、リープスト、リープト、リーベン、リープト、リーベン。
 それからたどたどしく発音したのです。
 イッヒ・リーベ・ディッヒ。ドゥ・リープスト・ミッヒ……。
 これでいい、とチチラがのぞきこむような眼をしてたずねました。それでいいのだ、とボクがうなずきました。



V

 ボクは講義室にひとりで居ました。
 五十ばかりの新しい机がきちんと整頓されていて、チリひとつありません。ひっそりした夕刻の講義室は、鋭く澄んだ空気に満たされていました。黄橙色のカーテンをふくらませながら、窓からは五月の香ばしい風が訪れていました。
 講義室の演台には大きな分厚い書物が置き忘られていました。書物は開かれたままになっていて、訪れる風が時々あちらこちらとページをめくるのでした。
 ボクは演台に頬杖をついたまま、風が開いてくれるページに没頭していたのです。どのページにも小さな活字で、難しい外国の言葉が印刷されていました。ボクは近視らしく本に眼を近づけて、その一字一句をたどっていました。
 「……ソノ学説ハ唯物的デアリ……精神活動トイエドモ、微細ニシテ巧妙ナル原子運動デアル。有機体活動ハ、単ニ原子運動ノ微細ニシテ複雑ナモノニホカナラナイカラデアル」。
 風がぱらぱらとページをめくりました。
 「……彼ニヨレバ、善悪ハ決シテ絶対的ナモノデハナク相対的ナモノデアル。ケダシ善悪ノ根底ハ一ニ行為者ニ快楽ヲ与エウルヤ否ヤニ存スルカラデアル……万人ハ万人ヲ敵トスル」。
 またページが移りました。
 「シカシテ真理トハ、デカルトノ言ウ永遠ノ平常心デアリ……」
 ボクは思わずほっと息をついて眼をあげました。夕暮れの闇が少しずつ講義室の床に集まって来ました。いかめしい窓枠のむこうには、とんぎった青い屋根の時計台が、うっそりとした空にそそり立っています。ボクは読書に疲れた眼を、時計台の方にぼんやりと向けていました。そしてつぶやいてみました、真理トハ永遠ノ平常心デアル、と。この言葉がボクにはとても気にいったのです。
 ボクはもう一度つづきを読もうと思って書物に眼を落としました。しかしどうしたことか、それから先は一字も言葉がわかりません。今まで読めていた文字が、まるでミミズの足跡みたいにボクにはそらぞらしいのです。

 ミミズの文字を見ていると胸がむかむかしてきました。ボクはあわてて窓ぎわに駈けよりました。窓からのぞくと、ずっと下の方に黒い影が小さく見えました。それはチチラのようでした。
 チチラはびっこのハトに餌をやっていました。びっこのハトは盲目でした。



VI

 大きな大きな、真っ黒な太陽が、ヒエイ山の左肩にとまって、風船のようにゆらめいていました。ボクは太陽が黒いことも、また太陽が北にあることも別に不思議だとは思いませんでした。ただ何となく荘厳な気持ちになっていました。その黒い太陽をもっとよく見ようと思って、ボクは高い塔に登って行きました。
 高い塔の上から見ると、やっぱり太陽はぼんやり赤いリンゴのようでした。赤いリンゴのような太陽は朽ちかけていました。



VII

 ボクはひとりで大きな建物の中に迷いこみました。
 建物の中には自然の光がなく、薄暗く、ひんやり冷たい石の廊下が、ずっとむこうまで、暗くて見定められぬ夜と闇の中にまで続いていました。石の廊下の両側には、鋭く光る金属の把手を持った重い扉がずらりと並んでいました。どの扉もまだ開かれたことが一度もないかのように、いかめしい沈黙を守っていました。そしてどの扉にも、何か文字が書いてあるのです。ボクは一つ一つに眼を近づけて読んでみました。
 一番目の扉には、黄金で「夢または太陽の日々」と書かれた文字が輝いていました。二番目には銀色で「時」とだけ書かれ、上の方に欠けた三日月が描いてありました。月が欠けるのは、悪魔と神々との戦いのためだそうです。三番目の扉には黄色の文字で書いてありましたが、長い文章のうえに意味がよくわからなかったので、ボクはよく読みませんでした。四番目には青色で「誘惑者」と書かれてありました。五番目はレンガ色で「広い耳」と書かれ、六番目は白色で「輝く宇宙の山の子」と書かれていました。そして七番目には、七番目の黒い扉には何も書かれていませんでした。
 ボクはひどく不安になって、すぐさま誰かに聞いてみようと思いつきました。ボクはさっきから、誰かが後ろでボクをじっと見つめていることに気づいていたのです。ボクは思いきってふり返りました。
 廊下のすみの方に、たしかに誰かがうずくまっています。そのひとはボクがふり返ると視線を伏せてしまいました。それでもボクは迷わずに近づいて行きました。廊下のすみにしゃがんで、石の床に無心そうに落書きをしているのは、まだ小さな女の子でした。それはチチラだったのです。はじめからチチラはボクのことを知っていたくせに、知らぬ顔をして石の床に落書きをしているのです。
 ボクが歩み寄ると、チチラは顔をあげました。ひどくやつれたチチラの白く細い顔が、夕顔のように闇の中にほんのりと浮かびあがりました。
 チチラの瞳はボクを非難しているみたいでした。しかし、とつぜんチチラの顔に恐怖の影がさしました。そしてチチラはボクから逃げ去ろうとしたのです。
 ボクはチチラの名を呼びました。チチラはふり返りました。しかしチチラの顔は、冬の月みたいに冷ややかになっていました。
 ボクは悲しさのあまり蒼ざめていました。そしてボクはかさかさの声で、まるで見知らぬ他人に話すように、あの部屋は、あの七番目の部屋は何の部屋ですか、と尋ねたのでした。ボクはもうチチラの顔を見ていることができませんでした。
 チチラも氷のような声で答えました。
 「ドウシテワタシニ尋ネルノ」。
 そしてチチラは立ち去ったのです。闇のかなたへと。
 ボクは秘密の部屋の前にひとりぼっちでとり残されてしまいました。そして、それでもやっぱりボクはチチラを愛しているのだ、とくりかえしつぶやいていました。



VIII

 びっこのハトが手紙を届けてくれました。手紙はチチラからです。――
 朝から雨が降って、いつも見える山が見えません。味気ない毎日です。チチラは病気になりました。午後になると熱が出ます。本も読めません。窓から外を見たり、天井とにらめっこしたりして退屈です。バベルの塔に雷が落ちました。夜と雨、なんと仲がいいのでしょう。――
 チチラの最後の手紙でした。



IX

 チチラが病気になりました。
 チチラは忘れな草を見たいと言うのです。ボクは忘れな草を取りに出かけました。でもお花畑の忘れな草は枯れていました。そこでボクはグストあばさんを訪ねることにしました。
 緑の、青い、暗い大きな森の中に、どろんとした沼があって、沼には退屈そうな、それでいて意地悪く執念ぶかい眼をした蛙が棲んでいました。この蛙がグストおばさんだったのです。
 グストおばさんは、もうずいぶんの年寄りで、頭にはツノが生えていましたし、顔はイボだらけでした。グストおばさんは沼の岸の、葦が密生した沼の水を這いまわって、それでなくても醜い身体を、泥と見分けがつかないぐらいにしていました。別に這いまわらねばならぬほどの用事があるわけではないのですが、やはり這いまわった方が生きてゆくうえにはよかったのです。
 どこでも暗い大きな森には、よく妖怪が棲んでいるものです。グストおばさんの森にもやっぱり悪魔が棲んでいて、月の夜などは、沼のほとりで雑談をしたりウワサ話の交換などやらかしました。グストおばさんは、悪魔たちの話を聞いていたので、たいそうなもの知りだったのです。
 ボクが森の沼に行って見ると、蛙たちがたくさん集まって葬式をしていました。沼の傍の、平たい石の上に、大きな白い腹を上にして、多くの仲間にとり囲まれて死んでいたのは、グストおばさんの大の親友だったアルパーおばさんでした。
 大きな口と長い舌とを持ったグストおばさんが、赤い眼をして語ったところによれば、蛙アルパーは宿命的に気が狂って、森で一等高いブナの木に登って行ったのだそうです。そして一番上の一番細い枝の先にたどりついた時、やはり宿命的に北風がびゅっと吹いて、蛙アルパーを吹き飛ばしたということです。
 「こうして蛙アルパーは」とグストおばさんは涙をぽろんとこぼして言いました、「高い高い森の上から、宿命的にもとのこの沼に落ちて、そうして白い腹を上にしたのさ」
 白い腹を上にするとは蛙が死ぬことだそうです。グストおばさんの話を聞いて、仲間の蛙たちも思わず眼から涙をぽろんぽろんとこぼしました。こういう時に泣かないものにはバチがあたります。
 そうして涙が涸れると――蛙の涙はすぐに涸れるのですが――参列した蛙たちの悲歌の合唱が始まりました。
  ゲゲゲゲゲッコ グワァッコ グワァッコ
  ゲゲゲゲゲッコ グワァッコ グワァッコ
 こうやって一晩すごしたら、翌日、穴を掘って死んだ蛙を埋めて、その上で飲めや歌えの大騒ぎをやらかすそうです。
 墓穴は大きな口を開けて明日にそなえています。その傍では、もう酒を飲んで赤い顔をした蛙もいました。グストおばさんは墓穴の中に寝そべっていました。とても居心地がよさそうでした。
 ボクはグストおばさんに、こんな悲しい時に申しわけないのですが、忘れな草が咲いている所を教えてください、と頼んでみました。するとグストおばさんは、顔をくしゃくしゃとして言ったのです。
 「なに、気にしなさんな。おまえさんだって来年の春にはこういう気分になるんだからさ」。そして忘れな草は後で持って行ってやるから、ボクには先に帰っているようにとも言いました、「なんしろ、今はここから出る気がしないのさ」
 ボクは安心してチチラのところに帰りました。チチラはすやすや眠っていました。眠っているチチラの顔には、何の不安も苦しみもないようでした。この眠りがいつまでも続くものであったなら……!ボクは思わずお祈りをしたくなってしまいました。

 ダリおじさんのゆがんだ時計が、きっかり二時を打った時です。扉をほとほと叩く音がしました。
 ダリおじさんのゆがんだ時計、とボクが叫びました。
 ダリおじさんの青いどじょうヒゲ、扉の外で返事がありました。
 ボクは扉を開けてやりました。グストおばさんです。グストおばさんは、緑色をしただぶだぶの長衣を着ていました。そうして左手にカンテラをさげ、右手には黄色の大きなユリの花を持っていました。
 グストおばさんはカンテラで部屋の中を照らしながら、意地悪そうな眼で、「びっこのハトはいないだろうねぇ」と尋ねました。いない、とボクが答えると、グストおばさんは安心したように部屋の中に入って来ました。それからすやすや眠っているチチラの細い顔をのぞきこんで、くしゃくしゃと笑ったのです。
 「よい子さ」
 グストおばさんが言いました。
 「でもわたしゃきらいさ」
 そんなことより、どうして忘れな草を持って来てくれなかったのですか、とボクが尋ねました。
 「それなんだよ」
 グストおばさんは大きな黄色のユリを振り回しながら言いました。
 「わたしゃお花畑に行くのは行ったのさ。なにしろわたしゃおまえさんが好きだからね。ところが忘れな草の所にゃフクロウのやつがいたのさ。青い眼のフクロウは、わたしを取って食べてしまうからね。それで傍にあったこのユリを取って来てやったよ。なにしろわたしゃおまえさんが好きだからね」
 グストおばさんは、チチラの顔をのぞきこんで、もう一度くしゃくしゃと笑ったのです。そして言ったのです。
 「ゲゲゲゲゲッコ、来年の三月だよ」
 ボクはすっかり悲しくなりました。
 グストおばさんの前を、おばさんのカンテラが歩いていました。



X

 しみわたる冬の夜のことでした。
 ボクたちの街も、きりきり冷たく凍てついておりました。街には暗く遠い道があって、まるで鏡のように淋しく光っておりました。チチラは氷靴をはいて、鏡の道を音もなく、静かに、すいすいと滑って逝ったのです。
 びっこのハトは教会の尖塔の先にとまっておりました。そして見えない眼ではるかに極北の地を見やりながら、やっぱり冷たくこごえておりました。
                           (68.03)
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