夜道
I かつて、わたしは、人間的であることに疲れたので、一匹のけだものとなって、ポドポルの荒野にさまよった。そこにわたしが見たものは、陰惨な月の光と、息づまるような真空の静けさのみであった。わたしは、遠く陰々と吠えずには居られなかった。おお、これがわたしの住処か。これがわたしの世界か。ここでわたしは生息するのか。生ける化石、あの冷血な爬虫類のごとくに。 わたしは、苦しみながら、「夜の山」から巨大な岩石を幾つも切り出した。寂とした闇のかなたから、梟の笑い声が響く時。ひややかな汗とともに、そらぞらしい冷笑とともに、じんじんと身にしみる孤独とともに、わたしは、わたしのまわりに、堅固な城壁を築きあげた。 わたしの城は死の沈黙。きらめく甲冑と緋のマントを着けた騎士も居なかった。勇ましい軍馬のいななきもなかった。偉大な道化師ヨリックと、それを取り巻く美しい姫たちのささめきもなかった。国一番の料理人も、かまどの火もなかった。祈りもなく、安息の寝台もまたなかった。そこはただの廃墟で、蜘蛛の古巣がふるえているばかりだった。おお、あのひしめく声は何だ。地を裂いてふきあげる影たちの怒号か。それとも、満たされることのない肉欲のくるめきか……。 柱廊には、敷石のすき間からペンペン草が生えている。さあ、仲間たちよ、ちらちらと赤い舌を出しながら、わたしの踊りを見るがいい。わたしは最も巧みな踊り手で、世にあるときは、人間ども、あの愚かな観衆の拍手喝采を浴びたものだった。 II おれは誠実な墓掘り人夫だから、あの偽善者どもが、白く塗った墓も、底の底まで掘り返さないでは居られない。 ラララ、これは道化師ヨリックのされこうべ。 とどのつまりはこんなもの。 生か死か。重いシャベルに慣れない手は、とかく女々しいことを言いたがる。かつて、おれの手がまだ貴公子のように白かったころ、おれは苦悩に憧れて、太陽が激しく照りつける荒野に出た。苦悩のみが、おれの偽りにみちた魂を清祓してくれるように思ったからだ。 荒地には、カラスめが、枯木にとまって、コケエク、コケエクと喚いていた。 コケエク、コケエク。 オマエハ、オマエノ墓ヲ掘レ。 死人ノ骨ヤ、 ソノイッパイナ不潔ナモノヲ、 太陽ノ下ニ掘リ返セ。 非情の太陽は、生きとし生けるものの影を喪失させ、まるで白い骨のような地平ばかりが、ぎらぎらと光っていた。 この世の終わりまで眠れぬやつは、 この世の終わりまで醒めていろ。 いまわしいカラスめのしゃがれ声が、不毛の世界を満たしていた。 III 三年前の、十一月の、ひどくおだやかな日に、「太陽が恥ずかしいので夜まで待って」と言って、投げ出したおまえの肉を、欲情の犬めが咬みついた時、晴れやかな空を朱に染めて、わたしは夕べの刻を犯したのだ。 犬よ、わたしの不実な友よ。 わたしはおまえを激しく憎み、日ごと夜ごと、わたしはおまえを、何と残忍に折檻してやったことか。セイタカアキノキリンソウ、あの恐るべき生命力を持った雑草が、毒々しい黄色の花を咲かせて密生する、あのはてしない荒野の草群で、犬よ、おまえは、憎念の鎖をふりかざす、ひとりの修羅を見なかったか。そしておまえが、ますます醜く、痩せこけて、苦しみにあえぐ時、わが魂は、黄色い花粉にじっとりまみれ、狂うような歓びと慰めとを得るのだった。 しかし、苦痛よ、慰めを約束するようなおまえを、わたしは、何か善いものだとは、決して認めてやらない。 犬よ、醜悪なわが友よ。 セイタカアキノキリンソウ、あのおぞましい愛染の花が、欲望の虚しい脱け殻を、月光のように降り注ぐ頃、わたしはおまえの遺骸を抱きしめて、ひそひそと泣きつつ笑い、「ぼくは疲れ、ぼくには倦怠しかなく、ぼくは眠りたい」とつぶやいたものだった。 IV 炬火をともせ。シャベルをとれ。闇にまぎれておまえの仕事を続けろ。火影にゆらぐ影法師。口を閉ざして墓を掘れ。やがて来る、かわいそうなやつのために。 炬火をかきたてろ。焼刃を研げ。精密な計器で長さをはかるのだ。きっかりと心臓にとどくかどうかを。 あいつを殺して、五デシリットルの涙を注ごう。そうして、魔女プリングルとその妹たちとに、七つの火を連ねさせ、その中で、おまえとわたしの、凄惨な不倫の淵に堕ちてゆこう。 ぼくたちは、敬神女とあだ名された、あの残忍な昆虫のように交尾しよう。ぼくはおまえをしっかりと抱きしめる。おまえは、かわゆらしいおちょぼ口を肩ごしにふり向けて、恋人の遺骸を、そのやさしい眼を細めながら、おだやかにかじるがよい。 羊皮袋にあかいいのちの残滓をいれて ばけつをたたきながら あの岬にむかっていたおまえのかげが 炎のかげりのように 燃えたぎる白夜の海 そうして、車輪に鎖を巻いた自動車が、凍てついた街路をたどたどしく走るような、そういう日には、おれはみだらな唇に唇を寄せて、「胎の児は生まれない方がずっとよかったのだ」と、不透明な声でささやいてみよう。 V わが友、マルコルフ・カルマ氏は、白痴な子どもたちを相手に、神秘的な天文学を講じている。かれには一つの不動の信念があった。つまり、かれに言わせれば、自分以外のすべての人間どもが、地球の爆発かなんぞで全滅してしまうとき、その時こそ、かれは現在の俗悪と欺瞞とから真に解放されるというのである。しかもその時は近いという。そして、地球は滅の日に、かれだけはたらいのようなものに乗って、荒漠たる宇宙空間に飛び出すのだそうだ。しかし、その時、かれは会心の笑みを浮かべないという。*たらい*の上から、滅亡する地球をはるかに見やって、例のさみしげな眼をしなければならないという。それがかれに残された最後の人情味だということである。*たらい*に乗った小男が、暗黒の宇宙に、おそらくは永遠に、ニヒルな顔をして浮かんでいるさまを想像するなら、誰だって尊敬せずには居られないだろう。 そうだ、わが友、白痴の諸君! 元気にゆこう。われらが、もしも救われ得るとすれば、そのような孤独に耐えてこそなのだ。――そう叫ぶとき、カルマ氏の眼はきらりと光る。そう叫ぶとき、子どもたちは身をすくめる。そして、カルマ氏は、いつも疲れがどっとこみあげて、あやうく失神しそうになるのである。 人間的なもののいっさいに耐えよ。すなわち、その愛にも、いたわりにも、慰めにも、憐れみにも、……いっさいの人情の飢えに堪え忍べ。いかなる時、いかなる場においても、人間的ということで欺いてはならない。そして、欺くことなしには生きてあることができないことをも知れ。賢しらぶった人間どもは、きれいごとを言ってはいるが、まるで、口から糸を吐く昆虫のように、嘘をついているのであり、凄絶な魂を羨んで、あの手この手で、俗悪の地平にひきずり降ろそうとしているのだ。奇しくも魔女プリングルが、火刑の炎に包まれながら絶句したごとく、まことに、「人間どもは誠実たらんとする魂に汚名をきせて焼き殺す」のだ。 VI 哲学者カールコップ氏への遺言。 がらんと荒れはてた、ぼくの家の裏庭に、人道主義者を植えてみたら、今年の春、死人の眼から枝が伸び、茎の尖に赤い花を咲かせた。ぼくは、すっかり御満悦で、大きな花束をつくり、誰かれとなく配って歩いた。 いつの世になっても、偽善者どもの行いはあらたまらない。やつらは、かぎりなく自己を憐れみ、かぎりなく自己をいたわりつづける。火をもってみずからを焼き、燔祭として魔神にささげる者を、やつらは暖炉のそばで、羨望の眼で見るだけなのだ。やつらの頭は、いったい何のためにあるのか。どんなに俗悪な生き方であれ、自己の生き方を正当化する、その口実を見つけだすためにあるのだ。 黒いヴェールに顔を隠したイスラム女のように、あるいはまた、ガラスの上を歩く黒猫のように、しのびやかな殺意に満ちた夜。過ぎ去った日々は狂おしく、明日という日は億劫だ。そして、今という時は憂愁の一次元。ホザナは救いを与えず、絶叫も声にならない。苦悩は美を高めず、罪もまた影を落とさない。 さまよへるいとほしきたましひよ…… どうせ何もかも飯事だ。えい、もう人間とはおさらばだ。 VII 去年の二月、ぼくの友人が死んだとき、仲間たちは、粗暴な喜びを噛みしめながら、友人を焼くために、あの高い煙突のある谷間に行った。 焼きあがるまで、一時間ばかりかかります。 みなさん、今しばらくお待ちください。 びっこの小男が、うすら笑いをうかべながら、ぼくたちの顔を、いんぎんにのぞきこんだ。 みなさん、もうすぐです。 きれいに焼いてさしあげます。 二十五年間、おお、二十五年間、 わたしはこの仕事をしてきたのです。 氷雨ふる二月の空に、火葬場の煙突は怒りに燃えて遠吠え、仲間たちは、うなだれて、不眠の魂を寄せ合っていた。 みなさん、みなさん、ついに焼きあがりました。 早く来てください。早く。 さめないうちに、腕によりをかけた、わたしの作品を見てください。 びっこの火葬夫の後ろから、ぼくたちもぴょんぴょん跳びはねながら、焼却炉へと心が急いだ。 おお、これが死か。ほやほや湯気のたつ、酸っぱいような甘い骨が、赤熱の鉄板の上に眠っていた。仲間たちは、まるくなって手をつなぎ、友人の骨を囲んで踊った。 みなさん、順番に並んでください。順番です。 今、この頭のところを砕いてさしあげますから、 小骨を喉にひっかけなさいませんように。 何しろこいつは、おお紳士的なみなさん、 命とりになりかねませんから。 そしてぼくらの仲間は、愉快な宴会を開いて、大きな声で祝杯を重ねた。 ヴィヴァ・ラ・ムエルテ! VIII 黒いコートに欲情を包み、冬の夜は街灯をわびしくさせる。闇の果て、夜の底へと降りて行き、すきま風ふく安アパートで。 「ねえ、おねがいだから、何か話してちょうだいな。何だっていいの。あなたの名前がどうだとか、今朝の食事に何を喰べたとか、革命は起こらないだろうとか、何だっていいの。何か話して。おねがい。どうしてお話しにならないの。どうして。この沈黙を何とかしてちょうだいな。でないと、わたし、どうにかなってしまいそうで、怖いのよ。ほら、こんなに胸がどきどきしていてよ。いったいこれはどうしたことなんでしょう。いったいこれは何のせいなんでしょう。いったい、わたしたち、どうなるのでしょう」。 なんにも。なんにも。なんにも。すべては何でもないし、何の理由もないし、どうにもなりはしない。 「あのひとに棄てられて、わたし、実家の方に帰りましたの。すると母さんが、あんたってほんとにだらしがないのだから、って笑うのよ。でも、母さん、しかたありませんわ、とわたし言い返しましたの。子供を堕胎したのは、そりゃわたしが馬鹿だったわ。でもあの児は、……ああ、ゆうべ、血にまみれたちっちゃなこぶしを固めて、どんなにわたしをぶちましたことか。あの児もわたしも、涙で顔をくしゃくしゃにして、どんなに泣きぬれましたことか。ふん、罰があたったのさ、と母さんは気持ちよさそうに言いましたわ。……カーテンは閉めてくださいな。世間のひとって、そりゃあ口がうるさいんですもの」。 夜半をすぎて強い風。孕み女が石臼をまわして、不義の胎児を殺すように、ぼうぼうと鳴る夜空。 IX 街には、鼻歌まじりの人生談議や、腕を組んだ恋人たちや、しあわせいっぱいなポスターが氾濫し、その中を、顔のない男が、箱舟に乗ってさまよっていた。 おまえは誰だ、なんて聞かないでくれ。おそらく、この街とこの民たちとを、ぐれんの炎が打ち砕く時まで、こらえきれぬ胸のむかつきを吐き出しながら、永眠の地まで流亡するやつなのだ。 (70.05.) |